◆「画竜点睛と男根行列」
前回は、本朝の絵画に纏わる若干の逸話を紹介した。まぁ、馬が田圃を荒らし、不如帰が鳴き、せいぜい不動明王の背負った火炎が出火したぐらいであった。これが白髪三千丈を誇る中華帝国では、さすがにスケールが違う。張僧■(謠の旁に系)の話だ。「傾城反魂香」の下之巻に「凡絵の道には六つの法有。長康張僧陸探の三人を、異朝の三祖と学きて」とあるが、この「張僧」である。彼は現在でも常識的に使う言葉「画竜点睛(がりょうてんせい)」を生んだ故事の主人公である。画に描いた龍が実体化し、天へと昇っていったのだ。「俺の目の前で、もう一遍やってみろ」と言いたくなる挿話である。若い方には、或いは御存じない向きもあろうから、以下に引く。
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張僧■(謠の旁に系)(上品中)呉中人也。天監中為武陵王国侍郎、直秘閣、知画事。歴右将軍、呉興太守。武帝崇飾仏寺、多命僧■(謠の旁に系)画之。時諸王在外、武帝思之、遣僧■(謠の旁に系)乗伝写貌、対之如面也。江陵天皇寺、明帝置、内有栢堂、僧■(謠の旁に系)画盧舎那仏像、及仲尼十哲。帝怪問、釈門内、如何画孔聖。僧■(謠の旁に系)曰、後当頼此耳。及後周滅仏法、焚天下寺塔、独以此殿有宣尼像、乃不令毀拆。又金陵安楽寺四白龍、不點眼睛、毎云點睛即飛去。人以為妄誕、固請點之。遂點二龍、須臾雷電破壁、両龍乗雲騰去上天。二龍未點眼者見在。……後略(歴代名画記巻第七梁)
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張僧■(謠の旁に系)描く所の龍四匹のうち二匹が、点睛した途端、飛び去ってしまった。いや、一応は張さん「実体化しちゃうから」と断ったのだけれども、皆から「やーい、実体化するなんて、んなことあるわけないぢゃぁぁん。けっけっけっ、やってみろ、やってみろ」と言われ、「何だとぉぉぉっ、見てろっ」と点睛し、二匹を見事に実体化させちゃったわけだ。さすがに、もう二匹の点睛までしろとは言われなかったらしく、「二龍未點眼者見在」となっている。かなり壮大な、かつ低レベルの口喧嘩だったようだ。とはいえ、いくら白髪三千丈の大中華帝国でも、何時も何時も大盤振る舞いしているわけではない。ちんまり画馬実体化ぐらいで我慢する時だってあるようだ。
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楊子華(中品上)世祖時、任直閤将軍員外散騎常侍。嘗画馬於壁、夜聴蹄囓長鳴、如索水草。図龍於素、舒巻輒雲気営(榮の木が糸)集。世祖重之、使居禁中。天下号為画聖、非有詔不得与外人画。……後略(歴代名画記巻第八北斉)
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全く巨勢金岡の話と瓜二つだけれども、此処は話を進めよう。同じ「歴代名画記」で「上品中」の張僧■(謠の旁に系)が龍、「中品上」の楊子華なら馬ってのは、技神に入る度合いによる差か、はたまた時代の差か。また、もののついでに前出「長康張僧陸探の三人を、異朝の三祖と」にある「長康」にも登場してもらおう。晋書である。
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顧ト之字長康、晉陵無錫人也。父ス之、尚書左丞。ト之博學有才氣、嘗為箏賦成、謂人曰、吾賦之比■(ノギヘンに尤のした山)康琴、不賞者必以後出相遺、深識者亦當以高奇見貴。桓温引為大司馬參軍、甚見親昵。温薨後、ト之拜温墓、賦詩云、山崩溟海竭、魚鳥將何依。或問之曰、卿憑重桓公乃爾、哭状其可見乎。答曰、聲如震雷破山、涙如傾河注海。ト之好諧謔、人多愛狎之。後為殷仲堪參軍、亦深被眷接。仲堪在荊州、ト之嘗因假還、仲堪特以布帆借之、至破塚、遭風大敗。ト之與仲堪牋曰、地名破塚、真破塚而出、行人安穩、布帆無恙。還至荊州、人問以會稽山川之状。ト之云、千巖競秀、萬壑爭流、草木蒙籠、若雲興霞蔚。桓玄時與ト之同在仲堪坐、共作了語。ト之先曰、火燒平原無遺燎。玄曰、白布纏根樹旒■(族の矢が兆)。仲堪曰、投魚深泉放飛鳥。復作危語。玄曰、矛頭淅米劍頭炊。仲堪曰、百歳老翁攀枯枝。有一參軍云、盲人騎瞎馬臨深池。仲堪眇目。驚曰、此太逼人、因罷。ト之毎食甘蔗、恒自尾至本。人或怪之。云、漸入佳境。尤善丹青、圖寫特妙、謝安深重之、以為有蒼生以來未之有也。ト之毎畫人成、或數年不點目精。人問其故、答曰、四體妍蚩、本無闕少於妙處、傳神寫照、正在阿堵中。嘗ス一鄰女、挑之弗從、乃圖其形於壁、以棘針釘其心、女遂患心痛。ト之因致其情、女從之、遂密去針而愈。ト之毎重■(ノギヘンに尤のした山)康四言詩、因為之圖、恒云、手揮五絃易、目送歸鴻難。毎寫起人形、妙絶於時、嘗圖裴楷象、頬上加三毛、觀者覺神明殊勝。又為謝鯤象。在石巖裏。云、此子宜置丘壑中。欲圖殷仲堪、仲堪有目病、固辭。ト之曰、明府正為眼耳、若明點瞳子、飛白拂上、使如輕雲之蔽月、豈不美乎。仲堪乃從之。ト之嘗以一廚畫糊題其前、寄桓玄、皆其深所珍惜者。玄乃發其廚後、竊取畫、而緘閉如舊以還之、紿云未開。ト之見封題如初、但失其畫、直云妙畫通靈、變化而去、亦猶人之登仙、了無怪色。ト之矜伐過實、少年因相稱譽以為戯弄。又為吟詠、自謂得先賢風制。或請其作洛生詠、答曰、何至作老婢聲。義熙初、為散騎常侍、與謝瞻連省、夜於月下長詠、瞻毎遙贊之、ト之彌自力忘倦。瞻將眠、令人代己、ト之不覺有異、遂申旦而止。尤信小術、以為求之必得。桓玄嘗以一柳葉紿之曰、此蝉所翳葉也、取以自蔽、人不見己。ト之喜、引葉自蔽、玄就溺焉、ト之信其不見己也、甚以珍之。初ト之在桓温府、常云、ト之體中癡黠各半、合而論之、正得平耳。故俗傳ト之有三絶、才絶・畫絶・癡絶。年六十二、卒於官、所
著文集及■下略(新校本晉書列傳卷九十二列傳第六十二文苑顧ト之)
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長康こと顧ト之は、ちょっと変わった人物だったらしく、人の肖像画を描いても、暫く点睛しないことがあった。不審に思って尋ねると、瞳なんざ描き込まなくとも美しい肖像として完成しているから良い、と答えたりした。人を食った答えだが、この部分は、不思議な挿話に続いていく。即ち、隣に住む女性の肖像を描き、胸の部分に針を突き立てた。女性は心臓が痛む病に罹った。「ト之因致其情、女從之、遂密去針而愈」(顧ト之は女性にセックスさせろと詰め寄る、女性は従った。思いを遂げた顧ト之は針を抜いて呪いを解いた)。この場合は画が実体化して、其れを顧ト之がコマしたわけではない。しかし、顧ト之ほどの名人が写し取った形は、紙上の虚影であろうとも、【本人そのもの】と、かなり霊的に密接な繋がりを有すると云いたいのだろう。……ならば直前の惚けた台詞「瞳なんて描き込まなくても良いのだ」は、額面通りには受け取れなくなる。下手に描くと(というより巧すぎて)何か怪しいことが起こってしまうことを自覚していたのか。更に続く話で顧ト之は、封をしていた箱から自分の描いた絵が消えていたことから、余りにも自分が巧すぎて消えたのだと早合点している。実は友人がコッソリ抜き取っただけなのだが、顧ト之にしてみれば、自分の絵が不思議な力を持っている、少なくとも技神に入った画家の絵は、不思議な力を持つと、考えていたことが分かる。
さて、これまで、妙工の画が実体化する説話および浄瑠璃を幾つか紹介した。そろそろ八犬伝に話を戻そう。まず、八犬伝の背景設定だが、室町幕府八代将軍で事件当時には隠居となっていた足利義政のキャラクターが重要である。政治的には蒙昧であったが、骨董好きで美術好きってことになっていた。これまで何度も引いてきた本朝画史にも、
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慈照院殿 姓源、諱義政。世所謂東山殿是也。曾譲政務於義尚公、閑居東山東求堂。寄興於詩歌、運筆於画図。今所存往往有之。其中写藤原定家之像、自加賛詞于其上者、特抜其尤。又玩古画古器。当其時也、下有真能真相之属、周文宗丹之類。(本朝画史巻第三)
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とあり、まぁさすがに応仁の大乱の遠因をつくった政治的な無能ぶりは紹介されてはいないものの、骨董好きであるとは書いている。付け加えれば、政治的に蒙昧なくせに、芸術に関してはかなりの目利きだったらしく、小栗宗堪なんかのパトロンであった。彼のせいで……御蔭で、室町後期の芸術発達が促されたと見るムキもあるようだ。もののついでだ、八犬伝に「尸解」なる重要な概念を導入した一休宗純を画家として見たら如何か、本朝画史に書いているから、出血大サービスで引用しよう。
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一休和尚 諱宗純。嗣於大徳寺宗曇華叟。或謂後小松帝之子也。其徳行措不論。毎善書画。其画狂逸。山水人物花鳥皆草艸而成。粗有清趣、而気韻幽閑。足為茶房清玩。於画加賛詞者多。蓋可謂道徳之余芸耳。(本朝画史巻第三)
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これでは、褒めているだんか如何か、よく判らない。清らかな趣があり、幽閑の気韻あり、茶室には持って来いだと言うのだが、「道徳(/高僧)の余芸」と結論付けている。結局、技術的には稚拙だが、雰囲気が良いって評価しているらしい。しかし一休さんは近世の説話では、生臭いものは食ってはならぬ筈なのに、蛸が大好物だったりして、けっこう好き放題な破戒僧だ。少年や女性に対して性的内容の濃艶な手紙を送ってもいる。両刀遣いだったらしいけれども、この好き放題は、天皇の落胤って側面の故か、それとも【突き抜けた】人物特有の奇矯さ故か。
サラリーマン御用絵師の江戸狩野家は別として、芸術は「突き抜けた」方が面白い場合もある。型を破る前衛芸術は、別に過激でなければならぬわけでもない。例えば国宝指定の「夕顔棚納涼図屏風」なんかは狩野派絵師の作品だが、将軍・大名が喜びそうな、壮大なる松でも雄大な花畑でも精悍な鷹でも何でもなく、略装の親子三人が、夕顔棚の下で涼んでいるだけって風俗画だ。大きくとった空白の中にポツネンと描かれている三人は、この上なく穏やかな表情で、和みの極致を表現している。金箔をベタベタ使った様式美でもなく、俗世と隔離した雅な、若しくは侘び寂の絵ではない。特に、親子三人を取り巻く大きな空白には、色々考えさせられる。街中だか山中だか分からないが、自然状態にあっては、とにかく周囲は雑然とした街か植物かが取り囲んでいよう。それが一切ない。周囲を何が取り囲んでいようと、この親子三人にとっては、水入らずに互いの心が繋がっている、其の状態のみが、心象だということだろうか。芸術なんぞという、お上品でハイソで気取ったものには反吐が出てしまう性質の筆者ではあるが、この絵は好きだ。若しかしたら、これは芸術ではないのかもしれない。なるほど、凝っと見ていると、文学を感じる。
此の素敵な風俗画を描いた絵師の名は、久隅守景という。江戸狩野派に学び、探幽門下四天王の一人と謳われ、江戸前期に活躍した。が、生没年すら不明だ。実は家庭の事情、同じく狩野家に出入りしていた息子が刃傷沙汰を起こしたとか何とかで、狩野門下から出奔を余儀なくされたらしい。加賀前田侯に招かれ暫く金沢にもいたが、結局、雇われることなく、放浪を続けた。前田侯は、「あんな奴だからサラリーマン絵師は務まるまい」みたいなことを言ったと伝えられている。では、「どんな奴」だったのか。
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守景酔興師画を■(女に蝶のツクリ)黷する事
久隅守景、号無下斎、称半兵衛。探幽斎に業を受て名手凡を出たること世人の知る処なり。常に豪放にして酒を嗜ミ、時世の侠客の一党にて放逸又殊に甚し。ある時、探幽法印、諸侯より三幅対を命ぜられしに、常に丹青いとまなくして日限に迫れり。命のもだしがたきに至りて漸にして画成る。中ハ人物、左右ハ山水、何れも秀潤にして、ことに奇絶なり。未だ落款に及バずしてありしを、守景一日鯨飲の興に乗じ来りて、彼三幅を見て大に感歎也。まず手を拍ち奇絶々々とよろこぶ事限なし。いつか人のあらざるを幸とし揮筆して其山水の山際より男根を人頭となし其行列を酔筆して、その儘天向に倒れ臥し鼾雷の如く前後もしらず熟睡をり。折節かの侯より催促の使来りし(か)バ、日限の延しことゆへ法印あハただしく落款せんと思ひしに守景がかくのあり様故、大いにあきれ嘆息してやまず。よしなく此事を侯に申上られしかバ、侯にも守景が人となりをほぼ知りたまひし故、いかにも其男根の行列を見度よし命ぜしかバ、法印やむことを得ず即時に持参せしに、其酔筆の妙、灑々落々として超凡なれバ、侯にも大ひに感じ玉ひ、且悦せ玉ひて、なるほど名誉の所為、奇なるかなと仰られ、其儘御収蔵となり、今に宝物となれりとぞ。(安西於莵『近世名家書画談』二編二/天保十五年甲辰六月)
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えぇっと、憚りながら要約すれば、久隅守景は探幽に学んだ名人で、世にも知られた絵師だった。豪放磊落な性格で酒を好み、侠客と交わっていた。ヤクザと友達だったのである。ところで探幽は或る大名から絵の依頼を受けていたが、忙しさに紛れて筆が進んでいなかった。催促に耐え兼ねて漸く筆を執り、あとは落款を押すだけとなった。左右に山水、中央に人物を配した絵であった。酔っ払った守景が、絵を置いた部屋に入ってきて、「これは素晴らしい絵」だと感じ、酔興に任せて加筆した。描かれた山際から、行列が歩いて来る情景を書き足したのだが、行列しているのは人ならぬ、男根であった。男根行列である。描き終えた守景は、酔い潰れ、仰向けになって高鼾。其処に絵の催促がくる。探幽は、さて落款を押せば完成と絵の部屋に行って見ると、男根が行列していた。慌てて催促の使者に事情を話す。使者は主人の大名に報告する。と、其の殿様「あぁあの守景なら、やりかねんな」と思い、「その男根の行列が見たい」と言い出した。探幽が仕方なく絵を持参して披露すれば、殿様、男根行列が素晴らしく芸術的に描かれていたため、すっかり感心、其の儘、男根行列(付きの)画を引き取った。また、『近世畸人伝』巻之四には、
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守景は久隅氏、通名半兵衛。探幽法印の弟子にて画を能す。家貧なれども其志高く、容易人の需に応ずることなし。加賀侯、守景を召て、金沢に留給ふこと三年に及びしかども、扶持給るけしきもなかりしかば、かくては故郷にあるも同じ、帰りなんとて、侯の近侍せる士に別を告しかば、理也とて其よしを申けるに、侯笑給ひて、吾よくこれをしれり、然れども守景は胆太くして、人の需に従ふものにあらず。其画もとより世に稀なるもの也。されば此男に禄を与へば、画を描くことをばせじとおもひて、かく貧しからしむ。今は三年に及べば、画も国中に多く残りなん。さらば扶持すべしとて、ともしからず賜しとぞ。
按、守景が為リ人トもとより奇也。侯の人を知りたまへること明にして、又謀たまへる所尤奇也。楽天が鷹を養ふ篇に、飽しむれば放れ、飢しむれば馴ずといひて、人事をさとしけるもおもひよせられぬ。
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とある。将軍に次ぐ名目所領石高を誇った加賀前田侯に招待され金沢に滞在すること三年。しかし前田侯は守景を抱える気配を見せない。守景は失望して、加賀を発とうとする。家臣から報告を受けた前田侯は、「あいつは素直に人の求めに応じて絵を描くような玉ぢゃない。扶持を与えれば働かなくなる。だから貧乏な状態で放置し、人の求めに応じて描くよう仕向けたのだ。三年経って領内に作品を多く残したことだろうから、褒美をやることにしよう」。此の人物評からは、守景にリベルタン的性格があったと思われる。しかし一方で、「志高」いゆえに俗世と巧く渡り合えなかったようにも思える。素面ぢゃ生きていけなかった類の芸術家だったんだろう。蛇足ならが付け加えると、「畸人」とは【変人】の謂いではなく、天に庶いことを指す。最高の芸術家は【造化の小児(イコール自然)】であろうけれども、其れに近づけば近づくほど、人間としては、社会性を失うのかもしれない。芸術家なら、こんなでも生きていけたらしい。暢気な時代であったのだろう。ただ、此処に登場する加賀前田侯、恐らく金沢を文化の町に変えた五代藩主・綱紀辺りだろうけれども、なかなか意地悪もしくは狡猾な印象だ。此の件に関しては、またの機会に。(お粗末さま)