★伊井暇幻読本・南総里見八犬伝「世相」★

 天変地異は、人が懸命に積み上げてきたものを、一瞬にして奪い去る。或いは自暴自棄にもなるだろう。一九三〇年頃の総合誌などでは、関東大震災が人心に与えた悪影響を論ずるものが多い。震災直後の東京へ乗り込んだ夢野久作は、庶民が助け合い生き抜こうとする姿に感動し地元福岡に伝えんと健筆を振るったが、復興後の東京は「堕落時代」に陥っていると失望した。江戸の美学は「粋」だが、粋は刹那的な側面も有する。江戸は大火に度々見舞われた。論者によっては、火災が頻発し、蓄積したものを再三奪われたことが、江戸文化の刹那的側面を助長したとする。当否は別として、なかなか説得力がある。心の荒廃は人災を呼ぶが、さて人災と天災、何連が苛きか、虎が暴れ回ることと、荒廃した人間の政治と、何連が苛きか……。杉田玄白「後見草」の引用を続けよう。

     ◆

扨同(文)月十四日の子の刻頃どろどろと鳴出し物音強くゆり立たり人々の寝入込たる頃なれば驚き騒ぐ事少なからず明る十五日は殊に空打曇り残る暑さもわきて強く諸人日の暮るを待かねて涼みがてらに端居して居たる頃又俄にゆり出し踏もとまりかね壁を振ひ瓦を落し戸障子なんどを打倒し大地ゆさゆさ動揺して……中略……二百十日の順迄に晴と曇を数れば雨の方ぞ多かりける……中略……是により川々の水増り千住浅草小石川小日向なんどといへる所一時に洪水押出し軒を浸し塀を越し水災にか丶れる家何程と云数しれず大川橋柳橋水におされて流れ落さて文月になりぬれば空更に晴やらずやうやう四日五日の頃秋の暑さ身にこたへ五穀のみのりよかりぬべしと人々勇み触る然るに六日の夜半頃西北の方鳴動し雷神かと聞ばさに非ず一声々々鳴渡れり夜は已に明けれど空の色ほのぐらし庭の面を打見れば吹来る風にさそはれて細き灰を降せたり……中略……又其日の夕暮方より動揺に鳴出し終夜止もせず明る七日は猶はげしく降灰も大粒にて粟黍なんど見る如し手に取て能見れば灰にはあらで焼砂なり又是に交りて馬の尾の如き物同じ様に降来る色は白も黒も有……中略……八日の早朝は其震動の強きこと頃日よりもすさまじき也……中略……同十日の日下総国金町村と云所の勘蔵といへる村長御郡代伊奈殿の裁断所へ訴えしは昨九日未刻江戸川の水色変じ泥の如くに候故不審と詠め候うち根ながら抜し大木を始人家の木材調度の類皆こまごまに打砕け又それに交りて手足切たる人馬の死骸数も限も知らざりける程川一面に流れ浮み引もきらず候ぬ……中略……無程信州佐久郡の軽井沢上州碓氷郡の板鼻宿其外東山道の宿々より訴出けるが中にも軽井沢の者申せしは今年は春より同国の浅間嶽おりおり焼出し烟いつもより甚しく別て去月の下旬に至次第々々に繁くなり遂に今月七日亥の刻頃と覚しき時俄に震動雷電し其山どつと焔上り家々屋鳴強く所の男女驚き騒ぎ皆親族の見分もなくおもひおもひに迯出しぬ斯る折しも虚空より大石小石砂交り焔々ともえながら雨より繁く降下り宿の長役七が屋の棟へ焼石多く落か丶り其火四方へ散よと見えしが忽に焼付て宿中俄に大火となり火の粉焼石吹雪のごとく実に大小焦熱地獄遁れがたく候間老若男女時に途方にくれて候也……中略……後慥に見聞し人に尋問侍りしに今年水無月二十八日九日頃浅間嶽鳴動厳しく日毎夜毎に止時なく文月六日七日に至空暗くいなびかり眼を射日中も暗夜のごとく砂石の降音は雪霰より甚しく人々恐れ戸をさし固め往来する人も絶て……中略……同八日未の刻鳴動殊に甚しく何やらん降来る音したりいかなる物と見侍れば是は則泥雨にて其熱き事湯よりも熱くまた夫に交りて焼石はげしく落か丶れり是は浅間嶽東の方の鳴動の時に当り一度にさつとさけ開き隣国上州吾妻郡吾妻渓へ熱湯を吹出せしにて侍りし也……中略……此渓川に従ひし左右に続きし二十ケ村惣て此間に立並ぶ大家小家は云に及ばず草木人畜に至る迄少しも形ある物は有情無情の差別なく皆熱湯に飛出す百間五十間の焼石にはねられて微塵に砕けおし流さる……中略……浅間嶽の麓より利根川のみきはに至り凡四十里計の内皆泥海の如くになり人家草木一つもなく砂に埋れ泥に推れ死亡せし牛馬限り幾程と云数しれず老若男女僧俗まで合て二万余人也と……中略……扨も此三四年気候あしく五穀の実のりよからぬ上又此秋の大変にて米価甚騰踊し四民の困窮大方ならず来年の秋までには雑穀までも尽はて丶人々飢に及ぶべしと浮説様々成により都下の四民怖れをなし易き心はなかりし也今年も暮同四年の春に至り米価日毎に貴くなりやがて払底し侍るべしと申触侍りしにより大小名の御家には家子はごくむ為也とて多く買貯へ給ふにより小賤の者は妻子を棄て迯走り或は淵川に身を沈めあへなく死るも多かりし後は鳥目百文にしらげし米五合にたらず売ける故……中略……又此春三月二十四日の事なりきいかなる怨や候ひけん時の老職羽州の松山酒井殿遠州掛川の太田殿勢州八田の加納殿武州金沢の米倉殿新御番の詰所の前打並んで退出有其真中に立せ給ふ相良殿の御嫡男田沼山城守意知朝臣と申に佐野善左衛門政言と申せし人詰所よりつ丶と出粟田口忠綱がうちたりける大脇差を抜はなし真一文字に切かけたりあまりの事に驚かせ給ふにや立並ぶ人々を初めとして次の御間に扣へたる芙蓉の御間に詰給ふ諸役人一度にどつと立上り思ひ思ひに開かせ給ふ跡は意知と政言ばかり意知其日の御脇差は貞宗の作也しが殿中を憚りて抜放しもし給はず鞘ながら受留給へば鍔はきれふくりん飛うしろ引に引ながら桔梗御間へ出させ給ふ此方はすかさず切込て深手二ケ所負せ参らせ已に危く見へし所に遙隔てし所より大目付松平対馬守殿此体を見るよりも一さんにかけ寄て政言が後より両小手かけてむんずと組政言は組れながら放せ放せとあせる中御目付柳生主膳殿もの陰よりつ丶と出押へて脇差を奪ひとる一たんひらきし人々も立帰り折重り遂に政言を捕すくむ又意知朝臣はかたへに助け参らせて大勢いたはり集りて御番医師天野了順を呼出し療治を加へらる然ども了順は殿中の故なるにや果敢果敢しき療治もせで血止計をあて丶やうやう疵口おさめ療治せし由仰此山城守意知朝臣の御父と申は主殿頭意次朝臣と申し八代目将軍家の御時龍助と申食禄三百俵給はりし御小納戸たりしが次第に昇進し将軍家の御代に至り厚く御旨に叶ひ一万石の地を給り大名にぞなされし也其後先将軍家の御時御寵恩増増厚く領地を加へ賜ひ遂に五万八千石に至り遠州相良の城主にして官位四位の侍従に任じ老職の列になり天下の政事をあづかり給へり此殿の上座には彦根中将浜田侍従などおはしませど其人々の事は申さで唯此殿の御光をのみ四海の人々恐れてけり然るにより日毎夜毎に其門に出入し膝行頓首するもの市の如く我おとらじと殿の御旨に叶ふべしとて珍器珍物其価をいとはず買求め贈り参らせしにより金銀珠玉は云に及ばずありとあらゆる異国の宝まで此家に集らざるはなし一日或人意知朝臣に対し御家には昔し今の珍宝不足し給ふものは有まじきと申されしに其席に羽州山形の大守永朝朝臣居合せ給ひそれが中に戦場の血付たる武具は所持し給ふまじと戯れ給ひし程也また此頃世の人己が支干の七ツ目にあたれる甲乙の形ある者常に愛し翫ふ時ははからざる幸ひを得る事有と申触たり此殿子の年の御生れにて七ツ目午にあたり給ふにより馬を愛し給ふの由人々伝へ聞太刀かたなの金具より掛物屏風類に至るまで物の上手の作り出せる馬の形有物は一々取て参らせしにより皆此殿の御家に集りぬもしも世に残りある時は其価むかしに十倍すと也亦夫より猶甚しきは唐土阿蘭陀の商人ども日本にては七曜の模様付たる物こそ能価に成ぬと心得其模様付たる織物著物の類積来る事多し是は此殿の御家紋七曜なるが故なれば也又其年月忘れたり過し頃豊州臼杵の城主稲葉弘通朝臣といひし御方神田橋御門の御守り仰蒙らせ給ひし時或夜此役の家士瀬田内膳といひし男の下部酒に酔狂ひ其御門を通り過て何やらん不法の事を云募り罵り呼りたるにより番人ども腹を立強くいましめたり其仕業悪かりしとて其日詰居たりし番頭何某とやらんいへる男重罪を蒙りたり其威光の盛なりしこと此類ひ多かりき意知朝臣はか丶る目出度御家の御嫡子に生れ給ひしかも御父子執政の重職を蒙り給ふ程の御果報に渡らせ給ふ御身にして如何なる宿世の因縁にやか丶る剣難に逢給ひける事の怪しさよ同二十六日の夜に至御手疵次第に重らせ給ひ百薬その効しなく遂に空しく成給ひぬ扨善左衛門政言は意知朝臣果給ひしにより其罪切腹に定り同四月三日と申に山川下総守殿検使に立せ給ひ揚り座敷の庭にて腹切てはてられたり凡士は賢不肖となく朝にあれば譏られ女は美悪となく宮に入ば妬まる丶とやら意知朝臣の御事有て後も相良殿御勢ひかわらせ給ふ御気色も見へさせ給はず一日二日も過ざるにはや常の如くに出仕ましまし又折ふしの憂を忘れ給ふためなるか猿楽など興業し給ふのよし人々伝聞知るも知らざるも悪み譏り奉らざるはなし去年より童謡にいやさの水晶で気はさんざと云事の行れし最中なれば下賤の者共夜に入ば暗きにまぎれ此殿の御門前を打通りいやさの善左で血はさんざと謡ひはやし又二人の乞骸人一人は七曜の紋付たる酒樽の古き筵をかぶり怪しき姿して馳出せば一人は鍾馗大臣となり悪魔遁さじと追詰太刀にて切殺す真似にして町々小路々々を白昼に廻歩行けり是を見聞人毎にあな心よきふるまひやと申さぬ者はなかりし也かく侍りける人心なりしにより政言は死して後かはらざる幸ひを得侍りぬ去年の頃より聞も及ばぬ飢饉にて四民あくまで困窮し侍りしに此人果られし翌日より五穀の価少し賤しくなりしにより頑愚のもの共寄集りあなたうと有難や此人は人間にてはましまさず神にておわしましけるが我々を救んためかりに此世に生れ来てか丶る奇怪の事を仕出し神あがらせ給ひけりと云触て其なきがらを葬りし浅草本願寺の地中徳本寺といふ寺へ毎日蟻の集る如く引もきらずつどひ詣でひたすらに世直し大明神とあがめ唱へ申す由時の奉行聞し召近頃奇怪の至り也疾是をしづめよとその卑官さしやり給ひ門の出入を止められたり是により暫く人も聚らざりしが其後も何事祈るらん詣る人は絶ざりけり是も宿世の因縁にやためし稀なる事なりき扨此後に至り御府内は五穀の価少し賤しくなりしかども他国はさしてかはりなく次第次第に食尽て果は草木の根葉までもかてになるべき程の物食はずと云事なし……中略……南部津軽に至りては余所より甚しく……中略……元より貧しき者どもは生産の手だてなく父子兄弟を見棄ては我一にと他領に出さまよひなげき食を乞ふされど行先々々も同じ飢饉の折からなれば他郷の人には目もかけず一飯与ふる人も無く日々に千人二千人流民共は餓死せし由又出行事のかなはずして残り留る者共は食ふべきものの限りは食ひたれど後には尽果て先に死たる屍を切取ては食ひし由或は小児の首を切頭面の皮を剥去りて焼火の中にて焙り焼頭蓋のわれめに箆さし入脳味噌を引出し草木の根葉をまぜたきて食ひし人も有しと也又或人の語りしは其ころ陸奥にて何がしとかいへる橋打通り侍りしに其下に餓たる人の死骸あり是を切割股の肉籃に盛行人有し故何になすぞと問侍れば是を草木の葉に交て犬の肉と欺て商ふなりと答へし由……中略……出羽国米沢の侍従治憲朝臣と申は賢君にて渡らせ給ひ……中略……其外尾張中納言家熊本少将若狭の侍従白河の太守など皆美政おはしませしにより此殿原の御領地に餓死せし人は聞えずとぞ夏も過漸く秋にも至りぬれば新穀も出来り世中少し穏なりされど昔より人の云伝し如く飢饉の後はいつとても疫癘必ず流行とかや今年も又其如く此病災にか丶りては死亡する者多かりき……中略……又此年は辰の年にていつも辰の年は必火災多しとて人々恐れ居たりしに師走も半過れども今迄其事なかりし故世の云ならはしは空言ぞと諸人油断し葉針き然るに下の六日の夜戌の刻と覚しき頃鍛冶橋御門の内遠州横須賀の城主西尾隠岐守の御屋形より如何してか火をあやまりけん一時にさつと焼出せり……中略……南は新橋仙台殿の御屋形を限り北は京橋を堺にて其間に有ける人家一宇も残らず焼払ひ東南さして広がり行築地鉄砲洲に立並ぶ大小名の浜屋敷只一ぺんの烟りとなりもえうつるべき家居もなき波打際にて火は止ぬ凡前夜の戌刻より明る二十七日の午の刻迄只焼に焼ける程に家数何千といふ数しれず其間に立たりける西本願寺を先として一ツも残る物はなく空しき原とぞ成たりける……中略……
明れば五年は世中穏かに五穀の価もや丶賤しく人々もいとなみ安く悦び勇み侍りぬ然るに春より秋に至り世に稲葉小僧といへる曲者有と沙汰したり此曲者の振舞は並々の盗賊ならず人家の軒に飛上り飛下ること天をかける鳥よりも軽く又塀を伝ひ屋根を走る事地を走る獣よりも早しと也然により如何なる堅固の御屋形にても此曲者の忍び入らんとおもひし所はいり得ずといふ事なしまづ一番に御三卿の御本殿を先として薩摩中将熊本少将廣島侍従小倉侍従津侍従郡山四品其外時の老職浜田侍従相良侍従此殿原の御屋形或は御寝所御座の間近くいつの間にやら忍び入太刀刀を先として衣服調度或は千金二千金の御宝数多く盗みとる今日は其所の御屋形昨日は此所の御屋形と日毎夜毎に其沙汰止時なし是を伝へ聞し人々人間にてはよもあらず必妖術修したる悪党にてぞ侍るべきと申さぬ者はなかりし也公にも其沙汰聞厳しく尋ね求め給へど何所に隠れ忍しにや半年余りも知れざりしがか丶る希代の曲者も運命尽る時なるか同年九月十六日の夜一ツ橋の御屋形へ再び忍び入たりしに名もなき下部に召捕はれ公にぞ渡されたり即裁断所へ引出され様々拷問召されしかど同類も侍らず音に聞えしと事替りさせる術なき盗賊にて元来は武蔵国入間郡の生れにて今年三十四歳になる新助といふ男也片田舎の生れ故田舎小僧と申せしを聞誤り呼ならはし稲葉小僧と唱へし由其罪已に定れば程なく首を刎られて獄門にかけられたり世乱れ国に道なき折にこそ高位高官の御座の間近く盗賊は入べけれか丶る治れる御代といひ殊に又大国を知しめす武夫の御屋形だとひ戸ざしはなかりしとも御威勢に懼れ参らせて忍び入べき道理にあらず然るに此新助の容易に忍入たるは是ぞ誠に人妖とや申べき
又同じ年の八月の事なりき日は忘れたり藤枝外記殿と申食禄四千石しろし召れし御旗本如何に狂気やし給ひけん新吉原に住居する大菱屋の遊女綾衣と云傾城と情死して果られたり公に此事聞し召其身にも似合ざる不儀なりと知行を没収し血筋を断じ給ひたり昔より聞も及ばぬ事也
今年も暮同じく六年とはなりぬ今年は支干丙午にして元日も丙午にあたり殊に皆既の日蝕なれば又如何なる年いかなる珍事や出来ぬらんと去年より是を恐れ諸人案じ居たりしに既に元日といふに至り暦の面と事替り八分ばかりの蝕なりければ世の人是を見侍りて実に目出度事なるべしさせる事も侍るまじと頑愚の者の習ひにて悦ぶ事も一倍せり……中略……睦月の半頃より日毎日毎に風荒くもの丶乾く事火を以てあぶるが如し同じ月二十二日に至朝より西北の風強く土烟吹立空の色見えわかず午の刻と思しき頃湯島の臺より火事出来て黒煙り巻上れり……中略……南は室町を限りとして日本橋にて焼止たり北は馬喰町を堺として山伏井戸にて火は止ぬ……中略……明る二十三日も同様に風はげしく昨日焼し灰を吹あげ空一ト入に暗かりしに又午の刻とおぼしき頃西の久保の田町あたりへ飛火して童謡に焼けるが海際にてしづまりぬ凡此日の火事は幅三町に長五町と聞えたり同二十四日の夜南の方空赤く日を経て後に尋ぬれば神奈川の宿の内三百余軒焼たる由夫より後に至りても日々夜々に風荒く同二十七日の朝本町二丁目に火災あり又其日の午の刻本所四ツ目より焼出し釜屋堀まで焼通り堀の向ひへ飛火して家なき所にて焼止りぬまた其夜の事なるに雉子橋の御門の内にありたりける御蔵の御搗屋より出火して御城の方風下故に既に危く侍りしが幸に消留て是は此所にて焼止たり睦月も過衣替着六日午の刻又小日向の蓮花寺前より出火して……中略……御茶の水際にて其火則消止たり同日駿河国久能山の脇山より野火出て明る七日も終日焼けるが同八日の早朝に風とともに止しと也朔日のごとく風吹かば御宮も焼べかりしに幸に風止しは東照宮の御神霊による成べしと其土地の人申せし也同九日は下野国日光山風雪烈しく降たりしに如何して火を誤りけん御奉行天野山城守殿の厨より出火して坊数四十一ケ所町数八十二町一時の灰となりけるよし久能といひ日光といひ共に神祖の御神廟無恙とは申せども斯驚かせ奉る事いかなる事の御告にやと恐れぬものはなかりし也……中略……又同月(彌生)二十三日相州の箱根山自から鳴動し同二十四五日の頃地震殊に甚しく凡此両日に百度計ふるひし由是により二子山崩れ蘆湯底倉なんど丶いふ湯治の場所へ大石落人家多く破りしと也扨此鳴動に驚きてや猛獣ちまたに走り出畑湯本あたりにて往来の者にかみ付人々害を蒙る由春も過又卯月の半頃より同五月六月に至雨しきりに降続時ならぬ冷気行はれ夏の衣著る人もなし是によりて畠物のみのり熟せずこれは恐ろしまた今年も秋納あしく侍るべしと申さぬ人もなかりしなり同文月十二日の夜風雨殊に烈しくして関口より小日向あたり洪水軒をひたし夫より日々大雨止ず勢ひ車軸を流すが如く水はますますいやましてこ丶もかしこもあふれ終に十八日と云に至り向かしより聞も及ばぬ水災とはなりにけり凡関八州の国々此災にか丶らぬ地はなく……中略……又此春の初めつかたより何の故といふ事を知らず夜な夜な空中に怪しき音し侍りぬ此所にあるかと聞けばかしこに聞ゆ大名の宿直の武士又病人の介抱人たしかに聞人多かりき世の人是を天鼓と号し今度の洪水出し後絶て其沙汰止てけり是水災の告なるべしと申人も侍りき明英宗皇帝天順七年癸未の年件の如き音せし由其時李賢と申せし臣下奏せしは上下恤下厥有鼓妖と申せしと也若もしかある類ひにやいぶかし又同月晦日の夜たしかに月の二ツ並び出しを見し人ありと語りたり是尤も怪しき事也又其頃伊豆の国宇佐美久津見の海の面潮一時に真水となり海猟暫く絶たる由是はさいつ頃の洪水の海へ入し故也とぞさも有事にや……中略……
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 焼砂を江戸にまで降らした浅間山の大噴火に、玄白も深刻な不安を抱いたようだ。またも農産物は凶作で物価は高騰する。藩主など上級武士が買い占めに走る。更に高騰し、庶民には、文字通り、絶望の淵に身を投げ入水する者が多かった。そんな時代、老中/田沼意次の嫡子でありながら何故だか(一家で当主以外の者が幕府役職に就くは異例)若年寄だった意知が江戸城内で、佐野善左衛門政言に殺される。出自不明の田沼家を由緒正しい自家の系図に繋げると申し出た佐野に、田沼家が系図を返さなかった為に起こったとも言われるが、真相は分からない。面白いのは、玄白が、意知の治療に当たった天野了順の処置に着目し、疑問を抱いている点だ。結果的に死んだのだから処方が間違っていたとも想定できるけれど、当の了順は血止めだけで十分だと判断したのだろう。玄白の記述は、医学者らしい着眼ではあるが、事件内容も或いは医学者ネットワークからの情報であったか(意次失脚時の記述でも医者の動きに着目している)。
 勿論、佐野は切腹に処せられる。しかし庶民は佐野を「世直し大明神」と称えた。折しも直後に米価が下落した。佐野を葬った寺には参詣者が引きも切らず、不穏を感じた町奉行は寺の門を閉ざすが、庶民は押しかけ続ける。動機不明の暗殺事件で、これだけ庶民が熱狂した理由は、時の老中/田沼意次を憎んでいたからだ。縁故と賄賂で政治を私し、庶民が物価高に喘いでいるのに豪商を保護し、対応策をとらない。新田開発も行おうとするが、これとて庶民の目からすれば、豪商を利することに重点を置いていると映っただろう。また玄白は関係者の横暴を挙げ、意次に対する庶民の憎悪に有利な心証を与えてもいる。暗殺事件を快いものだと田沼屋敷前で敢えて嘯く者達、白昼に路上で勧善懲悪仕立ての寸劇を披露する乞食……玄白は口先では此等の行為を非難しつつも、「是を見聞人毎にあな心よきふるまひやと申さぬ者はなかりし也」と伝えている。また、息子を殺された意次が喪に服すわけでなく事件後程なく猿楽を興業したことにも、庶民の怒りは向けられる。但し玄白は、「憂さ晴らしではないか」と、一応は意次の肩を持ってはいるが、玄白の如斯き記述には特徴があって、文章の途中に穏便な感想を挟み、文末は庶民の怒り・憎悪で終える。明らかに、庶民の怒り・憎悪を強調し結論とする筆法で、【穏便で常識的な感想】はイーワケ程度のものに過ぎない。さて、玄白は田沼政治に対する密やかな不満を、庶民の口を借りて表明し、毎度お馴染み天災記録を続けるが、いきなり江戸後期の大盗賊、稲葉小僧を紹介する。大名・旗本の屋敷を次々襲った怪盗だ。人々は妖術使いだ何だとか大騒ぎして話題にしたようだ。しかし捕まえてみれば普通の人間で、しかも武蔵国入間郡(片田舎)出身だから元は「田舎小僧」と呼ばれていたが、聞き違えた者が「稲葉小僧」と呼んで定着してしまったのだと、殊更に「大盗賊」を貶める情報を掲載している。玄白ほどの名士なら、情報源は幕府の役所だ(馬琴の兎園会を例に挙げるまでもなく幕吏や江戸勤番の地方武士と江戸の知識人は情報ネットワークで繋がっていた)。玄白が馬琴に伝えた「鼬憑き」の情報も、訴状を見て知ったものだった。役所か、或いは町役人にコネがないと、訴状なんて見られないだろう。よって、「田舎小僧」情報は役所側が【大盗賊を英雄にしたくない】と、御尤もな欲望に駆られ敢えてリーク/喧伝したものとも感じられる。が、もしも、そうだとしたら、逆効果だ。たった一人の「田舎小僧」如きに当主の寝所近くまで侵入され家宝や金を奪われた大名・旗本家は、「田舎小僧」未満ってことになる。
 また続く火事の記述のうち、興味深いものがある。駿河国久能山(遺言により家康の遺骸を一時安置した場所で徳川の一聖地)の脇山から出火、すわ久能山焼亡かと思われたが、風が吹いて鎮火した。「東照宮の御神霊によるべし」と家康の権威を持ち上げている……が、直後の記述で、日光奉行の厨房が失火、日光一山大被害を被ったと云う(家康廟は無事)。徳川家の聖地が二つながら火の手に迫られ脅かされたのだ。「いかなる事の御告にやと恐れぬものはなかりし也」。家康すなわち幕府権威の凋落を感じているが如きだ。

 幕府は私的な軍政機構であり、大名・旗本は武威を以て社会を維持するべき者であった。其れがトコトン馬鹿にされているのである。玄白は続けて、大身旗本が遊女と心中した事件を語る。文脈の流れは明らかに、【支配階級もしくは上級武士階級の堕落】だ。天災と、武士の堕落を交互に書いていく玄白の姿勢は、何を言わんとしているのか。(お粗末様)
 
 

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