◆「贔屓の引き倒し」
「姫君StrapOnDildo」は、「傾城反魂香」の(一応は)主人公である狩野元信を紹介しかけて終わった。引き続き、元信の人物像を語る。前出挿話は、京狩野の書いた「本朝画史」が、元信を称揚するために、絵が完成したら風が吹いただの、それは大天狗・鞍馬僧正の仕業だとか暗示し、元信を箔付けしていた。但し其の暗示は、「本朝画史」の著者本人や狩野派の説ではなく、市井の児女の噂として提出されていた。超自然的な挿話を持ち出しつつ、「いやぁ女子供が噂する所では……」と出所を誤魔化していた。だったら書かにゃ良いのだが、書きたい、残したい、知って貰いたいから書いたに違いないのだから、掲載責任は負わねばならぬ。しかし、此の態度は、不自然な話の責任を「児女」に、なすくり付けつつ、効果だけは我が者にしやうといふ、御尤も且つ卑怯下劣な筆法だ。江戸とは一線を画するとはいえ、所詮、狩野は狩野、エスタブリッシュメントってことか。
「本朝画史」は一応、権威ある日本絵画史の史料たり得ているけれども、狩野家の利害に関する点では、扱いに注意が必要なようだ。だから、此処では、「画乗要略」も引こう。「画乗要略」は、岸派の白井華陽が著した絵画史だ。岸派は、越中だか金沢だかで生まれ京都で活躍した岸駒が興した一派である。画脈として、狩野派とは直接の師弟関係がない。華陽は岸派二代・岸岱の弟子だから、岸駒の孫弟子に当たる。「画乗要略」は、天保二年ごろ成立しており、「本朝画史」を引き継いで、江戸中後期の有名画家を網羅している。因みに馬琴の友人・渡辺崋山は、一行足らずだが載っている。また、「画乗要略」は、掲載した各画家の簡単な説明に、場合によっては梅泉(華陽)が解説を加え、一部の記述には卓堂(岸岱)が補足を与える形式だ。此の「画乗要略」から、元信そして父の正信の項を引く。
◆
正信
狩野正信相模人入京仕足利将軍義政為侍臣法周文追歩宋人筆力?雄有古逸気延徳中人
元信
狩野元信号永山正信長子也学其父又極宋人■(モンガマエに困)奥資土佐光信而自出機軸遂成大家矣人物山水入神品又工花鳥急能永禄中歿年八十三
梅泉曰狩野某云織田信長嘗与近臣竊到元信家観其画元信為不知而伸脚於机間執筆不顧公去隣人来告嚮太守枉顧子何無礼元信曰渠来亦無礼故不敬也且我無求於渠故不答也由是観之元信似尾張人然元信始仕足利氏後掌天朝之絵局未聞往在他国且織田氏永禄十一年初入京元信永禄二年歿相距凡九年矣然則織田氏訪元信果在何時乎嗚呼伝其派者濫飾妄説称揚其画祖以誣世人貽笑於後代可不戒乎
卓堂先生曰嘗論元信伸脚於机間事曰凡操筆先正其容心閑意定而後下筆此話必妄也(「画乗要略」巻一)
◆
元信本人の画業に対しては、最高級の評価を与えている。しかし、梅泉・卓堂とも、狩野派に対して、かなり手厳しい。即ち、元信を称揚する或る説話を嘘っぱちだと決め付け、「馬鹿なオベンチャラで贔屓の引き倒し、却って世人の嘲笑を買っている」と喝破している。或る挿話とは、お忍びで織田信長が元信宅を訪れ、絵を見物したってものだ。時に元信は織田信長を無視し、正座もせず、だらしなく脚を放り出して、絵を描き続けた。信長が黙って帰った後、隣人が元信の無礼を詰った。元信は、こっそり訪ねて来た信長こそ無礼だし、声を掛けてこなかったから答えなかったまでだ、と答えた。此の勇ましい挿話に対し、岸派の舌鋒は鋭い。元信は晩年、京都にいた筈だが、信長が上洛した時、既に死んでいた。元信が活躍していた時代、信長は、まだ尾張の地方大名に過ぎなかった。ならば元信が尾張に居たかといえば、そんな話は聞いたことがない、って論法だ。また、卓堂先生が追い打ちを掛け、「落書きしてんぢゃあるまいし、絵師が絵を描くとき、だらしなく脚を伸ばしてるわけないぢゃん」と決め付ける。確かに、元信を称揚しようとする挿話は、破綻している。
即ち、「画乗要略」は、確かに天才であった元信本人の画力は高く正当に評価しつつも、後を継いだ狩野派が、実質的な流祖である元信を虚偽まで使って必要以上に称揚し流派自体の権威を高めようとする、其の下劣な顔立ちを、面罵しているのだ。なかなか痛快だ。「画乗要略」には、幕府御用絵師として天下に威勢を振るう狩野派からは独立して成立した岸派の自意識が投影されていようか。
……ただ、エスタブリッシュメントに厭な面があると同様に、成り上がり者にも特有の厭な面がある。岸派を建てた岸駒自身も、けっこう厭な奴だったらしく、岸(がん)派というより傲岸派かと思えるときもありはするんだが、まぁ、此処は先を急ごう。
引き続き「傾城反魂香」の紹介だ。此の浄瑠璃に登場する土佐将監光信は、実在の宮中絵所預(朝廷の御用絵師)であって、土佐派絵画の大成者だ。娘の竹は、狩野元信の妻となっている。浮世又平あらため土佐光起は元禄期の絵師だ。ちなみに、又平が絵師らしくなく妙に武張っている点は、まぁ絵師の流派として不自然に感じるむきもあろうが、土佐家に限って、実は余り違和感がない。光信の孫・光元は織田信長の部将として千石取り、まだ木下藤吉郎だった豊臣秀吉の指揮下、但馬銀山奪取作戦に従軍し戦死した。筆者は絵の巧拙こそ判らぬが、本人の生き甲斐は、芸術でなく戦場にあったのだろう。近年、専門家も再評価しているようだ。また実在の浮世又平は一応、戦国大名の遺児だとされている。「画乗要略」は、次の如く記す。
◆
岩佐又平
岩佐又平名勝重摂津伊丹城主荒木摂津守村重之遺?育越前岩佐氏因冒其姓寛永中遊平安師土佐光則後以画仕越前侯世称為浮世又平者即是也
卓堂先生曰余按以勝重為学光則則勝重寛永正保年間人而距今僅百数十年然其遺蹟幾希又無抜群傑出之名巨勢金岡距今殆千年坂本来迎寺現存其遺蹟中古藤原信実宅間澄画亦往往見之其技振当代而名後世者大抵如此而勝重之名寥寥無聞或称為浮世又平者伝会之説耳
梅泉曰世称浮世又平者本無其人也然世多錯認土佐氏古画無落款者以為又平作珍重之是出於戯場一時之作元無実事世従而称之豈足拠乎(「画乗要略」巻一)
◆
荒木村重は、武将としては左程でもない印象だが、茶道の名人ではあったらしい。織田信長を裏切った挙げ句に毛利家の救援も得られず、摂津から尾道まで遁走した。此のとき妻子は信長に捕まり虐殺された。妻子を捨てて逃げたのだ。又平は、偶々生き残った。一応、現在では、浮世絵の元祖として評価され、実在の人物ってことになっている。
しかし「画乗要略」は、又平の実在さえ疑っている。有名画家として世に評価されながらも実際には佳作が伝来していない点を理由としている。有名画家なら傑作が伝わっている筈だと断ずるのだ。巨勢金岡を例に挙げ、真の名人なら千年経っても作品が残されていると云う。結論として、落款のない土佐派の古画を、後世の者が勝手に「又平作」と言ってるだけのことだと決め付けている。この落款重視の市井は、近代アカデミズムに引き継がれたのか、一時期、又平は実在を疑われていた。
ただ「画乗要略」の説は実証的ではないが、一見、説得力に富む論理ではある。純粋に個人的な好みからいえば、やや賺しており素直じゃないなって印象もあるが、まぁ、これが江戸期人士の〈常識〉であったかもしれないとも思う。但し、此のバイアスは、心に留めておこう。閑話休題。
危うく何を云おうとしたか、忘れる所であった。「傾城反魂香」の話題であある。本作で、朝廷絵所預・土佐将監光信を失脚させる「小栗」なる人物は、恐らく小栗宗堪だろう。彼は御用絵師は御用絵師であっても、室町幕府の御用絵師だ。一つの職をめぐり、本来なら、光信と競合関係にあるわけではない。贅言に属するが、宗堪は絵師「小栗宗丹」として、他の戯曲にも登場している。場合によっては、「小栗判官」との役名だが、まぁ官名だから別に良いのだが、熊野信仰に纏わる小栗判官(毒されたが骸骨になって愛人に引かれて温泉に入り復活)を想起させる。「傾城反魂香」でも、熊野三山(山三ではない)信仰が背景にある。また関係ないが、(骸骨からの復活を果たした)小栗判官の恋人は濃萩(小萩)だが、丶大の母と名を同じくする。まぁ、それは、さて措き、「傾城反魂香」に登場し、狩野元信を誹謗する絵師「長谷部雲谷」は明らかに、長谷川等伯をモデルにしている。
狩野は狩野でも京狩野の永納が上梓した(原型自体は父・山雪の著とされる)「本朝画史」がある。実は前回から登場しているのだが、若干の説明を此処で加えよう。狩野永納は寛永十一(一六三四)から元禄十(一六九七)年に生きた。幕府御用絵師として江戸に下った江戸狩野と一線を画した京狩野は、尾形光琳や幽霊で有名な円山応挙に影響を与えている。永納の父・山雪は天正十八(一五九〇)に肥前で生まれ、狩野山楽に弟子入りし、娘の竹を嫁にしている。「本朝画史」は最初、元禄四年三月に「本朝画伝」として上梓されたけれども、現行版の完成は延宝四年(一六七六)頃と考えられている。このように狩野一派ではあるが、主流となっていった江戸狩野とは一線を画した京狩野の書という相対的位置を勘案して読むべきではあろう。
◆
長谷川等伯 初名久六。能州七尾人而世染色家也。至久六好画、遂棄其家業入京、寓于太秦広隆寺。因狩野氏画法而後立己意、以立一家。自称雪舟五代(廟社之掛画皆自書如此)。既而至法眼位。然雪舟僧也。不可有子孫。彼之所言称画法之世系乎。不知其実也。等伯曾嫉狩野家、為画氏之長。茶人千利休(氏千名宗易)素与狩野氏不相好。而与等伯結交、合心相共譏狩野氏。……後略(本朝画史巻第四)
◆
とある。上記は飽くまで狩野側の言い分に過ぎないが、まぁこの「傾城反魂香」だって、狩野元信を顕彰する戯曲だから狩野寄りであるは当然だし、少なくとも狩野側が等伯を敵視していたことは明らかだ。また等伯は、何を思ったか、自分を雪舟から五代目の子孫だと主張していた。雪舟とは当然、あの雪舟等楊すなわち雲谷庵だが、禅僧であった雪舟に子孫がいる筈もない。長谷川→長谷部のズラしは、云わずもがな。「雲谷」は雲谷庵雪舟の子孫を名乗った等伯への、当て擦り的名付けだろう。そうなれば弟子の「長谷部等厳」は、等伯の分身として登場していると考えられるが、等伯に「雲谷」と名付けた関係で、実在の絵師・雲谷等顔(等厳と音が通じている)が引っ張り出されたか。等顔は雪舟派の絵師で雲谷派の祖だが、同じく雪舟の流れを汲む等伯とライバル関係にあったといえる。毛利家の御抱絵師として雲谷庵主を継いだ等顔が、等伯の弟子とされている点は、前者が一等低く見られていたということか(等伯より遅く生まれてもいる)。なお、等伯は秀吉の求めに応じて大作(祥雲禅寺智積院襖絵)を描いたりしている。この時に利休と組んで、狩野派を誹謗しまくったと、「本朝画史」は詰っている。ここで、狩野派の愚さえ論う岸派の白井華陽にかかれば如何か。
◆
等顔(等益附)
原等顔通称治兵衛肥前人初学狩野松栄得其筆法後従楊門得雪舟之筆法山水結構緊密脈絡井然又善人物纎勁存神味自為一格毛利輝元嘗索伝雪舟筆法者等顔応之因改為雲谷氏子孫世受其俸元亀中人其子等益下墜家声
梅泉曰等顔父子之後世称雲谷派者其筆粗悪有露骨之病乏渾厚之気去雪舟遠矣
等伯
長谷川等伯通称久六能登人蚤入京初学狩野氏当是時永徳山楽友松相継有声誉等伯知難出其右遂変其格自称雪舟第五世以抗狩野氏焉第五世者蓋謂其画脈之所伝也後叙法眼晩年腕力益遒健尤長大作本願寺多其遺蹟天正中人
卓堂先生曰当等伯時狩野氏画格盛行風靡天下因自仮雪舟五世之名以建別幟是徒欺時俗耳若使等伯読書通古直学宋元名家則与狩野雲谷二氏可鼎立其識不及此惜夫(「画乗要略」巻一)
◆
長谷川等伯に対して、等伯の〈政敵〉狩野よりも手厳しい評価を、岸派は下している。等伯は、なかなか優れた画家だったが、同時代の狩野派が傑出した絵師を相次ぎ輩出したために太刀打ち出来ず、画風を変えたとしている。〈逃げた〉というわけだ。更に追い討ちをかけるように、もっと学があり宋や元の名品から直接に学んでいたら、狩野・雲谷と並び、三つ目の流派を建てただろうに、と言っている。付け加えると、等伯が雪舟五世と名乗っていることを、血の繋がりではなく、画脈の話だと、至極真っ当に解釈して、大人っぽく受け流している。
さて江戸狩野とは一線を画した京狩野の「本朝画史」と、越前や京都に拠った岸派の「画乗要略」を並べると、前者が「雪舟に子孫がいるわけもなく、五世とは嘘っぱちだ」「千利休とグルになって狩野家を謗った」と、なかなか感情的だ。京狩野とはいえ、やはり「狩野」への誹謗には、敏感に反応してしまったということか。但し、等伯の画力に対しては、「画乗要略」ほど手厳しくはない。画力を認めた上で、「雪舟五世は嘘っぱち」などと誹謗したならば、狩野は等伯に脅威を感じていたことになる。其の「脅威」とは、権力者の庇護を奪われることに対したものだ。
前近代の芸術は、パトロンが育てるってのが古今東西の姿だけれども、逆に言えば芸術家は権力者の庇護を求め奪い合い蹴落とし合ってもいたことが分かる。室町幕府御用絵師から信長・秀吉と、次々と現れる権力者すべてに身を委ね絵師としての地位を維持し、江戸幕府御用絵師となって結局、通算約三百年に亘って日本画の頂点に立ち続けた狩野派は、技巧は勿論最高級であったろうけれども、結局は、【美を以て権力者に諂う者】との側面をさらけ出していたのではないか。「美を以て権力者に諂う者」との枠組みでは、「夜の玩具」と一般である。いや、名古屋山三郎は蒲生氏郷の死後は浪人となったし、不破伴左衛門に至っては豊臣秀次に殉死した。「諂う」ではなく、「美を以て仕えた」とも言い換えられる。が、狩野派は固有名を有つ者に敢えて身を委ねたのではなく、とにかく【権力者】になら誰にでも、美を以て仕えたのだ。此が単に人格的な関係を次々尻軽に羽振り良き者と結ぼうとするなら単なる媚売り媚吉、組織を私物化し最も汚す輩ってことになって、古今を問わず社会の癌に外ならないが、狩野家の場合には、若干、印象を異にする。彼らの場合は、ただ【美】に仕えたのかもしれない。「美」を此の世に絵の形で現ぜしめるのは勿論、彼ら自身の指だ。が、予め何者かが経済的に「美」を所有してしまい、其の「美」を忠実に此の世に現ぜしめることこそが、彼らの職能であるならば、彼らは自分たちが仕える「美」こそが複数の所有者を転々とすることによって、外見上、ころころと仕え先が変わるようにも見えてくる。「美」にのみ忠実であることが、狩野家の良心であったか。一方で、自らの伝統に固執し、自ら固定し、受け入れぬ者を排除し、嘘八百並べてでも元信を称揚したりしてまで、江戸幕府御用絵師の地位を独り占めし続けた側面を見れば、やはり頑迷さを隠し持った(幕府の)幇間にも見えてくる。
このように考えると、狩野元信が敢えて織田信長に挑戦的な態度をとったとの〈神話〉が捏造された背景は、権力者に媚を売る御用絵師流派が、其の現実を認めたがらず、自分たちにない反骨の気を遠い祖先に見出そうとしたって所ぐらいか。此処で思い浮かぶ一字がある。「畸/奇」だ。「畸/奇」は「変」とイコールではない。両者とも〈普通でない〉に違いはないが、「畸/奇」は普通でないもののうち、特に〈天〉に繋がる者を謂う。最高の芸術家を「造化の小児/自然/天」とするならば、人間(じんかん)の芸術家が天と繋がりつつ普通でないと気取り装う、即ち〈奇を衒う〉ことは、なかなかに解りやすい所作だ。故に、或る芸術家を称揚する場合、天狗まで引っ張り出し織田信長までダシに使って「奇を衒う」んだろう。よく・ある・安っぽい術だ。なるほど、元信を狩野派史書が称揚するは、贔屓の引き倒しに違いない。(お粗末様)