★伊井暇幻読本・南総里見八犬伝「日光神領猿牽」★
前回は維新後被差別者の一応の解放がもたらした、「平民」対「新平民」の衝突で話を終えた。政情が不安定となりつつあった幕末、日本の真の君主は何者かとの問いがクローズアップされつつあった時代に、八犬伝は刊行されていた。身分差が尖鋭化する背景が準備されつつある時代、八犬伝は尖鋭化とは逆の方向、領主である季基が被差別階級の猿牽と交感する。武家同士もしくは天皇に対して杓子定規な身分差を適用しつつ、被差別者さえも対等の位置に置こうとする。この矛盾を孕んだ態度こそ、八犬伝である。
が、実は此、「矛盾」とは言い切れない。譬えば、「どんな盾でも貫く矛」があったとする。そして続いて「どんな矛も防ぐ盾」を持ち出したとする。「その盾を先程の矛で突けば如何なるか」? 答えは簡単、「貫けない」だ。総ての発話が真であれば、「どんな盾でも貫く矛」より後に「どんな矛でも防ぐ盾」が発生しただけの話だ。時間差があれば、矛盾でない可能性が生まれる。では「杓子定規な身分差」と「被差別者さえ対等の位置に置こうとする態度」に「時間差」はあるか。「杓子定規な身分差」は、八犬伝ストーリーの同時代的現象だ。対して「被差別者さえ対等の位置に置こうとする態度」は、八犬伝ストーリーより遙か以前、結城合戦以前の挿話である。メルクマールである結城合戦以前の挿話が、結城合戦メモリアル法会の場で語られた。其れは、メルクマール以前の世界を理想的に語っているのだ。過去に理想像を求めるは、前近代の常套である。過去に理想を仮託するのだ。ならば、此処で語られる挿話は、八犬伝ストーリーの同時代的位置から見て、進むべき方向、あるべき形、理想であるに他ならない。同時代的位置/現実と、あるべき形/理想は当然、矛盾する。矛盾するからこそ人は、矛盾を解消し理想に近付くため闘うのだ。何処まで闘えるのか、何処まで闘ったか、其の橋頭堡が、時代の形を規定する。
身分差(機能差)として天皇を象徴君主と規定し、実は同時に自分を物質搾取する者とは全く認めぬ里見家の理念は、同時に賤民と同じ地平に立とうとする。井田制を通じた理想表現「プリンパキトゥス」に就いてはすでに述べた。天皇と賤民は左右対称、人民から等距離に在る。誤解による傾きを正せば、三者とも標高は同じだ。理の当然、当たり前の話に過ぎない。だいたい、一億人のアイドル毛野には、芸能民であった過去がある。肉体を鬻いだこともあっただろう(妄想)。あ、いや、抑も口絵表記の「傀儡師」は関八州内であれば、江戸の穢多頭・弾左衛門支配下であると、しっかり慣習法化されていた。「放下」だって門付芸人だ。千葉庶流ではあるけれども、大大名の親類って犬士の中では最も血統書が良いとも言える。だが、当時だったら「身を落とした(町人などから穢多扱いの猿牽など芸能民に転化することはあった)」とでも云われ、何の説明もなく、いきなり大名の家臣になるには無理があろう。でも、なった。此が八犬伝の厳然たる作中事実である。
また、狙公挿話は、別の側面からも話題を提供している。季基の本貫が上毛である点だ。徳川家は(嘘っぱちではあるが)源姓新田流ってことになっていた。里見家と同じ流れだってことだ。そして、上野国新田には「日光神領猿牽」と称される、東照宮支配下の猿牽が分布していた。まぁ下野国の足利やら下総国の結城・古河にも居たんであるけれども、近世との繋がりは知らないが、現在でも日光猿軍団なんて名乗る集団がある。以前には穢多頭・弾左衛門に組織化されていた江戸の猿牽も維新後の東京では、周防辺りから出てきた猿牽集団に追い落とされたりしたけれども、日光って近世でも猿牽の重要拠点の一つであった。何たって、猿牽も賤民(穢多扱い)である以上、建前上、関八州内は江戸・弾左衛門支配下の筈なんだが、日光神領御祭礼に供奉する者は、弾左衛門支配から独立し得た。具体的に「支配」とは、他の職人ギルドと同様に、指揮下にあることやら免許交付やら定期的な献金だったりするんだが、それをしなくてよいってことだ。弾左衛門としては収入に直結する話だから、日光だろうが何だろうが関八州の内なら支配下だって主張して訴訟してたりするのだが、認められはしなかった。「日光」とは特殊な地域なのだ。だって、幕府の権威の源泉は家康なんだから、手出しが出来ない。幕府支配から脱ける現実的手段が、日光直属となることなのだ。自分たちの権威の源泉である家康直参には、幕府だって手出しができないって、こりゃ当たり前の話だろう。自らの根拠を否定することは、なかなかに難しいことなのだ。新田支族の里見家は上州新田辺りに存在したと考えられる。一方、「東照宮の牡丹と梅と犬」でも「八房の梅」など魅力的な特産品があること、「結果WholeRight」では観音浄土の補陀落信仰など東照宮と観音ひいては八犬伝の関係を示した。家康すなわち日光東照大権現である。故に季基と対等に交わった狙公・朝暮七は、幕府権威から独立せる賤民であったと、近世読者はイメージし得ただろう。
ところで例えば親兵衛は「師走生れの年弱もの」(第三十五回)だ。まぁ荘介も毛野も十二月生まれだし筆者も十二月生まれだが(関係ないだろ)、親兵衛の場合は、京都滞在での挿話で寅童子の化身とされていた。徳川家康の誕生日は十二月二十六日だ。家康は、寅童子の化身とされていた。故に「寅童子」の共通から、荘介・毛野とは違い、親兵衛は家康と重ね合わされていて、誕生日は、師走は師走でも、十二月二十六日であったと考えられる。(広い意味での)年末である。一方、近世大名としては足利氏と共通する二引両紋を用いていた安房里見家の実在に逆らい、馬琴は里見家が一引両紋すなわち新田流であることを強調した。「東照宮大権現縁起」なんかも、新田義貞が自分の子孫が天下を取ると宣言し故に家康が征夷大将軍になったと言っている(←だから家康は源氏ぢゃなく実は藤原姓だったろぉが←単にイメージの表徴としての話だから別に構わんが)。
恐らく、此の時点で、奇妙な逆説が生じた。東照大権現の神格を高めようとすれば、東照大権現の祖先である新田義貞を高めねばならず、新田義貞を高めれば、属した南朝を高めざるを得ず、単純に(もしくは純粋に)高めていったら、(室町)幕府が奉じた北朝を否定することに繋がり、南朝を正統とすれば、天皇対幕府の構図が浮かび上がった時、天皇側に同情せざるを得ない。徳川幕府の正統性を強調することは、(南朝)天皇の正統性を強調することに他ならない。両者の関係が、幕府優位の【蜜月】期には、幕府側から自発的に南朝正統論が出されて、全くオカシくはない。しかも、近親憎悪とは言わぬが、権威として接近せる分家が本家に対抗意識を持つは自然の流れで、分家が共通の祖先(家康)を異常なまでに高めつつ、現在の本家/将軍を軽く見ようとしたがれば、かなり自然に、水戸学が生まれる……
ことほど左様に家康の影は八犬伝に大きな影を落としているが、犬士の中でも重要な位置を占める親兵衛が、寅童子なるモノだけでなく、誕生日まで一致させられているとなると、馬琴にとって、【誕生日】は重要なモノであったと漸く頷ける。此は、或る人物の生涯を、宇宙全体の中に、必然なるものとして組み込む所作に他ならない。ならば、誕生日への注目は、死んだ日/命日にも特別な意味を見出すだろう。
此処に於いて漸く、結城法会の意味を語ることが出来る。結城法会すなわち里見季基の命日(を記念する行事)である。各種系図に於いて、里見義実の父親は「家基」だ。【家の基(もと)】なんである。其れを馬琴は、【季の基】季基(すえもと)と変換した。筆者は以前、「季」の意味を、【末(終末)】か【時(一定の長さを持った期間)】か特定できぬと述べた。現在でも出来ない。……ってぇか、実は両者、同じかな、と思ってもいる。宿命論に於いては、始点(誕生日)と終点(命日)は予め定まっており、即ち生きている期間は、予め定まっている。終点の予告は、始点に於いて為され得る。「(始点・)終末の確定」と「期間」は、ほぼ等しい。
そう、四月十六日は、八犬伝に於いて、【特別な日】だ。結城落城、結城法会、勅使が八犬士と義成はじめ里見家中に対面(第百七十九回中)、そして里見義実の死んだ日、犬士と里見義成そして丶大が会同し牡丹痣の意味などが明かされる日……。四月十六日が【メルクマール】として設定されていることを示している。次の様な塩梅だ。
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嘉吉元年より明応九年に至りて星霜六十年を歴たり。這年四月十六日(一云十四日)は結城落城の昔を偲ぶ季基朝臣の六十年忌、義実老侯の十三年忌に丁るをもて、この日義成主は旱天より稲村の城を出て、延命寺へ参詣あり。(第百八十勝回中編/牡丹の種明かし場面)
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里見は封内無異にして後安かりける程に義実老侯は長享二年四月十六日に卒りぬ。次の年延徳と改元せらる。嘉吉元年よりこ丶に至りて春秋四十七年を歴たり。義実結城没落の時十八歳ならば卒する年六十五歳なるべし。則白浜延命寺へ葬る。中興の祖なるをもて廟墓究めて厳重なり。其忌日四月十六日は結城落城の月日と同じ。人是を一奇とす。二世義成は文亀元年四月十五日に卒りて三世義通に嗣ぐ……後略(第百八十勝回下編大団円)
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……ところで、里見義実の命日が四月十六日であると語る史料を筆者は知らぬ。以下に各種史料を載す。「東照宮大権現縁起」やら「東照宮御実紀」は、オマケだ。
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里見系図
義実(刑部少輔)法名杖珠院殿建室輿公居士。嘉吉元年足利春王殿安王殿与力合戦打負、自結城木曾堀内召具、相州三浦渡、三浦之者共相頼、安房国白浜渡海、其節神余家臣山下左衛門企逆心殺主己神余主、乃安房郡号山下郡、丸与又相争合戦、安西者与東條縁者也、故請加勢討取丸、従此丸家臣悉以義実為主君、先此山下之者共属義実、於是義実両郡之率勢、為征安西瀧田迄出張、于時手勢纔五十騎巳、丸勢馳加為大勢、安西聞之、瀧田迄出張、自知不叶乃降参、義実以安西為先手攻東條、已城落、終領一国、長享三年戊申卯月七日七十三歳卒
成義(刑部大輔或曰左衛門佐)法名慰月院大幢勝公居士、征上総国先攻自萩生城、其後攻佐貫、従此丸谷・推津・東金・大瀧・庁南・万喜・池和田・窪田等之諸城悉属旗下、永正元年甲子四月十五日卒
……後略
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別本里見系図
前略……
家基(大炊助常陸大将)
義実。房州大将、始上野住居、此時房州住人安西三郎・金鞠・丸五郎・東條四人已討果、其後稲村築城為居城、号稲村屋方、七十一逝去
成義(刑部少輔又号左衛門佐)
……後略
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密蔵院本里見系図
前略……
義基(同/里見氏)
義実(同)結城にて嘉吉元年に足利春王院殿・足利安王院殿と打組、上杉に打負給。是より寛永八年まで百十九年に成。結城より木曾・堀野内御供にて三浦の兵共を頼、安房国白浜へ渡り給也。其時分神余の家老山下左衛門謀叛を起し、君をひそかに殺奉る。己神余の大将と成。是より此郡を山下郡と号。去程に丸と安西、彼が無道を悪み、公方へ申上、左衛門を打取了。然に安西と丸と此郡を分ケ取、俄に合戦出来、安西は東條と縁者成間、加勢を以て丸を打取。是より丸の牢人義実を主君と頼み申。則丸の五郎俊信が吉例に任せ御主従のけひやくし、山下の牢人も内頼申。両郡の者共に合、義実安西え押寄せ給ふ。大将と木曾は山下の勢をもよをし、堀野内と三浦衆は丸の勢を催す。大将千臺と云東條へ打出給時、御手勢五十騎也。然処に丸の勢来り、已に安西が城へ押寄せける。安西も窪田まで打出しが、如何思ひけん、かうさんに出たりける。則先祖の景益が例にまかせて、主従の御けいやく有り。又安西を御先手に被成、東條え押寄せ城を取給。是安房頭の初也。長享三年戊申卯月七日七十二歳にて逝去。枝珠院殿建空輿公居士号。上総戦
刑部大輔成義 義実の御子也。上総の国をせめ給ひ萩生の城をせめ給。城方よわよわと成り、城を渡事無念にや思ひけん。以使者之言様は、代々里見家は文武にくらからずと承候間、今日の内百首を作て此処の躰を不残給はば、城方は一人も残らずかうさん可仕と有間、一昨日の内二百首迄詠て被送候。則城方不残かうさんに出たりける。是を始として東西よりせめらる丶。大瀧・庁南・萬喜・勝浦・池和田・丸谷・窪田・東金・佐貫・推津の城に或は付手、或打取り、上総国を給。卯月十五日逝去。慰月院大幢勝公居士号。
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断家譜巻廿四
清和源氏 里見 本国安房 紋丸中黒
陸奥守義家後胤
里見伊賀守義成八世
大炊助家兼男
家基(里見刑部少輔)嘉吉元年結城合戦為上杉家遂討死
義実(刑部少輔)嘉吉元年父討死後逃于房州白浜、文安二年攻取東条城、同三年与正木合戦、正木無利降参、房州一円治之、長享二年戊申四月七日没、年七十二、葬房州白浜、法名杖珠院建宝輿公
義成(刑部少輔。母真里谷氏女)明応二年与生実御所(足利義明)責上総国長南、後討下総国木内、後平治房州・上州、居稲村城、永正二年乙丑四月十五日没、年五十七、葬白浜、法名慰月大憧勝公
義通(上野介。母上総万喜左近女)居稲村城、属于生実御所(足利義明)永正十七年庚辰二月朔日没、年二十八、葬房州滝田、法名天笑院高山正皓
……後略
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前略……
一、義実兵を大田木に進む。正木大膳くだる。長享三年の事也。按に正木氏家譜、大田木圓照寺という禅院に有と。考へ見つべし。
一、義実長享三年に卒す。菩提院は白浜なり。按に義実三浦より渡海の始住し処ありと彼土の人かたれり。菩提院寺号可考。(房総志料巻五安房付録)
……後略
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前略……
角て義実公にも上総合戦御帰陣の砌より御眼病甚はた痛ませ給ひ今年の冬よりひしと両眼閉晴になり玉へは医薬力を尽すと云とも、御老衰の上なれは御悩み日々に増り、終に長享二戊申歳四月十七日、七十二歳にて薨し給ふ。御嫡子成義公を始両国の御孫君国中の家士或は惜み或は別を悲み歎傷せすと云者なし。然りと云とも生者必滅の習ひ力らなく白浜村種林寺に葬り奉る。御法名杖珠院殿建室輿公居士と号し奉(房総軍談記に見へたり/房総叢書本は「房総里見記に見えたり」)……後略(房総里見誌巻三義実公逝去之事)
……中略……
前略……斯て永正二年の春の頃、不図御病気付せ玉ひ医療も力らを尽しけれ共、定命限り有てや、御年四十六歳にして同年四月十五日、終に薨し玉ふにぞ痛はしき。此君を以房総里見の中興とす。御戒名慰月院殿大幢勝公居士、菩提寺白浜村にて葬奉る。御墓今彼村福聚院の傍に有之(一本に永正元年甲子と云、異説なり)此君は長禄三年己卯年に御誕生三十歳にして家督に立しめ治世十七年也。
……後略(同稲村城成就并宮本城附成義公逝去之事)
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引用の途中だが、疲れたので、ひとまず筆を擱く。(お粗末様)