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喜連川判鑑
前略……
従三位左兵衛督氏満
童名金王丸、于時九歳
……中略……
(己未)康暦元……中略……
四月。氏満京都将軍家ヲ謀リ玉フ。執事上杉憲春諫言スレドモ許容ナシ。憲春諫言シテ兼テ報恩寺ニ入テ自害。氏満公驚キ悔テ京都ト和平。同晦日、上杉憲春弟安房守憲方任管領職。始テ山ノ内ニ住。
……中略……
従四位左兵衛佐満兼
{応永五年}
十二月、御家督。任左兵衛佐。少輔朝宗入道禅助管領タリ。
……中略……
(己丑)十六。七月二十二日、従四位左馬頭兼左兵衛佐満兼公逝去。于時三十三歳。号勝光院殿。
……中略……
従三位左兵衛督持氏
童名幸王丸于時十二歳。
{応永十六年}
九月、御家督。上杉安房守憲定入道長基管領職タリ。
京都将軍義持公ヨリ御使節トシテ土岐右馬允持益ヲ以テ御教書ヲ被成、関東御遺跡ヲ被賀。
(庚寅)十七。六月二十九日、御評定始。未御童体ノ間、不能御出。
八月十五日、氏満御三男御御堂殿満隆謀叛ノ説有リ。因茲管領上杉入道長基ガ山ノ内宿所ヘ入御ス。虚説ニ依テ九月三日、本所ヘ還御。
十二月、上杉大蔵少輔重藤ヲ以テ京都ヘ令上洛。御諱ノ字ヲ申請テ下向。同二十三日、御元服。任左馬頭。号持氏。于時十三歳。
(辛卯)十八。正月十六日、上杉安房入道長基管領職ヲ辞ス。
二月、上杉中務入道禅助ガ嫡子右衛門佐氏憲任管領。入道シテ号禅秀。同廿日、評定始。
(壬辰)十九。三月五日、御判始。
十二月十八日、前管領上杉入道長基頓死。同二十七日、新御堂御所御移徒。
(癸巳)二十。三月、浜ノ大鳥居立。
四月十八日、二階堂信濃守、信夫常陸介ガ方ヨリ伊達大膳入道ガ子松犬丸懸田播磨守定勝入道玄昌ト相議シ大仏ノ城ニ楯籠ル由告来ル。因茲畠山修理大夫ヲ討手トシテ被差向。十二月二十一日、大仏ノ城兵糧尽テ大将松犬丸、懸田入道落去ス。畠山鎌倉ニ帰陣。数月在陣ストイヘトモ其功無キニ依テ暫ク出仕ヲ止ム。
(甲午)二十一。八月二十五日、前管領上杉中務少輔朝宗入道禅助長柄山ニテ卒ス。
八月二十一日、恩賞御沙汰始。
十二月二十八日、建長寺炎上。
(乙未)二十二。三月五日、御評定御意見始。諸国ノ政事ヲ被聞召。管領職ヲ始評定衆奉行頭人出仕。
四月。常陸越幡六郎在鎌倉病気間出仕ヲ止ム。近臣ノ讒ニ依テ領知ヲ没収シ其身ヲ追放セラル。管領上杉氏憲入道禅秀諫レドモ無御許容。是自禅秀所労ト称シテ籠居ス。
五月二日、上杉禅秀管領ヲ辞ス。同十八日、上杉安房入道長基ガ長男憲基管領職ニ補セラレ安房守ニ任ズ。同二十五日、評定始。
七月、鎌倉中俄ニ騒動ス。是ハ禅秀持氏公ヲ深ク恨ミ奉ルノヨシ沙汰アリ。因茲、禅秀御所ヘ参上シテ過リ無キ旨陳謝シ八月九日ヨリ出仕ス。
(丙申)二十三。四月、新御堂殿満隆逆心ノ企アリ。八月、上杉禅秀満隆ヘ謀叛ノ儀ヲ進ム。満隆領掌。是ヨリ禅秀ハ病ト称シテ出仕ヲ止メ満隆ノ回文ニ己ガ状ヲ添テ密ニ東国ニ触遣ス。諸国ノ大名与力ス。乙御所持仲モ同意ス。十月二日ノ夜、満隆持仲ノ御所ヲ退出、西御門宝寿院ヘ入ル。与力ノ軍兵禅秀ガ館ニ馳集リ御所ヲ囲ム。持氏公ハ管領上杉憲基ガ佐介ノ亭ヘ入御。禅秀則佐介ノ亭ヘ寄。国清寺ニ火ヲ付ル。持氏、小田原ニ落玉ヒ、別当刑部少輔ヲ案内者トシテ伊豆ノ名古屋ニ至リ管領憲基佐竹左馬助義憲等僅七八人ニテ駿州ノ国司今川上総介ヲ御頼ミ瀬名ノ奥安楽寺ニ落付玉フ。憲基義憲ハ越後ヘ赴ク。
十一月、上杉伊予守憲盛大将持仲ヲ具足シ同二十一日、武州ニ発向セシム。東一揆江戸豊島二階堂心替シテ持氏ノ御方ニ属ス。無勢ナルニ依テ軍ヲ引テ入間川ヨリ持仲憲盛鎌倉ニ帰ル。
十二月、持氏公駿州ヨリ飛脚ヲ以テ京都ヘ告ラル。管領憲基越後ヨリ強トニ訴フ。因茲、京都ヨリ持氏御加勢トシテ山名宮内少輔持Xヲ差下サル。
(丁酉)二十四。正月五日、佐竹義憲越後ヨリ軍ヲ起シ満隆持仲禅秀ト合戦。禅秀敗北シテ鎌倉ニ引退ク。同十日、満隆持仲禅秀於雪下自害。禅秀ガ男伊予守隆盛三郎憲春鶴岡別当快尊極楽寺ノ禅瑾皆自害。同十七日、鎌倉ヘ還御。浄妙寺ニ入御。上杉安房守憲基管領職如元。佐竹左馬助義憲ニ軍功ノ賞被行、評定ノ頭人ニ補セラル。
梶原美作守入道奉行トシテ御所ノ傾廃ヲ修理ス。
四月二十八日、御移徒。同日、憲基管領職ヲ辞ス。豆州三島ニ引籠ル。
御判被改。
五月二十九日、岩松治部大輔逆心ヲ起シ禅秀与力ノ残党ト入間川ニ出張。舞木宮内丞去年禅秀ニ与ミセシ事ヲ悔ミ岩松ヲ討テ罪ヲ謝セン為メ入間川ニ出向ヒ合戦。舞木勝利ヲ得テ岩松ヲ生捕リ鎌倉ニ参ル。閏五月十三日、於龍口誅ス。
同月二十四日、上杉入道憲基鎌倉ニ帰参。同晦日、管領職ニ還任。
(戊戌)二十五。正月、管領上杉安房守入道憲基病死。道号無悔、法名海印。
五月、上総国本一揆先年禅秀ニ与力セシ先非ヲ悔テ歎キ訟フトイヘトモ御許容無シ。因茲反逆ヲ企ツ。退治トシテ一色左近将監ニ御旗ヲ被下。同二十八日、発向ノ処ニ御敵退散ノ間鎌倉ニ帰ル。
(己亥)二十六。正月八日、上杉入道憲基ガ嫡子憲基{憲実カ}管領職ニ被補。安房守ニ任ズ。
同月、上総ノ本一揆重テ蜂起ノ間、木戸内匠助大将トシテ同十八日、鎌倉ニ立。三月三日、合戦。五月六日、本一揆ノ大将榛谷小太郎重氏降参ス。木戸相伴テ鎌倉ヘ帰ル。榛谷ヲバ由比ノ浜ニテ誅セラル。
七月ヨリ九月迄、大洪水十ケ度。十月、大風。大木折レ人屋破損ス。大旱魃。大地震。飢僅{ママ}。
(庚子)二十七。十二月、叙従三位。
(辛丑)正月、木戸駿河守ヲ以テ京都将軍家ヘ三位昇進ヲ被謝。
九月、甲州武田右馬助信長、反逆ノ聞ヘアリ。因茲、吉見伊代守ヲ指向ラル。信長出合ヒ対談シテ野心無之旨陳ズ。吉見、鎌倉ニ帰ル。
同月十二日、若宮中ノ鳥居慶讃ス。
十一月十二日、円覚寺炎上。
(壬寅)二十九。八月、小栗満重所領ノ事ニ付テ鎌倉殿ニ恨ヲ含ミ逆心ヲ起ス。宇都宮持綱桃井下野守佐々木隠岐入道与力シ結城ノ城ニ籠ル。岩松治部大輔ガ残党モ与力ス。因茲、退治トシテ管領憲実ガ舎弟三郎重方ヲ指向ラル。然レトモ勝劣ナシ。重方向城ヲ取テ数月ヲ送ル。
閏十月十三日、佐竹上総入道常元御不審ヲ蒙リ野心ヲ起ス。管領憲実ガ甥淡路守房実討手ノ大将トシテ佐竹ガ舘ニ向フ。佐竹入道父子比企ガ谷ニ走リ法華堂ニテ自害。
上杉禅秀末子宮内少輔憲秋治部少輔教朝、先年雪下ニテ族滅ノ時、其場ヲ遁レ京都ニ上リ忍テ将軍家ニ仕フ。此度将軍ヘ御暇ヲ乞テ関東ニ下リ駿州沼津或ハ伊豆ノ三島ニ下リ放火乱妨シ相州ニテ在々所所代官御家人ヲ殺害シ京都ニ帰ル。
(癸卯)三十。五月二十八日、小栗満重御退治トシテ御発向。小栗敗北シテ自殺ス。是ヨリ直ニ宇都宮退治トシテ御発向。持綱逐電ス。塩谷駿河守、甲州ニテ持綱ヲ討テ首級ヲ捧グ。桃井佐々木ハ生捕レテ被誅。八月十六日、鎌倉ニ御帰陣。
(甲辰)三十一。正月二十日、浄妙寺炎上。
三月三日、照西堂、鎌倉ニ下向。是ハ京都将軍、上杉禅秀ガ子憲秋教朝ヲ抱置レ関東ヲネタミ玉フ。持氏憤テ京都鎌倉水火ノ相剋ニ及ブ。因茲、京都ヨリ和睦ノ為メ照西堂ヲ差下サル。持氏許容ノ色無ク五月十日、照西堂帰京。
九月八日、重テ照西堂下向。上杉憲秋兄弟向後知行ヲ可被召放由仰遣サレ是ニヨツテ都鄙御和睦ノ事相調ヒ照西堂上洛。江戸遠江守ヲ使節トシテ強と将軍ヘ拝礼ノ儀被勤。
十一月二十日、稲村殿満直、持氏公に和睦有テ鎌倉ヘ上リ泰安寺ニ住居。同二十四日、満直殿中ヘ参候。午ノ目貫進上。同二十七日、重テ参上。御鎧通ノ御剣進ラル。
(乙巳)三十二。二月二十四日夜、極楽寺炎上。
同月二十七日、京都将軍義量逝去。前将軍義持公如元御成敗。
八月十六日、甲州武田反逆ニ依テ上杉淡路守房実ヲ指向ラル。武田退散ノ間、房実鎌倉ヘ帰ル。
九月八日、御所回禄。
(丙午)三十三。正月十六日、御判被改。
二月十四日、藤沢炎上。
六月二十六日、武田右馬助信長、甲州ノ府ニ出張。一色刑部少輔(大草子ニ時家)大将トシテ参向。
八月朔日、武州白旗一揆、一色ガ陣ニ加ル。同二十五日、信長降参。一色、武田ヲ召連レ鎌倉ニ帰ル。武田ニ本領相違ナク下シ玉フ。
(丁未)三十四。四月二十七日ヨリ霖雨百余日、晴天不見。九月三日、大風洪水。
(戊申)正長元。正月十八日、京都将軍義持公薨。号勝定院殿、法名道詮。
三月、青蓮院義円継嗣トシテ還俗。室町殿ニ入テ義宣ト改ラル。義量逝去有テ京都ニ継嗣無キ故、持氏ヲ養君ニナサント兼約アリ。雖然、管領畠山満家不快ノ故、石清水八幡宮ニテ御鬮ヲ取テ青蓮院義円継嗣ニ定ム。自是京都鎌倉不快。
(己酉)永享元。正月三十日、浄妙寺炎上。二月十一日、永安寺大楽寺炎上。
三月十五日、京都義宣任征夷大将軍、義教ト被改。
(癸丑)五。三月朔日、武田右馬助信長、鎌倉ヲ逐電ス。同日、村山跡ヲ逐テ甲州ニ発向。
九月十六日夜、大地震、山崩、築地悉ク顛倒。
(丙辰)八。信州ノ守護小笠原大膳太夫ト村上中務少輔ト境目ヲ論ジテ確執ニ及ブ。村上ハ関東御扶持ノ故、加勢トシテ桃井左衛門尉ニ上州信州一揆バラヲ差向ラル。管領憲実諫メ申ス。信濃ハ京都ノ御分国成ルニ依テナリ。持氏御許容ナシ。
(丁巳)九。六月、小笠原退治ノ為メ上杉陸奥守憲直ニ武州ノ本一揆ヲ指添ヘ向ラルヽ風聞アル処ニ管領憲実ガ身ノ上タルノ由雑説ノ間、憲実ノ被官与力ノ者馳集テ鎌倉中猥リニ騒驚ノミ。
同七日、大御所密ニ憲実ガ宿所ヘ出御。御寛宥トイヘトモ不相静。同十五日、上杉陸奥守憲実嫡子淡路守憲家、藤沢ヘ隠居。
七月二十五日、管領憲実ガ嫡子亀若丸ヲ忍デ上州ニ令下向。
同二十八日、一色宮内少輔直兼、三浦ヘ蟄居。八月十三日、持氏重テ憲実ガ宿所ヘ御成。管領職如元タルベキ旨、頻ニ宥メ仰ラルヽニヨツテ領掌ス。然レトモ武州ノ守護代ニ付テ施行ノ事有リシニ憲実判形ニ不能。
(戊午)十。六月、若君賢王丸、鶴岡ニテ御元服、号義久。御代々従京都、御一字ヲ請ラルヽ事御先例ナリ。因茲、管領憲実、諫メ申トイヘトモ御許容無シ。遠ク義家ノ例ヲ追テ八幡宮ニテ加冠アリ。自是君臣ノ間不睦。
八月、憲実追討ノ為メ兵ヲ集ラル。同十四日、憲実山ノ内ヲ出テ上州平井ニ退去。同十六日、憲実御退治トシテ鎌倉ヲ御立。武州高安寺御陣。三浦介時高、鎌倉ノ御留守タリ。因茲、憲実、京都ニ訴フ。京都ヨリ鎌倉退治トシテ上杉中務少輔持房大将トシテ綸旨ニ御教書ヲ添テ諸勢ヲ差下サル。
九月二十八日、早川尻ニテ合戦。持氏ニ背ク者多クシテ敗北。御陣ヲ相州海老名ノ道場ニ移シ玉フ。同二十九日、千葉介胤直、御陣ニ参リ憲実ト御和睦ノ儀ヲ諫言申ストイヘトモ御許容ナシ。胤直、其夜陣ヲ払テ我ガ舘ニ帰ル。
十月二日、鎌倉ノ警固三浦時高心替シテ三浦ニ退去。
同月十七日、鎌倉兵火。
十一月朔日、三浦時高二階堂ノ一族上杉持朝、大蔵谷ニ乱入ス。近習輩簗田兄弟一色佐野名塚河津、出合テ合戦。其間ニ義久稲村満貞、報国寺ニ入テ御自害。
同五日、海老名ヘ義久御生害ノ由聞ユ。持氏急ギ鎌倉ニ帰リ入リ玉ヒ、長尾芳伝、謀ニ領掌シ奉テ金沢ノ称名寺ヘ供奉。同十一日、永安寺ニ移シ奉リ御剃髪ナリ。
(己未)十一。二月十日、於永安寺、御自害。于時四十二歳。号長春院殿。近臣数十人自害。治三十年。管領上杉憲実、君ヲ弑スル罪免レ難シトテ剃髪シテ長棟ト号シ六月、長寿院ニ赴テ持氏公影前ニテ自害ス。家人刀ヲ奪ニヨツテ未死。療養シテ愈。
 管領 上杉安房守憲定入道長基
    同 右衛門佐氏憲入道禅秀
    同 安房守憲基
    同 安房守憲実(剃髪シテ号長棟)
十一月二十日、長統、鎌倉ヲ立テ藤沢ノ道場ニ入テ、ソレヨリ伊豆国清寺ニ閑居。同月、長統ガ子幼少ニ依テ名代トシテ舎弟兵庫頭清方、越後ヨリ上テ管領職ヲ勤ム。
(庚申)十二。三月、持氏次男春王丸三男安王丸、去年鎌倉没落ノ時、野州日光山ヘ落玉フ。結城中務大輔氏朝潜ニ城中ヘ迎ヘ入奉リ野州上州ノ兵ヲ集メ楯籠ル。古河ノ城ニモ兵ヲ籠テ守ラシム。
五月朔日、上杉持房大将トシテ御兄弟追討ノ御教書ヲ持参シテ東国ニ施行ス。
十月二十日、諸国ノ軍勢一同ニ結城ヲ囲ム。山内兵部少輔氏義、心替シテ城ヲ出シカバ城兵力ヲ失フ。
(辛酉)嘉吉元。四月十六日、結城落城。氏朝父子討死。春王殿安王殿ヲバ長尾因幡守生捕奉リ京都ニ赴ク。五月十六日、美濃国垂井宿於金蓮寺殺害。
六月二十四日、京都将軍義教公ヲ赤松満祐野心ヲ企テ我宅ニ請ジテ討奉ル。嫡子義勝御家督。
(癸亥)三。七月二十日、京都将軍義勝早世。号慶雲院殿。御舎弟義成御家督。後改義政。

女子(前太平寺昌泰道号安涜)
義久(賢王丸戌若公ト申於報国寺自害)
春王丸(於濃州垂井被害)
安王丸(春王殿ト同)
左馬頭従四位下成氏(童名永寿王丸){付記は後に記す→▼一/}
成潤(大御堂殿早世)
周ム(長春院主道号天心早世)
尊■伸のみぎノブン/(雪下殿蓮華光院若宮別当)
▼一/
(乙丑)文安二。鎌倉没落ノ砌、信濃国ニ落下リ玉フ。大井持光、養立申、今年関東ノ諸家、京都ヘ訴申シ鎌倉ヘ請侍シ如元公方ト称ス。御元服有テ成氏ト号ス。憲実ガ子龍若ヲ任管領職。元服シテ上杉右京亮憲忠ト号ス。
(己巳)宝徳元。八月二十七日、任左馬頭、叙従五位下。
(庚午)二。八月四日、鎌倉桐谷ニ御座ヲ被移。
(辛未)三。二月二十八日、叙従四位下。
(癸酉)享徳二。七月(六月)、京都将軍義成、義政ト改ラル。
(甲戌)三。十二月、成氏、結城成朝ト相議シ管領憲忠ヲ殿中ヘ召テ被殺。是ハ上杉憲実ガ嫡子ニテ持氏ノ讐敵ナルニ依テナリ。因茲、鎌倉騒動。
(乙亥)康正元。正月、上杉禅秀ガ男宮内大輔憲顕(上杉憲秋)武州池亀ヘ落シヲ結城成朝討取ル。上杉持朝嫡子弾正少弼顕房ヲ夜瀬ニテ討取ル。長尾昌賢等相議シテ憲忠ガ弟兵部少輔房顕ヲ上杉大将トシテ軍兵ヲ集メ鎌倉ヲ攻ム。成氏軍利ナクシテ野州古河ニ移、京都ニハ山名持豊入道宗全管領細川勝元ト確執シテ諸国ノ大名タガイニ与力シ天下悉ク大乱。
上杉房顕ハ上州平井ニ住ス。後ニ鎌倉山ノ内ニ移ル。
(辛巳)寛正二。京都故将軍義教公四男左兵衛督政知、関東下向。伊豆北条ニ住ス。是ハ鎌倉ノ諸将、京都ヘ申シ関東政治ノ為請待ス。政知ノ御子義遐(通)ハ明応二年ニ上洛有。義政ノ養君ト成リ翌年、任将軍、義澄ト改ラル。
(丙戌)文正元。正月、上杉房顕退治トシテ武州五十子御出陣。房顕モ対陣ス。上杉於陣中ニ病死ス。
(辛卯)文明二。成氏、上杉民部大輔顕定ト合戦。成氏公敗北。千葉康胤ガ舘ヘ御移リ。
(癸巳)五。十二月十九日、京都義尚、任征夷大将軍。
(戊戌)十。七月、長尾昌賢、成氏顕定ト御和睦ノ儀ヲ調ヘ同十七日、古河城ヘ還住。総州関宿ノ城ヲバ簗田中務大輔ニ預ラル。顕定ハ山ノ内ノ家ヲ継テ上州平井ニ住居ス。扇谷上杉修理大夫定正ガ家老太田道灌ガ謀ニテ関東ノ武士、山ノ内ヲ背テ扇谷ニ従者多シ。是ヨリ両上杉確執。
(乙巳)十七。八月、京都将軍義政義尚ト関東成氏、御和睦。

左馬頭従四位下政氏{付記は後に記す→▼二/}
女子(前太平寺昌全道号義天)
顕実(四郎義綱上杉顕定養子任管領民部大輔)

▼二/
(己酉)延徳元。六月十八日、山ノ内顕定憲房父子、相州菅谷原ニ出張。扇谷定正同五郎朝良、対陣。政氏、扇谷ヘ御合力トシテ御出馬。顕定敗北。
十一月三日、政氏上杉定正、武州高見原ニ御出張。上杉顕定対陣。
(庚戌)二。正月七日、前将軍義政公薨。
(辛亥)三。四月五日、堀越御所政知、逝去。子息茶々丸家督。
(癸丑)明応二。十月五日、扇谷修理大夫定正卒ス。嫡子五郎朝良、家ヲ継グ。
此節、伊勢新九郎長氏、京都ヨリ駿州今川家ニ来ル。然シテ堀越ノ御所ヲ乗取。終ニ伊豆国ヲ領シ韮山ノ城ニ居住ス。入道シテ北条早雲氏茂ト改号ス。
(甲子)三。十二月二十七日、義高征夷大将軍。後ニ義澄ト号ス。初ハ義遐(通)。政知ノ息。
(乙卯)四。二月、大森式部少輔頼実ガ居城相州小田原ヲ新九郎長氏乗取ル。自是、威漸ク盛トナリ其子氏綱武勇有テ父子トモニ上杉ト相争フ。
(丁巳)六。九月三十日、古河公方成氏逝去。于時六十四歳。号乾享院殿。
……中略……
(庚午){永正}七。六月十二日、山ノ内上杉民部大輔顕定入道可諄、越後椎屋ノ城合戦討死。公方政氏ノ御舎弟四郎殿ヲ顕定ノ遺言ニ依テ山ノ内家ヲ継テ管領ト成リ民部大輔顕実ト号ス。上杉憲実ガ孫憲房ヲモ養子トス。兵庫頭ト号ス。
(己卯)十六。八月十五日、北条早雲卒ス。嫡子左京大夫氏綱、其跡ヲ続グ。政氏、久喜ヘ御隠居。

左兵衛佐従四位高基(童名亀王丸){付記は後に記す→▼三/}
女子(松岡殿)
義明{付記は後に記す→▲}
貞岩(甘堂院主)
基頼(義明ト同於鵠台戦死)

号生実御所。天文七年十月五日戦死於下総国国府台(雪下殿右兵衛佐小弓御所八正院殿)。
頼淳
 左兵衛督。童名国王丸。
慶長六年五月十四日於喜連川逝去。
龍光院殿全山機公子息国朝頼氏継嫡家。
女子(月桂院殿)
女子(松岡殿瓊山和尚)

▼三/

(辛巳)大永元。二月、北条左京大夫氏綱女ヲ御嫡晴氏ノ御台トシテ小田原ヨリ御輿入ル。
十二月二十日、京都義晴任将軍。
(乙酉)五。四月十六日、山ノ内管領五郎憲房卒ス。高基ノ次男三郎殿ヲ憲房養子トシテ山ノ内ノ跡ヲ継シム。憲広ト号。憲房実子憲政幼稚ノ間、成人之ほど、憲広管領タリ。
御舎弟右兵衛佐義明、先年御父政氏ト御不和ノ事有テ奥州ヘ落玉フ。今歳武田豊三大将ニ取立、総州小弓城主原友幸ヲ攻落シ義明爰ニ居住。是ヲ生実ノ御所ト称ス。里見左馬助義弘其外近国ノ武士従テ威勢盛トナル。是ヨリ関東ヲ窺フ。
(丙戌)六。十二月十五日、里見義弘、小弓御所ノ命ニヨツテ兵船ニ乗テ鎌倉ニ推渡リ狼藉ニ及ブ。
(辛卯)享禄四。七月十八日、政氏於久熹逝去。号甘棠院殿吉山道長。
九月三日、山ノ内上杉憲政、憲広ニ代テ管領職ト成ル。憲広晴直ト改ラル。宮原ノ祖ナリ。
(乙未)天文四。十月八日、左兵衛佐高基逝去。号千光院殿高山貴公。

左兵衛督従四位晴氏(童名亀若丸){付記は後に記す→▼四/}
晴直(左馬頭宮原祖号春敲院殿。管領ノ時ハ憲広ト号ス)
女子(太平寺住青岳)
雲岳(甘棠院住)

▼四/

(丁酉)六。四月二十日、扇谷上杉朝興卒ス。子息五郎朝定、家ヲ継グ。
(戊戌)七。十月四日、小弓御所義明逆心ノ企アリ。因茲、御退治トシテ北条家、小弓ヘ発向。同五日、於鵠台合戦。子息御曹子并基頼討死。義明ハ氏綱ガ家来横井山城守ガ矢ニアタツテ被討。其外公達、房州ヘ落去。
氏綱、鎌倉鶴岡八幡宮修造。
(辛丑)十。七月十九日、北条左京大夫氏綱卒ス。嫡子氏康家督。
(乙巳)十四。九月、晴氏、山ノ内憲教ニ御一味有テ十月二十七日、諸軍ヲ卒シテ憲政ト御出馬。
(丙午)十五。四月二十日、北条氏康、管領憲政ト夜合戦。憲政ガ軍敗レテ上州平井ヘ帰ル。晴氏、古河帰城。因茲、氏康ヨリ音信ヲ絶ツ。
十二月二十日、京都義輝任将軍。
(辛亥)二十。上杉憲政、越後ヘ開ク。
(壬子)二十一。十月四日、晴氏、北条御退治ノ企アリ。因茲、氏康、人数ヲ催シ古河ノ城ヲ囲ム。晴氏父子ヲ相州波多野ニ移シ奉ル。

藤氏(放光院殿早世)
右兵衛佐従四位義氏(童名梅千代王丸。母北条左京大夫氏綱女)
北条氏康補佐シ申テ葛西ガ谷ニ奉移。晴氏ハ関宿ヘ御隠居。
(乙卯)弘治元。十月、御家督。従五位下。任左馬頭。京都将軍義輝ノ御一字ヲ請ハレ号義氏。
(丙辰)二。十二月、関宿ノ城ニ御移リ。
(丁巳)三。二月、叙従四位下。任右兵衛佐。今年弘治ヲ改テ永禄ニウツル{改元は弘治四}。
(戊午)永禄元。四月、鎌倉鶴岡八幡宮御社参。供奉ノ警衛北条家ヨリコシラヘ申ス。御下向ニ至テ古河ノ古城ニ還住。
(庚申)三。五月二十三日、晴氏於関宿逝去。号永仙院殿系山道統。
六月、北条氏康隠居シ万松院ト号ス。嫡子氏政家督。
七月、晴氏ノ御台落髪。号芳春院殿。
(辛酉)四。七月九日、芳春院殿逝去。
(乙丑)八。五月十九日、京都将軍義輝、三善松永逆意ニ依テ自害。于時三十歳。
(戊辰)十一。十月十八日、義昭任将軍。織田信長供奉。
(甲戌)天正二。姫君誕生。
(丙子)四。九月二十三日、若君誕生。号梅千代丸。
(壬午)十。十二月二十六日、右兵衛佐義氏於古河城逝去。号香雲院殿長山周善。

氏女(于時九歳)
去ル天正四、若公梅千代王丸雖有誕生早世。故ニ無継嗣。今年九歳ノ姫君ヲ奉公ノ旧臣護リ立テ、北条氏政、大細後見シテ古河ノ城ニ御座。此比京都将軍家衰絶シテ織田信長及執天下ノ権。明智光秀ガ逆意ニ依テ京都於本能寺、信長父子御生害。光秀ヲ羽柴秀吉討之。自是、秀吉威勢倍盛リ。任関白大臣。
(庚寅)十八。関白秀吉、関東征罰トシテ出馬。北条氏政氏直父子被退治。奥州下向。此時、義氏逝去ヨリ九年ニシテ姫君古河城ヲスベリ鵠巣ヘ移住。秀吉憐其家廃。小弓ノ国朝ト縁婚ヲ命ジ使継嫡家。領所三百貫被賜。国朝ヘハ野州塩谷ノ荘ニテ四百貫給フ。所謂国朝ハ頼淳ノ長男。小弓御所八正院義明ノ嫡孫而源家一流也。

右兵衛督国朝(童名乙若丸)
天文七年、祖父右兵衛佐義明鵠台ニテ戦死ノ時、息頼淳幼稚ニシテ房州ヘ落居。里見義弘、年来補佐之。天正十八年、関白秀吉ノ命ニ依テ嫡家ヲ継。喜連川ニ住移。
(癸巳)文禄二.関白秀吉、高麗征罰ノ時、上洛。鎮西ニ赴ク。路次芸州ニテ病ニ罹テ二月朔日、逝去。号法常院殿球山良公。

左馬頭頼氏(童名龍王丸)
国朝逝去ニ依テ氏女ヲ以テ妻頼氏。其家ヲ継シム。是、関白秀吉ノ命ナリ。
(丙申)慶長元。河内守義親誕生。
(戊戌)三。八月、豊臣秀吉薨。
鎌倉五山十刹、出世ノ公帖任先例、慶長年中迄出之。
(辛丑)六。従家康公御加増トシテ野州芳賀ノ郡ニテ千石拝秩。
五月十四日、右兵衛督頼淳於喜連川逝去。号龍光院殿全山機公。
……中略……
(戊午)四。義親息龍千代丸誕生。母ハ榊原式部大輔忠政女。
……中略……
(庚午)七。六月十三日、左馬頭頼氏、於喜連川逝去。号大樹院殿凉山蔭公。大猷院殿家光公因命、嫡孫尊信家督。

義親(河内守童名梅千代王丸寛永四年七月二日/三日/於古河逝去二十九歳天寿院殿■日に義/山英公)
女子(母古河姫君義親同腹正保元年六月廿七日逝去智勝院殿融峯円公)
女子
女子
頼厳(総州千葉寺住)

右兵衛督尊信(童名龍千代丸那須左京大夫資景女入輿)
(壬午)十九。十月二十四日、梅千代丸誕生。母家女。号欣浄院殿。
(庚寅)慶安三.七月二十日、藤千代丸誕生。後ニ右衛門督氏信ト号ス。
榊原式部大輔忠次、梅千代丸後見タリ。是大猷院殿家光公因命。
……後略


 

   
  
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