◆伊井暇幻読本・南総里見八犬伝本編「傍若無人 精力絶倫 GoGo! ヤマブー」
ヤマブーは、精力絶倫であった。それもその筈、「山ぶなれば精進せず」(義経千本桜)。この場合「精進」とは、五辛食肉すなわち薬味になる大蒜とか葱や肉を口にしないという仏教者一般のタブーだ。近世に書かれた山伏の入門書(修験道初学弁談巻下五辛食肉経説)には、通常の仏教者は帯刀しないものだったが<仏教ではインドの武器・三鈷杵(サンコショ)などで煩悩を退散させる知恵を象徴しており刀だって金属武器だから煩悩を払う>とか書いているし、実際、深山の道なき道を行く山伏には山刀ぐらいは必要だったろう。そして、<必ずしも仏教では五辛食肉を禁じてはいない>と経典を引用しつつ主張している。「山ぶ」は帯刀し、香辛料だって肉だって、バクバク食ったのだ。精力絶倫にもなる筈である。因みに「山ぶ」とは、山伏(ヤマブシ)のことだ。ヤマブー。
山伏の性生活だが、十七世紀に成立した笑話集・きのふはけふの物語に、次のような小咄がある。「吉野にて、ある若き男山中にて山の芋を掘りけるがふかく根へいりければ腰より上を穴の中へ入て尻つき出だし掘る。折ふしかけでの山伏通りけるが、無理にたしなませて通る。此男迷惑してぎぎめけ共かなはず。やうやう穴より起きあがる所へ友達の来りければ、さてさて不思議や。ただ今我尻からあれなる山伏が出て行が何とした事ぞ。あとが損じたるか、みてくれよといへば、さしうつぶきしばし見るに、ことこと鳴るを聞きて、いやいやまだ子山伏が出るやら奧に法螺貝の音がするぞ。だまれだまれ」。穴だったら何でも良い、という絶倫ぶりである。まぁ、絶倫であること自体は悪くないのだけれども、強姦するとは傍若無人、自由濫望、<ごろつき>である。
八犬伝でも、犬江親兵衛仁(イヌエシンベエマサシ)は両国河原で便船を待つ間、ごろつきの子分・枝独鈷素手吉(エドッコステキチ)に絡まれた。八犬伝では超人的な、というか化け物じみた活躍をする仁も、見た目は、鼻筋通り目元は涼やか笑えば片エクボの出る色白ムチムチ美少年なのだ。素手吉は仁に対して「只是逆旅の少年なりと思侮り生拘り懲らして頑童にせばやと火急の情慾」を抱いた。仁を「単なる旅の少年だと侮って、生け捕りにして痛めつけ、犯してやろうと思い立った」のだ。「鳥だ スーパーマンだ いや、役行者だ!」に於いて、龍樹菩薩が少年期、強姦魔だったと述べたが、強姦とは「ごろつき」の所行だ。
勿論、山伏は、いくら密教僧の端くれだとは言え、「高野六十那智八十(深山で修行に耽る密教僧は男色に耽っているので六十になっても八十になっても何だか艶がある)」ではあるまいし、諸国をウロついているから女性との出会いもあった。今昔物語などの昔話では、山伏が山奥で、犬を夫にして幸せに暮らしている美女と出会い、密かに犬を殺して美女の夫に収まったは良いが、旧悪露見して、美女に「夫の仇」と殺されたりしている。……やっぱり、「ごろつき」である。
まぁ、山伏が「ごろつき」であっても仕方がないかもしれない。山伏、彼らを修験者、彼らの宗派を修験道というが、彼らが宗祖と仰いだ人物こそ、スサノオノミコトから続く「ごろつき」の系譜、役行者小角(エンノギョウジャオズネ)なのだ。山伏は法統のみならず、小角の猛々しさも受け継いだらしい。因みに修験者は、その拠っている霊山により、熊野修験とか羽黒修験とか言われたし、日光山にもいたのだが、仏教の宗派としては本山派、当山派の二流である。何連も、密教である。
源平の戦いで安徳天皇を奉じた平家を<追討>するに大功あった源義経(ミナモトノヨシツネ)は上皇に寵愛された。何せ、美少女と見まごうばかりの美少年だった、かもしれない義経である。十六歳の時、鞍馬山東光院から砂金商人・吉次(キチジ)に連れられ奥州藤原氏の下へと逃げ出すのだが、途中、強盗に襲われた。強盗は義経を女性だとばかり思った。しかも、ただの女性ではない。「きはめて色白く、鉄漿黒に眉細くつくりて」と化粧までしてたもんだから、「玄宗皇帝の代なりせば楊貴妃とも謂ひつべし。漢の武帝の時ならば李夫人かともうたがふべし。傾城と心得て……」と最高級の別嬪さんだったのである。中世の物語・義経記(ギケイキ)である。
さて、別嬪の義経は、不細工な兄・頼朝(「東照宮の牡丹と犬と梅」参照)に憎まれるようになった。義経は再び奥州藤原氏を頼って逃げる。逃げるときに、武蔵坊弁慶らと共に、山伏に変装した。関所で検問を受けるのだが、弁慶が機転を利かせ、義経を扇でめった打ちにする。余りに酷く打擲するので、番人は憐れみ、そのまま通過させた。色白美形の義経を色黒毛むくじゃらの弁慶がサディスティックに責め立てる。義経記(ギケイキ)中、読者の淫靡な欲望を満たす名場面だ。弁慶は「タチオウジョウ」(最期の戦いで一歩も引かず立ったまま往生/戦死した)で有名だが、義経との関係では、タチだったとも言われる。義経がウケである。勧進帳だ。
義経がらみの芝居で思い出したが、冒頭に掲げた義経千本桜、これは近世芝居の脚本だ。「忠なる哉忠信なるかな信」という名文句で始まる。子狐が登場する。尤も子狐と言っても、ヨチヨチ歩きの子狐ではない。立派な成獣だ。妻もあれば子もいる。この狐、人間に化けて登場する。名前は藤原四郎忠信(フジワラノシロウタダノブ)。苗字は佐藤。「忠なる哉……」は、義経千本桜というタイトルを無視して忠信が主人公であることを暗示している、という。
この忠信は多分、実在の人物で、頼朝に追われて逃げる義経の従者だ。元は奥州藤原氏の家臣だったとされる。追手が迫ったとき、義経に<化けて>一人で引き受け、義経を「恋慕」しながら、凄まじい最期を遂げるのだ(「義経記」)。千本桜の忠信、義経が院から与えられた鼓の子供だったのである。正確に言うと、この鼓は狐の皮で作っていたのだが、その狐の子供が忠信に化けていたのだ。父母狐(の皮で作った鼓)を慕って、義経のもとに来た。<狐は親子の情が篤い動物>なのだ。脱線である。
まぁ、とにかく、義経一行が山伏に化けたのは、うろうろ歩き回るのに、都合が良かったからだろう。義経が美形だからといって、女装なんかしたら、そりゃぁ巧く化けるかもしれないが、不自然だ。すぐにバレる。全国の交通が、まだ余り発達していない時代だ。女性がウロウロしてちゃぁ、いけない。それだけで、怪し過ぎる。
ところで義経は<悲劇の貴公子>だ。八犬伝中で何度も引用されている太平記にも、悲劇の貴公子は登場する。後醍醐天皇第二皇子・護良親王(モリナガシンノウ)だ。親王は鎌倉幕府から追手をかけられたとき、山伏に化けて熊野へ走った。宿を貸してくれた豪族に加持を頼まれたが、祈祷してやって、怪しまれずに済んだ。……怪しいヤツAが怪しくないヤツBに化けたら、これは怪しい。すぐバレる。しかし怪しいヤツAが怪しいヤツBに化けたら、これは、なかなかバレない。実は、山伏は元々<怪しい>。呪術を操るからではない。呪術を操っても、出自のはっきりした高僧なら、畏怖されたとしても、怪しまれたりしない。山伏はウロウロしているから、何処の誰兵衛か、ハッキリしない。
人々が定住していた時代に、ウロウロしていたら怪しまれる。近世農村の、五人組制度(複数の家族を一組として年貢や犯罪者の捕縛に連帯責任を持たせる制度。相互監視という側面ももった)ではないが、人が関係を固定したがるのは、そうすると安心できるからだ。一緒に育った者は、何となく信用してしまう。それに対して、行きずりの人間は信用されない。信用するとしたら、純真無垢/イノセントな人間だろう。
せっかく太平記を持ち出したので、もう二カ所だけ引く。後醍醐天皇が、鎌倉幕府もしくは其の実権を握っている北条氏を抹殺しようとしていた頃、北条高時の下で異変が起きた。高時は田楽踊りや闘犬を好み連日浮かれて鑑賞し宴会を開いていたが、座中の者がヘベレケに酔っぱらっているところへ、見知らぬ田楽一座が登場した。この世の者とも思えず巧みな踊りだった。みな喜び、歌い囃した。が、部屋の外から覗いた者には、一人の女房が障子の隙間を通して覗いたのだが、それは田楽の一座ではなく、山伏の格好をした天狗どもだった。驚いた女房は、退廃した北条眷属には珍しい武人・城入道(ジョウニュウドウ)に報告した。武人は、武力を専らにするだけではなく、魔を払う力を持っていた。八犬伝中、火の玉姐さん音音(オトネ)の夫・与四郎(ヨシロウ)が、こんなことを言っている。「大刀は武徳の名器にして非常を*検し非常を防ぐ。この故に妖怪変化もこれに遇へば本形を顕さずといふことなし(「*検」の扁はテヘン。但し意味は同様)」。閑話休題。
ところで、入道は、押っ取り刀で駆け付けるが、異形の者どもは既に姿を消し、高時はじめ眷属は皆、正体もなく酔い伏していた。ただ、座敷には鳥や獣のような足跡が残されていた。<天狗山伏>である。現代でも天狗を描く場合、山伏の扮装をさせることが多い。山伏から連想されるイメージに、<天狗>もあるのだ。この場面は、北条氏滅亡の予兆として、意味がある。怪しい者が跳梁すると、国が滅ぶのだ。
さて、太平記は復讐に次ぐ復讐、殺戮に次ぐ殺戮を描いているが、次の復讐も名場面の一つだ。太平記序盤、後醍醐天皇の鎌倉幕府討伐計画が露見する。天皇は知らぬ存ぜぬを押し通し、側近・日野中納言資朝(ヒノチュウナゴンスケトモ)らの独断だとされた。資朝は死罪となり、佐渡島に禁獄される。資朝には、阿新(クマワカ)という息子がいた。阿新は、危険を顧みず佐渡へと赴く。救出は考えていない。父が死ぬ前に、一目会いたかったのだ。
阿新は、通りかかった僧の口利きで、資朝が囚えられている本間屋敷に潜り込んだ。身分は明かした。当主の本間入道は阿新を哀れみ、丁重にもてなした。入道も、資朝が憎くて閉じ篭めているのではない。命じられただけなのだ。とはいえ、阿新を資朝に会わせるワケにはいかない。幕府への聞こえもある。二人を隔離する。阿新に告げず、資朝を斬る。件の僧が、資朝の遺骨を阿新に渡す。泣き伏す阿新。しかし、泣いてばかりはいられない。遺骨を母の元へ送り、自分は居残る。本間入道か、その息子を殺して、その場で自殺しようと考えたのだ。言ってみれば<逆恨み>なのだが……。
ある夜、本間入道、そして息子の部屋に忍び込む。夜這いではない。父子は不在だった。別の部屋で女性の布団にでも潜りこんでいたのだろう。阿新はウロウロする。ここまで来たら、誰かを殺さなければ引っ込みがつかないとでも思ったのか、偶々見つけた本間三郎、資朝の処刑を行った刑吏役だが、「コイツで良いや」と、三郎を殺すことにした。
メチャクチャな論理ではあるが、太平記というのは、全編こんな感じなのである。<気分>次第で裏切りもし、殉死もする。太平記中で、もっとも理想的に描かれた武将は「悪党(悪人というのではなく既存の権威に従属していない武士)」の楠正成(クスノキマサシゲ)だ。智恵もあり武勇もあるが、相当な気分屋で、冷静かつ客観的に情勢を分析した挙げ句、負けると分かっている後醍醐天皇側に属き、戦死する。後醍醐天皇や足利尊氏だってどうも、「気分」で動いているやに思える。気分次第で戦争されたりしては、周りが迷惑するのだが……案外、真実かも。
まぁ、阿新は三郎を殺す。悲鳴を聞いて警備の者が駆け付けると、三郎は既に死亡し、血の付いた小さな足跡が残っていた。阿新を犯人だと断定する。阿新は屋敷から逃げようとするが、六メートルほどの堀に阻まれる。高い呉竹によじ登る。竹はたわんで、小柄な阿新を対岸に降ろす。逃げ回る阿新は、一人の山伏に出会う。高貴な者と思しき少年が、着衣を乱し血に塗れ怯えた様子でいるのを不憫に思ったか、山伏は事情を尋ねる。阿新は、この敵か味方か分からない山伏に、ありのままを話す。しかし、行きずりの怪しい山伏に総てを明かすとは、ナンセンス! いや、イノセンスである。阿新は、育ちがよいのだ。
山伏は逃がしてやると約束し、阿新を背負って港へ向かう。しかし、船は遙か沖に碇泊している一艘のみ。いまにも出帆しようとしている。山伏は船に呼びかけるが、無視される。怒った山伏は、船に向かって呪文を唱える。突如として強風が吹き、船は岸に打ち寄せられ、転覆しそうになる。船の者たちは驚き慌て、助けを求める。懸命に港へ漕ぎ戻す。山伏、阿新は悠々と乗船する。船が港を出たところへ、漸く本間の追手百五六十騎が追い付く。阿新は無事に帰り着く。
名場面なので、ついつい長く引用してしまったが、阿新を助けた山伏、なかなか格好の良い役回りだ。土地の者なら後難を恐れて阿新を捕らえこそすれ、助けることはないだろう。風来坊だからこそ、気分次第に振る舞えるのだ。逃げちゃえば、良い。
とにかく山伏はウロウロする風来坊であった。それ故、津々浦々の虚実に通じ、各地の権力から比較的自由であり、そして実際に効果があったか否かは別として、呪力を持っているとされた。中世は、呪術の時代でもあった。古代末期、平将門(タイラノマサカド)が「新皇」を名乗り、朝廷の命に従わなくなった。三カ月後に藤原秀郷(フジワラノヒデサト)らに討たれた。このとき、朝廷は追捕使を送って武力鎮圧を試みると共に、密教僧に将門の調伏を祈らせている。簡単に言うと、呪い殺そうとしたのだ。また、元寇すなわち中国の元王朝が大軍を発して日本を攻撃したときも、武士に防衛線を張らせると共に、朝廷は元軍を呪った。暴風雨が偶々起こり、元軍を潰滅した。「神風」だ。戦国の時代にも、呪術が戦いに用いられた。戦いに於いて、呪術は武術と同様に、重要な要素だったらしい。山伏は、呪力を有していたとされるし、戦いは縁起を担ぐものだが、お祓いとか出撃日時の吉凶を占ったりもしたかもしれない。また、より合理的に、山伏から隣国の情報を得て、攻撃の決意を固めることもあっただろう。戦こそ、山伏のビジネスであった。
八犬伝にも山伏もしくは修験者が登場する。山伏は近世に入ると、そうウロウロできなくなった。何せ、放っておくと厄介な連中である。武術も呪術も持っていた。だから幕藩により、定住を促された。道場で修行しつつ霊山に出かけ修行するようになる。八犬伝に出てくる修験者は、この定住後の修験者だろう。それは、下総猿嶋郡誼夾院村(シモウササシマグンギキョウインムラ)の修験院・誼夾院住持・豪荊(ゴウケイ)である。既に廃れたとはいえ、以前は子院四十八カ寺を支配した大寺だったようだ。
因みに、四十八とは六かける八である。六八、四十八。ロクハ、ロッパ、ロッパゥ、ロッポー、六法。六法とは今では重要法規もしくは法全体を指すが、近世、「ムホウ」を意味した。<無法>、「ごろつき」である。また、ごろつき山伏を指す場合もある。
この豪荊、八犬士側の人物だが、出てきて何をするかというと、意気に感じて合戦に参加するだけだ。子分じゃなかった、弟子筋の修験者と共に戦うだけ戦って、褒美も受け取らずに帰っていく。一応は仏教者なのだから、それらしいことをしても罰は当たらないはずだが、戦うだけだ。これでは、単なる野武士か義侠の輩である。
……多分、そうなのだろう。「誼夾院」という名は伊達ではない。豪荊は、義侠の人なのだ。<良い子>が住んでいるのは、<良い町>である。ならば、誼夾院村に住んでいるのは、義侠の輩だと決まっている。八犬伝は、<名詮自性>の世界なのだ。折口信夫に拠ると、「駈落者・無宿者・亡命の徒などが彼ら(山伏)の中に飛び込めば、政治家も、其をどうする事も出来なかつた。こんな事は以前からもあつた。だから、武力を失うたものが、逃避の手段として、山伏になつたなどといふのが少くない。……(中略)……(山鹿)素行以後のものは士道であつて、其以前のものは、前にも言うた野ぶし・山ぶしに系統を持つ、ごろつきの道徳である。……(中略)……睨まれゝば、睨み返すのが、彼らの生活であつた。即、気分本意で、意気に感ずれば、容易に、味方にもなつたが……(後略)」(「ごろつきの話」折口信夫全集第三巻 古代研究・民俗学編 中公文庫)。山伏である豪荊は、「ごろつき」だったのだ。いや、住職になる以上、ただの「ごろつき」ではなかっただろう。<すごいごろつき>だったに違いない。
……行数が尽きた。いや、こんな積もりではなかった。スケベェの話になると、如何しても長くなってしまう。これでも半分に切り詰めたのだが。まぁ、良い。先は長い。とにかく、役行者は超人、スーパーマンではあるが、一筋縄ではいかない「ごろつき」・山伏の親玉なのだ。<ごろつき超人>である。甚だ物騒だ。物騒なコイツが、八犬伝の主宰神なのである。困ったものだ……あ、いや、何でもない。ごろつきの親玉が主宰する世界が、マトモである筈がない。だいたい八犬伝の作者・馬琴(バキン)は、悪漢小説の圧巻たる椿説弓張月(チンセツユミハリヅキ)の作者である。「マトモ」でないとしたら、如何か? それは、<とてもマトモ>なのだ。そこら辺のことは、またの機会、「ごろつきは世界を変える……か?」で申し上げよう。
(お粗末様)