鬼畜探偵・伊井暇幻「復活!  二十面相」  久作
 
 

・これまでのあらすじ・愛媛県宇和島市に住む私立探偵・伊井暇幻は、嘗て親友であった変態宇宙人オクトパスと対決、苦い勝利をおさめた。オクトパスは伊井の三人目の助手となった。一人は小柄だが気の強い小林純、一人は長身美形の高橋美貴。実は小林は伊井の愛人だったりもするが、そんな事は如何でも良い。相手のセクシャリティーに合わせて肉体を変形するオクトパスは美貴好みのマッチョ男性に化け、旅行に出かけた。美貴は二十五歳、もう子供ではないのである。純は伊井と水入らず、迷い犬探しや浮気調査などを依頼されつつ、平和な生活を楽しんでいた。
 
 

 「君の活躍を聞いて僕、すっかり君を崇拝しちゃったんです」クリクリした瞳を輝かせ、小柄な学生が小林を見上げている。純真な顔で詰め寄るヤツほど、タチの悪いモノはない。
 「は、はぁ……」買い物袋を下げたまま、小林が一歩退く。
  学生が一歩進み出る。「同級生に話したら感激しちゃって、僕の考えに賛同する者が十人も集まったんです。それで……」学生は思い入れタップリに言葉を切り、上目遣いになりながら、
 「出来ちゃったんです」。
 「へ?  何が」と訊ね返しながらも小林の脳裏には既に、最悪の解答が浮かんでいた。
 「少年探偵団!」。
 「うわあぁぁ、ヤだあああっっ」いや、別に何故ということもないのだが、小林は反射的に跳びすさり、前傾姿勢、脱兎の如く駆け出した。強烈に純真な瞳をした学生から、一歩でも遠く離れたかったのだ。
 「あ、待って待って待って待って」。
  小林は走る。逃げる。学生の連呼する「待って」が徐々に遠ざかる遠ざかる遠ざかる…………近付いてくる近付いてくる近付いてくる。
 「え?」振り向いた小林は、この上なく恐ろしいモノを見てしまった。学生が増殖している。みな同じく偏執的なほどに純真な目をした学生が、何処から湧いたか十人ばかり、自転車を”立ちこぎ”しながら背後に迫っている。
  「待って待って待って待って」。
  「うわああああっっっ」と叫んだ瞬間、小林は、前方不注視、激しく固く電信柱と抱き合ったのであった。

                    ●

  「で、連れてきちゃったワケか」伊井は頭を抱えている。
  「連れてきたとゆーか、連れてこられたとゆーか……」小林は頭を抱えている。極端なまでに純真な目をした学生が十一人、ワラワラと狭い事務所に犇めいている。
  「ベビー南部。ルガーP08。モーゼルM712まである。撃たせてくれないかなぁ」
  「撃たせてくれるさぁ。僕たち、少年探偵団だもん」
  「あ、あの赤い紐、捕縄だよね。あれで怪人オクトパスを捕まえたんだね」
  「亀甲縛りっ!」「なに、なに、キッコーシバリって」
  「がんじ絡めに縛るのさぁ」
  「へぇ」
  「でも意味ないよね、胴体にまで縄を巻き付けても」
  「其処が美学なのさぁ。名探偵と怪人の間には、美学がなきゃぁ」
  「そぉかぁ、亀甲縛りって美学なんだぁ」
  「そう、美学なんだよ。猟奇の美学!」
  「きゃぁきゃぁ」「わぁわぁ」「くすくす」「うふふふ」。うち騒ぐ学生ども。
  「じゃかぁしーー」とうとう伊井はキれた。ビクッと静止する自称「少年探偵団」。過度に純真な目を見開いて、そう、怒られた子猫のような表情で、伊井を一斉に見上げる。
  「お前ら大学生だろーが、大昔のボンボン小学生みたいな喋り方しやがって」。
  「だって僕たち、少年探偵団なんだもん」
  「その前提からして無理があるっちゅうとろーが。お前ら、聖キャサリン女子大のヤオイ研究会やろぉが」
  「酷い!  僕たち、真面目な漫画研究会ですっ」
  「だいたいなぁ、お前ら、その学生服、何処で手に入れた?」
  「何処って……、服屋さん……」学生たちは俯き、さも純真そうな上目遣いになる。
  「嘘言うな。全然サイズが合ってねぇじゃねぇか。最近、中学校で学生服の盗難が相次ぐと思ってたら……」
  「だってぇ、服屋さんで買ったら、男の子の臭いがしないんだもん」
  「男の子の臭い?」
  「子供から大人になりかけた少年の爽やかな臭い」
  「爽やかだとぉ?」
  「そぉ、男の子は大人みたく饐えたエグい臭いじゃなくって……、うーん、如何言ったら良いのかなぁ。とにかく少年の臭いなワケ」
  「あ、あのなぁ……」
  「でも、良かったぁ。僕たち少年探偵団が公認されて」
  「うんうん」「うんうん」途方もなく純真な瞳で頷き交わす団員たち。
  「公認?」アッケにとられる伊井。
  「小林さんが団長に就任してくれたんです」。
  「くぉばやしぃぃ、ぬぁんちゅうコトをぉ……」怒りに震える伊井に小林は、
 「し、知らないよぉ」。
  「えぇー、だって、小林さん、電柱にぶつかって倒れたでしょ」
  「倒れたけど……」
  「団長になって下さいって言ったら『うんうん』って言ったもん」
  「それは呻いてたの!」

                    ●

  チーン。古風な洋館の一室。大きな仏壇が据えてある。かなり高齢の紳士が線香をあげている。
  「明智君、一年ぶりだね。ふふ、自分の誕生日を忘れても、君の命日は忘れはしないさ。……俺も老けてしまったよ。ほら、俺の自慢の黒ズボン、モッコリ膨れているだろ。みっともない話さ。オシメをしているのだ。もう俺も九十を超した。二十面相もオシメをしちゃぁ、おしめぇさ。はは、ははは……。あぁ、君は駄洒落が嫌いだったね。君は好い男だったが、駄洒落を解せぬ所が、玉にキズだったぞ。…………君が羨ましいよ。薬物入りのエジプト煙草の喫い過ぎで、ポックリいくのだもの。大往生も良い所だ。だけど俺は、君と違って健全だからな。幼い頃からサーカスで鍛えているし。……だが、俺も今では殆ど寝たきりで、小林君の世話になっている有り様さ。小林君かい?  彼は元気だよ。もう七十を超えるというのに、矍鑠たるものだ。あぁ、そろそろ小林君が訪ねてくる時間だ。弱気な寝たきり老人を演じなきゃぁな。そうすると、小林君は、優しくしてくれるのだ。まぁ、演じると言っても、殆ど地の侭で良いのだが……。じゃぁな、俺もジキ、ソッチに往くから」老人は蝋燭の火を消して部屋を出ていく。扉を閉める。部屋は暗黒に包まれる。

                    ●

  「はい、ご飯ですよ」七十前後の老人がお盆を持って部屋に入ってくる。
  「また、お粥か」九十を過ぎても駄々を捏ねる二十面相。
  「文句言わないで下さい。ちゃんと栄養と消化を考えて作ってるんですから」
  「偶には、肉でも食いたいよ。俺は老人であって病人じゃないんだ」
  「駄目です。本当に病人になりますよ。……うっ」
  「ど、どうした、おいっ、小林君っ」
  「し、心臓が、心臓が……」小林が胸を押さえて崩れ落ちる。慌てて抱き抱える二十面相。
  「おいっ、小林君っ、しっかりしろ」
  「はぁはぁ、く、苦しい」
  「小林君っ」
  「に、二十面相さん」小林が、震える手を差し伸べてくる。
  「喋るな。すぐ、医者を呼んで来る」立ち上がりかける二十面相の腕を、小林はしっかり捉え、
  「行かないで下さい。僕は、もう駄目です」
  「馬鹿なことを言うんじゃない」
  「解るんです。あぁ、明智先生が迎えに来てくれた……」うっとり目を閉じる小林。
  「馬鹿っ、しっかりしろ」
  「に、二十面相さんと闘っていた頃が、一番楽しかったです」目を閉じたまま、小林が呟くように言う。
  「しっかりしろっ、おいっ」
  「恰好良かった。先生も、二十面相さんも……。息詰まるような、あの感覚……、楽しかった」
  「しっかりしろっ、おいっ小林君っ小林君っ」。二十面相の腕の中で、小林の顔が一瞬、少年に戻った、ように見えた。夢見るように安らかに、逝った。
  「小林くうううううんんっっ」。

                    ●

  二十面相が仏間に佇んでいる。泣きはらしたか、目が赤くなっている。
  「明智君、酷いじゃないか。命日だからって、小林君を連れて行くなんて。あんなに元気だったのに。あんなに突然……」握りしめた拳が震えている。
  「俺は独りぼっちになってしまったよ。……あの頃は良かった。君という好敵手が居た。美しい小林君が居た。そして、俺は若かった。でも俺は独りぼっちになってしまった」二十面相はボンヤリと仏壇を見つめていた。
  「は、はは、はははっ、はははははははっ」突如、けたたましく笑う。
  「言ってくれたよ。恰好良かったって、小林君が、俺に、死ぬ間際に。二十面相さん、恰好良かったって、ううっ、か、恰好、良かったって……」泣き崩れる二十面相、暫くしゃくりあげていたが、グイと顔を起こし、
  「そうさ、俺は二十面相だ。二十面相なのだ」その目には、狂気にも近い情熱が蘇りつつあった。
  「そうだ、俺は二十面相だ。やるよ、明智君、俺は二十面相に戻る。小林君、見ててくれ。二十面相の、俺の姿を」。

                    ●

  宇和島の中心部・大街道と呼ばれるアーケード街、午後八時ともなると店は軒並みシャッターを下ろし、酔客だけがマバラに歩いている。
  「ふふふふふ、ふはははは、はあっはっはっはっはっはっ」街の外れで突如、高らかな笑い声がした。道行く人々は驚き、緩やかな上り坂になっている南の方角を見上げる。
  「ぐおっ、げほっげほっ、かーー、ぺっ」不思議な笑い声は、少し咳込んだようだ。
  「あ、あれは何だ!」誰かが叫んだ。ガーー。何かが勢いよく転がる音が響いてくる。黒い、何か黒い物が、笑い声を上げながら、近付いてきた。人だ。黒ずくめの男が、エンジン付きのスケボーに乗って、坂を下ってくる。黒いマントにくるまり、スケボーの上に蹲った男、その男の顔は、黄金色に輝いていた。端正な、しかしニタニタと笑う不気味な黄金の仮面が、「わはははははは」聖人か狂人にしか為し得ない哄笑を上げ、猛烈なスピードで近付いてくる。
  黒ずくめの怪人は、一番人気の多い街の中央、「牛鬼スクゥエア」にさしかかる。ブワサッ。いきなり、怪人がマントを翻す。黒いマント、深紅の裏地、そして黄金の仮面、狂気の配色だ。アッケにとられ、遠巻きに見守る人々の足下に、ひらひらビラが舞い落ちる。一人の少女が拾い上げる。「明後日正午、内府像を頂戴つかまつるべく存じ居り候  二十面相」。慌てて顔を上げた少女の目の端で、怪人は、闇の中へと溶け込んでいく。

                    ●

  翌朝、伊井に腕枕をしてもらいながら小林が
  「オクトパスさん、どうしてるかなぁ」
  「あん?  あぁタコの八っつぁんか。アイツなら旅先で美貴とヤりまくってるだろうよ」
  「ねぇねぇ、オクトパスさん、男になってるのかなぁ、それとも女かなぁ」
  「男に決まってるだろ。美貴は女に興味ないんだから。まぁ、宇宙人の性別を云々しても始まらないがな」
  「でも、男にも女にも変形できるって便利だね」
  「まぁな、でも、なんで俺の周りにゃ、性別不明な奴らばっかりなのかな。もっとさぁ、女らしいタオヤメってぇか……」
  「ふん、僕じゃ不満なの?」拗ねる小林。
  「まぁまぁ、機嫌直して一発……」甘えた声を出し、伊井が小林の細やかな腰に手を回す。
  と、そのとき乱暴にドアを叩く音。
  「ダメだよ、お客さんだから」小林は伊井の無骨な腕をスリ抜けて、クルンと早支度、イツモのTシャツとジーンズを身に着け応対に出る。開けると、バラバラと雪崩込む学ラン姿十一人。
  「あ……。セックスしてた方がマシだった」とガックリ呟く小林に、モノ凄く純真な目をした十一人が、
  「内府像が」「ゆうべの八時ごろ」「スケボーに乗って」「二十面相の」「ビラビラ」「頂戴って」口々に喚き立てる。
  「あーん?  ナイフ像が昨夜の八時ごろ、スケボーに乗って、二十面相のビラビラを頂戴って言っただとぉ」毛布を巻き付けた伊井がノソノソと立ち上がる。
  「違う違う、商店街で」「スケボーに」「内府像を」「頂戴って」「二十面相が」
  「なになに?  商店街でスケボーに内府像を頂戴って二十面相がぁ」
  「違うってばぁ」
  「解ってるよ。エンジン付きスケボーに乗った二十面相が昨夜八時ごろ、内府像を盗む予告ビラを商店街で撒いたんだろ」
  「そーそー」極めて純真な目で頷く少年探偵団員たち。

                    ●

  「先生、何ですか、この包み」テーブルの上に厳重に包装した箱が置いてある。
  「何って、内府像さ」
  「えっ、どうして、そんな物が……」
  「盗んできた」コトもなげに言う伊井。
  「ど、どぉして……」小林は絶句する。
  「二十面相に、ひと泡吹かせてやるのさ。博物館には、チャンと贋物を置いてきた。最近の複製は専門家でも解らないからな。暫くはバレる気遣いがない」
  「で、でも、どぉやって……」
  「俺がカメラマンのバイトをしてるのは知ってるな」
  「うん」
  「今、博物館で収蔵品をカラー撮影してるんだ。写真をスキャナで取り込んで静止画像データベースを作るって話だ。俺、あそこの学芸員と知り合いでさ。安く押し付けられたんだ」
  「だから?」
  「だから、撮影の合間に、チョイと……、ってワケさ」
  「……じゃあ、二十面相をやり過ごして、コッソリ返しとけば」急に元気になる小林。
  しかし伊井は冷然と「馬鹿か、お前」。
  「え?」小林はキョトン。
  再び伊井は「馬鹿かっつてんだよ」
  「なんでだよ」ムクれる小林。
  「あのなぁ、それじゃ一文の得にもなんねぇだろぉが。二十面相に盗ませる。で、俺が博物館に本物を返すワケだ。二十面相には逃げられたが、内府像は取り返してやったぞって。博物館の奴ら、予告を完全に悪戯と思っていやがる。驚かせて、たんまり謝礼を頂くって寸法だ」
  「もしかして、二十面相に罪をなすり付けようという……。それってオカシイよ」
  「良いじゃねぇか。二十面相は職業ドロボウだ。彼は自分の仕事を全うする。俺は探偵として内府像を博物館に返す」
  「き、鬼畜っ」。叫ぶ小林を伊井が、乱暴に押し倒す。
  「そうさ、俺は鬼畜だ」小林の、しなやかな四肢を制圧し、汚らしく嗤う。
  白く細い首に唇を這わせ、赤い吸印を幾つも付けていく。
  「や、やめろっ、先生なんか嫌いだっ」。
  小林の憎悪の篭もった声には頓着せず、伊井が淫らな指で、引き締まった肢体を陵辱し始める。
  「やめろっ、ほ、本当に怒るぞ。やめろっ」
  「怒れよ。怒れ、憎め。へへへっ、そうだ、その目が、一番ソソる」
  「やめろっ、やめろおおおっっ」。

  コトが済み、小林が伊井の下から抜け出しながら、「でもさ……」。
  もうスッキリした表情になっている。結局、この二人は相性が良いのだ。SとM。
  「ん、なんだ」一発抜いて伊井も晴れやかな顔で応じる。
  「複製って何日もかかるんだよね。どうして昨日の今日で、それが出来たの。まだ、何か隠してるね」
  「え?  あ、いや、それはぁ……」言い澱む伊井のフグリを小林が握りしめる。
  「痛えっ、やめろっ、放してくれえ」
  「話したら放すよ」
  「わ、解った。喋るから放してくれぇ」
  「喋る方が先」。
  伊井は白状した。伊井は収蔵物の撮影開始と同時に内府像の複製準備に取りかかり、とっくの昔に取り替えを実行、其処に折良く二十面相が予告状を送りつけてきたのだ。
  「じゃあ、……」小林はフグリを弄びながら、
  「二十面相が現れなくても、内府像で儲ける積もりだったんだね」
  「そ、その通りだ。さあ、喋ったから放してくれえ」。
  「うん」小林はニッコリ笑う。伊井の股間で、コリッ、奇妙な音がする。
  「うぎゃあああああっっっっ」七転八倒、股間を押さえて悶え狂う伊井を見下ろし小林が、
  「潰しちゃいないよ。お仕置きさ」。

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  愛媛県立宇和島博物館。収蔵品は、珍しくもない大名道具や武具、甲冑ばかりかと言うと、そうでもない。唯一、国の重要文化財に指定されている内府像すなわち織田信長の肖像画は、高校の教科書にも掲載される貴重なものだった。王義之の書もある。
  その王義之を、先刻から白髭、和服の老紳士が、腰を屈めたり仰け反ったり、色々と角度を変えて見つめている。老紳士に学芸員がイソイソと近付いていく。学芸員というのは、高度な知識を持ちながら、それを披露する機会も確認するチャンスにも恵まれていない。話し相手といえば、無知蒙昧なクセに権柄ずくの地方吏員、良い所で郷土史家のオジイサンときているから、チョッとモノを知っていそうな人物を見かけると、話しかけずにいられないのだ。
  「書が、お好きですか」揉み手せんばかりに話しかける学芸員。
  老紳士は上の空で「うむ。確かに、この王義之は素晴らしい。じゃが……」
  「じゃが?」
  「つかぬことを尋ねるが、この王義之、最近、表装の貼り替えをなさったのではないかな」
  「え、えぇ、だいぶ軸が痛んできたもので。それが何か……」
  「ふーむ、そうじゃろう。そうじゃと思った」意味ありげに独り頷く老人は、
  「あ、いや、気になさるな。……うん、気にされぬ方が良い」とモゴモゴ言って立ち去ろうとする。
  「え?  ……あ、あなたは、まさか……。そんな……」思い当たることがあるのか学芸員は慌てて老紳士を追っていく。
  「まさか、あなたは、この王義之が……」
  「あ、いやいや、そうは言っておらぬ。ただ、チィと端の方がケバ立っておるようじゃったから……。あ、いや、なんでもない。聞かなかったことにしてください」老紳士は再び歩き出そうとする。その前方に回り込んだ学芸員は、
  「そうはいきません。博物館の収蔵品を管理する者として、伺います。あの王義之は、剥がれたモノだと仰るのですかっ」。
  説明しよう。メカの素とは……、じゃなかった、和紙を使った芸術、特に書は、複製が簡単なのだ。いや、複製という言葉も適当ではない。本物を、もう一つ作ることが出来るのだ。和紙は、幾重にも紙の繊維を重ねて作る。本物のハナ紙を何枚も重ねたのが、和紙なのだ。だから、少し手先が器用であれば、二枚に剥ぐことが出来る。そして、和紙は墨を裏まで通すから、掠れもせず、同じ書が二枚出来上がるのだ。表具師なら誰でも、この技術をもっている。名人と言われる者なら、三枚に剥ぐことも可能だという。どちらも本物だが、上側すなわち書いたときに表面だった一枚が、最も価値が高い。表面にケバ立ちがあるということは下側の部分、価値の低い部分だということだ。
  「し、しかし、表装を依頼した表具師は、市内の信用ある業者で……」
  「いや、その表具師さんが犯ったとは言うておらん。じゃが、あの世界は狭い。誰が何を請け負ったか、すぐ知れ渡る。他の表具師が遊びに行ったフリをして……」
  「そ、そんな、そんな……」学芸員は既に蒼白、脂汗まで垂らしている。責任問題だ。
  「あ、いや、年寄りのザレ言、気にされぬ方が良い。ドチラにせよ、アレはアレで正真正銘の王義之じゃから」三度、歩きだそうとする老紳士の袂にすがって学芸員は、
  「ど、どうしたら良いでしょう。こんなことが知られたら、私は……。お願いです。何か、お考えがあったら、お聞かせ下さい」
  「はて、そうと決まったワケでもなし」
  「いや、あなたは表装をし直したことまで見抜いた。この後、誰が同じコトを見抜くかも解りません。そうなったら、私は、私は……」。
  ひとつ溜息を吐いて老紳士が学芸員に向き直る。
  「解りました。長生きすると、知らなくとも良いことまで知ってしまうもので、私は少しく故売商には顔が利く。王義之に就いては心当たりもあるから、誰が持っているか、聞いてみましょう」
  「あ、ありがとうございます」
  「ただし、条件がある」
  「な、なんでしょうか」学芸員は少し及び腰になって
  「あのぉ、本県の博物館というのは極めて予算が限られていましてぇ……」
  「なに、銭金のことではない。もし、私が王義之の、もう一枚を見つけても、誰が犯ったか、誰が買おうとしたかは、不問に付していただきたいのじゃ」
  「そ、それは……」
  「そうでもせぬと、突き止めることは出来ませんぞ」。
  学芸員は額の汗を拭って「解りました」。
  老紳士は二、三歩行って急に振り返り、
  「そうじゃ。これは、オセッカイじゃが、また誰が気付くかも解らん。王義之は展示を取り止めて収蔵庫に回した方が宜しかろう」
  「はいっ、仰せの通りに」
  「それでは十二時前に、また来ます」
  「どうか、宜しくお願いします」。

                    ●

  午前十一時四十五分、果たして老紳士は博物館に戻ってきた。学芸員が擦り寄って、
  「あの……、首尾の方は」。
  「上々じゃ」老紳士は手に持った筒を顎で示した。
  二人は、それ以上の言葉を交わさず、収蔵庫へと足早に向かった。
  緊張した面持ちで、学芸員が二枚の王義之を照合する。間違いないとの確信を得て、表情を緩めた。振り返り、
  「ありがとうございます。なんとお礼を申し上げて良いやら……、え?」学芸員が目にした者は、さきほどまでの上品な老紳士ではなく、変態だった。どう見ても、変態だ。黒マント、黄金の仮面、黒い絹のタキシード。しかも黒ズボンの腰の辺りが、まるでオシメをしているかのように、いや、実際、オシメをしていたのだが、モッコリ脹らんでいるのだ。その変態が、ワルサーPPK/Sを構えて、
  「内府像を、いただきたい」。
  「あ、あんた、一体……」ようやく学芸員が粘り付く唇を開いた。
  「黄金仮面」変態は恥ずかしげもなく名乗った。正真正銘、骨の髄まで、筋金入りの変態らしい。
  「黄金仮面?  ってコトは、怪人二十面相!  ど、どうして二十面相が、此処にっ」
  「予告しておいた筈だが」
  「あ、あぁ、しかし、そんな……。まさか、本当に来るなんて」
  「俺は予告を守らなかったことはないぞ」
  「いや、そういう問題では……」
  「ツベコベ言わずに内府像を渡してもらおう」。
  脂汗を流しながら学芸員が反論を試みる。
  「二十面相だとしたら、人に危害を加えない筈だ」。
  二十面相はニヤリと笑って、「ほぉ、よく憶えていてくれたな。しかし、その言葉は不十分だよ。時と場合によっては銃を使う。憶えておいてほしかったな」
  「ううっ」
  「さぁ、内府像をいただこうか」。
  渋々ノロノロと学芸員は厳重な金庫を開けて鍵を取り出し防犯装置のスイッチを切って再び別の鍵を取り出して金庫を開け、そこから鍵を取り出して別の金庫を開けたり色々やって、漸く内府像を取り出した。二十面相は器用に巻いて筒に入れ、学芸員から収蔵庫の鍵を取り上げた。
  「騒がれたくないものでね。暫く、此処に閉じこもっていてくれたまえ。なぁに、夕方には、出られるだろうよ」銃を構えたまま後ずさり、扉を閉めて消え去った。

                    ●

  博物館の向かい、天写公園。どう見ても男同士としか思えない一組のカップルがサカっている。男の方は如何でも良いが、ウケの少年の方は、天使と見まごうばかりに美しかった。そう、博物館を見張っている筈の伊井と小林であった。異変に気付いたのは小林だった。
  「あっ、怪しい奴が出てきた」。確かに怪しい。黒マントを靡かせ、黄金の仮面を付けたタキシードの紳士、これほど怪しい奴も、そうはいない。しかも、ズボンの腰がモッコリ膨れているから滑稽だ。伊井は吹き出した。
  「怪しいって、あれじゃぁモロじゃねぇか。どうせ予告状を見た奴が、悪戯で仮装してるんだろ。それより小林ぃ、俺、勃ってきちゃったよぉ。なぁ、そこの公衆便所ででもヤろうぜ」
  「でも、でも……、あ、車に乗った。僕、行ってきますっ」言うが早いか小林は、まとわりつく伊井の腕を振り払い、停めていた原付に跨って、セル・スタート。アッという間に飛び出していった。
  「あーあ、行きゃぁがった。贋の内府像にゃ発信器を組み込んでるから、行き先は判るってのに。……ところでっと、おい、出てきな、ヤオイ探偵団」
  「酷ぉい、ヤオイじゃないもん。僕たち真面目な少年探偵団だもんっ」茂みから、妙に純真な目をした学ラン姿が十一人、ゾロゾロと現れた。
  「別に俺ぁ、ヤオイを差別してないってば。どーせ俺と小林のラブシーンでオナってたんだろ。お前ら脇役も、舞台に上がらせてやる」
  「えっ、追跡ですか」
  「わーい、追跡だ、追跡だ」
  「BDバッチを落として行くんだよね」
  「何に乗って追跡するのかなぁ」
  「勿論、パッカードさぁ」甚だしく純真な目をしてハシャぐ少年探偵団に
  「こらこら、乗用車に十二人も乗れんてや。市営バスで行く」
  「バスゥ?」
  「あぁ。ええっと」伊井はポータブルパソコンの画面を覗き込んで、
  「内府像は、とりあえず、国道56号線を北上中だ。松山行き特急バスに乗ろう」
  「そんなぁ、恰好悪いよぉ」
  「ぶぅぶぅ」「ぶぅぶぅ」とてつもなく純真な目をした十一匹の子豚のブーイングを無視して、
  「えぇっと、まだバス発車まで時間があるな。チョッと俺、着替えてくるから」伊井はバックを肩に、公衆便所へと消えていった。

                    ●

  黒塗りのクラウンを追いかけ小林が辿り着いたのは、宇和島から北方約百キロ、松山市高浜の、とある廃ビル。海辺の大型リゾートホテルを標榜し、バブル期に建設が計画されたものの、外形だけ出来た時点で発注元が泡と共に消え去り、二十五階の巨体は朽ちるに任されていた。
  小林は断崖に立つ廃ビルに近付く。エンジンを切り、慎重に近付いていく。人影は既にない。人通りもなく、ただ遠くの県道を通る車の音だけが聞こえてくる。ゴクリ。小林は自分の呑み込んだ生唾の音に少し驚いた。静かだった。入り口をソッと窺う。誰もいない。唇を引き結び、猫のように俊敏に、音を立てず、忍び入る。ロビーになる予定だったのだろう、広い空間だ。誰も居ない。周囲に気を配りながら、ソロソロと歩を進める。
  チーン。軽やかなベルの音。驚いて振り向く小林。エレベーターだった。エレベーターが客を待って扉を開けている。
  「どうぉして、未完成の廃ビルにエレベーターが……」小林は呟き、慌てて口を押さえた。辺りを見回す。やはり、誰もいない。ゴクリ。もう一度生唾を飲み込んだ。誰へともなく頷いて、小林はエレベーターに乗り込む。乗り込んだ途端、背後で扉が閉まる。ハッと振り返る小林、グンッと下へのGを感じて、少しヨロめく。最上階で止まる。静かに扉が開く。

                    ●

  「あっ」思わず小林は叫んだ。豪華な内装を施された大広間だった。フラフラと外に出る。見回すと、洋画が周囲の壁にズラリと掛けられている。
  「これは……、えーっと……、先生がSM画家だって言ってたクラナッハ父子っ」壁に駆け寄って、
  「ユーディット、パリスの審判、これはキューピッドとヴィーナス……」
  「よく知っているね。感心したよ」落ち着いた老人の声、小林が振り向くと、黒マントを纏った黄金仮面、小林が
  「二十面相だなっ」。
  「ふふふ、その通り。どうだ、なかなかのコレクションだろう。クラナッハは、好きなんだ。彼ら父子の描く女性というのは、細やかな首をしている。これは乙女らしさ、純潔を現している。頭部は綺麗な卵形だが、張りのある少女らしい頬が、レモンのような尖り加減の顎に収束している。唇は薄く小さく、性的な情欲とは無縁だ。しかも、この目、どれも吊り気味だろう。凛として、そう、射抜くような視線だ。特に、ほら、このユーディット像を見たまえ。ピッタリと、さも窮屈そうな着衣に、多くの装身具、いや金具と言っておこう。これは、ある評論家に言わせると、拘束具だそうだ。上手いことを言う。その通り、拘束具だ。美しい肉体を自ら隠蔽し拘束し、マゾヒスティックなほどにストイックな……、いや逆だ、ストイックゆえにマゾヒスティックな純潔の処女……。しかし、それ故に、クラナッハの描く女性は、エロティックなのだ。純潔は、純潔の侭でも十分に美しいのだが、純潔は、汚辱に塗れる瞬間に最も光輝ある美しさを見せるのだ。……ふふふっ、まるで、囚われ辱められる小林君のように」二十面相の長口舌を聞きながら、
  (二十面相って、先生と話が合いそう。変態ぶりならドッコイだな)とか考たが、このまま一方的に喋らせていると話が進まないと思って、とりあえず
  「内府像を返せ」と言ってみた。

                    ●

  「駄目だ。このコレクションを完成させるためには、内府像が是非とも必要なのだ」
  「なんでだよ。これ、みんな女の人の絵ばっかりじゃないか。織田信長の絵なんて必要ないじゃないか」
  「両者には共通点がある。張り詰めた孤独、激しい独善による寂寥感だ」
  「……」。
  「さて、お喋りが長くなった。君には別室を用意してある。ゆっくり寛いでくれたまえ」
  「別室?  ……ああっ」突然、小林の足下の床が消失した。落下、ジンッ、足に衝撃が走った。小林は転げて、したたかに腰を打った。十メートル四方ほどの部屋だった。窓も扉もない。開いているのは、たったいま小林が落ち込んだ天井の穴だけだった。穴から黄金の仮面がニタニタと見おろし
  「君、名前は?」、小林はグッと見上げ
  「小林、小林純」
  「小林?  奇遇だな。私も君と瓜二つの小林という少年を知っている。いや、知っていたと言うべきかな。ふふふ、これは愉快だ。どういうイキサツか知らないが、小林という美しい少年が、この秘密の美術館に迷い込んでくるとは。これで明智君が登場すれば……」陶然と呟く二十面相、すぐに我に返って
  「あはは、はは……。冗談だよ」と寂しく笑った。
  「ワケの解らないこと言わずに、僕を此処から出せっ」
  「駄目だ。私は美しく勇敢な少年を見ると苛めたくなるのだよ。凛とした勇敢な少年が、苦痛に、屈辱に、美しい顔を歪め、そして耐える姿は、この上なく素晴らしい芸術なのだ」
  「へ、変態……」
  「そうかもしれんな」言い残して黄金仮面は姿を消す。落とし穴が塞がれる。暗黒になる。
  ザザザザザザザッ。
  「え?」轟く水音に小林は辺りを見回すが、もとより暗黒の中では何も見えない。
  「わっ」床についた手に、水の感触。冷たい水が這い広がっているのだ。あぁ、美少年探偵助手・小林は、このまま溺れてしまうのであろうか。それとも気を失ったところで全裸に剥かれ、変態二十面相に、その白く引き締まった肉体を隅々までネチネチとイヂくり回されて、あんなコトや、そんなコトや、こんなコトとか色々淫らなコトをされて陵辱されるのであろうか。美しい顔が泣きじゃくり、しなやかな肢体が強張り打ち震えてしまうのであろうか!

                    ●

  「わぁ、先生、似合うじゃぁん」松山行きの特急バス、極度に純真な目をした少年探偵団が囃し立てている。
 「そっかぁ、へへへっ」柄にもなく伊井が照れている。確かに伊井は恰好良かった。なぜなら変装しているからだ。変装しないで伊井が恰好良い筈がない。なにせ顔まで変えているのだ。筋張った細面は日本人離れしてクッキリ。聡明そうに大きく澄んだ二重瞼、高い鼻に、引き結んだ薄い唇、ウエーブのかかったモジャモジャ頭。肩幅のある長身痩躯にグレーのダブル・スーツが似合っている。誰かに似ている。そう、明智小五郎だ。往年の少年探偵団シリーズの挿し絵で見た明智小五郎だ。
 「はいっ、質問ですっ」信じられないほど純真な瞳の団員の一人が、元気良く手を挙げる。
 「ん、何だい」機嫌がよいのか、伊井は声まで気取っている。
 「どーしてイツモの作業着じゃないんですかぁ。あっちの方が動き易いのに。それに顔まで変えて」
 「はははははっ、これが二十面相への礼儀というモノだよ」明智になりきって伊井が、快活に笑う。
  あぁ、しかし、なんということであろうか。助手の小林君が、いまにも一糸纏わぬ姿にされてピンクの唇をこじ開けられ、ズルズルと二十面相の舌に、いや舌ならマだ良いが萎びてスエた臭気を放つ×××を無理矢理に押し込まれたり、いやいや、その澄み切って凛とした輝きを湛える瞳がベロベロと二十面相の舌に、いや舌ならマだ良いが……中略……その小さく盛り上がった乳房の中央の少年にしては大きすぎる桃色の乳首がビチャビチャと二十面相の舌に、いや舌ならマだ良いが……、いやいやいや、その淡く腹筋の浮かんだ薄い腹部がピチュピチュと二十面相の舌に舐め回され、あろうことか恰好良く縦に割れた可憐な臍がグリグリと二十面相の舌に……、いや舌ならマだ良いが……、いやいやいやいや、その丸く盛り上がり引き締まった尻を力ずくで押し開かれヌラヌラと二十面相の舌に、いや舌ならマだ良いが……、とにかく色々と非道い目に遭っているかもしれないというのに、あぁ、なんということであろうか。我らが伊井暇幻は、激越に純真な目をした「少年探偵団」を侍らせて、コップ酒をあおったりしているのであった。

                    ●

  「僕、此処で死んじゃうのかなぁ」小林が膝小僧を抱えて蹲っている。勢い良く流れ込む水の音だけが聞こえる暗黒、既に冷たい水が小林の細やかな腰を濡らしている。
 「誰にも知られずに、此処で……。へへっ、まっ良いっかぁ」明るく振る舞う声が寂し過ぎる。
 「誰も悲しんだりしないよね」震える声が自嘲する。せめて、自分の声に話しかけられていないと、自分がなくなってしまいそうだった。独白は続く。急に明るい声になる。
 「先生っ、僕には先生がいるっ」暫しの沈黙。
 「くくっ、あははははははっ。馬鹿だなぁ、あんな男を信じるなんて。アイツが悲しんだりするもんか。どうせ、すぐに、別の子を……。うっううっ、あんなヤツっ、あんなヤツっ」嗚咽が小林の肩を揺する。地球に何十億の人間がいるか正確には知らないが、たった一人、コンクリートの壁で隔離され、小林は啜り泣いていた。
  「……ん?」小林が不思議そうに顔を上げる。いつの間にか水の音が聞こえなくなっている。考え込む。小林の顔がパッと明るくなる。
 「そうかっ、松山は渇水で断水中なんだっ!」。元来、雨が少ない瀬戸内海地方は環境破壊による温暖化やら森林伐採やらで気象台始まって以来の大渇水、松山市と周辺は給水制限をしていたのだ。
 「助かったぁ」ヘナヘナと崩れ落ちる小林、
 「あははははっ、助かったぁ」。

                    ●

  「どうやら、此処のようだな」狂気を感じさせるほどに純真な目をした「少年探偵団」を引き連れて、伊井が廃ビルの前に立った。歩きにくそうだ。背の低い伊井は、明智小五郎に変装するため踵が十五センチもあるシークレット・ブーツを履いているのだ。
 「これでも、竹馬は得意だったんだ」意味不明なことを呟きつつ、ペンギンのように歩いていく。何も考えないまま廃ビルに入った伊井は、何も考えずにエレベーターに乗り込み、何も考えないうちに二十五階に着いた。
  「どこだ、二十面相」伊井は恰好良く呼ばわったが、其処には誰もいなかった。頭上で伊井の声を聞き、小林は狂喜した。
 「先生っ、やっぱり助けに来てくれたんだね」目が潤んでいる。さっきまで伊井を疑っていたのに。小林は案外、ゲンキンなのかもしれない。
  伊井がちょうど小林の真上に来たようだ。小林は叫ぼうとした。と、そのとき伊井のブツブツ呟く声が聞こえた。耳を澄ます。
 「ほほぉ、クラナッハじゃねぇか。うーむ、吊り気味の澄んだ瞳、凛として純粋そうな視線、頬は可愛くフックラしているが尖り加減の顎にキュッと絞られる。っかぁー、堪んねぇな。こーゆー純潔を尊びそーな気の強い奴を、グッチャグチャに辱めて泣きじゃくらせるってのが、良いんだよなぁ。きっきっき、さぁて、早いとこ小林を連れ戻して、バッコンバッコンと……、ぐふふふふふふ」。
 「やっぱり先生って、二十面相の同類だったんだ」小林は悩んだ。
 「あの変態の所に戻るより、此処でヒッソリ死んでいった方が、幸せかも……」考え込み、壁を伝ってグルグル歩き回る。考えるとき、部屋の中を歩き回るのが小林の癖なのだ。
 「あぁ、どうしよう。どうしよう。どうしよう。わあっ!」突然、手が支えを失った。壁に激突し、肩を打った。
 「痛っ、……あれ?」壁にポッカリ穴が空いていた。直径は50センチぐらい。小柄な小林なら、楽々入ることが出来る。水が流れ込んでいた穴らしい。
 「よぉし」小林は穴に潜り込んでいった。
  穴は徐々に勾配がキツなり、垂直になった。進むうち、段々明るくなっていった。
 「眩しっ」小林は慌てて目を閉じた。暗黒に慣れた目に、夕暮れの空が飛び込んできた。這い上がる。コンクリートの箱の中に出た。貯水槽らしい。屋上だ。全身に暖かい太陽光が降り注ぐ。スックと立つ。勇気が漲ってくる。貯水槽の壁越しに辺りをヘイゲイする。眼下に瀬戸内の穏やかな海が広がっている。グルリ見渡した所で、視線が止まる。発見したのだ、二十面相を。黒マントを羽織った黄金仮面が、口を開けた大きな木箱に上半身を突っ込んで、何やらゴソゴソしている。
  「二十面相っ」小林が叫ぶ。黄金仮面は、ユックリと振り返る。姿勢を正して小林を見上げる。風が、海から陸に吹き始めた風が、黒マントを翻す。深紅の裏地が、燃えるようだ。ツヤのあるタキシードがピッタリと身に着き、スラリとした脚に繋がっている。オシメはしていないようだ。ユッタリと唇を開く。
 「上出来だ。ただし、私の知っている小林君なら、もう少し早く脱出していたよ」
 「またワケの解らないことを……。内府像を返せっ。内府像は、他に自慢できるモノがない宇和島の、唯一の誇りなんだっ」
 「ほほぉ、誇りの根拠を過去に求めるか……」
 「なっ、何をっ」イキり立つ小林に、気取って首を振りながら
 「根拠のない誇りを、虚栄心と言う」
 「う、うるさいっ。おとなしく縛につけっ」小林に似合わない古い語彙が飛び出す。二十面相は鷹揚に笑って
 「元気があって宜しい。しかし、君では俺を、この二十面相を捕らえることは出来ないよ。俺を捕まえることが出来るのは、唯一人……」。

                    ●

  「そこまでだ。二十面相君」我らが名探偵が、上に馬鹿が付くほど純真な目をした少年探偵団もどきを率い、忽然と姿を現した。愕然とする二十面相、
 「あ、あ、あ、明智っ。お前は、明智小五郎!」
 「変わっていないな、二十面相君。君の犯罪には無駄が多すぎるのだよ」
 「うぬぅ、してヤられたかっ。だがな、明智君、この二十面相を捕らえられると、本当に思っているのかい」
 「無駄なアガキは止せ。このビルは二百人の警官隊に取り囲まれているのだよ」
 「二百人?  ははは、このオイボレを捕まえるために、二百人だと」
 「二十面相が相手だからな」
 「くくく、有り難う。俺にとって、最高の賛辞だよ。だがな、警官ごときが二百人、いや三百人いようと、無駄だよ。なにせ俺は、二十面相なのだからな」老人とは思えぬ素早い動作で二十面相が、ヒラリ、側に置いてあった木箱に飛び込んだ。小林が駆け寄ろうとする。が、キリッと見返す二十面相の眼力に立ち竦む。
 「小林君。いや、君が、私の知っている小林君ではないとは解っている。しかし、あまりに似ているのだ、小林君に。だから……、小林君と呼ばせてくれたまえ」仮面の奥の目が急に柔らぎ、
 「愛していた……小林君」。アッケにとられる小林、優しく見おろす二十面相。ブワッ。突如、二十面相の頭上で、黒い巨大な袋が膨らんだ。木箱がユルユルと持ち上がっていく。
 「あっ」再び駆け寄ろうとする小林を、明智/伊井が背後からガッシリ捕まえる。
 「先生、二十面相がっ、二十面相がっ」
 「行かせてやれ」
 「でもっ、でもっ……」
 「行かせてやれ」伊井とは思えぬ、毅然とした声だった。ユラユラ揺れながら上昇する気球から、二十面相が身を乗り出し
 「さらば、小林君。贋の明智君」、快活な声が降ってくる。
 「そして、……有り難う。ははっ、ははははははは」蒼く抜けきった空に、二十面相の高らかな笑い声が広がっていく。
  「ロマンよ、安らかに眠れ」呟く伊井の声は、微かに潤んでいた。
 「え?」驚いて振り返る小林。気球をグッと見上げる伊井の頬に、一筋、二筋の涙が伝っている。パウッ、パウッ、パウッ。軽やかな破裂音が響く。キョロつく小林に伊井は、
 「ワルサーPPK/S。二十面相らしい銃だ」。
 「銃?  ああっ」小林が悲鳴を上げる。黒い気球が見る間にシュルシュルと萎んで、百メートル下の海面に、落下していく。
 「大変だっ。先生、先生、早く警官隊に言って、助けて下さい」
 「助からねぇよ」
 「そ、そんな……。じゃぁ、僕が言ってきます」
 「誰にだ」
 「だから……、警官隊に……」
 「そんなモン、何処に居るんだ」
 「だって、先生、さっき二百人の警官隊が、って……」
 「嘘に決まってるだろ。警察も、オカシな年寄りに拘わっているほど、暇じゃねぇよ」
 「そ、そんな……」。
 「俺はな、ガキの頃、学校の図書館で、汚ぇ木造の図書館で、少年探偵団シリーズを貪り読んだ」
 「え?  何ですか、突然」
 「二十面相に憧れたよ。明智小五郎じゃぁない。二十面相に、だ」
 「何を言ってるんだよぉ。解らないよ」
 「二十面相は俺の、いや、俺たちのヒーローだったんだ。夢中だった。文字通り、夢の中で二十面相と遊んでたんだ」
 「…………」
 「夢を見たまま往って欲しかったんだ、彼には、彼だけには……な」
 「じゃぁ、じゃぁ、先生は二十面相が自殺するって知ってたんですか」
 「当たり前さ。あの死装束を見りゃぁ誰だって解る」
 「死装束?」
 「オシメしてなかっただろ」。二人の背後で、とても純真な目をした少年探偵団が、寄り添い合って泣きじゃくっている。
  でっかい太陽が、瀬戸内海に沈んでいく。少年の小柄な影が、もじゃもじゃ頭の男に寄り掛かる。男の影が、しゃくりあげる少年の肩を優しく抱く。でっかい太陽が、瀬戸内海に沈んでいく。

(お粗末様)
 

◆蛇足◆

●伊井暇幻(いい・かげん)  愛媛県宇和島市に住む私立探偵。第一作では「忍者の末裔」として、忍びの術を使うが以後、それらしいことをしていない。性格は最悪で鬼畜のような奴。すけべぇ。性別はサド男。夢幻亭衒学と名乗る双子の弟がいる。

●小林純(こばやし・じゅん)  十七歳。想いを寄せていた年上の女性が結婚すると聞いて逆上、その女性をレイプしてしまう。学校(私立のセパレート高校)を退学になり、家を追い出される。街で伊井に拾われ、同棲。助手兼愛人。勇敢で純真、頭も良くて運動神経は抜群。美少年、と見まごうばかりの美少女。

●高橋美貴(たかはし・よしたか)  身長182センチで筋骨隆々のニューハーフ。美形。男にしか興味がない。小林を弟のように可愛がっている。武芸百般に通じる。二十五歳。高等文官試験を圧巻の成績で通過した元・エリート。何故、彼がニューハーフになったかは、謎とされている。伊井の助手。  因みにシリーズ第一作は、小林純と高橋美貴が、実は見かけと逆の性別だった、とゆーだけの話だった。

●オクトパス  宇宙人。成りゆきで伊井と対決、敗れて助手になる。対面している相手のセクシャリティに応じて肉体が変形する。女には男、男には女、そして僧侶を前にしたときは稚児形の阿修羅像に変形した。

(本作はPC−VANのAWC長編ボードに1994年12月31日に掲載したものの改行を改めたものです。シリーズ物の第三作だったか四作だったかですが、既に電子の塵として消えています。私のパソコンにも、この「復活! 二十面相」しか残っていません。)

◆自己紹介

◆表紙

◆犬の曠野表紙