房総志料
 
……中略……
一、那古の海に桑の児といふ介あり。他月はなし。独正月十四日の夜のみ有と。此宵海人潮の涸をまちて採ると。土俗相伝て此宵を介の嫁する夜といふ。其状蛤蜊に似て小なり。殻に横文あり。或青或赤又斜に煙霞の状をなすあり。其味蛤蜊にまされりと。是恐本草載る処の文蛤なるべし。又浪の児といふ介あり。彼土の名産也と。
一、義経記に頼朝小湊の渡りして那古の観音をふし拝み雀嶋の明神にまいり、それより龍嶋に著と。按に小湊は東のかた東条の地、誕生寺といふ日蓮派の前の海湾をいふ。那古は西野かた平郡の地、相距る事十許里。此記を書る人伝聞の誤なり。又雀嶋龍島は洲崎より上総天羽郡に赴路なり。
……中略……
一、館山より東南に館山城の故墟あり。山上に浅間の神社あり。又千畳敷などいふ処存せり。今は尽く耕地となりぬ。見者麦秀の感を発す。又大手の門柱近比まで残りしが今はさなくらといふ処の道の側に倒ると。
一、里見氏の印は三面の大黒なりと。按に九世同印にてもあらじ。
一、里見氏盛なりし比は永楽銭にて采地の割ありしと。永銭一貫文は十石に充と。
一、柏崎村に観音堂あり。土俗ぼつけの観音といふ(按、鎌倉ニノツケ堂アリ)。
一、滝田と汐見の堺に手斧ぎり明神といふあり。旧伝ふ稲田姫をまつると。道をへだてゝ左右に二社あり。上の祠下の祠といふ。上の祠の側に大なる石窟あり。むかし手斧きりの明神、使神をして霊区を求、使神此地の霊なるを愛し窟に隠れて復命せず。主神大に怒、来り責れども卒に窟を不出。故に主神やむ事をゑず今の下祠を領すと。
一、なたきりの明神の窟、瀧口明神の社中まで行程三里が間ぬけとをれりと。近比一修験あり。窟の広狭遠近を極見むとて犬をともなひ炬を持し窟中に入。三日を経て犬はかへり修験は死てかへらずと。此説に拠ときは窟中迂遠し幾曲といふ事をしらず。あやしき事也。
一、手斧明神の社僧の説に寺宝に長さ二間許木を■アナカンムリに兪/して造れる船あり。何の木といふ事不詳。相伝、水府中のものと。思ふに、かくいふ事にもあらじ。蝦夷より漂流せるものなるべし。如何となれば蝦夷志といへるものゝ中に其舟楫小者刳木如大古之制といふ事みゆ。かゝるものなるべし。
一、同じ説に、手斧明神始窟をうがちし時の手斧、何れの比の社僧にや、洲崎明神の社僧となり移転の日、彼等の什器とすと。今に彼土養老寺に伝ふと。
一、那古の観音より南に当り海面に出たる山は、ばんだ・はさまの山也。洲崎明神の建し山は那古よりはみへず。ばんだの山の後なり。明神の建し山は西に面せり。
一、洲崎明神は后神天比理乃■口に羊/命をまつれり。延喜式にみゆ。
一、洲崎の山は南に当れり。然れども山の鼻は斜に北にむかへり。
一、洲崎明神別当を吉祥院といふ。真言派なり。寺宝に頼朝明神に通夜ありてよませ玉ふ親筆の艸ありと。
一、洲崎明神の社僧は養老寺といふ真言派なり。相伝、元正帝養老年間の開基なりと。今寺領五石あり。甚だ衰たり。
一、洲崎明神の社領、鎌倉の比には、まさき村といふ処まで十二村一千町寄付の地たりと。今は微に五石の神領を存す。
一、洲崎明神の昔の祠司は太郎坊といふと。
一、洲崎明神は日蓮のふかく崇敬せしといふ事にて今に彼一派信ずる事他に異なりと。
一、洲崎明神の社僧養老寺の山足に石窟あり。窟中役処士の一石像を置。精工不凡。後世のものにはあらず。側に湧泉ありて奔出す。独鈷水と名く。相伝、処士の呪する処、旱天にも涸れずと。按、続日本紀文武帝紀に役君小角于伊豆嶋といふ事みゆ。此地大嶋を距る事海面十八里。思ふに此地むかし処士遊歴の地と見ゆ。故に後人此処に石像を置と見ゆ。
……中略……
一、頼朝洲崎明神にてよませ玉ふ歌に、源は同じ流れぞ岩清水せきあげてたべ雲の上まで。此うた源平盛衰記に見ゆ。しかれども歌の意に拠に鏡浦の八幡にてよみたまひしやうなり(鏡浦八幡前にみゆ)。又源平盛衰記に、彼洲崎の明神と申は八幡大菩薩を祝奉りしと有とも誤なり。延喜式見つべし(説、前に詳なり)。
一、義経記に、頼朝安房国洲崎といふ処に御船をはせ上げ其夜はたきぐちの大明神に御通夜ありて夜とともにきせいをぞ申されけるに明神一首をぞ示したまふ。源は同じ流れぞいはし水たゞせきあげよ雲の上まで。兵衛佐殿三度拝し奉り、源は同じ流れぞ岩清水せきあげてたべ雲の上まで、と有。按に、瀧口明神は(或、小高明神とも云)安房郡瀧口村に建(瀧口七浦に近し)。洲崎を距る事三里許。此説恐は非なり。
……中略……
一、七浦と称せし地は、川下・岩目(嶋崎と一浦なるべし)小戸・原・塩浦・乙浜・白間津、是なり。
……中略……
一、洲崎の漁夫の説に、大嶋四郡に割と。南北五里東西三里許有と。或いふ、大嶋牛のみ有て絶て馬なしと。又大嶋の側に小嶋二ツ見ゆ。一はとしま一は飯嶋といふ。ともに大嶋に比するに大さ拳の如見ゆ。然共、大嶋よりは遙に大なりと。
……中略……
一、洲崎より三浦へ七里。尉ケ嶋の列松などは数ふべきが如に見ゆ。
……中略……
一、府中は地名にてはなし。安房の国府といふ事なり。順和名抄に、安国府在平郡、と。然れ共、今安房郡に隷す。又府中を国中といへるも国府なればなり。
府中に宝珠院といふ真言派の大刹あり。里見氏の祈願所也。寺領三百石を付ふ。或いふ、三百石のうち五十石は末寺領なると。
……中略……
一、府中元織村延命寺といふ禅院あり。里見氏数世の墳寺なり。寺領三百石。里見九世の記載古文書其他兵器什宝となりて有と。又九世の影像もありと。主僧に乞てみつべし。
一、延命寺の山門に艸書にて長谷山と書し額あり。月舟筆とあり。月舟は室町の代建仁寺の僧也。
一、府中の人の説に彼土近あたりに千騎橋といふ有(酒間、地名を聞洩す)。相伝、頼朝の兵、此処にて千騎になると。又朝夷郡のうちに朝夷奈村といふ処に千騎原といふ有。説、前の千騎橋に同じ。後人誤て里見氏開国の事とせるは非なりと。
一、平郡平郡村に天神の神社あり。神領五石。府中宝珠院三百石のうち也と。社僧のかたりしは、室町の比、細川氏大檀那となり此地に菅神の社をたつと。寺宝に細川の祈願書一軸あり。又里見氏の白旗一竿古仮面三個ありと。細川は数世室町の執権たれば、いづれか詳ならず。
……中略……
一、安房郡府中の地より長狭郡大山寺へ行道に冨山と云処あり。彼山へ登らんとすれば犬懸より左へ転ず。冨山正面より登れば甚峻し。よしひ村にかゝれば五六町もまはりなれども道峻しからず。冨山は彼土第一の高山にて那古洲崎七浦等の海直下に見ゆ。又冨山をくだりて平郡村の天神へ行には伊予が嶽を左にし行(按に、平郡天神の後に峻しき山みゆ。是則伊予が嶽なるべし)。此山も冨山にをとらぬ高山なり。山の形甚だ奇なり。鹿野山よりも見ゆ。又平郡村より長狭不動へ行に峯岡山をも通る。荒川通よりは少しまはりなり。冨山山上に観音の堂あり(予此日憊る事甚し。直路に従ひ長狭不動に至る。恨くは冨山の勝を洩しぬる事を。姑嚮導の談にもとづき其一二を■玄ふたつ/に記す。按に、平郡村天神より望に峻しき山に見ゆ。是恐は伊予が嶽なるべし。猶亦可考)、長狭郡峯岡山は官牧の地也。東は磯村大夫崎に起り西は平塚辺の山まで東西三里余南北一里許ありと。又峯岡のうちに野尻あしや木などいふ牧の名ありと。又西南の方は朝夷郡の地なりと。
一、安房の地方四郡のうち土地沃壌なるは長狭を第一とす。次は安房郡其次は平郡朝夷は負海の地也と。
一、府中延命寺より長狭の地不動へは北に面して行。又荒川辺よりは東南に折(行程五里余)。又不動より東条浜荻へは正東なり(行程四里余)。
……中略……
一、長狭郡小塚村より上総鹿野山へ行路に木の根といふ絶頂あり。是則房総の界也。それよりくだりて上総の地天羽郡関村といふ処に至る(行程二里)。関村は安州より上総の地天神山への路なり。関村駅あり。是より鹿野山まで二里。
……中略……
一、長狭郡不動は高蔵山大山寺と号す。堂は東に面せり。殿宇鉅麗、聖武帝神亀元年の開基、良弁僧正の彫刻にして相の大山寺の不動と同木同作也と。
一、不動の祭は七月七日なり。ふりうといゝて村々のくみあい有て二十七番と別ち、いづれも越後獅子を蒙り舞と。ふりうは風流と書と。
……中略……
一、義経記に、安房国住人まちの太郎あんないの太夫、源氏に付と。按に、まちは前にしる背る長狭郡小町村の事とみゆ。又あんないは安西を誤れるにや。かくあれば安西三郎景益が事なるべし。或いふ、朝夷郡に安倍(アンバイ)といふ村あり。あれなるにやと。
一、長狭郡花房村に経忍寺といふ日蓮派の寺あり。寺領三十石。文永中日蓮の弟子経忍坊といふ僧、東条の主左衛門景信といふものゝ郎従にうたれし地なり。日蓮の事記せしものに詳也。
一、経忍寺の末寺に桂松寺といふ寺有。是亦文永中景信日蓮にせまりし時日蓮傍の松に袈裟かけしを後人名けて袈裟かけ松と呼しを近比彼木をきり日蓮の像をつくり堂中に安ず。寺となりしは実に享保中の事也。始は四壁の艸堂なり。
一、長狭郡千光山清澄寺は寺領二百石付す。神武帝の時天冨尊を崇し霊場と彼寺の縁起にみゆ。古語拾遺を考に天冨尊至阿波国殖麻殻又分阿波斎部往東土殖麻殻阿波忌部所居便名阿波郡天冨尊則於其地立太玉尊社今安房社是也と。かくあれば天冨尊を祭れるにてはなく天冨尊安房郡の地に太玉損を祭れる也。旧事記に載する処も亦しかり。按に、旧事記古語拾遺、所説ともに安房郡とあり。然ども今清澄山の地、長狭郡にして安房郡に非ず。是又いぶかし。再按に、古書所載自今見る時はあやし。然ども古へ安房の地未一国に不建以前は上総に隷せるなれば上代には普く安房一州を指て安房郡といゝしと見ゆ。安房は日本紀に拠に淡水門より出たる名なれば、かく書しと見ゆ。又延喜式にも安房郡安房坐神社と有も古書に本づきての事也。
一、清澄山の縁起を見るに光仁帝宝亀二年草創とあり。思ふに此比よりして虚空蔵菩薩を安ずと見へたり。
……中略……
一、清澄山の堂は上総夷■サンズイに旡ふたつ下に鬲/の地。寺は長狭郡の地也と。華表の建し処より堂まで一里あり。
一、清澄山の地、西北は上総望陀夷■サンズイに旡ふたつ下に鬲/の地なり。又縁起に房総二州の鎮守とあれど今は却て安房にうばゝる。清澄山の領せる地、山中三里四方ありと。
……中略……
一、長狭郡東条小湊浦に高光山誕生寺といふ日蓮派の大刹あり。寺領七十石。日蓮誕生の地なり。寺の側に誕生水と云あり。又日蓮の事記せしものに、日蓮父が遠江国の主貫名重忠といふ寇族也。母は清原氏。此地に配せらるゝの後、後堀川帝貞応元年に日蓮生る。小名は薬王丸。十二歳にして清澄山道善坊の弟子となると。按、今誕生寺の建し地は流人重忠が居宅の地なるべし。
……中略……

巻三

一、古語拾遺に上総を上麻と書す。あさもふさもともに扶桑より転来れり。
一、古事記国造に上総はなし。上海上あり。海上は上総の府なればなり。
一、夷隅郡、古書には夷■サンズイに旡ふたつ下に鬲/又は伊甚に作る。
……中略……
一、棘鬣魚の名目に大田木の称有ものは国初の比までは夷■サンズイに旡ふたつ下に鬲/郡の海に産する処のもの大田木に至り、それより東武の市へをくりしなれば、かくいへり。大田木は其比の大街なればなり。東鑑に蛤蜊といへるも同じ(東鑑蛤蜊別見)。
……中略……
一、東鑑に上総権介広常弟金田頼次といふものあり。三浦畑山と戦の時、七千余騎を率ひ義澄に加る。有勢の者と見へたり。按に、金田は長柄郡兼田村の事也。又東鑑に頼朝寄付金田郷於玉崎神社と有も此地の事也。彼土人説に、彼地に大村と字せる処あり。近比までは其地をめぐりて深き沼なりしが今は埋て田となると。是則、頼次が舘の地と見へたり。
一、東鑑宝治元年の下に於上総国大柳之舘誅上総権介秀胤とあり。按に、大柳は長柄郡一宮の事なるべし。今一宮に城山といふ処あり。側に柳が谷と字せる地あるにて知べし。又一宮に傍て青柳村といふ有。是又考みつべし。
一、前に記処の秀胤を広常が余裔なるかといふ人あり。さる事にてはなき也。広常鎌倉に事有の日、其孫永く絶たり。こゝに秀胤といへるものは千葉が支族なり。東鑑宝治元年の下に秀胤舎弟相伝亡父下総前司常秀遺領埴生庄といふ事みゆ。是にてしるべし(按に千葉数世名の下に胤字を連るにて可知)。
一、東鑑に秀胤誅後足利左馬頭正義拝領秀胤遺跡といふ事見ゆ。又文暦二年の下に上総介義兼といふ者みゆ。是また正義が孫なるべし。ともに事跡の伝ふべきなきも姑こゝに記して考に備。
一、一宮城主を土族相伝て、あこなし御曹司と云。是は太平記以後室町の比、小封の主をいふなるべし。あこは乳母の事也。乳母のうみたる子といふ事也。今も本州の方言に子を産をなすといふ。是則徂徠先生の説なり。是證とすべし。
一、割居の代の事記せしものに一宮城主を鶴見甲斐守といふ。一説には正木大炊介といふ。按に大炊は城主にして鶴見は物主などにや。
一、夷■サンズイに旡ふたつ下に鬲/長柄の二郡杜鵑なし。市原望陀などの二郡には有と。旧伝、元禄の比までは農事に至りぬれば夥しく飛鳴せしが気候のかはれるにや正徳中よりして絶てなしと。今もふるき人は冥途の鳥といふ。杜鵑をめいどの鳥といふ事、歌にもよめり。蜀魂の故事也。
一、夷■サンズイに旡ふたつ下に鬲/郡大野村の山は嶮難なるたゝずまひ房州の諸山に類す。古の官牧の地なり。延喜式にみゆ。今も駒ごみなどいふ地名を存せり。
一、山辺武射の二郡牛なし。如何となれば砂土にして牛耕なければなり。彼地の女児輩偶牛を見るもの駭懼る。
一、市原郡鼠坂を登れば左の方に森あり。何れの比にや彼地にどうきやう寺といふ大刹の建しと。昔百坊ありしが狗怪ありて一時に焼亡すと。按に皇極帝寵僧弓削道鏡禅師下野国薬師寺の別当職に任ぜられし事、日本紀に見ゆ。此僧などの創業にや。かくあれば道鏡寺など書べきやうなり。
……中略……
一、長柄郡の俗、河豚を最珍とす。賓筵の奇膳と設け或は隣里相餽に至る。夷■サンズイに旡ふたつ下に鬲/郡などにては賤民といへども不顧。南北嗜好を異にすといへども厚生の徒宜く慎べし。
……中略……
一、長柄郡一宮の人語しは、彼土の漁夫一日海に傍てゆく。米苞数十波間に漂を見る。一苞渚に近くこれを捜るに小仏の薬師の像幾といふ事しらず。其人怪遂に尽く持しさり東福寺といふ禅院の什器とす。俗にたはら薬師といふこれ也と。実に寛文年間の事也と。按、是又土気領の村民尽く日蓮派となりし比海中に投ぜしものなるべし。
一、房総記に榎本城とあるは長柄郡千代麻呂と云村に接せる榎本村の事也。城主の姓名失す。里見氏に属せり。
一、山辺赤人は上総国山辺郡の人也。彼地にさゝぐりとて長さ一尺ばかりなるが栗のなると古今栄雅抄にみへたり。按に此もの筑紫宰府栗といへるものなりと人のかたれり。土俗三春栗といふ。実大さ小指頭の如し。彼地辺の山中最多し。山人刈て薪とす。再苗を生ずるもの又実を着。三春栗とはいへど二春にしてやむ。爾雅所載■キヘンに而/栗本艸の茅栗これなり。近比京都愛賞家の求に応ずと。
……中略……
一、鹿野山の僧の語りしは快晴の日彼土より戌亥に当り上野の山みゆと。いづれの山などにや。思ふに是則碓日嶺なるべし。倭武尊ト旋の日此山より山東を顧橘姫を哀慕したまひ吾妻者耶とのたまひし事日本紀に見ゆ。此辺より東を望に秩父を右とし二荒を左とす。東武まで行程三十六里一帯平地にして絶て山なければ見ゆべき事也(按に東武より鹿野山まで海陸ともに十四五里許もあり)。
一、夷■サンズイに旡ふたつ下に鬲/の俗、上巳の日戸戸に蒜を檐毎に挟みぬる事端午の菖蒲に等し。蒜なければ易るに葱を以てす。来由詳ならず。源氏物語に極熱の草薬といふ事みゆ。かゝる事の転ぜるにや。
……中略……
一、長柄郡帆丘橘神社は延喜式に載処、上総五社の其一。倭武尊の愛妾橘姫を祭れる也。此地古より鷹を臂にするもの至らず。或は誤て其地を過る時は故なくして鷹死す。神の鷹を忌たまふ事にて飼鷹師甚だ畏るゝ事なりと。
……中略……
一、望陀郡の人かたりしは頼朝安房より上総に至りたまひし時、木更津浦近きあたりにて飢る事甚し。公民家に入て食を求む。土人漆椀の半剥たるに麦飯を盛てすゝむ。公欣然として一飽す。それよりして彼地の名を古椀村と呼と。或はいふ請西村に隷せる一小村なりと。むかし重耳過衛飢従野人乞食野人盛土器中進之と。此一事頗同じ。重耳も公もともに覇王たり。
……中略……
一、上総国青砥荘といふ事、東鏡に見ゆ。其地未考。北条氏の比、青砥左衛門藤綱が采地なるにや。
……中略……
一、夷■サンズイに旡ふたつ下に鬲/郡高山田村の山中に弓折塚といふ処有。相伝、割居の代、里見氏万木と戦ひ此地に至り里見氏戦破れ弦絶矢尽と。
一、本州の俗に七里法華といへるは大率長柄山辺二郡縦横六七里の地を指いふ也。旧伝、文明中、土気城主酒井氏領地をして日蓮派たらしむ。此時よりの事也。しかれども二総の界武射郡に至りぬれば却て彼徒は稀にして真言宗の古刹のみ多し。いかにして免れたるにや。
……中略……
一、天羽郡吉野村に吾嬬権現の神社あり。八月十七日祭礼の式あり。望陀郡吾妻村に祭る処と同じく橘姫をまつれり。
……中略……
一、長柄郡上郷村に諏訪の神祠あり。側に樟樹の大さ十八囲盤根半石と化したるあり。枝葉婆婆として日気を透さず。地を去事丈許にして六岐となる。中心朽腐して竅あり。其形洞窟の如し。径丈余、其中数人を坐すべし。底暗くして深さ涯なし。此もの社樹ならざりせば斧斤の害はまぬかれがたし。
……中略……
一、望陀郡に遊る僧の物語に彼土に畑塚と云処有り。相伝、大友皇子自殺したまひし処と。又下市場と云処に虞氏が徒十二人深くかくれ居たりしが皇子の死たまへると聞一時に雉経す。今に彼地にまつる処の十二所権現是なりと。
一、大友皇子に随従せし人を神と祭れるが七十七社ありと。
一、大友皇子官軍に襲れたまひし時其処の民名は神崎なるもの皇子を憐みあらごもを背に著て皇子を負まいらせ冨田川を渡ると。今に其処にこもすて川といふ処有と。
一、大友皇子の御舘は小川といふ処に建しと。本篇載処久留里領俵田村の条と照し見つべし。
一、長柄郡帆丘に近きあたり七渡といふ処あり。割居の代彼地に龍堂寺といふ真言派の古刹あり。此比土気の城主日蓮派に傾き諸宗を駆。龍堂寺も同じくからる。龍堂寺後に埴生郡報恩寺村に遷り名を法音寺と改。寺に古鐘一口あり。銘に龍堂寺とあり。始七渡に寺の建し時の鐘なり。又七渡の廃地は此時よりして日蓮派の寺となる。旧号を襲今に龍堂寺といふ。寺の側に古塚二ツあり。一は仏塚といゝ一は経塚といふ。始龍堂寺真言派たる時の仏像経巻什器等を埋し塚と(按に埴生郡雲上山報恩寺は醍醐三宝院の末寺新義真言派末門徒十二寺寺領十五石上総檀林表八寺の其一也)。
一、上総の俗に月毎に亥寅午の日配当ありて其月の当れる日を三隣亡と云。譬へば正月朔亥の日なれば朔日十三日廿五日を云。二月は寅三月は午是亦同じ。四月は亥に復す。以下倣之。此月修屋採薪の功事を断。しからざれば祝融祟りをなすと。三隣亡名義不通。此俗夷■サンズイに旡ふたつ下に鬲/一郡のみと思ひしに武州鉄沢の俗もしかり。又上州にては処によりて此日に当りぬれば正月門戸のかざりをせずと。古の三嶋暦などにはありもやすらん。尚また考ゆべし(按に豆州に暦者五人置事延喜式に見ゆ)。
……中略……
一、市原郡に武士村といふあり。彼土に山高くして舟行の標となるあり。山上に古神祠あり。按に武士は建市を誤れるなり。貞観十八年上総国建市神授従五位下といふ事三代実録にみゆ。往古祀典(班幣之礼)に預し神なる事可知。土俗相伝、神誓ありて盗賊を護すと。賊遁て此山に匿るゝ時は見へず。故盗神の称有と。思ふに跖が徒を祭れるにてもあらじ。此地山深く居稀にして亡命逃鼠の徒の巣居となりぬれば、かく汚名を蒙らしめり。
……中略……
一、天羽郡天神山の神社は菅■マダレに苗/にてはなし。古天津神を祭れる地なりと彼土人かたれり。津は助字なれば古はあまがみととなへしを前に記せし義経記を書し人の、はのがみと誤りしにや。l
……中略……
一、長柄郡勝見村に観音寺山といふ有。戦国の比庁南城主竹田{ママ}氏の物主大泉伊賀守といゝしものゝ住し処と。是等は所謂四十八城のうちにてはあらじ。
……中略……
一、上総の事記せしものに小弓御処義明営を上総の八幡に遷といふ事みゆ。又里見の事記せしものに義明を社家様と称す。又八省院公方とも云。八省院は八幡の宮号也。按、八省院は天子受禅の日百官告朝の処と拾芥抄にみゆ。宗■マダレに苗/の神なれば此号ある也。此皮の人八幡の宮号を仮て義明の舘の名とせるなり。
……中略……
一、天正中夷■サンズイに旡ふたつ下に鬲/郡万騎城陥の日穀倉火に焚今に焦米草間に多存せり。土人いふ瘧を咬んじるものに新汲水に一粒を投じ飲しむれば立どころに愈と。此説酉陽雑俎にもみゆ。殊域もかゝる俗あり。
……中略……
一、市原郡池和田の城主は多賀蔵人といふ。里見家に属せり。国府台戦の時城陥ると土人かたれり。
一、同郡の人かたりしは鎌倉の比和田左衛門尉義盛池和田の地に居住す。義盛遠矢射たりし処とて彼地にありと。
一、和田左衛門尉義盛在上総国夷北舘といふ事、東鑑に見ゆ。夷北の舘は大田木をいふなるべし。彼土は夷北の府なれば也。又前説に拠に池和田と大田木を交代せしにや。池和田大田木を距る事三里許。
……中略……
一、望陀郡の人かたりしは木更津の海上に往古橘姫の屍骸漂流したまひしを土人収て神としまつる。今の吾妻村吾妻明神これ也。近比其辺のわらはべ集り神像を潮水に浸し泅戯玩弄す。里長侮■女に曼/の罪を畏れ殿内に封鍼し巫祝をして護せしむ。其年一村癘気熾にして死亡のもの過多。里長神の祟なるかと察し再び殿内より神像を出し始のごとくわらはべに弄せしむ。それよりして疫勢相歇村中恙なしと。其後神像流に随ひ武の本牧浦にとゞまる。彼土再び祭る処の吾妻神社是なりと。
……中略……
一、武射郡松谷浦といふ処に正覚寺と云真言派の古刹あり。寺領五石。堂中釈迦の像を安ず。狭持は白刻の四天の像なり。高丈余。威相端厳。曾て人工に類せず。堂は古へ飛騨の匠なるもの建る処凡今に至るまで一千有余年に及べりと。巧麗古様見つべし。土俗はしやかん堂といふ。昔一僧あり。四天の像を彫刻せんと誓。然れども良材を欠の日久し。一日海面風波暴起し良材汀に漂を見る。僧感喜にたへず奇工を招卒に四天の像材とす。是より彼地を四天木といふ。今四手木に作るは非なりと。彼土の僧語れり。
一、長柄郡一宮の人かたりしは昔塩翁あり。早に出で潮水を汲。忽光彩波間に出没せるを見る。就て索之。明珠十二顆潮際にあり。翁採りて家に帰り籠に盛、壁間に掛。其宵明珠光明を吐き塩室を照す。翁恐て玉崎の神庫に秘す。今玉崎十二村の祭る処則是なりと。按予偶古今著聞集を閲て其説の相近を得。云、延久二年八月三日上総国一宮御たくせんに懐妊の後已に三年に及。今明王の国を治る時に望て若君を誕生すとをゝせらる。これによりて海浜を見るに明珠一顆あり。かの御正体にたがふ事なかりけりと。此説に拠ときは俚談といへども拠有に似り。
一、日本紀安閑帝紀云、内膳卿大麻呂奉勅遣使求珠伊甚伊甚国造等詣京遅大麻呂大怒縛国造といふ事みゆ。按に帝の求処鰒珠などをいふにや。或別に事実あらん。姑付于此待のみ。
一、玉崎明神の神像延喜式所載無所見。他書考へ見つべし。姑著聞集に載るが如は豊玉姫をまつるに似り(著聞集の説前に委し)。
一、埴生郡に左坪村といふ処有。彼土に大杉樹五抱のもの有と。社樹なるべし。
一、割居の代所謂四十八城と称するもの上総に二十六城あり。詳に左に具す。戦争興廃の事は別に記せるものあれば今こゝに贅せず。
一、大田木(夷■サンズイに旡ふたつ下に鬲/郡)正木大膳居城。根古屋城といふ。御入国以後本多氏居城。在城十一年其後勢州桑名へ遷る。慶長五年同次男雲州侯居城(按に本多雲州侯慶元役に於大坂戦死す)五万石を領す。其後承応中阿部因幡侯同伊予侯領す。其後御料となる。元禄十五年稲垣対馬侯領。同十六年松平備中侯領となる。
一、土気(山辺郡)房総治乱記といへるものを考に羽賀伯耆守居城と書す。然れども土気酒井家譜を考に酒井小太郎定隆といふもの長享年間土気城を築と。又云、定隆始里見氏に属し上総三分二を領すと。其後六世胤治に至り里見氏下総国府台の戦敗て小田原に属すと。按に羽賀氏は長享以前の城主なるにや。且酒井家の物主などを誤れるにや。
一、東鑑(山辺郡)房総治乱記に山口主膳居城と有り。しかれども酒井家譜を考に定隆大永元年長男左衛門佐といふ人に土気城を譲り東鑑に隠居す。故土気東鑑(とうがね)を両酒井と称す。是亦山口氏も前に記せる羽賀氏と同じかるべし。
一、舎人(埴生郡)里見記に云、永禄七年国府台戦以後上総に有処。里見家に賊する処。所属の舎人榎本椎津等の城尽く落と(按城主姓名闕)。
一、八幡御所(市原郡)小弓義明事説前に詳なり。
一、榎本(長柄郡)見前。
一、椎津(望陀郡)前見。
一、久保田(同郡)里見記に云、明応三年里見義成、久保田椎津の城を攻と(按、久保田城主姓名闕。椎津城主本篇に見ゆ)。
一、造海(天羽郡)見本篇。
一、勝見(長柄郡)房総治乱記に勝見御所蒔田左兵衛正無支配と。按に御所は鎌倉持氏の余裔にやと思ひしに彼土人の説に御所は新田義貞の後裔寺崎の御所と称す。小田原落城以後勝見森氏に寓侯たり。御入国以後姓を吉良と改領地千石を賜ると。
一、真里谷(望陀郡)見本篇。
一、庁南(埴生郡)見本篇。
一、池和田(市原郡)見前。
一、勝浦(夷■サンズイに旡ふたつ下に鬲/郡)正木左近太夫居城(詳見前)。御入国以後植村氏領す。
一、一宮(長柄郡)見前。
一、小浜(夷■サンズイに旡ふたつ下に鬲/郡)鑓田美濃守居城。房総記に載。始里見氏に従ひ三浦へ渡海す。又土岐家臣鑓田美濃守とあるなれば後に万木に属せしとみゆ。
一、鸛台(同郡)三階図書介居城。後に万木に属す。
一、万木(同郡)房総記に載。万木城主土岐弾正少弼頼春は貞頼入道慶岩が男とあり。按に土岐氏墳寺海雄寺と云禅院に為弘(一本作頼元)為頼(諡ヲ慶含院ト云)頼春三世の影像あり。慶岩事未考。又甲陽軍鑑十三将の中に万木少弼とあるは頼春の事也。始土岐氏里見家と婚家たり。国府台の一戦以後小田原に属す。又天正中万木城陥の日頼春其徒と共に小浜浦より漁船に棹し江州平潟に落。それより参河に至り彼地にて終ると。又頼春の後裔房州浪太浦に土岐吉郎右衛門といふ。数世同名の人あり。一説に万木城一に冨山城と名く。応永中始て城を築と。
一、矢嶽(同郡)麻生主水介居城。万木城に属す。御入国以後鳥井氏領す。
一、鶴城(長柄郡)鶴見弾正居城。万木城に属す。
一、亀城(同郡)佐佐駿河守秀勝居城。万木城に属す(按に亀城鶴城同一山にして割て二城とす)。
一、鳴土(武射郡○一作成東)羽賀伊予守居城。所属未考。此地東鏡を距る事里許。東鑑に属せるなるべし。御入国以後石川氏領す。
一、帆丘(長柄郡)黒熊大膳佐居城。後里見家に属す。後に土気酒井氏に被亡。
一、佐貫(天羽郡)朝倉能登守景隆居城。里見氏に属す。御入国以後内藤氏領す。
一、久留里(望陀郡)里見越前守居城。里見記に云、里見実堯久留里城を築くと。かくあれば後に越前守をして護せしめしと見ゆ。御入国以後大須賀氏領す。
一、割居の代、所謂四十八城本州にある処二十六城其他は下総武州上州などに有ぬべし。右二十六城尽里見氏に属せる事しるべし。独庁南武田氏のみ甲州に属せり。勝頼亡国以後里見氏にも小田原にも従はず自立せり。
一、夷■サンズイに旡ふたつ下に鬲/郡大田木に円照寺といふ禅刹あり。寺領二十石付す。此寺に正木大膳が眉尖刀一枝什器となる。按に天正六年大田木正木大膳里見氏に反す。此人性剛強、諸士恐るゝ事疾雷の如し。一日酔臥す。部下某なるもの刺殺す。于此至り大田木正木氏絶。其後記せるものに正木大膳と云るものは里見義頼の二男弥九郎といふ人の事也。大田木正木事は他邦■占にシンニョウ/其名高し。故、其威武を示ん為に踵で此人をして再び正木大膳と名づけし也。此人天正十八年万木城を攻るの日先登に進み単騎にして眉尖刀を揮ひ土岐氏の兵薙ふせ殿して帰ると。今寺宝となるものは此人の眉尖刀なり(按に大田木熟根の正木大膳絶てより安房の正木大膳房州館山城と大田木城とを交代にせると見ゆ。詳なる事は安房付録中に見ゆ。今東武御旗本に正木大膳といふ人あるは此人の子孫なる事可知)。
一、長柄郡泉浦大東崎の岸下に一怪魚あり。常に潜伏して其処をかへず。風雨の起を待て現ると。海人いふ、背上蛤■虫にタテボウとヨコボウ三本/連著し大さ幾尋といふ事をしらず。偶見るもの■虫に豪/山の出没せるかと疑。然れども海気に護せられ其全を見る者なし。且いふ、眼光日に映じ張鰭植るが如と。魚船往々避去。時々出て舟を負。奥地の賈舶此処を過るもの最畏途と称し字して鬼が崎といふ。或いふ、此もの尾■魚に菊の旁/魚の如しと。按に、海人の此言の如なる時は爾雅の■魚に既/魚といふに無異。■魚に既/は■檀の木が魚/魚の各種にして性最健悪、魚の霊なるもの也(按、史記始皇本紀云、方士徐市詐曰蓬莱薬可得然常為大鮫魚所苦願請善射与倶見則以連弩射之云々。再按、是則大東海に潜処の悪魚是也。又韓文所載鰐魚是亦同。姑于茲書して怪談の一助とするのみ)。
……中略……
一、夷■サンズイに旡ふたつ下に鬲/郡山田村に御堂谷といふ処あり。近比彼土の側より五輪を多く掘出せり。上総介広常が舘の建し布施村に接しぬれば鎌倉の比の大刹の地と見へたり。
一、同村に陣場台といふ処あり。旧伝、上総介広常源氏に属するの日此処にて夷南の兵を会せしむ処と。或いふ、天正の比里見氏此地に屯し万木城を窺と。何れかさだかならず。
……中略……
一、夷■サンズイに旡ふたつ下に鬲/郡山田村に鈴木氏なる人あり。宅に近きあたりの山を相伝て城山といふ。何人の住し処といふ事不詳。思に上総介広常が管下小封の支族などの住しなるべし。
一、同じ村に小渠あり。一跨して越つべし。渠に渡せる小橋を相伝て尾株橋といふ。土人の説に上総介広常鎌倉へ赴の日駕する処の馬此橋にて躓き尾株を傷め一鳴して斃る。それより尾株橋の名ありと。橋の側に麦田をうがちて叢祠あり。是又相伝、馬霊を祭る処と。又馬霊の本社は彼土近きあたり星応寺といふ大刹の後に建り。社中に五抱の巨松有を見れば後世祭る処にあらじ(按に、里社に馬霊を祭れる事は非じ。何れの比にや彼土に変怪の事など有しを質朴の民巫現覡の言に驚惑し神と崇祭れるにて有べし。再按に、広常寿永二年十二月於鎌倉為梶原被誑殺。恐此時の事ならん。是則亡国の兆なる事知べし)。
一、天羽郡天神山の上に峯上といふ処あり。里見記に載。峯上城主真里谷入道道環とあり。又本篇に載処望陀郡真里谷村の城主是又土人相伝て同名とす。思ふに、道環なる者峯上と真里谷を交代にせしにや(按、峯上城是亦所謂四十八城の内なるにや。前に洩しぬれば茲に記す)。
一、夷■サンズイに旡ふたつ下に鬲/郡小池村に(岩曲岩船に近し)吾妻明神の森あり。今は蘋■クサカンムリんび繁/の礼典もなく茅茨土階有も叢祠無がごとし。土人相伝、日本三社の其一なりと。按に、かゝる事にてあらじ。本州に三坐ありといふ事也。吾妻神社望陀郡東村に一坐天羽郡吉野村に一坐ともに三坐といふ事也。又側に白旗神社とて叢穂kじょらあり。是又僅に四壁を存せり。又日本紀を考に倭武尊白鳥と化し陵より飛去と。白旗こゝに拠て思ふに彼土吾妻神社ある所由年代久遠にして今知べからずといへども三坐ともに仏法東漸以前に祭る処と見へたり。
……中略……
一、徂徠先生の南留部之に載。上総の国の内、本納と云所有。其側に法目といふ村有。本納に橘の祠あり。橘媛を祭れるなり。森の形船に似り。中に高き木ありて檣にかたどる。今は折うせたりときく。橘媛の乗給へる船此浦によせたりと故老の云伝る也。本納は帆丘なるべし。法目は帆埋なるべし。按に、森の形も亦船に似り。檣にかたどりし木今は枯うせたりと彼土の人かたれり。さはなくて本納法目の字名義会しがたし。
……中略……
一、庁南の城主甲州に属せるものは相伝、新羅三郎の余孫也と彼土の人かたれり。
……中略……

巻四

……中略……
一、夷■サンズイに旡ふたつ下に鬲/郡夷南の地布施村は上総介広常が舘の建し地なるを今知人稀なり。如何となれば東鏡源平盛衰記義経記等の書其地名を盛しぬればなり。姑今を以て考に、今の布施村なることを可知。然ども年代悠遠文献徴とするに足ざれば略。見聞するに随ひ且土人の口伝に存せるを採、数条を輯て左に載。其闕略の如は後人を待のみ。
一、布施村に山を背にし流を帯たる坦処あり。拾廻五六町も有べし。今は尽く耕地となる。此所より望に、一村直下にみゆ。実に降る諸侯の地とみゆ。土人相伝て殿台と云(或は云、景清が住し処と)。是則広常が故墟也。耕地を囲て池沼の趾あり。今は埋て田となる。南方は山つゞきにて甚だ峻し。梺に老樹繁茂せるが梢頭半腐枯枝相交鹿角の状をなせるあり。是亦相伝て舘の社樹と。之を望に正しく数百年来のものとみゆ。側に山を闢て道とせる処あり。両崖峙る形屏風を立るがごとし。舘の後門とみゆ。又東に面し正門とおぼしき所に坂あり。濶さ十間余とみゆ。此辺を凡て堀の内と字す。古の池沼の趾なるべし。又側にねごやと云所あり。今は民居となる。是亦みつべし。其こと徴なきも幸にかく地名に存せることを。又舘の前の流は源新戸村に発し七本布施長志山田新田野地を経て望知川に至り、かりや川に宗す。谿■サンズイに写/の小流跨べしといへども雨後下流を壅ぐ時は数村深潭をなし村民波臣となる。甚要害の地也(按に此地数世介の住し地とみゆ。広常一世にてはあらじ。何としてか実を失ひ却て景清がこととせるにや。思ふに源平の役に讃海にて景清水尾谷と軍争のこと普く人口に膾炙しぬれば戦国以来武を尊める余習かく伝会し来れるとみゆ。再按に、源平盛衰記に上総介景清同忠清と記せるをみて倶に上総の産と心得ぬるは非也。是は名のみ上総介になり其実は職務には預ざる也。古所謂揚名介是也)。
一、東鏡を考に、頼朝安房の地東条の旅館より和田義盛をして広常が許に使す(東鏡地名闕)。往来二日程にして其報あり。按に、東条の地より上総の地方往来馬行二日程にして至る所広常が舘と云べき所布施村ならでなし。詳に安房付録に載処考へみつべし。
一、殿台の梺に鍛冶屋舗と字せる所あり。旧伝古へ広常の刀鍛冶の住し処と。近頃彼子孫なる者住せしが今は絶て麦地となる。僅に其名を存せり。
一、殿台より北につゞき木立物ふりたる森あり。神明の森と云。古しへ伊勢宗■マダレに苗/の神を勧請せしとみゆ。森の後の山側を本地谷と云。大日の像を安ず。又南につゞき森あり。諏訪の神社あり。是またかみさびたる森なり。
一、殿台より東に当りて八幡の神社あり。祠宇有も無が如し。相伝て宇佐八幡と号す。又道をへだてゝ八幡の神社あり。土俗里社とし祭る所、正八幡と号す。按に、土俗宇佐八幡と号せしものは、古しへ広常が祭る所なるが広常国除せられて後、平性の信ぜる神なれば宇佐の号を蒙らしめ後世新に八幡の神祠を創立し正八幡と号し崇しとみゆ。
一、殿台を去こと数十町にして館山と云所あり。古へ舘の建し地と云事にてはなきなり。始広常が時の松樹、林をなせしが後人呼て舘の御山など云し地を名となせるにてあるべし。今の人領主の山を殿山と呼がごとし。
一、殿台の梺の民、夏月亢旱の日、山間の余流を導き水田に漑ぐ。忽物有て流を断。就て是を見れば大さ三尺余の蟹、螯を挙郭索として進み近く。其人恐怖し遁る。広常が霊なるにや。実に享保年間の事なりと彼土の人語れり。
一、布施村の道の側に大杉樹二株あり。共に大さ合抱。相伝て二本杉と呼。土人の説にむかし頼朝安房より此地に赴く。土人公に飯を差に杉枝を折て箸とす。公験に挿所不日にして生活すと。按に、此説万葉集に載所、有馬皇子岩代(紀州)の松の歌を付会せる也。全く頼朝経過の地にてはなき也。広常にちなみ云ひなせしもの也。今二本松{ママ}の地塚状をなせり。此所古の葬地とみゆ。今に廃地となりたるにて知るべし。元禄の比■占にシンニョウ/は牛馬の死たるなど此所へ捨しが古老の制せるに従ひいまはしからず。疑は、二本杉と云へるものは広常が墓上の誌とみへたり(按、頼朝於安房令赴上総国給、広常聚軍士之間猶遅参云々。東鑑所載如此。何れの地を経て上総に赴と云ことなし。思ふに此時広常が事を千葉氏に託して召に応ぜず。公も又広常が遅参を疑故に上総夷隅の地を避て安房国平郡を経て上総西の方天羽周集望陀市原等の郡を過て直に下総千葉が舘へ赴しとみゆ。順路の地名義経記曾我物語源平盛衰記等に詳也)。
一、布施村に上布施下布施の名あり。界に高原の形を存せる地あり。彼地に布施塚と云あり。麦田の側に一基の九層とおぼしきが今に三層を存せり。土人相伝て景清が塔とす。是亦広常を誤れる也。然共又広常が塔にてもなきなり。按に、広常が非命にして死せしをあはれみ連坐する所の支族を免許のこと東鏡にみゆ。思ふに、此比頼朝彼土の僧徒に命じ没後の追焉を行せしめし時の塚とみへたり。又真乗寺と云寺の麦田中にも同じ形の九層の■土に登/あり。是亦前の経塚の上に置所なるが後世彼所へうつせしとみゆ。かくあれば上下布施村の僧別て供養せる所の塔なるべし。此時鎌倉より布施料となしたる故布施の名ありとみゆ(按に東鏡に上総国新田庄と云ことみゆ。いづれの地と云こと詳ならず。今布施村に接する山田村に隣る新田野村のこととみゆ。此辺凡て古の新田の庄とみへたり。野は助字也)。
……中略……
一、布施村に隷せる地に硯と云所あり。彼土に硯山長福寺と云台寺あり。世良田に属す。夷南三寺の其一也。是亦広常が比には盛なりしことなるべし。
一、布施村に硯と云所に高塚と云山あり。絶頂さかしくして攀がたし。梺より望に山の頂僅に数席を設べし。山上に老松一株あり。遠近標とす。相伝、古の牧地と。半腹に池あり。旱にても水涸ず。是則飲馬泉とみゆ。治承の比梶原が宇治川を駕せし磨墨は此地の産也と。広常が許より鎌倉へ曳たるなるべし。
……中略……
一、同村にも殿台と云所あり。是亦広常が比の子弟の住し処とみゆ。此地より雑色村へ越る道あり。相去ること一里許。相伝、雑色村は広常が子男の住し所と。布施村を去ること山中一里にちかし。
一、夷■サンズイに旡ふたつ下に鬲/郡雑色村に広常が男某者の舘舎の地あり。今は尽く麦田となる。土俗相呼で本城畠と云。又麦田を囲て小流あり。古の溝渠の趾とみゆ。又地名も雑色と云ば広常の雑色などの住しなるべし。其他は徴とするに足らざるも本城と云ひ雑色といひ自据あるに似たり。
……中略……
一、雑色村に医王山金光寺と云台家の貧刹あり。相伝、広常が男の菩提院也と。山足をうがち室とし広常が石塔とて無銘の五輪を置。高さ一尺許、其体甚古質。土人瘧を治するに苔蘇を剥て冷水に投じ呑しむ。後人祝る者五輪の小なるを訝る。然ども此比の俗、墓上の誌に五輪を建るは唯一遍に功徳とのみ心得曾て不朽に意なし。又鎌倉応神廟の傍頼朝の墓上に置所の塔其他名家の墓上の塔にも倶に無銘にして大ならず。是俗古俗をしるべし。
一、雑色村の人語りしは、金光寺は古金剛院と云真言派の修験の住し所と。むかし堂上に大日の像を安ぜしが何の比にや隣村大井十王堂の僧奪去ると。意に金剛院は広常が祈願所なるべし。寺となりしは国初以後のことと見へたり。又大日は真言家に信ずるなればさもありぬべし。旧号を襲ざるものは真言派ならざれば也。或後世愚昧の僧剛と光と方音近ければ金光寺と号せしなるにや。
一、同じ人の説に古金光寺に狐塚と称せし所有。今其地分明ならず。相伝、鎌倉の比、狐霊を祠ると。故に土俗相伝て狐塚金光寺と称す。後人狐塚の号俚なるを悪み代るに今の号を以てすと。又寺宝に野狐の媚珠一顆ありしが今は失すと。旧伝、康治帝即位の後妖狐宮女玉藻と化し枕席に近て後顕て下毛野奈須野に走る。帝、三浦上総の両介に命じ狩しむ。是亦みつべし。玉藻がこと素怪談採るに足ざるも姑広常が身上にちなみ後人仮託せるなれば拠あるに似たり。
一、上総介広常は総の強族。大祖高望王九世の孫上総介常隆が男。所謂武家八介、坂東の八平氏の其一なり。又高望王平姓を賜り上総介に任ぜしは宇多帝寛文元年の事也。治承五年広常源氏に属するに及まで年代相距ること三百年に近し。
一、上総は親王の任国なれば自余の人は不任也。其身京にありて介をして国務をしらしむ。保元の比より一転して介掾目等の古法廃し平氏盛なるに至りては益有名無実所謂画餅にひとしき職となりたるとみゆ。思ふに、此比上総の正介はなかりしにや。広常権介にして吏務を知る。是亦いぶかし。其実は権介は京に在て職掌もなく介に准ぜること也。尚亦職事にくはしき人に問べし。
一、源平盛衰記等に上総時介八郎広常とあり。時字着落なし。広常は権介にして正介ならざれば臨時の義なるにや。然ども此説無拠。猶亦考べし。
一、広常が事実、今考べきなし。姑東鏡に拠て一二の大意を左に載。
一、頼朝始兵を安房に興の日和田義盛をして広常に説しむ。広常が云、千葉氏に談ずるの後参上すべしと。数日千葉氏が動静を待。千葉氏子姪門客等を率て公を迎ゆと聞て急に兵二万を催し隅田川に至り公に謁す。時に広常狐疑未決。且公を見ること秀郷が将門を図るに等し。按に、此時千葉三百騎を率て迎。公其異心なきをしる。又広常は二万騎を率て公亦其従兵の盛なるを嫌ふ。是より猜忌漸積る。
一、広常既に公に属し隅田川に至る。公其遅滞を責。広常自思惟す。公は天授ともに大事を図るべしと。遂に公の陣に赴く。広常中途にして義政を紿き従卒を退け橋上に於て義政を誅す。按に、其後寿永二年冬広常再営中に於て梶原に誑殺せらる。広常禍を速くの酷自ら其故あることしるべし。
一、養和元年夏公暑を三浦に避。広常召に応じ来会す。時従卒沙上に伏す。広常安轡敬屈す。三浦義連失礼を尤む。広常が云、公私共に三代の間未成其礼者と。按に、広常自不遜の罪を懐く。其後克せざることみつべし。
一、同年春、岡崎四郎義実営中に於て燕に侍す。義実公の水干を乞。公賜る。広常嫉之云、如此美服は広常如きの者賜るべし彼義実老耄の者更に益なしと。此事遂に闘論に及、在列の者制之と。按に、広常自ら門地に誇り且創業の功臣たるを以て鎌府の諸士を軽侮す。是亦可見。
一、広常卒去のこと東鑑に漏しぬ。寿永三年正月の下に云、鶴岡八幡宮有御神楽前武衛無御参詣去冬依広常事営中穢気之故也。按、此説の如ば広常営中にて事有しは同二年十二月のこととみゆ。是則江広元、広常が死は全く公の意に出るを以て忌憚せる也。実に逸せるに非ず。
一、鎌倉志引愚管抄云、介八郎広常を梶原景時をして討せたり。景時双六打てさりげなしにて局を越て頓て首をかいきりてもて来れりと。按に、此一事源平盛衰記にはいかゞして洩しけん。猶亦東鏡脱漏などいへるもの考合すべし。
一、広常が石塔とて鎌倉より鉄沢へ越る道の小切通と云処を過、右の方の畠の中に小き五輪を存せり。按に、此辺は鎌府の郭外の地なれば此所に葬しなるべし。
一、寿永三年上総国一宮神主広常が納所の鎧并一封の書を鎌倉に献ず。公是を披に鎌倉武運を祈所の文書也。広常反謀なき旨公頗る失誤を悔と。按に公創業より広常を知。しかれども旧族を鋤に意あり。独広常のみにあらず。常の佐竹奥の秀衡等みつべし。
一、布施村の長者屋舗と云あり。彼土の稗説に昔貧婦あり。母に事て孝謹。又常に彼土真乗寺の観音を信ず。一夕夢らく神人来り泉をさづくと。明朝圃中に忽甘泉涌出す。土人云、孝感の致す所と。それより永く冨家となりぬと。今草間にある所の廃井是なりと。按、貞観九年八月上総国夷隅郡節婦春部直黒生叙二階免戸内役以門閭と。説、三代実録にみゆ。夷隅も大郡なれば何れの地と云こと定かならねども恐くは此節婦のことなるべし。
……中略……
一、房総負海の砂民の習俗尽く南紀の人にならへり。いかんとなれば賀多須原の漁師、湯浅和歌山の商賈、半雑処すれば也。中元のおどりなど云るも彼土の俗を伝ふ。是則他なし。其俗脆薄の致す所かく旧俗のあらたまりぬることよからぬこと也。
一、夷隅の俗星夕に藁にて牛馬の形を造り戸上に懸く。云、牛郎紅女をむかゆと。他邦にもあることにや。艾虎などの転ぜるにてもあらじ。かゝる古俗はあらたむまじきこと也。
……中略……
一、長柄郡泉浦大東崎の懸崖水低一里許突出し乱礁峙ること如削。舟行誤て船を閣ときは忽破壊す。且岸下常に巨鰐を住しむ。大さ不測。或颱風一たび起る時は雲濤■サンズイにナベしたに凶/湧し怪魚室を離跋扈して船を負。諳練の水主も避るに術なく坐して死を待に至る。一度過る時は挙船再生を相賀す。実に東海第一の険悪、此所より甚はなし(按、銭塘江一名羅刹江云、山脚横截波濤、商舶到此、値風濤所困而傾覆。此一事見輟耕録。大東崎と同じ)。
……中略……

巻五

一、安房は淡なり。日本紀景行紀に、冬十月天皇至上総国従海路渡淡水門。是則今の上総の地方天羽より安房の地、平郡の海をいふ也。古へ此地陸を離るゝ事数十歩にして海面に屏風の如く山峙其間を舟行せしと見ゆ。かくありぬれば濤波平にして湖水の如くなれば淡水門とはいゝたるなるべし。後世いつとなく山崩海と等しくなりぬれど潮涸る時は礁石一道波濤を截せるにてしらる。
一、順和名抄に、養老二年割上総国四郡置安房国といふ事見ゆ。然ども此一事、続日本紀元正帝紀に見へず。又聖武帝紀を考に、丙戌安房国并上総と有。かくあれば始養老中安房国を置、再び旧に復せしとみゆ。又万葉集を閲に上総の郡名に長狭朝夷の二郡を載るを見る時は此比まではいまだ一国に建ざると見ゆ。万葉集は孝謙帝に起り平城帝に至り撰集なる。正しく一国となりしは嵯峨帝以後の事と見へたり。
……中略……
一、長狭郡不動の祭に角力市といゝて九月二十八日東西を別ち勝負を決す。里見氏以前の俗也と。
……中略……
一、東条は長狭郡華英辺より浜萩小湊までの地をいふ也。
一、金鞠は安房郡のうち也と。
一、安西は同郡のうち也と。
一、麻呂は朝夷郡のうち横田瀬戸白子辺をいふと。順和名抄に載処朝夷郡の県名なり。
一、順和名抄を考に加茂は長狭郡の県名也。加茂神社彼土にあり。
一、和田白児の海は大夫崎より三里余の湾なり。
一、浪太浦に接して大夫崎といふ処あり。義経ひよ鳥越に駕する処の太夫黒といへる馬は此地の産也と。大夫崎の上は官牧峯岡につゞけり。
……中略……
一、順和名抄、朝夷郡健田と有。今瀧田に作る。平郡に属す。
……中略……
一、房州の地、絶て鯉魚なし。或いふ、鯉魚は諸魚の冠たるものなれば一州十郡に充ざる地には産せずと。思ふに、彼豈郡の多少に拘らんや。陸奥の地鯉魚なきにて知べし。又甲州にも鯉魚なしと。按ずるに、奥地房甲倶に金を産す。凡物の愛憎知るべからざるも諸魚中独鯉魚而已金の液臭を忌るなるべし。
……中略……
一、東鏡治承四年八月二十九日の下に武衛相具実平棹扁舟令著于安房国平北郡猟嶋北条殿以下迎之云々。按に、猟嶋今龍嶋に作る。方音近ければなり。此言の如くなる時は頼朝着船の地は洲崎にてはなかりしなり。同九月一日の下に武衛可有渡御于上総介広常許之由被仰合云々。同三日の下に自平北郡赴広常居所臨昏黒之間止宿于路次民家当国住人長狭六郎常伴襲御旅館三浦義澄遮之常伴敗北云々。按に平郡龍嶋より長狭郡に赴順路は龍嶋砂田大録芳浜穂田それより■クサカンムリに稚にレンガ/蹊にかゝり鑓水大久礼などいふ嶮しき山路を越長狭郡小塚不動の山下に至る。大抵龍嶋より不動の山下まで七里許ありと。又瀧田通りといふ路あり。飯野坂にかゝり瀧田村を経て小塚に至る。是亦行程相似りと。再按に、東鏡頼朝旅館の地其名を闕。姑土人の談に拠るに、頼朝真名鶴より土肥次郎実平とともに漁船に乗じ平郡龍嶋に着と(按此説与東鑑合信ずるに足れり)。それより彼土を発し長狭郡東条にかゝり上総介広常が舘へ赴せたまふ。時に日すでに黄昏にせまりますまといふ処に至り民家を求て宿を乞。主其体を怪み拒む。然ども強て乞に任す。時に主の寝処に数席を重置り。実平一枚を乞。主のいへる、是は平時に用る席に非ず、賓筵又は正月ならでは不用といゝて仮さず。公も実平もやむ事をゑず卒にづぶねす。それより彼孫なるもの今に至るまで席を舗事かなはず。独其孫のみにあらず。一村凡てしかり。或は強て用る時は其家必災ありと。怪しき事也。此言の如くなる時は公の旅館はますますなる事しるべし(按に龍嶋より飯野坂にかゝり山中を経てますまに至る行程五里許と。ますまは瀧田村に接す。又ますまより長狭不動へ二里、不動より東条へ三里余あり。ますま瀧田ともに平郡の地なり)。同四日の下に頼朝被遣和田太郎義盛於広常之許云々。按、土人のかたりしは長狭郡前原浦と浜荻との界に川あり。此地に待崎といふ処あり。相伝、頼朝此地に於て後軍を待せたまふ。故に待崎の名ありと。側に白旗の神祠あり。又社樹に古松一株あり。是又相伝て旗掛松といふと。再按に、頼朝此処に旅館を設、義盛をして広常が舘へ遣せしと見ゆ。公広常が報を待故に待崎の名ありと見ゆ。同五日の下に頼朝有御参洲崎明神奉御願書云々。按、公始著船の地龍嶋にして洲崎に非る事しるべし。同六日の下に及晩義盛参申云談千葉介常胤之後可参上之由広常申之云々。按に義盛長狭郡を発し広常が舘まで行程一日にして赴再び長狭に帰り公の不在により直に洲崎に至り往来三日にして其報有を見に上総夷■サンズイに旡ふたつ下に鬲/郡夷南の地布施村益広常が故墟なる事證とすべし。今広常が事姑土人の口伝に存せるのみにて知人まれなり。しかれども長狭の地より一日程にして上総に赴の地布施村ならで外に広常が故墟といふべき地なし。上総付録中に載する処布施村の条と照し見つべし。再按に東鑑に公義盛をして広常が許に使とありて地名を洩しぬ。姑今を以て考に前に記せる天津浜荻に接せる待崎となして見つべし。如何となれば彼土より布施村まで馬十里に不充。一日程なる事知べし。浜荻より布施村までの順路左に載す。
浜荻・天津・内浦・小湊(以上安房長狭の地)市ケ坂(房総の界なり坂を登れば上総の地夷■サンズイに旡ふたつ下に鬲/郡也)台宿・上野・勾屋・山田・ゑび山・もがみ坂・大樟・羽賀・館山・小幡・布施、是なり。又海辺の道あれど山坂けはしくして却て廻りなり。漁猟の場開けしより往還の道とはなりき。古の道にてはなき也。古の往来は前に記せし如く台宿・上野を順路とす。然ども羽賀・館山の山道多岐、村夫を倩ひ嚮導となすに非れば迷ひ易し。直に大樟より新戸といへる村里に赴を順とす。
……中略……
一、義経記に、頼朝洲崎を立て坂東坂西にかゝりまのゝ舘を出小みなとのわたりして那古の観音をふしをがみ雀嶋の明神に神楽まいらせ猟嶋に着と。按に、此紀行地名倒置す。坂東は長狭の地池田竹平に接す。東条への順路也。又坂西は坂東に対する時は長狭不動山を限り西野方平郡瀧田犬懸辺をいふなるにや。まのゝ舘其地知べからざるも東鏡に拠に安西三郎景益が舘へ頼朝至りたまふ事見ゆ(安西は安房郡に隷す)。恐は景益が舘の建し地名なるべし。又小湊のわたりは鏡浦を訛れる也。洲崎より那古までの海湾を鏡浦といふ。此渡り(海上三里に近し)して那古の観音に至る。雀嶋猟嶋は上総天羽郡へ赴の順路なり。義経記の如は越に行ものゝ轅を北にせるに等し。
……中略……
一、里見記といへるもの数本ありと。彼土府中本織村に里見氏の墳寺あり。延命寺といふ禅院なり。彼寺に里見氏興敗の始末其他戦国時代の比の古文書等あまた蔵すと。しかれども猥い人をして窺見せしめずと。今予がこゝに抄略せるものは数本中の其一なるべし。文章拙して見るに不足も正しく彼土人の記せしものなれば近く證とするに足れり。北条五代記などいふものに里見氏の事まゝ記せど他国の人不案内にて書たるものなれば年代地理姓名等の訛少なからず。観者詳之。
一、里見氏の先は義家の三男義国より十二世刑部少輔家基と云。嘉吉元年鎌倉持氏男春王安王結城に寓公たり。此時家基結城に加り戦死す。男義実相の三浦へ落。それより房州白浜へ渡と。按、東鑑載、新田大炊介源義重(法名上西義国男)引上野国寺尾城挟自立志。又云、上西孫子里見太郎義成自京都参上属源氏云々。是則源姓にして里見氏を称するの始也。
一、嘉吉年間神余某が臣下佐左衛門定兼といふもの主君を殺し神余の主となる。是よりして神余を山下郷といふ。按、土人の説に山下は安房郡の地平郡瀧田に近しと。
一、麻呂某安西某山下佐左衛門が無道を悪みともに山下を討彼地を二人して領す。其後安西再び麻呂を亡し山下の主となる。按に、麻呂某者は麻呂五郎信俊が余裔。又安西某者は安西三郎景益が孫なり。ともに頼朝創業功臣の末なり。
一、麻呂安西が余党、里見義実を将とし安西を攻んとて白浜を発し千台村に屯す。按、千台今千田に作る。朝夷郡のうち也。千田平磯川口と接す。六ケ浦のうち也。
一、義実、安西を攻の日千台村に至る。此時彼土の兵五十騎加る。是よりして彼地の橋を五十騎橋といふ。按に、本篇載処府中の千騎橋朝夷郡の千騎原ともに頼朝の事なるを後人訛伝て義実事とす。■玄ふたつ/に記せる五十奇異橋も亦然と彼土人かたれり。
一、義実兵を大田木に進む。正木大膳くだる。長享三年の事也。按に、正木氏家譜大田木円照寺といふ禅院に有と。考へ見つべし。
一、義実、長享三年に卒す。菩提院は白浜なり。按に、白浜村に義実三浦より渡海の始住し処ありと彼土の人かたれり。菩提院寺号可考。
一、二世義成稲村に遷る。明応二年社家様(生実御所義明公事。持氏の裔)義成を将とし房総の兵を率ひ下総木の内氏を討。同三年万木勝浦東鑑大田木、義成を将とし社家様御殿を上総の八幡に建(八正院公方と称する事こゝに本づく)。按に、里見氏稲村の称ある事■玄ふたつ/に本づく。又稲村は安房郡長須賀を去事東南一里許を隔と。其地未考。
一、三世義通。稲村在城。弟実堯をして宮本城を護せしむ。社家様とともに下総武蔵常陸処々の戦止時なし。永正十七年に卒す。菩提院は瀧田。按に平郡二部につゞける白坂大根を過て宮本の故墟ありと彼土人かたれり。菩提院可考。
一、四世実堯。義成の二男、義通の弟也。始宮本の城主たり。其後上総久留里城へ遷る。永正中兄義通卒す。それより稲村に遷る。大永五年房総下総常陸武蔵五ケ国の兵を率ひ相州三浦を攻て戦勝。同六年鎌倉合戦に再勝。始永正十七年兄義通卒す。竹若とて七歳の男子を弟実堯に付す。竹若成人の後実堯房総をわたさず。依之竹若方実堯方とて国中二つに別る。天文二年実堯稲村の軍敗れて自殺す。竹若立。是を義豊といふ。里見家の内難これ也。
一、五世義豊。竹若事也。天文三年実堯の男義堯兵を起し戦ひ勝、義豊遂に久留利{ママ}城に戦死す。
一、六世義堯。天文三年義堯父の仇義豊を討て立。天文七年七月八幡御所と高野台にて北条父子と戦ひ負、社家様滅亡(按に一説に天文七年国府台戦敗れ同十五年丙午社家様滅亡)。是よりして上総の諸城多小田原に属せり。天文二十一年上総椎津真里谷信政里見氏に反素。義堯討之。是より再上総の地手に属す。其後天正二年義堯卒す。菩提院は本織村延命寺なり。
一、七世義弘。弘治二年義弘父子北条氏と三浦にて戦。万木土岐氏大田木正木氏勇を振ひ小田原方戦負三浦四十余郷を責とらる。此時在城は上総の佐貫也。又永禄七年義弘国府台戦に始小田原方負里見勢敵勢かへすべきとは知らず。姑く休み居たる所に小田原勢もりかへし新手を入かへ不意を討。於是房州勢大にみだれ落行正木大膳殿して敵五十騎討取。万木は備を固め不戦。是より下総取かへす事かなはず。剰万木も小田原に属する意あり。按に、里見氏北条氏と国府台の戦二度あり。始は天文七年戊戌八幡御処滅亡の年也。諸家の記には永禄七年の一事とするは非也。其後義弘天正六年戊寅卒す。菩提院は本織寺なり。
一、八世義頼。在城は鬼本也。天正五年大田木正木大膳反す。此年小田原と相和し氏政の女義頼へ嫁す。同六年義弘卒すと聞、正木大膳軍を起し浜荻沓ケ崎の城代角田丹後を討て長狭の地へ攻入。鬼本勢来ると聞、軍を班す。按、鬼本其地未考。又元亀三年の下に三浦の兵常に多多羅正木浦を渡り攻。故に鬼本城を築と。かくあれば鬼本は平郡のちと見ゆ。多多羅は舟形川名那古に接す。又正木は那古より東二三町も隔。此辺の事なるべし。
一、九世義康。在城館山城。天正十八年小田原城陥。同十九年上総に有処北条家の領大{ママ}閤より里見に賜り三浦の地替地となる。又両国の大将となる。慶長三年国替とて上総を取あげらる。同五年源大君関原御戦以後鹿嶋にて三万石を領す。按に、大閤記文禄の役に名護屋在陳諸将の内に安房侍従とあるは義康の事也。又元和の役に里見氏の事所見なし。別に記せるもの有と見へたり。
一、十世忠義。元和元年大坂落城以後九月中旬故有て忠義伯州へ配流。正木大膳事は備前州へ御預となる(按、忠義室は大久保相州侯の女也)。此時家老板倉堀江印東荒川四人斬首。又忠義安房国八幡へ大祖義実納し刀を守家の刀と引替納む。其夜神殿鳴動することをびたゞし。又忠義江戸発足の日明星といふ馬故なくして死す。是則亡国の兆なるべし。又忠義室は代官町へかくる。上より百苞づゝ賜る。其後四歳の女子を乳母に付し鎌倉尼寺にかくる。忠義事は元和八年六月十九日二十九歳にして伯州に於て卒す。按に、里見氏訓美を伝る事其実は十世也。九世と称せるものは実堯を除ば也。又北条五代記に載。里見義豊者上州之産也。房州に至り一国を平均し六世にして台徳君の為に国除らる。六世は義豊・義弘・義高・義頼・義康・忠義、是なり。按に、北条五代記里見氏九世を六世とし且義豊を以て始祖とするは他邦の人伝聞の失、深考へざるの弊也。又甲陽軍鑑に里見義弘が子義高とあり。是亦北条五代記と同じく義堯を訛て義高に作る。且義弘が子義高となす。是亦父子倒せるなり。又戦国の事記せしものに安房守義隆とあるも同じく義堯を訛れるなり。又北条五代記に載。天正五年里見義高小田原と和睦す。此時より始て他国を見ならひ大国に臣服し安堵の国たりと。按に、天正五年義頼小田原と和義とゝのひ氏政の女義頼へ嫁す。義堯と云へるは非也。年代たがへり。義堯一世は義弘とともに三浦の地を争ひ且国府台の役あり。
一、里見記の中に諸士知行割の事記せし処に御一門の正木は里見、家中の正木は大田木といふ事みゆ。按、同文安三年の下に里見始祖義実東条六郎を攻、正木大膳東条を援く、東条戦負、正木大膳大田木に帰ると。又長享三年の下に里見義実兵を大田木に進、正木大膳降ると。是則家中の正木をいふ也。又一家の正木なるものは永正十三年の下に長狭郡山の城主正木大膳道種死と。是亦一家の里見氏なるもの正木を冒せる也。按に上総正木事は数世同名にして其名諸侯に聞ゆ。故に安房にしても其器に当りたる者を撰み正木氏を名のらせ軍を発する毎に正木氏先鋒たる事を他国の人に知らしめん為なり。又弘治二年の下に正木大膳里見義弘とともに三浦に渡海し四十余郷を掠。又永禄七年義弘とともに国府台にて北条氏と対し戦負て殿し敵兵五十騎を討取と。又天正六年義弘死と聞、浜荻の地を攻、角田丹後といへるものを討取。此時かへり忠のもの有て卒に部下に殺さる。■玄ふたつ/に至り大田木正木氏は終。其後安房にて里見義頼の二男正木弥九郎と云人に再び正木氏を冒さす。此人館山にて一万石を領す。是亦一家の正木の其一也。上総付録中載処と照し可見(按、元和の役終り里見氏国除せられ備前州へ御預となりし正木大膳は此人の事なる事しるべし)。再按に、甲陽軍鑑に十三将の内正木大膳を載す。又云、房総両国の源府君里見義弘一家の正木大膳といふもの幼少にて馬を習に片手縄にて騎事を好と。按に、■玄ふたつ/に一家の正木大膳とあれば安房の正木氏と見ゆ。しかれども大田木正木氏が事なるべし。如何となれば大田木正木氏事は三浦国府台の戦に其名を発す。故に甲陽軍鑑此事に及べり。安房の正木氏にてはあらざる事知べし(按に、大田木正木大膳事里見記に顕るゝ事文安三年を始とす。それより天正六年に至り部下に殺さるゝ正木氏まで相距る事百三十有余年に及べり。此年間数世同名たる事しるべし。天正六年以後の正木氏なるもの安房一家の正木氏なる事是又しるべし)。
一、里見記に載。義堯公御法体被成に付、御家老中申上けるは、古より大将の御法体に色々ありといへども大方はよろしからず清盛高時是なり其他は大将威勢これなきにより法体となるあり、いかゞ思召被成、と一同に申上ければ、義堯公聞たまひ、我義豊を討事父の仇なれば是非なくして討し也、然といへども嫡子方を討て我大将となりし事よろこばしからざる事ゆへ法体せり、されども両国を他人にとられん事、不孝の第一也、自今は義弘を将と各忠をはげみたまへ、と御涙を流させたまふと。これより義堯公は後見の為に御出陣あり。大将は義弘公と御定め被成けると。
一、里見記に載。里見義弘家中に佐久間源四郎といふもの有。末期に及、弟源左衛門といへるものに一子源五郎を属す。此者十五歳にもならば御奉公勤さすべし、それまで其方へ家も預置事也といゝて卒に死去す。其後源左衛門国府台戦敗れし時多賀蔵人と池和田城にこもり非類なき働し又三船山戦にも軍功ありければ知行も一倍になりぬ。さて兄遺言にまかせ甥源五郎十五歳にもなりしかば家督相渡すべき旨親類へも達しければ源五郎申けるは、かく家の繁盛になりゆきしも叔父事数度軍功有によれり不しぎに命たすかり今までかく某を養育せられし事なれば家督は不残実子に譲りたまへ、といふ。源左衛門聞て中々合点せず。両方親類他人の異見をも不聞程になりしかば此事殿へも聞へければ、さて/\両方ともに見事なる事ども也さりながら源左衛門事兄の知行五分一はもとより定りたる事其上彼者一身の働にて取たる知行なれば加増の分は不残源左衛門所知すべき、との事ゆへ其通申聞せければ源左衛門いゝけるは、我等事兄の代官にて取たる知行なれば惣高にて五分一は可申請、と云。又源五郎事は本領半分ならでは請まじきとの事にて埒明ざる事なりしが、やう/\殿の仰の通に定りたりと。世に珍敷事なりと此比の人比判せりと。
一、里見家十世。義実(室真里谷入道女。按、城地不詳。、白浜の地なるべし。白浜は始三浦より渡海の地なれば也)義成(室万木左近太夫女。稲村城)義通(室上総介女。稲村城)実堯(室正木大膳女。宮本城)義豊(室万木少弼。宮本城)義弘(室小弓御処女。佐貫城)義頼(室北条氏政女。正木大膳女。鬼本城)義康(室織田信長姪。館山城)忠義(室大久保相州侯女。館山城)。按に、里見九代記、自義実至乎忠義所抜萃如右。後人訂有差者補所漏者可謂幸甚矣。
一、土気酒井家譜といへるものゝ中に文明中酒井の祖酒井小太郎定隆といふものあり。遠州の産にして数世将種たり。密に房州へ赴里見義豊に対し上方関東弓矢の沙汰諸国の物語に及ぶ、義豊甚だ意にかなひ此人ならで藩屏に置べき人あらじと二総界中野村に居らしめ敵地の通路を塞ぐと。按に、此記に義豊に作るものは義実を訛れる也。義豊となす時は年代大に異也。
一、又云、永禄中武州岩付城主太田美濃守(三楽斎事)小田原勢にかこまれ籠城支がたくみへしかば里見氏へ兵糧の事頼れしに里見氏やがて土気東鑑の兵を催し駄荷ともに一千騎指つかはす。小田原方江戸城主遠山左衛門其外加勢の人数市川を渡り散々に戦。始小田原方引色にへけるが再び取て返し荒手を入替責しかば里見方大に敗北す。此時酒井胤治馳来再び軍をもりかへし義弘美濃守を相ともなひ椎津の城へうつしいる。其後里見家より下総の内闕処の地太田氏へ賜ると。按に、此戦は永禄七年国府台にての事なるべし。
一、又云、北条氏康国府台の戦に勝利を得、池和田城を攻破る。此時氏康より使者を以胤治へ申越るゝは、其元先祖と此方先祖早雲事たがひに旧交をむすばるゝ事人皆知処也早く此方へ一味せられ候へ、と再三申越るゝに付、是非なく是より里見氏を背、小田原方となる。按、此時万木へも間使来る。土岐氏是よりして小田原に属す。
一、里見記に載。里見氏目見への儀式は御一門は諸茶の礼とて大将と御目見へ衆と両方へ茶出る。家老物頭は片茶の礼なり。又御盃の礼は御一門の内に七度の礼五度の礼とてわけあり。大老城代三度の礼、中老番頭には一度の礼、組頭の類は御盃下さるゝ斗也。礼なきは御さしながし也。按に、里見氏の家俗といへども義実白浜渡海以後に新に制せる礼にてもあらじ。思ふに、鎌倉北条氏又は室町家初年の古俗と見へたり。かゝる事の彼地にのみ残れるも素質朴僻邑の民旧を守り他国の交もなく数百年来漢あることをしらずといふ余俗を伝しなるべし。
一、里見九代記に拠に里見家の分限は義堯より義弘へ譲る処の地安房上総并に下総半国又三浦にて四十余郷也。今よりして考之に安房の地九万石余上総の地三十八万石に充ず。下総は三十九万石余これを半にする時は二十万石に不充。三浦は二万三千石の地たり。計に七十万石に不充。彼土人の説に里見家領する処二百二十七万石也と。何にもとづきいへる事にや。
……中略……
一、房州の諺に倒寒といふ事いへり。晩寒の事なり。彼土冬月温煖にして菜茹を生じ霜雪をしらず。春に至りぬればやうやく寒し。故倒寒の名ありと。按に、是時候の遅速に与からず。如何となれば凡て海潮三冬温にして春に至りて却れ冷なり。彼地山を背にし海を帯且地方南に面しぬれば海気充溢して泄さず。故に冬月寒を知らざるにて有べし。
一、東鑑に頼朝長狭郡に至りたまふ時安西三郎景益参上御旅亭といふ事みゆ。景益は創業功臣の先鞭といゝつべし。
一、又云、武衛巡見安房国丸御厨丸五郎信俊為案内者。かくあれば信俊景益は数世彼国の強族と見へたり。
……中略……
一、白浜は朝夷郡の地順和名抄に載処の県名なり。瀧口村に近しと。又土人の説に古は凡て七浦を白浜といふと。さも有ぬべし。七浦本篇に委し。又七浦のうちに横須賀大木下沢名倉などいへる小浦ありと。
……中略……
一、長狭郡磯村浦の海中に陸を去る事少し許ありて小嶋あり。上に天女祠あり。浅春の比など村童潮の涸るをまちて海苔又は鰒魚とこぶし等をうがちとる。甚佳景の地なり。
……中略……
一、洲崎の人かたりしは洲崎と紀州の難地と相対すと。先年彼土蜑人陸を離るゝ事数十里にして風力甚捷北風に放たる。陸を顧に洲崎の山打綿の如見ゆ。又南に当りて霞の如き高き山みゆ。何れの地といふ事しらず。時に浪華の賈舶進み近く。幸にして相ともに浦賀海に至り郷に帰ぬ。此時賈舶のかたりしは霞の如くみへしは紀州の難地洲崎と海面相距る事やうやく百里に不充と。かくあれば難地は遙に南海へ突出せる地と見へたり。
一、房総の俗七夕重九ともに佳節たる事をしらず。相伝、天正十八年七月七日小田原城和義とゝのひ氏政自殺す。又元和元年九月九日館山城没落す。これよりして二節を悪日なりと忌来れりと。此比の民情さも有ぬべき事なり。
一、洲崎の人かたりしは、房州四郡に産する処の米計に一年の糧二月の料ならではなし。如何となれば地狭■コザトヘンにハコガマエのなか夾/にして漁家多ければ也。故に年園穀を他邦に仰ぐと。
……中略……
一、峯岡の馬をゑらめる日は春分を伏しとす。彼地は海辺ゆへ■温のサンズイが火/気充塞せる事他土より早ければ百艸芽を発し料艸繁くして馬肥。或は春分を過れば気力盛んにして馭しがたしと。下総桜野は北地ゆへ六月土用を節とすと。
一、峯岡辺にては牧師を上上様と呼。かたくななる事と人の笑へど山民淳朴の情見つべし。
一、峯岡の牧馬は冬月に至りぬれば葛の枯葉を食とす。牧場冬月の料なき地は牧師の甚患る処と。
一、洲崎の人かたりしは里見氏盛なりし比彼地の神社仏院へ付する処地凡八十有余に及べりと。
……中略……
一、房州の諺に妻郎の千枚畑といふ事いへり。彼土海辺の民山足より絶頂まで山を禿にし力を尽してうがちて畑とす。崔嵬無遺地。其形階の如し。譬ば畑毎に麦二合或は三合其最大なる畑などいへるものは五合許も種を下すと。或は一人にて畑五十枚の主たり又は百枚の主などいへるものは彼地の大農と称す。しかれども自余の農の一■暇の日なし/にも足らぬほどの事也。糞汁など洒げるも女の業にて小桶に盛頭に戴幾度ともなく山を上下す。甚労せる事なりと。
……中略……
一、安房白浜浦に数世同名木曾右衛門といふ人あり。相伝木曾義仲が孫なりと。
……中略……
一、東鏡治承四年九月十一日の下に武衛巡見安房国丸御厨、当処者予州禅門平東夷之昔最初朝恩也、左典厩令廷尉禅門御譲給時又最初之地也、而為被祈申武衛御昇進事以御敷地、而今懐旧之余更催数行哀涙。按に朝夷郡相の浜より四町許陸に太神宮村といふ有。此地に勢大■マダレに苗/鎮坐まします。此地の事也と。
一、東条の人かたりしは天津辺に斎宮の跡今に微に残れりと。前の条と照し見つべし。
一、天津の地に古より獅子舞の徒あり。所由ありて他の徒を入るゝ事を禁ずと。思ふに是則太神宮村に祭る所の勢大■マダレに苗/の神に事へ祭祀を司し巫祝の祀典廃して後衰へし人の孫なるべし。
……中略……
一、清澄山の祭は九月十三日なり。房総の二州東西を別ち角力を争。其地の観場山中にあまねし。
……後略

 


  
 
← 兎の小屋_Index
↑ 犬の曠野_Index
↓ 栗鼠の頬袋_Index