●伊井暇幻読本「流転する地平」●

 八犬伝に於けるキーワードに、「如是畜生発菩提心」がある。「是(か)くの如く畜生、菩提心を発(おこ)す」だ。
 八犬伝第十一回、伏姫の数珠に此の八字が現れる。八房に連れられていく決意を固めた瞬間だ。義実は「是によりて又思ふに八行五常は人にあり、菩提心は一切衆生、人畜ともにあらざるなし。かゝれば姫が業因も、今畜生に導れて菩提の道へわけ入らば、後の世さこそやすからめ」と判じている。同時に怪しい老人が貞行に渡した手紙にも同じ文字が並んでいた。即ち、「如是畜生発菩提心」は、役行者が、当該の畜生が菩提心を発したと証明するものだと解る。第十三回、即ち末期直前の伏姫は数珠の文字が「如是畜生発菩提心」から「仁義礼智忠信孝悌」に変わっていることに気付く。「吾儕は犬の気を受て平ならぬ身となりにし故に遂に非命に終ること畜生道の苦艱に似たり。されども仏法の功力にて、八房さへに菩提に入れり。来世は仁義八行の人道に生るゝよしをこゝに示させ給ふもの歟」。第十九回では、瀕死の重傷を負い信乃に介錯してもらった与四郎の墓碑銘となっている。第二十一回では、与四郎の屍を根本に埋めた桜ならぬ梅の実に仁義礼智忠信孝悌の文字が一つずつ浮かんでいた。梅の木に書き付けた「如是畜生発菩提心」の文字は既に消えていた。第十三回と能く対応している。そして最後、大牝狸の正体を現して死んだ八百比丘尼妙椿の毛皮に、「如是畜生発菩提心」の烙印が押されていた。「狸児と倶に玉梓が余怨この折解脱して菩提心に至れる」。
 では、此のフレーズ、出典は何か。結論を言えば、正統な出典は無い。強いて云うなら、山間部などで偶に見る「如是畜生発菩提心」の石碑か。馬頭観音なんかのレリーフが付随してたりしてなかったりだが、とにかく農耕で使った牛馬を弔ったものである。近世にも犬猫をペットにしていたから、其の墓にも刻まれている場合があるようだ。信乃は与四郎の墓碑銘に此の文字列を記したが、正当な用例である。
 ところで人が何故に罪を犯してしまうかといえば、生きているからだ。生きることにより生ずる諸欲が罪を犯させる。故に死んだら罪を犯さなくなる……と云いたい所だが、八犬伝では玉梓が死して怨霊となり罪を犯している。犯してるんだが、まぁ一般には罪を犯さなくなる。罪を犯さない者を仏と謂うべきだが、だからこそ死ぬことを「成仏」と謂う。
 人間なら、例えば釈迦のように生きているうちに悟りを開く場合もあるが、畜生は欲動のみで生きているとされるから、生きているうちは菩提心も何もない。だいたい畜生として生まれること自体、前世の罪に依る。
 ……しかし如是き人間唯我独尊論は是か。人間のみが生前に菩提心を発すのか。捕鳥部万の犬は、万の霊を慰めるべく寄り添い殉じた。他者を、まるで己と同様に懐に抱く行為、是を菩提心の発露とせずに、何をか云う。第十一回、「菩提心は一切衆生、人畜ともにあらざるなし」と義実は云う。八犬伝の地平である。
 前に「如是畜生発菩提心」の出典は無いと云ったが、「にょぜちくしょうほつぼだいしん」の出典ならある。但し「汝是畜生発菩提心」であって、一字目が「如」でなく「汝」だ。動物の墓碑銘として「如是畜生発菩提心」は間違いであり「汝」が正解だと説く論者もいるが、筆者は採らない。では皆さん既に御存知の梵網経を軽戒第四十二から少し読んでみよう。底本は大正新修大蔵経である。
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若仏子。不得爲利養故於未受菩薩戒者前若外道悪人前説此千仏大戒。邪見人前亦不得説。除国王余一切不得説。是悪人輩不受仏戒。名爲畜生。生生不見三宝。如木石無心。名爲外道邪見人輩。木頭無異。而菩薩於是悪人前説七仏教戒者。犯軽垢罪
若し仏子、利養の為の故に、未だ菩薩戒を受けざる者の前、若し外道悪人の前に於いて、此の千仏(諸仏)大戒を説くを得ず。邪見の人の前も亦、説くを得ず。国王を除くの余、一切、説を得ず。是、悪人輩は仏戒を受けずして、名づけて畜生と為す。生き生くるも三宝を見ずして木石の如く心無し、名づけて外道邪見の人輩と為す。木の頭に異ならず。而して菩薩は、是の悪人の前に七仏の教戒を説けば、軽垢罪を犯す。
若仏子。信心出家受仏正戒。故起心毀犯聖戒者。不得受一切檀越供養。亦不得国王地上行。不得飮国王水。五千大鬼常遮其前。鬼言大賊。若入房舍城邑宅中。鬼復常掃其脚跡。一切世人罵言仏法中賊。一切衆生眼不欲見。犯戒之人畜生無異木頭無異。若毀正戒者。犯軽垢罪
若し仏子、信心出家して仏の正戒を受けて、故に心起こし聖戒を毀ち犯す者は、一切の檀越供養を受けず、亦、国王の地の上を行くことを得ず、国王の水を飲むを得ず、五千の大鬼が常に其の前を遮る。鬼は大賊を言う。若し房舎城邑宅中に入れば、鬼は復た常に其の脚跡を掃く。一切の世人の仏法を罵り言うは中賊。一切の衆生は眼にして見るを欲せず。戒を犯す人は畜生に異なる無く木頭に異なる無し。若し正戒を毀つ者は軽垢罪を犯す。
若仏子。常応一心受持読誦大乗経律。剥皮爲紙刺血爲墨。以髓爲水析骨爲筆書写仏戒。木皮穀紙絹素竹帛亦応悉書持。常以七宝無価香花一切雑宝。爲箱嚢盛経律卷。若不如法供養者。犯軽垢罪
若し仏子、常に一心に大乗経律を受持読誦するに、皮を剥ぎて紙と為し血を刺して墨と為し髄を以て水と為し骨を析きて筆と為し仏戒を書写す。木皮穀紙絹素竹帛も亦、応に悉く書くには持つべし。常に七宝と無価の香花、一切の雑宝を以て箱嚢と為し経律の巻を盛るも、若し法の供養に如かざれば、軽垢罪を犯す。
若仏子。常起大悲心。若入一切城邑舍宅。見一切衆生。応当唱言。汝等衆生尽応受三帰十戒。若見牛馬猪羊一切畜生。応心念口言。汝是畜生発菩提心。而菩薩入一切処山林川野。皆使一切衆生発菩提心。是菩薩若不教化衆生者。犯軽垢罪
若し仏子、常に大悲心を起こすも、若し一切の城邑舎宅に入りて一切の衆生を見れば応に当たりて、汝等衆生は応に三帰十戒を受くべし、と唱言すべし。若し牛馬猪羊の一切の畜生を見れば、応に心に念じて口に、汝是畜生発菩提心と言うべし。而して菩薩は一切の処の山林川野に入りて、皆、一切衆生に菩提心を発さしめよ。是、菩薩にして若し衆生を教化せずんば、軽垢罪を犯す。
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 「若見牛馬猪羊一切畜生。応心念口言。汝是畜生発菩提心」である。前段から見ると、まず人の住んでいる場所で生きとし生ける者(衆生)を見れば「お前ら、見習い僧レベルには仏教に帰依しろ!」と叫ぶ、そして牛馬やら猪やら羊やら総ての畜生を目にしたら「お前らは畜生だ! 菩提心を発せ」と口に出して云え、そして山野に出れば生きとし生ける者すべてに菩提心を起こさせろ。心の中で呟くなら、まだしも、牛馬に向かって「お前らは畜生だ! 菩提心を発せ」と喚く人とは友達になりたくないし、自分では恥ずかしくって絶対に出来ない。此の恥ずかしさを乗り越えなければ菩薩にはなれないのだが、ごめんなさい、ならなくて良いです。
 まず人家に行って出会う「生きとし生ける者(衆生)」だから、此の条は人間を対象にしているようにも思える。しかし最後の山野に行って「生きとし生ける者(衆生)」を感化せよとは、何を対象にしているか明確ではない。人家に住まず山野で暮らす人間か? 猟師や漁師など、殺生を生業とする者を指すとの説はあるが、ちょっと解りにくい。此の場合の衆生は、生きとし生ける者、狐とか熊とかを対象としていると考えるべきだろう。ならば人家と山野の中間に存在する「畜生」とは何者か。家畜ならば馬牛羊鶏犬豕の六畜が代表的で、本経にも「牛馬猪羊」とあり、猪と豕を置換可能と見れば、犬と鶏が足らないけれども、家畜とすれば、人家と山野の間に居り、人間と野獣の中間的な存在だと、言えなくもない。一見、家畜かな、と思わせる。しかし本経の軽戒第四十二戒に於いて「是悪人輩不受仏戒。名爲畜生」と畜生を定義している。仏の戒を受け入れない人間も「畜生」なんである。まさに人間と野獣の中間的存在が「畜生」であって、仏戒を受け入れない悪人と家畜の双方を含むと見ねばならぬ。悪人は家畜と同様なのだ。逆に言えば、仏戒を受け入れ菩提心を発せば、畜生ではなくなる。軽戒第四十三でも「犯戒之人畜生無異木頭無異」とあり、戒を犯せば畜生と同じだと追い打ちを懸けている。
 さて、本稿の関心は八犬伝に対してのみ在る。「如是畜生発菩提心」こそ問題だ。義実は人も畜生も、総ての生きとし生けるもの一切衆生は、菩提心を発し得ると云う。菩薩でない筆者には、動物に菩提心を発させる自信はないが、梵網経に拠れば出来る筈だとの信念に立つことが菩薩への第一歩らしい。そうでなくて梵網経が、畜生にまで菩提心を発させるよう呼びかけろと命ずる筈がない。そして梵網経は、野獣に対してまで菩提心を発させることが、菩薩ならば、出来ると説く。八犬伝で菩薩といえば、神変大菩薩すなわち役行者と観音菩薩たる伏姫が思い浮かぶ。「大」が付くだけ役行者を伏姫より一級上の菩薩としても、八房が菩提心を起こした原因は、伏姫が自らの身を捨てた事に依る。此の異種婚姻に踏み切る覚悟が畜生たる八房に菩提心を発さしめたのだから、伏姫は、菩薩でなければならない。
 また、動物の墓碑銘に「汝」ならぬ「如是畜生発菩提心」と書くことは、命令形と完了形の違いであって、梵網経の表記と違うんだが、精神に於いては同一もしくは一歩進んだものである以上、誤用ではなく【応用】であって、間違いと断ずるべきものでは決してない。人語を解しない動物に対して菩提心を発せと命ずることは、結局、動物に菩提心を発させることが目的というよりも、自他の差に於ける認識を、差別にまでは発展させずに、相手にも出来る筈だと信じて菩提心を発すよう勧めること自体に、重きを置いていると見るべきだろう。生きているうちならば、菩提心を発せと勧めることも有効だが、成仏した動物に対しては、菩提心を発せと命ずることは後手であって、「菩提心が間違いなく発ったね、良かったね」と完了形で寄り添うべきではないか。
 そうでなくとも同じ「にょぜ」であって、日本語の語彙として有名な「にょぜ」は「如是我聞(にょぜがもん)」って法華経の決まり文句だ。「如」にして意味が外れるならアレだが、梵網経の精神は守っているし、成仏した動物に対しては、より適切な表記となる。「如是畜生発菩提心」と表記してしまう条件は揃っていた。ならば、梵網経の表記とは違うことは弁えていなければならないが、「如是」表記も認める方が、一切衆生発菩提心の精神に庶かろう。梵網経もしくは大乗仏教の精神から生まれた「如是畜生発菩提心」は、動物に対して発話することによって実際に人々の心の裡にこそ菩提心を発さしめたであろう貴い文字列だ。出典なんて、実は如何でも良い。
 日本古代鎮護国家仏教が、貴人たちの我が儘し放題のため如何に都合よく利用されたか。国民の膏を搾り取り壮麗に飾った東大寺そして盧舎那仏、此が本当にゴータマさんの願いだったかは本人に聞いていないから判らない。ゴータマさんのことは判らないが、何故だか宇佐八幡神が、しゃしゃり出る。聖武・孝謙称徳帝期、八幡神官・大神氏は天皇に急接近した。「これからの時代は仏教だ!」とばかりに擦り寄る神官・巫女の無節操な笑顔が思い浮かぶようだ。託宣の神として権威を得た八幡神、もしくは神官は、道鏡に諂い皇位を差し出そうとまでする。
 四天王は、国史上最も早く尸解と関わる聖徳太子に憑依することで、歴史の晴れ舞台に登場するが、一方で息子の山背大兄王の悲劇、続く蘇我倉山田石川麻呂の讒死などから、金光明経にも載す捨身の思想が日本に伝わっていたと疑うことが可能だ。伏姫は、表面上は八房に自らを与えるが、与えるよう仕向けたは玉梓怨霊もしくは後に画虎となる玉面嬢であった。金光明経の捨身飼虎の説話と重なりつつ、親兵衛と画虎との関係では金光明経と見事に対称する。
 国史上の八幡神は、応神帝・神功皇后と絡みつつ、正体不明の比売神まで含むけれども、比売神を応神帝の配偶者とすれば、「契あれば卯の葉葺ける浜屋にも 龍の宮媛かよひてしかな」(第一回←応神帝と龍女の性交を描いた古歌)、龍女であることだけは確かだ。観音たる伏姫は、龍王を統括する立場にある、則ち特定局面に於いては龍女/弁才天として現れることも可能な存在であって故に、其れが本業ではないけれども、伏姫は(飽くまで片手間だが)八幡/応神帝の配偶神たる資格も有つ。有つが八幡神は応神帝夫婦と姑・神功皇后の三人が複合した神格であり、国史に於いて明らかなように、金光明経を持して護国する神だから、当然、三神を四天王が囲繞している。即ち、比売神/伏姫も、大団円の挿絵の如く、四天王に囲まれる(時もある)。八犬士の玉が四天王へと変化する理由は、正に此処にこそ在る。
 また、金光明経に於いて龍は雷や暴風雨を操る者であり、観音は龍を統べる。伏姫が観音であるならば、犬士たちが荘助を処刑場から救ったときに暴風雨を起こして助けたのも、雷で舵九郎を惨殺して親兵衛を救ったことも、実は乱暴な側面をもつ伏姫の仕業として、納得がいく。更に云えば、日本神話で暴風雨とくれば素盞嗚尊だけども、龍と習合されることから観音のサブレベル眷属もしくは観音の下位投影・弁才天に関係がある信乃が、素盞嗚尊を象徴する天叢雲剣(あまむらくものつるぎ)っぽい村雨(むらさめ)を、水芸の御姉さんよろしくブンブン振り回すことも、当たり前に思えてくる。陰火の漢・道節が、柄にもなく村雨なんか振り回すから、他の犬士まで巻き込み危機に陥る。
 やはり村雨には、信乃が似合う。道節には、天皇の衛士に取り囲まれた時でさえ「我こそ天皇の忠臣」と叫ぶ捕鳥部万の役どころが、お似合いだ。犬山道節が白井城郊外で見せた暴れん坊振りは、日本書紀に於ける捕鳥部万の記述が下敷きになっていると思える。しかし捕鳥部万の挿話の主旨はと云えば、万自身は忠の権化だけれども、話自体の主旨は、犬の信であり義であり悌である。忠はサブレベルの徳として描かれている。道節が、おバカに描かれている筈だ。
 だいたい道節は、故主の仇を討ち果たすことが自らの忠の成就だと考えているのだけれども、陰とはいえ火気の犬士だから、結局は仇を殺せずに終わる。船虫刑戮の場面でも、最も残虐な態度を見せ乱暴者の面目を施したが、実は気の好いアンチャンに過ぎぬから、口先だけの復讐魔だ。真の復讐鬼は、華やかに舞いつつ子供まで死に至らしめる訶梨低母、血塗られた美少女・毛野だ。ジェノサイドの後にも悪びれず、飄然と更なる復讐に向かう。殺を好む水気の犬士・毛野から見れば、道節なんてアマチュアに過ぎぬ。道節は、自分の本来的な性格を勘違いした者として描かれている。だから彼自身の意思は八犬伝世界に於いて実現しないのだ。だからこそ、可愛いのだけれども。
 仏教とは、恐ろしく喧嘩腰の強い好漢・ゴータマさん個人の行為の蓄積が衆生の琴線に触れて、結果として発祥した宗教だろう。捨てて悩み施し生きた行為自体の説得力が背景にあって、キレイゴトとしか思えぬ教義を普及させた。眼前にある、行為のダイナミズム自体が、仏教の真骨頂ではないか。犬士は行為した。しかし其の行為が四天王として象徴化、或る意味では屍姦化された途端に、里見家は凋落の一途を辿り始める。十代にして滅ぶ。行為する生きた倫理も、偶像化し固定化した途端に、堕落する。行為する犬士から、仏造って魂入れず、単なる偶像としての四天王にバトンタッチした瞬間から、滅亡の途を歩み始めるのだ。倫理とは、そういうものだ。簡単な話だ。倫理は、屍の為に在るのではなく、いまを生きる者の為にあるのだから。
 しかし生きている倫理は融通無碍、描写が難しい。馬琴の苦労も恐らく、其処にあった。理や筋を離れ、情動の赴くままに書いた箇所もあるよう思う。しかし、馬琴にして斯くなむ、抑もダイナミズムを文字として固定できるや否や。馬琴ゆえ其処までは読者に感じさせることが出来たと評するべきだろう。
 また今回は、続日本紀に表れた鎮護国家仏教の世界イメージ、龍を統べる観音と龍と交渉する八幡が一体表裏となって護国神となっていたこと、八幡には四天王が配置されていたことを示した。此は其の侭、八犬伝の世界観に繋がる。金光明経の餓虎が八犬伝の画虎に繋がっていく可能性まで射程に入れた。更に「如是畜生発菩提心」が、義実の言にもある如く、大乗仏教の徹底した平等観、悪人も菩提心を発し善人となり得るとの視点に立つことから、八犬伝は単なる固定化した勧善懲悪物語ではなく、例えば馬琴の主要他作品の登場人物が、例えば弁才天と関わる美少年といえば信乃を思い出させるけれども別の作品では悪少年だったりしたりして、八犬伝世界は【外部との流転/変化】を予め想定していたとも考えられる。
 読めば読むほど八犬伝世界は広く深くなっていく。総ては馬琴の嘯き「百年以後の知音を俟べく」が原因だ。己の智を暗号のように組み込んで、あとは読者に期待するが馬琴流。意地悪い目で黄泉から読者の読みを観察しようとする馬琴の顔が思い浮かぶ。……性格悪いぜ、馬琴のオッサン。(お粗末様)
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