×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

  
 
 
 
 

鎌倉公方九代記 巻五

 

持氏軍記 上
 

   一 持氏家督

京都には前将軍義満公の嫡男義持公、既に天下の政事執行ひ即ち土岐右馬允持益を以て使者とし御教書をなし下され左兵衛佐満兼公の御息持氏を左馬頭に任ぜられ関東の管領遺跡相違あるまじき旨仰下されけり。持氏今年未だ十二歳、童名幸王丸とぞ申しける。何の遠慮もあるまじきに、京都の使節に対面あり、御年よりも才智賢く進退宜しきに従ひ礼儀正しく整り給ふ。土岐右馬允大に感じ奉り、御幼稚におはしますだに平人には抜群にして世の常ならず御成人の後にはさこそ政理に道義を守り給はん関東の公方と仰ぎ奉らんに不足なる事はおはしますべからず、と賞め参らせしかば、執事を始めて当座伺候の大名諸侍皆悦び申しけり。
 

   二 新御堂満隆謀叛の雑説

応永十七年六月廿九日、評定始めあり。幸王殿未だ童形故に御出座の儀なし。爰に祖父左馬頭氏満の三男満隆は幸王殿の伯父{ママ}にて父満兼の舎弟なり。鎌倉の新御堂殿と称して連枝一族の御事なれば東国の貴賎恐れをなし大名諸侍にも余情重く時々の訪れ折節の拝礼、更に絶ゆることなく、門前までも常に賑ひ給へば、何の不足かおはしますべきに、陰謀の沙汰に及ぶ。内々軍勢を招き諸大将を語らはるゝ由、幸王殿聞き給ひ先づ竊に管領入道長基が山内の宅に入り給ひ、近藤五郎を以て陰謀の仔細を尋ね遣されしかば、満隆大に驚き、努々其企をいたすにあらず、中々心に思寄り候事にもあらず。只是れ人の申沙汰仕る讒言の言葉必ず御許容候まじ、とて数通の起請文を書き進ぜられしかば、扨は世間の虚説なりとて同じき九月三日本所に御帰座あり御心解け給ひけり。
 

   三 幸王殿元服

同十八年正月十六日、上杉安房守入道長基、病に依つて執事職を辞退せらる。同二月九日、上杉中務少輔入道禅助の嫡子右衛門佐氏憲管領に補せらる。同三月十二日、上杉大蔵少輔重藤を以て京都に上洛せしめ将軍義持公の御諱の字を申給はり鎌倉に下向す。同四月二日、幸王殿元服あり。左兵衛権督に兼任して持氏と号せらる。翌年三月五日御判始めあり。国家の法式先規を守り政治の理道前代に変らず、世は温和の徳に帰し民は淳化の沢に浴して鎌倉の賑ひ日頃に越え一陽春台に上り万物膏雨に霑ふとは今此時なるべし、と悦ぶこと限りなし。
 

   四 憲定入道頓死

同十二月十八日、前管領憲定入道長基、歳末の祝儀と称して一族親類等残りなく集めて終日の酒宴あり。一献に一種の肴を出し凡そ海陸の珍味を代へ品を備へ様々の能者を召して謳ひ舞ひ楽み誇りて日の暮るゝをも覚えず。既に燭を採り猶酒を勧めたり。主の長基座に在つて彼方此方より循る盃に数杯を傾け沈酔甚しく壁に倚り懸つて鼾睡せり。人々立寄りて、如何に酔伏し給ふか、とて起せども/\唯寝入りたる如く喉の痰に纏はれて凡て人事を顧みず。満座興を冷し、こは如何なることぞ、とて医師を召して見せらるゝに六脈共に上り薬を入れども口より流れて通らず。漸く息も弱りて其夜の子の刻計りに終に卒去せられけり。楽み尽きて悲み来り、引換へたる有様、内外色を失ひて、はや葬送の営をいたし東岱の秋の雨、涙を綴りて累々として袖に余り北芒の冬の嵐、声を添へて歴々として秋を催す。白楊の下、黄壌の底に埋みて青塚の一塊の主とぞなしにける。形の如くの孝養をいたして聖霊仏果の為と回向するこそ哀れなれ。
 

   五 伊達松犬丸揚旗

同二十年四月十八日、二階堂信濃守が飛脚と信夫常陸介の早馬と同時に鎌倉に参着して申しけるは、伊達大膳大夫入道が子息松犬丸生年二十一歳会津山中に隠れ居たりしが家子郎従此処彼処より馳せ参り懸田播磨守定勝入道玄昌を語らひ近辺のあふれもの共を招き集めて其勢五六百騎に及ぶ、大仏の城に閉籠り百姓を脅して資財を掠め奪ひ民屋に乱入して米穀を取運び軍勢日に従ひて馳せ着く、漸く国中に蔓り候、城の要害極めて堅固に切岸高く峙ち小勢を以て攻干し難く候、早く討手を向はせられずば災大になり候べし、とぞ告げたりける。持氏聞召し、畠山修理大夫義忠に八千余騎を差添へて向はしめらる。既に城近くなりしかば大手搦手同時に押寄せたりけれども、容易く攻上り難し。憖の事に人数を損じては然るべからずとて城の麓に陣屋を取固め夜討の用心してぞ居たりける。城中之に気を屈して、たゞ折々は逆茂木の際まで下り立ちて鬨の声作り矢を射出し敵を小引きて日を送りけり。斯くて十一月にもなりしかば嵐に交る時雨は間なく時なく降りみ降らずみ朝置く霜の霜柱膚に徹りて凄じく夕積む雪や雪霙凍え渡りて堪へ難し。手屈まぬ薬もがなと彼の北越の戦まで思ひ合せて物わびしく心細さは限りなし。斯る所に城中いかゞしたりけん俄に失火燃え出でて折節吹荒ぶ嵐に作り並べし小屋共一時の間に焼けにけり。いかさま城中に返忠の者ありけるかと互に疑ひしが四方の櫓は堅固に防ぎて恙なし。寄手八千余騎すはや城中の者共の自滅するぞやとて四方の軍勢一同に潜き連れて攻上りしかども懸田入道はさすがに老功武勇のものにて少しも騒がず郎従に下知して張置きたる石弓を切つて放つに寄手若干之に討たれむらむらになつて引退く。其間に火は既に鎮まりぬ。寄手も重ねて進み得ず。されども城中には山の如く積み置きたる兵粮を焼き失ひとても此城を持遂ぐべきにあらずとて十二月廿一日竊に城を落失せたり。松犬丸懸田入道落失せたる上は軍兵皆思ひ/\に夜に紛れて落行く所を寄手の兵追詰め/\或は打伏せ切倒し或は生捕り搦め取りて首三百余を切懸けて大将畠山を始めて諸軍事故なく鎌倉に凱陣す。寄手の人数損せずして帰りしは神妙なるに似たりと雖、永永の在陣にさして仕出したる功もなく城は自滅に落ちて大将を討洩らしつることを、持氏いと無興し給ひければ、帰陣の首尾何を以て取囃すべきこともなく修理大夫は面目なく暫し出仕を止め閉門してこそ居られけれ。
 

   六 管領入道禅助卒去

前管領朝宗入道禅助は長良山に閑居して満兼の御菩提を深く弔い奉り霜の夜に膚は冷なれども氷を叩きて水を汲み雪の朝に手は屈まれども嵐に向ひて薪を拾ひ机案に肱を屈しては思を自性の真理にかけ縄床に跏を結びては心を一境の妙道に沈め寂寥たる草庵の内に経読み念仏して随分の行法に隙ありとも見えざりけり。其上東国の管領として政道を執行はれし時は名刹の瘴霧心頭に被ひ愛恋の蠱毒意地に塞がり神魂徒に自縄自縛して日夜に寧き暇もなかりしに、今は引換へて耳を松風の梢に渡るに涼しむれば、妄想の雪忽に霽れて心月自ら光を増し思を澗水の静なる流に与へ洗へば、煩悩の垢速に除りて意樹既に花を開く。明くれば経を読み暮るれば念仏して西方往生の素懐をのみ心に懸けて念ずる外、更に別の暇なし。棄つる身ならでは、いかで此楽を知るべきと喜び給ひしが、同二十一年八月二十五日午の刻に西に向ひ端坐合掌して永く逝去せられたり。行年七十六歳。双樹影おさまり提河水澄めり。一族集りて喪に赴き薪を積みて夜半の煙と焼き上げたりけれども、燃え尽せる朝、既に寒灰となる。遺骨を拾へば薫馥自ら鶏百香を譲り栴檀却て匂を恥かしめり。七々の中陰念仏孝養して懇に弔ひ申されたり。平生の願望、此時に成就して往生を遂げられしこと疑なき験には仏事営みける結願の日、西の方に紫雲棚曳き空の間に花ふりけるこそ不思議なれ。之を見る人、奇特の思いたしけり。

 

   七 建長寺炎上附蘭渓来朝并影向の松

同十二月廿八日の酉の刻に建長寺門前の在家より俄に失火出来しかども軈て焼け鎮まりける。僅の畑炊一つ遙に七八町を隔てゝ飛去り建長寺の塔の五重の塔に落懸る。初の程は燈籠の火の如くにて消えもせず燃えもせで見えけるが、塔頭の僧達身を揉み手を■足に宛/きて■足に宛/き惑ひけれども、登るべき懸橋もなく打消すべき便もなければ、たゞ徒に足を爪立て空をのみ見てぞ居たりける。此畑炊漸くに燃え蔓り黒煙天を掠めて焼け上る。猛火雲を巻きて翻る色は四方■リッシンベンに刀/利の上までも上り九輪地に響きて落つる音は金輪際の底にも聞えやすらんと夥し。折節青嵐端なく吹渡りて余煙四方に被ひければ、本堂祖師堂方丈衣鉢閣鐘楼輪蔵寮舎浴室鎮守土地堂山門脇門廊下総門に至る迄、同時に燃え立ちて一宇も残らず灰燼となる。仏具経論資財雑物は運び除く暇もなし。僧喝食維那侍者等、我身をだに除れ兼ねて垣を潜り壁を伝へ辛うじて逃げ出でたり。左馬頭殿は人数五百計にて門前に馬を止められ下知を加へて消させらるれども回禄の時至りけるにや、水をかくれば愈々燃え打消せば益々焼け或は崩るゝ軒の枝に頭を打損じ或は倒るゝ柱に当り手足を打折られ又焼爛れ疵つきて半死半生になるもの数を知らず。抑此寺は後深草院の御宇建長三年に最明寺の時頼の草創蘭渓道隆師の開基なり。禅師は元是れ宋の西蜀浮江といふ所の人なり。十三歳にして成都の大慈寺に於て薙染し無準癡絶等の大老に見え無明の性禅師と謁して心印を開覚せり。其志常に遊化を専とし東域今盛に禅法弘興すと聞きて商舶に乗つて纜を解き本朝後嵯峨院寛元四年に当りて筑紫の宰府に着岸し都城に上りて泉涌寺の来迎院に入り給ひ又錫を突きて相州鎌倉の寿福寺に到り給ふ。平時頼即ち常楽寺に招請して政事の暇に仏法の大道を問ひ其間に巨福建長寺を造営し建長五年十一月廿五日に慶讃供養を遂げらる。導師は是れ開山道隆禅師なり。丈六の地蔵菩薩を中尊として同一千体の地蔵尊を作られたり。禅師既に移転し給へば東関の学徒笈を負うて集り講師に連りて大道を求む。然るに禅師寝室の後に池あり。池の畔に一木の松あり。亭々として直立てり。或日梢偃して枝撓み葉を布きて室の軒に傾き懸れり。衆僧甚だ怪しみければ、道隆語つて宣く、今朝何処とも知らず美しく装束したる異人来り此松の上に座して我と語り給ふ、何処の人ぞと尋ねしかば、此山よりは左の方鶴ケ岡に住み侍りとて形は其侭隠れ給へり、其人の座せし故に松の梢は偃したりと宣ふ。疑ふ所なく鶴ケ岡の八幡大神の影向し給ふ印なりとて、此松の辺に垣結ひ廻し八幡所座の霊木と崇め影向の松とぞ号しける。弘安元年七月十四日禅師既に遷化し給ふ。闍維の後、五色の舎利数千粒灰中にこれあり。荼毘の煙の融たる所には木の葉草の葉にも舎利を綴りて累々たり。貴賤葬所に集ひて拾ひ得るもの少なからず。道隆常に所持し給ふ一面の鏡あり。門人の夢に見るやう、禅師の御影をば此鏡に止むるなりと告げ給ふ。夢覚めて鏡を見れば観世音菩薩の尊像映りておはします。時頼之を聞き給ひ、取寄せて見られしに、鏡曇りて定かならず。疑を起して磨せらるゝに大悲観音の御像形歴々として拝まれさせ給ふ。時頼大に驚き、謝して礼敬せらる。是れ末代の奇特なりとて大覚禅師と諡を贈し給はる。本朝禅師号の始めとかや。斯る不思議の霊場も時節の災を逃れずして焼失するこそ悲しけれ。地蔵菩薩と申すは、からだ山に所住の浄土を構へ■リッシンベンに刀/利天宮に如来の附属をうけ無仏世間の大導師有情界内の慈仁者なり。柔和忍辱の膚をば八熱奈落迦の猛火に焦し楞厳三昧の姿は八寒泥梨耶の堅凍に破り一切衆生の苦に代りて六道四生の悲みを救ひ給ふ。六環の金錫は威徳を振うて迷を転じ一顆の摩尼は宝財を降らして乏しきを賑はし給ふ。たとひ日月は地に落つるとも済度利生に人を棄つるの時なし。是に依つて一千一体の尊容を磨き安置せられし梵刹なれども仏殿形像諸共に一時に煙となり給ふ。法滅の瑞相かと歎き給ふ計なり。又影向の松と申すは其上幾年経たりとも生長の始めは知る人なし。彼の奇特の名を得しより今に至りて百六十余歳星霜重なり木立物古りて端直森々として梢を捧げ■石に田みっつ/■石に可/の節々枝を垂れ四時を貫して葉を返す。三冬に堪へてよく霜を凌ぎ花は十返の色を顕し緑は千歳の徳を布きて兎絲上に惑ひ神苓根に生ず。誠にめでたき霊木なれども火災の難に罹りぬれば空を焼く薪となり立ち乍ら炭灰と変じけるこそ怪しけれ。八幡大菩薩の神慮もいかゞと計り難し。何さま国家の為め宜しかるまじき先兆なりと諸人高きも卑しきも心にかけて危みけり。

  

   八 越幡六郎追放附上杉禅秀籠居

同廿二年三月五日、左馬頭持氏評定意見始めあり。諸国の政事を聞召されしかば、管領職を始めて評定衆奉行頭人に到る迄各々其所職役義を守りて誤りなからんことを思ひ私を顧みて順理に従ふ。是に依つて道義正しく礼譲乱れず直なる軌に帰し侍る所に、持氏如何なる心や付き給ひけん、政道妄に雅意に任せ人望に背くこと少なからず。爰に常陸国の住人越幡六郎は当家に於て他念なき忠勤をなせしものなり。此頃在鎌倉の間、病気さし起り暫く養保を加へて出仕をいたさず。近習の人、持氏に悪しく取なしけるを、持氏之を信じて評議にも及ばず仰出されけるは、越幡此頃虚病を構へ出仕を止めて遊興を事とし殿中を蔑にして濫行を恣にする由所為甚だ然るべからず、一人寛容の哀憐を施せば諸人必ず之を傚ひ行義既に乱るゝときんば国家騒動の基となる、早く戒を加へて向後の懲とすべきなり、六郎が所帯悉く闕所いたせ、と下知し給ふ。管領禅秀之を聞きて持氏を諫め申しけるは、凡そ国家を治むる道と申すは仁慈道徳を本とし寛大温和を行ひ礼を専として敬に帰るときんば人是れ木石に非ず、恩を戴き恵に浴して且は恥ぢ且は恐れて悪を改め風に帰して終に淳厚の化に靡き従ふものなり、然るに一事の細故を以て罰を強くするときんば人是れ外には恐るゝに似て伏するが如くなれども内に怨を含みて終に国家災の根となり或は傾き立ちぬれば諸人の心一同せず土の如くに崩れ瓦石の如くに解けて其亡ぶこと手を翻すよりも速なり、此故に恐れて伏するは如かじ、懐めて従ふにはといへり、苛政は温宥に優らず警誡は慈恵に如かずと申す事の候、たゞ枉げて穏便の御沙汰を以て宥め許さるべし、とぞ申しける。持氏聞き給ひ、科を宥めて恵を厚くし罰を緩くして賞を大にすることは上代正直の世の政事なり、今の世の人には当るべからず、威を立て権を逞しく罪過は強く理り戒は厳しくして後を懲すに如しくはなし、とて許容の色なかりければ、禅秀本意なき事に思ひ、翌日より所労と称して出仕を止めて籠居せらる。持氏大に怒つて宣はく、人を諫むるといふは道に依つて理を立て法に従ひて時を計るべし、何ぞ上代聖賢の政道を以て末世愚民の教化に宛ふ、是れ猶ほ鶏犬に金銀を与へ牛馬に花屋を見するが如し、更に受容るべからず、然るを禅秀贔屓の沙汰を以て越幡を宥めんとす、是れ災害の種を貯へ毒賊の根を育するに非ずや、斯る不義のものは後に必ず乱を起す、唯疾く災を払ふに如くはなし、とて六郎が領地を没収し其身を追放せられけり。又禅秀は持氏を怨みて籠居せりと覚ゆ。力なき事なりと仰せられけり。禅秀聞きて弥心ならず。五月二日に職を辞す。同十八日に安房守憲定が長男憲基を安房守に任じて管領に補せられたり。

  

   九 浮説に依つて鎌倉騒動

同七月の始め鎌倉中俄に騒動して何とは知らず軍兵四方に馳せ違ひ、或は殿中に入来り或は連枝方に集り又は前の管領の本、今の執事の家、思ひ/\に参り集ふ。町小路の諸人は、すはや大事出来して鎌倉中只今軍あるべしといふ沙汰し男女巷にさまよひ資財雑具を持運ぶ。其中に盗賊ありて、或は財宝をかち落し奪ひ取り逃げて行くを追詰めて打伏せ切殪すもあり或は女童を捉へて脛むくり赤裸になされ辻小路に立ちて泣き叫ぶもあり。これは抑も如何なることぞ。何の目に見えて斯くは騒ぎけるぞや、とて奉行頭人等町中を走り廻り汗水になりて触れけれども唯騒ぎにどよめきつゝ谷七郷の間、物音も聞え分かず。日既に暮方になりて持氏より御使を出され連枝一族の御許へ如何にも竊に申鎮めらるべき旨、仰遣はされしに、如何なる事とも其根元を知る人なし。魔障の所為なりと心づきて夜に入りて後、漸々鎮りぬ。翌日之を聞けば、禅秀深く持氏殿を怨みて殿中に押寄せ憤を散ぜんとする由沙汰ありて、此騒動は起りにけり。上杉入道禅秀は中々思ひも寄らざることに、此沙汰の侍るはいかさまにも禅秀を讒する者のありて申出しけりと覚ゆ、静に其人を聞出し厳重の罪科に行ふべし、とて其夜、左馬頭殿へ参向して誤りなき旨さま/\陳謝いたし、八月九日より又出仕をぞいたされける。

  

   十 満隆禅秀反逆附鎌倉軍

夫れ功名は立つこと稀にして歿すること早く、禍乱は起り易くして治め難し。故左兵衛佐満兼に四人の連枝おはします。次郎満直は左兵衛佐に任ぜられ稲村殿と号す。三郎満隆は右衛門督に任ぜられ新御堂殿と号す。四郎満貞は篠川殿と号す。五郎満孝は大御堂と号す。太郎満兼は父氏満の家督をうけ東国を治め子息持氏に世を譲り鎌倉の管領として権威高く東国に輝き給ふ。持氏別腹の兄持仲は先年奥州より迎へ入れ参らせ連枝一家相守り大名諸侍共に従ひ治め鎮めし関東の世の中たとひ如何なる事ありとも鎌倉の御所には手を指す事もなるまじき所に此頃持氏政道の行理非正しからず心に任せて進退し無礼にして短慮におはします。是に依つて連枝一家も疎く隔り諸将侍民も怨を含む人少なからず。叔父新御堂殿竊に計りて鎌倉の世を傾けばやと思ふ心ぞ付きにけり。同廿三年八月に上杉入道禅秀、此色を見て満隆の家に行きて謀叛のことを申勧めたり。今是れ持氏お御行跡万雅意に任せ無礼非道なること甚だ人望に背き給へり、諸国の間怨を含み憤を存ずるもの是れ多し、君日来の御志、徳を施し道を守り恵を以て人を棄て給はず恩を以て他を憐み給ふ、陰徳既に時到りぬ、若し思召立ち給はゞ誰か背き申すべき、禅秀又同意仕る程ならば東国の輩一味の人諸国にあるべく候、早く秘計を廻らし給へ、と申しければ満隆軈て領掌ある。禅秀大に喜び虚病を構へ出仕を止め満隆の廻文に禅秀己が状を添へて竊に東国に触れ廻らす。同意の輩には、千葉新介・新田・岩松・澁河左馬介・舞草太郎が一類、倉賀野を始めとして武州に丹党・荏原・蓮沼・別府・玉井・瀬山・瓶尻、甲州に武田、信州に小笠原、豆州には狩野の一族、相州には曾我・中村・土肥・土屋の輩、常州には名越一党・上総入道・佐竹の一族・小田太郎・常陸大掾・小栗左近丞、野州には那須・越後入道・宇都宮左衛門尉、奥州には葦名・白川・田村・石川・南部・葛西の輩、篠川殿を大将として御館に馳せ集まる。御所中の侍には木戸内匠助・伯父二階堂・佐々木の一族に与す。同十月二日の夜、新御堂満隆・乙御所持仲、忍びて御所を退出し西御門宝寿院に入り給ふ。軍兵馳せ違ひ上杉入道の館に集まることは百余騎、禅秀大将として持氏の御所を囲み鬨の声を揚げ門を打破り塀を乗越して殿中に攻入りけり。持氏は宵の酒宴に沈酔して前後も知らず伏し給ふ。近奈良云木戸将監は物具すべき暇もなく太刀計押取り広庭に走り出でつゝ込入り寄手三人を切伏せ残る者共を門の外に追出す。其間に持氏は上杉安房守憲基が佐介の亭に入り給ふ。相従ふ人々には一色兵部大輔・同子息左馬助・次男左京亮・故讃岐守が舎弟掃部助・同甥左馬助・龍崎尾張守・同嫡子伊勢守・早川左京介・同舎弟下総守父子・梶原但馬守兄弟・印東次郎左衛門尉・新田四郎・那波掃部助・嶋崎大炊助・海上筑後守・同信濃守・梶原能登守・江戸近江守・三浦備前守・高山信濃守・今川三河守・同修理亮・板倉式部丞・香河修理亮・畠山伊豆守・筑波源八・同舎弟八郎・薬師寺常陸介・佐野左馬助・二階堂・小瀧・宍戸大炊助・同五郎・小田宮内少輔・高瀧次郎、都合五百余人、御所中に集り防ぎ戦ふ。寄手叶はずして四方に靡き散りて禅秀が館に引退く。持氏のおはします憲基が亭へ馳せ来る人々には上杉修理大夫満朝・長尾出雲守・大石源左衛門尉・羽継修理亮・同舎弟彦四郎・安保丹後守・長井藤内左衛門尉、其外木部・寺尾・小幡・白倉・加沼・金子・金田。刀石の輩、我も/\と馳せ集る。五千余騎になりたり。禅秀は、既に持氏御所を落ちて佐介の亭に入り給ふと聞きて人数を点検するに七千余騎なり。之を以て押寄せ戦を一挙に決し憤を片時に散ぜんと同十月四日辰の刻に佐介の亭へ押寄すると聞えしかば、上杉憲基、さらば諸口に人数を出して防ぐべしとて方々の手分をぞ致しける。浜表法界門へは長尾出雲守入道郎従二百余騎、上杉安房守憲基が手勢百騎を差添へて向はる。海小縄小路へは佐竹左馬助義憲二百七十騎にて向はる。薬師堂面へは結城弾正少弼二百余騎にて向はる。無量寺口へは上杉憲光が男蔵人憲長百七十騎にて馳せ向ふ。気生坂へは三浦介手勢義百騎、相州在々の狩武者五十騎を率して駈向ふ。扇が谷へは上杉伊予守顕定が子息弾正少弼・同男治部少輔持定四百五十騎にて固めたり。残る軍兵は諸方の攻口弱からん方へ加勢の為とて佐介の館に止め置かる。新御堂満隆は五百余騎にて宝寿院を打出で若宮小路に陣を張り旗の手を山風に翻し甲の星を並べて控へらる。千葉新介・同嫡子修理大夫・同陸奥守・相馬・大須賀・原・円城寺の兵共は米町表に陣を取る。佐竹上総入道・嫡子刑部大輔・二男依上三郎・三男尾張守・土佐美濃守・三河五郎は浜の大鳥居より極楽寺口に押寄せたり。大縣入道禅秀が陣には嫡子中務大輔憲房・失せすぎ修理亮氏顕、郎等には千坂駿河守・子息三郎・岡谷豊前守・嫡子孫六・次男弥五郎・同従弟式部大輔・恒谷入道・同舎弟平次左衛門尉・蓮沼安芸守・石川助三郎・加藤将監・矢野小次郎・長尾信濃守・同子息帯刀左衛門尉・坂田弾正忠・小早川越前守・同甥孫六・矢部伊勢守・嫡子三郎・其外臼井・小櫃・大武・沓係・太田・神田・秋本・神崎・曾我・中村の一族一千七百余騎、鳥居の前より段々に東に向ひて陣を取る。同六日の巳の刻に禅秀が軍兵共五百余騎六本松に押寄せ上杉霜台四百五十余騎にて扇が谷より出で岩松・澁川が兵と相戦ふ。上杉方の家人、上田上野介・疋田右京亮討死す。霜台安からず思ひ一陣に駈出で、続けや者共、と下知しけれども後より崩れ立ちて霜台深手を負ひける故に力なく引退く。禅秀之を見て大に勇み勝に乗つて岩松治部少輔に手勢を添へて気生坂に押懸る。持氏は、上杉弾正氏定手負ひたりと聞き給ひ新手の加勢を遣すとて御馬廻に梶原但馬守・海上筑後守・同信濃守・椎津出羽守。園田四郎・飯田小次郎に二百余騎を差添へて坂口に向はせらる。勢ひ懸りて勝に乗つたる岩松が軍兵共、之を物ともせず坂の上を追下し駈上り半時計り戦ふ間に梶原・椎津は敵に組まれて討死す。其外の兵共、皆疵を蒙り終に気生坂をば攻破られ園田・飯田・海上は無量寺に引退き上杉蔵人憲長が陣と一つになりて防ぎ戦ふ。憲長が家来大庭式部丞を始めて五十六騎討死す。岩松・澁川が兵、国清寺に火を懸けゝれば味方の諸軍煙に咽び火に迷ふ。江戸近江守・畠山伊豆守以下の諸大将三十余人討死す。軍兵共は右往左往に落ちたりけり。余煙四方に満ちて佐介の亭に燃え懸り左馬頭殿は後の小川より出で極楽寺に退き肩瀬・腰越の汀を経て相州小田原に落ち給ふ。土肥・土屋が兵共出向うて前を支へ後を切つて鬨を作り屋を入懸けたり。一色兵部大輔・同左馬助・今川三河守討死す。同七日の暮方に左馬頭持氏は箱根に落着きて別当刑部少輔案内者として伊豆の名古屋に至り草堂に入り給ふを狩野介聞付て走湯山の大衆を語らひ押寄せて討ち奉らんとす。木戸将監を始めて二十余人防ぎ戦ふ。今日終日の疲れに心ばかりは猛しと雖、力撓み足もとをりければ内に引入り堂に火をかけ各々腹掻切つて死にければ其間に左馬頭殿は管領憲基・佐竹左馬介義憲、僅に七人になりて駿州大森が館より山深く分入りて国司今川上総介を頼みて瀬名の奥、安楽寺に落着き給ふ。管領憲基・佐竹義憲は越後を指して赴きけり。

  

   十一 持仲満隆不和附佐竹義憲出張

さる程に新御堂殿は、我れ既に此大事を思ひ立ちて漸く本意を遂げたり、鎌倉の管領の事、誰か争はん、と手に握りて思はれけり。持仲は又、我こそ故左兵衛殿の嫡子なれば関東の事は相知るべきなり諸将諸侍我旗下に属すべし、と奢心の付きしかば、満持と持仲と、それとはなしに互に隔つる色あり。持仲既に大名諸侍に向ひて無礼なること多かりしかば一味同心の輩相反きて先非を悔えて持氏方に属するもの多かりけり。十一月廿一日、上杉伊予守憲盛、既に大将乙御所持仲を具足し武州に発向せられし所に東一揆・江戸・豊島・二階堂下総入道、各持仲公に属しければ従ふ輩皆ぬけ/\に落失せて陣中物寂しくなりにければ此にては中々敵退治の謀叶ふべからずとて持仲・憲盛は軍を引きて入間川より鎌倉に帰られたり。持氏は瀬戸の奥より飛脚を以て京都将軍家に告げられたり。管領憲基は越後より早馬を立て京都に申訴へらる。将軍義持公聞き給ひ、東国の騒動すること且は国家の大事なり、早く加勢を遣して左馬頭を鎌倉に安堵せしむべきなり、とて山名・宮内少輔時煕に三千余騎を差添へて向はせらる。佐竹左馬助義憲は同十二月十五日越後を立ちて同十九日臼井坂を越えて上州に赴き那須・宇都宮が一族と相戦ふに京勢大軍にて下ると聞きて那須・宇都宮崩れ立ちて四角八方に別れて皆散々になりたり。之より上州近辺の者共降参して持仲・禅秀を反きしかば道開けて心安く信州に発向す。

  

   十二 持仲満隆禅秀一族自殺

新玉の年立返り昨日に変らぬ空の景色も珍かなる春を迎へ白雪は未だ溶けざれども霞は山に棚曳き千歳を祝ふ元三の朝家々屠蘇を酌むと雖、満隆・持仲は反くもの多しと聞きて更に安堵の思なし。同廿四年正月朔日に禅秀が一族を先として都合一千七百余騎鎌倉を立ちて同五日世谷原に着きて陣を取る。南一揆・江戸・豊島の者共、爰に出向ひて暫く戦ふと雖、僅に百余騎入替り新手もなく終日戦ひ暮らしければ味方若干討たれて江戸・豊島の輩、戦は之に限るべからずとて夜に紛れて落失せたり。持仲・禅秀、門出よしと喜び軍兵を招きて佐竹を討たんと相計り先づ人馬の足をぞ休めける。陣を取固めて馳せ来る味方を相待ちける所に岩松四郎頼氏が一族大に戦功あり度々の軍に先を駈け当る所敵を靡け備を破り武勇既に諸軍に越えて目を驚かしければ持仲も禅秀も此人に過ぎたる忠戦のものなしと思はれたり。是に依つて岩松甚だ奢る心付きしかば諸将同心の輩に無礼緩怠の有様傍若無人なり。澁川左馬助・舞木太郎の諸将之を目覚しく思ひて、此軍の勝利我一人に在りと鼻の先蠢くこそおかしけれ、大将持仲・禅秀も我等が戦功を外になし岩松一人を世になき武勇者と思はるゝ事こそ安からね、とて諸将諸侍皆岩松を嫉みて不和になり戦の評定にも出合はず。同九日の卯の刻に旗の手山風に靡き明白む横雲に閃きて押来る。禅秀之を見て、あれは敵か但味方の加勢の馳せ来るか、といふ程こそありけれ、佐竹左馬助一千五百余騎を率して押寄せ二手になりて鬨の声を上げたり。岩松・倉賀野・別府・玉井・曾我・中村の兵共、すはや敵の寄せたるは大将はたぞ、と問ふに、佐竹左馬助なり、と聞きて取る物も取あへず馬に鞍を置かせ物具を固め我も/\と進み出で敵味方相懸りに懸りて打合ひ攻合ひ散々に戦ふ。佐竹が先陣五百余騎開き靡き八十余騎討たれてさつと引く。二陣駈出でて入替り半時ばかり戦ふ。別府・中村手を負うて引退く。曾我・玉井打立てられて引色になる所を満隆の郎従金子左近太郎大長刀を水車に廻し向ふ敵三騎を薙伏せ七八騎に手を負はせたりければ之に辟易して進み兼ねてぞ見えたり。佐竹此由を見て四尺一寸の大太刀を抜いて真先に駈出で金子を目蒐けて馳せ来る。金子、佐竹を目に蒐けて、あはれ敵や、と待かけ長刀を取延べ馬の諸膝薙がんとしたりけるを佐竹心得て金子が右の脇を乗り抜け手綱を返すかと見えし所に如何したりけん金子が甲の鉢を健に打たれ目昏れ心消えて長刀を杖に突き立竦みなりて既に討たれんとしける所に禅秀此由を見て、金子討たすな者共、とて手勢百余騎抜き連れて懸りしかば、佐竹が軍兵進みて懸合ひ入り乱れて戦ふ。或は組んで首を取り或は組まれて首を取られ手負を助けて横切に引くもあり之を追懸けて打止め又は引返して打取り馬煙空に廻りては土風の微塵を吹立てたるが如く太刀の鍔音鬨の声山も崩れ地も動く計りなり。鞍の上空しき放れ馬共、禅秀・持仲の陣中に走り入り佐竹が兵の鉾先には手に/\首を貫きて差上げたり。これは如何にといふ程こそありけれ、持仲の旗本より崩れ立ちて軍兵散々に落ちて行く。佐竹之を見て、すはや味方打勝つたり進めや兵共、とて真先に駈けて攻立つるに後をも見返さず我れ先にと逃げ散りければ、持仲も禅秀も心ならず引立てられ鎌倉を指して退き帰りて口々を固めんとするに軍兵散々に落失せて手分をいたすべき様もなし。其間に佐竹、軍兵を進めて鎌倉に押懸り四方に手配して口々に切塞ぎ一人も漏らさじと取固めしかば近国の武士馳せ加はり軍兵は雲霞の如し。鳥ならば空を翔りても遁るべく魚ならば水を潜りても逃ぐべきを、岩を擘き地を穿つべきやうもなし。持仲・満隆・禅秀以下、男女僅に百余人雪の下に集まりて湛水の魚の如く近付く命を松風の梢を渡る音までも、あはや敵よと胸を冷し額を合せて泣くより外の事なし。満隆仰せけるは、弓矢取る身の家に生れ思立つ事の本意を遂げず利を失ひ軍に負けて死すべき所に死を遁るれば汚き恥を見るといへり、昨日の軍に討死すべかりしものが一日の命を惜みて此まで引返し味方の兵とては悉く落失せ敵はや四方より攻め近付くと見えて鬨の声只此処許に頻に聞ゆ言甲斐なき者共に生捕られ尸を馬蹄の叢にさらし恥を死後の人口に残さんことも口惜しく覚えたり、敵此一所に限るといはゞ打払ひ切抜けても落つべし、今は諸国諸侍等反きて誰か落人を恵むものあるべき、爰にて爽に腹切つて恨を泉下に報ぜん、と宣へば禅秀申しけるは、御運漸く傾き滅亡の時既に近きに在り、是れ天理の来る所更に謀の拙きにあらず、舞木・澁川等の者共は皆敵に属し曾我・中村等は落失せたり、頼み切つたる岩松・倉賀野だに跡をも見せず成行き候へば今は誰を頼みに何をか待つべき、一方を打破り落行き候とも向ふ所は御敵となり御力を合すべきものはあるべからず、雑兵の手にかゝらんよりはたゞ御自害あるべし、死して物知ることあらば恨は終に報ずべし、敵はや乱れ来れり、禅秀御道しるべ申さん、とて腹掻切つて伏したり。同嫡子憲盛生念二十九歳次男五郎憲春続いて自害しければ鶴が岡の別当僧快尊極楽寺の僧禅■僅のニンベンが王/皆禅秀が末子なりければ出家なれども謀叛人の子といはれ如何なる憂目に遭はんことを恐れて同じく腹を切りにける。満隆・持仲之を見給ひ刺違へて伏し給へば女房達姫君などは奥深く住み給ひて斯る事は未だ見慣れぬ憂目に今の別れの悲しさ恐しき中に取集めて夢現とも弁へず声を限り泣叫ぶ有様譬へていはん方もなし。長尾兵庫助氏春申されけるは、女性の御身は苦しかるまじ敵の中を通り給ふとも殺し奉る迄の事は候まじ、何方へも紛れ行きて片辺土に御身を隠し暫く世の鎮まらん程を待ちて都へ忍び上り給はゞ所縁の人々争でか見棄て参らすべき我等も自害いたすべければ爰におはしまさば敵の参りて重ねて見苦しき事もこそあるべきに疾く/\何方へも立忍び給へ、と涙と共に申されしかば満隆の北の方の宣ひけるは、此折節幼き女童を引具して見も知らぬ辺に立迷はゞ誰か其方様の妻や子供と思はざらん又日頃知りたる人の許へ忍びて宿り侍らば敵聞付て捜し出され我身の恥を見るのみならず幼き子供の憂目に遭はんも心憂かるべし、たゞ爰にて刺殺し世を秋風の露の命を元の雫となしてたべや、とて女房達は長尾が鎧の袖に縋り給へば、さらば此上は力なし西に向ひて念仏申し給へ、とて十八人の女房達を引寄/\刺殺し参らせ我身も自ら首掻落し北枕に伏しければ、其外の輩、或は腹を切り或は刺違へ皆重なり伏したり。血は席下に溢れ漫々として河を流し尸は地上に横り累々として墳を築く。満隆・持仲の親族五十七人、上杉禅秀が家族四十二人、男女合せて九十九人一時に草上の露と消えて泉下の鬼とぞなりにける。此日如何なる日ぞや、応永廿四年正月十日、持仲・満隆・禅秀が一家速に滅亡して持氏日来の蟄懐忽ちに開き給ふ。勝敗其地を代へ栄枯其所を改めたり。世の変化こそ量り難けれ。

  

   十三 岩松治部大輔被誅戮

同十七日、左馬頭持氏鎌倉に帰り入りて浄知寺に宿し給ふ。上杉安房守憲基管領職に還任し佐竹左馬助義憲に軍功の賞行はれ評定の頭人とせられしかば、武功といひ権威といひ由々しくぞ見えたる。梶原美作守入道奉行として御所の傾廃を修理し同四月廿八日御移徙あり。此の日憲基執事職を辞して豆州三島に引籠る。斯る所に岩松治部大輔又反逆を企て禅秀与力の残党を招き集め五百余騎にて入間川の辺に出張し在々を放火し兵粮を掠め取る。舞木宮内丞は始め禅秀に一味せしことを悔み如何にもして鎌倉殿の御勘当を許され奉らばやと思ひける折節此由を聞付け別府・玉井・南部・中村が一族に触れ廻らし此度岩松を退治し勲功を顕し左馬頭殿御鬱憤を散じ奉り本領安堵せずば以来に於ては於ては悔ゆとも甲斐あるまじ早く出でて忠戦をいたさるべし、と申しければ人に隠れ世を恐るゝ輩屈竟の事なりと思ひて我も/\と馳せ集り其勢八百余騎、舞木宮内丞を大将として同五月廿九日入間川に出向ひしかば例の大逸りなる岩松治部大輔、我が武勇の鉾先は日来に見知るべきものを舞木が軍立恐るゝに足らず唯一揉みに蹴散らさん、とて五百余騎を同時に打入れ川を渡し鬨を作りて攻懸る。舞木は鬨の声を合せず態と敵を渡させ川端二町計を隔てゝ陣を備へ敵半渡しけるを見済し、どつと喚いて懸けたりければ岩松が五百余騎立つ足もなく捲り乱れ南北に散り分れ或は川に追陥められ馬人共に流るゝもあり或は鞭に鎧を合せて逃げ行くもあり、右往左往に乱れ立ちて軍の事は思ひも寄らず我れ先にと落行き命を求むるより外の心なし。折節此頃降続きたる五月雨に水嵩増り而も濁りて流れしかば瀬枕に馳せ懸り押流されて死するもあり。敵の一人も討取らず矢の一筋をも射違へず犬死するもの数を知らず。舞木勝に乗つて懸れや/\と下知しければ八百余騎備を乱し鬨を作つて懸る。岩松は主従八騎遙の川上を渡さんと浅瀬を尋ね求むる所に、中村弥五郎時員郎等二十五騎にて追つて懸り、其処を渡さんとし給ふは岩松治部大輔殿と見るは僻目か正なくも敵に後を見せ給ふものかな、と言葉を懸けられ岩松から/\と打笑ひ、一軍の大将たる者の利なくして死するは易く生くることは難し命を惜みて落行くにはあらず時の運を待つべきが為なり、とて猶静に打ちて行くを中村が郎従舟木与次が放つ矢に岩松が乗りたる馬の太腹を篦深に射させ馬は頻に跳ね上れば鎧を越して下り立ち今は遁るべからずと思ひ定め八騎の郎等を左右に立て三尺九寸の太刀を抜き真額に振翳して飛んで懸る。中村小長刀にてあしらふ。八騎と二十五騎と打合ひ切結ぶ。鍔元より火を出し

切先より血を流して戦ふ。其間に岩松は中村が家子由井藤十郎が打つて懸るを弱腰かけて車切に切つて落し其馬に打乗り獅子象のごと忿撃し当る所を幸に打落し切殪しければ岩松が勢五騎討たれ中村が兵十三騎討たれたり。舞木宮内丞遙に見て手勢百余騎にて馳せ来り岩松を中に取籠めたりければ主従四騎四角八方に切つて廻り手負死人廿四人に及びしかば舞木いふやう、只四人の敵を此大勢に取籠め切合ひ戦ふ故にこそ人数も損ずれ押並べて引組み折重なつて生捕にせよ、と下知しければ岩松聞付けて敵に組まれじと馬の足を一所にためず馳せ通り切抜け千変万化して時を移す。中村が郎等山本市之丞といふもの岩松の馬を諸膝薙ぎて落つる所を隙間なく組みたりけるを物の数ともせず山本をかい攫んで下切にせし所を舞木が兵共馳せ集り手取り足取り生捕りしかば三騎の郎等も深手あまた負うて皆敵に組まれ刺違へて死にけり。軍散じて岩松を鎌倉に参らせたり。左馬頭殿仰せけるは、武勇の力量勝れたるものなれば助け置くべしと雖、日頃己が武力を慢じて諸将に無礼の振舞をいたし猶此後は乱を起すべきものなり、とて閏五月十三日龍の口に引出され誅せられけり。

  

鎌倉公方九代記 巻六

持氏軍記中

  

   一 上杉安房守憲基病死

同廿四日、安房守憲基鎌倉に帰参し同晦日に管領職に還任す。これは左馬頭殿万事の政道を我意に任せられしかば憲基屡諫言しけれども承引し給ふことなし、是に依つて暫く職を止めて三島に籠居せられしを持氏様々怠状ありけるに安房まもりさすが忠勤を忘れずして再び帰りて国政を勤められしかば愈威勢高く関東に輝きける所に同じき秋の頃より負薪の憂に依つて起臥悩み給ひ湯薬鍼灸の治療怠なしと雖、天年の終るには耆扁が術も験を失ひ翌年正月四日終に無常の雲を分けて法性の空に帰られたり。道号は無悔、法名は海印と称す。持氏大に歎き給ひ自ら法華経を転読し南無幽霊頓生仏果と回向し給ふぞ忝き。さこそ九泉の苔の下にても懇に之をうけて歓喜の眉を開きぬらんと近習の人々随喜の涙を流されけり。

  

   二 上総国の本一揆退治

同廿六年正月八日、憲基の嫡男憲実を安房守に任じて管領職に補せらる。爰に上総国の本一揆の者共、左馬頭殿の御勘気を蒙り本領を歿収せられ様々訴へ申すと雖、先年禅秀に与せし張本なりとて御免なかりしかば一族党類怨を含み去年五月の末に反逆を起しければ一色左近将監に持氏の旗を給はり討手の大将として発向す。本一揆未だ城郭もを定めず兵粮をも用意せざりしかば叶ひ難く思ひて皆ちり/\に跡を晦して山野に隠れたり。今年正月の中頃より又蜂起して三百余人集り与し近郷の地頭代官を夜討にし米穀を掠め取りて小坂城に立籠ると鎌倉に告げ来りしかば木戸内匠助を大将として一千余騎を遣し三月三日の旱天に城の四方を取巻き攻められけるに山上堅固の城なれば容易く上難く軍兵倦みて思ひける所に大将木戸内匠助竊に謀を廻らし城中一方を固めたる寺西喜平次に内通し寄手を引入るべき企ある由隠れなく沙汰しければ城兵互に疑うて心を置合しかば始終一味して此城を守り難く思ひて同六月六日、本一揆の大将榛谷小太郎重氏降人になつて出でたりければ諸軍ちり/\になつて落失せけり。重氏は鎌倉に召され本領安堵せさせらるべきに由井の浜にて誅せられたり。降るを殺さずとこそいふに政道の苛き故に重氏誅せらる。非常の振舞行末頼もしからずと諸人唇を飜す。重氏が末子小太郎は竊に上州の山中に隠れたり。同廿八年九月上旬に甲州武田の一族、鎌倉を反く由実否を聞召さん為に吉見伊予守に五百余騎を添へて向けられ其のこと実ならば攻干して帰るべき由仰付けられ即ち馳せ向ひければ武田左馬助信長出合ひ対面して全くこれなき旨陳じ申すに由つて伊予守鎌倉に帰陣す。此月十二日若宮八幡の中の鳥居を慶讃す。同十一月十二日に円覚寺炎上す。

  

   三 佐竹入道常元父子自害附上杉憲秋三島に攻下る

同廿九年十月十三日、佐竹上総入道常元は左馬頭持氏の命に反き己が館に帰り謀叛を起さんと企てけるを管領憲実聞付けて上杉清方が長男淡路守房実は甥なり之を討手の大将として二百余騎を差添へ佐竹が館に向けらる。上総入道父子家子郎等僅に十三人防ぎ戦ふと雖、小勢にて叶はず比企が谷の法華堂にて戦ひ刺違へて死にけるこそ痛はしけれ。後に聞けば、さしたる罪科もなかりしを、左馬頭近習に佐竹入道を悪む者ありて悪く讒し申しけるを科の実否をも糺されず卒爾に討手を向けられあたら武士を失ひ給ふ。末頼もしからずと思ひ奉る人も多かりき。此事京都将軍義持公伝へ聞きて斯る振舞にては国家久しく治まるべからず関東必ず乱に近かるべし。内々憤り思召しける所に、上杉宮内大輔憲秋・同舎弟治部少輔憲朝は禅秀が末子なり。先年雪の下の族滅の日、其場を遁れ出でて京都に上り将軍家に忍びて居たりしが心ざま甲斐々々しかりければ召出されて奉行相勤めたりしにしどうる御気色の折を得て申入れけるは、左馬頭殿は父禅秀の為に讐敵にておはします其恨骨髄に徹りて忘れ難く候、恐れ乍ら父の入道が泉下の憤をも休め我等が恨も散じ申すべしと歎きければ将軍仰せけるは、鎌倉の政道正しからず関東の諸国始終穏なるべからず、されども汝が力を以て只今鎌倉亡すことは叶ふべからず若し此弊に乗りて諸将或は持氏に反き汝に力を合せんには是れ幸なるべし先づ義持は知らざる由にて竊に京都を打立つべし、と御許容あり。憲秋・憲朝大に喜び軈て江州に赴き一族下人を催しければ同意与力の軍兵一千二百騎に及べり。これより駿州沼津・千本の松原・伊豆の三島に攻下りしに鎌倉より居ゑ置かれし御家人原此日来あたりを横行し人を虐げ小目を見せて腕立しける者共一支も戦はず家に火をかけ妻子を連れて落行くもあり又は地頭代官といはれ百姓を徴つ取りて栄耀に矜り飽く迄肥え太り何心もなくて居たる輩は大軍押懸ると聞きて膽を消し周章狼狽へて妻子を取除け資財を持運ぶ山野に逃げ惑ふ。憲秋・憲朝下知を加へ村里を放火し分捕乱暴し相州に打越え在在所々に馳せ向ひ代官御家人原を捕へて首を切かけしかども如何なる故にや、鎌倉には空知らぬ体にておはしまし諸大名も出合はず又内通の人もなし。此分にては鎌倉に向はん事も叶ひ難し時を待つには如くべからず年来の鬱陶今は此迄んはりとて鎌倉の方に向ひ勝鬨どつと行ひ京都にこそ帰り上りける。

  

   四 小栗孫次郎反逆附歿落

同三十年五月廿八日、小栗孫次郎満重退治の為、左馬頭持氏三千五百余騎を率して下総国結城に発向し給ふ。去年八月に小栗満重所領の事に付きて左馬頭殿に怨を含み家人若党引連れて下総に逃げ下り結城の城を取立て兵粮を籠め要害を固くし軍勢を招きければ近郷遠所に隠れ居たる若松が残党其外上総下野の一揆原聞伝へに馳せ集り五六百人に及べり。持氏大に憤り給ひ管領憲実が舎弟上杉三郎重方に一千余騎を差添へて向けられたり。寄手既に城近く押付け陣を取りける所に城の兵追散らさんと計りて三百余人木戸を開きて打つて出でたりけるを島崎大炊助が軍勢二百五十騎馳せ合せて戦ひしが城兵散々に駈立てられ後なる城へ引退く。寄手愈勝に乗つて押包みて城へ駈入らんとす。城中に残る兵共同時に打出で矢種を惜まず散々に射る。寄手百余人痛手を負ひ石に打たれて進み兼ねたり。新手を入替へて攻懸れば城中へぞ引入りける。寄手悉く逆茂木の際まで詰懸け垣楯かきて居たり。城兵は追籠められて首をば出ださゞれども要害厳しき城なれば寄手打入るべきやうもなく塀を隔てゝ垣楯を界ひ矢軍して日を送る。城中之に気を屈して穴に籠りたる鼠の如く籠の中の鳥に似たり。木戸を固めたる臼井五郎いひけるは、余りに寄手の詰懸けて物姦しきに一夜討して膽潰させん、とて志同じき輩を誘ひ廿七人或夜雨風烈しきに城中より忍び出で香河修理亮が陣屋に火をさし鬨を作りしかば、すはや城中より打つて出でたるは、とて寄手騒ぎ立ち上を下に返し馬よ物具よと犇めく間に、火の子飛散りて陣屋々々に燃え付き烈しき風に吹しきければ煙に咽び火に惑ひ打消さんとし防がんとする程に敵の多少をも知らず味方の軍兵をも弁へず当るを敵として同士討をぞいたしける。臼井もさすがに小勢なり、さのみに深入して跡を取切らるゝな、とて陣屋陣屋に積置きたる兵粮少々取りて静に城へぞ入りにける。寄手之に懲りて攻口を寛げ陣屋を淋しく構へて用心をぞいたしける。剣にて舷を刻み兎逃げて株を守るかな、と笑はぬ人はなかりけり。左馬頭持氏聞き給ひ、安からぬ事かな千騎に足らぬ寄合武者の籠りたるに城を攻倦み年月を重ぬる不覚さよ宇都宮左兵門尉持綱・真壁新七義成、内々小栗と同意し桃井下野入道・佐々木隠岐入道、一味与力すと聞ゆ。此等若し後詰をいたさば由々しき大事たるべし持氏直に馳せ向ひ一尅に攻干さん、とて鎌倉を打立ち城に着くと等しく同時に鬨を作り潜き連れて攻上り城に跳ね入らんとする所を城兵矢種を惜まず散々に射出し大木五六を切つて落しければ寄手の先陣二百余人木戸を開き突いて出でつゝ四角八方に追捲りしかばむら/\に崩れて大将左馬頭殿の旗本に頽れ懸る。新手八百余騎どつと入変り二百余人を中に包み半時計り戦ふ。城兵残り少なく討たれて東を指して落ちて行く。寄手之には目も懸けず木戸を打破り逆茂木を打倒して込懸けしかば城兵防ぎ兼ねて引入りければ押続きて攻入り小屋に火をかけしかば城兵火に惑ひ防ぐべきやうもなく我れ先にと落失せければ大将小栗孫次郎は家子竹之丞に子息小次郎を預けて城を落し我身は腹掻切つて煙の中に伏しにけり。討死したる城兵の首百八十七を切かけ、それより直に宇都宮を退治せんとて赴き給ふ所に持綱既に逐電す。塩谷駿河守聞付けて跡を追うて甲州に至り難なく持綱を討つて首級を左馬頭に送り参らせけり。桃井・佐々木は生捕られて誅せらる。八月十六日、左馬頭凱陣あり。野州総州暫く治まり物静になりにけり。

  

   五 京都鎌倉御合体

さる程に左馬頭持氏は京都将軍家に上杉禅秀が子供を抱へ置かれ関東を嫉み思召す由聞き給ひ大に憤を含みて御仲不和になり京都鎌倉水火の相尅に及ばんとす。京都の管領畠山尾張守満家申されけるは、鎌倉若し背き給はゞ関東は定めて左馬頭殿に属すべし然らば今の世の人の心は野に棲む小鳥の粟につき稗につき彼方此方とさまよふ有様なり諸国の大名其中より一味することあらば由々しき国家の乱となるべし、たゞ無事を作りて御和睦し給へかし、と申されしかば、此儀然るべし、とて同三十一年三月三日照西堂を鎌倉に下され兎角申されしかども持氏更に許容の色なく五月上旬に帰京し重ねて九月八日又関東に下向し上杉憲秋兄弟が事向後知行を召放たるべき由仰遣さる。左馬頭之に依つて和睦の事相整ひ照西堂上洛の次に江戸近江守を使者として京都将軍へ拝礼の儀をいたし給ふ。奥州稲村の御所満直も恨を隠し憤を抑へ十一月十一日鎌倉に上りて持氏に和睦し泰安寺に居住し給ひければ京都鎌倉一家等しくいとめでたくぞ侍る。

  

   六 鎌倉所々失火附武田信長降参

同三十二年二月廿九日、極楽寺炎上す。同九月八日の夜、鎌倉の御所回禄す。去年正月廿五日には浄妙寺炎上あり。此頃鎌倉の谷々毎日失火ありて人の心更に穏ならず。水を酌み資財を取除け昼夜用心に隙なし。是れ唯事にあらずとて鎮火の御祈祷あり。後に聞えしは諸方の盗賊集りて所々に火をかけ物を取るとかや。同三十三年六月廿六日、武田左馬助信長、甲州の府に出張す。其勢五百余騎には過ざりけり。去年八月中旬、武田の一族等鎌倉を反くと聞えしかば上杉淡路守房実に仰せて左馬頭殿の幡を給はり一千余騎を率して甲州に赴きしかば武田山深く引籠りて跡を晦ましければ淡路守力及ばず要害を破却して帰られたり。此頃又人数を集め要害を構へて出張す。此事鎌倉に聞えしかば時日を移さず蹴散らせとて一色刑部少輔を大将として一千余騎を差下され七月上旬に甲州に発向す。八月朔日武州白旗一揆六百余騎にて一色に馳せ加はる。其外近郷の武士五騎十騎にて馳せ付きしかば軍勢雲霞の如く満ち重なる。之に気を呑まれて武田が軍勢共皆ぬけ/\に落失せ今は家子郎等より外には頼むべきものもなし。右馬頭信長叶はじと思ひて旗を巻き弓を伏せて降人になり一色が陣に来る。刑部少輔大に喜び武田を召連れて鎌倉に帰る。左馬頭即ち武田が本領相違なく下され罪過を許し給ひければ右馬頭先非を悔えて従ひ奉り他念なくぞ見えにける。

  

   七 村上小笠原確執附巷説に依つて鎌倉騒動

同八年、信濃国の守護小笠原大膳大夫入道と村上中務大輔と境目を論じて確執に及ぶ。互に刀をyぎ鏃を磨き憤を散ぜんとす。村上は年来鎌倉に志を通じ若し御大事あらば抜群の忠を尽し参らせんと申しけるを持氏深く頼み思ふ故にや桃井左衛門尉に上州の一揆、武州の新一揆を差添へ村上に加勢して信州に赴かしめらる。管領憲実之を聞きて持氏を諫め申しけるは、信州は京都将軍の御分国なり小笠原を以て守護人となされ居ゑ置かれ候上は村上之に敵対いたすこと且は将軍家に向ひて弓を彎くに同じきものなり之に同意して鎌倉より加勢を遣されんこと然るべからず上州は憲実が領国にて候、彼一揆の軍勢を催して出陣いたさば憲実も又村上が二の舞なるべし、とて即ち国中に相触れ上州より軍兵一人えおも出さゞりしかば持氏安からず思ひ給ひしかども怒を抑へて其事延引せり。同九年六月に重ねて小笠原退治の為に上杉陸奥守憲直を大将として武州本一揆の勢を差向けらるべき沙汰あり。如何なる魔王波旬の所為にやありけん。今度持氏の仰として軍勢を催促し給ふこと全く小笠原退治の為にあらす。管領憲実を討たんとの結構の由披露しければ管領家の被官与力の輩は老若をいはず我も我もと鎌倉に馳せ集まる。いひ伝へ聞き伝へ、すはや大事の起りけるぞとて上を下に持て返し騒動すること斜ならず。同七日の夜に入て持氏竊に憲実が宿所に入り給ひ努々斯る企はなし、たゞ是れ巷の浮説なり其事、実ならば持氏を人質に取りて如何にも計らはれ候べし、と

余儀もなく陳じ給へば、憲実も、更に恨を存ずべき道なし、たゞ讒者の所為なり、と申されしかば持氏御所に帰り給ふ。軍勢は皆本郷に帰り散りたり。上杉陸奥守・同嫡子淡路守は管領の心中計り難しと思ひて鎌倉を出でて藤沢に退去す。憲実猶未だ心解けず。同七月廿五日、嫡子亀若丸生年七歳なるを忍びて上州に下向せしめ世の変を窺はる。此度讒者の張本一色宮内大輔直兼、鎌倉に怺へ兼ねて一族郎従を打連れて三浦を指して引退く。管領憲実の家人大石石見守憲重・長尾左衛門尉景仲は今度騒動の本人なり、持氏の御気色未だ歪り給はず定めて嫉く思召すらん、此両人は管領の家を暇申して鎌倉を退き出で然るべし、と沙汰しけれども憲実は空知らずして愈大石長尾を憐れまれしかば始め沙汰しける人々も恐れてぞ思ひける。同八月十三日の夜、持氏重ねて管領憲実の宿所に入り来りて遺恨別心なき由仰出され執事職元の如く勤めらるべき旨頻に仰せ宥めらる。憲実固く辞し申すと雖、再三に及びしかば力なく領掌し申されけり。然れども武州の守護代に付きて施行の事ありしかども管領の判形に及ばず心底は未だ解けやらずと諸人口にはいはざれども危み思はぬものはなし。

  

   八 将軍義持公薨去(付)義教公任武将

京都前将軍従一位内大臣義持公は去ぬる応永三十年二月に征夷大将軍の職を辞退し御息義量に譲り参らせ四月上旬に御飾を落し世を遁れて静に行ひ澄まさんと思召しける所に同三十二年二月廿七日に義量公世を早くしたまふ。御年未だ十九歳道号は鞏山法名は道基長徳院と称し奉る。僅に莟める梢の花綻び出づるをだに待たずして忽に一朝の嵐に誘はれたまふ。思の外なる御歎きを残し置かれ面影のみ世の筐となりにけり。天下の憂爰に極まり宛ら燈火を打消したる心地ぞする。義持公は並べて御代を譲らるべき御子だにおはしまさず御歎きに沈み給ひ此上は鎌倉左馬頭持氏の嫡子賢王丸を養子として天下の権政を譲与あるべきかと内評定ありけれども管領畠山尾張守満家を始めて山名赤松以下の諸将、此儀然るべしとも思ひ寄る人なし。兎角して月日重なり義持公御物思ひの積りにや御病気に取結び正長元年正月には頻に重く悩み給ひて今ははや此世の頼みも少なうぞおはします。同十七日管領畠山満家石清水に参籠し丹誠の懃行をいたし申されけるは、抑源家相続の事今日神慮に任せ奉らん鎌倉の公方持氏の嫡子賢王丸を迎へて義持公の御養子と定め幕府の御世嗣にいたすべきや又義持公の御舎弟青蓮院の門主義円僧正を還俗せしめ奉り柳営の御世嗣にいたすべきや、と宗廟の神徳霊儀の応験を仰ぎ奉る所なりとて御鬮の三度同じく顕はれけるこそ不思議なれ。下向の後議定して諸将皆神慮の指す所に任せ奉らんと一決す。翌日午の刻義持公既に逝去し給ひけり。同三月十二日に義円僧正を還俗せしめ奉り義宣とぞ号しける。前将軍義持公には同母の御舎弟なり。始め青蓮院門主に入りて出家し給ひ義円と号し奉り天台四明の法水を酌みて自解仏乗の妙理を窺ひ止観三諦の教門を開き諸法実相の深意に達し内外二典に通じ神歌両道を学し一山の明師となり給ふべき御身なりければ君限りなく信敬まし/\大僧正に任じ准后の宣旨を蒙り門主の列に入りて天台座主となり給ひければ俗性といひ綱位といひ今還俗し給ひて天下の権を執り給ふに何の不足おはしますべき。軈て陣座の宣下あり。小除目行はれ従五位下に敍し左午頭に任ず。今年三十五歳なり。斯波左兵衛督義淳再び管領に任ぜられ京都いつしか賑ひ諸将各喜をなす。永享元年三月十五日参議兼左近衛中将に任じ征夷大将軍に補せられ御名を義教と改めらる。権大納言に任じ従三位に敍せらる。御舘出仕の輩奉行頭人の作法猥がはしきを削り外様伺公の族大名諸将の行跡ばさらを戒め給ひしかば自ら正道に復し皆篤実に帰しければ礼義行はれ風俗整ひ淳厚静謐の世とぞなりにける。
 

   九 京都鎌倉確執(付)管領憲実叛持氏

将軍義教公既に世を嗣ぎて天下の政道を執行ひ給ふに及びて鎌倉の左馬頭持氏怨を含み京都に反く心あり。其上基氏逝去の後、彼の遺言に任せて氏満満兼持氏皆京都に上りて元服し将軍家御諱の一字を給はる事なりしに持氏の嫡子賢王丸殿元服の沙汰あり。既に京都鎌倉確執す。将軍家に付きて頼むべきことにもあらず其外には日本国中に我家の烏帽子親にすべき人なし古八幡太郎義家の佳例に任せん、とて鶴が岡の八幡宮に赴き賢王丸を御宝前に於て加冠せしめ義久と名付け給ひけり。執事上杉憲実深く恐れ奉り、此事将軍家聞召し候はゞ当家の御為行末宜しかるべからず、たゞ枉げて京都に上せ奉り元服なさるべし、と屡諫言いたしけれども左馬頭殿更に承引し給はず却て憲実を疎み給ひしかば八月十四日安房守は鎌倉山の内の家に明退きて上野の白井といふ所に移りしかば扇が谷上杉治部少輔持定が子上杉修理大夫持朝同左馬助憲光が次男憲信其外永井三郎入道小山田小四郎那須太郎以下跡を尋ねて上州にぞ行き加はる。持氏愈怒つて憲実を誅伐すべき企あり。関東諸国召に応じて参り集ふ。軍勢鎌倉に満ち満ちたり。上杉陸奥守憲直同子息淡路守憲家一色宮内大輔直兼は時到りぬと喜び皆鎌倉に帰参せしかば左馬頭持氏即ち一色宮内同刑部時家を先手の両大将として三千余騎上州に差向けられ同十六日持氏五千余騎を率して鎌倉を打立ち武蔵国高安寺に陣取り給ふ。安房守憲実之を聞きて、さては力なし家の安否天下の大事爰に在り、とて早馬を立てゝ京都に訴へければ将軍大に驚き給ひ奏聞を遂げられ持氏追討の綸旨を申給はり御教書に添へて諸国に遣し鎌倉退治の為府不日に軍勢を催し上杉入道禅秀が次男中務大輔持房に義教公の御旗を給はり小笠原信濃守政康今川上総介範忠武田太郎信重朝倉小太郎教景等に諸国の軍勢二万五千余騎を差添へて八月下旬関東に差向けらる。其間に横地勝間田が一党伊豆国の守護代寺尾四郎左衛門尉具重等一味同心の輩二千余騎京都に先立ちて軍忠をいたさんとて箱根を越えて攻下り水飲の宿に陣を取る。持氏の家来大森伊豆守此由を聞きて箱根の別当家に語らひ七百余騎にて馳せ向ひ鬨の声を上げたりければ寺尾四郎左衛門尉敵小勢なりと侮り鬨を合せて打つて懸る。予て計りし事なれば足軽を出して防ぎ矢少々射させ暫し挑みて戦ふと見えしが弓を伏せ旗を巻きて引退く。寺尾勝に乗つて、進めや者共、と下知して追うて懸る。大森伊豆守寄手を思ふ図に引入れ殺所に待ちうけて返し抜連れて切立てければ寺尾横地が軍兵進まんとすれば坂中嶮しく足立かたくじけなり。退かんとすれば敵頻に攻め付くる。進退度を失ひたる馬人いやが上に重なり谷底にまつれ落ちて己が太刀長刀に自ら貫かれ死するもの数を知らず。横地且又討たれて大森深手を負ひたり。たま/\遁るゝ者共疵を蒙らぬはなし。物具太刀刀を棄てゝ命ばかりを助かり這々逃げて帰りし有様は見苦しき負をぞしたりける。京勢大軍にて攻下ると聞えしかば左馬頭持氏さらば大森に力を合せて防ぐべきなりとて上杉陸奥守憲直を大将として宍戸備前守海老名上野介二階堂が一族安房国里見が軍兵等都合三千余騎を遣されたり。九月廿七日相州の早川尻にして永井三郎入道小山田小四郎以下一千余騎にて後より押寄せけるに仰天して備を立直さんと犇く間に鬨をどつと作りて魚鱗になつて突いて懸る。宍戸海老名駈立てられて大将上杉憲直が備の中に逃げ込みしかば軍兵共散々に落ちて行く。憲直が家人肥田勘解由左衛門蒲田弥次郎足達萩窪以下防ぎ兼ねて討死し残る兵共は四角八方に分れて上杉利を失ひ鎌倉に逃げ帰りける。持氏安からず思ひ給ふと雖、傾く運の習として謀も図に当らず向ふ所に勝利なし。持氏即ち高安寺の御陣を相州海老名の道場にぞ移されける。
 

   十 千葉介胤直心替(付)三浦介時高退鎌倉

千葉介胤直は左馬頭殿に付従ひ忠義を存ずること今に於て改変なし。而も多勢の大名なりければ誠に股肱の勇士爪牙の謀臣一方の守ともなるべかりし人なりと諸人各頼もしき事に思ひける所に忽に心替して京都の寄手に属しけることうたてけれ。其故を尋ねるに同廿九日の夜胤直竊に持氏の御陣に参り諫め申しけるやう、抑此乱逆の起は君讒人の毒言を信じ管領憲実を悪み出で給ひしより軽々しく軍を起し国家の責労を顧みず実義の忠臣を疑ひ賞は少なく罰は強く仁慈を忘れて猛威を逞しくし政道を我意に任せ人望に背き給ふこと此年来に及びて重畳し給へり君願はくは今より御心を改め憲実を召返され怒を抑へて彼が憤を宥め給はゞ軈て和睦あるべし旁以て国家の長久諸人の喜悦は何事か之に勝るべき然らば胤直不肖の身ながら管領憲実の方に向ひ如何にも無事を作り候べし此分にて候はゞ味方は日に添へて耗散し敵は時を追うて大軍となり家連立所に傾敗いたすべきにて候、とぞ申されける。持氏仰せけるは、当家譜代の陪臣として累世恩顧の主君に背き弓を彎き楯を突く憲実が結構既に天理に違ひ地道に外れたり剰へ京都に訴へて讒を飾り持氏が一家を亡さんと企つること前代未聞の悪人に非ずや天道神明誠あらば憲実が首必ず我が前に来るべし彼に与力して陣を張り功名を顕さんとする奴原是亦賊を救ふ奸盗なり非を助くる逆党たり一々に首を刎ね獄門に曝さんこと踵を廻らすべからず又京都より討手の下るといふ各聞怯して逃落つる輩は、たとひ味方にありとても足なへ腰ぬけて軍の用には立たぬものぞや大軍攻下らば難所に引うけ追崩さんには長途に疲れたる上方勢何の恐るゝ所ならん然るに胤直頗る我を諫めて憲実に怠状せさせ弱味を顕はして世の笑草にせんとや計られ候らん当家の運命傾くべしとは何の目に見えて斯くは宣ふ是たゞ我が家運を呪詛し給ふかと覚えて候、他念なき千葉殿にも只今よりしては心を置き候、邪推ながら敵の毒餌を食み給ひて我を諫ねられ候やらんと傍痛くこそ候へ、とぞ仰せける。胤直赤面して御前を立ち、あゝ左馬頭殿にはよく天狗のつきたりけり、と囁き乍ら我陣屋に立返り、いや/\斯様の人に与して軍をせんは風に向ひて埃を払ひ柴を抱きて火を消すが如し身に罹る災とはなるとも始終更に利あるべからず、と思案して夜に紛れて陣屋を退き己が舘にぞ帰りける。同十月二日木戸左近大夫将監持季七百余騎にて相州八幡林に陣を取る。上方の大将上杉持庵は同国高麗寺に着陣す。鎌倉中騒動して京勢只今攻入るぞやと僧俗男女上を下に持て返し財宝雑物を西に運び東に隠し南北に走り惑ひ女童の泣叫ぶ声巷に満ち小路に渡り物音も聞分かず。三浦介時高は今度左馬頭殿出陣の留守を承り御所の警固を厳しく勤めて居たりしが忽に心を翻し一族若党残りなく召連れ夜に紛れて三浦に帰りける程に御所中におはします公達を始め参らせ女房達之を聞きて何と思ひ分けたる方もなく一所にさし集ひ忍び声に泣く秋の虫の頼む草葉も裏枯れて弱り果てたる心の中譬へん方もなかりけり。
 

   十一 鎌倉兵火

同十月四日三浦介落失せたりと聞えしかば一色宮内大輔直兼同刑部少輔時宗に属せし軍兵三千余騎いつの間にか落失せけん両人が家子郎従僅に七十余騎にぞなりにける。此小勢にては叶ふべからずとて持氏の御陣に走せ参る。持氏聞き給ひ、よし/\斯る臆病者は味方に在りて足纏ひなり落ちたるこそよけれ、とは宣へど烈しき秋の夕嵐に木葉は絶えず散落ちて梢も枝も疎なる哀れぞ爰に知られける陣中殊更寂び返り透通りて浅ましく心細くは思はれけれども今は返らぬ世の中の其行末こそ悲しけれ。同十七日の微明に三浦介時高五百余騎にて鎌倉に押入りつゝ大倉犬懸の近辺に火をかけたり。上杉憲実は一千二百余騎にて上州白井を打立ちて同十九日分倍に着陣す。十一月朔日三浦介時高二階堂の一族其外上杉修理大夫持朝が被官山口市之丞等を語らひ七百余騎になりて大蔵の御所に押寄せたり。近習の輩梁田河内守同舎弟出羽守名塚右衛門尉河津三郎一色侍従佐野弥五郎を始め門を開きて切つて出で散々に戦ふ。山口市之丞は梁田河内守に渡り合うて甲の鉢を打落され大童になりて戦ひしが真額を打割られ仰様に倒れ死す。三浦介が家人水沢兵次は聞ゆる大力の健者なりしが五尺一寸の太刀を抜いて門より内に駈入り散々に切つて廻る。其切先に向ふものは諸膝を薙がれ甲の鉢を打砕かれ面を向くべきやうもなき所に御曹司義久の憐れみ飼ひ給ひける猿のありけるが主君の大事を悲み奉り御座の辺に蹲り涙を流して泣き居たりしが表に走り出でつゝさしも猛威を振ふ兵次が肩に上り両眼を掻出してぞ逃げにける。畜生なれども敵を知りて斯く振舞ひける奇特さよ。兵次は太刀を棄てゝ覚えず両眼を抱へける所を河津三郎走り寄つて内甲に切先を入れ首を打落したり。防ぐ兵は僅に二十余人攻むる勢は七百余騎新手を入変へて攻め戦ひしかば、さすが小勢叶はずして皆悉く討死す。稲村満貞御曹司義久は報国寺に落行き給ひしが敵満ち/\て追討ちければ今は此迄なりとて腹掻切つて伏し給ふ。軍兵乱れ入りて御所に火をかけ雲霞と焼き上げたり。吹迷ふ風に従ひ焔四方に飛び散り小路々々に燃えかゝり同時に焼け上りしかば煙に咽び焔に迷うて老たる人幼き人子供女童の泣き叫ぶ声上は非相の巓にも聞えつべく焼け崩れ燃え倒るゝ響は下風輪の底までも徹りやすらんと夥し。人馬に踏殺され猛火に焼け爛れて死するもの数を知らず。一業所感の因果とはいひ乍ら哀れなる有様なり。
 

   十二 長尾入道謀持氏(付)持氏生害

左馬頭持氏此由を聞き給ひ海老名の御陣を打立ち鎌倉に帰り給ふ。爰に上杉憲実が家老長尾入道芳伝八百騎にて鎌倉に赴く所に葛原の辺にて出向ひたり。持氏味方の陣を見給へば今迄は身に変り命に変らんと契約して付従ひたる軍兵共何地ともなく落失せて一千余騎と見えしが二百騎にも足らず。左馬頭殿力を落し給ひて一色持家を使として芳伝が陣へ仰遣されけるは今日上杉憲直一色直兼が讒に依つて管領憲実憤を含み軍を起す。持氏一旦之に向つて兵を催すと雖、今は此迄なり。此上は如何にも国家の政道の事憲実が心に任すべし速に軍を退け屯を解きて鎌倉に帰参さるべし、と宣ひ遣されたり。持家急ぎ行向ひて具に語りければ芳伝佯りて申返しけるは、憲実更に君に向ひ奉り野心を挟みて此軍を起すにては候はず左馬頭殿御軽々しく讒者の言葉を信じて憲実を討たんとの御企おはします由承り其難を免れん為に暫く軍兵を集め置きたる計にて候、君の御心解けさせ給ふ上は更に恨を存ずることなく候さも思召直され候には何の苦しき事か候べき君恐れ乍ら芳伝が陣中に御入候べし憲直もこれへ参られ御対面を遂げられなば別の仔細も候まじきにて候、と申返しければ持氏大に喜び給ひ何の評定にも及ばず近習の輩唯十余人を召連れ芳伝が陣中に入り給ふ。御運の末こそ悲しけれ。窮鳥入懐猟者不殺とこそいふに長尾入道軈て近習の輩を手の郎従に一人づゝ預け物具太刀刀を奪ひ取り生捕の者の如くに縛め持氏をば籠輿に乗せ参らせて次の日金沢の称名寺へ入れ奉る。同十一月五日持氏即ち称名寺に於て御出家し給ひ長春院殿と号し奉りける。一間なる所に押籠め参らせ厳しく番を居ゑ湯水をだに心の侭に奉らず。近習の人々は、芳伝に誑られぬることの口惜しさよ迚も遁れぬ命を以て討死すべかりけるものを左馬頭殿御智慮浅ましくて敵の虜となり給ひける口惜しさよ、と頭を掻きて後悔すれども甲斐なし。管領憲実が代官に大石源左衛門尉憲儀上杉修理大夫持朝千葉介胤直を大将として軍兵二千余騎葛原に押出でつゝ上杉陸奥守憲直同子息憲家同舎弟小五郎持茂一色宮内直兼父子浅羽下野守某が二百余騎にて控へたる所へ押詰めて鬨を作る。直兼憲直は今や左馬頭殿と管領と和睦の御事整ひ給ふ。御左右遅しと心を許して待居たる所に思ひも寄らず鬨の声を上げて押懸る。扨は偽にてありけり出抜かれたることの口惜しさよ、とて馬の足を一面に立並べ敵に懸り合せんとすれば兵皆散々になりて逃げ崩れ直家憲直父子郎従僅に廿八騎ぞ残りける。今は力なし手痛く戦ひて討死するより外のことなし、と思ひ定め廿八騎一手になつて二千余騎が其中に駈入り追捲り打靡け七八度駈合ひて後に駈抜けたりければ十七騎討たれて残る人々いづれも深手負ひければ、今は此迄なり猶人手に懸るな、とて思ひ/\に自害してこそ死にけれ。同十一日左馬頭殿を永安寺に移し奉り大石源左衛門尉御前に参りて御自害を勧め奉る。持氏殿は、苦しやと頼み思召しけることも只あらましの夢になりて今を限りに極まりしかば一筋に思ひ定め心静に法華経の信解品を誦じ給ひ念仏十返ばかり唱へて腹一文字に掻切り給ふ。憲儀御首を給はれば近習の輩木戸伊豆守入道冷泉民部少輔小笠原山城守平子因幡守印東伊豆守入道武田因幡守賀島駿河守曾我越中守設楽遠江守沼田丹後守木内伊勢守入道神崎周防守中村壱岐守以上十三人一同に腹を切りにけり。海老名尾張入道は六浦引越の道場に入りて自害し同子息上総介は扇が谷の海蔵寺に籠りて自害せり。二階堂信濃守は相模の御陣より逐電す。若宮の社僧阿闍梨尊仲は今度讒者の同類なりければ災の我身に来らんことを恐れて上州を指して落行きける所を軍兵共に搦め捕られ京都に引上せられ七条河原にて斬られたり。運の窮達時の否泰は天理なりと雖、而も人事の好悪に因ることなり。左馬頭持氏年来非常の御振舞既に天理に背きて鎌倉忽に歿落せし其有様こそ悲しけれ。
 

   十三 管領憲実辞職(付)一色伊予守逐電

上杉兵庫頭清方は故民部大輔房方の四男として安房守憲実の弟なり。今度の乱逆に憲実利運を得しかども本意にあらざる結構なれば世にある甲斐なきものと浅ましき事に思はれ管領職を辞し剃髪染衣の姿となり長棟庵主と号して同年の冬十一月廿日に鎌倉を立退きて藤沢に引籠る。子息は未だ幼少なりければ成長せん時迄其名代として越後へ飛脚を立て清方を招き鎌倉の管領職をぞ預けられける。爰に一色伊予守は其頃鎌倉を逐電し相州の今泉といふ所に要害を構へて引籠りけるを長尾出雲守憲景太田備中守資光聞付けて五百余騎にて馳せ向ひしに伊予守は叶はじとや思ひけん又落失せて行方なし。舞木駿河守持広は一色が同類たる由訴人ありければ同十二年正月廿三日に長尾入道芳伝が宿所へ罔り寄せ是非なく捕へて刺殺す。舞木が与力赤い若狭守此由を見て心得たりとて袴の裾を高く取り四尺二寸の太刀を抜いて切合ひける程に七八人は討たれ手を負ふものも多かりしを大勢入替りて終に赤井を討取りたり。

 

鎌倉公方九代記 巻七

持氏軍記 下

 

   一 結城七郎揚義兵(付)高階城軍

管領兵庫頭清方鎌倉を治め関東の諸侍皆帰伏し政道の事は京都将軍の命を守り漸く静ならんとして人々安堵の思ひをいたす所に鎌倉歿落の折節持氏の御息次男春王殿三男安王殿は鎌倉を遁れ出で下野の日光山に落隠れおはしましけるを結城七郎氏朝は重代の主君なれば見棄て参らせ難くして竊に城中に迎へ入れ奉り家人一族集り要害を構へ塁を深くして立籠る。上野下野の間に新田田中佐野高階の輩結城に心を合せて足利郡高橋の郷に塁を構へ切所を前に当て道を切塞ぎ兵を招き集めて近隣を脅し地頭代官等が家に押詰め追失ひ攻干して兵粮を奪ひ取る。上州の守護代大石石見守憲重安からぬ事に思ひ国中の軍兵を催促すれども世の安否を見届け難く時を窺うて一人も従ひ来らず。石見守、さればこそ兎角に付きて延引せば大事に及ぶべし敵に勢いの付かぬ中に早く退治せずば悪かりなんと思ひ手勢僅に百四五十騎を引率して軍立しければ近郷の武士少々馳せ加はり七百余騎になりて同年三月十九日高橋の城に押寄せたり。佐野高階以下の輩いかゞ思ひけん其夜の内に皆悉く落失せて国府の美濃守兄弟郎従唯廿余人ぞ残りける、美濃守少しも怯れたる色なく舎弟孫四郎にいひけるは、味方の与力頼もしげなく瀧の旗に神を失ひ義を棄てゝ落行きける奴原たとひ城中に怺へたりとも何の用にか立つべき我等只今降人になりて出でたりとも、あるか無きかの身になり傍人の光彩に向ひ面を恥辱の泥に俯れ生前の安堵を望みて憤を犬羊の尾に呑まんよりは命を君の為に棄てなば、なからん後までも勇みは子孫の心を喜ばしめ名は野径の尸を清むべし、されば此小勢を以て敵の大軍を引受け戦を決せんとする事は■渓のサンズイが鼠/の巨石を動さんとし蚯蚓の太山を崩さんとするが如し然れども義を守りて命を軽くするは勇士の名を惜む所なり快く討死して誉を後代に残せや、とて中々思切つてぞ待かけたる。寄手愈重なりて既に三千余騎になりたりければ大将石見守前後の軍兵に手配りして陣をも取鎮めず直に押懸けて鬨を作る。城中には小勢を敵に知らせせず、今討死する迄も侮られじと思ひければ、態と鬨の声をも合せず静まり返つて居たりしに寄手は、城中に謀ある故にこそ鬨をも合せず音もせず、いかさま様体を見よ、とて攻め懸らず。其非は徒に暮れにけり。油幕を引廻し虎落を結はせて篝火所々に焚かせ軍兵共は甲を枕にして明くる空をぞ待ちにける。美濃守、いざや一夜討して最後の慰みにせん、とて廿余人の兵木戸を開きて忍び出で寄手の後に廻り油幕を火にかけて鬨を作る。寝耳の紛れに大勢の声かと聞驚き、すはや敵の後詰したるぞ後を見よ、とて上を下に返す間に城兵廿余人は一手になつて表へ馳せ抜けて狼狽へ出づる寄手の兵五十騎計を薙ぎ伏せてしづ/\と引上げたり。これ程に手軽く引取るべしとは思ひも寄らず、後詰にてはなきぞ夜討したり一人も残さず討止めよ、とて此処彼処にて同士討して死する者も多かりけり。夜既に明けゝれば城の三方より潜き連れて攻懸る。城中も矢種を惜まず散々に射ければ之に射白まされて進み兼ねてぞ見えたりける。寄手の中に上総国の住人豊田八郎とて猶才覚なるものありて申しけるは、城の有様極めて小勢なりと覚え候其故は射出す矢叫の音いとゝ微に聞え候四方同時に攻懸らば唯一息に揉崩し候はん如何なる事に怯神の付きて躊躇ひ給ふ、といひければ諸軍之に心付きて、えいつ声を出して攻懸れば城中今は防ぐに力なく門を開きて打つで出で大勢の中に駈入り短兵急に交へ追捲り追退け半時計り戦うて、さつと駈抜けたりければ城には敵の入替りて火を放ちて焼上ぐる。廿余人の兵深手薄手負はぬものもなかりけり。斯る所に丹小玉党の者共百四五十騎にて駈寄せたり。廿余騎の兵百戦の命を限りに一挙に討死せんと志すことなれば少しも疑議せず大勢の中に走せ入り駈破りては裏へ通り取て返しては喚いて駈け蛛手輪違に七八度がほど当りて勢力疲れければ組んで落ち刺違へ皆悉く討死して軍は既に果てにけり。 
 


   二 成田城退去

同四月六日京都将軍家の仰に依つて安房守憲実入道長棟伊豆国を立ちて再び鎌倉の山の内の第に帰参せらる。去ぬる三月十五日管領上杉兵庫頭清方既に結城追伐の為上杉右馬助憲信入道固庁鼻性順長尾左衛門尉景仲を両大将として差向けらる。性順は苦林に陣を取り景仲は入間川原に陣を居ゑて人数を催す所に結城に一味する輩諸方に満ち/\て往来の道を遮り軍役の便を塞ぐ由聞えければ管領清方上杉修理大夫持朝軍を起し馬を出されて鎌倉を打立ち所々に催促して勢を集めらる。三浦介時高は鎌倉警護の為とて百余騎にて馳せ来る。京都将軍家より故禅秀入道が子息上杉中務少輔持房に美濃尾張の軍勢二千余騎を差添へて五月朔日鎌倉に下着し春王安王追討の御教書を東国に施行せらる。長棟禅門は持房と同じく鎌倉を立ちて同十一日武州の神奈川に陣を居ゑらる。爰に一色伊予守は去ぬる正月に鎌倉を逐電して武州の成田が舘に隠れ居られしが北一揆の者共を相語らひ七月朔日の夜竊に利根川を渡り須賀土佐入道が舘に夜討し家に火をかけ鬨を作りて打入りけり。思ひも寄らぬ俄事に家子郎従騒ぎ立ちて太刀長刀の鞘を外し出向ひて防ぎけれども叶はずして須賀入道を始めて一人も残らず討たれたり。上杉性順長尾景仲此由を聞きて同三日成田が舘に押寄せたり。近郷の溢れ者共一色に同心して出で戦ふ。性順景仲無勢にして引き色になりければ一色勝に乗つて打つて出でて戦ふ。散々に駈出でしに寄手蜘蛛の子を散らすが如く四方に逃げ崩れたり。荒川を追越して備を乱し村岡河原に打出でたり。景仲大音上げて味方の軍兵を諫めけるは、此軍に打負けて誰にか面を合せ何をか手柄の侍といふべき踏止まりて討死し名を子孫に譲れや、と下知して性順が軍兵と一手となりて押返し相戦ふ。備乱れし一色が軍兵らちりぢりむら/\に追立てられて一所に集まることを得ず。或は討たれ或は落失せければ伊予守敗北して成田が舘に引返さんとすれども敵はや満ち/\て通り得ず。笠印をかなぐる棄て敵軍の中を紛れ出で辛うじて上州を指して落行きけり。上杉修理大夫持朝は岩付に陣取りて此戦を聞付け後詰の勢を遣されしに軍散じければ引返しぬ。安房守入道長棟禅門は神奈川の陣を払つて立野に赴き本唐子といふ所に逗留せらる。勝豊後守は結城に一味して郎従七八騎を召連れ結城が城に籠らんとて忍びて足利の町屋に宿を取りける所に上杉持朝の家人松岡弥兵衛に見出され遁るべき道なくして一所に戦うて討たれけり。
 


   三 囲結城(付)城兵夜討

大森伊豆守は箱根の別当を相語らひ近郷の武士を催し結城の城に敵押寄せなば後詰をいたして打散らさんと用意する由聞えければ之を抑へん為にとて今川上総介に二千余騎を差添へて平塚に向けられ蒲原播磨守に一千五百余騎を相添へて国府津の道場に陣を据ゑさせられしかば前後の敵に抑へられて大森さしも手を握り歯噛すれども頭を出すべきやうもなし。同七月廿九日管領上杉兵庫頭清方同修理大夫持朝軍勢五万余騎を引率して結城に着陣し諸将各家家の旗をさゝせ陣屋々々を取固め城の四方を打囲み稲麻竹葦の如くなり。禅秀入道の四男上杉治部少輔教朝は持氏退治の為将軍義教公の御旗を給はり京都を立ちて北陸道より発向せし処に鎌倉既に歿落しければ奥州を指して赴き残党を攻平らげ諸軍勢を催促し三万余騎を引具して結城に着陣し管領に対面して軍の手配合戦の評定をぞ遂げられける。総大将管領清方は大手に向はれ副将軍上杉持朝は搦手に向はる。城の北には京勢上杉治部少輔教朝を大将として宇都宮新右馬頭土岐刑部少輔小田讃岐守北条駿河守以下の諸将沓の子を打ちたる如くいやが上に控へたり。南の方には岩松三河守小山小四郎武田大膳大夫入道同子息刑部少輔千葉介を始めとして越後信濃武蔵の七党上総下総の軍勢透間もなく陣を取る。其外安房の里見上州の平一揆総て軍兵十万余騎城の四方は錐を立つるの地もなく各陣をぞ据ゑられける。城中には結城中務大輔同子息右馬頭次男駿河守三男七郎四男次郎今川式部丞木戸左近将監宇都宮伊予守小山大膳大夫同子息九郎桃井刑部大輔同嫡子修理亮次男和泉守三男左京亮里見修理亮一宮伊予六郎寺岡左近将監内田信濃守小笠原但馬守以下の軍兵二万余騎春王安王兄弟を守護して小屋を並べて立籠る。此城の有様西の方にこそ大河を抱へて要害堅固なれ三方は陸に続きたる平城に岸高く切立て堀を深く水を湛へ底に乱株を緊と打ち大木を懸け石弩を張つて逆茂木を引廻し武勇に名を得し兵共主君の為に籠りしかば寄手大軍なりと雖、容易く攻落すべしとも覚えず空しく数日を送りけり。城中之に機を屈して慰むこともなく只徒に四方の寄手の陣屋々々を見渡すより外の事はなし。梁田六郎は聞ゆる大力の勇者なるが平田兵部少輔に語りけるは、京鎌倉の軍勢関八州の諸将今此城に押寄せ乍ら何の仕出したる事もなく陣屋に起臥し月日を送る。いざ一夜討して目を覚させ我等の撓みたる機を慰めて引立てん、といふ。平田聞きて、我もよく存ずるなり、さらば人々を語らへ、とて上杉高橋糟谷水谷高田藤本の輩劣らぬ武勇の兵七十余騎頃は十月廿八日北時雨降りみ降らずみ黒雲被ひて風に従ひ空定めなく暗かりしに木戸を開き逆茂木を除けて上杉治部少輔教朝が陣に忍び入りて胴の火を立てゝ陣屋に挟み鬨をどつと作れば寝おびたる者共膽を潰し度に迷ひ馬離れ騒ぎ立ちて太刀よ物具よと犇く間に七十余人の兵共走り散つて切倒し打伏せければ折節風吹き出でて焼上る焔四方に飛分れ懸並べたる陣屋共に燃え付きしかば之を打消さんとする程に搦手の陣々上を下へ持て返し敵とも味方とも見分けたる方もなく打合ひ攫み合ひて手負ひ同士討するも多かりけり。七十余人の輩は合言葉を以て一所に集り徐々と城中に取上ぐれば夜既に横雲棚曳き東よりして明白む。教朝の陣中に其夜討たるゝもの二百六十余人其外手負は数知らず。皆同士討して死にたりければ中々恥がましくぞ聞えける。上杉教朝無念の事に思ひ翌日午の刻計りに三千五百余騎城近く押詰めて鬨を作り攻懸る。城中には塚原弥五郎宮田新介塩田早沼以下の精兵八十余人鏃を揃へて射出しければ込みかけたる寄手の先陣二百余騎或は馬より射落されて矢庭に死するもあり或は小手の端草摺の間を射させて立竦むものもあり、怺へ兼ねて南を指してなだれ懸る。二陣続いて押寄せ楯を一面に突並べ堀際近く詰懸くる。城の内より木戸を開き寺岡左近桃井刑部名塚大島の者共二百余騎打つて出で入乱れ揉合ひて火を散らして戦ふ。追靡け駈立てられ七八度が程戦ふて両方さつと別れたり。三陣入変り新手五百余騎銜を並べて馳せ懸る。城兵既に疲れければ引上げんとする所に寄手楯を覆して続いて乗入らんとす。城中走木を出して突落し石弩を切つて放ち其間に城兵を静に引入れ橋を引きて防ぎければ寄手又若干討たれ時刻押移り日既に西山に傾きしかば本陣に引返す。城強くして攻め難ければ諸軍更に寄せ懸るべしともせず只夜討の用心して陣を固く守り居たり。
 


   四 千葉介軍評定(付)山内氏義出城

管領上杉清方は城の大手十町を隔てゝ桟敷塚とて小高き所に陣を居ゑておはしけるが太田駿河守を以て寄手の諸将に触れ遣し一所に会合して軍の評定まちまちなり。変る手段なく空しく月日を送り兵粮のみ費したらんには京都の聞えも言甲斐なく面々の恥にて候はずや此程の城一つに関八州の軍勢京鎌倉の諸将達集り攻むれども落ちずなんどと沙汰あらば後代迄も口惜しかるべし如何計らひ給ふぞ、と面々の意見をぞ伺はれける。諸将とり/\に評議する中に千葉介胤直進み出でて申されけるは、実に此城の有様今の構謀あるに似たりと雖、将の智は長ぜるにあらず、されば剣閣は嶢しと雖、之を頼むものは跪き洞庭は深しと雖、之に負くものは北ぐといへり是れ正に根を深くして帯を固くし人を愛して国を治むる道を知らざる故なり故左馬頭殿御行跡人望に背き給ひ自ら滅亡を招き給ふこそ諸将疎み諸侍怨みて独身一夫の囚となり御尸を路径の草村に晒し威名を死後の唇に辱しめられたまふ其御子息として結城氏朝が義を以て守護し奉ると雖、恩顧少き軍士等一旦付従うて立籠るとも始終更に頼み難し夫れ淫するときんば色を以て傾け貪る者をば財を以て招くといへり氏朝が舎弟山内兵部大輔氏義は大欲無道の愚人なりと雖、心剛にして力量あり一方の固として氏朝彼を頼み思ふこと股肱の如し、いかにもして之を招き御味方に属せしめば城中定めて力を落し互に疑ひ危み出でて一味することあるべからず、人疑則北、力分則弱といへり此時四方の寄手同時に攻上らば一時の間に破れ候べし、とぞ申されける。管領清方申されけるは、味方を全くして敵を治むるは上策なり人数を損じ力攻にせば此城は一時に落すべしと雖、是れ大将の本意にあらず千葉殿の御議に任せ計略を廻らし候べし、さて兵部大輔には誰か通路いたさるべき、と尋ねらるゝに岩松三河守、某年頃氏義に別心なく睦び候ひしが今以て其交の情をば忘るまじきにて候、忍びのもの一人を給はりて謀り見ん、と申されけり。管領大に喜び給ひて其頃世に隠れなき忍びの上手相模国足下郡に住み慣れし風間小太郎といふものをぞ遣されける。岩松陣屋に帰りて文書き認め風間に心を入れて城中にぞ遣しける。三日過ぎて後、氏義が返状を取りて帰り参りぬ。兄七郎が一跡相違なく安堵せしめ給はゞ御味方に参るべき由書きたりけり。翌日の夜半ばかりに氏義竊に城を落ちて岩松が陣に来る。三河守之を召連れ大将兵庫頭の本陣に行きければ降人になりて出でたるものに対面すべきに及ばず。此城落居の時節迄は岩松に預け置かるゝなりとてひたつら囚人の如くにして押籠めて厳しく番をぞ居ゑられける。兵部大輔氏義は、斯る事と知るならば城中にして討死すべかりけるものを謀られける事の口惜さよ、と後悔すれども甲斐ぞなき。
 


   五 結城寄手軍の事

城中には兵部大輔氏義降人になりて出でたりければ七郎氏朝を始めて諸侍皆力を落し誰とても頼み難きは人の心なり一方の固めと頼みて而も大将の弟なれば、たとひ如何なる事ありとも主君を棄て兄を見放し恩を忘れ義を背き今更敵に降ること是れ武士の道にあらず人倫の掟に違ふ日本一の不道者かな、と上下爪弾して悪み誹る。兄の七郎も、よし/\兵部大輔がなければ軍はせられまじきか一旦の命を惜み譜弟の恩を忘れ弟を失ひ名を汚す不覚人、天道之を守り給はんや、とても行末久しかるまじ、と躍り上りて怒れども其詮なし。今迄は親しく交を結び情を深くせし輩いつしか互に心を置き疑を起し其夜の中に城を落ち失せたるもの過半に及べり。されども三族に逃れざる一家の輩譜第恩顧の侍猶一万余騎よしや臆病神の付きたる者共は軍の為に足纏とはなれども物の用には立たぬぞかし落失せたるはあるに優れり此に残り止まる兵は義心鉄石の如く忠烈筋骨に徹せし者共なり敵攻かゝらば華やかなる軍して快く討死すべしと勇み誇りて中々怯れたる色はなし。四方の寄手十万余騎一同に鬨を作り潜き連れて攻かゝる。城中より矢種を惜まず散々に射ければ寄手の軍兵色めき立ちて互に人を楯となし其影に隠れんとす。城中之を見澄して切先を並べて打つて出でたりければ先陣の兵七百余騎立足もなく引退く。二陣の新手入替り駈け乱さんとすれば追捲り打散らさんとすれば一所に備へて相戦ひ手負を助けて静に城にぞ引入りける。宇都宮新左馬頭紀清両党の者共八百余騎押続きて攻懸り逆茂木を引き除け堀におつぴたり切岸の上に登らんとす。城中予て用意したる石弩大木を一同に切つて放つ。寄手の軍兵甲の鉢を打砕かれ手足を打折られ堀一つは死人にて埋みたり。宇都宮も右の腕を打折られて這々攻口を引退く。土岐刑部少輔小田讃岐守一千百余騎にて入変り切岸の下まで攻付けて手負を引除け馬を射させじと楯の羽を突並べて喚いて懸る所を木戸左近将監桃井刑部大輔小笠原但馬守四百余騎■金に鹿のしたレンガ/を揃へて切つて出でつゝ両方入乱れて攻め戦ふ。旗の手空に閃きて龍蛇の影すさまじく鬨の声地に響きて雷霆の音夥し。魚鱗に懸り鶴翼に開き前後左右に駈け廻り打つもあり打たるゝもあり東西に開き南北に別れ追捲し返し合せ七八度揉合ひければ馬蹄を浸す血は■サンズイに袞/々として洪河の流るるが如く死骸を積みたる地は累々として屠所の肉に異ならず。寄手二百騎討たれたりければ城兵も八十余騎に討取られ深手薄手を負ひたるもの両軍いづれも変らねども防ぐ兵は■玄ふたつ/を引かば続いて攻入られぬと危み寄手はいふ甲斐なく引きて敵味方に笑はれじと互に刃を研ぎ力を限りに戦ひしが小田讃岐守味方を下知して振仰ぐ所を矢倉より射出しける流矢一筋甲の真額より眉間の脳を砕きて篦深に射込みたりければ馬より落ちて死に入りたり。之を助けんと犇く間に寄手気を落し勢疲れてむら/\になつて引退く。桃井小笠原も軍はこれに限らじと退く敵を追棄てゝ城に入り木戸を閉てければ新手の軍勢もさすがに続きて攻懸らず。漸く其日も暮れかゝり雲間の景色うづまきて雲霙降り出でければ陰雲烈しく膚に徹り凍え果てたる軍兵共陣々焚火に当り侘しき夜半を明し兼ね紅葉はなけれどもあたゝめ酒に酔伏し着帛はなけれども手足を縮めて寒を防ぐ。今夜若し城中より一同に打つて出でなば凍え極る寄手の軍勢手屈まぬ薬はなし寒気に迫りて心撓み勢分疲れて酔伏したりければ弓を引き太刀を抜きて立合ふ迄もなく乱れ立ちて逃げ崩し力をも入れずして敵陣を打破るべかりけるを運の傾く悲さは謀才空しく胸臆に崩れ勝利徒に心頭に包まれさしも能き図を外しける。結城が智慮こそうたてけれ。既に金鶏三度唱へて雪より白む山の端に横雲漸く棚曳きほの/\と明くる東雲に四方の梢は残りなく時ならねども花咲きて皆白妙に見え渡る、これにぞ心は慰めける。
 


   六 東下野守流罪

伊賀市下野守益之入道素明は和歌の道に心を寄せ京都に伺候して常に之を弄び柳営また此道を好み給ひしかば磯城島の徳義に返り難波津の古風を仰ぎ人皆柿本の遺愛を慕ふのみならず世挙りて幕府の数寄に従ひけり。去ぬる応永廿九年十二月将軍家の興行に依つて飛鳥井大納言雅世卿今川入道了俊常光院堯仁其外堯孝以下十三人を選びて各十一題の和歌を詠ぜしめ題毎に一首を詠ましむ。勤修寺大納言の第にして清書あり。明魏耕雲これを批点せしに益之其撰に預り秀歌仕りて世に名を顕せり。子息常縁も下野守に任ぜられ同じく歌道の秘詠を伝へ富の小川の清き流を酌んで飛鳥山の高き跡を踏み春の花秋の紅葉更行く空の月を慕ひ弱り果てたる虫の音を憐れみ心を傷ましめ思を述べし所に如何なる故にや鎌倉に心を通はし京都を窺ふ由風聞あり。実否は未だ決せざれども折節に付けて穏便ならずして益之入道は周防に流され子息常縁は暫く出仕を止め門を閉ぢ番を居ゑて守らせらる。京都の手は何となく物騒しく巷説とり/\なりければ人の心も安堵せず危み思ふばかりなり。
 


   七 謀城中の返忠(付)葛西八郎討死

年爰に暮れて立返る春にもなりしかば軒端の梅雪間に綻び谷の鶯声珍らかに霞棚曳き山々浮立ち空の景色までもいとゞ緩やかなれども世の中は物騒しく東国まだ静ならず。是に依つて永享の年号を嘉吉と改元せらる。結城が城強くして所々に内通のもの多し。若し同時に乱れ立ちなば由々しき国家の大事なり。速に城を攻干し静治の忠勤をいたさるべしと関東討手の諸将達に御使を下さる。諸将皆大に畏りて軍評定をぞいたされける。下総国の住人岩木五郎といふもの結城に志ありて城に籠りしが年頃の妾を忍新七とて莫逆の友のありけるに預け置きたり。其身は城中にあり乍ら此女房の行方如何になりけるやらんと恋ひ悲しむ心の堪へ難く人知れぬ涙の露乾く隙もなし。新七も又軍に駈られて寄手千葉介が陣に属してありけるが竊に岩木に内通し返忠のことを催し合図を定めて此由大将の本陣に申入れたりければ神妙なりと感悦あり。斯くて四月六日卯の刻に四方の寄手十万余騎同時に押詰め箙を叩きて鬨の声を揚ぐれば城中も矢間を開きて鬨を合せたり。天地震吼し山河動揺して雲渦巻き雷轟き旗の手太虚を彩り刃の光赫日に映ず。城中数ケ所の櫓出塀矢間の内より雨の降る如く射出しける矢に一つも浮矢なく楯の外旗の下に射伏せられて半死半生になりたるもの数を知らず。寄手色めきて互に人を楯になさんとする程に先手の二千余騎怺へ兼ねてむら/\になつて引退く。二陣の三千五百余騎続いて堀の前に潜き寄せ埋草を以て堀に投げ焼草を積みて櫓を落さんとす。城中よりう石弓を放ち大木を切落すに切岸の下に着きたる二千余騎堀の底に捲り落され己が持ちたる太刀長刀に貫かれ手負疵を蒙りいやが上に重なり伏して進退更に自在ならず。城中之を見澄して七百余騎打つて出でつゝ魚鱗虎韜の陣氷刃閃電の光須臾に変化して八方に相当れば尸骸は草根に横り汗血は馬蹄を染めたり。僅の勢に切立てられ散々になつて引退く武田大膳大夫同刑部少輔武蔵野一揆三千余騎新手を以て入替り城兵を真中に押包み一人も洩らさず打止めんと鶴翼になりて攻懸る。城兵小山大膳大夫同子息九郎桃井和泉守同嫡子左京亮以下の七百騎魚鱗に備へて駈け通り後へ抜けて取つて返し突落し切伏せ勇猛辺を払つて打つて廻るに寄手の軍兵駈立てられて手負討たるゝもの数を知らず。攻倦みて見えたる所に武蔵国小玉党の中より葛西八郎と名乗つて黒糸縅の鎧に同じ色の甲の緒を〆め四尺余りの大太刀を抜いて真先に進み射向の袖を揺合せ躍り懸り/\打つて廻るに城兵七人は目の前に討たれ廿八人は深手を負ひたり。之に辟易して城に引上らんとす。寄手機に乗りて鬨を作りかけ続いて込懸る。城の兵同時に木戸を開き切岸の上に降下つて鏃を揃へて散々に射る。葛西八郎が勇み進みたる鎧の弦走より総角付の板まで篦深にぐさと射込みたりければ目昏れ心消えて太刀を倒に突き立竦みてぞ死にゝける。其外の軍勢七十余騎矢庭に射伏せられ大石に当りて打居ゑられ疵を蒙り手を負ひたるものは数も知らず。{欠字数字カ}れ城兵も五十余騎は討たれ残る者共痛手薄手負ひながら静に城に引入りて木戸を下しければ寄手は皆逆茂木の際まで攻付けて垣楯かきてぞ居たりける。
 


   八 結城歿落(付)氏朝以下討死

結城七郎氏朝は、既に累代主君の恩を忘れず武門佳名の義を励まし此城に立籠り大事を思立つ所に志を通はして助ともなるべき人々をば聞出して皆退治せられ同胞金骨の固とも頼みける小山は二心を存して敵に属し今は後詰の方人もなし内通の贔屓も絶えたり、これ程に運の利かぬ時なれば如何に思ふとも叶ふべからず、されば勝利を求むる時にこそ運をも考へ身をも全うして功を施さんとは計るべけれ。詮方なき微運の我等城中にありて月日を重ね籠鳥の雲を恋ふる思を焦し轍車の水を求むる志を費すともいかばかりの事かあるべき今更降を乞うても猶頼む蔭なき世に立紛れ傍の人に指をさゝれんこと是亦恥の上の不覚たるべし只命を限りに戦ひ弓矢の名を専にし義に依つて討死するより外の事あるべからずと思ひ極めて候、面々はいかゞ思ひ給ふぞ若し忠義を棄てゝ心を変じ恩顧を忘れて主を見離さん輩は疾々此城を落ちて敵に属し御身を立ておはしませ氏朝露ばかりも恨に存ずることあるまじきにて候、とぞ申されける。内田信濃守申されけるは、管領憲実已下の一族権威を公義の下に藉りて鎌倉の世を反逆の中に奪はんと企て恩を荷うて恩を忘れ道を踏んで道に背く大悪無慙の甚しきこと天理神明の冥眦に外れ世間人品の指頭に懸る。然れども運命開け難く我等此防戦に苦しむことは時の至らざる故なれば力なし今更心を変じて敵に属する程ならば始より此城に籠らぬものにてこそあらめ、たとひ敵兵は日に添へて重なり味方は小勢にして疲れたりと雖、何ぞ悪びれ漫に怯ぢて機を落すべき軍に死せずとも終に保たぬ我人の命を同じくは主君の為に参らせ怨を泉下に報ずべし敵寄せ来らば下り向うて戦ひ防ぐに叶はずば討死する迄なり若し又遁れつべくば一方を打破りて引退き謀を以て時を待つべし此人々の中に候か二の足を踏む人あらん、と申さるゝに諸将いづれも同音に、内田殿の仰の如く一筋に皆思ひ定めて候ぞ心安く討死し給へ、と一味同心に申合せたり。さる程に四月十六日卯の刻に寄手又潜き連れて同時に切岸の下に押詰められたりけれども岸高ければ馬の鼻を突かせて上り兼ねたるを後より続く軍勢共先なる兵の楯の桟を踏まへ甲の端を足溜にして城戸逆茂木を切破り討たるゝをもいとはず手負をも顧みず乗越え/\城に込入りたり。城中にも石を投げ大木を落し懸け鑓長刀を以て切倒し突落す。斯る所に予て合図を定めたることなれば岩木五郎が所為にや俄に火燃え出でて雲煙と燃え上る。こはそも如何なる事ぞといふ程こそありけれ、猛火四方に燃え渡る。城中の軍兵火に惑ひ煙に咽び防ぐべき力もなく落行くものは乱れ合ひて切伏せられ打倒され前後を弁ふる方もなし。結城七郎は春王安王殿の御前に畏り涙を流して申しけるは、氏朝数代の恩を蒙り義を忝うし忠を専として年月此城中に抱へ奉り御運再び開かせ給ふべき其計策を廻らし数万の敵を引受け数度の軍に利ありと雖、方々より敵はや攻入りて城中に充ち満ち味方に返忠のもの出来て火をかけ焼上り候上は矢庭に思ふとも叶ふべからず、いかにしても敵陣を忍び出で越後国へ落下らせ給はゞ御行末を見届け奉るべき人の候はん氏朝に於ては敵に向ひて討死仕り黄泉の下に憤を報じ候べし今生の御名残今を限りにて候、とて兄弟の若君を女房の姿に出立たせ輿に乗せ奉り搦手の木戸より落し参らせたりけるに寄手の諸軍皆誠の女ぞと心得道を明けて通しける所に後陣に控へたる長尾因幡守見咎め奉り軈て生捕り参らせけり。無慙といふも愚なり。結城七郎此由聞きて、口惜しきことかな多年の忠義一時に空しく氷を鋳りて労を重ねし我等が果こそ浅ましけれ此上はいざ打つて出で命を限りに戦ひ死して修羅の巷に恨を報ぜんとて大将結城七郎氏朝同伯父中務大輔同左馬頭同駿河守子息七郎次男今川式部丞木戸左近将監宇都宮小山桃井寺岡小笠原の諸将を先として家子郎従二心なき金石の勇士四百余騎大手の木戸より一手になりて打つて出る。寄手之に立合はんと鶴翼に備へて押纏ふ。城兵は元より思ひ切つて討死と志す上は敵を嫌はず当るを幸に馳合ひ馳合ひ八方に追靡け四塚の固めを打破り雁行に連り虎韜に集り馬疲るれば離馬に乗換へ太刀打折るれば棄てたる太刀を取換へて敵を切つて落すこと二百余騎陣を打破ること五度なり。三軍に作る鬨の声両陣に叫ぶ戦の音天を響かし地を動かし前後に当り左右に支へ義を重くし命を軽くして或は引組んで勝負をするもあり或は打違つて死するもあり其猛卒の機を見るに一足も引退くべき色はなく駈合ひ入交り散々に攻戦ふ。寄手怺へずしてむら/\になる所を手先を捲つて追退けさつと引退きて見たりければ寺岡小山は討たれて小笠原但馬守は痛手負ひたり。猶人手には懸らじとや思ひけん小薮の中に分入りて腹切つて死したりけり。郎従家子四十六人討たれたり。残る兵共馬を一所に立籠めて暫く息をぞ継ぎにける。寄手の方に土岐刑部少輔北条駿河守三千余騎しづ/\と押懸り如何に人々命惜しくば助け参らせん。甲を脱ぎて降人になり給へ、と声々に呼はる。結城七郎聞きも敢ず、弓馬の家に生れたるものは名こそ惜しけれ命をば惜まぬものを今更降人になる程ならば始より世を諂うて先祖の面を地下に恥かしむべし義を棄て命を棄て恩報ぜんと思ふ志金鉄より堅き我等ぞ、いふ所真か虚事か戦うて手並を見給へ、とて四百余騎どつと喚いて駈けたりければ寄手の三千余騎僅の勢に駈立られて一溜りも怺へず引退きけるを言葉にも似合はぬ人人かな汚し返せ、と恥しめて追立て/\打つて進む。土岐刑部は深手を負うて引兼ねたるを軍兵踏止まり暫く防ぎて押包みて引いて行く。上杉修理大夫持朝六千余騎馬の頭を雁行に連ね旗の足を龍粧に進め横合にしづ/\と駈けたり。勇み誇りたる結城が軍兵少しも怯まず十字に合せて八字に破り東西に靡き南北に分れ万卒に面を進め一挙に死を争ひ互に討つ討たれつ切先に血を注ぎ鍔元より火を出し打靡け駈散らし半時ばかり戦うて表に駈抜けて見れば結城中務大輔父子を始めて百余騎は討たれ其外の者共或は痛手を負うて生捕られ或は叶はずして駈立られ心ならず落ち行き残る兵唯五十騎になりたり。此迄も氏朝は手も負はず、ふしなはめの鎧は太刀懸草摺の横縫皆突切られて威毛ばかり続きたり。甲は錏を切落され星も少々削られ備前長刀鎬下りに菖蒲の形なるを峯は簓のやうに切られ刃は鋸の如くにぞ折れたりける。今一軍して快く自害をせん、といへば、仔細にや及ぶ、といふまゝに五十三騎を前後左右に立て大勢の中に駈入りつゝ四武の衝陣堅きを砕き百戦の勇力変に応じいづれも劣らぬ勇士なれば肌膚撓まず眼瞼まじろかず猛気八方を払へばさしも小勢なりとは雖、敵の三軍敢て之に当り難し、ただ射竦めて討取れや、とて雨の降る如くに射ける矢に結城駿河守唐胴をくさめ通に射抜かれ小膝を突いてどうと伏したり。寄手の中より寺尾走り懸り押へて首をぞ掻きにける。桃井刑部大輔は敵五六騎切落しのりたる太刀を押直す所に乗りたる馬の太腹草脇に六筋まで矢を射立てしかば馬は小膝を折りて伏したり。我身は数度の軍に為疲れ鐙を越して下立たんとするに股竦みて働かず。力及ばず鐙の上帯解き腰の刀を抜いて自害したり。宇都宮伊予守は敵十方より鏃を揃へて射ける矢に馬の平首草脇篦深に射られ我見も弓手の腕右の膝に四所まで射させ馬の乾にどうと伏し乗手は朱になつて下立ちたり。之を討たんと馳せ寄る敵の諸膝薙いで跳ね落させ押へて首を掻く所を十七八騎折り重なり甲の天辺を引仰け首を取つて差上げたり。五十三騎の兵所々に皆討たれて結城七郎宇都宮弥五八里見修理亮たゞ三騎に討なされ、此より敵を駈破りて落つるとも落つべかりけり、さりながら行末とても道狭く天に跼り地に蹐して身の置き所を求め兼ねて此処彼処の寺院に夜を明し隠れ歩きて窮困し溝涜に倒れて飢死せんには先亡の与類に何を面目として泉下にして見ゆべき此大軍の中に只三騎駈入りたりとも物の数とや思ふべき然れども義に曝すべき尸を九原の苔路に埋む迄は敵を討つて慰まん、とて三騎銜を並べて一文字に駈入り此処に交り彼処に顕れ火を散らして切つて廻る。聚散離合し隠顕相忽たる有様須臾に変化して閃電の如し。前にあるかとすれば■條の木が火/爾として後に馳せ味方かと思へば屹として敵なり。十方に分身して万卒に相当り僅に三騎なれども寄手の陣中に満ち/\たる心地し討てども止まらず射れども当らず只陣中騒ぎて東西南北に走せ合ひ備を乱して持扱ひ手にも溜らぬ水底の月を取らんとするに似たり。京勢の中より大荒布の鎧着て鹿毛なる馬に打乗り四尺五寸の太刀を抜き設けたる武者一騎駈出で、播磨国の住人印南平太員近、と名乗りて宇都宮に渡り合ふ。弥五八之を弓手に相うけ甲の鉢を菱縫の板まで破付けたりければ平太は気色にも似ず二つになつて失せにけり。馬も尻居に打据ゑられ小膝を打つて伏したり。跡に続く軍兵十五六騎此勢に膽を潰し這々と引返す。三騎の勇士今を限りの軍なれば手を負ひども顧みず矢に当ればかなぐり棄て塵埃を蹴立て汗血をしたでて楚の項羽が漢の三将を靡かし夏の魯陽が日を三舎に招き返しける戦もこれには過ぎじとぞ見えたりける。既に夕陽西に傾き東の山頭を照す頃になりて三騎共に切疵突疵痛手薄手あまた所負ひければ勢疲れ力撓み神昏みて覚えしかば、今は此迄なり生を変へて所を改め修羅場の戦を期すべきなり、とて同音に念仏し三人一所に自害してこそ死にけれ。城中総て死するもの一万余人寄手の討たるゝもの二万三千余人なり。近年諸国の合戦にも此程の人数討たれしことはなし。只城兵一味して二心なかりし所なり。結城は謀才の将にあらずと雖、仁義の道を嗜みける情を感ずる故なるべし。軍既に散じければ管領清方即ち首実検し悉く斬梟けさせ勝鬨を執行ひ翌日総州にぞ赴かれける。
 


   九 古河城退治

野田右馬允矢部大炊助は結城に一味して軍勢を集め古河の城に立籠り旗を上ぐる。近辺の者共志あるは同心いたし志なきは山野に野毛隠るゝ間、村里の民屋を追捕して兵粮の為に運び取る。結城の寄手一万余騎直に総州に押寄する。此由古河の城に聞えしかば野田右馬允は叶はじと思ひて郎従を引連れて夜に紛れて落失せたり。馳付けたる集り勢皆ぬけ/\に逃去りて今は矢部大炊助一族郎従只八十余人ぞ残りける。これ程の人数にて籠りたればとて寄手十万余騎を以て攻干さんには一人づつ捕へて髪の毛を抜くとも手に足らぬ事なりと思ひ侮り城に寄すると等しく堀に浸り塀に上る。城の兵少々防ぐ体に見せて詰の城に引上ぐる。塀の上に数千束の藁柴を積上げて置きたりしが一同に火燃え出でて焼け上るを押詰めたる寄手の軍兵八百余騎進まんとすれば猛火盛に燃え懸る。退かんとすれば後より込み懸る。進退心ならず堀の底に崩れ落ち太刀長刀に貫れ手足を焼き爛かされ半死半生になりたるもの数を知らず。火既に燃え尽しければ二陣三千五百余騎手負を踏み越え同時に塀を乗越しければ塀の内に二重堀を拵へ竹を割りて所々に簀子をかき席筵を敷き渡し其上に白沙を蒔きて堀には竹を殺ぎ緊と立てたり。思ひも寄らず塀を跳ね越え引倒して込入りしかば簀子折れ崩れて数千の軍勢馬人共に落入りて竹に貫れ圧に打たれ疵を蒙るもの数を知らず。堀の岸に並べ置きたる大石共に取付けば転ぶやうに操りたりければ此に取付きて引落し頭を打砕かれ足手を打折られいやが上に重なり伏す。三陣四陣の寄手之をも構はず踏越え乗越え詰の城に懸りけるを八十余騎の城兵皆歩立になりて木戸を開きて打つて出る。分内は狭し馬の懸引自在ならず先手計は打合ひけれども後の勢は見物してぞ居たりける。暫し戦へば寄手新手を入変へんとする間に詰の城に引籠り木戸を下したりければ先に手懲して続きても攻懸らず互に見合ひて躊躇ふ程に予て詰の城より後の山へ抜穴を拵へ一人も残らず落失せたり。寄手一度に攻懸り木戸を打破り我れ先にと込入りければ内には一人も軍兵なし。こは如何にと呆れて穴を見出しけれども追付きて入るべきやうもなくただ討たれたる者共は犬死したるに同じくして何の仕出したる功にもならで軍は■玄ふたつ/に果てにけり。大将大炊助は日を経て後に野田讃岐守に行合ひて討たれけるこそ残多けれ。
 


   十 春王安王殿兄弟被誅

軍散じて諸軍各凱陣す。近国の諸将達は此より暇給はりて己が舘に引いて帰る。春王安王兄弟の若者をば長尾因幡守が陣中に生捕りて鎌倉に伴ひ管領上杉清方に渡し参らせけるを同五月十日あまり長尾に預けて路地を守護し小笠原信濃守政康を差添へて京都にぞ上せ奉りける。怪しげなる籠輿に乗せ参らせ宗徒の兵二百余騎前後左右を打囲み腰越肩瀬を打過ぎて相模川の夕霧に曇るか空の月影も盈れば虧くる世の習ひ身の上にこそ知られけれ。寄せては返る波の音聞くも物憂き大磯の宿より続く酒匂川舟より上れば中々にあけて口惜しき浦島が箱根の山の三島なる三枚橋や名にしおふ思ひに沈む沼津の里世を浮島が原を過ぎて美濃国赤坂に着きしかば宿を求めて入れ奉る。兄弟の若者は露まどろみ給ふ事なく長尾因幡守を御前に召され春王殿仰せられけるやう、結城が城にして生捕られし日の廻り来て明日は十六日と覚ゆるぞ我等が為に討死せし結城の一族其外の諸軍士等が其命日になりたれば念仏申して弔はんと思ふなり。御手水召されて西に打向ひ安王殿と諸共に夜もすがら竊に念仏し給ふ。幼き御心にも有難き志を苔路に埋れし亡魂共さこそは忝しと思ふらん。安王殿宣ひけるは、今宵は月の夜すがら先亡の余類を弔ひ候、我等も必ず殺されなん又誰人か跡を弔ひ候べき、と宣へば春王殿聞き給ひ、我等ほど果報薄きものは世にあらじと思ふなり年にも足らずして父母に後れ孤となるのみならず剰へ敵の手に生捕られ京都迄引上せられ何の日の何時か切られ参らせ我等が命日となるべき尸は土中に埋れ魂は来世に行きて恋しき父母に対面して修羅の軍に怨を報ぜん何か心細からん別れし親に遭ひ奉るべきことを一筋に喜び給へ、と互に語り慰み給ふ。之を承る武士共皆涙にぞ咽びける。明くれば五月十六日赤坂を打立ちて青野が原に着き給ふ。斯る所に京都将軍家より飛脚到来して二人の幼君を都まで入れ奉るべからず路次にて誅し参らせ御首級ばかりを京着あるべし、と囁きたり。さらばとて濃州垂井の道場金蓮寺に御輿を舁入れ奉り上人を呼び出し御臨終の戒師に頼みければ上人立出でて若君達を見奉り御前に跪きて申されけるは、此ひじりは其上藤沢の道場にありて左馬頭殿の御恩を蒙り其御情の忘れ難さに毎日焼香念仏して御跡を弔ひ奉る今又御公達のこれへ入らせ給ふ事は誠に深き御縁なるべし今ははや御最後近く候、思召切らせ給ひ後生の事を念じて成仏を期し給ふべし又仰せらるべき事あらば承つて京都へも言上して猶御跡をば此ひじりが随分弔ひて参らせん、と涙と共に申せば春王殿も安王殿も少しも臆れたる色もなく、父左馬頭殿に対面の僧にて候由懐うこそ覚え候へ毎日御回向に預る条我等迄も嬉しう候、今夜切られ候はゞ父尊霊と一つに蓮の台に上らん御弔の回向を頼み奉る、とて兄弟の守袋を上人に奉り御布施に擬せられたり。上人泣々受取りて念仏を勧め参らする。長尾が郎従柿崎小次郎西郡藤次御後に廻ると見えしが兄弟の御首は軈て前にぞ落ちにける。空しき骸に薪を積みて煙となし御首級をば京都に上せけるを又垂井に差下され道場の内に埋みて一堆の塚の主となし上人毎日念仏して深く弔ひ奉る。春王殿は十三歳安王殿は十一歳莟める花の開きもせで烈しき風に落ちぬらんも此例なるべし。哀れなりし事共なり。

 

鎌倉公方九代記 巻八

成氏軍記          
 

   一 赤松満祐弑将軍義教公(付)天勝滅亡

其上故尊氏公の御時、赤松次郎則村入道円心は播州より起つて味方に属し嫡子左衛門尉範資次男次郎左衛門尉貞範三男律師則祐甚だ忠勤あり。中にも則祐が戦功勝れて比類なし。尊氏公即ち摂津因幡備前播磨美作五ケ国を以て赤松兄弟三人に給はる。貞範が子顕則其子伊豆守貞村、総領脈として家門を相続す。則祐が子義則其子左京大夫満祐相継いで播州を領知す。爰に貞範には孫にて越前守顕則が第七の末子越後守持貞は将軍義持公の御愛童たりしを元服させて三ケ国を給はり寵に誇つて諸大名に不礼をいたし門族に不義を尽す。諸大名も悪み疎み左京大夫満祐も大に憤を銜み一味同心に持貞が不礼を戒め追却すべき旨訴へ申事度々に及ぶと雖、将軍家終に御裁許なし。此張本は満祐なりと風聞す。持貞遺恨しければ満祐将軍家を怨み奉り我家に火をかけて播州に馳下る。将軍家即ち細河持元山名満Xを討手として差下さるべき評定あり。諸大名一同に満祐が方人して持貞が無礼不義の由訴へしかば将軍力及ばず持貞に死を給はり満祐は許されて上洛いたし京都に伺候す。持貞が領知を満祐が支配に任せられしかば是より威勢高く諸人の上に輝き雅意に任する事多しと雖、上下皆恐れ憚りて兎角申す人もなし。義持公薨じ給ひ義教公世を嗣ぎ給ふ。満祐愈奢り出で将軍家に対して無礼の振舞重畳せり。義教公目覚しく思召し竊に管領細川持元と相謀り彼が威勢を減さんが為に満祐が所領備前播磨美作を分けて顕則が孫赤松伊豆守貞村を取立てんとし給ふ。満祐父子聞付けて深く怨を銜み乍ら色にも出さず野心を挟み謀計を廻らし将軍義教公を我舘へなし奉り御遊あるべき由を望申すに依つて嘉吉元年六月廿四日赤松が舘へ入御あつて猿楽を御覧ぜらる。日暮れて酒宴始まり数献に及ぶ所に満祐が厩の馬放つに数多の馬共喰ひ合ひ跳合うて騒しき事いふばかりなし。これを鎮めんとて門をはたと鎖しける時予より置きたる兵共同時に起り出で満祐は後の屏風の影より走り出で義教公を刺殺し奉る。座中驚き周章ていづれを敵味方とも思ひ分けず向ふものを相手にして打合ひ切合ひて手負死するもの多し。満祐教祐父子は一族郎従を引具して其夜播州に落入りぬ。義教公の御息義勝公生年八歳になり給ふを守立て主君と仰ぎ奉り管領細川右京大夫持之及び大内持世心を合せて細川讃岐守持常赤松伊豆守貞村武田大膳大夫信資を大手の大将として山名右衛門督持豊入道宗全同修理大夫教清同相模守教之を搦手の大将として播州に遣し白幡城を攻めしむ。九月十日に城終に落ちて満祐は自害し子息教祐は逐電せり。即ち勧賞行はれて播州をば山名入道に給はり美作をば修理大夫に下され備前国をば相模守に給はり赤松満祐が家門茲に於て滅亡す。
 


   二 左兵衛督成氏為鎌倉公方

嘉吉三年七月廿一日将軍義勝公馬より落ちて早世し給ふ。御舎弟義政公八歳にして家督を嗣ぎ給ふ。爰に故左馬頭持氏の末子永寿王殿は鎌倉滅亡の時御乳母に抱かれ御所を紛れ出でて信州の山中に落着きたり。郡の安養寺の住僧は乳母の兄なりければ甲斐々々しく取隠し大井越前守扶光は譜第の御家人なり。之に語りて諸共に心を合せ深く忍びて養育し軈て元服させ奉りて成氏とぞ号しける。結城七郎氏朝が末子は氏朝が甥に結城四郎氏家といふもの一族歿落の時此小児を抱きて城中を紛れ出でつゝ常陸国筑波に落行き所縁に付きて育てける。既に十四歳になりしかば元服せさせて結城四郎成朝と名乗らせ時運を待ちて居たりし所に近年京都将軍家の興替・諸国の逆浪に依つて関東の有様穏ならず。然る所に鎌倉管領上杉安房守入道長棟の子息右京亮憲忠は父と同じく剃髪して伊豆の御山に閑居し世を遁れておはせしを上杉の執事長尾左衛門尉昌賢呼び出して管領とす。持氏の末子成氏信州におはしますと聞きて長尾昌賢東国の諸将に相談して鎌倉に入れ参らせ関八州の公方と仰ぎ奉り禁中の天気を伺ひ左兵衛督に任じ正四位下に敍せられ鎌倉の御所再び栄え群俗其徳風に帰すること霜を開きて春台に上るが如く彼法政を窺ふこと田を耘りて時雨を待つに似たり。旧労恩顧の余類は世を憚り人に忍びてある甲斐もなかりしに枯木再び枝栄え根重ねて芽を生ず。これに時を得て病雀花を喰ひ飛騰の翅を博ち轍魚雨をうけて■口に僉/■口に禺/の吻を潤さんと喜び思ふもの少なからず。
 


   三 成氏公被誅上杉憲忠

左兵衛督成氏は威勢益東域に振ひ栄名愈八州に輝き靡かぬ草木もなかりしに思ひ企て給ふことありて国家衰敗の本となりけるうたてさよ。享徳三年十二月結城四郎成朝を近く召して竊に仰せられけるは、倩其昔を思ふに管領憲実は故左馬頭殿の讐敵なり。当家運傾きて父母兄弟悉く殺され成氏たゞ一人不思議に生残り再び父の跡を嗣ぐこと是れ天道神明の当家を棄て給はぬ所なり、されば父母の仇には共に天を戴かず、兄弟の仇には共に国を同じうせずといへり、さしも父母兄弟の怨敵を眼前に徘徊させ朝夕に対顔す、其憤胸に塞り此恨肝に銘す、今の管領右京亮憲忠は憲実が嫡子なり、子として親の敵を討たば敵の子も又敵ならずや汝が一族も皆憲実が為に屠られ忠義の下に怨を残す、いざや憲忠を討つて怨恨を散ぜん、さこそ先亡の輩も九原の苔の下に嬉しと思はざるべき、且うは孝養ともなるべし、汝はいかゞ思ふ、と宣へば、成朝畏りて申しけるは、君の御為にも敵なり我等の為にも敵なり、親の敵を目の前に見ながら怨を心■月に付/に隠し憤を胸臆に貯へて年月を送らば天下の諸侍言葉には出さずとも浅ましき臆病者の言甲斐なき有様かなと思はぬ人は候まじ親の敵を討たつせば世の人道理を感歎して皆共に帰伏すべく候、上杉が一族たとひ怨み申すとも東国の諸将更に非道不義の御企とは存ずべからず皆御味方に参りて退治いたさば不日に鎮まり候はんこと掌の内なるべし何の危み恐るゝこと候べき早思召立ち給へ、と申勧めければ、左兵衛督殿兎角の思案にも及ばず同廿七日管領右京亮憲忠を鎌倉西御門に召寄せ結城彦四郎氏家同四郎成朝其外近習の侍十余人緊々と取込めて難なく憲忠を討つたりけり。長尾昌賢大に驚き、こは何事ぞ世の人の定めて昌賢が不覚とや思ふべき本の公方の胤を立てしは弓矢の冥加を存ずるが故なり今の管領の職を継がせしは家門の旧勲を捨てざらんが為なり一旦の憤恨を以て永代の門眉を削り落し給ふ成氏の御果報の拙なさよ、とて爪弾をしてぞ歎きける。上杉の一族色を立てゝ鎌倉を立退き人数を催して成氏と相挑み関東此故に乱れて上下足を空になし手を握つて安き心もなかりけり。
 


   四 成氏公被誅上杉憲秋顕房(付)成氏鎌倉歿落

既に年明けて康正元年正月にもなりしかば古きを送つて新なるを迎へ春立つ霞を酌みて千世のためしに引くといふ松の緑に寿を準へめでたかるべき折柄なるに鎌倉の有様は何となく物騒しく人の心互に疑ふ計にて上部には色代すれども下には鏃を磨きけり。上杉禅秀が三男宮内大輔憲秋は身の上に来る禍ぞと思ひければ夜に紛れて武州の池亀といふ所に立退きしを差添へて向けられける。憲秋此由を聞きて、迚も免れぬもの故に憖に軍して生捕られ憂目の恥に及ばんよりは、とて自害してこそ亡せにけれ。上杉持朝が嫡子弾正少弼顕房は夜瀬といふ所に落行きけるを同廿四日結城成朝大勢にて押寄すると聞えしかば郎従共は残りなく落失せて只一族小山田三郎定頼が子息八郎藤朝ばかり残り居たり。斯くて寄手の兵共鬨の声を作りて込入りけるを顕房藤朝抜連れて打つて出でつゝ門より外へ追出し深手あまた所負ひたりしかば二人ながら内に引入りて家に火をかけ刺違へてぞ死にける。其外の輩いかさま世の中静なるべからずと心々になりて見えし所に上杉の家臣長尾昌賢等相議して憲忠が舎弟兵部少輔房顕を取立てゝ主君と定め之を大将として軍兵を集めける所に関東諸国の兵士等或は成氏に属し或は房顕に応じて日毎合戦絶ゆることなし。長尾昌賢一族相謀りて京都に訴へ申しければ将軍家より奏聞を遂げられ成氏追討の綸旨に御旗を添へて下し給ふ。是に依つて諸将諸侍は悉く属せしかば成氏終に打負けて鎌倉を落ちて野州古河城に立籠り給ふ。上杉兵部少輔房顕之より鎌倉に居住して関東の管領となり長尾昌賢執権として治世の謀を廻らしける。
 


   五 天変地妖

京都には山名右兵衛佐持豊入道宗全と細川右京大夫勝元確執す。諸国の大名思ひ思ひに与力して騒動す。関東とやかく乱れて天下一同に騒ぎ合ひ四方の諸国に軍の止む隙なし。是に依つて康正三年に及び長禄と改元あり。同五月に大雨降り続き諸郡洪水の災を憂ふ。商羊の庭に舞ふか畢方の空に翔けるか。いかさま唯事にあらずといひける所に同十日猿沢の池血になりて朱を湛へしかば底の鱗は悉く死して浮上る。これをこそ希代の珍事かなと沙汰したるに同じき七月廿一日、吉田の社鳴動すること夥し。天下大なる御慎なりとて陰陽の博士勘文を捧げて奏聞す。即ち諸寺諸山に仰せて御祈祷あり。年を越えて打続き災変様々なりければ上下手を握り今や国家の大変出来らんと思はぬ人はなかりけり。
 


   六 伊豆国堀越御所政知(付)上杉教朝自害

寛正二年の春関東愈乱れ立ちて軍兵四方に馳せ違ひ合戦更に止む時なし。故将軍義教公の四男政知と申すは本は出家して北山におはしまし香巌院とて学知深かりしを還俗せしめ関東退治の為に差下し左兵衛督に任ぜられ将軍の御教書を給はり伊豆国北条に下向あり。堀越の御所と申して諸国の成敗をぞ行はせらる。上杉禅秀が末子伊予守教朝執事となり成氏追討の秘計をいたす所に此頃京田舎まで疫癘行はれ家々に悩み伏し死するもの数を知らず。尸骸道路に充ち重なり触穢になりて神社の扉は閉ぢ塞がれり。伊予守教朝此疫に取結び心身を悩悶し大熱狂乱し自ら刀を抜きて腹掻切つて死したりけり。政知大に歎き給へども其甲斐なし。政知には御子息茶々丸殿とて後には成就院と申して父子の御威勢近国に輝きけり。
 


   七 太田持資築江戸城

同六年三月に太田道灌上洛して将軍義政公に始めて対面いたしけり。去ぬる康正二年の頃は未だ入道せず。太田備中守持資とて上杉定正の家老として父の入道道真と共に家を治め道を行ひ諸将を懐かしめて政法素直なり。然るに備中守持資武州江戸の城を築く。誠に繁昌堅固の地震なり。万里和尚此城を見て古詩を引きて点を改め之を賞めたる詩に曰く、

窓含西嶺千秋雪 門繋東呉万里舟

此城一度は大に栄え賑はふべき名地なりとぞ申されける。資長(持資カ)既に入道して今は道灌とぞ号しける。始めて京都に上洛いたし将軍家に申入れつゝ関東静謐の事を言上す。天下同時に騒動して一日も安からず。如何にも宜しく計略を廻らし東国静治ならしめば大なる忠義なるべき由御気色を蒙り御暇給はり江戸の城にぞ帰りける。
 


   八 成氏与上杉房顕対陣(付)房顕病死

文正元年正月に左兵衛督成氏の軍兵八千余騎にて武州五十子といふ所に押出でたり。管領上杉兵部少輔房顕一万余騎にて馳せ向ひ両陣互に屯して足軽を出して攻合ひつゝさしたる軍はなかりける所に房顕俄に病出し二月十二日年未だ三十二歳陣中に於て逝去あり。唐土の古蜀の諸葛孔明と魏の将軍司馬仲達と五丈原といふ所に対陣す。孔明既に病起り陣中にして死したりければ諸軍力を失ひけん。今房顕の陣中も大に歎き恐れて軍を引きて鎌倉にぞ帰りける。此時若し後より追詰めなば鎌倉勢は残り少なに討取るべかりしをたゞ引返すを能き事にして軍兵を引入れたりしは成氏方の諸将諸侍に智謀なしとや申すべき。あさましかりける事共なり。
 


   九 両上杉成管領(付)関東静治

連年打続きて天変地妖疫癘飢饉行はれ諸国恐れを抱き万民憂に沈み魂を消し足を空になし安き心もなかりけり。或は親子別れて行方を知らず恩愛の悲み徒に胸を焦し或は夫婦離れて跡を失ひ偕老の契空しく心を傷ましむ。昨日まで顔を隠して通路に袖を広げ食を乞ひし女房も今日は倒れ死すもあり、今朝まで容窶れて門前に佇み資を求めし老母の夕には偃し吟ふもあり。見るに付け聞くに付けて哀れなること限りなし。是に依つて文正を改めて応仁元年とぞ号しける。天地災■薜のした子/の起る事必らずしも年号の咎にもあらず。一業所感の因果到来なりと是非なく月日を重ねける所に京都には山名細川愈水火の如くにして双方に引分れ西国北陸所々に軍更に止む時なし。関東は猶静ならず。管領房顕逝去の後、諸将諸侍其心一方ならず。世の勝敗を疑ひけり。上杉家の老臣長尾左衛門尉昌賢謀を以て諸将を語らひ管領房顕の嫡子十四歳にして越後国におはせしを招き上せ上杉民部大輔顕定と号して上州平井の城を築きて成氏と相戦ふ。顕定既に鎌倉に入りて山の内に居住せらる。上杉修理大夫持朝が末子修理大夫定正は享徳年中より扇が谷に居住せらる。山の内と扇が谷と両管領となし成氏の御子息政氏を左兵衛督に任じて鎌倉の公方として政道を執行はれしかば諸将諸侍帰伏して関東暫く静なり。上杉安房守憲実入道長棟庵主は持氏滅亡し給ひし後伊豆国に赴き、それより西国行脚して周防国に止り同二年三月六日逝去せらる。
 


   十 成氏与上杉顕定合戦敗北(付)和睦

文明三年の春成氏又軍兵を催して山内管領上杉顕定と戦ふ。成氏叶はずして敗北し古河城にも堪り得ず千葉陸奥守康胤を頼みて常州千葉城にぞ籠られける。諸方の軍勢を招くと雖、一人も馳付くものなし。同じき五年十二月廿四日上杉弾正少弼顕房が嫡男修理大夫政真は常州に隠れ居たりけるを成氏聞出し給ひて夜討にして殺されたり。上杉の一族愈恨を銜み憤りて成氏を疎み参らすること芥の如し。千葉康胤に扶持せられ日を重ね月を送り年去れども心を寄する軍兵なし。今は只管潦倒の身となり微なる御有様口惜しうこそおぼしける。豊島の一揆二百余人成氏に心を寄せ扇が谷に叛きしかば定正の老臣太田備中守入道道灌人数三千余騎にて武州に発向し豊島を討つて遺類なり。同十年五月五日相州平塚の城に立籠る大森伊豆守退治の為道灌馳せ向ひ一日の中に攻め落す。大森は城を逃れて箱根の奥に遁れ隠れたり。同年七月に長尾昌賢様々申して成氏と顕定は和睦の儀を整へ今年成氏四十二歳同十七日に再び古河の御所に帰り給ふ。関宿の城をば成氏の旧臣梁田中務大輔に預けらる。御所の有様流石に綺麗に住みなされしも旧主座を去つて久しくなりぬれば見しにも荒れ果てゝ八重葎門を閉ぢ荻吹荒む軒端の風苔洩り兼ぬる板間の月物毎に憂を催し悲み添ふる空の景色冴え返りたる計にて大名小名も参り集ふ事もなく今更本意を失ふ心地して勇める色はなかりけり。
 


   十一 太田道灌築鵠台城

同十一年七月に下総国白井の城に一揆起り管領定正に楯を突き近隣を掠め遠境を脅すと聞えしかば太田道灌三千余騎を率して押寄せたりけれども城強くして容易く落ち難く見えしかば鵠台に向城を構へ謀を廻らし城中に返忠のものありといはせければ諸兵それより疑出でてぬけ/\に落失せたり。僅に廿四人になりて城の内寂び返りたるを見澄して寄手三千余騎同じき十五日の未明にどつと懸りて攻上りければ城中廿四人の者共は思ふ程戦うて討死す。城に火をかけ勝鬨を作りて引いて帰りける。
 


   十二 両上杉家確執(付)長尾左衛門尉父子属山内顕定

扇谷の管領上杉修理大夫定正の家老長尾将監入道に二人の子息あり。兄は左衛門尉弟は尾張守と申して父の蔭より成出でて威勢高く輝きたり。左衛門尉が嫡子をば四郎右衛門景春と名づく。後に入道して伊玄と号す。尾張守が嫡子をば修理助と名づく。此者幼少より容儀美しく心ざま賢ければ定正限りなく寵愛し憐愍浅からざりしかば後に奢心つきて傍輩にも無礼をいたし剰へ長尾左衛門尉父子を追退けんと思ふ心つきて折々は主君に讒し申しけるを左衛門尉父子聞付けて、言語道断の振舞かな家に取つては庶子の末なり君の寵に矜りて我意に任する振舞だに国家政道の邪魔なり況や一門の中に於て此悪心を企つる条其儀ならば思ひ知らする事のあらんずるものを、と遺恨頻に起りしかば何とはなしに双方快からず。太田道灌即ち定正に向ひて竊に諫言しけるやう、長尾左衛門尉父子が為体いかさまにも大事を思立つと見えて候、其起は尾張守父子に遺恨を挟むより始まりて終には君の御為国家の災となり候べし涓々の時に防がざれば滔々の時を如何といひ災をば微萌の時に防ぐと申す事の候、早く長尾父子を追伐し給ふか然らずば尾張守父子近習を退け以後に於ていかにも御計策を廻らし給ふべきか、と申しけれども定正更に聞入れ給はず。又中言するものありて長尾父子に■口に耳/きけるは太田道灌己れ一人世にあらんやとや修理大夫殿へ長尾殿の讒言せられ候ぞや心得給へ、といひければ左衛門尉父子之を聞きて、安からぬ事なか尾張守父子には側められ大谷は讒せされて我家何に依つてか立つべき此者共に一味して我を亡さんと計り給ふ定正の御心こそ遺恨なれ此上はいかにも思立ちて彼等にも塩をつけ主君修理大夫殿にも思ひ知らせ奉らん、とて色に出して罵り怒る。長尾が家の子に三戸駿河守多田備中守上田兵庫助頻に諫め申しけるは、抑昔より主君に向ひて弓を彎き楯を突くものをば天道に外れ地理に違ひ人望に背く悪人なりと申伝へ候ぞ末代迄も名こそ惜しけれ、たゞ身を退きて幾度も御歎きを以て私なき仔細を仰開かれ候へかし然らば管領もなどか聞召入れ給はざらん、と再三諫め申しけれども景春更に用ひず。人の命は明くるも知らず仔細を陳ずる間に若し空しく死なば鬱憤徒に尸に積みて共に土中に埋れ未来永々の妄念となるべし。唯討死して本望とすべし。若し其間に定正より討手を給はる程ならば忽に後を取り諸方流浪の身となり一夜の宿を借す人なく路徑に倒れて死するより外の事あるべからず。人に先をせられんよりは人に先立ちて運を計るに如く事なし、とて大石一類長尾一族其勢四千余騎を引率し武州五十子まで押出でつゝ陣を取つて控へたり。扇谷には折節人数はなかりけり、僅に五百余騎此小勢にては中々戦ふに叶ふべからず、とて同国鉢形の城に立籠り要害厳しかりければ長尾父子続きても押寄する事なく山内顕定の手に属したり。定正即ち顕定の方へ使を以て申されけるは、長尾父子既に反逆を企て譜第の主君に向ひて弓を彎く者なり斯る悪逆無道のものに与し給はんこと然るべからず天下反逆の者の為に見懲にせん、と申入れられたり。顕定は、如何なる事とも存じ寄らず顕定を頼みて入来り候ものなり窮鳥懐に入るときんば猟師も殺さずとこそ承り候へ如何に仰せ候とも頼むと申して来候者をばえこそ追出し候事は仕るまじきにて候、と申返して猶人数を差添へて長尾父子をば守護させられける。
 


   十三 太田道灌被誅

修理大夫定正は修理大夫持朝の四男なり。子息一人もおはしまさず。是に依つて舎兄朝昌の嫡男朝良を養子として家督を譲る。山内民部大輔顕定は前代より以来上杉家の棟梁として彼の旗下に諸国属しければ只今人数を催さるゝとも廿万余騎はこれあるべし。定正も扇谷にあり乍ら猶山内の下知を守りて露ばかりも反く心のなかりし所に顕定忽ち扇谷を見放ち長尾父子を立て入れ給ふ事あるべき道とも覚えず、とて定正方の輩は爪弾をして恨むれど甲斐なし。此事の起りは太田道灌が所為なりとて山内方よりは太田を悪み給ふこと斜ならず。道灌は智謀武勇のものなる故に扇谷の今日迄も滅亡せざるは此者の謀に依つてなり。楚に范増あるが如しと諸人等しく思ひけるを、顕定斯様に悪み給へば、道灌大に怒つて、山内を反き奉りいかにしもして顕定を亡さばや、と骨髄に徹りて思ひ入りたり。定正此事を聞き給ひ大に驚き、屡諫め給へども聞入れず。されば太田道灌多年の粉骨徒に地に落ちて国家災害の張本といはれ口惜しき事に思ひて反逆を企て江戸川越の両城を固め壁を高くし塁を深くして人数を籠め兵粮薪馬の糠藁に至る迄乏しき所なく積入れたりければたとひ何万騎にて攻むるとも容易く落つべしとは見えざりけり。顕定、年々いかにもして扇谷を亡さばやと思はれしかども道灌があらん程は叶ふべからず此度ぞよき時節なると内談して定正の方へ使を以て仰せけるは、両家元来遺恨なしと雖、一旦の義を守る所なり、鷸■虫に横棒三本を縦棒一本で貫く/の弊に乗るものあらば是れ却て両家の滅亡を招くにあらずや此事を根元其張本を退治して国家の憂を息せんと存ず此儀御承引なきに於ては顕定甲を戴き軍門に命を落すとも力なし、とぞ申越されける。定正使者に対面あり、何の遠慮評定にも及ばず仰の通り承りぬ関東の諸国静治なることは両家相守りて太平の政道をいたすが故なり今若し鉾楯に及ばゝ諸侍双方に別れ軍闘所々に起出で必ず一方は滅亡すべし唇缺けて歯さむしとは此事なるべし他国よりして世を窺ひ乱を起して弊を討たば上杉の家忽に亡び先祖の恥辱となるべき条、互に察して存ずる所なり然らば此張本を誅して両家私なき旨を散じ候べし、とぞ申返されける。是より両上杉内證の確執打解けて顕定重ねて竊に申遣されけるは太田道灌は是れ自他の邪魔なり早く計りて討ち給へ此方には長尾父子を誅して騒動を鎮め候べし、と申されしかば、定正何の分別もなく長尾を討つて出され候はゞ太田をば誅し申すべし此上は互に遺恨候まじ、とて文明十八年七月廿六日相州糟谷の城に押寄せ難なく道灌をぞ誅せられける。若し討洩らす事もやとて顕定は五百余騎にて高見原まで出得でられしかども夫迄もなく討取りて山内にぞ遣されける。行路難山にしもあらず水にしもあらず、唯人情反覆の間にありと白居易が書きたりし筆の跡さこそと思合はするに定正智慮なく此謀に乗せられけん。あさましといふも愚なり。
 


   十四 両上杉相州菅谷原対陣(付)同国真巻原軍

さる程に江戸川越の両城には軍兵数多入れ置きたりしに定正既に太田道灌を誅戮し給ふと聞きて、頼もしからぬ有様かな、さしも忠功智謀の名臣を咎なくして殺さるゝこと魔魅の掌握に陥りて運命傾く験なるべし、拙き君の手に属して非常の死をいたさんよりは、とて皆悉く城を明けて山内にぞ属しける。定正の嫡子朝良が執事曾我兵庫頭をば河越の城主とし子息豊後守をば江戸の城にぞ据ゑられける。道灌が家来斎藤加賀守は軍法の故実ありて武道の正理を知るものなりとて定正遂に召出して団扇を預けて軍奉行となし給ふ。兎角して月日は重なれども山内よりは絶えて再び音信もなく長尾を誅せらるべき沙汰も聞えず。修理大夫謀られたりと思ひて大に鬱憤を挟み愈両上杉確執の色を立て軍兵を招き鏃を磨きければ、或は定正の智慮短きを見限りて山内に属するものあり或は顕定の所行情なしとて扇谷に属するもあり、両上杉立分れ敵味方刃を争ふ。同年十一月三日両上杉の大将相州菅谷原に対陣す。長享二年の春武州松山に出張し只小攻合ばかりにて両陣相引に退き帰る。延徳元年二月五日山内顕定子息憲房両将として一千余騎を率して相州の真巻原に出張す。扇谷定正二百余騎にて走せ向はる。軍は勢の多少によらず、たゞ謀の得否にありといふ事は後漢の光武の侮りし所、敵に味方を見合はすれば当るべきにあらずと雖、定正少しも機を呑まれず少とも見繕ふ所もなく相懸りにむざと攻めて一矢射違ふ程こそあれ皆弓矢をば棄てて打物になりて真黒にぞ懸りたりける。顕定の軍兵共如何したりけん心怯して進むべく見えて進まず。定正の兵共之に機を得て、えいや声を出して手痛く切捲りしかば顕定の一千余騎怺へずして終に崩れて敗北す。定正もさすがに小勢なりければ追棄てゝ引返し討取る所の首七十余を切懸けて扇谷にぞ帰られける。
 


   十五 長尾景春帰参扇谷殿(付)菅谷原合戦

同六月十八日顕定憲房父子二千余騎を率して相州の菅谷原に出張せられしかば関東の諸勢多く属して雲霞の如し。定正此由聞き給ひ七百余騎にて子息五郎朝良と諸共に軍を備へて馳せ向はる。古河の御所公方政氏は修理大夫定正に心を合せて五百余騎にて御出馬あり。日来長尾四郎左衛門尉景春入道伊玄は公方政氏公へ召されて様々仰含められ強く諫を加へ給ふ。景春入道理に屈して申入れけるは、山内殿(扇谷殿カ)に対して一箇の恨を存ずる事なし太田入道が所行の悪さに斯くは思ひ立ちて候、道灌既に誅せられて候上は又何をか怨を残し候はん但今此乱逆に及び両上杉互角の合戦終には一方亡びずといふこと候まじ入道は譜第として扇谷の家臣なり目の前に主君を亡して某何の思出か候べき、いかやうにも帰参の儀をば上意に任せ奉る由、申しければ政氏即ち定正に仰入れられ勘気を許され扇谷にぞ帰りける。此度菅谷原に打出でしかば山内方には既に殺さるべき景春が民部大輔殿に助け置かれ恩を忘れて定正に帰参せしこそ浅ましけれ、といふものもあり。又理を弁へざる輩は、いや/\武士の命は義に依つて軽きこと鵞毛の如しといへり顕定は一旦の命を救はれし所なり扇谷は重代厚恩の主君なり一旦恨を晴れたる上は義と忠との重きこと太山に過ぎたり、と志を感ずる人もありけり。さる程に両陣互に鬨を作り一矢違ふかと見えし所に五郎朝良の二百余騎長尾新五郎同修理亮か百七十騎と寄せ合せ少時戦ふ所に朝良立足もなく追立てられて引退く。顕定憲房父子横合に懸りて引退く朝良を討止めんとす。定正之を見て左右の軍兵に下知して、朝良討たすな者共、とてどつと喚いて打つて懸る。顕定の兵共駈崩されて引退く。長尾入道が二百五十騎藤田三郎が三百騎と駈合ひて火花を散らして攻め戦ふ。藤田痛手を負ひて引退きしかば軍兵乱れて木葉の如くちり/\になる。長尾機に乗つて采を上げ味方を進め、懸れや/\、と下知しければ顕定の謀崩れて我れ先にと引いて行く。汚し返せ、といへど只引に引きければ顕定父子力なく押立てられて退き給ふ。勝に乗つて退懸けしかども日既に暮れければ長追なせそと引返し定正即ち政氏公に色代して古河の御所に送り入れ奉り扇谷にぞ帰られける。
 


   十六 古河公方与力扇谷(付)武州高見原軍

同じき年十一月三日上杉修理大夫定正古河公方政氏公二千余騎を率して武州高見原に出張あり。上杉民部大輔顕定此由を聞きて三千余騎にて打立ち両陣の間二町を隔てゝ足軽を出し攻合ひつゝ漸々に攻寄せ双方抜き連れて入り乱れさん/\に攻め戦ふ。天地を響かす鬨の声山河に満つる矢叫の音旗の手交へては錦を晒すかと疑ひ刃の光日に映じて尾花の末より猶繁し。顕定の兵に臼井彦七といふもの洗革の大鎧に五枚甲の緒を〆め四尺余りの太刀を打振り四方八面に切つて廻る。此切先に当るもの或は馬の諸膝薙がれ落つる所を首を取り或は甲の真額を二つに打割られ尻居になりて死するもあり。此勢に辟易して定正の軍兵しどろになりて開き靡く。長尾入道が家の子に浅間小次郎といふものが放つ矢に臼井彦七が内甲を篦深に射させ目昏れ心消えて太刀を杖に突き立竦みたる所を定正長尾入道下知して新手を入替へ急に戦ふ。顕定の軍兵後より崩れて敗北す。大将顕定も既に危く見えし所に田子山本の者共命を棄てゝ返し合せ討死しける其間に辛き虎口を遁れて山内にぞ引返しける。
 


   十七 堀越御所政知逝去(付)伊勢新九郎討取堀越

同じき三年四月五日堀越の御所左兵衛督政知逝去し給ふ。春秋五十七歳。勝幢院殿とぞ号しける。去ぬる明応の末の年に御子息茶々丸家督を嗣ぎ伊豆国堀越の御所とて近境諸国の武士恐れ従ひける所に其家臣外山豊前守秋山蔵人両人を近習の者の讒を信じて誅戮し給ひしかば伊豆国中大に騒動して御所の上下乱れ立ちたり。爰に伊勢新九郎長氏は後に北条早雲と号す。始め京都に在りて浪牢の身たりしが思立ちて都を出てつゝ駿河国に下り今川五郎氏親を頼み漸々経上りて氏親の縁者となり高国寺辺を知行して郎従三百余人を扶持して百姓を憐愍し諸侍に情深かりしかば心を寄するもの少なからず。此頃東国乱れて静ならず。関東の公方は野州古河御所にまし/\両上杉は確執し上野相模の舘に居住し諸将諸侍皆此下知に従ひ悉く馳せ集りて日毎に戦止むことなし。伊豆国中の軍兵も彼の催促に応じて東国の武士は一人も是なし。北条堀越の御所はいつしか寂び返りて下部童のみ集り居て物の用に立つべき侍は一人もなかりしかば伊勢新九郎此由を聞澄し人数五百ばかりを引率し俄に押寄せ鬨を作る。堀越の御所には思ひ寄らぬ事にてはあり防ぎ戦ふ迄もなく上を下へ返しける。其間に軍兵乱れ入つて屋形に火をかけ焼き立てしかば有合ひける煙に咽びて駈出づるを打伏せ薙伏せ切倒す。之に立合はんとするものは一人もなく我先にと怯ぢふためく。関戸播磨守一人踏み止まり茶々丸をば大森山へ落し参らせ我身は思ふやうに防ぎ戦ひ深手負ひて討死す。茶々丸殿は敵後より追詰めければ叶はじと思ひて山本の寺に駈入りて自害して伏し給ふ。是より新九郎長氏伊豆国を領知し韮山の城に居住す。国中の侍三津の山本江梨の鈴木田子の山本女羅の村田佐藤梅原雲見高橋上村を始めとして皆旗下に属せしかば各本領に安堵せしむ。其上新九郎京都を出でて駿州に下りし時其友達荒木兵庫頭田目権兵衛山中才四郎荒川又次郎大道寺太郎有竹兵衛尉伊勢新九郎以上七人同道して下りしに新九郎武略智謀あるを以て勢に乗つて大将となり同道の六人を家老となし伊勢の称号を改め北条と名乗ること武運の時を得たる所威勢八方に輝き関八州を手に入れんと昼夜に秘計を廻らしける。
 


   十八 上杉修理大夫定正逝去

明応二年十月五日上杉修理大輔定正生年五十二歳一朝の嵐と共に命葉忽に落ち散りたり。両上杉未だ静治ならず関東愈乱れ立ちて其弊を憂ふもの諸国峙ちて互に軍を取結ぶ。今既に一方の大将逝去あり。棟梁挫けて柱礎傾き綱維絶えて網目窄るなりとは斯る例なるべし。行末如何ならんと諸軍歎き悲めり。されども子息五郎朝良相嗣ぎて武威を逞しくし敵を靡す器量ありて江戸川越の両城を守護し猶顕定と相挑み撓みたる色はなかりけり。
 


   十九 三浦陸奥守時高滅亡

爰に相州新井の城主三浦陸奥守時高は三浦大介義明が後胤として領国に居住す。然るに時高一人の子なし。是に依つて上杉治部少輔高救の次男を養子とし三浦の家督を譲るべきに定まりし所に思ひかけず実子誕生せしかば時高いつしか心変じて養子の太郎義同を追出すべき企あり。家の老臣共屡諫むれども用ひず。様様辛く当りしかは義同身を置くに叶はずして髻を切つて出家になり三浦を忍び出でて相州諏訪原の惣世寺に引籠り道寸と名を付け行ひ澄して居たりけり。時高は愈万事を雅意に任せ家を治むる道に違ひ此小児を寵愛して世間の法を破りければ三浦の一族竦み果てゝ中絶す。家人若党譜第の者共時高を背きて義同を慕ひ惣世寺へ馳せ集る。又義同が実の母は相州小田原の城主大森式部少輔実頼が女なりければ彼の一族門葉一味して同三年九月廿三日の夜義同を大将として二百余人新井城へ押寄せ鬨を作りて込み入りつゝ時高をば討取りたり。梅沢の住人中村式部少輔切つて出でつゝ散々に防ぎ戦ひて討死しける其間に女房幼き子を抱きて後の門より落失せたり。家に火をかけ焼崩して義同多年の憤を散じ三浦の跡を奪ひ取りてめでたく栄えて居住しけり。

 

   二十 伊勢新九郎乗取小田原城

夫れ人世の否泰は一枯一栄たとへば権衡の錘の如し。低昂更に定むべからず。運に乗る時は星雲の上にも翔り時を失ふときんば深淵の底にも沈む。一朝の喜び一夕の悲み其有様たゞ夢とやせん現とやいはん。相州小田原城主大森式部少輔実頼は去年九月に三浦義同に加勢して時高を討たせ其跡を奪ひ己が孫に世を持たしめ限りなく喜び給ふ所に同じき四年の春我居城を打落され浪々逐電の身となり果てたり。実頼年来扇谷の定正に属して顕定に楯を突き定正病死し給ひて子息朝良に相従ひ城の要害を厳しくして其近境には手を指す者もなかりし所に伊勢新九郎長氏親みをなしさま/\心底を語り顕し、此上には我舘に敵寄せ来らば後詰し給へ敵若し此城を押詰めなば長氏後詰をいたすべし向後水魚の交をいたし一族の思をなすべし、と誓言して語らひしかば実頼入道真と心得他念なく入魂しけり。新九郎此間に山内顕定に内通し朝良方を打亡すべき契約して軍兵を入るゝに道狭からぬ手行を廻らし謀を企みける心の中こそ恐しけれ。同じき二月十六日猪狩に事寄せて軍兵五百余騎程の者に出立たせ箱根の山を打越え物具緊々と固めて小田原の城に取懸け鬨を作りて攻入りけり。俄の事にてはあり折節人数は城中に少し。下部女房幼き子供は鬨の声に膽を消し周章慌忙き伏転びて逃げ落つる。実頼入道は唯呆れたる体にて茫然としたる計にて思ひ分けたる事もなし。家の子松本次郎後の門より落し参らせ我身は表に走り出でて込入る敵を門より外へ追返す。同国の住人成田市之丞甲斐々々しく物具固め打つて出でつゝ新九郎が先陣多目玄蕃允が同心に粟田六郎といふものを討取り松本次郎とたゞ二人進み来る寄手に躍り懸り/\散々に戦ひ切死にこそしたりけれ。城既に落ちければ勝鬨をどつと行ひ新九郎長氏事故なく城を乗取る。当国の住人松田左衛門尉頼重といふもの一番に馳せ来りて新九郎に属せしかば国中皆手に入りて猛威之より盛なり。
 


   廿一 左兵衛督成氏逝去

伊豆相模の間には伊勢新九郎長氏といふ者起り出でて狼の如くに貪り蠶の如くに食ひて北条小田原の両城を攻取り猛威を振ふと聞えしかば古河の公方には安き心もおはしまさず。両上杉は互に争ひ四方騒ぎて八方乱れ軍更に絶ゆることなし。猶此上には如何なる事か出来るべきと人の心皆薄氷を踏んで国の危きこと深淵に臨むが如し。周の世衰へて七雄起り漢の代傾きて三国峙ち互に二を亡して一に合せんとせし戦国の時に異ならず。然る所に左兵衛督成氏公例ならず心地煩ひおはします。諸国乱世の折柄なれば捗々しき医師だにもなし。年頃鬱陶の積りにや漸々に気色衰へ今ははや此世の頼みもなくなり給ひ御子息政氏を枕許に召されて、成氏昨日迄も運命終に開けなば錦を着て故郷に帰り鎌倉を安堵して其上の事共をも語り出さん節をこそ心のあらましに身を慰めてありつるを今は甲斐なき夢となり司命の鬼録に名を記さん我れ空しく成行くとも秘計を廻らし敵を打従へ再び鎌倉に還往し関八州を手に属せば中々無双の孝行なるべし泉下の思出何事の弔かこれに勝る事あらん、とて苦しげなる息の下より念仏十遍ばかり唱へ給ひ其侭縡切れ給ひにけり。今年明応六年九月三十日御歳六十四歳なり。哀れむべし季秋の暮虚穹に落つる雁の声雲行く風に吹送り物すさまじき空の景色いとゞ憂を催しけり。事しげき世に任せて葬送の営みも方の如くに勤められ山本近き野辺の叢に一堆の塚の主となし奉りけり。哀れなるかな生きては蝸牛双角の間に争ひ瞋恨の炎に肝膽を爛らし悲しきかな死しては螻■虫に豈/片豸の垤に埋もれ鬱陶の苔に身体を腐しける事を。たゞ其標として一樹の松の梢にはしたなき嵐の訪るゝ計なり。

 

鎌倉公方九代記 巻九

政氏軍記

 

   一 北条早雲感霊夢(付)三嶋明神縁起

左兵衛督政氏公は成氏公の嫡男として古河の御所におはしまし又管領と共に国家の静治を心にかけ昼夜朝暮に粉骨を尽し氷を抱き膽を嘗めて秘計を廻らし給ふと雖、傾きかけたる家運の有様今更本に復すべしとも見えざりけり。然るに伊勢新九郎長氏既に布衣白屋の下より起りて智謀秘計を廻らし堀越の御所を討取り奉り其威勢漸く駿豆両国に振ひ諸侍既に帰伏して近隣に恐るゝ敵なし。北条に在城して伊勢の称号を改め時政草業の嘉例を追ひて平氏昌栄の大功を遂げんことを思ひこれより北条氏成と名乗り子息氏綱成長ありてより出家して層雲と号し通号を宗瑞庵主とぞ称しける。或時家老の輩を集めて軍法の手段を談ぜらるる事数刻に及びて後物語せられけるは、昔は源平両家相並びて朝廷を守衛し国を治め世を鎮めて其高下なかりしこと牛角の如く鳥翼に似たり保元平治の頃に至つて源家衰敗し平家繁昌す。治承養和の年に及びて源家起り嘉永元暦に平家亡びたり。三代の後に平氏世を取りて北条九代既に天下の権を恣にし相模入道宗鑑が時に足利高氏世を奪うて源家を起し天下を掌に治めて京鎌倉の両公方を以て国家の政道をいたさるゝ所に時世移りて鎌倉の持氏より以来東国の公方はあるに甲斐なし堀越殿も亦巌二の末として亡び給ふ源家の余類皆牢浪して滅亡すべき時到来す陰退陽進むの理古今定まれる道なり今の管領上杉両家は是れ藤原氏の族なり国家を治むるに相応せず爰に我家門は是れ平氏なり源家衰廃に及びて必ず世を保つべき時到りぬ、いかにもして両上杉を亡し国家を手に属せんと思ふはいかに、と申されしかば荒木山中大道寺以下の人々一同に此儀尤然るべし、とぞ申されける。さらば三島の大明神に参籠さつて信心不二の懇祈をなし給へ天運の時到り神力の徳を借し我等が忠戦の功を顕さば、などか御本意を遂げ給はざらん疾々思召立ち給へ、と勧め申しければ、早雲大に喜悦して七日の参籠をぞ催されける。

抑三島大明神と申すは人王第七代孝霊天皇の御廟として伊予国越智郡より此伊豆国賀茂郡に跡を垂れ給ふ。本地は大通智勝如来なり。是に依つて伊予国河野の門族は彼氏人にて越智を姓とし大通の通の字を諱に取り給へり。津の国島下郡三島の賀茂社も彼御神と御一体の御事なり。東域の衆生済度の為一葉の舟に召され此所に移り顕れおはします。早雲深く此御神に帰依して心中の所願を祈られしかば神慮誠に納受の御眦をや廻らし給ひけん満ずる夜明応二年正月二日の寅の刻計に新に霊夢を蒙り給ふ。たとへば大なる野原に大杉二本あり、一つの鼠走せ来り其根を咬み食へば二本の杉は地に倒る、鼠は忽ち虎に化して屠ると見て、夢は即ち覚めにけり。早雲自ら夢合せし給はく。関東は両上杉の分国なり。二本の杉は両上杉なるべし。我は是れ子の年にて永享四年に誕生せり正に両上杉を亡し東国に威を振ひ治世の主となるべき瑞夢なりと喜び神馬太刀鎧其外種々の宝物を捧げ下向の後は愈只管に上杉退治の謀を廻らし民を撫で兵を懐け軍道の営より外他事なしとかや。
 


   二 武州立河原軍

北条入道早雲愈武威逞くして秘計を廻らされければ近国他境の諸将諸侍等志を通じ忠を存ずるもの少なからず。小田原城主大森式部少輔実頼は扇谷の管領に属して下知を守る所に早雲之を攻取りしかば管領定正大に怒つて分国の勢を催し攻討つべき由聞えけり。早雲謀を以て扇谷殿に和睦を乞ひ武蔵国住人諏訪右馬助を使者として、御旗下となりて下知に従ふべき旨再三申遣されしかば、定正之を真と思ひ小田原の城を取返すべき義勢もなし。斯くて定正逝去し給ひ子息五郎朝良家督を継ぎ給ひけり。山内の管領上杉顕定此の愁傷の弊に乗り扇谷五郎朝良を攻干さんとて軍兵を催されしかば駿州今川氏輝は扇谷殿に縁者なれば人数を遣して加勢せらる。北条早雲は旗下にて杉田左衛門頼重に八十騎の兵を差添へ扇谷に加勢あり。さる程に扇谷の五郎朝良大将軍として武州立河原に出張せらる。山内管領顕定入道可淳同子息定憲東八州の軍兵を率して永正元年九月廿七日立河原に押出でつゝ両陣互に鬨の声を揚げ矢軍するかとぞ見えし。敵味方むずと詰寄せ追靡け打傾け火花を散らして攻合ひ日頃面を見知り名を聞きし輩両陣同じく名乗りて入乱れ恥を思ひ義を守り命を限りに戦ひければ手負死人は算を乱していやが上に重なり伏したり。されども一日戦ひ暮して未だ勝負はなかりけり。酉の下刻に及びて両陣さつと引上げ互に人馬を休め夜既に明けゝれば又出合ひて攻め戦ふ。山の内方旗の手乱れて動もすれば駈立てられて引色に見えし所に越後の軍勢馳せ来り顕定の陣に属し新手に入変りて駈立てしかば朝良の軍兵開き靡きて落ちて行く。朝良終に敗北して河越の城に引籠り給へば落散りたる軍兵共跡を尋ねて追々に走せ来る。大将朝良暫く梅酸の渇をぞ休められける。山内顕定は、いざやこれより直に河越の城に押懸け朝良を攻干さん、とて同十月三日顕定定憲両大将として越後の上杉民部大輔房能長尾為景東国越州の軍勢を尽し河越の城に取懸け十重二十重に囲みて夜昼となく息をも継がせず攻めければ城中にも義を守り節を立つる兵共身命をも顧みず防ぎ戦ふと雖、寄手新手を入替へ/\討たるゝをもいとはず切らるゝをも物ともせず潛き連れて攻め登りければ敵味方の手負死人更に其数を知らず。城中の兵今ははや防ぎ兼ねて退屈してこそ覚えけれ。城代曾我兵庫頭出向ひて様々怠状をいたし和睦の義を整へければ顕定定憲此上はとて囲を解きて上州に帰り給へば朝良は江戸の城にぞ引籠られける。
 


   三 長尾為景逆心

同四年の夏の頃より公方左兵衛督政氏と御子息高基と父子の間不和になりて双方鏃を磨き刀を研ぎ相分れて確執し給ふ。是れ唯事にあらず。いかやうにも公方御自滅の解き到れりと心ある人は手を握り眉を顰めて歎き合へり。斯る所に同六年の春越後の上杉房能佞人の讒を信じ其家老長尾六郎為景を討取るべき支度あり。為景聞つけて忽に逆心を起し人数を集めて軍を催し却て房能を襲ひけり。房能大に怒つて軍兵を整へ既に合戦に及びける所如何にしたりけん房能の軍兵共即時に落失せて僅に家子郎従五六十騎になりしかば此にては叶ふべからずとて民部大輔房能越中を指して落ち給ひしを長尾為景跡を慕うて雨溝といふ所にて追詰めたり。家子郎従返し合せて戦ひ終に皆討死し上杉房能も討たれ給ふ。為景それより凱陣し諸将諸侍を靡けて国中の成敗を執行ひける。山内の管領顕定は此由を聞き給ひ、安からぬ事かな我弟の分国を家臣の為に討取られ正しき讐敵を其侭置きては家門の為腹心の痼疾となるべし速に退治して且うは先亡の憤を休め且うは国家の静治をいたすべし、とて子息五郎憲房両大将として上州の軍勢八千余騎を率して同七月廿八日越後国に打越え長尾が舘にぞ押寄せらる。六郎為景折節勢こそなかりけれ要害あさまにして防ぐべきやうもなく一戦に利を失ひ家子郎従数多討たれ我身は寄手の中を切抜け終夜難所を越えて越中国西浜といふ所に落行きたり。顕定入道父子思の外に安々と敵を打落し舘に火をかけて焼払ひ猶国中の政道をぞ行はれける。
 


   四 上杉顕定入道討死

民部大輔顕定入道可淳同子息憲房は年を越えて在国し制法強く行ひ今度長尾為景に一味して房能を討たる輩を尋ね捜し召出し或は所帯を歿収して郡内を追放し或は捕へて頭を刎ねられしかば国中遠近の諸侍其身を隠し兼ね妻女を引連れて或は山深く分入り或は他国に逃げ行きける程に国郡騒ぎ立ちて上下手足を空になして安き心もなかりけり。高梨摂津守も上杉房能に恨むる事ありて長尾六郎に一味して房能を討つたりける張本なり、いかにしても生捕り首を切掛け宿を達せんと計らはれける。高梨聞きて、愈憤りて国中に隠れ居たる余党を語らひ七百余騎同意して椎屋の城に立籠り近隣を放火し兵粮を奪ひ取りて壁を固くし塁を深くして寄せ来る敵を待かけたり。顕定入道可淳同子息憲房之を攻亡さんとて国中の人数を招かるゝと雖、長尾同意の刑罰を強く行はれ其一族親類共所縁につきて恨深くして一人も参らざりければ力及ばず手勢計を引率して同七年六月十二日椎屋の城に押寄せ逆茂木を引除け攻め入らんとせしかば城中の兵二百余騎木戸を開きて打つて出でつゝ短兵急に取拉がんと四角八方に駈立てしかば寄手怺へずして崩れ立ち我れ先にと落行きければ顕定入道父子の旗本開き靡き終に打負けて妻色の庄に引退き猶上州の軍勢を待ちて重ねて退治すべしと評議せらるゝ所に長尾高梨城を払つて打出でければ近辺の勇士馳せ加はり一千二百余騎になつて押懸くると聞えしかば顕定入道僅に八百余騎長森原へ出向うて長尾六郎が五百騎立足もなく追崩し備を立直さんとする所に高梨が七百騎横合に討つて懸り新手を以て切立てしかば上杉の軍兵散々に討なされ裏より崩れて落行きけれ。高梨勝に乗つて真先に進み大将の旗本に討つて懸る。顕定入道長刀を取延べ高梨に向ひ給ふ。摂津守馬より飛下りて顕定に引組み軈て首をぞ掻きにける。切先に貫き差上げて、顕定入道を高梨討取りたり、と呼はりければ上杉の軍兵は力を落して四方に散り乱れて思ひ/\に落ちて行く。長尾が勢は勇み懸り逃ぐるを追詰め突伏せ切倒し勝鬨を作りて追立てしが日既に暮れければ皆馳せ帰り陣を整へ備へを固め静に引きて本城にぞ入りにける。彼の顕定は上杉中興の管領として生年十四歳始めて上州に来り給ひ久しく武将の職に居て威を万人の上に輝し給ふと雖、運命の尽くる所忽に高梨が手に懸り暗暗と討たれて亡郷無頼の鬼となり尸を曠野の草根に委して恨を千歳の苔の下に残し給ふぞ痛はしき。今年五十七歳。法名は可淳大居士とぞ号しける。
 


     五 長尾景春入道反逆

上杉入道顕定討たれ給ひて後長尾六郎為景が威勢大にして国中の軍勢雲霞の如く馳せ付きしかば此勢に乗じて五郎憲房を討つべき用意あり憲房の軍勢共は臆病神の付きたりけん皆ぬけ/\に落行きければ越後の在国叶はずして竊に上州に帰りて白井の城にぞ籠られける。上杉家の老臣長尾左衛門尉景春入道伊玄は忠功比類なき股肱の良士と頼み思はれける所に長尾六郎為景に一味して逆心を企て山内殿を取除きければ親属の家子三戸駿河守太田備中守諫言しけるやう、昔より以来譜代恩顧の主に向ひて楯を穿き弓を引きしもの一人として運の尽きざることなし然るに今忽に逆心を企て給ふこと偏に家運の傾く端なるべし、ただ思召止り給へ、といひけれども、伊玄入道此諫言を用ひずして軍兵を催し沼田の庄に陣を張りて上杉家を攻干すべき謀をぞいたしける。之をだに難義と思ふ所に小田原城主北条新九郎入道早雲駿河伊豆領国に跨りて相州を凌ぎ長尾六郎に一味して相模国住吉の城を取立て弊を窺うて出張せしかば上杉治部少輔入道建芳被官上田蔵人入道既に早雲が下知に従ひ軍勢を集めて武州神奈川に押出でつゝ権現山を城郭として謀叛の色を立てたりけり。東西狼逆し南北蜂起して敵となり味方となり互に峙ちて乱れたる有様は戦国の七雄起り立ちて権を争ひける古も斯くやとぞ覚えたり。山内上杉の人々は更に驚く色もなくて、あら事々しや何程の事かあるべき敵の軍勢多しといふとも味方十人に一人あてに及ぶべからず、たとひ大義の謀をなすといふとも■虫に習/曜の日が火/の光は太陽の明に当り難し、精衛が巨海を埋まんとし蟷螂が降車を遮るに同じかるべきものなりとて静に手分をして伊玄入道が沼田の陣をだに追崩さば小田原北越の敵は恐るゝに足らず、自ら亡ぶべし、とて管領憲房は白井の城に在り乍ら人数を出して沼田を抑へさせ治部少輔入道建芳を神奈川にぞ遣されける。建芳入道手勢を率して打立ちければ管領よりの加勢として成田下総守渋江孫次郎藤田虎寿丸大石源左衛門長尾孫太郎が名代矢野安芸入道長尾但馬守が名代成田中務丞其外武州の南一揆を狩催し軍勢都合二万余騎永正七年七月十一日神奈川権現山の城に押寄せたり。彼山の為体四方嶮岨にして切岸高く南は洋海漫々として雲の浪煙の波天に連りて辺なく北は深田の底を知らず馬の足更に立つべからず。西の方には小山の続きたる其間を堀切つて本覚寺の地蔵堂をば根城に拵へ越後駿河の加勢を以て固めさせ、東の大手には大将蔵人入道が軍勢甲の緒を〆め弓の弦首湿し矢束解きて待懸けたり。寄手二万余騎稲麻竹葦の如く城の三方を取囲み鬨の声を上げければ城中にも鬨を合せたり。天地震動して山鳴り海湧きて煙塵起り晴天忽に霧闇し寄手の先陣成田下総守が五百余騎潜き上り逆茂木を引破る。神奈川の住人間宮彦四郎と名乗つて黒糸縅の鎧に四目結の笠印を浜風に吹翳し五尺余りの大太刀を抜き持ち木戸を開きて切つて出でつゝ人馬をいはず当るを幸に薙倒し打落す。寄手の大勢之を真中に取籠め討取つて高名せんと駈寄する。間宮更に物ともせず射向の袖を差翳し四方に打払ひ一面に追捲り其勇猛の勢獅子象の如くなりければ成田が五百余騎間宮一人に切立てられむら/\になつて引退く。二陣に続きて駈寄する寄手の三百余騎息をも継がせず戦ひしかば喜四郎既に危く見えければ城中の兵共間宮を討たすなと声々に呼はつて二百余騎突いて出でつゝ追捲つ半時ばかり戦ふ。寄手の三陣入替り手痛く攻付けしかば城の兵戦ひ疲れて引上ぐる。寄手勝に乗つて城に押入らんとす。城中の軍勢共木戸を下して引籠る。寄手の中に武州稲毛の住人田島新五郎といふもの鎌槍を以て木戸の縄を切解く。城中之を見て大石を投げ出すに田島が甲の鉢を打割られ目昏き転び落ちたりければ後に続く兵共皆一同に引退く。後陣に控へたる武州南一揆の者共五百余騎入変りて押懸る。搦手の大将藤田虎寿丸八百余騎にてたゞ一揉に攻落さんと喚き叫んで詰懸くるに北越小田原の加勢三百余人山の上より寄手を見下し拳に引付け散々に射ければ面に進む兵廿八騎矢庭に射倒されて亡せにけり。寄手少し白みて足並しどろになる所を得たりやと打つて出であたり。寄手入替り堀切を堺うて矢軍に時を移す。七月十一日の午の刻より同じき十九日の晩景に至る迄夜昼九日攻戦ふ。寄手は新手を入替へ/\人馬の息を継がせて押懸る。城中は小勢なれども要害能ければ容易く破られず。されども三方の敵を防ぎ小屋に燃え付く火矢を打消すにに兵粮食ふべき隙もなし。終には城の後の要害に頼みたる本覚寺を藤田に攻取られしかば叶はじとや思ひけん十九日の夜半ばかり城に火をかけ其煙に紛れて大将上田入道を始めて軍勢悉く行方知らず落失せたり。管領憲房大に喜び木村式部少輔入道を以て使者として京都の将軍へ訴へ申し長尾六郎追伐の儀を計られける。
 


   六 三浦道寸討死(付)新井城歿落(并)怨霊

三浦介義同は去ぬる明応三年九月に義父時高を討つて新井の城を乗り受領して陸奥守に補せられ従四位下に任ぜらる。入道して道寸と号す。子息荒次郎は弾正少弼に補せられ義意と号して上総国の守護真里谷三河守が壻となし隣交の盟約を厚うして新井の城に仕居ゑ道寸は相州岡崎の城に居住し管領の命に従ひ幕下に属し相州の中郡を知行して威勢近辺に双びなく光彩門戸になつ。相武両国の武士来り従ふ。彼の岡崎の城は昔右大将頼朝卿の御時に三浦大介義明が弟岡崎悪四郎義実が居城として三浦の一族数代持続けし所なれば要害思ふが侭に支度して墻壁高く塁塹深ければたとひ数万の軍兵ありとも容易く攻寄り難き名城なり。然るに北条新九郎入道早雲既に小田原の城を打取り大庭の城を攻め落すと雖、岡崎の城は猶管領に属して守りしかばいかにもして岡崎を手に入れ相州一国を平均に取鎮めばやと思ひ立ちて永正九年八月十三日伊豆相模の勢を催し岡崎の城に押寄せたり。城中強く防ぎ堅く守つて寄手を打つこと数知らず。早雲謀を以つて攻むれば城中手段を変へて防ぎ戦ふ。敵味方の鬨の声に太山も崩れて海に入り広原も湧きて峰に続くかと覚えけり。寄手の方より大道寺太郎荒川又四郎を先として土肥の富永三郎左衛門田子の山本太郎左衛門妻良の村田市之助以下の軍兵力を竭して攻めたりしかば城中より佐保田豊後守大森越後守を初として二百余騎木戸を開きて切て出づる。寄手の大勢之を押包みて一人も余さず討取らんとす。城兵少しも機を呑まれず四方八面に当つて追靡け打開き一以て千に配り精気既に白虹を貫き勇猛又秋霜よりも烈し。両陣互に振ひ打つて風の廻るが如く焔の渦巻くに相似たり。されども運の傾く所孫呉李衛が術策も其甲斐なく一二の木戸を攻破られ寄手いやが上に攻めかけしかば城兵心ばかりは進めども散々に追込まれ頭をも差出すべき力もなし。今は叶ふべからず一先づ此城を落ちて重ねて軍兵を催し鬱陶を散ずべしとて大将道寸入道を初として佐保田大森以下の兵搦手より落ちて同国住吉の城にぞ籠りける。早雲押続きて住吉の城に取懸け日夜攻めたりければ爰をも落されて鎌倉を指して引きけるを旗を進め貝太鼓を鳴らし鬨を作り追懸けしが秋谷の大崩にて踏止まりて支へたり。此道は高山崩れて海に入り片岸の細道一騎打にして高低平ならずと雖、勝ち誇りたる北条方の大軍岸崖ともいはず峰に登り海に浸りて追懸けしかば小坪秋谷長坂黒石佐原山の難所をも攻崩されて道寸叶はずして父子一所になり雑兵併せて二千余騎三浦新井の城に立籠る。此城の有様周囲三十余町を垣こめ東一方ばかりこそ僅に陸地に続きけれ。三方は入海の島城にて白浪岸を洗ひ峰高き羊腸の山坂鳥ならでは翔り難く巌峙ちたる雁歯に嶮しき獣と雖通ふに疲れぬべし。たとひ百万騎の勢を以て向ふとも力攻めにはなし難し。千駄櫓と号して大なる岩穴あり。常に米穀千駄を積み入れて兵粮の備とす。されども城の大将道寸至剛智謀ありと雖度々の合戦に人数悉く討たれ勢力撓みたりければさして仕出したる謀もなく城を固く守るを能きにして後詰の援兵を頼むより外の事なし。城の要害厳しければ容易く攻寄する事叶はず。北条早雲は向城を取りて三年迄ぞ攻めにける。城中今は四方の通路を取切られ兵粮既に尽きたりければ中中難義に及びけり。江戸の城主上杉修理大夫朝興は五郎朝良の兄民部少輔朝寧の子なり。朝良之を養子として扇谷殿の名跡を継がしむ。然るに三浦は上杉家の忠臣として此迄も心を変ぜず北条家と争ふこと数年なり。今既に久しく寄手に苦しめらる。急ぎ人数を出して後詰いたし北条早雲を追払ひ陸奥守入道に力を付くべしとて五千余騎を率して相州の中郡に旗を靡かし押出でらる。早雲此由を聞きて、人に先んずる即ば利あり、とて七千余騎を以て城の押に残し置き八千余騎を率して中郡に押寄せ朝興の軍兵と手合し両陣相懸りに入乱れ卯の刻より未の刻まで入替へ/\攻め戦ふ。鬨の声天に響き矢叫の音地に満ちて百千の雷空に轟き切先より火を散らして数万の激電雲に映ず。朝興の軍兵若干討たれしかば終に切崩され敗北し右往左往に落ちて行く。北条方勝鬨を作りて追懸け突伏せ切伏せけれども顧みず我れ先にと引立て一返しも返さず這々江戸の城に逃げ帰る。新井の城には兵粮尽き果て後詰の援兵をこそ頼みけるに上杉打負けて引退くと聞えしかば城中力を落して仰天す。北条早雲既に後詰の勢を追払ひ、後に恐るべき敵はなし新井の城を揉み落さんに今は心安し、とて数万の寄手を押懸けて息をも継がせず攻めける程に逆茂木一重は引破りたり。大森越後守佐保田河内守は大手を固めて防ぎけるが大将道寸入道の前に来りて申しけるは、敵既に後詰の軍に打勝つて勢愈強くなり同勢いやが上に折重なり城に押懸け息をも継がせず揉立て候味方の軍兵共忠節無二に働き命を棄てゝ防ぎ戦ひ寄手を打つこと数知らず矢に中り石弓に打たれ手負死人重なり伏すと雖敵更に物ともせず新手を入替へ/\攻懸り候へば味方の兵精力疲れ矢種尽きて兵粮既に乏しくなり候へば此の城を持ち遂ぐること叶ふべからず然らば忍びやかに城を落ちて上総の方へ赴き荒次郎殿の舅なれば真里谷殿を御頼みあつて重ねて軍勢を催し此城を取返し候はん謀を廻らし給へ二年の内をば過すべからず候、とぞ申しける。道寸申されけるやうは、あたらしき儀なれども当家は三浦大介義明其上右大将家に忠勤を尽して討死せし以来源家累代の重臣として此所の主となり一門の大名諸国の受領九十三人門葉百司既に五百余人扶桑一門の間に誰かは軽しめ思はん然る所に中古元弘の乱世に三浦介時継入道即ち相模二郎時行に与して反逆を企て尾州の熱田にて生捕られ六条河原に於て誅せらる。其子高継は高倉の恵源禅門に与して討たれしより以来門族衰へ威勢■隣のコザトが石/ぎけれども猶相州の内には肩を並ぶる人なし父時高不義の振舞して公方持氏を亡し奉り其功に矜り漸く大名となりしかども我を追出し給ひけるを我甚だ憤りて人数を催して追落し此城を奪ひ取る父は公方を亡し罰に依つて亡され我は父を討ちし罰に依つて天命爰に尽き果て負けまじかりける軍に度々利を失ふ運の傾く身を以てたとひ落ち行きたればとて何程の命を保つべき因果歴然の所に理を忘れ人手に懸りて犬死せんより命を限りに戦うて弓矢の義を専にし死を善道に快くせんと思ふ運の通塞も軍の吉凶も今はいふべき所にあらず若し又落行きて命を助からんと思ふ人は只今皆落行き給へ我れ更に恨と思ふべからず、と申されしかば大森佐保田も、此上は力及ばず諸共に討死仕るべし今迄忠戦を専にせし輩誰か一人も先途を見棄てゝ落行く者の候べき、さらば最後の暇乞に御盃を給はり冥土黄泉の出立をいたし修羅の巷の契約すべし、とて三浦前陸奥守従四位下平朝臣義同入道道寸同子息荒次郎弾正少弼従五位下義意家臣大森越後守佐保田河内守同子息喜四郎三須三河守以下百余人終夜酒宴して憂世の名残を惜まれけり。道寸入道盃を控へられしに河内守拍子を取りて君が世は千代に八千代にと謡ひしかば荒次郎扇を取りて

君が代は千代に八千代によしやたゝ現の中の夢のたはふれ

と押返して舞ひける。実にも哀れを催しける一曲の心かなと互に面を見合せて皆涙をぞ流しける。又いつの世に立返り相見んことを弁へねば思切るとはいひ乍ら今を限りの舞の袖猛き心の底までも、さこそと思ひ遣られたり。道寸申されけるやう、君臣の礼儀年来の忠功は此迄にてこそ候へ此上は何か隔のあるべき、とて思ひ差し思ひ取りに舞うつ謡うつ各数盃を傾けしに夜既にしら/\と明渡る東雲の空の景色ぞ物凄き。寄手はや木戸逆茂木を引退けえいや/\と押入りたり。城中の兵一同に立上り大手の門を押開き切先を揃へて切て出づる。此勢に寄手の先陣五百余騎はら/\と引退き或は馬を馳倒し或は太刀長刀を取落し急合ひ込合ふ所へ百余騎の者共一面になつて突いて懸り十文字に切捲り巴の字に追崩せば討たるゝもの百廿騎疵を蒙るもの数知らず。寄手の一陣二陣は木葉の如く散乱れたり。北条早雲之を見て新手を入替へて突いて懸る。城中の兵は思切つたる最後の軍になりしかば身命をも顧るべき。七百余騎の真中へ魚鱗になつて切入りつゝ蜘蛛手に駈立て八方に打立てしかば、さしも勢ひ懸る北条家の兵共面も更に向ひ難し。道寸入道団扇を取りて前後左右を進退せし所に寄手の中より唐糸縅の鎧に三枚甲を猪首に着なし長刀を掻込み神谷雅楽頭知重と名乗つて一文字に駈寄せ道寸と押並べ馬上より引組みて落ちたり。道寸は聞ゆる大力なれば物ともせず、優しの意や我手に懸りて黄泉の先駈せよとて綿上攫んで中に引下げ鞍の前輪に押付け首捩切りて棄てられたり。子息荒次郎義意は父の力を継ぎけるにや猶勝れたる大力世には八十五人が力ありと聞伝ふ。身の丈七尺五寸髭黒く筋太し眼倒に裂け其心剛強なり厚さ二分に鍛うたる鉄の鎧龍頭の甲を着太く逞しき月毛の馬に白覆輪の鞍置きて打乗り家に伝はる五尺八寸の正宗の大太刀を抜き大音あげて寄手の中へ喚いて駈入り此処に追詰め彼処に攻寄せ敵を選ばず馳せ廻り払切横手切袈裟掛胴切唐竹割に薙落し打放せば此勢に辟易し寄手怺へず二町ばかり引退く。敵味方の手負死人原上に塚を築き軍下に陵をなす。城兵半討死し半疵を蒙り同じ枕に伏したりけり。道寸入道は常に好みし和歌の道此時だに踏違はず

うつものも討たるゝものも土器よ砕けて後はもとの塊

といふ一首の辞世を詠み残して腹一文字に掻切きりたり。荒次郎は其御介錯仕り思ふ程弔軍し軈て押付き申さんとて父が首を打落し静に尸を取収め只一人歩立になり一丈二尺の白樫の棒を八角に削り筋鉄を渡し末二尺余りに疣を植ゑ提げて門外に揺ぎ出てたり。其有様は怒れる眼に血を扱入れ髭は両方に分れ生年廿一歳さしも健なる骨柄羅刹鬼王の荒立ちたるに異ならず。いかに寄手の人々城中には皆自害して只我一人残つたり馳せ寄りて討取り取込にして生捕り名を後代に上げ給へまさなくも臆して見ゆる輩かな、と呼はる声天地に渡り地に響きて寄手の軍勢覚えず村立ちて進む兵なかりしかば荒次郎呵々と打笑ひ、いでいで後代の物語に最後の軍して見せん、とてさいばうを打振つて大勢群りたる中に走り入り四角八方に追詰め/\或は甲の頭上を打てば砕けて胴へにえ入りて死するもあり或は横手に当れば中天に千切れて飛ぶもあり一払ひに五人十人打拉がれ馬人共に尻居に打据ゑられ死するもの三百余人に及びしかば大軍乱れて蜘蛛の子を散らす如く開き別れ逃げ惑うて峰に登り海に浸り馬の足をぞ立て兼ね辺に近付く者はなし。たゞ遠矢に射竦めよとて雨の降る如くに矢先を揃へて射けれども裏缺く矢のあらざれば此迄とや思ひけん自ら首掻落し立ち乍ら踏開つてぞ死にける。昔漢楚の戦に項羽の運命傾き烏江の軍に敗北し軍兵悉く亡びて項羽たゞ一騎になり向ふ敵のなかりしかば自ら首掻落して呂馬童に与へられし勇猛無類の例にも劣らぬ最後の有様なり。されども荒次郎が首は猶死せず血眼を見開き髭は針金の如くに立ちて牙を喰締り睨み詰めたる装一目見たるものは忽に悩乱し病み出さずといふ事なし。蜀の関羽が討たれて其首更に死せざりけん今の義意が猛き念慮ぞ恐しき。是に依つて北条家有験の貴僧に仰せて大供養を遂げられけり。三年の後迄もまだ其首死せざりしを駿州久能の総世寺の禅僧彼の首の傍に一夜座禅して一首の歌をぞ詠じける。

うつゝとも夢とも知らぬ一眠り浮世の隙をあけぼのゝ空

と詠みて回向せられしかば此首忽に眼塞り肉爛れて曝首となつたるこそ不思議なれ。異朝には眉間尺が首の死せすして楚王を殺しけん。本朝には相馬の将門が首三年迄死せざりけるが

将門はこめかみよりぞ切られける俵藤太がはかりごとにて

といふ秀句によりて眼を閉じ二句消えたりとかや。新井の城辺百余間は今も田畠を作らず草をも刈らず。牛馬其境に入りて草を食めば立所に死すとなり。菫の花咲く時は旗の手の乱るゝに似て芽の穂の靡く光は剣の刃の磨けるが如し。落城は是れ永正十五年七月十一日なり。道寸父子譜第の家人一時に滅亡して余類なし。屍は長城の岩屋に満ち血は巨港の岸に溢る。今に至る迄毎年七月十一日には新井の古跡に黒雲被ひ丑寅の方より稲光輝き雷鳴り亡霊荒れて往来の人の現に見え常にも月曇り雨暗き夜は叫喚求食の声ありて野人村老の魂を消すとかや。恐しなんどいふも愚なり。
 


   七 北条早雲築御崎城(付)鳴弦の説

さる程に北条入道早雲は三浦新井の城を乗り勢益盛にして軍兵の馳せ付くこと風に並寄る浮草の如し。伊豆の御崎に城を取立て三浦道寸が軍勢落失せて此処彼処に隠れ居たるを召出し扶助を加へて寄騎とし横井越前守を大将とし小林平左衛門を始めとして与力三十人手勢八十騎三浦与十騎雑兵二百人を差添へ御崎の城に籠置き房州の敵里見が出張をぞ抑へられける。彼の横井は本は尾州の住人なり。弓矢修行の為め東国に赴き北条に足を止め数度の軍功を顕しければ漸漸経上りて横井新介を越前守になされ一方の大将を承る。強弓の精兵弓継早にして目当を外さず故実名誉の勇士なり。入道早雲の嫡子左京大夫氏綱彼の越前守に鳴弦の伝受おはしけり。此喜びとして白糸縅の鎧に行光の太刀一振を取添へてぞ給はりけり。時に於ての面目武芸鍛錬の徳用なりと羨しくぞ見えにける。横井物語り申しけるは、昔唐土楚の荘王狩に出で給ひしに白猿一つ梢にあり人の射る矢を中に取りて折捨て徊旋跳躍する有様神変を得たるが如し。楚王之を養由に仰せて射さしめ給ふ養由即ち弓取直し弦引しければ白猿之を見て大に恐れ樹を抱きて泣叫び手足をも働き得ず終に地に落ちて死にけり天下の人養由が弓に奇特あることを知れりとかや又古魏王の御前に於て諸臣集会せし所に寒夜の霜さやかにして月の光物凄き折節雁の渡る声の聞えしを■マダレに臾/盈といふ名臣申しけるやう、我れ此雁を射落し侍らん、とて弓を取りて弦を鳴らしければ雲中に羽打つて飛ぶ雁忽に地に落ちたり其後日本には神代の時より伝はりし鳴弦神秘あり鹿島明神夢想の告に依つて源頼義其嫡子義家朝臣に伝はり寛治年中に堀川院御悩まし/\けるを義家殿上に伺候して鳴弦の術を行はれしかば聞く人身の毛よだち御物怪怠らせ給ひけり其後は漸く武威ひすろぎ信心既に薄くなりて奇特も更に顕れ難し源三位頼政の鵺を射たりしも広有が怪鳥を射たりしも矢を放ちたりと聞えしは弓法に暗き人の申すことなり神道の秘奥鳴弦の奇特は今の世にもなどか退転いたすべき、たゞ信心の厚薄にありと思召し給へ、とぞ語りける。
 


   八 山内管領補職(付)北条早雲逝去

古河公方政氏の舎弟四郎殿と申して上杉家に狭められ幽居閑静の体にておはしけるを上杉顕定の遺言に依つて山内の管領となし奉り治世の謀を廻らすべしとて呼び出し取立て参らせ上杉顕定の御養子と称し民部大輔顕実と号し管領の職を嗣ぎて武州鉢形の城に居ゑ置き参らせけり。後の年に及びて憲実の嫡孫上杉五郎憲房は実には僧周清が子なりと聞ゆ。顕定入道これを養子として山内管領職を継がしめたり。後に兵庫頭に補され斯く計らひて国家の静謐を存ずと雖、時運の節正しからざる故にや天下国家四夷八挺同時に乱れ立ち互に峙ち兵を集め隣境を犯し辺邑を脅し蠶の如くに食ひ鯨の如くに呑みて勢逞しく機に乗つて世を覆さんことを計り強きは弱きを従へ大なるは小なるを取拉ぎ万民の膽を消し百姓魂を冷す。斯る所に永正十六年八月十五日北条早雲伊豆韮山の城にして逝去せらる。去年既に八十八歳。此迄も猶眼に霞なく耳も定に歯牙も損せず。たゞ白髪たる計にして神精の正しき事さながら壮年の時に替らず。誠に果報人かなと皆感じ合へり。当国修善寺に葬送し一片の煙と焼上げ遺言の旨に任せ小田原の湯本に墳墓を築き金湯山と号し洛陽紫野大徳寺の長老を請じて仏事を営み早雲寺殿天岳宗瑞大禅定門と称す。昨日までは相豆両州の太守となり弓箭の威名を東国に振ひ今日は忽に白骨を黄壌に埋もれ一掬の卵塔に神魂を澄しむ。人世誰か此苦を免るべき。高きも卑きも終に黄泉下に帰るべし。誠に果敢なき生涯なり。


  
 
← 兎の小屋_Index
↑ 犬の曠野_Index
↓ 栗鼠の頬袋_Index