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続群書類従巻第五百七十五
 合戦部五
 

永享記
 

仁王五十六代之帝清和天皇第六の皇子貞純親王、始て賜源氏之姓を。其子経基号六孫王と其子多田新発意満仲と云。其三男河内守頼信、其一男伊予守入道頼義、其一男八幡太郎義家、義家一男対馬守義親、其二男河内判官義忠、三男式部大輔義国、四男六条判官為義、為義の嫡子下野左馬頭義朝、義朝三男右大将征夷将軍頼朝也。此御代寿永元暦の頃、源平両家之闘諍あり。平家追討之蒙院宣御弟範頼義経を大将軍として諸国の源氏を相催し数万騎之軍兵を引率して在々に合戦す。中にも摂州一の谷雀の松原深草の森八島水島壇の浦にて合戦、或は海上にて日を暮し船中にて夜を明し、或は鎧の袖を片敷、甲の鉢を枕として治承の秋の初より元暦の春に至て斯やかしこに相戦。暫くも安堵の思ひをなさす。雖然、矢島壇の浦において被牽祖父清盛公之戚縁に帝海底に沈みしかは、一門の卿相雲客も皆亡ひ給ひ三種の神器も海底に沈み畢。適々残る公達も或は入水し或は討死し平家の一門悉滅亡す。陰謀野心の輩悉く令誅伐。日本一遍に治て後、諸国の惣追捕使と成て号征夷大将軍、彼御子二人頼家実朝、相双て号三代将軍。扨又式部大輔義国康和年中常陸国佐竹冠者追討の大将軍として下野国足利太郎基綱の館に下着有て基綱の息女を最愛すと云云。其御腹に子二人出来給ふ。嫡子大炊助義重法名上西、新田殿の先祖也。二男足利判官義康、其一男義長十九にて早世。二男義清号矢田判官。三男義兼号赤御堂殿、長九尺二寸、母熱田大宮司藤原秀範二女なり。法名号■■梵字/駿河守殿と云。其一男義純岩松殿。二男義助桃井殿。三男左馬頭義氏法名号法楽寺。其一男長氏、今川吉良の元祖也。二男康氏平岩殿、法名證阿号知光寺。其一男家氏斯波殿の先祖。二男義顕渋川殿之元祖也。三男治部大輔頼氏、法名義仁号玄祥寺。其子家持伊予守、号報国寺。其子讃岐守貞氏、号浄妙寺。其一男左馬助高義、号延福寺殿。二男高氏治部大輔、後には征夷大将軍尊氏公是なり、号等持院殿、又号長寿寺、法名仁山妙義大禅門。其弟直義、三条錦の小路殿、法名名恵源、号大林寺。尊氏の御子四人あり。嫡子竹君殿、元弘三年之乱の時、伊豆の走湯山密厳院頼中御坊にて自害す。次男直冬、号筑紫左兵衛佐、今も其子孫九州にあり。三男義詮宰相中将、号宝篋寺殿、是京都公方の先祖也。四男基氏鎌倉殿、関東公方の先祖なり、法名道新、号瑞泉寺殿。其御子氏満、法名道仙永安寺殿。其御子正四位位下左兵衛督成氏公の御時こそ初て鎌倉を去て下総国下河辺庄古河の城に移り給ふ。其由来を尋るに、永享八年丙辰、信濃国住人小笠原大膳大夫と村上中務大輔と確執の事有て、合戦に及ふ。村上連々関東の公方へ申通しける間、御加勢を請奉らんとて、家の子布施伊豆守を鎌倉へ指越ける。明窓和尚是を吹挙し給ひければ、御加勢可遣由被仰出ける。

公方管領不和の事
去程に村上加勢として桃井左衛門督を大将として上州一揆武州一揆那波上総介高山修理亮等、已に打立よし聞へける。鎌倉の管領上杉安房守憲実、諫言を以申されけるは、信州は京都の御分国也、小笠原は彼守護人、京都の御家人也、彼を御退治京都への御不義たるへしと頻りに被申ける間、此加勢は事ゆかす。同九年四月、上杉陸奥守憲直を大将として武州本一揆打立へき由被仰付けるを、如何なる野心の者か申出したりけん、是者信濃へ御加勢に非す、管領を誅伐せらるへきよし風聞しけれは、憲実の被官旧功恩顧の輩、国々より馳集る。あはや天下の大事と人肝をひやさすといふ事なし。同六月六日より鎌倉中猥に騒不斜、上下男女逃迷ひ資財道具を持運ふ。依之、公方七日之暮方に憲実の宿所へ出御あり。いろいろ被仰分しかは少し静りける。然れ共、世上あふなくみへける間、管領父子同月十五日、藤沢へ罷退き給ひしか、猶身の上不安とて憲実の嫡子七歳に成給ひしを、ひそかに上州へ落し給ふ。是は直兼憲直等、色々の讒言を以、無故憲実蒙御勘気身におゐては無誤旨頻りに被申聞けれは、讒者の実否を糺して、同廿七日、一色宮内大輔直兼等、三浦へ追下さる。又管領家にて大石石見守憲重長尾左衛門尉景仲、色々讒説をかまゆる由、公方被仰出ける間、景仲憲重、山内殿の御前に参り我々在鎌倉故、屋形の御為悪しく候はんにおゐては下国いたすへきよし頻りに申けれとも、疑ひ両人下刻致すと云とも、世上無異たるへからすと見へけれは、留りぬ。同八月十三日、公方持氏、憲実の屋形に御出有て色々なため給ひ管領職政務の事、如元被仰付ける。再三辞退被申けれとも強て被仰付ける。然れとも武州の代官職不施判形をいたされす。万事苦々敷て其年は暮ぬる。明る永享十年六月、公方の若君吉王殿御元服有へしとて御祝儀の用意、善尽し美尽せり。管領被申けるは代代御元服は、みな京都へ御使ありて一字を御申あり。任先規御字御申有へし。節に莅て御使御難儀ならは某か弟上杉三郎重方、幸用意の馬なんとも候、罷登候へき由被申けれとも、此条曾て無御承引して、彼御祝儀に付て国々より名字を指て御勢を被召、直兼憲直等も蒙御免許罷帰る。又何者か申出したりけん、御祝義の時、憲実出仕の時、於殿中可被誅由聞えけれは、憲実虚病して出仕を止め、舎弟重方代官として出仕し給ふ。管領是を漏聞給ひ彌君を恨み奉る。公方も是を聞召、房州無実の説を信し予を恨る事短慮の至なり、然は若君義久公を憲実の宿所に奉置へし、此上は遺恨有へからすと被仰下けれは、管領忝き由申上、諸人も開喜悦眉けり。かゝりける所に若宮の社務尊仲ひそかに参り此条不可然と色々讒言しけるを信し給ひ、若君を憲実の屋形へ移らせ給はす。依之、管領彌奉恨ける。誠に君臣不快の基ひ歎ても余りあり。此世の中はさても歎かしく長尾尾張入道芳伝、同八月十二日、御前近ふ参り、只憲実をなためさせ給ひて世上無為に可被成由、再三諫言を以申けれとも無御許容。其後上杉修理大夫持朝(于時弾正少弼)千葉介胤直等、一味同心して色々管領和融の義、世上無為の由を訴訟申けれとも無御領掌、放生会を限として十六日に武州一揆を初として奉公外様の軍勢、山の内へ可押寄申聞えけれは、憲実大きに驚き、身に於て誤りなくして被向御旗御敵分に成て討れん事、不忠之至り、末代迄の瑕瑾也、所詮御糺明以前に自害して御憤を散し忠儀を可残とて、押肌抜て已に刀を抜給へは、御近習数十人走寄、奉奪腰物て、前後左右より令警固。かゝりける所に、長尾新四郎実景と大石源三郎重仲進出て申けるは、道にもあらぬ長僉儀して頓て討手を被向、闇々と御損命は一定也、御分国へ御下向有て無科旨再三歎き御覧候得かし、相州河村之館へ御開き尤に候、若さもなく御自害候はゝ各我等雑人等か手にかゝり浅ましき死をすへき事必定せり、同しく死せん命を御馬廻と打合、晴なる討死すへきそや、各大蔵辺へ打出て殿中にて屍を曝すへき由、詞を不残、血眼に成て申けれは、憲実つく/\と聞召、いや/\某自害したりとも各左様にあらんに憲実か悪名末代まて遁難し、さらには今宵鎌倉を開へし、乍去河村は分国豆州の境也、河村にて不得申開、豆州へ令下向は上様の御悪名を京都へ申立る様に人之思ひ給ふへし、上州へ下向すへし、其用意せよとて打立けれは、同名修理大夫持朝同名庁鼻性順長井三郎入道小山小四郎那須太郎以下、一味同心の大名相伴ひ八月十四日戌刻計に山の内殿を御出ある所に、光明赫奕たる日輪一ツ出現して、憲実の馬の草頭の上に掩ひけれは、諸人大に驚き、希代不思儀哉と■句の口が言/りける。如何様是は氏神春日大明神の行末迄守り給へき御霊光可成、此時御運を可開事疑なしと賀し申さぬ者無りけり。

三浦介逆心事
去程に武州一揆とも馳集て上雷坂に陣を取て憲実を待懸たり。管領の勢共是を聞て、何程の事か有へき、蹴散して捨んとて、各甲の緒をしめ旗の手を下しけれは、憲実堅く制して、いや/\不可然、某下向する事、無罪由可申開ためなり、御勢に向て弓を引へからす、あなたより切てかゝらは無力防き戦ふへし、従是打てかゝるましき由、強に下ちし給へは、無力皆陣を取て忿を押へ対陣す。一揆の勢とも管領の大勢を見て叶はしとや思ひけん、其夜上雷坂の陣を払て散り/\に成にけり。扨しも道開け憲実上州へ下り給ふ。鎌倉には宗徒の兵かけ参り、憲実の下向の事如何と評定区々也。或尊宿貴僧達を御使として下向の子細を御尋尤也と云義勢もあり。又は召返しなためさせ給へと申族も多かりけり。然とも是を次てに可追討とて其夜両一色直兼并同名刑部少輔時家を大将として御旗を賜り十五日の夜半計、其勢二百騎計、路次の人数を駈催し上州へ下向す。公方
持氏、同十六日の未の刻、武州高安寺へ御動座なり。御留守の警固、任先例三浦介時高被仰付。時高近年領地少く軍兵なけれは不肖の身として如何難叶旨辞し申けれとも、御成敗厳重たる上、先々奉随仰。時高思ふやう、先祖三浦大介、右大将家に忠ありしより以来、代々功を積て御賞翫他に異也、然るに当御代になりて出頭人に覚え劣り内々失面目無念に思ける処に、持氏公内々勅命に背き給ひ京公方より三浦方へ御内書を被成けれは、則此留守を打捨て忽に逆意を起し鎌倉を罷退、わか宿地へ帰りけり。十月三日、三浦介鎌倉を退きけれは、此由公方へ早馬を以申けれは、大きに驚き給ひ、誰を打手に遣すへき由被仰ける処に同十七日、三浦介二階堂一家の人々と引合て鎌倉へ押寄、大蔵犬懸等へ令夜懸、数千軒の在家え火を懸たり。鎌倉中の僧俗上を下へと北迷ふ。営中編かの分野、目も当られぬ次第也。

箱根早川尻合戦の事
抑今度京都鎌倉不和と成ける濫觴は、持氏関東中の禁中の御料、京方の所帯等、御支配の事不可然と諫申けれは、忠言逆耳、還而憲実を被亡、上意の侭に可有由思召ける由、京都へ聞えけれは、大いに忿り給ひ、則奏聞あつて綸旨を賜り御旗を被下、不日に追討すへきよし御教書を被成ける。
被臨旨称従三位源朝臣持氏累年忽緒朝憲近日興擅兵匪啻失忠節於関東剰致是鄙輩於上国天誅不可遁帝命何又容早当課虎豹武臣可令払犲狼賊徒者綸言如斯以此旨可令洩入給仍執達如件
永享十年八月廿九日
      左少弁資任奉
 謹言 三条少将殿
右御幡には辱も帝御詠歌を被遊と云々。
 ■澤のサンズイがシメスヘン/振海中雲の幡の手に東の塵を払ふ秋風
去程に同九月二十九日、京都よりの討手大勢、足柄筥根二手に分押寄る。筥根へは横地勝間田の軍兵共、伊豆の守護代寺尾四郎左衛門尉を案内者として既に山を越んとしけれは、大森伊豆守箱根の別当之を聞、水呑の辺に究竟の悪所の有ける所をかたとり掻楯かいて待懸たり。筥根山と申は四方嶮岨にて谷深く切れ岸高く峙り敵を見おろし我勢の程敵に不見、虎賁狼卒かはる/\射手を進めて戦ひけれは、敵縦何万騎ありとも難近付見へけれとも、寄手は大勢、防く兵は小勢なれは、何まて此山に怺へきと哀なる様に覚て掌に入たる心地しけれは、五百騎皆馬より下り、射向の袖を差簪し太刀長刀の鋒を揃へて只一息にあかりける。大森か兵箱根の衆徒、石弓を懸一度にはつとはなす。数万の軍勢、是にまくり落され遙の深き谷底へ人雪頽をつかせて落重なれは敵に討たれ死する者は少といへとも、己か太刀長刀に貫れて死する者数を不知。大森伊豆守勝に乗て短兵急に撫んと揉に揉んて攻ける間、石巌苔滑にして荊棘道を塞たれは引者も不延得、返す者も敢て不被打といふ事なく横地は討死す。寺尾兄弟三人共に深手を負けれは十方へ分れて落行ける。軍散して四五ケ月は山中草腥して血野草に淋き尸は路径に横たはれり。大手の軍は味かた打勝といへとも搦手の軍勢足柄山を越て相州西郡まて押寄ると聞へしかは、上杉陸奥守を大将として二階堂一党宍戸備前守海老名上野介安房国の軍兵を相添て西の郡の敵に押向らるゝ所に、此人々九月廿七日、相州早川尻へ押寄、鬨声を合、矢一筋射違ふる程こそあれ、大勢の中へ掛入て責けれは、魚鱗鶴翼の陣、旌旗雷戦{戟カ}の光、須臾に変化して万法{方カ}に相当れは、野草紅に満て汗馬の蹄血を蹴立て河水■サンズイに瓜/せかれて士卒の尸忽に流を断、かゝりけれとも続く味方もなし。只今を限と戦けれとも目に余る程の大勢なれは、憲実の頼切たる肥田勘解由左衛門蒲田弥次郎足立萩{ママ}窪を初として一族若党悉く討死し、憲直海老名終に討負て散々に成て落行けり。

持氏鎌倉へ皈給ふ事(附鎌倉合戦事)
同廿九日、持氏相州海老名道場へ被移御陣。千葉介胤直、初より憲実と御和談ありて可然旨、再三申けれとも、少も御承引なかりしか、武衆府中にて亦諫め申けるは、初も再三申けれとも御許容なく候に申上る条は憚有といへとも主暴不諫は非忠臣也、畏死不言非勇士と云事あれは縦ひ蒙御勘気とも指当る一事なとか申さゝらん、管領は全く異義なく見え給へは召返され本の如く政務を給り水魚の思ひを被成、関東静謐のはかりことを廻し御座ますへし、彼憲実は内には匡君の過、外には揚君美、無双の良臣に候へは、召に参らすと云事有へからす、但讒者群狂に恐て遅参之儀も有へし、君達を御使として召返させ給ふへきもや候はん、某若君御伴申て憲実を同道仕り皈参すへき事は案の内に候と、憚所なく申けれは、当座の評定一決して九月廿四日、既に若君御下向に究りし所に、若宮の社務尊仲、此由を聞て梁田河内守方へ以飛脚、彼御下向不可然旨しひて申けるを信し給ひ、若君御下向止けれは、千葉介諫言徒に成し程に、胤直大に忿りて相州へ御動座の時、御供不申罷留る。分倍河原に安駕可参と御使有けれは畏て承候とは申けれとも不参詰。為関戸山御越の時、千葉介手勢引具し神田寺原へ打出、
下総市川へ張陣。是のみならず海道の討手大手搦手一に成り、筥根の陣を押破て大将上杉中務少輔持房、相州高麗寺に陣を取。さらは是を防くへきとて木戸左近大夫将監持季を大将として御旗を給はりて相州八幡駿に陣を取、篝を焼て待明す。又憲実追討の為に下向し給ふ両一色の人々も相伴ふ軍兵は管領の方へ駆付けれは手勢計にて大敵を可除様なくして一戦にも不及、同四日、海老名の御陣へ引返す。上杉安房守、数万の軍勢を相具して同四日、上州を打立て同月十九日に分倍に着陣す。是を見て御旗本に有し人々、御内外様の侍奉行頭人に至る迄、公方を捨置申、管領の勢へそ馳加はる。今は宗徒の御一揆普代旧功の御勢より外は残り止る人もなし。去程に同十一月一日、三浦介時高を大将にて二階堂の人々持朝の被官一味同心して大蔵の御所へ押寄ける。折節警固の兵少なけれは案内は知たり大庭へ乱入る。御所方の人々若公をは扇か谷へ奉落て後、殿中鳴を静て待かけたり。三浦介を始め一枚楯を引側め門の内へ込入けれは、甲の鉢を傾け鎧の袖をゆり合ゆり合切捨て天地を動し火を散す。切落し突落し、爰を先途と防けるか、寄手若干疵を被て一度にはつと引たりけり。寄手は大勢なれは、追出せは荒手を入替、責入々々戦けれは、梁田河内守同出羽守名塚左衛門尉河津三郎を初として防矢射ける人々一人も不残討れにけり。去程に方々より乱入、人々の屋形に火を懸、神社仏閣に入て戸帳を下し神宝を奪取、狼藉止事なかりしかは、三浦介か被官佐保田豊後守馳廻て制止てけれは、軍勢暫く静えいけり。同十一月一日、長尾尾張入道芳伝、為鎌倉警固、分倍を立て上りける所に同二日、持氏海老名より帰らせ給へは、相州葛原にて参合、あはや敵と見てんけれは、御供の人人、甲の緒をしめ馬の腹帯を固めて色めき渡る所に、一色持家を御使として憲実の代官、芳伝か方へ被仰けるは、累祖等持院殿、天下の武将たりしより以来、汝等か先祖上杉民部少輔長尾弾正、当家の譜代の家僕として主従の礼儀を不乱、而に重代忘余身恩、穏に不伸子細、大軍を起す。是縦持氏を滅すとも、天の譴を不可遁、心中に憤る事あらは、退て所存を可申、但讒人の真偽に事を寄せ国家を傾んとの企ならは、再往の問答に不及、自害自刃の前に命を止め、忽に黄泉の下に汝らか運を可見と、只一言の中に若干の理を尽して被仰けれは、芳伝馬より下り、いや/\是迄の仰を可承とは不存、只讒臣憲直直兼(此間欠文アルカ)不誤所を申披き讒者の張本を承て後人の悪習を申こらさん為にてと、楯をふせて畏る。依之憲実申給に任せ憲直直兼罪科に可被処と被許けれは、芳伝喜悦の眉を開て則装束を改め遂出仕銀剣一振進上す。則又御剣を被下けるにそ。諸人皆色を直し安堵の思を成けれは、子細なく鎌倉へ帰らせ給ふ。芳雄御供申ける。永安寺へ入らせ給ふへきと御駕を進めける所に、三浦輔か郎等佐保田豊後以下、八幡宮辺赤橋に馳塞り、凱の声をそ上にける。依之御駕を被返、浄智寺へ入御なる。芳伝大に忿て豊後に近付、以の外狼藉なりとて荒らゝかに申けれは、赤橋の軍勢引退ぬ。扨こそ事故なく永安寺に入らせ給ける。

持氏御出家并憲直以下自害の事
同月四日、金沢の称名寺といふ律宗の寺へ移らせ給ふ。猶も角ては始終の御身の為悪かるへしとて、世に望なく御身を捨られたる心の中知せんとにや、同月五日に御髪を落し給ひけり。未強仕齢幾程も不過に、剃髪染衣の姿に皈し給ひし事、盛者必衰の理とは云なから方見かりける事とも也。法名をは長春院殿揚山道継とそ号し奉る。同月七日、長尾尾張守入道大将として、憲直以下の讒臣退治の為に数千騎、金沢へ発向す。憲直も一色も運の窮達を見て是非を不悲、主憂則臣辱らる主辱らる則臣死すと云り、今何の為に命を惜むへきとて、心閑に最期の出仕して静り皈て居たりけり。去程に追手の大将芳伝入道、あはひ半町計に成て馬を一足に颯とかけ居へて同音に鬨を作る。直兼の郎等草壁遠江と名乗、紺糸の鎧同毛の五枚甲の緒をしめ瓦毛なる馬に乗て最前に進み父子四人少も不擬議大勢の中へ懸入、馬烟を立て切合けるか、切ては落し八方をまくりて一足も不引討死す。是を見て帆足斎藤饗庭場喜并板倉西大夫以下の侍、声々に名乗、敵の真中へ会釈もなく懸入て一騎も不残被討にけり。其隙に直兼父子三人憲直父子二人并浅羽下総守以下一族一門葉の人々心静に念仏申、指違々々算を乱したることくに重り合て死にけり。憲直の次男上杉小五郎持成、山の内の徳善寺に在けるか、是を聞て乳母の鱸豊前を呼、已に自害に及ひけるか、又居直り硯を取寄、筆を染て辞世の詞に云、
合受百年煩悩業、今朝端皈転身清、滅却心頭化、縁尽本来空 性行
くる/\と押畳み西にむかひ手を合、念仏百返計唱へて雪の肌を押肌抜、九寸五分の刀を抜、左の脇より右の乳の下迄引廻す所を豊前守後より主の首を打落す。其太刀を取直し己か心もとへ鍔本迄指貫てそ失にける。誉ぬ人こそなかりけれ。其外三戸治部少輔をは永安寺の内、平雲庵と云寺にて長尾出雲守討てけり。海老名尾張守入道は六浦引越の道場にて自害しぬ。其弟上野介をは上杉大夫持朝の家人とも取籠、扇谷の会下寺海倉寺にて腹を切ける。此人は兄に不似して公方へ度々諫言を以、世上無為こそ肝要に候へと申上られける由聞へけれは、命計助け置へき由、管領以専使被申けれと、其使以前に自害しける。不運の至り余りあり。若宮の社務尊仲も被生捕けるを、是は張本の讒人なれは尋仰らるゝ事もあるへしとて京都へ上せけるか、終に被誅とかや。同月十一日、持氏永安寺へ皈り入せ給ふ。上杉修理大夫持朝大石源左衛門尉憲儀千葉介胤直等、番替て奉警固、さなから禁籠の如くなり。

持氏満貞御最期の事
去程に持氏の御命計助け奉り自今以後、政務綺はせ奉るましき由、再三京都へ被申けれとも、年来の無道重畳せり。奢侈梟悪不誡におゐては後日の禍となり天下の変親なるへしと評定有て終に可奉討に定りしかは、永享十一年二月十日、持朝胤直奉押寄、永安寺を稲麻竹葦の如く取巻、打圍て御自害を奉勧。依て御近習祇候の人々是を聞て木戸伊豆入道冷泉民部少輔小笠原山城守設楽因幡守印東伊豆守武田因幡守加島駿河守曾我越中守設楽遠江守治田丹後守木内伊勢守神崎周防守中林壱岐守、敵の中を破て蜘手十文字に懸散さんと喚て蒐る。追つ返しつ引組々々差違、寄手左右へ颯と分て散々に射る。御所方引色に成けるか取て返し討死す。満貞の御馬廻り南山上総入道同左馬助里見治部少輔今川左近入道蔵人二階堂伊勢入道同民部少輔下条左京亮逸見甲斐入道石川民部少輔新五十郎左衛門尉岩淵修理亮泉田掃部助、横合に懸て両方の手騎を追ひまくり真中へ会釈もなく懸入て引組て落、差違て死す。其間に公方持氏御舎弟満貞御自害、哀成ける次第也。御馬廻り旧功の人々も一人も不残討死す。神妙にこそ見えにけれ。二階堂信濃守は此公に深く頼まれまいらせたりしか如何思ひけん、御没落以前より行方不知落行けり。同廿八日、若公義久、十歳にならせ給ひけるを奉討へき由聞えけれは、報国寺に御坐せしか、人々馳集て此由申されけれは、仏前に焼香被成、念仏十返唱へさせ給ひ御守り刀を引ぬき左の脇に突立て引廻し、うつふき伏給ふ。哀といふも愚也。討手に参し人々一同あつと感して袖を顔に押当て泣々帰り参りけり。栴檀は二葉より香はしとは是等之事をや申へき。天晴武門の棟梁ともならせ給ふへき御器と惜まぬ人こそなかりけれ。

憲実出家之事
于茲管領上杉安房守憲実しはらく関東の成敗を司て鎌倉に在しかは、諸大名頻に媚をなし彼下風に立んことを望ける。元来忠有て誤なしといへとも虎口の讒言に依て君臣不快となりし事を思へは、未来永劫迄の業障也、公方速々京方御退治の企を申止めんとて度々上意に背し故なれとも有為無常の世の習、明日をも不知命の中なれは因果歴然、忽身に報せん事を思ひ又譜代の主君を傾け奉る、末代の嘲を恥て其身の罪を謝せん為にや、俄に出家し給ひて法名を高岳長棟庵主と号す。舎弟同兵庫頭清方を越衆より呼寄て子息成人の間の名代と定て管領を譲り永享十一年己未六月二十八日、長春院へ参詣して公方の御影の前にて焼香念仏し泪を流して申されけるは、臣今度讒者の申様にて御勘当を蒙り不意御敵と成る、雖然心中に無不義、宜在天鑑と云もはてす、腰の刀を引抜て左の脇に突立給処を御供の侍高山越後守那波内匠介、走寄て懐付、御脇差を奪取、其時皆々馳集て屋形へ還し奉て能々養生し奉れは、定業ならぬ事なれは、程なく平癒し給ける。同十一月二十日、山内殿を辞し藤沢へ御出あり。猶も世間物憂て同十二月六日、伊豆国名越の国清寺に引籠り給ひけり。

結城籠城事
同十二年庚申正月十三日、一色伊予守鎌倉を落て逐電し相州今泉に有と聞えけれは、あはや天下の乱近に有と云程こそあれ、今度降人に成て命を続たる人々世の聞耳を口惜く思、哀謀叛を興さはやと思けるに所願の幸哉と悦て即与力して密に寄合々々評定すと聞へけれは、事の大にならぬ先に退治すへしとて長尾出雲守憲景太田備中守資光を大将として相州今泉の館に押寄けれは、国内通計して行方不知落にけり。依て同類なれはとて舞木駿河守持広をは長尾入道芳伝か方へ謀寄て管領へ出仕をいたし本領安堵可然と云けれは持広実と心得、太刀一腰馬一疋用意して正月廿二日尾張守か宿所へ行けれは、究竟の兵共五十人物具せさせ竊に是を隠置、亭主出合、持広をは討てけり。持広か寄騎の侍赤井若狭守、腰刀許にて切入る。尾張守か郎等数多討取、終に討死してんけり。爰にまた故長春院殿の御子達、去年御滅亡の刻、近習の人々日光山へ落し申たりけるか、其後是禅院彼{処、脱カ}律寺に一夜二夜を明し世上の様を隠聞てましませしか、何まて斯て可有、急一味同心の輩を招き再関東を治め先考の鬱憤をも可散申とて便宜の大名を憑まれける所に、結城氏朝無二奉被憑、子息七郎光久御迎に参られける。其後氏朝家老一門を召集め此条如何と評定す。家老ともは未被申御請とおもひけれは、水谷伊勢守梁{ママ}修理亮同将監黒田民部丞、一同に申けるは、当家は及累代差せる名家にあらされとも代々与義士、一日も未取不忠之名を、依之関東にては誰か褊し可申なれは若君達の憑敷思召事さる事なれとも去年の一乱に京方へ御和談ありしかは京公方も管領も殿をは二心あらしと深く頼み給処を引替、謀叛の張本とならせ給ふへき御恨何事そや、人而無遠慮、則必有近憂と云へり、能々可有御思案と申も終らす厚木掃部介馳参して若君達御入有と申処に氏朝の一男結城七郎御供申し若君御入有けれは家老一門大に驚き扨々是程の一大事を吾々に被仰合迄にも不及思召立事、人々をは屑共思召さりけるそや、今度の御大事に逢て無詮とて、水谷以下四人の家老共、髻切て一同に遁世者とそなりにける。其中に水谷伊勢守許様々の問答して乱を見て捨つるは弓箭の道ならす無力所なり、討死するより外之事有間敷とて取て返す。残三人は終に出家入道してんけり。然とも近国他国の牢人并に志の大名少{ママ}名馳集り、結城の城に楯籠る。元来構密なれとも俄に又大堀を堀{ママ}塀を塗り櫓を掻せ見せ勢を出し御旗を打立白旗赤旗二引左巴釘貫穀の葉の紋書たる旗とも其数風に翻て充満たり、又野田右馬介を大将として矢部大炊介以下古河城を繕て楯籠る。此由早馬を以て京都へ披露しければ、急可追伐由被成下御教書、御旗を下され依之自管領清方武蔵国司上杉固庁鼻性順に罷向ひ可有退治と下知し給へは、無勢にて難叶と申けるによりて長尾左衛門尉景仲を加勢として被遣ける。同三月十五日、両大将二手に成て鎌倉を立つ。性順は若林に張陣。景仲は入間河原に取陣、馳付勢を待居たり。又其比新田田中佐野小太郎高階傍士飯塚修理亮桃井か被官の輩野田右馬介か郎等加藤伊豆守以下御所方に成て、足利荘高橋野田の要害に馳集て旗揚、可討平上州評定す。上州之守護代大石石見守憲重、当国一{揆を催促して是を退治の為に発向すへき由相触る所に両}方の安否をや伺けん、一人も不応催促。然れとも非可黙止置とて手勢許にて{四月四日}同国扁{角カ}淵に出陣す。去程に近所の人々少々馳付ける程に是を待合せ同九日高橋の城へ押寄、堀際に楯を突双へ大勢を一所に集め向城の如くに備へたれは、城に籠る敵の軍勢機を屈し勢を呑れて不叶とや思ひけん、寄手は大勢なり城の構へ末始終如何あるへし是を落て重て可起大軍とて、其夜払城引て行。雑色国府野美濃守同舎弟残留て為大石討れにけり。鎌倉の警固には三浦介時高、同四月廿日、馳参る。又上杉中務少輔持房、同五月一日、京都の御旗を帯して鎌倉へ下向す。上杉兵庫頭清方同修理大夫持朝は四月十九日、鎌倉を立、在々所々を催促して軍勢を集らる。東海道は不及申、武蔵上野の一揆の輩、越後信濃之軍勢、数万騎馳集事、不遑註之。亦安房入道長棟禅門も伊豆国に御座けるを京都より頻に被仰ける程に同四月六日、伊豆国を立、山田庄へ帰参り、長尾郷に令滞留、同五月十一日、神奈川へ出勢ある。

村岡合戦事
同七月一日、一色伊予守、武州北一揆を相語ひ利根川を馳越て武州の一騎{ママ}須賀土佐入道か宿城へ押寄、悉く焼払、須賀か郎等共暫支て討死すと聞へけれは同三日、固庁鼻性順長尾景仲、成田の館へ発向す。一色少も不騒、馬を陳頭へ立直し閑に敵を待懸たり。両陣馳合追つ返つ烟塵を捲て戦事十余度に及へり。一日戦暮し夜に入けれは相引にしけるに同四日、両方戦屈して見へけるところに一色方へ馳加る軍兵雲霞の如し。味方に加る軍兵、入西には毛呂三河守、豊島には清方の被官の輩許にて以の外無勢也。此勢計にて如何にと引色に成処に伊予守是を見て、すはや敵は引けるそや何迄も追蒐て討捕者共とて、荒河を馳渡し村岡河原に打立る。乗勝所はさる事なれとも無手分の沙汰も事体余りに周章して見えたりける。性順景仲只一手に成て魚鱗に連て荒手を先に立、蜘手十文字に懸破しかは、伊予守急に討負、一返も不返、手負を助けん共せす、親子の討るゝをも不顧、物具を{捨て}小江山迄引退。其より散々に成て落行ける。修理大夫持朝此由を聞て岩筑より後詰の人衆を出しけれとも軍は退散しけれは引還し給ひける。勝豊後守逆徒に与してんけれは同七月廿五日、足利の町屋にて同名八人為持朝被誅にき。長棟庵主は七月八日、神奈川を立、野本唐子に逗留し同八月九日、小山庄祇園の城に著給ふ。其比信濃国住人大井越前守持光、御所方に成、旗揚、臼井峠迄押
来ると聞へけれは、為防之、上杉三郎重方、国分に取陣、為相州警固、上杉修理大夫、相州高麗寺の下徳宣に取陣。又筥根別当大森伊豆守、元来無二の御所方なりけれは為結城後攻馳参共申けれは、今川上総介、平塚に取陣。蒲原播磨守は国府津の道場に陣取て待懸たり。持朝与管領清方は路次の軍勢を駈催し同七月二十九日、結城にこそ着給ふ。

結城落城の事
彼結城城と申は天然形勝の地、要害之便有、兵粮卓散にて籠る所の人々は一騎当千の兵なれは、力攻には落かたし。城中の人々は結城中務大輔同右馬頭同駿河守同七郎同次郎今川式部丞木戸左近将監宇津宮伊予守小山大膳大夫子息九郎桃井刑部大輔同修理亮同和泉守同左京亮里見修理亮一色伊予六郎小山大膳大夫舎弟生源寺寺岡左近将監内田信濃守小笠原但馬守究竟の軍兵を尽して籠りける。寄手は八方を包て攻寄れは、先坤の方の惣大将清方、諸卒を下知して張陣、西は上州一揆、乾は持朝を大将として安房国の軍兵、坎艮は京勢并宇津宮新右馬頭土岐刑部少輔上杉治部少輔小田讃岐守常陸の北条駿河守、震巽は越後信濃の軍兵武田大膳大夫入道、南は岩松三河守小山小四郎武田刑部武蔵一輝千葉介上総下総の軍勢也。敵の陣味方の間、僅に三町許を隔たり。其間に大堀二重堀、逆茂木を引、是は城中の兵粮運送の路を止んためなり。清方持朝千葉土岐等か陣の前には十余丈の井楼を二里三重に組上たり。然とも城中には死生不知の溢者共、是を先途と捨命戦ふ。寄手は功高く碌重き大名共か只味方の大勢を憑計に誠吾一大事と思ひ入たる事なけれは、毎日の軍に無不とも被向御所之御旗に。桃井岩松以下之人人、七十日迄責しか共、其手勢軍兵三十騎、上下百余騎にて度々討勝、御敵被討。{此処等大幅欠カ/鎌倉大草紙で以下暫く宇都宮右馬頭の台詞}况や是は広大の名城、数万の軍勢籠候得は、山川以下案内者に相謀て以策可攻候覧、但愚按短才の身、非可褊申公義を兎に角も可随御下知候と申す。京勢仙波常陸介申けるは、去年永安寺にて長春院御殿最後{ママ}の時、随分四方の警固したりしか共、此君達を落し申させ及箇様の御大事候、况や是は大城にて合戦の紛、二三人も落させ給へは重ての御大事不遠候得は、能々廻謀、急可攻城候、若猶予の評定候者、必可有後悔候、但当所不案内にて候者、諸勢の僉議に任へくとそ申ける。城中の兵共、構究竟城、為積置数万石兵粮者、見勢程懸合々々合戦をする共、又籠て戦とも、一年二年の内には容易に落されし物をと初は勇詈ける。凱箭叫の音、毎日止隙なく上は梵天四天王、下は黄泉金輪際迄響らんと覚へける。要害善けれは寄手敢不近得、城中の兵、被圍四方、気疲勢減しかは懸合て不戦、打立て不及散、敵互に掛目対陣して徒にのみそ過しける。去程に改年立回り翌永享十三年辛酉、改元有て嘉吉と云。四月十五日、大将兵庫頭清方、向諸軍宣けるは、自昔攻敵城事、対陣而雖有送二三年事、其は五百騎千騎の国諍也、是は日本半国の勢か向て一城を攻兼て当地にて数月不及合戦、而徒煩皇民事非本意、京都の公方も定て未練にそ思めすらん、且可為末代の恥辱、明日吉日なれは可有惣責と相触、嘉吉元年四月十六日辰の刻に打立、靡旗進兵けれは、城中の兵共、元来機変蒐引心に得て死を一時に決たる気分なれは何かは少も可擬議、大勢の真中に蒐入蒐入懸散し、鶴翼魚鱗に連て東西南北に不{為カ}悩馬足、敵の勢を駈靡たれは、朱に成し放馬不知其数。蹄の下に切て落したる敵、算を乱して臥たりける。蒐ける所に如何野心の者のしたりけん、城の櫓に火を放ち、時節大風吹落塀の内へ吹懸、屋形城中一宇も不残焼けれは、防兵共烟に咽て悉く東西に失気引ける間、寄手乗気、追懸攻ける程に、引立たる者共か難所に追懸られ、なしかはよるへき、城の東の切岸田川に被追入被討、溺水者其数をしらす。一日の合戦に被討兵数万人、籠る所の人々一人も不残討死す。惣大将安王との春王殿をは、越後勢の大将長尾因幡守虜に申ける。則乗申籠輿に御上洛とそ聞へし。其御弟六才にならせ給ふをは御乳母潜に落し奉りけるを、伊佐の庄にて小山小四郎生捕申ける。小山大膳大夫兄弟は落たりしを、長尾因幡守に被虜、是も京へそ上りける。同十七日、可被攻古河城をよし被相触所に、野田右馬介以下の人々結城を為根城と楯籠けるか、聞落城之由を、寄手未近以前に舟に取乗て、不行方知落にける。矢部大炊介以下残留て野田讃岐守に被誅ける。又今度所討捕首共、同十七日被付著到、被遂実■検の木がテヘン/。惣大将上杉兵庫頭清方、小具足許にて出給へは、侍所長尾出雲守憲景、紫下濃の鎧に鍬形の五枚冑、瀬下治部少輔景秀、黒糸の鎧に同毛の三枚冑鹿の角を打立て著たりける。此両人付役にて其外伺候の人々半袴にて参ける。
一清方被官人々分捕
根本五郎首、加茂部加賀守首、磯将監首、已上三并不知名字四、合七、大石石見四郎取之。江戸八郎首、長井六郎取之。今川式部丞首(上洛)白倉周防守取之。真田首、山県美濃入道取之。藤刀首(山口次郎四郎兵衛、後藤弾正忠)相討。結城右馬助首(上洛)小串六郎取之。小笠原但馬入道首、発知平治左衛門取之。大賀対馬守首、村山越後守取之。小幡豊前守首、豊島大炊介取之。香川周防守首(高山越後、長尾因幡守)相討。大城首、倉俣左近将監取之。小幡三河守分捕首不知名字。八捫首、後藤弾正忠取之。山県左京亮那波内匠助相討首不知名字。土岐修理亮分捕首同前。岡見大炊介分捕首不知名字。大蔵民部丞首、大石源左衛門尉取之。寺岡左近将監をば長尾新五郎生捕之。和田隼人佐分捕首不知名字。慈光寺井上坊首、吾那次郎并野田右馬助家人高橋首、合三、於古河城田島太郎左衛門尉取之。中谷首、於当所椎木城、入野出羽守討進之。已上廿九。
一上野一揆分捕首。
木戸左近将監首(上洛)北平遠江守首、合二、高山宮内少輔取之。筑波伊勢守首、高田越前守取之。筑波法眼首、赤堀左馬助取之。小河常陸介首、和田備前守取之。和田八郎分捕首不知名字。桃井僧(号左衛門督伯父)首、和田左京亮大類中務丞相討。倉賀左衛門尉分捕不知名字。寺尾上総入道同名右馬助相討首不知名字。長野周防守同名宮内少輔相討首不知名字。田賀谷彦太郎首、臼井五郎首、彼二、長野左馬介取之。諏訪但馬守分捕首不知名字。筑波首、一宮駿河守取之。神沢首、一宮修理介取之。倉賀野{ママ、新カ}五郎分捕首不知名字。発知上総介三郎分捕首同前。大縄孫三郎首、那波大炊介同名左京亮相討。大森六郎首、那波刑部少輔入道取之。玉井首、沼田上野三郎取之。小林山城守分捕首不知名字。綿貫越後守分捕首同前。綿貫名利房丸同亀房丸代相討首不知名字。頸以上廿四。
一小山讃岐守分捕首(次第任到来)
厚木掃部介首、金井伯耆守首、能与首、並名字不知二、合五、小田{山カ}讃岐守取之。
一土岐刑部少輔分捕並生擒。
前宇都宮伊与守首(上洛)篠田山城守首、加園家人首、淡州家人首、合七、并不知名字首四、都合十一、同生捕龍澤右京亮神山三河守厚木掃部助家人関十郎左衛門尉二人は則被討畢、龍崎家人高知尾隼人佐并後藤五郎左衛門尉并高田大夫新発依有申方旨赦免三人、合十三人、大{土カ}岐刑部少輔生捕之。
一小山小四郎分捕。
小笠原越後守首、大膳大夫息小山九郎首(上洛)二階堂左衛門首、同家人若菜安芸守子(僧)首、高橋首、已上五、小山小四郎取之。
一上杉治部少輔分捕。
結城中務大輔首(上洛)此楽十郎首、野田遠江守家人加藤尾張守首、小林出羽守首、并不知名字首一、合五、上杉治部少輔取之。
一長尾因幡守分捕并生擒。
香河周防守首は高山越後守ト相討、此外首二不知名字、并生擒。桃井刑部少輔首(上洛)多賀谷才川伊賀守矢加井同四郎伊曾野菊地五郎塩谷蓬田山田玄蕃八角兄弟伊曾山磯孫次郎臼井上須篠木阿美次郎加園将監酒谷藤本入道栃木加園修理亮高野兵庫助河島大炊助武椙山左衛門五郎篠田四郎林五郎明石大炊助已上三拾人、長尾因幡守生擒後誅伐畢。此内梁田四郎林五郎兄弟預山河之、於波手討之。
一野田讃岐守分捕。
関弾正首、野山右馬助家人矢部大炊助首、此一は古川にて取之。野田遠江守家{人、脱カ}鳩井隼人佐、是は虜後討之、首合三、野田讃岐守取之。
一千秋民部少輔分捕。
桃井和泉守首(上洛)小山大膳大夫息首(上洛)小幡九郎首、結城被官須釜首、内田信濃守首、人見次郎左衛門尉首、結城駿河守首(上洛)已上七、千秋民部少輔取之。
一武田刑部少輔入道分捕。
結城七郎首、同次郎首(上洛)桃井修理亮首(上洛)梁田出羽三郎首、梶原大和守首、已上五、武田刑部大輔取之。
一中条判官分捕。
里見修理亮首(上洛)大須賀越後守首、蘆田刑部少輔首、上曾三郎首、水谷大炊助、森戸宮内左衛門首、大野左近将監首、已上八、并不知名字一、合九、中条判官大夫取之。
一羽河越中守虜人数。
吉田次郎、山田下野守、吉里三郎、筑波法眼息(童体)千寿丸、小山大膳大夫息僧首(上洛)彼五人、羽河越中守取之。後誅之、合首五。
一人々分捕。
一色伊与六郎首(上洛)新田羽河越中守取之。桃井左京亮首(上洛)薬師寺安芸守取之。舞木家人須俣首、細戸式部丞取之。桃井家人長首、一色家人泉大炊助首、彼二は小幡伊賀守取之。小栗次郎首、宇都宮右馬頭取之。籾宿坊首、秋庭三郎首、彼二は北条駿河守取之。榛谷弥四郎首、禰津伊豆守取之。武田右馬助分捕首不知名字。師但馬をば茂木筑後守家人虜之。稲村下野入道、長沼淡路守生擒之、当日に被誅畢。筑波法眼弟子首、根岸弾正忠首、彼二、森刑部少輔取之。合首十四。
見之ける大名小名僧俗貴賎、哀かな昨日迄も詞を通し双方見馴れし朋友なれは拭泪を悲あへり。大将分の二十九、若君に添申し、五月四日、京都へ著。若君を濃州垂井の道場金蓮寺迄、両佐々木参迎て同五月十六日、御兄弟共奉害。是歳十三十二にそ成せ給ひける。自関東上る処の頸共は六条河原に被懸ける。若君の乳母二人、徳利文左衛門漆桶三四郎共に出家す。

成氏の御事
去程に関東鎮りけれは憲実弥予を物憂思て、徳丹清蔵主二人の子を相伴ひ諸国修行に出給。三男龍若丸をは伊豆の国に打捨給へは、上杉之一門家老寄合て奉祈{訴カ}京都、関東にも公方管領なくて不叶事なれは故長春院殿の末の御子永寿王殿とて信濃の住人大井越前守持守か隠置申けるを取立、元服有て左衛門督成氏と号す。龍若丸を元服させ管領に居申ける。右京亮憲忠是なり。山内殿に移り長尾一家の長者共左右に相連て政務を補佐し関東無為になりけるか、蒐る所に幾程なくて嘉吉元年六月廿四日、赤松左京大夫満祐、京都四職の其一にて無双の出頭人なりけるか企逆心、其頃の公方普光院殿義教公を奉討ける。其前にて一の不思議あり。縦は京都室町殿の御殿の或小座敷に二寸計の人形数多出来て猿楽をしけるに鵜飼の能をそ囃しける。諸人不思議に思ひ集て見て余りに珍事なれはとて彼人形散り/\に成し時、一ツ捕て入鳥籠置しかとも食物をも不知は頓て其侭飢死けるとそ聞へし。其後程なく赤松入道の館に有御成て御遊始りけるに猿楽等舞台に出て鵜飼をそ拍子ける。能未終に軍兵ともを隠置て切て出、奉討公方を申て天下黒闇に成はてゝ本国播州へ馳下、己か城に楯籠る。細川畠山山名各責下、討捕赤松を。義教公の若君義政公を奉備征夷将軍に、天下如旧の成にけるとは申せとも、已澆季に及験にて君弑君子敵父世と成て下尅上奴原か王公貴人をも不恐翔へ有様、時節到来とは申なから、三年の内忽報て京都公方の御生害に及はせ給ふ。因果の程こそ怖けれ。関東の管領憲忠、雖若輩也と、涯分執行政道を、責己施徳しかは、国豊に民楽む。是は扇谷修理大夫持朝の聟にて在せしかは、持朝以下の御一門、政務を補佐し給へは、国静にして十ケ年の春秋を送迎る所に享徳三年甲戌十二月二十七日、公方成氏、鎌倉西の御門にて管領右京亮憲忠を被誅けり。是者父長春院殿持氏、為憲実か滅亡給ふ事を恨思召ける故に上杉一家を有御退治可奉止御憤との御企とそ聞へし。爰に上杉の老臣長尾左衛門尉入道昌賢、知謀無双の古兵なりしかは廻謀、其比上杉民部大輔顕定十四才にて越州におはせしを呼越申し楯籠上州の境に、与公方家及合戦事已に四ケ年なり。竟に退治八ケ国の軍兵を、而顕定移山内殿に、司関東の成敗を、可為執権之由、自京都御教書到来す。公方成氏終に討負給ひて打捨鎌倉、下総国下河辺庄古河の郷に被移居給ふて奉申古河御所とける。自是関東大に乱れ三十余年在々処々に戦ひ、一日も静成事なし。委く記さは筆の海も底竭すへし。されは此時、山内殿顕定扇谷殿(定政持朝子)此二人、与公方家の侍、或は敵となり或者閲となつて閧{闘カ}争更無止時、依之国弊民窮、年貢をも不備、王化をも不恐、利潤を先として暴悪頻なりけれは、只国土可滅亡時節到来しぬと歎あへり。

堀越御所御下向の事
兎角自京、被出御馬被靖四海逆浪可然とて勝鏡院殿政知(義教公御子)伊豆の北条へ御下向あつて被立御旗しかは、関東中は不及申、伊豆駿河甲斐信濃の軍勢参集、不靡草木も無けり。先達て被下御教書、其書曰、
就関東発向事に可相触出羽陸奥領国之軍勢等条々
一成氏誅罰未落居之事
右敵及鋒楯、挿不忠、構私曲之条、非疑貽々於進発不参之族者、一段可被経其沙汰矣。
一諸軍士多勢無勢之類出陣之事
依分限に各可励忠節之処、御成敗於難渋之仁礼者、可註進交名。但可随在処之遠江、子細同前也。
一関東隣国之士卒等出陣之事。不可准遠国、所示可遅々一条、且令在野心歟。且引組朝敵輩太難遁避其科所詮左右一途に、可仰付近所之輩焉。
一官軍等猥称有遺恨之族、着陣之日、対顔之義不快之類、事互閣宿意成和融之様、可専忠功由、被仰出候畢{事カ}。
一諸勢雖遂参陣、不請大将之儀、任雅意之事、甲乙人等共以被停止者也。所詮云手負之浅深、云当病之軽重、可有糾明之沙汰焉。
右任条目之旨、厳密可触廻之、依忠否之次第、毎度載起請文、其詞註進於戦功者、可被恩賞之趣、皆可申合軍兵等矣。
 寛正二年辛巳十月日
去程に堀越殿伊豆国御座ける程に関東の両上杉已に公方と奉仰、政知卿有御逝去御子茶茶丸君を北条に留め給ふ。是を後に成就院と申ける。山内扇谷の両管領、東海の掟を司り関東の執権たり。中にも山内殿は、上杉の惣領にて、長尾一家の長者とも家を補佐し政務を執行ふ。上州越州豆州武州等、分国なれは不及申、其外家来共の領知も広大なれは、軍勢凡二十万騎とそ記しける。扇谷殿は、上杉家にても庶流にて分国も少し、御家老にも大軍の兵なし。漸々山内の家中、長尾の領知程ならてはなし。少身なれとも大将定政智謀深き人にて諸家も重之。万人傾首寄心、中にも家老太田備中守入道、智仁勇の三徳を兼たりき。君明に臣正く国福あれは、其下の軍勢、何も義を専らにして畏天命、国土豊饒にして民富佞人自ら去、賢臣更に集しかは、大家の山内より人の渇仰も多かりき。古河殿は只公方の御名計にて御牢人の体なれは分国もなし。梁田一色とて御家風少々ありしかとも、軍勢も領知も少けれは、増て東国の成敗を綺はせ給ふ事もなし。然とも公方家の旧功を思人々も有繁多けれは、今更上杉の下知に付なん事も口惜とて、上州武州両総州之間にて上杉の両勢と公方家の軍兵と国を争ひ処を論し挑戦ふ事限なし。

京都軍之事
関東はかく乱しかとも五畿内西国は静なりし処に応仁元年丁亥五月二十六日、京都に合戦起て天下大に乱ける。其由来を伝聞くに其比公方義政公、可続御代無御子、而浄土寺殿を還俗せさせ奉り、為御養子奉為続公方しに、其後実子の若子出来給へしかは公方是を取立申て、御代を続せ参らせんと思召て御台所の御方より山名右衛門佐持豊入道宗全を憑せ玉へは浄土寺殿(号今出川義視)管領細川右京兆勝元京極武田以下一味同心の大名を引率し謀叛を起して今出川殿を取立、公方に仰き申さんとす。山名入道畠山義就以下一味して若君を取立申さんとて京都に有て大合戦あり。洛中焼払けるとそ聞へし。

古河城の事
其後世治り公方御代に続せ給ひしに又関東は弥乱て文明三年辛卯、関東の公方成氏、古河の城をも為上杉被責落。憑千葉介為遷千葉城給ふ。世已に雖及澆季、偏に衰行は今の武士の心根なり。弓矢取の本意にて死を善道に守り名を義路に不失とこそ嗜へきに、僅の欲心を含て譜代の主君を傾け聊遺恨を憤て年来の恩顧を忘れ忽に背て敵となり閲となる。等持院贈左府公、為武将以来、戴恩荷徳事、諸人皆是幾千万そや。持氏将軍御運尽果て終に御自害の後、諸家忽に翻て鎌倉を追落し申、剰古河城さへ落させ給ひし事、如何に口惜く思召けん。然とも末世雖及濁乱有繁日月未堕地にしるしには随ひ奉る者多くして其後度々の軍に打勝給ひ終には君臣和睦在て文明九年丁酉七月十七日、古河の城へ還入らせ給ふ。其比は御歳四十二にならせ給ふ。即古河の続、関宿の城に梁田中務大輔を被籠、成氏之移らせ給ふは故下河辺庄司行平か館と聞えし古河城也。其後城南鵠の巣と云処に在御所作て自京都御和睦の事調りて関東の権柄をこそ御心に任せ給はねとも両上杉も八家も先古河殿と崇申けり。所謂八家とは、千葉小山里見佐竹小田結城宇津宮那須、是なり。此古河の城は昔日頼朝卿の御弓の師と聞へし下河辺庄司行平より代々住ける旧館なり。城南東方に龍崎と云所に有源三位頼政之廟(一説伊豆守仲綱)尋其由来、三位入道於平等院自害之後、郎等下河辺三郎行吉と云人、此地之住人也けるか頼政の首を討て老衰の頸を獄門にさらされん事を無念なりと宣しとて、不違遺言、作山伏之姿、彼首を入桶納笈裡、諸国修行して後帰本国に。此処に笈を置けるに此笈少も不動、大石のことく。是は不思議なり此地に住むせ給ふへき験にやとて、此館の鎮守に奉祝、崇一社神、金銀幣帛の祭奠蘋蘊藻の礼物善尽美尽せり。されは霊神感応、日々に新にして、当城凶事有らんとては、此社鳴動す。其験■竭の立がテヘン/焉也。此社前に菩提樹生たり。奇特なりける事多かり。

太田道灌之事(信名蔵本太田道灌条以下無之為是以下宜削去)
爰に扇谷の老臣太田備中守資清入道道真者、武州都筑郡太田郷地頭也。此人若年よりも文道を{ママ}心をよせ政道を佐け武備を以て乱を治ける程に関東の諸将靡随事、吹風の草木を如動すか。道真の一男鶴千代丸とて世に隠なき童形あり。九歳の比より学■總の糸が片/に入、十一歳の秋迄終に不帰父家。蛍雪の功積て五山無双の学者たり。十一歳の冬の比、父入道の方へ文を造て送りけれは其時父始て家へ迎へ取給ふ。其名誉天下に聞へし程に管領の重宝政務の器量共可成とて、自山内殿、彼児を有御所望しかとも、扇谷殿万金にも不換とて、彼鶴千代を召寄給ひて頓有加冠、太田源六資長と号し給ふ。後には備中守といふ道灌是也。此人十能七芸に心を寄て、好所一として無不顕名。されとも和歌の道は父の入道には少劣りや侍らんとも沙汰しけるとなん、其後弥鎮入学窓、専ら五常守三徳、鑑和漢之記録、賞罰是非を分て善悪明察にして慈悲を行給へは、諸将是を重くもてなしける。謀を行は張良か伝えし道を学ひ陣を破る事、孫呉か秘する術を得たり。扇谷殿は山内より分国は少く軍勢も微なれとも太田父子の善政を聞及ひ武功之者集事不知数、武道未練の族は自身を退ける。依之人も礼を学、公方管領も聞義諮道給ふ。されは大名高家も重之、万民傾首をけり。今の如ならは末々扇谷殿、上杉家を主とり関東は一向に彼下風に随ひなんと人々さゝやきけれは、山内殿の御内の侍并越後の相模守房定も偏執の思を成し給ふ。其比資長思ひけるは、上杉関東を治る事三十余年、果報の浅深により聊国を治と云とも非真実、山内殿雖大名、昌賢死去の後、彼一流も一人而善政を不為、欲心熾盛にして君臣の礼をも不思、只空他の国を我者にせんと許の貪心多し。国家乱ん事近かるへし、然者当方に諸大名可随付事無疑、如何にしても取名城、大勢を籠んと宣ひける。扨資長は武州荏原郡品川の館に居住したりしか有霊夢告とて同国豊島郡江戸の館に移り給ふ。勝れたる名地にて雖無山見下四辺を有入海為諸国往還の便、誠に目出度処なれはとて此城を静勝軒と号す。康正二年丙子の年より始て長禄元年丁丑四月八日に功匠の功成就しけるとそ聞へし。峻宇高台は雲を凌き松風の黄簾を動す声も万歳をとなへる響かと疑はる。白峰の金屏に映するは千秋の窓雪を含るに似り。宝塔の林間より見たるは遠寺を画くに似たり。釣舟の蘆辺に浮めるは帰帆を移かと訝。西湖十景もよそならす。此城之景を述て五山の名宿詩を題せり。
   景■クサカンムリに臣/
兵鼓声中築受降 聞君延客日臨■聰の耳が片/
風帆多少載詩去 吹雪士峰晴堕江
   龍澤
籍々威名関以東 又知天下有英雄
鼓声不起城辺静 駆使江山入殻中
   景三
江戸城高不可攀 我公豪気甲東関
三州富士天辺雪 収作青油幕下山
見人聞者賞歎するに堪たり。太田資長、是歳二十五才迄、数多の城を取しかとも、此城に勝りたるは無とて、登櫓四方を詠め、一首の和歌あり。
我庵は松原遠く海近し富士の高根を軒端にそ見る
と読れしより、此江戸城此櫓を富士見亭と号す。
長禄元年、管領広感院殿年十四歳にておはしけるか、太田入道命して武周河越の南仙波城を今の河越三芳野郷に移し要害の縄張畢て即城を築けり。北方此城の鎮守三芳野太政威徳天神の宮居まします。是を三芳野天神と申す。何の御代より御垂跡ありて如何成霊感之故やらん。御神体は銅の五本骨の扇を納め奉り、御宝前の厳飾にも、みな扇の絵に書たり。神秘の事は不知共、風を靡かし炎蒸を去なれは、如何よふ、此城より霊場之北院中院とて三十余箇寺並甍へたり。かゝる砌に建られたる城なれは、勇々敷かりし事共也。或記曰、文明年中、道灌江戸城にも河越の如くに仙波の山王を城の鎮守に崇め、三芳の天神を平河へ移し給ふ。文明十年戊戌六月五日、日河社に視へ津久戸明神を崇め給。又神国{国カ}の牛頭天王洲崎大明神は安房洲崎明神と一体にて武州神奈川品川江戸、何も此神を祝ひ奉る。或人の云、平親王将門の霊を神田明神と奉崇とかや。又城東浅草寺は推古天皇御宇定居二年戊子に建立せり。仏法最初の霊場にして関東無双効験■偈のニンベンがテヘン/焉の観音なり。此道灌をは世人太公望か再来と云へり。されは文明八年丙申四月廿三日、豊島合戦に敵二百余騎を五十騎にて平場の軍に討勝、同十年戊戌正月五日に平塚の城の敵七百余騎を五十騎にて責落し、伐頸事三百余、同十一年己亥七月十五日、下総国白井城を責しにも鵠台に初■構の木がテヘン/城、七十余騎にて二百余騎を責落す。文明十五年癸卯十月五日、上総長南城を責落したりしに、味かたの旗の上に山鳩二つ飛来、羽を休しこそ不思議なれ。是等非凡夫之所為、偏是生摩利支天なるへしと、人みな不思議の思をなせりとかや。
                 永享記終

太田最後之事(是条非永享記、後人■讒の言がテヘン/入也、別本無之可除去)
逸政には忠臣多く労政には乱子多き風俗なれは、上杉家の出頭人評定の輩共、太田入道、扇谷の執事として万心に任せたる事を猜し、境に着て吹毛の咎を挙て讒言する事度々なり。然とも扇谷殿定政、道灌なくては誰か天下の乱を静むる者可有と無直事被思けれは、少々の咎をは耳にも不聞入給。只佞人讒者の世を可乱をそ悲給ふ間、道灌の出頭も自若也。かゝる所に道灌、江戸河越の境を■構の木がテヘン/え、その不審に心を労して隙なかりしかは、久敷出仕もせさりけれは、彼讒臣共よき隙也と悦ひ、道灌父子為可退治山内殿、構要害候条無疑と申上ける間、自山内此事を扇谷へ有談合。定政大に驚き事実ならは是一家不和の基、国土乱逆の端たるへしと度々被下専使しかは、道灌父子、嵯乎竪子不足与謀、記念当家不才庸愚の者、争政務乱真なれは、讒者の糺明も可有、只忠功之下、死を賜て老衰の尸を曝さん事、何の傷か有へきとて兎角の陳謝にも不及。依之讒臣頻なりけれは文明十八年丙午七月廿六日、扇谷殿定政、相州糟谷へ被立御馬、道灌を退治し給ふ。山内殿顕定も鉢形の城より加勢として高見原迄旗を出されたり。去程に道灌入道打て出たりしを、鑓にて突倒し首をとらんとしけれは、道灌其鑓の柄に取付て、
かゝるときさこそ命の惜からめ兼てなき身と思ひしらすは
只忠のみ有て咎なかりつる道灌、一朝讒せられて百年の命を失ふ。彼左納言右大史、朝受恩夕賜死と白居易か書しも理哉。道灌の馬廻斎藤加賀守安元をは分別才覚軍法故故実有とて定政へ被召出けり。扨河越へは朝良の執事曾我兵庫頭を被籠、江戸城には同豊後守をそ居住せられける。

山内扇谷不和之事
翌年改元有て長享元年丁未に移る。其比山内顕定憲房有談合、扇谷修理権大夫定政を可有退治と聞えける故、道灌か子息太田源六郎甲州へ忍出て山内殿御下知に随ひ軍勢を催しける。関東八州の大名小名、道灌有し程こそ扇谷殿へ志を寄んに、いつしか扇谷の柱石を摧ぬ。因何扇谷殿へ可参とて、みな山内殿へ馳参る。定政朝良は糟谷有りなから、河越に曾我を籠、小田原に大森式部少輔を置、僅に三百騎計にて八箇国の大軍を覆さんと少も不騒気色なり。定政使者を古河の公方へ参らせ、今度太田入道当家へ無二忠功を積、度々の労勲不可勝計、然とも山内へ対し企逆意候間、加誅罰候得者、無程自山内当方退治之企、抑依何事忘一家之好、可討定政支度難得心、東八ケ国滅亡の基なり。縦自山内雖有退治当方之企、於御所者任正理、当方へ被成御下知於御旗本可定安否由、尽言被申けれは、古河公方政氏有御納得而、定政へ為御加勢及御動座しかは、上杉譜代之老臣長尾左衛門尉景春入道伊玄、定政へ馳着ける。是を初として左右良臣、何も勝たる義士有けれは、縦小勢の味かたにても敵何万騎ありとも不足恐と案のなかに推量して気色かはらすをはしける。長享二年戊申二月五日、山内の軍勢を引具して顕定憲房両大将にて一千余騎、相州実蒔原に出陣す。依之定政僅逞兵二百騎相具して長途を一日一夜に打越て■土に眞/然として少も不擬議、不憚敵を勇鋭追かゝりて鬨を三度作て颯と乱て追つ捲つ半時計戦て両陣互に地をかへ南北に分て其跡を顧れは原野染血山林易緑、暫休て又乱合て縦横無碍戦しか、山内大勢、扇谷の小勢に打負て四方へ乱て落行は、定政も以小勝大、喜悦の眉を開つ。凱歌を唱て還りける。

高見原合戦之事
其後所々の糴合止時なく、不分昼夜戦けり。就中長享二年戊申六月八日、山内殿上杉民部大輔顕定同兵庫頭憲房、須賀原へ出陣す。板東八ケ国の勢兵、我も/\と馳集て如雲霞、甲冑の光は輝わたりて明残る夜の星の如くして鳥空の陣をそ堅めける。扇谷殿上杉修理大夫定政子息五郎朝良、古河の公方の御動座を申し成し、打立御旗。長尾景春入道参りしか、小勢なれとも家の安否身の浮沈、唯此一軍に可定と各勇進て敵東西に有とも不思気色也。然とも定政弟ならひに子息五郎朝良若輩にて今日初の戦なれは真先かけ長尾新五郎同修理亮に掛合、散々に追立られて、顕定憲房、是に横合に掛て散々に追立て、諸軍機を得て抜連て掛る所に定政高処に馬を打揚、追返せと下知して懸足を出し玉ふ。左右の軍兵、大将の前に馳抜々々一度に破乱離と切てかゝる。喚叫に戦ふこゑ、さしも広き武蔵野に余許そ聞へける。かゝる処に長尾伊玄入道藤{蒔カモ}田■数字欠/と掛合追散して其軍勢を其侭横に立直し山内殿の旗本へ突て懸る。顕定憲房両方の敵に追付られて、終に打負引退く。其後軈定政、公方の御動座を申成、高見原へ出張す。顕定聞て即押寄攻給ふ。扇谷も先手の軍兵被懸悩、引色に成ける所に定政と伊豆入道、荒手を替て攻立けれは、顕定の兵戦疲て引退く。是迄は扇谷殿毎度雖乗勝、人馬皆疲ぬ。若党不知其数被討けり。されは山内方は何も大名高家にて軍勢沢山なれは、縦軍に負る事度々なりといへとも分国広けれは重て大勢を催し退治せしに最容易るへしとそ申ける。

早雲蜂起之事
爰に伊勢平氏葛原親王の裔孫伊勢新九郎長氏入道宗瑞と云人あり。備中の国の住人たりしか、壮年の頃より京へ上り公方に奉仕しける。少年の初より漁猟を好みて身を山林河海に寄て馬に乗ては悪処を落し越巌石事得神変、偏造父か執御、千里に不疲も是には不過とそ覚ける。水練は憑夷か道を得て驪龍頷下珠をも自奪つへし。弓は養由か跡を追しかは弦を鳴らして遙なる樹頭の棲猿をも落しつへし。射巧にして人を懐け気健にして膚不撓しかは、戦場に臨度毎に堅に当り強を破て、敵を靡けすと云事なし。されは似たるを友とする事なれは、其頃伊勢国に荒木山中多目荒河佐竹大道寺早雲、以上七人何も不劣人々也。此勇士共常に親遊ひけるか或時七人一同に関東へ弓矢修行に下ける時、七人神水を飲て誓けるは、此名何人如何なる事有とも不和の事有へからす、互に助成して軍功を励し高名を極めつへし、中にも一人勝て大名とならは残人々家来と成て其一人を取立、国を数多可治とて、各東国に下つく。思々に有付ける。伊勢守新九郎は駿河の国司今河氏親へ仕へてけり。度々の戦功ありけれは、今川殿其功を感し富士郡下方の庄を賜て高国寺城に居す。于時長享二年戊申十月韮山へ移ける。此時伊豆国は上杉の分国也。幸高国寺より程近けれは如何にもして伊豆国を討取はやと宗瑞常に思ひけるに、伊豆国に堀越御所とて公方おはします。政知の御子也。成就院殿是也。彼御所時に外山豊前守秋山新蔵人と云忠功の者有しを佞人放埒の奸臣共、渠か出頭を猜み讒言しけるを御所御運の末にて無御糺明も二人の侍を討玉ふ故、家中の面々大に驚き各心を置合て、国中更に静ならす。蒐る時を得て、早雲伊豆国に湯治して有しか、此形勢を見澄して思けるは、今日此比、両上杉の合戦に伊豆国中の軍兵并御所侍共、跡を払て関東に発向し残る人々纔なれは、早雲大に悦ひ彼荒木山中大道寺多目荒川佐竹六人の兵を招きぬ。今川殿へも此旨を申、加勢を請、伊豆へ急発向せり。御所方には俄事にてあるなれは、無可楯籠兵、如何せんと驚て即山林に引籠らせける。御所の侍関戸播磨守と名乗て切て出、数粕たゝかひけるか終に討死してけり。其のち堀越殿も不叶して自害ありしかは、早雲伊豆へ推移り北条に旗を立、韮山に在城し家を興して、竟爾五代の栄耀を開き、武勇の名をそ残しける。
右此書浪花之市中ニ得之終日ニ写之
于時宝暦十年庚辰十月廿五日也
  
 
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