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先代四郎を遣して京師の光景を探するに、曩に犬飼現八が解示ししは崖略にて、最詳に知られける。その事の顛末を親兵衛熟うち听くに、前将軍義政公は辞職の後も風流の驕奢に銭を抛ち財を竭して民の怨訴を見かへり給はず、況治世四十余年の程、国乱れ民苦るを屑とも思ひ給はず、僅に五年の間にすら九个度の大礼大饗をなん行れける。就中八幡春日、両所の御社参、伊勢御参宮、花の御幸、河原の猿楽なンど、遊興の費も亦多かり。是だに民の歎きなるに、花の御所の大造営に土木の工を起されしより万民の費いくばくぞや。珠玉を磨き金銀を鏤めたる甍の価、無慮六万緡、及義政のおん母と御臺所のおん与に高倉の御所を造らせ給ひしに、腰障子一間の価二万銭也{第百三十五回}。
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洛中大焼之事
花洛ハ真ニ名ニ負フ平安城ナリシニ、不量応仁ノ兵乱ニ依テ、今赤土ト成リニケリ。就中、禁裡紫宸トナルハ仙洞也。今ノ伏見殿、是レナリ。高宮聳雲、複道行空、五歩ニ一楼、十歩ニ一閣、出入騒人ノ墨客、心ヲ不留ナカリケリ。近比西芳寺ノ風景ヲ被移、山ニハ楊梅桃李ノ名花ヲウヘ、鯨鯢龍鳳怪石ヲ立テ求友鴛鴦ハ愛水鏡、弄花淑女ハ奏雪絃、椒蘭ノ烟リ綺羅ノ艶薫四方、飜九天粧ヒ、正ニ秦ノ阿房宮ト云トモ是ニハシカジトゾ覚エ侍ベリケル。又花ノ御所ノ甍瑩珠玉ヲ鏤金銀ヲ、其費六十万緡ナレバ、浅キ智ノ筆ニ記シ難シ。并ニ高倉ノ御所ノ事、大樹義政公御母御台所居入。是レモ其ノ営財ヲ尋ヌレバ、腰障子一間ノ直ヒ二万銭ト也。此ノ厳麗以之ハカルベシ。東ニ烏丸殿アリ。是モ慈照院殿ノ幼少ノ御時立給処トテ美麗ト云トモ中々言バノ及処ナシ。三条殿ハ古贈大相国義教公ノ北ノ政所藤原ノ御里ナル故ニ巧匠術ヲ尽サレケル。日野・広橋モ当元師室町殿ノ御外戚ニテ、イヅレモ珠玉ヲチリバメリ。其外タヘナル公家ノ御所ハ近衛・一条・鷹司・久我・徳大寺・花山院・洞院・菊亭・西園寺・転法輪、此ノ御門家ヲ首メトシテ冷泉・飛鳥井・四条・世尊寺・甘露寺・清水谷・中ノ御門・藪・庭田・中山・高築・園・坊城・万里ノ小路・山科ト菅家ノ人ノ殿宇也……後略{応仁記}
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