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関東合戦記
 
持氏滅亡の事
永享八年丙辰。信濃国の守護小笠原大膳大夫入道と村上中務大輔と確執の事有。村上は連連関東へ志を通するによつて此度家子布施伊豆入道を鎌倉へ差越、内々合力に預るべきよしを申す。明窓和尚是を執し申す。持氏其義に従ひ桃井左衛門督を大将として上州一揆武州一揆奉公那波上総介高山修理亮等相添られ既に信州へ発向せんとす。鎌倉の管領上杉安房守憲実是を聞て信濃は京都の御所の御分悔い也、小笠原との守護たれば村上是に敵戦する事いはれ無し、鎌倉より加勢善るべからずと思へるにより、上州一揆はすでに出陣すといへ共、国境を越ず、是によりて其事延引す。同九年四月上杉陸奥守憲直を大将として武州本一揆を相添へ信州へ赴くべきよし沙汰有しが、其義はあらで安房守憲実を討るべき結構の由。憲実の被官其謀を聞て憲実につぐ。是によりて年来憲実へ親しき武士等国々より馳集り鎌倉中騒動す。六月七日の暮方、大御所持氏自ら憲実の宅え赴き給ひてなだめ仰あっるゝ事有。憲実もいどむ心なし。是に因て暫く静たる体也。陸奥守憲実は事難義に及はん事を恐れて同月十五日藤沢へ退く。七月廿五日憲実が嫡子(七歳)ひそかに上州へ下向。憲実身の上思ひ定めたる故なるへし。同廿七日一色宮内大輔直兼三浦へ退く。憲直直兼は今度讒者の張本たるによりて皆鎌倉を追出さる。又山内の家人大石石見守憲重長尾左衛門尉景仲は今度騒動の本人なれば鎌倉を立のき在国可然と沙汰あり。両人も我等鎌倉を出て御所管領和睦ならば尤下国可仕と申す。憲実暫く思案して縦ひ両人下国すと云共、無為にはなるべからず詮なき事也とて同心せず。是によりて君臣の間又不和也。八月十三日持氏又憲実宅へ来りてなだめ仰らるゝ旨有て憲実を本の如く管領職に補せらる。憲実再三辞すといへ共、強て仰らるゝによりて当座に領掌申す。然れ共此時武州代官の事に付て施行の事あれ共、憲実判形に及ばず。にか/\しき体にて今年も暮ぬ。永享十一年持氏の若君元服の沙汰あり。憲実申されけるは先例に任せ京都の将軍へ御字を給はるへきよしを仰遣然るべし、其御使御延引に於ては舎弟三郎重方を京都へ進ずへきと度々諫めけれ共、持氏承引なし。去程に若君の御祝に付て国々より召に応じて参る武士多し。此時、一色直兼上杉憲直も召出されて鎌倉へ帰る。御祝の当日に憲実出仕せば其望にて御沙汰あるべき由、雑説まち/\なるによりて、憲実違例と称し出仕せず。三郎重方ばかり出仕す。持氏密謀漸くあらはるゝにより、憲実憤浅からず。持氏恐れて若君を憲実宅へ遣し置て君臣和睦の謀をめぐらすべき沙汰あるにより、憲実も心を和らげ、万人喜悦する所に、若君の社務尊仲、此義然るべからずと頻に申に依て其義止ぬ。八月十二日、憲実が家老長尾尾張入道芳伝ひそかに御所へ参り、上方ねがはくは憲実所へ渡御ありて無為に謀を御調へあらば畏悦すべき由訴訟す、といへ共、御許容なし。芳伝重て、上杉修理大夫持朝(時に号弾正少弼)千葉介胤直を同道して、又殿中へ参りて申といへ共、持氏用ひず。既にこの月十五日、放生会過て後、十六日より武州の一揆攻来り奉公外様の武士相共に山内へ攻入べき由風聞す。憲実是を聞て、若御旗を向られて御敵となりては未来迄の瑕瑾也、所詮御糾明御前に自害すべきとて、既に刀に手をかけしを、家人等奪ひ取て憲実が前後左右に警護す。其中十余輩相談し、長尾新五郎実景大石源三郎重仲を以て憲実へ申けるは、是にて命を失ひ給ひては詮なき事也、先何方へも立のきて君に対し野心なき旨を申開き給はゞ然るべき謀成へし、先相州河村館迄御越あるべしと云々、若此義同心なくして御自害あらば我等如き者雑人の手にかゝり堀藪の内へなげ入られ塵芥とならん事無念の至也、当家へ兼て同心の輩も大蔵の辺の殿中へ馳向て所々に討れん事も本意なき事也。憲実聞て、我野心なしといへ共、死して後各御所の武士と合戦に及ばゞ我御敵となりたるに同じ、然らば暫く鎌倉を立のくべし、但河村は分国豆州の境也、若君元服の事に付て我に同心の輩定めてこれあるべきに兵乱を招くに似たり、上州へ赴くへしとて、八月十四日、既に首途す。当参被官の輩多く従ふ。門外にて憲実が乗たる馬の頭の上に燈籠の如くなる光物出現す。是を見る者定めて氏神春日大明神の霊光なるべしとのゝしりあへり。上杉修理大夫持朝上杉庁鼻性長長井三郎入道小山小郎那須太郎等同しく跡を追て上州へ赴く。持氏是を聞て先使を遣し子細を相尋ぬべきか其義に及ばず討手を遣すべきかと沙汰有しが、其夜遂に一色宮内大輔直兼同刑部少輔時家、先手の両大将として御旗を玉はりて十五日夜半計に鎌倉を出陣す。十六日未刻、持氏動座して武州高安寺に御陣を定めらる。去程に憲実武州を過る時、当国の一揆、雷坂にとり上り大幕を引、甲冑を帯し待かけたり。憲実の被官等討破る。敵馬の足を立直さんとす。憲実下知して云く、彼方より攻かゝらば不及是非これをふせぐべし、此方より手さす事無用也、されども眼前の敵のがすべきにあらずとて、憲実家人等馬の足を並て進みかゝらんとす。憲実重て、今度上州へ下向するは罪なき旨を申開かん為也、合戦は好む所にあらずとて、堅く制するに因て、力なく向陣を取りて相待所に、其夜敵退散するに因て、故なく打過ぬ。今度鎌倉の御留守の警固は先例にまかせ三浦介時高に仰付らる。時高、近年窮困し無人に候間、御免なるべき由申といへ共、急度仰らるゝに依て、鎌倉に残留警固す。昔、右大将家の時、三浦大助他に異なる忠に因て御賞翫自余に混せさるの由、子孫迄に置文ある所に近年其甲斐なく不肖の身と成て面目を失ふ事多し、此折節、京都より使来りて、持氏は京都将軍と不和にて勅命をも背けり、三浦介早く関東同心の思をあらため京都へ対し忠勤を抽ずべき御教書成るによりて忽かまくらの警固の心をひるがへし、十月三日に時高鎌倉を立のき三浦へ帰り、同十七日鎌倉へ進発し大蔵犬懸等千間放火す。鎌倉中足の立所もなく二階堂一家も三浦介に降参す。抑今度の濫觴は、持氏一度上洛有て京都将軍に任すべきと思ひ立らるる事ありしを、憲実連々諫て叶ふべからざる由申ておさへ侍りぬ。又関東に京都の御領所并京方所帯の支配の事を禁せらるゝをも憲実達て然るべかざる由申侍りぬ。此によりて憲実を失て持氏本意を遂べきとの企也と沙汰あるによりて、京都将軍家の鬱憤のみにあらず、既に叡慮にも背けり。是によりて憲実等へ綸旨を添られ日の御旗を玉はり将軍家の御教書を下されて持氏追討すべきよし仰下さる。其綸旨に曰く、
被綸言称、従三位源朝臣持氏累年忽緒朝恩、近日興擅兵、匪啻失忠節於関東、剰致是鄙輩於上国、天誅不可遁、帝命何又容、早当課虎豹武臣可令払犲狼賊徒者、綸言如斯、以此旨可令洩入給。仍執達如件。
 永享十年八月廿八日 左少弁資任奉
謹上 三条少将殿
 御旗に御製あり。
 ■コロモヘンに畢/振海中雲之幡之手仁東塵於払秋風
 御教書
関東合戦于今延引候。存上下礼儀。守君臣之道候歟。綸(言如ノ二字ヲ脱セルカ)斯。防箭條(懈怠等の字なるべし)。甚不可然候。
 関東
  上杉安房守方江


{続群書類従巻第六百八 合戦部三十八}
 
 
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