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先帝の御時、源中納言みちのくのいくさをあまたしたがへ玉ひ、道々をたいらげてみのゝくにまでおはしましけるよしさきだちてきこえければ、うへよりはじめてたのもしきことにおぼしたまひけるに、あべのゝ露ときえさせ玉ひけると刑部丞ともなりが、そのきはのありさまをまいりてなくなくかたるに、ともし火のきえぬるやうになん人々の御心はなりにけり。御父の卿はいか計おぼすにか。

さきたてし心もよしや中々に浮世の事を思ひわすれて

北の御かたはたゞふししづませ玉ふて、さらに御こゝちもなかりけるを、さはぎておもてに水などそゝぎしける程に、またの日の夕ぐれのほどにすこし御心ちのいできさせたまひて、

玉のをのたえも果なてくり返し同し憂世に結ほゝる覧

なをおなじ道にとおぼしたち給へる御けしきのいちじるく侍りければ、立さり玉はで人々のまもりければ、御こゝろにもまかせたまはで、くはんしむ寺といへる山寺にて御ぐしおろしてすませたまへるに、

そむきても猶忘られぬ面影はうき世の外の物にや夕覧

こゝにみとせが程過し玉ふて、世のさはぎもしばしばしづまりければ、さすがふるさとのかたやおもひ出されたまひけん、よし野山をたどりいでさせたまふとて、

いつくにか心をとめんみ吉野の吉野の山を出てゆくみは

親房卿の御もとにしばしばおはしてあかつきがたにたち出させたまひけるに、御なごりのつきさせたまふまじき御ことにて有ければ、かへりみさせ玉へるに、ありあけの月のいとさやかに山のはちかくみえければ、

別るれとあひも思はぬみ吉野の峯にさやけき有明の月

あべ野を過させ玉ひけるに、こゝなんその人の消させたまへる所とつげにければ、草のうへにたふれふさせたまふて、

なき人のかたみののへの艸枕夢もむかしの袖のしら露

このほとりに刑部丞ともなりが世をそむきてありけるをたづねさせたまひけるに、いそぎまいりて御ありさまをみたてまつるに、さしもゆかしくわたらせ玉ひける御よそほいのいつしかかはりおとろへさせたまひけるにやとなみだもとゞめあへで、住吉天王寺のほとりまで御をくりにまいりて、所々のあないしけるに天王寺のかめ井の水のほとりの松の木をけづらして、

後の世の契のために残しけりむすふかめゐの水茎の跡

とかきつけたまへり。それよりともなり入道はかへりけりと、ひとゝせたづね来りてかたりけるに、いとあはれにおもひたてまつりて、そののち天王寺へまいりけるに、御筆のあとの消もはてずしてのこりけるを見まいらせて、そゞろに袖をしぼりけるにこそ、そののち旧都にのぼらせたまひて、母君もともに世をそむきおはしけるが、さきだち玉ひて、又の年の春うせさせたまひけるときこえし、日野中納言資朝卿の御むすめなりし、

おなじころ大納言実世卿の御もとへわらはの御ふみもてきたりけるをみたまはせければ、

君かすむ宿のあたりをきてみれは昔にぬらす墨染の袖

御手もさながらむかしにかはらぬをあはれとおどろかせたまひて御つかひのわらはをめしよせてとはせ給へれば、今朝にしなる野に出て草をかりはべるに、やせをとろへたるす行者のこのふみとゞけてよとおほせさぶらひしといふに、いそぎ皇居へまいりたまふて、やまときのくにかはちせきぜきにみことのりしてす行者をとゞめけれども、それともおぼしきもあらざりけらし、中納言富士房入道の御手にて有けり、刑部卿義助朝臣の越前国よりいましてものがたりに、越前のくにたかの巣の山はたかくそばだちて、城槨にしかるべきところなりければ、畑六郎左衛門時能といふものにまぼらせけるに、あないをしらんがためになをおくふかくわけ入にけるに、谷河のいときよくながれけるを、そのみなかみをたづねにのぼりけるに、さし出たる岩をかたどりて松の葉にて葺たる庵のみえけるを、かゝるところにもすむ人のありけるにやとたちよりて見侍れば、木葉をあつめてむしろとし、やいらなる石の上に法華経ををきける外にはなにもみえず、しばしありけるに山路をたどりくる人をみれば、疲をとろへたる僧のしきみを手にもてり、いかにしたまふにやと物のかくれよりみけるに、谷河の水をむすびて庵のうちにいり、経のひもをときけるほどに、よみはじめ玉はぬさきにとおそぎ行て、かゝる御住居こそいとたとくおぼえさぶらへ、いかなる人の世をそむかせたまひけるにやととひたてまつるに、そこにはいかにとたづねさせける程に、名のりをしつれば、いとほいなきさまして、あづまのものにこそとばかりの玉ひて経をよみたまひしほどにかへりてさぶらへ、藤房卿の御面影して侍るといひしまゝに、いとゆかしくて一条少将をともなひてまいりけるに、庵はそのまゝありて僧はみえたまはず、経のありつる石ときこえしに、

こゝも又うき世の人の問くれは空行雲にやとり求めて

とかきつけ給へる筆の跡を少将のよく見しり玉ひて、そのほとりの山々をたづねさせたまひけれどもさらにみえ玉はねば、いとほいなくてとの玉ひしを人びと聞もあへたまはで、みな涙おとしてけり、さしもいみじかりける人のきゝしがことの御住ゐはまことにありがたき御こゝろにこそ、とし月をあはせてみ侍るに、君がすむ宿といひこされしはのちの事なり、こしのかたよりつくしへとをり玉ふらん折にや、そののちはたえて御をとづれもきかざりし、この藤房の卿は大納言宣房卿の御子なりし、才智世にすぐれさせたまひて、君にも御おぼえのあさからで、中納言までなりたまひしが、建武きのえ戌のとしの春、にはかに世をすてたまひし。

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万里小路中納言藤房卿は吉田大弐資経卿の孫、権大納言宣房卿の二男、永仁四年丙申歳誕生あり。はじめ惟房、嘉元三年十歳にして、春来品物都春容、木母花開香正濃、今日太平三朝恩、家々酔賞更飛鍾、と云詩を賦し後二条院に奉られけるに叡感浅からず、此稚者よろしく学問を勤めしむべしと父卿の許へ宣旨ありしかば蛍雪の勉等閑ならず。博覧の聞等倫に秀給ひしにより文保二年三月廿九日、年廿三にして先坊大進資明の替に五位蔵人に補せられ(職原抄に五位蔵人三人、名家譜代殊撰其器用所補也と云。唐名仙郎或夕郎と云)その年、右少弁に任じ、やがて左大弁に転じ(此官も亦才名ある輩清撰に依て任ずと云り)中宮亮を兼、元亨三年正月、廿八歳にして蔵人頭となり(蔵人頭を夕郎貫首と云。殿上人の中清撰の職、古来重職として非器無才の輩競望にあたはずと職原抄に見ゆ)正中元年四月、参議に任じ同三年二月、権中納言に転任の時は上座三人(正三位冬定、平惟継、源親賢三人を超越せしなり)を越させ玉ふ。元弘元年八月廿四日、主上(後醍醐天皇)俄に内裏を出御あつて笠置の窟へ遷幸ましまし姑く東夷の暴戻を避させ玉ふ時も此卿智謀ふかく中宮の夜に紛れ北山殿へ行啓のよしにもてなし奉りて御門守護の武士を欺かれしとぞ。其九月河内国の住人楠木正成を笠置の皇居にめされしも此卿なり。十月三日、笠置城軍敗れ三日大和国多賀県有王山の麓迄潜幸なし奉りし際、此卿随ひまいらせて、

いかにせんたのむ影とて立よれば猶袖ぬらす松の下露

と詠ぜしは世あまねく知る処なり。十三日、六波羅に還幸なし奉りては此卿をムサし左近大夫将監泰家(相模入道の弟)の宿所に止め置、千種忠顕朝臣と共に主上に附けまいらせたりけるが同二年三月七日、主上隠岐国へ遷幸ありし後は小田民部大輔高知(系図に八田右衛門尉知家は八田下総権守宗綱の子として藤原氏に改むると云ども実は左馬頭源義朝子と云を以て右幕下頼朝卿崇敬大かたならざりしにより其子知重その子泰知その子時知その子宗知其子貞宗その子知久その子高知なり。高知の曾孫持家の時に至り鎌倉公方持氏朝臣より千葉小山里見佐竹小田結城那須宇都宮八家を関東八将と定められたり)此卿を具し奉り常陸国に下向して小田城に同三年五月迄居参らせけるなり。京鎌倉一時に滅亡し主上都へ還幸ましましければ藤房卿も常陸国より上洛ありて五月十七日本の如く正二位中納言になさせ給ひ権中納言源通冬卿の左衛門督使(検非違使)別当たりしと権中納言経顕卿の右衛門督たりしを止められて此卿を右衛門督使別当に補せられしは笠置供奉の忠を賞せられしなるべし。かくて建武元年官軍勲功の賞行はれけるに此卿も恩賞方番文三番(寅午戌日)畿内山陰山陽両道の別当にて清廉の沙汰を致されんとすれば女謁内奏にさまたげられて中興の帝業姦猾の利口に傾きなんとするを傷み内々諷諫を奉らるゝと云ども良薬口に苦く忠言御耳に逆ひしかば三月十一日石清水行幸のありけるに、これぞ最後の供奉と思はれしにより時の大理にて花やかに装束して御供せられ還幸の後十四日には致仕の後竜顔に近づき奉ることも難かるべければ流石御名残のおしさに参内し十五日未明に退出し北岩倉と云処にて不二房と云僧を戒師として多年拝趨の儒冠を解て十戒持律の法体に成玉ひけり。行年三十九。

すみ捨る山をうき世の人とはゞ嵐や庭の松に答へん

棄恩入無為真実報恩者、白頭望頭万重山、曠■刧の刀が刃/恩波尽底乾、不是胸中蔵五逆、出家端的報親難、と破れたる障子の上に書残して諸国修行のためにとて足にまかせて出給ひけり。(公卿補任太平記南朝紀伝建武記等による。太平記金勝院本に不二房仁戒とあり。山城名勝志には北岩倉大雲寺東北に福泉寺旧蹟あり。福泉寺の東に不二房の旧跡ありと見ゆ。又寛政二年三月樹下菴祖芳と云者大雲寺観音堂に上る石階の東一町計林中に高五尺余の石塔を立。此卿の髪塔なりとかや)

……中略(吉野拾遺当該部分/越前からも逃亡)……

(太平記南朝紀伝等に依て考ふるに義助興国二年九月十八日美濃国根尾城を落て伊勢路を経て芳野内裏へ参られし由を記し畑時能が鷹巣城に居て尾張守高経と戦ひしは興国元年の事とす。此山居の僧藤房卿ならんには四十四五のときにあたれり)

……中略(吉野拾遺当該部分/童に歌を託す)……

(実世卿は洞院相国の長子南朝に伺候して左大臣に任給ひ延文三年八月十九日薨ぜられし由系図に見ゆれば藤房卿六十三歳の時に当る)

妙心寺六祖伝云、天授授翁宗弼禅師嗣関山、姓藤氏、勧修寺大臣家花族也云々、康暦二年三月十八日遷化、世寿八十五、闍維収設利、建塔於正法山西頭、名天授院(康暦二年は南朝天授六年にて藤房卿八十五歳なり。天授院と云も南朝の年号なれば授翁の藤房卿たること疑なきにや。天授院の説には正平十一年六十一歳にして関山国師の法を嗣ぐ。妙心第二世に陞り後八十歳の時天授院を草創すといへり)

或云、藤房卿侃山子と号し雙丘の東なる池尻の杉菴にましまして花園の関山国師に三千せられしが或日国師装束して笠を戴き侃山子を呼相携て風水泉の頭に至り松樹に依て出世の始末を立談し畢て泊然として化去。侃山子遽に一衆に告て丈室に舁入全身を本山の艮隅に■ヤマイダレに坐/み塔を建てゝ微笑庵と名付と云。(関山国師行状には、宗弼禅師一人嗣師法、宗弼藤房卿也と云。関山入寂延文五年十二月十二日なれば宗弼六十五歳にして妙心寺第二世となり八十五歳にて二十一年の際住持せしか)

一書に、近江国綿向神社大宮司出雲氏は南朝方なりしかば万里小路藤房卿遁世の後しばし此家に住給ひけるが諸国修行に出立給ふとて蜃の焼さしと云香に、

余所よりも夕々は風そよぎ月影すゞし篠の谷川

と云歌を添て出雲氏に残し置れたりと云。

又江州妙感寺の伝説には、康暦二年四月廿八日藤房卿薨。行年八十五、関山国師法嗣授翁宗弼。(妙心第二世、妙感第三世)とあり。……後略{先進繍像玉石雑誌巻之二}

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