武家事紀 山鹿素行
 
今年{嘉吉二年}鎌倉上杉家臣長尾左衛門入道昌賢賢才の誉ありけるが関東に守護あらずして闘錚止事なきことをなげく。京都に伺奉り持氏卿の末子永寿王を信濃住人大井越前守持光が本より迎とり左兵衛佐成氏卿と仰ぎたてまつる。憲実三男竜若丸を元服せしめ右京亮憲忠と号し山ノ内にうつって管領たらしめ上杉持朝の娘を嫁す。長尾一家ことごとく保護して関東暫く静謐なり。
……中略……
同{享徳三年}十二月、鎌倉成氏卿(時に従四位下少将)結城氏朝が子成朝と相はかって管領憲忠を殺し君臣ともに父の仇を報ずと称す。これに依って鎌倉中大いに乱れ合戦止む時なし。翌年成氏卿より専使を立て京都にこの事を陳し申され憲忠不義の次第、長尾等我意をほしいままに致す条々ならびに関東所々の軍の儀を申上らる。しかれども将軍家御不審やまず。長尾賢昌つぶさに京都に訴えければ上杉民部大輔顕定(房顕子)十四歳にして越後より上州に来て成氏卿と相戦う。成氏卿軍利あらずしてついに(康正二年)下総の古河に移りたまう。これを古河御所という。これより東国大いに乱る。
……中略……
(康正元年)七月、関東にて野心を挟む輩、石堂・一色・世良田・里見四人の首入洛。室町殿四足の門にて実見あり。
……中略……
二年、鎌倉上杉顕定、山内に入って管領と称し関東をしたがう。持朝の子定正、扇谷にあって両上杉、将軍家の御教書を得、東国を下知す。
……中略……
寛正二年十月、将軍家の御舎弟(従三位)左兵衛督政知、関東に下向す。これは東国連年静謐せざるに付いて両上杉家方より望みたてまつるなり。
政知、鎌倉に入らず北条に住し東国の諸士に制法を示さる。関東に久しく両上杉の下知を守り武威盛にしてければ、政知の威さらにこれにおよばず。堀越殿と称す。政知、延徳三年卒去。子息成就院相続し居たまう。
……中略……
今年{文明三年?}関東の上杉顕定、古河成氏卿と合戦。古河の城落ちて成氏卿、千葉へ逃走、天下ことごとく戦国たり。
……中略……
同年{文明九年}七月、上杉顕定と成氏卿(四十二歳)和睦相調って古河城に還住。家臣簗田中書を関宿の城におけり。しかれども関東いまだ静謐せず。所々の合戦止む時なし。
……中略……
今年{文明十一年}関東(扇谷)上杉定正が老臣太田備中守資長入道道灌害せらる。およそ関東の守護、成氏卿享徳三年十二月上杉憲忠を誅せらるるの後、成氏卿と両上杉取合はじまり成氏卿鎌倉に在ることかなわず、京都将軍家の命によって上杉顕定山の内にうつり成氏卿は(長禄元年)下総古河の庄にうつれり。この間、四年の戦(享徳三年より長禄元年)に上杉顕定威を関東にふるえり。しかれども古河の御所方をいたす者なお多くして合戦やむ時なし。されば(山内)上杉顕定は上野の平井に居城、(扇谷)定正(持朝子)は相州大庭に居城なり。相州武州上野下野安房上総越後飛騨出羽奥州等分国なり。その外関東の下知をうくる大名はなはだ多し。軍勢二十万に及べりとぞ。扇谷定正は上杉の庶流なれば分国も少く大名もなし。山内顕定が老臣長尾が領地ほどの事なり。しかれども家老に太田備中守資清入道道真・子息道灌父子、文武の才智ある者にて道を以て政道を沙汰し武を以て逆乱をおさめける故に関東の諸大名ことごとくお扇谷定正の家風を慕いて大半皆定正の下知につかんことを欲す。これによって山内顕定ならびに越後の房定(相模守従四位下)も扇谷を偏執の志あり。道灌これを考え後に必ず両家不和の事出来すべし、その時所々に名城あって扇谷の家臣楯籠り諸大名を下知し扇谷を守護すべき遠慮を廻らして、まず武州豊島郡江戸の城を取立て長禄元年に成風の功を終ゆ。
同年、武州南波の城を今の川越三好の郷にうつし両城を以て扇谷を守護す。時に定正十四歳なり。道灌名代として上洛いたし将軍家へ謁し奉り禁裡仙洞に礼をつくし扇谷の威を逞くす。定正始めて道灌を崇敬ありけるか近習の讒臣よりより佞奸をかまえて道灌連々山内顕定へ敵対の企ありと云う。顕定も間人を以て両家の不和になるべき源この者にあり必ず自立して上杉を敵にすべき野心これ有るよし風説せしめければ、定正その実を糾さず、ついに道灌をたばかり温浴の内においてこれを殺す。道灌死にのぞみ当家滅亡程あるべからずと云えり。はたして今年より山内顕定ついに扇谷定正と鉾楯に及んで顕定兵を起し定正を退治せんとす。これによって長禄元年より戦はじまり関東大いに乱る。
……中略……
今年{明応二年}関東北条の御所茶々丸酒狂によって家臣荻山を手討したまう。荻山逃亡してければ伊豆北条の辺忿劇す。これによって伊勢守長氏この事を聞いて韮山より人数を出し御所を囲み実否を糺さんとす。茶々丸これに驚き敵寄せたりと心得自害したまう。成就院と号す。いまだ年も幼若なれば跡を嗣ぐべき一家もなし。かねて長氏由緒もあれば自然に堀越殿の一跡を長氏が幕下に属せしめければ、なお武威強大なり。
……中略……
今年{明応三年}十月、上杉定正卒す。扇谷の良将たり。養子五郎朝良は若輩なり。その上、文武のつとめ足らざるがゆえに去る延徳元年に定正一封の異見状を認めて、もって教訓すといえども許用せず。今年定正ついに卒去ありければ扇谷の滅亡は云うに及ばず山内の衰微近にありと人皆推察す。同六年九月、古河成氏卿逝去、年六十四。乾亨院と号す。子息政氏相続せり。
……中略……
永正元年九月、関東の上杉両家立河原において大いに戦う。山内顕定子息憲房(顕定入道可諄と号す。憲房ときに管領たり)勝利。扇谷朝良、同国(武蔵)河越城に楯籠る。山内顕定父子、越後上杉房能・長尾義景ともに河越城を攻む。城中難義に及びければ扇谷家臣曾我兄弟出合い和睦相ととのい朝良江戸城に楯籠る。小田原の早雲・氏綱この節を考え武州に動く。上杉両家これを防ぐ。
……中略……
{永正七年}六月、関東山内上杉顕定入道可諄、越後長森原の戦に討死す。
去年、上杉の老臣長尾六郎為景逆心に付き退治せられ顕定憲房父子、打こえ数度相戦うの処、国中ことごとく蜂起しければ顕定はうたれ憲房は上州白井へ逃亡す。顕定今年五十七歳、海蔵寺と号す。この人、上杉家の中興なり。十四歳にて上州に来り応仁元年に鎌倉の管領たり。
家臣長尾左衛門尉入道昌賢才学のものにて上杉を補佐す。昌賢死去の後、顕定遠慮うすく遊楽を事とし一家の好をわすれて扇谷を退治するに至れり。憲房又政におこたり武にくらし。故に家臣ことごとく怨んで逆意を企て多くは北条早雲に随心せり。ここに上杉の老臣昌賢が子左衛門尉景春入道伊玄、上杉家衰微のことをなげき、ひそかに北条家へ間人を入れて上杉家の取沙汰をつぶさにきき連年顕定父子へ諷諫すといえども讒佞言路をふさぎ顕定父子承引すくなし。これに由って伊玄入道やすからず思い今年六郎為景に内通して逆心をおこし沼田庄に取入る。また上杉治部大輔入道建芳が家人上田蔵人、早雲に随い武州神奈川へ打っていで熊野権現山に城郭をかまう。北条早雲、小田原には氏綱をのこし相州高麗山ならびに住吉に故城を取立て兵を置く。
七月、上杉憲房より建芳を大将として上田がこもれる権現山の城を攻む。十一日より十九日まで平攻にいたされ上田城を焼いて退散す。
八月、上杉憲房このことを京都へ訴え将軍家より六郎為景を征伐せられんことを乞うといえども京都忿劇のころなれば沙汰に及ばず。
長尾為景は主人上杉民部大輔能房を弑し、こたびまた椎尾の一戦に顕定を弑す。両代の主人をころせる者なり(憲房は憲実の孫、顕定の養子とす)。
……後略

 


  
 
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