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◆「政元が管領である意味」

 最大の権勢を誇る武門の主であるにも拘わらず、拉致監禁され辱められた政元が、およそ百日を経て解放された。しかし、此の事件の解決に対する感想として、例えば大乗院寺社雑事記の一文がある。即ち「天下大慶不可過之云々。此事前表也。重而曲事可出来、内者共自雅意事興也。可憑様無之。彼頸六人分京着云々」である。意訳すれば【政元が無事で、此ほど目出度いことはない、しかし此は前兆に過ぎず重ねて大事件が起こるに違いない、何故なら今回の事件は細川家内衆が我が儘理不尽に振る舞ったことが原因だからだ、此の事件は、内衆の我が儘理不尽を抑えてくれる頼り甲斐のある者はいないという、不幸なる状況を我々に確認させた……事件を起こした一宮宮内大輔など六つの首級が京に到着した】となろうか。
 権威主義者たちは、中堅部の自由濫望によって秩序が乱れたとき、より上位権威が強権を発動し、以て秩序を回復することを望むものだ。自分では何もしない。前に挙げた大乗院寺社雑事記は、細川家内衆という中堅ながら実力を持った者達の理不尽を憎んでいる。如何やら、政元が掠奪され辱められたことにより、より上位の権威が細川家内衆を否定してくれるよう期待していたようだ。本来は権利を侵された被害者である一宮家が、窮鼠となって、理不尽な猫・内藤に噛み付いた恰好の事件であった。当時の人々にとっては、政元の貞操なぞよりは、理不尽な細川家内衆がいなくなることの方が重要であっただろう。しかし、理不尽は否定されることなく、凱歌を上げた。細川家内衆の理不尽は持続することになった。理不尽には理不尽で以て反発するようになる。倫理は崩壊し秩序は乱れ、戦国の世に雪崩れ込んでいく。
 野蛮な文明時代……文明年間の世相を、政元掠奪事件を中心に見てきたが、かなり楽しい話題なので、続けて少しく語ろう。掠奪事件が収まって四月、面白いゴタゴタが起こった。一宮宮内大輔を討ち取ったのは当初、庄伊豆守とされていた。将軍が感状を与えた。が、一緒に討ち入った安富新右衛門尉には、何も与えられなかった。実は安富が一宮を倒したのだが、庄が首を取って自分が討ち取ったと主張したのだ。どうも二人で力を合わせて、即ち一宮一人を二人懸かりで殺したようなのだが、一方だけに感状を与えたが故に起こった事件だろう。結局、庄から感状を取り上げて落ち着いた。戦場で力を合わした相手同士でも裏切り出し抜きが行われている。
 ところで同じ頃、関東では足利成氏と上杉家が既に和睦していたが、京都の将軍家は成氏を、まだ仮想敵として捉えていた。攻められては敵わないと、成氏は京都の実力者に手紙を出して、将軍との和睦斡旋を依頼した。

     ◆
奉対京都不挿野心、縦多年雖令言上、不達高聞候之処、上杉顕定同名修理大夫御和融事可申成趣頻申出候之間、自何方{毛}頓入眼本意候間、任彼儀候処、雖及一両年不申達候。虚言之至無是非次第候。仍長尾右衛門尉長棟名代お致、補佐無為之篇可申上分候。然者景春具可捧注進候。早速無相違被成下御返事候之様申沙汰誠可為大慶候。恐々謹言
     二月廿五日   成氏
      細川九郎殿(大日本史料第八編十一)
     ◆

 文明十二年二月廿五日現在、細川九郎政元は拉致られちゃってるから、「すぐ返事をくれ」と云われても困る。三月二十日付で治部少輔(上杉)政憲と沙弥信照が出した同様内容の手紙は「細川殿」を宛先にしている。此方は、細川一族の成人男性に宛てて出されたものとも考えられるが、成氏は思いっきり政元に宛てている。既に細川家は、政元を見殺しにすると決定し、一宮家攻撃を始めている時分だ。
 妄想を逞しうすれば、二月二十五日現在、足利成氏は細川政元が掠奪されたことを知らなかったが、三月二十日時点で少なくとも上杉政憲らは知っていた、政憲らは知っていたからこそ「細川殿」を宛名にした。個人名ではなく、権門集団としての細川家を交渉相手とした。此処では既に、政元は【亡き者】とされている。
 遣り取りは暫く続き、最終的に文明十四年、成氏と将軍は和睦する。途中から政元も関わっただろうが、最大権門細川家の当主として政元を頼った成氏はじめ関東方こそ、いい面の皮だ。京都側の堀越公方・足利政知あたりは知っていたかもしれないが、関東勢には政元掠奪事件は知らされていなかったのだろう。中央と地方の情報流通は、現在より遙かに小さかったってことか。
 また、事件後、政元は再び丹波に行ったりしている。文明十二年三月二十三日に救出され、二十六日には上洛、二十九日初出仕した。しかし三十日、政元は丹波にいた。このため近衛政家は「就上洛」使者を送っている。四月九日、返事の使者・一宮備後が来て、さいきん腫れ物が出来たから行けないと断っている。腫れ物を馬鹿にしてはイケナイ。ちょうど此の頃、我が儘大御所・足利義政さえ手が出せなかった美濃の大富豪・斎藤妙椿(ただし男性)も腫れ物が元で死んでいる。とにかく迷惑を掛けたんだから政元、初出仕は嫌々でもしたんだろうが、済んだら即座に丹波へ行ったようだ。行ったら、本当か如何か知らないが、腫れ物を理由に閉じ籠もってしまった。掘れた腫れたは、恋愛の謂いだ(惚れた腫れたでは?)。偉そうにしてみたところで政元、まだ数え年十四の少年である。掠奪事件で人知れず傷付いたのかもしれない。そう、人知れぬ場所が傷付き、痔か何かが化膿して腫れちゃったんじゃないだろうな。オジサンは、心配である。
 ところで此の後、政元、都合が悪くなると丹波に逃げ込む癖がついてしまっている。例えば将軍と喧嘩して、隠居すると云っては丹波へ引っ込み、直後に京都へ戻ったりしている。泣きながら駆け込み、暫くしたらケロッとして帰ってくる。そんな感じなんである。
 京都で跋扈していたのは、掠奪事件で顕らかになった如く、政元個人を【取り替えの効く部品】として見ている内衆たちだった。そんな京都が居心地の良かろう筈もない。逆に言えば、丹波には彼の心を癒す何かがあったのか。少なくとも其れは、事件の数年後にまで至らないと丹波守護代から更迭されなかった内藤元貞ではなかっただろう。自分を見殺しにしようとした張本人の胸に抱かれようとは、極端なまでにマゾヒスティックだ……が、いや、政元ならば或いは……いや、やはり政元にとっての居心地の良い場所は、別人の胸でなければならぬだろう。
 相手は恋人か愛人か、女か男か、稚児か念者か。筆者には、まだ分かっていないけれども、分かるつもりも実はない。
 えぇっと、後に男色家として知られる政元に、此の事件が与えた影響は解らない。が、十四歳のときに起こった掠奪監禁事件が、政元の人間性を歪めてしまった可能性はあるだろう。自分が【主犯】とはいえない一宮家所領押領事件で、復讐心に燃えた被害者に暴力的に奪われ百日以上も監禁され何を致されたかは不明だが、挙げ句に細川家が他の当主を立てることを決意し、自分が捕らわれている館を総攻撃するのを、政元は見せつけられた。とことん弄ばれた政元が、弄ぶ側に回ろうと考えたとて、まぁさほどの悲しみでない筈なのに被害者面して歪んだ人間性のイーワケにするのは愚劣極まりないとはいえ、これほどの扱いを受けたら、多少ヒネくれても仕方がなかろう。姦りたい盛りの十八歳のとき、自分がされたように親兵衛を監禁したとしても、肉体を所望し弄びたがったとしても、許す許さないは別として、まぁあり得ることだ。
 ところで、親兵衛が京に抑留されたとき、馬琴は畠山政長と細川政元が二人とも管領だと書いている。しかも文明五年段階で「政長(畠山)政元(細川)管領たり」(第百三十五回)とある。文明五年といえば、政元が細川家の家督を継いだ年であり、まだ八歳だ。故に、「管領」との表現は、【管領たる資格を持つ権門細川家の当主】との意味であるかもしれない。しかし、親兵衛が画虎を退治して一件落着した後、世人に批判され「政元是を憂怕れて遂に久しく出仕せず。亦病著に仮托て管領職を辞し稟ししかば其顕職を罷られて政長一人管領たり。是よりして後三稔を歴て文明十八年丙午の年に至りて政元復管領たり」(第百四十九回)とあるため、普通に考えれば、八犬伝に於ける「管領」は、上の様に拡大解釈する必要はなく、狭義に考えて良さそうだ。即ち、「管領」との形容は、何等かの幕命に拠る、公職としての管領に在任している状態を指す。
 上に掲げた如く、政元は、公職としての管領に正式に任命されなくても、細川家当主として対外的には最大の権力者として振る舞えた(家内に於いて実際には内衆の影響を受けざるを得なかったにせよ)。室町幕府という公的システムを利用しつつも、其れに囚われない勝手気儘な権力行使が可能だった。此はシステムへの陵辱に外ならない。システムに利用価値のみ認め、基本的権威を認めない。此は正しく、幕府システムへの掠奪/レイプである。
 対して八犬伝では、権を恣にする細川家の当主になった途端に八歳の政元が、管領に就任したことにしている。そして画虎事件によって一旦は失脚したことにしている。失脚した期間として三年間だけ管領職から遠ざかっていたように書いている。実際には、八犬伝が二度目の管領就任としている文明十八年こそ、政元にとって初めての管領就任であった。八犬伝は稗史、歴史小説だから必ずしも史実に忠実である必要はない。が、八犬伝の場合、差し支えのない所では、出来るだけ史実をなぞっている。裏返せば、史実から離れるときは、其の必要があって積極的にフィクションに置き換えていることになる。即ち、注目せねばならぬのは、政元が文明五年に八歳で管領に就任し、親兵衛の肉体を自らの性欲の捌け口にした姦りたい盛りの十八歳、文明十五年に画虎事件で失脚するまで、管領であり続けたとの、虚構の意味である。
 現実には夢物語だが、極めて純粋な類の名分論(即ちあり得ない話)では、公職は其の機能・実力と合致していなければならぬ。此処でいう「実力」とは其の職に期待されるべきモラル面をも含んでいる。此の世界に於いて、房総の支配者である八犬伝の里見義成は、上総介兼安房守でなければならぬ。何故に上総守でないかといえば、上総は格の高い特別な国であるため親王が「守」になるからだ。実質的には次官である「介」が実務を取り仕切らねばならない。里見義成が「介」として実際に支配することが、【名分ならぬ名分】を実践している証となる。そして里見家にシンパシィを寄せる伊勢の北畠氏は、まさしく伊勢守である。此の八犬伝の代表的善玉大名が、正しく名分を行う官職に就いていることは興味深い。公職と機能・実力が合致している珍しい例である。
 次の類型として、公職に就き機能も実践しているが、実力が伴わない者として、管領・畠山政長がいる。管領ではあり、一応の機能を果たしているが、四十二歳にして十八歳の政元に引きずり回されている。また更に、公職に就きながら機能を果たし得てさえいない者には、関東公方がいる。機能を果たしていないどころか、関東管領と立場が逆転してしまっている。則ち、関東管領も公職と機能が合致していない。此処までは、曲がりなりにも、「公職」の集合体である政治的システムは、如何にか存続している。有名無実となっているだけのことだ。
 そして公職に就かず、本来なら埒外にいる者が其のシステムを牛耳ってしまう状態は、無秩序を意味する。其れは例えば院政であり大御所政治である。とはいえ、院政は天皇経験者、大御所政治は将軍経験者による【上からの】システムの乗っ取りであり、無秩序ではあるが、システムと臍の緒ぐらいでは繋がっている。
 これが史実の細川政元なら、二十一歳で初めて管領となるまで、管領にすらなったことがない侭に、有力武士の集合体として幕政を左右する細川家の当主であった。実際に彼個人が権力の源泉ではないにせよ、対外的には細川家の最も代表的な【部品】であった。細川家の「部品」としてではあるが、公職のレベルに囚われないまま、幕政に其れなりの位置を占めていた。それが八犬伝では、一応は管領という公的な位置を与えられている。言い換えれば、室町幕府のシステムに取り込まれてしまっているのだ。せっかく史実の政元が名分論からFreeとなっていたのに、馬琴が引き戻してしまってる。
 ……と、此処で話を終えるようなら、八犬伝が無意味なほどに名分論に拘泥していると断ずるが如き浅薄皮相の理解に終わるようならば、二葉亭四迷……ではなかった、くたばってしめぇ、死んだ方がマシだ。
 そうではなく、単純な名分論に終わらない所が、流石に江戸の大変態・馬琴である。八犬伝第百三十五回、里見家の使者として京に入ろうとする親兵衛は、亀の甲より年の功、多少は世知に長けた代四郎爺に京都の政治状況を探らせ、同じく管領でも畠山政長ではなく細川政元を優先した交渉が有利だと知って、まず政元の御機嫌を取りに行く。名分論と世知の混淆が、八犬士を代表する親兵衛の行動原理であると知れる。
 抑も、此のとき親兵衛が朝廷に願った案件は、犬士たちに姓を与えることを勅許してほしいとのものだった。犬士は里見家の家来、すなわち天皇から見れば【陪臣】である。陪臣すなわち地下(ぢげ)人に天皇が姓と官職を与えるとは、陪臣を直参に昇格させることに外ならない。天皇の直参をしかも昇殿まで許しちゃうとは、実際には先例がないわけではないにせよ、理念に於いてはトンデモナイことだ。
 これまで既に論じてきたように、里見家の官職は、まずは鎌倉府(といぅか実質的には関東管領)を窓口に、次いで室町幕府を窓口にして得られた。此処までは、名分論の頂点に立つとはいえ、下部の組織に実務を委任していたんだから、天皇本人が直接には与り知らぬところで、里見家は官職を得て、形式的に天皇と直接に繋がった。一義的な責任は、室町幕府もしくは鎌倉府にある。しかし、親兵衛が京に乗り込み、室町幕府を窓口にはしているが、直接に天皇に姓の勅許を求めてしまえば、天皇に責任が被さってくる。此の時点で、犬士は陪臣でありながら、天皇に直接繋がってしまうのだ。本来的に言えば、武家補任は政権を天皇から委託されている室町幕府が窓口となって整理した後、朝廷が追認するものだ。天皇には認証権はあるけれども、武臣を選択する権利は実質的にはない。しかし、犬士は、超えてはならぬ一線を然り気なく超え、天皇と直接に繋がってしまう。此の一事は、幕府もしくは将軍の権利独占を否定してしまっている。
 しかも犬士が天皇と繋がった理由は、まぁ里見家の外孫であることも理由にされてはいるし、立派な武士である事も言及されている(第百三十五回)けれども、最も主要なものは、【里見家が朝廷に金を与え……献上したこと】だ。はっきり言うと、此は、名分論の対局にある【売位売官】である。このとき関白は「時に盛衰あり、事に用捨あり。八犬陪臣たりといふとも、他們が願ひ奉るにあらず、その主里見義成が請稟すを将軍奏聞せられたり。然れば勅許ありとても氏を陪臣に賜ふにあらず。廼義成に賜るを義成受奉りて八犬士に授るときは事に条理ありて超級僭上の傍議なかるべし」と、甚だ苦しいイーワケをしている。姓は犬士に下すのではなく、あくまで(天皇直参である)里見義成に与えるのであって、義成が犬士に与えようが知ったこっちゃない、なんてのは、通る筈もない屁理屈だ。せいぜい官憲の出版統制を切り抜けるぐらいにしか使えない論理である。
 また、関白のイーワケは、もう一つの重大な政治的問題をも引き起こす。即ち、配下の武家を天皇に願って天皇制秩序の中に組み込む、右京大夫とか武蔵守とかって天皇制内官職に位置づける権限を、其処等辺の武家にバラまいて良いものではない。また馬琴が室町幕府に江戸幕府を重ね合わせていたとするならば、武家でありながら、天皇制内秩序の中に、それぞれの武家を配置する権限、武家補任権は、原則としては幕府にしか、いや厳密に言えば、武家の棟梁たる将軍にしか与えられてはいない筈だ。しかし八犬伝に於ける関白の苦し紛れのイーワケは、幕府にのみ独占的に与えている武家統制の権限を、こっそり里見家にも認めてしまっている。此処では(表記上は室町)幕府と里見家は、源姓足利流と源姓新田流の別はあるけれども、ってぇか同じ源姓ながらも対立し得る二つの流れに対して共に武家統制の権限を、天皇の意思を関(あず)かり白(もう)すべき、関白が認めちゃっているのだ。関白が言った以上、其れは天皇の言葉である。此処に於いて、足利将軍家と里見家は、同格となる。支配被支配の関係ではなく、里見家は、足利将軍家から独立してしまうのだ。……ってことは以前にも書いた。では続いて、室町後期に対する馬琴の史観を覗いてみよう。(お粗末様)

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