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第八宮征夷将軍の事

建武元年甲戌、誠に改元の験にや凶器ことごとく退散して寰中は無為にぞなりにける。されども前代の余殃なほ東関にあつて北闕の煩ひとなるべしとて当今第八宮を征夷将軍になし奉つて鎌倉に居ゑ進らせらる。左馬頭直義その執権に御座しける。されば今大塔宮をも直義請け取り進らせて囹圄の中に尊体を苦しめ奉る。痛はしき御事なり。この宮かくならせ給ふ御事ひとへに朝廷の衰微なるべし。如何かかやうには御計らひあるらんと智臣は眉を顰めける。されども主上はさらに思し食し寄らざりけるにや、叡慮ことごとく日比に似ず、政を閣き御遊日を易へ宴を尽くさずといふ事なし。あまつさへ北闕の西、二条高倉ににはかに離宮を建てられ馬場殿と号し天帝常に御幸なつて歌舞蹴鞠のその間には弓馬の達者どもを集めらる。競馬を番はせ笠懸を射させて御遊の興を促させける。されば寮の御馬も櫪を易へ、王良も伯楽もたちまちに望みを達せる時とぞ見えたりける。

 

佐々木塩冶判官竜馬を進らする事

かかるところに佐々木塩冶判官高貞、竜馬なりとて■年に鳥/毛なる馬を引き進らす。その相形げにも尋常の馬に似ず骨騰り筋太くして脂肉短く頸は鶏の如し。須弥の髪膝を過ぎ背は竜の如くにて四十二の辻毛を巻きて背筋に連なり両の耳は竹を剥ぎて直ぐに天を指し双の眼は鈴を懸けて額月高し。誠に石犀の駿騅もかくやとぞ覚えたる。今朝の卯の尅に出雲の院庄を立ちて酉の終りに京着す。その路すでに七十余里、鞍の上閑かにして、ただ座せるが如しといへども、旋嵐面を撲つに堪へずとぞ奏しける。

主上叡覧あつて、秘し思し召ししかば、すなはち左馬寮に領けられて、朝禁池に出でて水を■足に易/させ夕べには花厩において秣飼ふ。天育の霊質日を逐つて目を驚かししかば、叡慮も比なかりけり。この比天下第一の馬乗りと謂ひし本間孫四郎を召されて、この馬を乗せられけり。卿相雲客もこれを見物に参候せられたりしかば、ゆゆしき晴れにてぞありし。されども本間すこしも擬議せず四本十二本懸け立て芝越え輪違十文字遠足跨がらせて打ち居ゑて、半漢雕梁はなはだ尋常ならず、四蹄を縮むれば双六局の上にも立つべし、一鞭を着かば十丈の堀をも越えつべし。誠に天馬にあらずんば、かかる駿足はありがたく候とぞ賀し申しける。

見聞耳目を驚かししかば、叡慮の措きどころもなかりけり。その次の日また馬場殿に幸なつて、この馬を叡覧ありけるに、諸卿ことごとく左右に候じける時、主上、洞院相国公賢に向つて仰せられけるは、古屈産の乗、項羽が騅とて一日に千里を翔ける馬ありとはいへども、我が朝にはいまだ天馬の来たれることを聞かず、しかるに朕が代に当つて、この馬求めざるに遠きより来たる、吉凶の間いかん、と勅問ありければ、相国畏まつて奏し申されけるは、これ聖明の徳によらずんば天豈この祥瑞を降し候はんや、虞舜の代には鳳凰来たり、孔子の時には麒麟出でたり、なかんづく天馬のこの聖代に来たれる事、第一の嘉祥なり、

 

法花二句の偈

その故は周の穆王の時、絶地翻羽奔霄超影踰輝超光騰霧挟翼とて八疋の天馬来たれり、穆王これに乗つて四荒八極至らずといふ処なし、ある時西天十万里の山川を一時に越えて、中天竺の舎衛国に至り給ふ時に、釈尊霊山会上にして法花を説き給ふ、穆王馬より下りて会座に臨み仏を礼し還つて一面に座し給ふ、仏問ひて曰く、汝は何れの国の人ぞ、穆王答へて曰く、吾はこれ震旦国の王なりと、如来重ねて問うて云く、善きや、今この会場に来たる事、我国を治むる法あり、汝受持せんと欲するや否や、願はくは信受奉行して理民安国の功徳を施さんと、その時世尊漢語を以て四要品の中の八句の偈を穆王に授け御座す、今この法花の中に経律の法門ありといふ、深秘の文はこれなるべし、その後穆王震旦に帰つて深く心底に秘して世に伝へ給はず、ある時この帝寵愛せられける慈童常に君の傍らに侍りけるが君の空位を過ぐるとて誤つて帝の御枕を越えたり、群臣これを見て議奏しける、その例を考ふるに罪科はなはだ浅からず、しかうして事誤りより出でたれば死罪の一等を宥めて遠流に処せらるべしとぞ申しける、群議止む事を得ざりしかば、ついにかの慈童を■麗にオオザト/県といふ所へぞ流されける、かの配所と申すは帝城を去ること三百里山深くして鳥だにも鳴かず雲瞑々として虎狼の栖なり、されば仮にもこの山へ入る物再び帰る事を聞かず、されば穆王慈童を憐れみ思し召しければ、かの八句の中に普門品に当る二句の偈を潜かに授け座して、毎朝十方を一礼してこの文を一返唱へよとぞ仰せ含められける、かの慈童つひに■麗にオオザト/県に流されて深山幽谷の底に捨てられける、悲しみながら君の恩命に任せて慈童に授けられし二句の偈を毎朝一返誦へけるが、もし忘るる事もやと思ひて辺りなる菊の下葉にこの文をぞ書き付けたりける、その後よりこの菊の葉に置ける露わづかに落ちて流るる水皆天の甘露の霊薬とぞなりにける、慈童渇に臨んでこれを飲むに水の味はなはだ甘くして百味の珍に過ぎたり、しかのみならず天人花をフげて来たり、鬼神手を束ねて奉仕しける間、あへて虎狼悪獣の恐れなくして、かへつて換骨羽毛の仙人となりにけり、これのみならず、この谷水の末を汲んで呑みける民三百余家皆病速やかに消滅して不老不死の上寿を保てり、その侭時代推し遷つて八百余年までかの慈童はなほ少年の皃にて衰老の粧なかりけるこそ不思議なれ、かくて歳月を経し程に魏の文帝の時召し出だされて彭祖と名を改むる時この偈を以て文帝に授け奉る、帝これを授持して菊花の盃を伝へて万年の寿を賀し御座す、今重陽の宴といふはこれなるべし、

しかつしより以来、皇太子位を天に受けさせ給ふ時必ずまづこの文を受持し御座す、これによつて普門品を当途王経とは申すなり、この文吾が朝に伝はつて代々の聖主御即位の日は必ずこれを受持し給ふ、もし幼主践祚の時は摂政これを受けて御治世の始めに君に授け奉る、この八句の偈三国伝来にして治世安民の治略となり除災与楽の要術となる、ひとへにこれ穆王天馬の徳なるべし、これを以て思ふに、この馬の参る事しかしながら仏法王法の繁昌宝祚長久の奇瑞にて候ふべしと色代して申されければ、主上を始め進らせて当座の諸卿ことごとく心に服し旨を承つて賀し申さぬ人はなかりけり。

かかるところに、しばらくあつて、万里小路中納言藤房卿参られたり。座定まつて後、主上藤房に向つて、天馬の求めざるに来たる事、吉凶の間、諸臣の考ふる例畢んぬ、藤房は何とか思ふと勅問ありしかば、藤房畏まつて申されけるは、天馬の本朝に来たる事古今いまだその例を奉らず、されば吉凶の間勘へ申しがたしといへども退いて愚案を廻らすに、これ吉事にては候はじと存じ候ふなり、その故は、昔漢の文帝の時、一日に千里を行く馬を献ずる者あり、公卿大臣皆これを見て賀し申しけるを、文帝笑つて曰く、吾吉に幸く時は三十里、凶に行く時は日に五十里、鸞輿前にあり属車後にあり、我独り千里の馬に乗りて将に安くに行かんやとて、すなはちその道里の費を償いてこれを返されけり、また後漢の光武帝の時、千里の馬と宝剣とを奉る者ありけり、光武これを珍とし給はず、馬は鼓車に駕し玉ひ剣をば騎士に賜ひけり、しかるに周の代すでに衰へんとせし時、方星の精降つて八疋の馬となりけるを穆王類なくこれを愛して造父に御らしめ四荒八極の外瑶池台に遊宴し給ひしかば七廟の祭り年を逐ひて衰へ明堂の礼日に随つて廃れしかば周室これより傾けり、文帝光武の代にはこれを棄てられ福祚久しく昌んなり、周の穆王の時にはこれを愛して王業始めて衰へぬ、用捨の間一は凶一は吉、的然として耳にあり、

臣愚窃かに案ずるに、もとより尤き物はこれ非大にしてただ君の心を蕩す則んは害をなすといへり、されば今政道の正しからざるところによつて、方星の精化してこの馬となりぬ、人心を蕩さんとする者なり、その故をいかんと申すに、大乱の後、民の弊人苦しみて天下いまだ安からず、この時、執政吐哺して人の愁ひを聞き諍臣表を上つて主の誤りを正すべし、百辟は婬楽にして世の治否を見ず、群臣は旨に阿て国の安危を言はず、これによつて記録所決断所の群集せし雑訴の人日々に減じて訴陳徒らに閣きけり、諸卿これを見て虞■クサカンムリに内/の訴へを止めて諫鼓を打つ人もなく無為の徳天下に及ばしめ民皆堂々の化に誇れりと思へり、悲しいかな、その迷へる事を、元弘乱逆の始め天下の士挙つて官軍に属せし事ただ一戦の功を以て累代の賞に預らんと思へる故なり、されば世上静謐の後、忠を立て賞を望む輩多しといへども公家被官の外はかつて恩賞を給ひたる者なし、さるを解状を棄て訴へを停めたるは、これ忠功の立たざるを恨み政道の正しからざるを見て皆己が本国へ帰る者なり、諍臣これに驚いて雍歯が功を先として諸卒の恨みを散ぜらるべきに、それはさもなくしてまづ大内造営あるべしとて諸国の地頭御家人に課役を懸けらるれば兵革の弊の上にこの功課を悲しめり、

また国には守護は威を失ひ国司は権を重くす、これによつて非職凡卑の目代等、貞応以後の新立の庄園を没倒し在庁官人検非違所小児所過分の勢ひを高くせり、しかのみならず諸国の御家人の称号は鎌倉の右大将頼朝卿の時より始まつてすでに年久しき武名をこの御代に到つてその名字を止められぬれば大名高家何しか凡民の類となれり、その憤り幾千万と曰ふ事をか知らん、次に天運図に膺り朝敵自ら亡びぬといへども今度天下を定めて宸襟を休め奉りたる物は足利高氏新田義貞楠正成赤松円心名和伯耆守長年なり、彼等が忠を執りて漢の功臣に比せば韓信彭越張良蕭何曹参なり、唐の賢佐に喩へば魏徴玄齢世南如晦李績とも謂ひつべし、その志皆節に当り義に向つて忠を立つるところに何れを先となし何れをか後となさん、しかるを赤松円心一人わづかに本領一所の安堵を全うして守護恩補の国を召し帰さるる事その咎そもそも何事ぞや、賞その功に中るとき忠ある者は進み罰その罪に当る時んば咎ある者は退くと謂へり、痛ましきかな、今政道のただ忠賞の功に中らざる譏のみならず兼ねては綸言の掌を翻す憚りある事を、もし武家の棟梁となりぬべき器用の仁出で来て朝家を褊し奉る事あらば恨みを含み政道を猜む天下の士糧を荷ひて招かざるに集まらん事疑ひさらにあるべからず、

そもそもこの天馬の所用を案ずるに徳の流行する事、駅郵を置きて命を伝ふるよりも早ければ、この馬必ずしも用ふるに足らず、不慮に大逆起る時、急を諸国に告ぐる日いささか用あるに似たり、これを以て思へば静謐の朝に出でて、かねて兵乱の備へを儲く、これ不吉の表事にて候はずや、ただかかる棄物の翫びを止められて仁政の化を致されんにはしかじと誠言を尽くし残さず申されしかば、諸臣皆気を呑み、竜顔もすこし逆鱗の御気色にて置酒高会の興もなくて、その日の御遊は止みにけり。

これより後も藤房卿連々諫言を上られけれども、君御許容なかりけるにや、大内造営の事をも止められず、蘭席桂筵の御遊も頻りになりしかば、藤房これを諫めかねて、臣たる道我において尽くせり、よしや今は身を奉じて退くにはしかじと思ひ定められしかば、万づ思ひの露を詞の葉に染めかねて、世の大変を歎き入りてぞ御座しける。

 

石清水行幸の事

かかる程に建武二年九月二十一日石清水行幸あり。佐々木大夫判官高貞橋渡しの使にて行粧奇麗にぞ見えし。高越後守師泰侍所にて毛汰の馬冑を番はせて爽やかなる随兵百余騎大宮を下りに二行に列を引く。守禦の粧ひ言語道断の厳儀なり。すべての公武の経営なれば諸臣花を折りて美を尽くす。中にも万里小路中納言藤房卿は時の別当にて御座する上、今はこれを限りの供奉と思ひ定められしかば、余の人には引き替つて花色にぞ出で立ち給ひける。まづ看督長火長十六人冠老懸に袖単白く出だしたる薄紅の袍に白き袴を着し■クサカンムリに圀の方がしたくっつき口/脛巾に乱緒置いて二行に列をぞ引きたりける。その次に走下部八人何れも皆細烏帽子に上下ともに一色の家の紋推したる水干着せて歩ませたり。その次に別当藤房卿は巻纓の老懸に靴沓はきて黒塗の蒔絵の弓に海人面の羽付けたる平胡■竹に録/を負ひ平鞘の細太刀帯きてこの比甲斐の大黒とて禁中の名馬その長五尺三寸尾髪飽くまで逞しきに鋳掛地の鞍布いて銀の壷鐙厚総懸けて唐糸段の手綱をゆるらかに引き卜めて鞍の上閑かに乗り泛けて町に三処の手綱入れさせ小路に余りて歩ませらる。馬副の官人ども何れも■偈の旁に鳥/冠に猪の皮の尻鞘の太刀帯きて左に副へば飼副の舎人布衣に上括り右に随ふ。勢多判官博士章房は御後の官人にて赤衣に帯剣して火長手人粲かに大理の跡に随ひたり。その次には表烏帽子に槿の衣重ねたる遅歩雑色白張に香色の衣重ねたる童細烏帽子に海松色の水干衣たる調度懸、その次に舎人八人直垂着の牛飼雑色八十余人ざやめき渡りて遅歩りたりけり。繁花の粧粲かに、朱も翠も袖を連ね、見物の耳目を驚かす。上古にも末代にも、かかる行粧はありがたしとなり。

 

藤房発心の事

称嘆巷に充満たり。さて御山近くなりしかば伏拝に馬を止め男山を登り給ふにも、我が身の行末を顧みて栄行く時もありしものをと明日は謂はれぬべき身の程も我ながら哀れにて石清水を見給ふにも澄むべき末の久しきを君が御影に事よせて祈りし言を引きかへて今よりは一筋に心の垢をすすぎ浮世の耳を洗ふべき便りになりぬと思はれしかば、大菩薩の宝前にて潜かに自受法楽の法施を奉りけるにも、道心堅固即証無上菩提とぞ祈られける。想像るも和光の月明らかにして心の闇をや照らすらんと、神慮も暗に測られて、感涙袖に洒きける。

還幸の後、事散じければ、藤房卿致仕のために参内して竜顔を拝し奉らんことも今より後は何事にかと思はれければ、その事となく進む泪を押へつつ竜逢比干が諫めに死せし恨み伯夷叔斉が潔を履みし跡、通宵申し出でて未明に退出し給へば、大内山の月影も泪に陰り幽かなり。理かな、この比の寵臣にて朝夕馴れ仕へ奉りしその恩宅を出でて、この後の再会もさらに知らざれば、さすがに余波も惜しかりけるにや、落つる涙も■蘭のクサカンムリなし/干たり。されども心健く陣頭より車をば宿所に返しやり、侍一人召し具して北岩蔵といふ所に不二房といふ僧を尋ね、戒師としてつひに多年拝趨の儒冠を解いで十戒持律の法体となり給ひにけり。やさしかりし事どもなり。家貧しく年老いて栖みかねたる世の人だにも離れがたきは恩愛の旧き棲ぞかし。況んや官禄ともに卑しからで齢いまだ四十にだにも足らぬ人の、妻子を離れ父母を棄てて、山川抖薮の身となり給ひしは、ためしなき発心かなとて、知るも知らぬも推し並べて、皆感涙をぞ流しける。

さる程に藤房卿の遁世の事、叡聞に達しければ、君も大いに驚き思し召して、その在所を尋ね急ぎ再び政道輔佐の臣となすべしと、父宣房卿に仰せ下されしかば、この由岩蔵へ申し遣はされたりけるその返事に、

何事の浦山しさに帰べき世に有とてもいとひこそせめ

と申されたりければ、かくては叶ふまじとて、やがて車を飛ばして、父宣房卿かの岩蔵へ御座して尋ねられければ、中納言入道殿はその朝まで御座しけるが、ここも都の辺りなれば浮世の事なほも聞きかはす事もあるべしとて、足に任せて出でられにけり。宣房卿かの宿房を尋ね給ふに、主の僧出で合ひて事の次第を細々と語りければ、あまりの悲しさに、うたてやしばらくも留めて給ひ候はぬ、かかる事と知り給はぬ事あらじなど、咎なき僧を恨み給ひければ、主の僧も哀れみて、その事に候ふ、宿縁催してこの弊房に御立ち寄り思ひよらぬことに候ひながら何しか御余波も惜しく覚えて留め申し候ひしかども、出家の大意は道行を以て宗となす、その上すでに世間の人の情けの有無をも見、有為無常を勧むる事も旅に過ぎたる事はなしと奉る、かくてあらば、また都人に音信られ能なき事をも聞くべしとて、今朝にはかに御出で候へば力及ばずとて、墨染の袖を顔に当てさめざめと泣きければ、宣房卿も泪を押へて、互ひに物もの給はず。

時節軒の松風吹き枝折りて物冷しく心細げに茆茨雲に埋み紅塵跡を隔てて樹林烟りて暗く白日影静かなるに山色渓声心身を清浄に至し妄想の垢をも濯ぎぬべく覚えしかば宣房卿泪を推し拭ひて、この儘浮世を厭離し後世の再会を期せばやと宣給ひけるこそ、せめてもの親子の別れの悲しさと思ひ遣られて外までもそぞろに袖をぞぬらしけれ。日暮れんと欲しかば、宣房卿かの人の住み棄てし庵室なりとも見ばやとて内へ立ち入り見給へば、誰見よとてか書かれけん、破れたる障子の上に、

住棄る山を憂世の人問ば嵐や庭の松に答へん

棄恩入無為真実報恩者といふ文の下に、また、

白頭望断万重山

曠劫恩波尽底乾

不是胸中蔵五逆

出家端的報親難

と黄檗禅師大義渡を題する古き頌を書かれたり。宣房卿これを見給ひて、この大義渡は母別れを恋ひしを用ひずしてその身を終に失ひし事なればこの文の書き様さては今生の再会はたとひ命あるとも叶ふまじかりけりとて、いとど悲恋の涙に咽び空しく帰り給ひにけり。この人終に散聖道人となり侃山主とぞ申しける。草鞋跟底に月を蹈み桂杖頭辺に雲を担ひて江湖遍参せしが、何なる前世の宿業にかありけん、土州下向の船中にて風波の難に侵され帰泉し給ひけるこそ哀れなれ。

そもそもこの藤房卿と申すは、吉田大弐資経の孫藤三位資通の子大納言宣房卿息男なり。父宣房卿閑官の昔五部の大乗経を一字三礼に書き供養して春日社に納め奉り給ひけり。その夜の夢に黄衣の神人榊の枝に文を付けて宣房卿の前にぞ置きたりける。怪しやと思ひて披見し給へば上書には万里小路一位殿と書かれて中には速証無上大菩提と金字にぞ見えたりける。夢覚めて後、閑かにこの夢を占ひ給ふに、我朝廷の臣として位一品に至らん事疑ひなし、中に見えたる金字の文はこの作善の功徳を以て後生善処の望を達すべき者なりと二世の悉地ともに成就しぬる心地して憑もしくぞ思はれける、かくて年月を経る程に果して元弘の末に父祖の代に絶えて久しき一品し給ひたり、中に見えし金字の文は今この藤房出家得道し給ふべき善縁ありと示されける明神の御告げなるべし、誠に百年の栄耀は風前の塵、一念の発心は命後の灯なり。一子出家の功徳は七世の父母成仏すと如来の金言明らかなれば、この人の発心によつて家門一類ことごとく成仏得道せん事は喜びの中の悦びなるべし、これ真の御利生を蒙りたる人よと聞く物も皆感嘆せり。藤房卿遁世の後、朝廷いよいよ危ふきに近しとする事多ければ、天下また静かならず。如何と智臣はかねてぞ歎きける。

 

西園寺温室の事

かかりし程に幾程なく不思議の事出で来にけり。故相模入道崇鑑の弟四郎左近大夫入道恵性は元弘鎌倉合戦の時、新田義貞に一家皆亡ぼされしかども、この人独り遁れて自害したる真似をしてひそかに鎌倉を落ちてしばらくは奥州に隠れ居しが人に見知られじとて還俗して京師に上り西園寺殿を頼み奉り田舎侍の始めて召し仕はるる体にてぞ候ひける。これも一時一会の好みにもあらず。承久兵乱の時、西園寺大政大臣公経公関東へ内通の子細ありしによつて相模守義時その合戦に利を得し間、我が子孫七代まで西園寺殿を憑み進らすべき由申し置きけるとかや。されば今に至るまで武家他に異なる思ひをなせり。これによつて代々立后も多くはこの家より出づ。国の拝任も半ばはその族にあり。しかれば官大政大臣に至り位一品の極位を窮めずといふ事なし。ひとへにこれ関東贔屓の厚恩なりと思はれければ、何にもして前代の一族を取り立て再び天下の権を執らせ我が身も公家の執政として四海を掌に握らばやと思はれければ、この四郎左近大夫入道を刑部少輔時興と名を改めて明暮はただ謀反の計略をぞ廻らされける。

かかるところに政所入道、大納言殿に参つて申しけるは、国の興亡を見るには政の善悪を見るにしかず、政の善悪を見るには賢臣の用捨を見るにしかず、されば微子去つて殷の代傾き范増罪せられて楚王滅びたり、今この朝家にはただ藤房一人のみ候ひつるが未然の凶を鑑て遁世仕り候ひぬる事、朝廷の衰微当家の御運とこそ覚えて候へ、急ぎ思し召し立ち給へば前代の余類十方より馳せ集まり天下を覆さん事、時尅を移すべからずとぞ勧め申しける。大納言殿誠にもと甘心せられしかば、やがて刑部少輔時興をば京師の大将として畿内近国の勢を付け、相模次郎時行をば鎌倉の大将として甲斐信濃武蔵相模の勢を付け名越太郎時兼をば北国の大将として越中能登加賀勢をぞ集められける。かやうに諸方の相図を堅く指して後、西の京より番匠をあまた召し寄せ、にはかに湯殿を作られたり。そのあがり庭に板を一間蹈めば落つる様に拵へて下に刀刃をぞ置かれける。これは主上臨幸なつて御遊の時、唐の玄宗皇帝の花清宮の温泉に準へて浴堂の宴を勧め申し君をこの下へ堕し入れ進らせて失ひ奉らんとの謀なり。あさましくも恐怖ありしその企、天地もいかが宥さんと窘かりし事どもなり。かくの如く様々謀を定め兵を調へ、北山の紅葉秋の色すでに盛りなり、臨幸なつて御賞翫候へと勧め申されければ、すなはち日を定められ行幸の儀則をぞ調へられける。すでに明日午尅と臨幸の日時をぞ触れられける。

 

主上御夢告の事

その夜主上しばらく御真寝ありけるに赤き袴に鈍色の二つ衣着たる女一人来て、御前に虎狼の怒れるあり御後に熊羆の武きあり明日の行幸をば何様にも思し召し留まらせ給へとぞ申しける。主上御夢の中に怪しやと思し召されて、汝は何くより来たるぞと御尋ねありければ、この女、神泉苑の辺りに多年住み侍る物にて候ふが明日の臨幸余りに痛はしくてかやうには告げ進らするなりと答へて掻き消す様にぞ失せにける。御夢覚めて後、主上不思議の事をも申しつる夢の告げかなと思し召しければ、つひに鳳輦を促して北山殿へ臨幸なる。あさましかりし事どもなり。まづ神泉園に幸なりて竜神に御手向ありけるに池水にはかに色を変じ風吹かざるに白波茫々として岸を拍つ事頻りなり。主上これを叡覧あつていよいよ御夢の告げも怪しく思し召しければ、しばらく鳳輦を停めて御思案ありけるところに竹林院中納言公重卿馳せ参りて申されけるは、西園寺大納言公宗隠謀の企ありき臨幸を勧め申す由ただ今ある方より■鎹の金がリッシンベン/かに告げ知らせ候ふ、急ぎこれより還幸なつて橋本中将季経春衡文衡を召され事の子細を御尋ね候へと奏せられければ、主上も驚き聞こそ食して去んぬる夜の夢の告げ池水の変ずる態、誠にも様ありけりと思し食し合ひて、これよりやがて還幸なる。

君還幸なると均しく中院中将定平に結城判官親光伯耆守長年を指し添へて、西園寺大納言公宗卿橋本中将季経ならびに文衡入道を召し取つて参れとぞ仰せ下されける。定平朝臣勅を承つて官軍三千余騎にて西園寺に推し寄せ北面より西を取り囲み時を同とぞ揚げたりける。大納言殿は早この間の隠謀露れにけりと思ひ給ひしかば中々騒ぎたる気色もなし。のどやかに御座しけるに事の様をも知らぬ女房青侍ども、こは如何なる事ぞやと周章騒ぎける有様目も当てられぬ風情なり。橋本中将季経は官軍の向ふを見て心早き人なりければ後の山より何地ともなく落ち給ひにけり。中院中将定平まづ大納言殿に対面して穏やかに事の子細を宣べられければ、大納言殿涙を押へて宣ひけるは、公宗不肖の身なりとも故中宮の御好によつて官禄ともに人に下らず、これひとへに明王慈恵の恩幸なれば何でか陰に居て枝を折り流れを酌みて源を濁らす志をば存ずべき、つらつら事の様を案ずるに、当家数代の間官禄人に越え恩禄身に余れば、あるいは清花の家にこれを妬み、あるいは名家の輩これを猜み、何様讒口を構へ虚説をなして当家を失はんと申し沙汰すると覚え候ふ、さりながら天真を鑑みれば虚名何迄か上聞を掠むべきなれば、まず召しに随つて陣下に参じ犯科の糾明を仰ぐべしとぞ宣給ひける。官軍どもこれを聞いて、まづ橋本殿を給はつて具足し奉るべしと■口に強/でけるを、季経朝臣はすでに逐電仕りぬる上は召し具するに及ばずと返事せられけるを、結城判官親光、さては橋本殿を隠し申さるるにこそ、御所中をよくよく扱し申せとて数千の兵ども殿中に乱れ入り天井塗籠を打ち破り几帳障子を引き倒し残る処なく扱し奉る。これによつて只今まで紅葉の御賀あるべしとて楽弦を調ぶる伶人も装束をも脱がず東西に逃げ迷ひ見物のためにとて群集しける僧俗男女も怪しき物かとて召し取られ多くは不慮の刑戮に逢ひにけるこそ不便なれ。その辺りの山の奥、岩の中まで扱せども季経朝臣見え給はざりければ官軍力及ばず西園寺大納言公宗卿政所文衡入道召し取つて夜中に帰参しけり。中院中将定平参内して事の由を奏し申されければ、やがて大納言殿をば定平朝臣にぞ預けられける。我が宿所に一間なるところを攻籠の如くに拵へて押し籠め奉り、辺りには警固の兵を居ゑ日夜に守りを緩くせず。文衡入道をば結城判官親光に預けられ夜昼三日上げつ下ろしつ■口に考/問せられけるに、残る処なく白状してければ、すなはち六条河原にて首を刎ねられける。{太平記巻十三}

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