◆「匠作から日本武尊へ」

 「太平記秘伝理尽鈔」は「太平記」に登場する「天狗山伏」の正体を明記している。修理助(ママ/以下「修理亮」)である。越後の武士である修理亮は、さほど親しい親戚でもないのに、いきなり新田義貞を訪ねた。義貞なら鎌倉北条氏に何時か反旗を翻すとの見通しをもってのことだ。如何やら修理亮も鎌倉北条氏を憎んでいたらしい。それとなく腹を探って、図星だと判断した修理亮は、盛んに北条氏打倒を義貞に唆す。義貞は決断を下し、修理亮の一族に越後勢の取り纏めを依頼する。読みようによっちゃぁ、義貞に北条氏打倒の最終的な決断を下させた者こそ、修理亮である。これぢゃぁ「義貞謀叛」ではなく「修理亮陰謀」の段だ。修理亮こそ、北条氏滅亡劇の黒幕であったのだ。修理亮、官職名乗りではなく、実名で呼ぼうか。彼の実名は、里見匠作である。
 さて、里見修理亮と聞けば、鎌倉大草子に結城合戦で籠城方の武将として登場し、敗戦後に京都まで首を送られた人物として記憶されている読者も多かろう。京都まで首を送られていること、官職名乗りをしていることなどから、結城籠城側に於いては主立った武将であったろうと推測できる。官職もしくは呼び名は代々受け継がれることがある。或いは結城合戦で討ち取られた「里見修理亮」は、鎌倉幕府滅亡の黒子であり、新田義貞というトリガーを引いた、越後の新田一族・里見修理亮匠作の子孫であった可能性もある。「修理亮」が「匠作」だなんて、出来過ぎのネーミングではあるが、若しかしたら「修理亮」を世襲しているが故に付けられる名前であったのかもしれない。修理職は宮殿の造営修理を司り、大工や小工が属する役所だ。また、結城合戦に参加した里見修理亮を、安房里見家の祖・義実の父である「里見刑部少輔家基」に比定する論者もある。家基は、八犬伝で「里見治部少輔季基」に変換されている。
 ロンドが始まる。入れ替わり立ち替わる舞い手たち。里見季基と大塚匠作が、一瞬ダブる。季基と匠作が対応し、義実が番作と照応するならば、義成と信乃が、一つに重なる。いや、一つに重なると云っても、俯せになった信乃に身を重ね首筋に唇を這わせながら脇腹を撫ぞる手が腰に行き着いたとき強く掴み力ずくで突き上げ貫く、などという「一つに重なる」情景を想像しなくても結構だ。いやまぁそのぐらいのことは少なくとも美女・信乃や美少女・毛野は義成としていたに違いないとしても、いや猛々しい武将のイメージをもちながら頼長に対しては夜の玩具に甘んじた帯刀先生義賢……ならぬ帯刀先生道節も同様なことを義成に対して絶対にしなかったとは言い切れないけれども、そんなことどもは、本稿の関心外である。
 それは措いといて、義成の正妻は、第七輯第七十二回では、百に一だけ足らぬ九十九「白前(つくものまえ)」ではあるが、何時の間にやら後には「吾妻前」になっている。まぁ白前なる言葉からして、伊勢物語六十三段の「ももとせに ひととせたらぬ つくもがみ われをこふらし おもかげにみゆ」を思い起こせば、義成が色男で白前は年上ってイメージも湧くが、単に偕老同穴、お前百まで儂ぁ九十九まで、ぐらいからの連想とも思ったりもするけれども、何連にせよ、面白くない。「白屋」を「くさのや」と訓ませる馬琴だから「白」は質素の「素」、虚飾のない謂いかとも思うが、やはり面白くない。白を源氏の服色と規定する八犬伝に於いて、里見家の当主として源氏であることを強調しているのかもしれぬが、そう考えても余り面白くはない。面白くないから、馬琴が何故に義成の正室の名を、まずは「白前」にしたかの解釈は、保留しておく。恐らく、さほど積極的な意味は「白前」に込めていなかったのではなかろうか。即ち、妻の存在を軽視していたことになる。馬琴が「白前」と書いた時には、受け継がれるべきものは父系、例えば匠作・番作・信乃の流れで伝えられる筈のものであった、と考えられる。弟橘姫の話は話として、単に日本武尊の引き立て役ぐらいに思っていたのだろう。しかし、逆に、一旦は「白前」にしておきながら「吾妻前」に変更したとなると、「吾妻前」には確固とした意味を馬琴が込めたことになる(故に勿論、それまで刊行してきた連綿たる叙述を根底から変更するわけにはいかないのだから、誤魔化しレベルの修正で糊塗せねばならなくなった部分もあろう)。妻の地位を認め、受け継がれるべきもの例えば理念の継承に、妻もしくは母親の存在が不可欠だと気付いた疑いもある。そして、ならば「白前」→「吾妻前」変換の意味は、瞭然である。
 そう、日本武尊だ。上記第七十二回で語られる下河辺為清の娘・盧橘は義成の側室であり、正室は「白前」後に「吾妻前」。此の正妻と側室は、弟橘姫が二つに分化したものと知れる。日本武尊が血を吐くよう叫んだ「吾嬬者耶」が「あづまのくに」の語源になったか否かは別として、「吾嬬/妻」といえば弟橘姫を措いて外には無い。弟橘姫は日本武尊の側室であり、正室として擬せられるのは、「ドッチの穴からでも良いから早く入ってこんかい! この包茎野郎」を意味する(訳はないのだが)両道入姫命であった。この「どっちの穴でも良いから挿入て」姫命の息子が、仲哀すなわち八幡神・応神の父である。
 そう考えると、「吾妻前」および「盧橘」を正側の妻とする里見義成こそが、弟橘姫を妻とする日本武尊の投影であることになるんだが、話は其れだけで終わるほど単純ではない。天叢雲剣に擬すべき水気の霊剣・村雨を振るう信乃だって、十分に日本武尊に擬すべき資格がある。
 ならば日本武尊の東征ならぬ、信乃の滸我への旅立ちに当たって血の海に沈む前の浜路が、弟橘姫ってことになる。第四十三回、まさに処刑されんとする額蔵(荘助)を信乃・現八・小文吾が救い出す。第四十四回、逃げた四犬士は桶川の東南・雷電神社に辿り着き、山果で飢えを満たす。信乃は、しみじみと浜路を思い遣り、再び女性と配偶しないと云う。荒芽山を目指すが、急がない旅だからと寄り道して観光することになる。上野国甘楽郡白雲山妙義神社に参詣する。此処で偶々道節を目にするのだが、故意々々回り道して出向いた妙義神社、実は碓氷峠の近くである。浜路の不幸を嘆じた信乃が、碓氷峠に向かうのだ。碓氷峠とは勿論、日本武尊が弟橘姫の不幸を嘆じて「吾嬬者耶」と叫んだ場所だ。
 此処で、ちょっと小狡い考え方を導入しよう。いや、特に過去のファンタジーを読む上で、解釈のツールとして偶には使える論理だ(現実を描写する論理だと信じたら単なるバカだが)。名付けて、狡猾滑稽ホモホモ万世一系論である。
 此の理論では、霊的に繋がっている人と人は、互いに表皮によって絶対的な隔絶をしておらず、一つの偉大なる霊的存在の各時各場の発現であって、根を同じうする故に、互いに等値な存在である、というものだ。皇太子までは個人であるが、天皇になれば神武もしくは其の祖神と同値であり、個人ではなくなる、というものだ。即位儀式で行われる、宝剣との共寝は、剣は男根の象徴であるから、其の男根に貫かれ精を注がれ満たされ一体となる、祖霊との一体化儀式である。まぁ多分、当初は最高級の巫女の役割であり、別に男色行為を前提としているのではなかろうとは思うのだが、いや、男色行為で繋がった院の近親相姦ではなく院の近臣相姦を思えば矢張り男色行為を前提としているようにも思えるし、いや抑も番作さんから村雨を受け取る信乃が女装していなければならぬ理由も宝剣の継承がセクシャルなものであるとのファンタジックな背景があったのではないかとも思えるのだけれども、とにかく此の疑似男色インターコースによって、天皇霊とでも謂うべき何者かが継承され、初代と百二十何代だかが、同じき者/天皇となる。それぞれの天皇は【個】ではなく、百二十何人を十把一絡げにして、一個の集合体なんである。
 当初は即位儀礼で宝剣/聖なる男根に貫かれるは、巫女の役割で、女系によって霊は継承されたのかもしれぬが、既に記紀の段階では其の明らかな痕跡は無い。若しくは密教での師弟関係は、女色を禁じたからか、高野六十那智八十、霊的で重要な何かは言葉や文字ではなく、インターコースによって継承されていたかもしれず、潅頂は水を掛ける耶蘇の洗礼みたいな印象だが潅腸ならぬ直腸への潅(そそ)ぎ込みも、密教の師弟関係には、ままあったかもしれぬ。ならば王法と仏法は両輪であり、同様の継承儀式であっても、怪しむに足らぬ。大体からして院政は、天皇が退位し出家して僧形で行うのが一般的だ。
 それは院が坊様になり世俗的な欲を捨てて清らかな政治を行う意思表示、であるわけでは決してない。仏教と繋がることは、男同士で填め合い繋がり合うことと同様、彼等の仕事のうちなのだ。当時の貴族文化は仏教と密接に繋がっており、しかも東大寺やら興福寺やら延暦寺、東寺、その他の大寺院は荘園領主として巨大な領地を支配していたし、膨大な僧兵を擁していた。大寺院は世俗に於いても大きな勢力を有し、中央政界への発言力も強かった。だからこそ大寺院の座主とか何とかの支配者は、皇族および摂関家の子弟が独占していた。当時の支配層である皇族・摂関家以外の者が大寺院を支配すると、それだけで政治不安を招き、朝廷だって転覆されかねない。だからこそ同族を大寺院の支配者として送り込んだのだ。裏返せば、日本中世の仏教とは、宗教の皮を被った姑息な皮かむり政治支配機構の一部であった。一宗派を支配するためには、宗教的な資質や知能なんて、二の次どころか考慮に値しないんである。結局、血筋とか人間関係とやらで決まるのだから、「人間関係」の男色関係を、子弟が結び其れによって血脈を嗣ぐことは、何等、不自然ではないんである。そんな文化の影響を受けつつ、院政を敷いたんだから、男色関係によって政治が左右されるのも頷けよう。……まぁ勝手に姦(や)ってろや。さて、下らぬ話は早々に切り上げ、八犬伝に戻ろう。
 日本武尊、此の日本最大の英雄は、「尊」すなわち皇太子に準ずる地位にありながら、其の資格が十分にありながら、皇位を継ぐことはなかった。其の他大勢の王子なら、同じ「みこと」でも「命」の字を使うが一般的だ。しかし日本武尊は東征の帰途、野垂れ死んだ。
 一方、日本武尊に擬すべき義成は、一つの世界を主宰するに足る智仁勇を兼備しているにも拘わらず、天下を窺うことをしない。武田信隆ならずとも不思議に思うだろう(第百八十回勝回上)。人民の側からしても、天下の主宰者たるべき者が主宰せず、卑しい心根の者が支配者であることは不幸であるが、それもまた、天なり命なり……か。しかし、日本武尊の場合、歴史から姿を消すが、其の子孫は皇位に就く。仲哀は、まぁ中継ぎに過ぎないけれども、彼が神功皇后と交合すれば、応神の誕生すなわち八幡神、天皇家の第二の祖神/建国者の発生へと繋がる。時に大和朝廷は周辺部族による反乱に悩まされ、外敵の脅威に晒されていた。第二の建国が、必要となっていた時代である。
 目を惹く日本武尊の英雄譚そのものよりも日本武尊神話の後日談、第二の建国者の出現が、重要なのだ。中世の日本武尊たる里見家は日本の東隅に閉じ籠もり、やがて滅ぶ。しかし里見家および犬士を日本武尊に擬すれば、里見家および犬士の子孫が、第二の建国者、世直し大明神として登場を期待される。且つ亦、里見家そのものの霊的な要素の本体は、伏姫から発し犬士にこそ継承されている。犬士および子孫は八犬伝の舞台から姿を消すけれども、一旦、読者の世界が行き詰まり破滅に瀕すれば、第二の建国者として立ち現れてくれるのではないか。第二の建国者を待望するとは、既存の政体を見限る所作に他ならない。
 十九世紀に入って、異国船が日本周辺を彷徨き始めた。松平越中褌担ぎ定信は、防備を固めるため房総を視察し「狗日記」を残した。馬琴が八犬伝をモノした頃の話だ。一方、房総では、太平洋大東亜戦争中、八犬伝ゆかりの寺に東京もしくは皇居のみを守るための基地が造られた。現在でも空軍基地がある。首都防衛の要である。
 日本武尊は熊襲とか蝦夷とは戦うが、海外の勢力とは戦わない。戦うのは、神功皇后もしくは其の胎内にあった応神である。里見家もしくは犬士は、東国辺境の諸勢力と戦い平和な世界を一瞬だけ作り上げたが、海外勢力と敵対するわけではない。ただし注目すべきは、其れまで日本と交流のなかった異国の漂流船が登場する条だ。此は、取りも直さず、それまで交流のなかった異国の船が、日本近海まで来ていることを暗示するものだ。此の一点で、八犬伝は刊行当時の状況、それまで日本と交流のなかった異国の船が近海まで来ているとの状況と繋がる。事態は緊迫しつつあったのだ。
 いや、漂流船の存在だけ取り上げて、八犬伝刊行当時の黒船出没との関連性を云々するなんぞ乱暴極まりないことは、筆者には決して出来ないことは、明らかに宣言しておかねばならぬ。そんなのと一緒にしてほしくない。単に漂流船がうち寄せられるだけならば、八犬伝の舞台になった時代でも、当然あり得た。そうやって鉄砲は伝来したことになっている。何たって欧州諸国が世界を征服し植民地化して自分たちだけ幸せになろうって、まさに大航海時代まっただ中だったんだから。西洋の船がウロウロしてても不思議はない。故に八犬伝で漂流船が登場するだけでは、幕末の黒船とは決して繋げられない。けれども、日本武尊と絡めてなら、異国船出没の多発と関連づけることが初めて可能となる。八犬伝が隠し持つ外的脅威の存在は、日本武尊の孫、異国調伏の仏教神・応神/八幡の存在を経由せねば、単なる行き当たりばったりの思い付きに過ぎまい。
 そんな外的脅威が迫り来る時、腐敗し且つ社会矛盾を極限まで蓄積しつつあった幕藩体制は見限られ始めていた。八犬伝刊行後期には大坂で大塩平八郎が乱を起こしたが、社会を守護する筈の武士たちは醜態を晒して信頼を失墜させた。人望があったとはいえ単なる下級武士である元与力が起こした乱に狼狽し、大坂が焼け野原になることを許した。しかも大塩を生きているうちに捕縛できず、切腹した上で自焼した大塩の焼死体を漸く得たに過ぎない。大塩の焼死体であるとの証拠は、近くに落ちていた刀だけであった。まるで谷中二・専作らが穂北を攻め殺した農民を焼いて首を切り落ちていた刀を添えて、落鮎有種らだと偽り持ち帰ったことを思い出させる(第九輯下帙之下乙号上套巻三十二第百五十二回)。第九輯下帙之下乙号上套の序文は「天保十年花月念八」とある。大塩の乱は天保八年二月、大塩が隠れ家を襲われ自決自焼したのは一カ月後の三月だ。明治に至るまで、「実は大塩、逃げおおせた」との俗説があった。確かに当時の医科学で、こんがり焼けた死体の人定など無理だろう。現在でも歯の治療跡とかに頼らなければ覚束ない作業だ。勿論、焼死体が大塩本人ではないにせよ、捕り手が隠れ家の中にいることを確認して取り囲み、逃げていないなら、大塩は其処で死んだのは確かだろうと、筆者は思っている。しかし、遺体が厳密に確認できない以上、「生きている」との俗説が生ずる余地が、確かにある。人は、まず思いたいように思う。或いは馬琴も、大塩生存説を耳にしたかもしれない。何連にせよ、幕府の権威を立て直そうとした大塩平八郎の乱は、皮肉にも幕府の威信を一層、失墜させることになる。
 八犬伝刊行当時、国内を纏めるためにも、また纏めて異国の脅威を払うためにも、第二の建国、世直しが必要な時は近づいていた。日本武尊の出現は、異国の脅威を払う応神/八幡神の発生を予告するものである。日本武尊に擬すべき里見義成そして犬士たちの出現も、当然、第二の建国者、異国の脅威を払う者が新たに発生することを、予告している筈だ。
 里見家が新田一族であること、親兵衛が寅童子と密接に繋がっていることなどから、一見、八犬伝が指し示す「第二の建国者」は、徳川家康かとも思えてくる。東国に拠点を据えた武家政権を日本武尊に擬する説は昔からあるし、家康も例外ではない。しかし、それは多分、お目出度い誤読である。いや出版統制役人に問いつめられたら、馬琴は、八犬伝物語は家康の天下統一に繋がるのだと、嘘の申し開きをする積もりだったろう。しかし八犬伝は飽くまで稗史であり、歴史を説明しようとするものではなく、刊行当時の読者に向けて書かれたものだ。刊行当時のファンタジーとして語る上で、出版統制の制限から、中世に仮託しているに過ぎない。飽くまで八犬伝は、刊行当時の世相を映し、望むべき理想的な社会へと、読者を導こうとしている。勧懲にして勧懲を超えた理念の提示である。漂流船の一件は、八犬伝が刊行当時の社会を描いていることを暗示している。ならば「第二の建国」によって否定さるべきは、刊行当時の幕藩体制である。
 日本武尊や後の御霊など、この国に於いては、度々既存の政体を心理面で否定しようとするファンタジーが、恐らく自然に流布されてきた。一方で、既存の政体を正当化するファンタジーも、恐らく人為的に流布されてきた。互いに対立するファンタジーが捻れ絡み合い、社会矛盾が限界を超えたとき、既存政体を倒すため否定的なファンタジーが優勢を占める。八犬伝がベストセラーになったこと自体、既存政体への不満が成長しつつあったことを示すだろうし、八犬伝が不満をより成長させた可能性だってある。矛盾に苦しむ当時の人民が、八犬伝なる偉大なファンタジーに出逢ったことは、幸いでる。
 八犬伝から百六七十年、この国の文運は衰退しきっているが、時代の危機感が突如として偉大なファンタジーを生み出さないとも限らない。幼児的な「悪くなかったもん」史観に安住するプライドのないオヤジどもなぞ、もはや如何でもいい。彼等にとっては、六十年ごときでホトボリが冷める程お手軽な戦争だったのだろう。まぁ現在の七光り二世三世政治家なぞは、当然ながら戦前支配層まで繋がっている。しかし「悪くなかったもん」なる家庭的な申し分は、お外で云うな。おかあちゃんのオッパイ吸いながらの寝言でだけ云え。結局、新しい世代から、誇り高き此の国のファンタジーが産み出されることを期待するしかないのだけれども……無い物ねだりか。(お粗末様)

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