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○今三都ニ女ノ多集リタル処ニテ諸女義ヲ結デ兄弟ブンナド云事、唐ノ崔令欽ガ教坊記ニ曰、教坊中ノ諸女、以気類相似約為香火兄弟ト言ハ香火ヲ備テ鬼神ニ誓ユヘカク云ニヤ。此事由テ来ル事旧シ。漢書外戚伝曰、房与宮対食、注応劭曰、宮人自相与為夫婦名対食、房宮二人之名也ト。角先生蝋師父何人カ俑作レルヤ。{撈海一得}

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解説の必要はないだろう。但し、若い方に「角先生」「蝋師父」は耳慣れないかもしれない。共に張型/ディルド/人造魔羅である。前者は水牛とか何とか角で作る。後者は蝋燭が材料だ。師父は先生だから、何連にしても、「先生」だとは面白い。「何人カ俑作レルヤ」は、直訳すれば「誰が貴人の墳墓に備える人形を初めて作ったのだろうか」ではあるが、意訳すれば「こんなトンデモナイ事を最初にしやがったのは誰だ!」となる。出典は、孟子である。

 

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梁惠王曰、寡人願安承教。孟子対曰、殺人以梃與刃、有以異乎。曰、無以異也。以刃與政、有以異乎。曰、無以異也。曰、庖有肥肉、厩有肥馬、民有飢色、野有餓■クサカンムリに孚/、此率獣而食人也。獣相食、且人悪之。為民父母、行政不免於率獣而食人。悪在其為民父母也。仲尼曰、始作俑者、其無後乎。為其象人而用之也。如之何其使斯民飢而死也。{孟子・梁恵王上}

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どうも孟子の立場では、貴人の墓に俑(人形)を捧げる者がいて其処から殉死の慣習が始まったと考えているのだ。則ち、俑を初めて作った者とは、殉死という悪習のキッカケを作った者であり、故に非難を浴びせかけているのである。いや、非難なんてもんぢゃぁない。呪詛である。「其無後乎(子孫も生まれず血統が絶えてしまったに違いない)」とキメツケ呪詛る。けっこう孔子は口が悪いのだ。

故に、撈海一得に於ける「何人カ俑作レルヤ」の意味は、「女性同士の義兄弟……義姉妹ってぇのか此の場合、えぇいドッチでも良い、どうせビアンだろっ。誰だよ、張型なんか発明した奴ぁ。そんなトンデモねぇ奴ぁ子孫が絶えちまったに違ぇねぇ……って元々ビアンだから子どもは産まれないか」である。

女性同士の熱く篤い友情、義姉妹の契りを、近代女学校のS(エス/Sister)関係と同一視し、「どうせ互いに張型で姦ってるんだろ。ぐへへへへっ」とキメツケているのである。現在でも繁く見かける成人男性像だ。ただ最近では彼等も、女性の目を憚って隠れて猥談しているらしい。作者の鈴木さんは十八世紀中盤の人だから遠慮がないだけだ。しかし義姉妹関係が必ず性愛を含まねばならぬとなれば、義兄弟も当然、性愛を含まねばならぬ。そう考えていたのだろうか、鈴木さんは。ならば鈴木さんは、三国志演義桃園の契りなんか、劉備・関羽・張飛の三人が桃園で互いの桃を……ぐへへへへっ、と考えていたに違いない。劉備が関羽に「お髯が痛ぁい」とか甘えていたとでも云いたいのであろうか、鈴木さんは。「対食」は向かい合って食事をするさまだと思うのだが、鈴木さんは、互いの肉体を貪り合う意味に解釈したのかもしれない。閑話休題。

鈴木さんより重要なのは、馬琴である。十八世紀半ば、都市部では女性同士の緊密な連帯が見られたが、十九世紀に傾城水滸伝を書いた馬琴のもとへも、義姉妹に関する情報は入っていた。

 

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偽男子宇吉

吾友松坂なる篠斎の来書に云、(壬辰冬十二月の郵書なり)、京都祇園町(←花柳街)に宇吉といふものあり、こは女也、元は曲妓なりしよし。いつの程にか男姿になりてあり、最元服天窓也、衣服より立振舞まで、すべて男にかはることなし、但し是は悪事あるものにはあらず、曲妓の時より皆人知居候へども、男の女にて人々済し居候様子也、怪しくをかしき事は、やゝもすれば其辺娼妓抔と情を通じ、いはゆる間夫に成候事、一人二人ならず、当時はある曲妓の勤を引たる美婦と、右宇吉夫婦の様子、一つ家に住居候由に御座候、猶くはしく申さまほしく候へども、頗筆頭に載がたき所も有之候故、それらの事は省き候、右両婦衾中の私語など密に聞候へば、真に男女の様に候よし、わかしくいぶかしき事に御座候、右宇宙の広き、様々の奇物もあるものに御座候、右宇吉を琴魚などはよく存居候事に御座候、但し曲中などには姉妹分などとて、男女の間より親しき筋抔も有之ならひに候へば、宇吉はその長じたるものともいふべし、嚮に仰越され候かの吉五郎は、今一段奇怪の婦と存候云々、

この書によりておもふに、件の宇吉は半月なるべし、半月は上半月男からだにて、下半月女体なるもあり、又陰門と男根と相具するものもあり、その男根は陰門に隠れてあり、事を行ふとき発起しぬる事、禽獣の陽物の如しといふ説あり、吾旧宅近辺の商人の独子に半月ありけり、そが幼少の折、母親の将て銭湯に浴するを荊婦などは折々見きといふ、陰門の中に男根あり、廷孔のほとりに亀頭少許垂れたり、なすびといふものゝ如し、母親は人に見られん事を傍ら痛く思ひて、下に居よ居よといへども、小児の事なれば恥もせで、立てありしと也、七八歳までは女子のごとくにしてありけるが、十歳以上になりてより、名をも男名に改めて男装に更たり、近ごろその父は歿して、親の活業を嗣てあり、小男にして温柔なり、半月は嗣なしといふ、寔にしかなり、

按、斎東野語(巻第十六)云、大般若経載五種黄門云、凡言扇■テヘン蓆/半釈迦唐音黄門、其類有五、一曰半釈迦、総名也、有男根用而不生子、二曰、伊利沙半釈迦、此云■女に召/謂他行欲、即発不見、即無具男根、而不生子、三曰扇■テヘン蓆/半釈迦、謂本来男根不満、亦不能生子、四曰、博叉半釈迦、謂半月能男、半月不能男、五曰、留拿半釈迦、此云割、謂被割刑者、此五種黄門名、為人中悪趣受身処、然周礼奄人、鄭氏註云、奄真気蔵者、謂之宦人、是皆真気不足之所致耳(摘要)、この余黄門の事は、五雑爼などにも見えたり、文多ければ亦贅せず{兎園小説余録第二}

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{「吉五郎」に就いては以下}

 

偽男子

麹町十三丁目なる蕎麦屋の下男に(かつぎ男といふものなり)、吉五郎といふものあり、此もの実は女子也、人久しくこれを知らず、年廿七八許月代を剃り常に腹掛をかたくかけて乳を顕さず、背中に大きなるほり物あり、俗に金太郎小僧といふもののかたちを刺りたり、この余手足の甲までも、ほり物をせぬところなし、そのほり物にところどころ朱をさしたれば、青紅まじはりてすさまじ、丸顔ふとり肉にて大がら也、そのはたらき男に異なることなし、はじめは四谷新宿なる引手茶屋にあり、そのゝち件の蕎麦屋に来てつとめたりとぞ、誰いふとなく、渠は偽男子也といふ風聞ありければや、四谷大宗寺横町なる博奕うち、これと通じて男子をうませけり、是により里の評判甚しかりしかば、蕎麦屋の主人、吉五郎には身のいとまをとらせ、出生の男子は主人引とりて養育す、かくて吉五郎は木挽町のほとりに赴きてありし程今■玄ふたつ/天保三年壬辰秋九月、町奉行所へ召捕られて入牢したり、これが吟味の為、奉行所へ召呼るゝとて、牢屋敷より率出さるゝ折は、小伝馬町辺群集して、観るもの堵の如くなりしとぞ(こは十一月の事なり)、或はいふ、此ものは他郷にて良人を殺害して、迯て江戸に来つ、よりて偽男子になりぬ、世をしのぶ為也など聞えしかども、虚実定かならず、四谷の里人に此事をたづねしに、何の故に男子になりたるか、その故は詳ならず、四谷には渠に似たる異形の人あり、四谷大番町なる大番与力某甲の弟子に、おかつといふものあり、幼少のときよりその身の好みにやありけん、よろづ女子のごとくにてありしが、成長してもその形貌を更めず、髪も髱を出し、丸髷にして櫛簪をさしたり、衣裳は勿論女のごとくに、広き帯をしたれば、うち見る所誰も男ならんとは思はねど、心をつけて見れば、あるきざま女子のごとくならず、今■玄ふたつ/は(天保三年)、四十許歳なるべし、妻もあり子供も幾人かあり、針医を業とす、四谷にては是ををんな男と唱へて、しらざるものなし、年来かゝる異形の人なれども、悪事は聞えず、且与力の弟なればや、頭より咎もあらであるなれば、彼偽男吉五郎は、此おかつ男をうらやましく思ひて、男の姿になりたるか、いまだ知るべからずといへり、とまれかくまれ珍説なれば、後の話柄になりもやせん、遺忘に備ん為にして、そぞろに記しおくもの也{兎園小説余録第一}

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馬琴は、女性同性愛者を「曲中などには姉妹分などとて、男女の間より親しき筋抔も有之ならひに候へば、宇吉はその長じたるものともいふべし」としており、且つ半陰陽ではないかと疑ってもいる。

 

さて、撈海一得に於ける「対食」であるが、鈴木さんが然り気なく挙げている此の箇所、かなり有名な部分である。趙飛燕は、前漢末期の皇后であった。夫の成帝は、如何いう積もりか皇帝のくせに下町で飲み歩く変な男だった。其処で見そめた歌舞の名手・趙飛燕を皇后に立てた。単に立てたのではなく、立派な后がいたのに廃し、後釜に据えたのだ。妹も一緒に後宮に入った。やがて飛燕は寵愛を失い、妹が愛されるようになった。成帝が急死したとき、偶々妹が近くにいた。弑逆を疑われた妹は自殺した。断罪して追い詰めた者こそ、後に前漢を滅ぼす王莽である。此処までなら、よく・ある・話なんだが次いで、趙皇后の悪事が暴露された。成帝が他の女性と成した子どもたちを、次々と殺していたのだ。

事件で証人として漢書に現れる女性が、撈海一得に登場する「房」さんだ。ある時、「宮」さんが「対食」相手の「房」さんに打ち明けた、「成ちゃん(皇帝)が夜這いに来たのぉ」。暫くして、「宮」さんのお腹が大きくなっていた。「房」さんに向かって、「成ちゃんの子なのぉ」と云った。しかし後に「宮」さんは行方不明、生まれている筈の赤ちゃんも所在が知れなかった。調べていくと、如何やら皇后の命令で、成帝と他の女性の間に生まれた子どもは次々闇に葬られていた。「宮」さんは既に自殺していた。皇后、この時は皇太后になっていたが、庶人の身分に落とされ、同日、自殺した。「房」さんの証言が義姉妹「宮」さんの敵討ちだとすれば、大成功に終わったことになる。

詳しく知りたい方は、以下を。また、同じく対食関係で有名なのは、明を混乱に陥れた宦官・魏忠賢と魏朝。姓が同じだからって兄弟ではなく義兄弟であったが、後に一人の女性を廻り魏忠賢が魏朝を駆逐、とばっちりで清純派宦官・王安を謀殺したってのがあるけれども、そこまで引用する体力がないので、明史は無しである。

 

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孝成趙皇后、本長安宮人(師古曰、本宮人以賜陽阿主家也。宮人者、省中侍使官婢、名曰宮人、非天子掖庭中也。事見漢旧儀。言長安者、以別甘泉等諸宮省也)。初生時、父母不擧、三日不死、乃収養之。及壮、属陽阿主家、學歌舞、號曰飛燕。成帝嘗微行出、過陽阿主、作樂。上見飛燕而説之、召入宮、大幸。有女弟復召入、倶為■捷のテヘンが女/■女に予/、貴傾後宮。

許后之廢也、上欲立趙■捷のテヘンが女/■女に予/。皇太后嫌其所出微甚、難之。太后姉子淳于長為侍中、数往来伝語、得太后指、上立封趙■捷のテヘンが女/■女に予/父臨為成陽侯。後月余餘、乃立■捷のテヘンが女/■女に予/為皇后。追以長前白罷昌陵功、封為定陵侯。

皇后既立、後寵少衰、而弟絶幸、為昭儀。居昭陽舍、其中庭■丹にサンヅクリ/朱、而殿上■髪の友が木/漆、切皆銅沓黄金塗、白玉階、壁帯往往為黄金ス、函藍田璧、明珠翠羽飾之、自後宮未嘗有焉。姉弟■王に瑞の旁/寵十余年、卒皆無子。末年、定陶王来朝、王祖母傅太后私賂遺趙皇后昭儀、定陶王竟為太子。

明年春、成帝崩。帝素彊、無疾病。是時楚思王衍、梁王立来朝、明旦当辞去、上宿供張白虎殿。又欲拝左将軍孔光為丞相、已刻侯印書贊。昏夜平善、郷晨、傅■コロモヘンに庫/■コロモヘンに蔑/欲起、因失衣、不能言、晝漏上十刻而崩。民間帰罪趙昭儀、皇太后詔大司馬莽、丞相大司空曰、皇帝暴崩、群衆讙譁怪之。掖庭令輔等在後庭左右、侍燕迫近、雑與御史、丞相、廷尉治問皇帝起居発病状。趙昭儀自殺。

哀帝既立、尊趙皇后為皇太后、封太后弟侍中■馬に付/馬都尉欽為新成侯。趙氏侯者凡二人。後数月、司隸解光奏言、臣聞許美人及故中宮史曹宮、皆御幸孝成皇帝、産子、子隠不見。

臣遣従事掾業、史望験問知状者掖庭獄丞籍武、故中黄門王舜、呉恭、■革に斤/厳、官婢曹曉、道房、張棄、故趙昭儀御者于客子、王偏、臧兼等。皆曰、宮即曉子女、前属中宮、為学事史、通詩、授皇后。房與宮対食。元延元年、中宮語房曰、陛下幸宮。後数月、曉入殿中、見宮腹大、問宮。宮曰、御幸有身。其十月中、宮乳掖庭牛官令舍、有婢六人。中黄門田客持詔記、盛緑■糸に弟/方底、対御史中丞印、予武曰、取牛官令舍、婦人新産児、婢六人、尽置暴室獄、毋問、児男女、誰児也、武迎置獄。宮曰、善臧我児胞、丞知是何等児也。後三日、客持詔記與武、問、児死未、手書対牘背。武即書対、児見在、未死。有頃、客出曰、上與昭儀大怒、奈何不殺。武叩頭啼曰、不殺児、自知当死、殺之、亦死。即因客奏封事曰、陛下未有継嗣、子無貴賤、唯留意。奏入、客復持詔記予武曰、今夜漏上五刻、持児與舜、會東交掖門。武因問客、陛下得武書、意何如。曰、瞠也。武以児付舜。舜受詔、内児殿中、為擇乳母、告、善養児、且有賞、毋令漏泄。舜擇棄為乳母、時児生八九日、後三日、客復持詔記、封如前予武、中有封小緑篋、記曰、告武以篋中物書予獄中婦人、武自臨飲之。武発篋中有裹薬二枚、赫■足に帝/書、曰、告偉能、努力飲此薬、不可復入、女自知之。偉能即宮。宮読書已曰、果也、欲姉弟擅天下、我児男也、額上有壮髮、類孝元皇帝、今児安在、危殺之矣、奈何令長信得聞之。宮飲薬死。後宮婢六人召入、出語武曰、昭儀言、女無過、寧自殺邪、若外家也、我曹言願自殺。即自繆死。武皆表奏状。棄所養児十一日、宮長李南以詔書取児去、不知所置。

許美人前在上林■{の石がサンズイ/沐館、数召入飾室中若舍、一歳再三召、留数月或半歳御幸。元延二年■懷のリッシンベンなし/子、其十一月乳。詔使厳持乳■醫の酉が巫/及五種和薬丸三、送美人所。後客子偏兼聞昭儀謂成帝曰、常紿我言従中宮来、即従中宮来、許美人児何従生中、許氏竟当復立邪。■對した心/、以手自擣、以頭撃壁戸柱、従床上自投地、啼泣不肯食、曰、今当安置我、欲帰耳。帝曰、今故告之、反怒為、殊不可曉也。帝亦不食。昭儀曰、陛下自知是、不食為何、陛下常自言、約不負女、今美人有子、竟負約、謂何。帝曰、約以趙氏、故不立許氏、使天下無出趙氏上者、毋憂也。後詔使厳持緑嚢書予許美人、告厳曰、美人當有以予女、受来、置飾室中簾南。美人以葦篋一合盛所生児、緘封、及緑嚢報書予厳。厳持篋書、置飾室簾南去。帝與昭儀坐、使客子解篋緘。未已、帝使客子、偏兼皆出、自閉戸、独與昭儀在。須臾開戸、呼客子偏兼、使緘封篋及緑■糸に弟/方底、推置屏風東。恭受詔、持篋方底予武、皆封以御史中丞印、曰、告武、篋中有死児、埋屏處、勿令人知。武穿獄樓垣下為坎、埋其中。

故長定許貴人及故成都、平阿侯家婢王業任■女に麗/公孫習前免為庶人、詔召入属昭儀為私婢。成帝崩、未幸梓宮、倉卒悲哀之時、昭儀自知罪悪大、知業等故許氏王氏婢、恐事泄、而以大婢羊子等賜予業等各且十人、以慰其意、属無道我家過失。

元延二年五月、故掖庭令吾丘遵謂武曰、掖庭丞吏以下皆與昭儀合通、無可與語者、独欲與武有所言。我無子、武有子、是家軽族人、得無不敢乎、掖庭中御幸生子者輒死、又飲薬傷■堕のコザトがリッシンベン/者無数、欲與武共言之大臣、票騎将軍貪耆銭、不足計事、奈何令長信得聞之。遵後病困、謂武、今我已死、前所語事、武不能独為也、慎語。

皆在今年四月丙辰赦令前。臣謹案永光三年男子忠等発長陵傅夫人冢。事更大赦、孝元皇帝下詔曰、朕不當所得赦也。窮治、尽伏辜、天下以為當、魯厳公夫人殺世子、齊桓召而誅焉、春秋予之。趙昭儀傾乱聖朝、親滅継嗣、家属当伏天誅。前平安剛侯夫人謁坐大逆、同産当坐、以蒙赦令、帰故郡。今昭儀所犯尤■悖のリッシンベンが言/逆、罪重於謁、而同産親属皆在尊貴之位、迫近幃幄、群下寒心、非所以懲悪崇誼示四方也。請事窮竟、丞相以下議正法。

哀帝於是免新成侯趙欽、欽兄子成陽侯■言に斤/、皆為庶人、将家属徒遼西郡。時議郎耿育上疏言、臣聞継嗣失統、廃適立庶、聖人法禁、古今至戒、然大伯見歴知適、逡循固譲、委身呉粤、権変所設、不計常法、致位王季、以崇聖嗣、卒有天下、子孫承業、七八百載、功冠三王、道コ最備、是以尊号追及大王、故世必有非常之変、然後乃有非常之謀、孝成皇帝自知継嗣不以時立、念雖末有皇子、万歳之後未能持国、権柄之重、制於女主、女主驕盛則耆欲無極、少主幼弱則大臣不使、世無周公抱負之輔、恐危社稷、傾乱天下、知陛下有賢聖通明之コ、仁孝子愛之恩、懐独見之明、内断於身、故廃後宮就館之漸、絶微嗣禍乱之根、乃欲致位陛下以安宗廟、愚臣既不能深援安危、定金匱之計、又不知推演聖徳、述先帝之志、乃反覆校省内、暴露私燕、誣■サンズイに于/先帝傾惑之過、成結寵妾■女にに戸/媚之誅、甚失賢聖遠見之明、逆負先帝憂国之意。

夫論大コ不拘俗、立大功不合衆、此乃孝成皇帝至思所以萬萬於衆臣、陛下聖コ盛茂所以符合於皇天也、豈當世庸庸斗■タケカンムリに肖/之臣所能及哉、且褒廣將順君父之美、匡■テヘンに求/銷滅既往之過、古今通義也。事不當時固争、防禍於未然、各隨指阿従、以求容媚、晏駕之後、尊号已定、万事已訖、乃探追不及之事、訐揚幽昧之過、此臣所深痛也。

願下有司議、即如臣言、宜宣布天下、使咸曉知先帝聖意所起。不然、空使謗議上及山陵、下流後世、遠聞百蛮、近布海内、甚非先帝託後之意也。蓋孝子善述父之志、善成人之事、唯陛下省察、哀帝為太子、亦頗得趙太后力、遂不竟其事。傅太后恩趙太后、趙太后亦帰心、故成帝母及王氏皆怨之。

哀帝崩、王莽白太后詔有司曰、前皇太后與昭儀倶侍帷幄、姉弟專寵錮寝、執賊乱之謀、残滅継嗣以危宗廟、■悖のリッシンベンの言/天犯祖、無為天下母之義。貶皇太后為孝成皇后、徒居北宮。後月余、復下詔曰、皇后自知罪悪深大、朝請希闊、失婦道、無共養之礼、而有狼虎之毒、宗室所怨、海内之讎也、而尚在小君之位、誠非皇天之心、夫小不忍乱大謀、恩之所不能已者義之所割也、今廃皇后為庶人、就其園。是日自殺。凡立十六年而誅。先是有童謠曰、燕燕、尾涎涎、張公子、時相見、木門倉琅根、燕飛來、啄皇孫、皇孫死、燕啄矢。成帝毎微行出、常與張放倶、而称富平侯家、故曰張公子。倉琅根、宮門銅゚也。

{漢書卷九十七下外戚伝第六十七下孝成趙皇后伝}

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(お粗末様)

 

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