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 鎌倉大草紙
 
一 永和五年(己未)三月三日。康暦元年に移る。美濃国土岐大膳大夫嶋田が讒言にて御退治あり。国々の御勢をめさる間、関東よりは此時之管領上杉憲春の舎弟憲方入道道合を大将にて五百余騎、御旗を給り出勢す。此時、京都の動闘に付而内々すゝめ申人ありけるにや、鎌倉殿思召たつ事有。已に憲春に御評定あり。上杉大におどろき諫奉るといへども御承引なし。思召定められたる御返答を承り、上杉いさめ兼て我館山の内へかへりて内室を近づけ、思ひ立事あり、尼になりて玉はりてんや、との給へば、女房けしからぬ所望かな、とうち案じける。わがおとこながら賢者第一の人なり、悪ざまの事有ともいかで背べき、と思ひ、安き御望に候、とて則髪を切て衣を仕立などしけるをみて憲春うちわらひ、無体の所望申つるなり、後に思召合給へ、とて立給ひしが、氏満公へ御謀反叶まじきよしを再三自筆に書をき持仏堂へ入て則腹切たまひける。法名道珍と号す。鎌倉殿大きにおどろき給ひ忽に京都の公方将軍の御望をやめられ御後悔ありて同卯月晦日に三嶋まで打立ける。上杉安房入道道合に管領を被仰付。是は去三月十日に発向しけるを三嶋に滞留ありて領状を申上ける也。扨京都には美濃国も土岐も没落して公方の思召まゝに成行。又関東氏満御逆心ありて上杉留めん為自害のよし風説ありし程に角ては叶まじとて鎌倉氏満京都に対し申て野心を不存よし自筆の告文を書て瑞泉寺の古天和尚を使僧として京都へ進せらるゝ。此和尚夢想の末弟子にて京都御崇敬之僧也。和尚の申され様もさる事なれば京公方御納得ありて同五月二日、公方自筆にて御返事に子細なきよし被仰下間、関東諸家安堵のおもひをなしける。同日京都にて斯波治部大輔義将に管領職を被仰付云々。
一 康暦二年(庚申)五月五日、下野住人小山左馬助義政、吉野方と号し逆心しければ、宇都宮基綱大将にて為退治発向ありて裳原といふ所にて及合戦。同十六日、宇都宮打負、忽に討死しける間、小山は関東の御下知を背て剰、陳謝の言迄もなし。謀反の最なりとて、鎌倉殿より御退治あるべし但京都の御加勢を頼不申ば後難如何有べき由、上杉道合申により、梶原美作守道景御使として康暦三年(辛酉)上洛。則白旗一揆御加勢強力を申請て帰国。同三年二月廿四日改元、永徳と改。六月十五日、鎌倉右兵衛督氏満、小山義政御退治に関東十二ケ国の軍勢を引率して御発向。先手の大将上杉安房入道道合同中務禅助木戸将監範季等也。武衛は武州之府中の高安寺に御陣座、御先手は上杉憲方為大将、小山へ馳向ひ責寄ける。小山不叶して九月十九日、降参可仕由申入間、御免あるべきよし被仰下。しかれども小山、如何思ひけん府中の御陣不参。空して年暮て明年の二月、又木戸将監範季上杉中務禅助を大将として十二ケ国の御勢発向して小山が鷲の城を攻らる。同十六日、上州武州の白旗一揆は大将の下知を不得、鷲の城の外郭をせめ破。打込むといへども城にこもる軍兵爰を専途と防戦ひける間、白旗一揆に手負死者数多ありて悉打負、大半帰国しける。十一月七日、先手の人人是にもひるまず堀をうめさせんと埋草を寄て責といへども城防戦強、手負死人数しらず。然といへども城中助の兵はなし。兵粮尽ける間、同八日、小山義政方より禅僧を使として愚息若犬丸に家を渡し隠居可仕候間、若犬丸を御免被下。小山を相続仕候様にと降を請ける間、布施入道得悦を御使として御免許あり。同九日、鷲城を両大将に渡し白昼に三百余人にて祇薗の城に入移る。扨又祇薗城新城岩つぼ宿城等の門戸を開て見方の人々も出入あり。同十二日、義政出家して大衣の姿と成て法名永賢と号す。梶原美作守道景三浦二郎左衛門両人を■検の木がテヘン/使に被遣。永賢に上杉対面す。若犬丸出仕、小山同名三人同心して参る。御太刀御馬を進上申。然といへども如何心に不叶事ありけるにや、永賢入道若犬丸、明ル三月廿三日祇薗の城を自焼して糟尾奥に城をかまへたて籠る。同廿九日、木戸上杉白旗一揆発向す。白旗一揆先日の耻をすゝがんとてまづ一番かゝり長野城を攻おとして悉く放火す。同十一日、寺窪の城を攻落す。四月十三日、終にうち負、小山入道永賢自害して失にける。則首を取。同十五日、御陣へ進上す。五月一日、武衛は従村岡鎌倉へ御帰。大御堂へ御座。十二月廿日に御所へ御入有けるこそめでたけれ。
一 至徳二年(乙丑)三月、新田相州陰謀の回文。上州武州兵を催さるゝ。梶原美作守代官使二人召捕。新田の安養院の別当并寺僧一人をば岩松治部少輔入道法松搦進ける。
一 至徳三年五月七日、小山若犬丸打て出、祇薗の城に楯籠、近き郷を押領す。当国の守護人木戸修理亮不日に押寄ふかゑ山に陣を取。若犬丸逆寄に攻来合戦して木戸忽に打負、足利の庄へひき退ける間、鎌倉殿七月二日御発向、古河城に御座。同十二日、若犬丸没落、行方をしらず。方々御尋有といへども国中通解して何方に有之ともしらず。十一月に鎌倉へ御帰陣也。
一 嘉慶元年(丁卯)五月十三日、古河住人野田右馬助囚人一人搦進す。此男白状申けるは、小田讃岐入道父子、小山若犬丸同意に野心ありて若犬丸隠置の由申。此小田入道恵尊は先年小山退治の先手に参り忠功の人也。何のうらみありて敵と同意有やらむとうたがひながら六月十三日、小田が父子二人被召預。七月十九日、上杉禅助大将にて常陸の小田城を被攻。小田并子息二人家老信太某、小田を落て男体山に楯こもる。此城高山にて力攻に難成。十一月廿四日より相戦といへども勝負もなし。鎌倉殿より海老名備中守為御使御免許可被成候間、可有出城由被仰遣ける間、明る康応元年五月廿二日、小田并子息孫四郎被召出ける。嫡子太郎を那須越後守にあづけらる。同十七日、暁天又攻寄、小田家来百余人打負、後切城中より火をかけ焼払て没落す。
一 明徳二年之冬、山名陸奥守氏清逆心を起し南帝の勅命と号し御はたをあげ一門を催し京都へ打て上りける。京公方十二月御動座候由飛脚到来す。鎌倉殿も京都の御手合ありて明徳三年二月四日佐々木近江入道宿所へ御門出ありける所に去年十二月晦日山名氏清被討取、天下太平に属するよし飛脚到来す。四月廿二日、上杉房州道合依重病て管領を辞し子息憲法定名代に被補。此年京都より陸奥出羽両国を以かまくらの御分国たるべしと被仰下。是たゞ事にあらず。八幡宮の御めぐみ成べしとて宮寺の久敷修理なかりしを御再建有ける。同十一月廿日、御正体仮殿へ御遷宮あり。応永元年十月四日、道合死去。今年正月京公方御拝賀。三月廿九日、御落髪あり。義持公御相続にて征夷将軍に備りたまふ。
一 応永三年の春の比、小山若犬丸、奥州へにげくだり宮方の余党をかたらひ隠居たりしが奥州は関東の分国と成て鎌倉より代官目代数多下り隠家もなかりしかば奥州の住人田村庄司清包をたのみて古新田義宗子息新田相州ならびに其いとこ刑部少輔をかたらひて大将と号し白河辺へ打ていづる間、上州武州に隠居たる宮方の末葉こと/\く馳集る。此田村庄司は征夷将軍坂上田村丸陸奥守にて下向のとき我出生の地に子孫を一人残し給ひ代々則田村の庄司と号す。北畠殿の国司の時より宮方にて代々関東へ不属、自立の志ありしかば今度の小山とも一味同心す。鎌倉殿是を聞て則十ケ国の軍兵を引率し、同二月廿八日御進発、同六月朔日白川の城御下向、結城修理大夫の館御座。大勢下向のよしを承り新田小山田村等悉退散して行方をしらず成行ける間、六月十九日に白川を御立あり、七月朔日に鎌倉に還御成。同四年正月廿四日、小山若犬丸子ども二人若年にてありしを会津の三浦左京大夫是をめしとり鎌倉へ進上しけるを実■検の木がテヘン/の後、六浦の海に沈めらるゝ。
一 応永五年十一月四日、氏満四十二歳にて御逝去なり。去年の夏より精進けつさいにて御読経有。逆修の御吊御勤ありける。永安寺殿と号す。御吊の次第、剃髪正続院周応(和尚)掛真円覚寺周満(和)鎖龕西米院僧海(和)奠湯素文(和)点茶壽福寺文c(和)起龕正続院周応(和尚)点湯瑞泉寺中快(和尚)。扨又小祥忌には奥州の満奥(貞歟)公よりとりをこなはる。拈香は建長寺等益也。若君満兼公従四位下左兵衛督御補任にて鎌倉に備りたまふ。御年廿一。管領は上杉中務禅助承之。引付頭人二階堂野州入道清春、一方頭人長井掃部助入道道供、禅律奉行町野信濃守入道浄吉、越訴之奉行二階堂山城宮内入道行康等也。応永六年春より陸奥出羽両国のかためとして鎌倉殿御弟満貞満直二人御下向。稲村篠川両所に御座。此年周防の大内介義弘、京都にて逆心を起し及合戦。是は京都にて余りに物あらき御政道ありて諸人迷惑申ける。氏満公政道ただしく御座有ける間、大内連にすゝめ申、天下を一はたに仰申さんと心がけしかども、永安寺殿かくれたまひ大内は力をおとしけるが是非なく今度境のはまへ出張して籠城しける。京都より御発向のよし鎌倉へも大内再往頼申、今川貞世を以て申入けれども若君はかねて上杉入道かたく申いさめ十一月廿一日、京都の御手合として武州府中高安寺へ御動座。それより上州足利庄へ御発向。人数をもよをさる所に十二月廿一日、義弘討死のよし飛脚到来。同七年三月五日、鎌倉へ還御。是迄は足利に御在陣也。
一 同九年(壬午)奥州宮方の余党伊達大膳大夫政宗法名円教、陰謀を企て篠川殿の下知にしたがひ申さず。一味同心の族蜂起しける間、同五月廿一日、上杉右右衛門佐入道禅秀為大将発向す。伊達かねてより赤館といふ所に城をかまへ合戦して鎌倉勢を追返し悉く討取ける。然ども近国の大勢重而馳向ひ九月五日、伊達打負甲をぬぎ降参す。去程に新田殿は去永徳の比迄信濃国大川原と云所に深くかくれて有けるを国中皆背申。宮を初め新田一門、浪合と申所にて皆討死して父子二人うちもらされ奥州へにげ下り岩城の近所酒辺と云所に隠給ひしが小山若犬丸乱により奥州にも安堵せず相州にしのび行、箱根山のおくに底倉といふ所有、木賀彦六といふものを頼てかくれたまひしを如何としてか聞出しけるにや竹の下住人藤曲{田とも}と云者しのび来り、応永十年四月廿五日、新田相模守入道行啓、底倉山中にて討死也。子息刑部少輔は一所に御座ざりしゆへ相州ばかり御討死也。其賞として藤曲に底倉木賀を給はり上杉禅助に属し安藤と改名す。
一 尊氏公之御母二位殿之御兄上杉兵庫入道憲房、京四条合戦のとき将軍の命にかはり討死あり。甥の伊豆守重能を養子として惣領に被立。是は高師直と事有うたれ給ひ其弟憲房の実子上杉修理亮憲藤、暦応元年より関東の執権を仰付られ同年三月十五日、信濃国にて討死。其子幸松丸とて十四歳、次男幸若丸十二歳にてありしを郎等石川入道覚道供して鎌倉へ参ければ将軍大に感じ兄をば左馬助朝房と号し信濃越後を給はり弟おば中務少輔朝宗と名付、上総国をたまはり応永二年三月、関東の執事被為補し犬懸の先祖是也。憲房の次男民部大輔憲顕、山の内の先祖是也。此人は尊氏公と錦小路殿、御兄弟不和のとき錦小路殿の味方に参しゆへ将軍御にくみありけれども案者第一之人にて関東のかため此人にあらずんば叶まじと思召ければ被召出けり。其上基氏公の御乳母子にておさなきよりいだきそだて被申ける間、旁々可然由にて越後安房両国を下され鎌倉の御後見にて山の内殿の先祖是也。此子孫代々為管領。
一 応永十年十一月十四日、つるが岡八幡宮の御修理出来して遷宮あり。奉行は上杉中務少輔入道禅助也。同十六年六月廿九日の夜、鎌倉の御所俄に炎上、公方満兼は宍戸遠江守が宿所へ御移りあり。七月十三日より御普請の事あり。八月廿七日棟上あり。十二月十八日御移徒。惣奉行は上杉右衛門佐氏憲。応永十七年五月のころより公方満兼御病気以之外にて身体次第に衰へ医師数を尽して集り秘術をふるひ陰陽師有験の懇祈を致にかひもなく七月廿二日、御年廿二にて御早世あり。勝光院殿と号す。犬懸之管領朝宗入道禅助は此君をかゝへそだて申、七十にをよぶまで御後見にてありければ御吊の時よりわが家にかへらず、僧衣を着し則上総国長柄山胎蔵寺に隠居して武州目代をば塩谷備前守に被申付、鎌倉の執事をば上杉右衛門佐氏憲に被仰付、満兼の若君光王殿御元服可被成にて二階堂駿河守為御使京都へ御一字を被申上、此節新田殿の嫡孫謀反を起し廻文を以て便宜の軍兵をもよほされければ鎌倉の侍所千葉介兼胤が生捕にして七里浜にて討之静めける。又満兼の御弟満高御陰謀の企ありとて鎌倉中以の外にさはぎければ若君管領山の内の館へ御出あり。上杉安房守長基色々取持て満高御陳謝ありて御無事に治りけり。応永十八年六月廿九日、御評定始あり。御所は童形の間、御出なし。今日政所にて守公神の祭あり。龍口にて死活枝祭あり。十二月廿二日若君御元服ありて持氏と号す。御弟の乙若殿も御元服にて持仲と号す。めでたき事どもなり。扨その年はくれ明る年の同十九年十月管領上杉安房守入道大全死去す。行年三十八歳。号光照寺。同名犬懸右衛門佐入道禅秀に関係を給はる。同廿年三月六日、由比浜大鳥居御建立。奉行は上杉禅秀なり。此鳥井は頼朝公より代々公方の御再興のところ也。然ども久しく造営なくしてかさ木も朽果ける所に此御代にかく建立、めでたかりける事ども也。
一 応永廿二年四月廿五日、鎌倉政所にて御評定のとき犬懸の家人常陸国住人越幡六郎某、科ありて所帯を没収せらるゝ。禅秀、さしたる罪科にあらず不便のよし扶持せらるゝ間、以の外に御気色を蒙りける。禅秀は、道の道たる事をいさめず法外の御政道に随ひ奉りて職にゐて何の益かあらん、と述懐して同五月二日管領職を上表申されしかば、かやうの事弥上意を奉令軽と御立腹有。則収上表畢。同月十八日に故大全の子息安房守憲基官領に被補。今年何となく鎌倉中騒動して近国の兵共忍び/\に参りける。七月廿日、被仰付みな国々へ被帰。其年は暮にけり。其比、京都将軍家の御弟権大納言義嗣卿は御兄当公方を可奉傾よしひそかに思召立事ありて便宜の兵を御催し有けり。其時分佐々木六角御勘気にて守護職を召上られ閉門して居たりしを御頼ありけり。佐佐木いかゞ思案しけるにや不応貴命、其事無程色あらはれ応永廿三年十月廿日公方より義嗣卿をめし捕奉り林光院へ押籠申きびしく守護をすへをきける。義嗣御出家有て法名道縄と申。是は故鹿苑院殿の御愛子にて後後には当公方義持公を御隠居なさしめ此若君に一度天下をもたせ可被申よし思し召しこめられけれども不幸にて北山どのはやく御他界にて義嗣卿は天下の御望無之といへども当公方と内々は御中不和と聞えし。去によりて去年伊勢の国司動乱せしとき近習のともがら義嗣公をすゝめ申てひそかに御謀反を思召立ける。しかれども勢州無程しづまりければ力なくこの事思召止けるに又関東にて鎌倉殿と管領中あしくなり動乱のよし聞えければ義嗣卿より御帰依の禅僧をひそかに鎌倉へ御下し有て上杉入道禅秀を御かたらひあり。持氏公の伯父新御堂小路殿をも頼たまひけり。満隆より禅秀をまねき評定ありければ禅秀申けるは、持氏公御政道あしくして諸人背申事おほし某いさめ申といへども忠言逆耳御気色あしくなり結句御外戚の人々依申掠御不審を蒙るといへども誤のなければ鰐の口を遁候べき世はたゞ為恩に仕へ命は依義軽し、と申候へば、かやうに不義の御政道積りはてばやがて謀反人あり、世をくつがへさん事ちかく候か、内々承る子細も候、他人に世をとられさせ給はん事を御当家の御歎き申てもあまりある御事にて候さて又君も去応永十七年の秋佐介入道大全が讒言にてあやうき御目を御覧ぜし御うらみ忘させたまはじ今京都の大納言より御たのみ候こそ幸にて候いそぎ思召立、此時御運を御ひらき候へ京都の御下知を公方の御教書と号し禅秀取持かたらひ候はゞ於関東は誰有てか可不参、不日に思召立かまくらを攻落し押て御上洛あらば天下の反復まのあたりにて候、とすゝめける。満隆大に悦び内々存る子細有といへども身にをいて更に望なし甥の持仲猶子に定つる間これを取立たまはれ、とて一味同心ありければ秋のはじめより禅秀病気のよし披露して引籠、謀反を起す。犬懸の郎等国々より兵具を俵に入、兵粮のやうにみせて人馬に負せて上りあつまりければ人更にしる事なし。新御堂殿の御内書に禅秀副状にて回文をつかはし京都よりの仰にて持氏公并憲基を可被追罰由頼み被仰ければ御請申人々には、千葉介兼胤岩松治部大輔入道天用両人は禅秀のむこなれば不及申、渋河左馬助舞木太郎児玉党には大類・倉賀野・丹党の者ども其外荏原蓮沼別府玉井瀬山甕尻、甲州には武田安芸入道信満には禅秀の舅なれば最前に来る。小笠原の一族、伊豆には狩野介一類、相州には曽我中村土肥土屋、常陸には名越一党佐竹上総介小田太郎治朝府中大掾行方小栗、下野に那須越後入道資之宇都宮左衛門佐、陸奥には篠河殿へ頼申間、芦名盛久白川結城石川南部葛西、海東四郡の者どもみな同心す。鎌倉在国衆には木戸内匠助伯父甥二階堂佐々木一類を初として百余人同心す。かくて国々の調儀終て同十月二日戌の刻ばかり新御堂殿并持仲御所忍で殿中より御いで西御門宝寿院へ御出有て御旗を揚らるゝ。犬懸の郎等屋部岡谷の両人、手の者を引率、其夜塔辻へ下り所々堀切鹿垣を結渡し走矢倉をあげ持楯をつき家々の幕をうち一揆の旗をうちたてたり。禅秀は御所へまいり持氏公可奉懐取支度しける。持氏は折節、御沈酔有之御寝所成けるに木戸将監満範御座近参奉驚、世はかやうにみだれ候、とと申ける。持氏は、さはあらじ禅秀は以の外に違例の聞食、今朝一男中務出仕いたしけるが存命不定の由にてこそ帰宅せし、と被仰ける。将監、それは謀反のはかりごとに虚病仕候、只今御所中へ敵乱入らん分内せばく防に馬のかけひき不可叶、一間途御出あり佐介へ御入候へ、と申程こそ有けれ、御馬にめし塔辻は敵篝を焼て警固しける間、岩戸のうへの山路をめぐり十二所にかゝり小坪を打いで前はまを佐介へいらせ給ふ。御供には一色兵部大輔子息左馬助同左京亮讃州兄弟掃部助同左馬助龍ア尾張守嫡子伊勢守品川左京亮同下総守梶原兄弟印東治郎左衛門尉新田の一類田中木戸将監満範那波掃部助嶋崎大炊助海上筑後守同信濃守梶原能登守江戸遠江守三浦備前守高山信濃守今川三河守同修理亮板倉式部丞香川修理亮畠山伊豆守筑波源八同八郎薬師寺常法寺佐野左馬助二階堂小瀧宍戸大炊助同又四郎子だ宮内少輔高瀧次郎以下御供人々五百騎、安房守憲基は夢にもこれをしらず酒宴しておはしける。上杉修理大夫三十騎ばかりにて馳来。禅秀入道新御堂殿、再持仲公をすゝめ申、御所をも取籠奉り只今是へも発向する処に、かやうにゆう/\とわたらせたまふぞや、と呼りければ憲基は少もさはがず、何程の事か有べき先大将の満兼は先年雑説以之外にて御大事に及びしを親にて候大全が蒙恩御命を扶り給ひ何の間にわれらにむかひ左様の悪事思ひ立たまはじ天のせめのがるべからず又禅秀は去応永九年の夏奥州伊達大膳大夫退治の時赤館の戦に敗北して両国の兵に見かぎられけり今更何者かかれに随はにゃ、と宣ひける所、上杉蔵人大夫憲長十四騎にて馳来、門を叩かせ、敵味方はしらず何様前浜には軍勢充満す打立給へ、と呼。其時憲基物具したまふ。相伴兵には長尾出雲守大石源左衛門羽継修理大夫舎弟彦四郎安保豊後守惟助五郎長井藤内左衛門、其外木戸寺尾白倉加治金子金内を初として宗徒の兵七百余騎打立けり。房州は御所へ馳参り上様いまだ恙なく御座ば御供申これへ奉入べし。若又御所中を敵取巻申さば西の御門に火をかけ宝寿院へ推寄一戦たるべきよし申合処に持氏公これへ入せ給へば皆人大に喜び色をなをしいさめける。翌日は悪日とて犬懸よりもかゝらず。佐介よりも不寄。同四日未明より佐介の口々へ御勢を被差向、先浜面法界門には長尾出雲守を初として房州手勢、甘縄口小路佐竹左馬助、薬師堂面をば結城弾正、無量寺をば上杉蔵人大夫憲長、気生坂をば三浦相模人々、扇谷をば上杉弾正少弼氏定父子、其外所所方々馳向陣取。同日新御堂殿宝寿院より打立給、御馬廻一千余騎、若宮小路に陣を召る。千葉大介満胤嫡子修理大夫兼胤同陸奥守康胤相馬大須賀原円城寺下野守を初八千余騎。米町表に扣らるゝ、佐竹上総介入道嫡子刑部大輔二男依上三郎舎弟尾張守一類に土佐美濃守三河常陸守、郎等に河合淡路守、長瀬河西の者を初として百五十余騎。浜の大鳥井より極楽寺口に差寄陣を取。さて犬懸入道の手には嫡子中務大輔舎弟修理亮郎等千坂駿河守子息岡谷豊前守嫡孫孫六甥弥五郎従弟式部大輔塩谷入道舎弟平次左衛門蓮沼安芸守石河助三郎加藤将監矢野小二郎長尾信濃守同帯刀左衛門坂田弾正忠小早川越前守矢部伊与守嫡子三郎、其外臼井小櫃大武沓係太田榊田秋元神崎曽我中村の者ども和具を先として二千余騎、鳥居の前より東に向、鉾矢形に張陣。かくて国々の諸勢集る間、同六日に十万騎にて六本松に押寄る。上杉弾正少弼氏定扇谷より出向て爰を先途と防戦ける。岩松治部大輔渋川左馬助入替々々攻しかば霜台の方には上田上野介(松山城主)疋田右京進討死す。氏定も自身深手を負て引退。岩松治部大輔いよ/\勝にのり気生坂へ押寄凱を上る。霜台の手破れければ御馬廻の人々には梶原但馬守海上筑後守同信濃守椎津出羽守園田四郎飯田小次郎以下三十余騎、気生坂へ打上り防戦しかば敵には荒手大勢馳加る。弥是に力を得てもみにもふで攻来。梶原但馬守椎津出羽守も討死す。飯田海上園田四郎痛手負、無量寺へ取入。さて禅秀の方には二階堂信濃守同山城守其外駿河下総勢各一手に成て荒手二百余騎にて攻来る。上杉蔵人の手のもの此勢にかけ合、大庭を初として不残手を負引退。所々の軍味方打負ければ岩松治部大輔渋川左馬助が手の兵走散て国清寺(上杉憲顕建立)に火をかくれば火烟吹かけ味方の兵ども煙にむせび弓の本すゑを忘れて辷伏て落行けり。江戸近江守今川三河守畠山伊豆守其外宗徒の兵三十余人討死す。佐介の舘に火懸りしかば人力防に不叶、持氏落させたまふ。安房守も御供申極楽寺口へかゝり肩瀬腰越汀を途に打過給ひ及黄昏、小田原の宿に付給。弾正少弼氏定は深手負、御供も不叶して藤沢道場に入て自害して失給ふ。行年四十三歳と聞えし。爰に土肥土屋の者ども元来禅秀一味なれば小田原の宿へ押寄、風上より火を懸攻入ければ御所と憲基をば落しけり。兵部大輔憲元父子并今川残留て討死して夜の間に箱根山にいらせ給ふ。爰にて夜をあかし翌日七日午の刻計に箱根別当(證実)御供申。是を案内者として駿河国大森が舘へ落給ひ爰も分内せまく小勢にてかにも叶ひがたし。其上甲州の敵程近し。これより駿府今川上総介を御頼み可然と評定有之。駿河の瀬名へ御通りある。今川上総介範政は氏定の聟にて御所へも常に申通らるゝ故なり。御あとより参る人々、御所の御行衛をしらず。只伊豆の名ごやの国清寺へ御座のよし披露ありければ木部将監以下舅の人々、皆国清寺へ馳集る。敵も名ごやに御座とやおもひけん、狩野介并伊豆奥の兵ども走并伊豆奥の兵ども走湯山の大衆をかたらひ大勢にて同十日、国清寺に押寄ける。寺中には御奉公の面々、佐介の手の者都合百余人には不過、矢軍に時をうつす。然といへども寺中矢種尽、敵は持楯をつき寄、武士と大衆と入代入代火を懸て責しかば、憲基は夜にまぎれ落給ふ。木部将監満範を初として廿一人、高矢倉に上り一同に自害して失にけり。安房守は越後をさして落ゆく。公方は瀬名迄落させ給ふ。去程に新御堂殿并持仲、鎌倉に御座まし関東の公方と仰られたまふ。しかれども近国猶持氏の味方にて召に不応。さらば討手をつかはすべしとて持仲を大将軍として中務大輔憲顕其弟伊与守憲方、武州へ発向す。憲顕はいたはる事ありて留り予州を大将軍として十一月廿一日、小机辺迄出張す。持氏御方には江戸豊嶋二階堂下野守并南一揆并宍戸備前守兵ども入間川に馳集り陣をとる。伊与守持仲御供申、入間川発向す。其道にて同廿三日世谷原にて合戦を初、終日戦くらしける。伊予守打負、鎌倉さして引返す。江戸豊嶋勝にのり追懸しかば伊予守も持仲も漸、同廿五日夜に入、鎌倉へ帰り給ふ。又上野国にては禅秀の聟岩松治部大輔(満純は今度鎌倉に在陣して犬懸の人々相共に御所を進落奉り所所の勝利を得て高名我に勝る人非と振回ければ諸人恨を含、自然評するもの多し。斯て新田の一族に里見鳥山世良田額田大嶋大舘堀口桃井の人々は先年氏満公の御代暫時京都と御中御快能からざりし折柄、思召旨有けるにや御一族の好身を御憐愍有て一所懸命の地を僅宛行て安堵し給。又新田の家の子郎等の浪々したりけるを漸蒙御免、一所懸命の地を下し給はりて武州上野の辺に安堵仕たりけるが此時鎌倉殿の御高恩を奉報らでは何時を可期とて各評定して古新田左少将義宗朝臣の御子出家して兵部卿とて坂中といふ処に蟄居し給ひけるを勧て還俗させ)本名なりとて新田に成かへり館林辺へ打て出、国中過半随へける。由良横瀬長尾但馬守持氏の御方として十二月十八日岩松と合戦す。岩松が家老金井新左衛門討死して岩松は引退き同月の廿二日なを岩松多勢にて押寄ける。横瀬長尾勝ほこりたる折からなれば、やがて押よせ不残追散しけり。去ほどに駿河国に今川上総介範政京都へ注進申ければ不日に禅秀一類并新御堂殿、持仲公可追討之よし御教書を給。上総介関東の諸家中回状をいださるゝ。
今度関東御開事、先驚入存候。仍事子細如風聞ば、右衛門佐入道依搆逆心候ト承る。京都上聞致如此沙汰之由披露之由、就左様之篇面々被成与力候之由聞候。一端者雖無誤似候。有名無実之至、誠抂惑之次第候。就中風当国へ御移之条、希代未聞也。上聞以御合力之儀、諸人に被成御教書、可致忠節之旨被下刻、既御幡下着候上者、不承上命之事明白候哉。抑如此上意厳重候之間、自是重而被成御教書候。雖然都鄙背貴命而強叛逆之輩江被致同意者、且先祖譜代忠懃失此時、子孫之後跡永被成他人拝領地事、為君被不忠為家似無育、所詮者観応年中に曾祖父心省、祖父範氏等於当国由比山抽忠節、并関東諸人降参儀被申沙汰、并天下静謐帰基事、旧例勿論也。此上者知非而早改、属理被忠節ば、云彼言此、順儀也。若不可然ば早速仁被馳向当陣、被決雌雄事尤所望也。以此両条一途被致返報、一儀仁被定事可然候哉。恐々謹言。
十二月廿五日   今川上総介
去程に(禅秀は千葉小山佐竹長瀬三浦芦名の兵三百余騎を足柄山越入江の庄の北の山の下に陣を取る間、持氏は今川勢を先登として入江山の西に陣を取給ふ。今川勢夜討して禅秀敗軍箱根水呑に陣を取)今川勢三嶋に陣をとり先陣は葛山同荒河治部大輔大森式部大輔今川門族瀬名陸奥守、足柄を越て曽我中村を攻おとし小田原に陣を取。朝比奈三浦北条小鹿、箱根山をこえ伊豆山衆徒と并土肥土屋中村岡崎を攻おとし同小田原国府津前川に陣を取。明れば応永廿四年正月一日、鎌倉より満隆御所并禅秀、武州世谷原に陣を取。南一揆并江戸豊嶋と合戦しけるが江戸豊嶋打負て引退きけり。然といへども髪型の討手小田原まで責下り味方打負るよし聞ければ敵は負ても悦び味方は次第に力をおとし同九日味方大形心替りして敵に加りしかば持仲満隆禅秀不叶、其夜鎌倉へ没落なされ同十日、禅秀子息宝性院快尊法印の雪下御坊に籠り満隆御所同持仲右衛門佐禅秀俗名氏憲子息伊予守憲方其弟五郎憲春宝性院快尊僧都武州守護代兵庫助氏春を初として悉自害して失にけり。嫡子憲顕はいかにして遁たりけん、此戦より前にいたはる事有てかたはらに引籠おはしけるが、ひそかに京へ逃上らるゝ。今川勢江戸豊嶋両方より鎌倉へ乱入。かくて持氏御所同十七日、鎌倉へ還御なり。浄智寺にいらせたまふ。其後、江戸豊嶋を初、忠節の人々、禅秀一類の没収の地を分給。大森には土肥土屋が跡を給はり小田原に移り箱根別当は僧正に申なさる。今川範政は京都より副将の臨{ママ}旨を給けり。御所未出来ば同三月廿四日梶原美作守屋形へ入御成。卯月廿八日大蔵の御所へ還御なる。爰に又禅秀聟岩松入道天用は禅秀が残党を集め上野国岩松に蜂起しけるを舞木宮内丞馳向合戦してこと/\く追散しお天用を生捕にして鎌倉へ奉りければ五月十三日瀧口へ引出首をはねられけり。彼が先祖は足利義兼二男岩松二郎義純、畠山重忠の妻女并跡式を給。始源家にて畠山と号す。義純の二男岩松五郎経兼其子息遠江太郎政経、新田下野守頼春が猶子と成て新田下野太郎と号す。其一男岩松兵部大輔経家は建武二年七月討死す。其弟新田岩松治部大輔直国は後は将軍方になり鎌倉基氏公近臣にて武州岩殿山合戦に忠を尽しける。其子右馬頭持国其子治部大輔、若年にて早世、今の天用其跡を継て国府にいたりしが故なき謀反に組して誅罰を蒙ける。安房守憲基はいかゞおもひけん。同廿八日職を辞し三嶋へ下向ありしをやう/\に被仰下ければ五月廿四日鎌倉に返り参り六月三十日また管領に成給こそ目出度けれ。
一 応永廿五年正月廿四日権大納言義嗣卿終に以御生害。行年廿五歳なり。法号は円条{修とも}院道縄菴主と申。
一 応永廿六年三月六日上杉安房守憲基病に伏て管領を辞し子息四郎憲実当職を承り安房守任ず。此人は文道に心をかけ武道を嗜ければ人みななびき随ひけり。
一 応永廿九年十月三日佐竹上総入道家督の事に付て御不審を蒙り比企谷有けるを上杉淡路守憲直に被仰付発向しければ佐竹も打て出防戦ひけるが終に不叶、法華堂にて自害して失ぬ。其霊魂祟をなしける間、一社の神に祭りける。
一 応永三十年(癸卯)春の頃より常陸国住人小栗孫五郎平満重といふ者ありて謀反を起し鎌倉の御下知を背ける間、持氏御退治として御動座被成、結城の城まで御出。同八月二日より小栗の城をせめらるゝ。小栗兼而より軍兵数多城よりそとへ出し防戦けれども鎌倉勢は一色左近将監・木戸内匠助、先手の大将として吉見伊予守・上杉四郎、荒手にかはりて両方より責入ければ、終に城を被責落、小栗も行方しらずおち行けり。宇都宮右馬頭持綱も小栗に同意して落行けるを塩谷駿河守追かけ討取てける。桃井下野守・佐々木近江入道も是等に一味の由にて同八月八日に被討取。八月十六日結城より武州府中へ御帰陣有。高安寺に御陣座。明る応永三十一年三月三日京都より照西堂為御使下向あり。是は京都の御下知もなくして大名数多御誅伐の事条々御とがめの儀也。持氏おどろき給ひ奉対京都一切不致私曲、自今以後は可抽無二忠懃由告文を以被申上。西堂五月十日上洛。九月重而下向有て都鄙御和睦あり。目出度事限なし。十月廿三日御陣所武州府中の高安寺炎上の間、同十一月十四日持氏公鎌倉へ還御。同十一月廿日御舎弟奥州の稲村殿鎌倉へ御上り。是は今度御和談事無御心許被思召、奥州には眼代残置御上りの由にて永安寺に御座。御重代の中之御目貫を被進。同廿七日重て御重代の鎧通の御腰物を給はりけり。何も御当家嫡々御相伝の御たからなり。
今度小栗忍びて三州へ落行けり。其子小次郎はひそかに忍びて関東にありけるが相州権現堂といふ所へ行けるを其辺の強盗ども集りける処に宿をかりれば、主の申は、此牢人は常州有徳仁の福者のよし聞、定て随身の宝あるべし、打殺して可取由談合す。乍去健なる家人どもあり、いかゞせんといふ。一人の盗賊申は、酒に毒を入呑せころせといふ。尤と同じ宿々の遊女どもを集め今様などうたはせをどりたはぶれ、かの小栗を馳走の体にもてなし酒をすゝめける。其夜酌にたちけるてる手姫といふ遊女、此間小栗にあひなれ此有さまをすこししりけるにや、みづからもこの酒を不呑して有けるが、小栗をあはれみ此よしをささやきける間、小栗も呑やうにもてなし酒をさらにのまざりけり。家人共は是をしらず何も酔伏てけり。小栗はかりそめに出るやうにて林の有間へ出てみければ林の内に鹿毛なる馬をつなぎて置けり。此馬は盗人ども海道中へ出、大名往来の馬を盗来けれども第一のあら馬にて人をも馬くひふみければ盗ども不叶して林の内につなぎ置けり。小栗是を見てひそかに立帰り財宝少々取持て彼馬に乗、鞭を進め落行ける。小栗は無双の馬乗にて片時の間、藤沢の道場へ馳行、上人を頼ければ、上人あはれみ時衆二人付て三州へ被送。かの毒酒を呑ける家人并遊女少々酔伏けるを河水へながし沈め財宝を尋取。小栗をも尋けれどもなかりけり。盗人どもは其夜分散す。酌にたちける遊女は酔たる体にもてなし伏けれどももとより酒をのまざりければ水にながれ行、川下よりはひ上りたすかりけり。其後永享の比小栗三州より来て彼女をたづね出し種々のたからを与へ盗どもを尋みな誅伐しけり。其孫は代々三州に居住すといへり。
甲斐国の住人に逸見中務丞有直と云者あり。古より逸見武田小笠原三家は甲州の大将なりしかば頼朝の御時に加賀見小笠原は信濃国の守護となり信州にうつり給ひ甲州半国石沢五郎に玉はり、それより代々初は本郡を知行有。東郡は加藤、西郡は逸見給はりしを後には一円に武田拝領して加藤は被官に成。逸見は公方へ御奉公の体也。西郡の名字の地計知行有しかば、いかにもして武田を絶して甲州一円に守護せばやと持氏公へ尽忠功ける。今度禅秀逆心して京鎌倉より退治被成しかば武田安芸守入道明庵は禅秀の小舅也、千葉修理大夫兼胤は聟也、両人ともに持氏の寵臣二階堂三河守は逸見縁者なれば是を頼み色々甲斐の事望申ける。去程に甲斐の国は関東の御分国にて基氏の御所の御時より鎌倉へ出仕申といへども明庵も禅秀の事に恐れ不参候間、鎌倉より御勢を被向、大将は上杉淡路守憲宗也。千葉は早々降参す。武田安芸守信満もつるの郡へ馳出、二年に及て合戦すといへども多勢に無勢不叶、終には打負、信満は甲州都留郡木賊山にて自害してうせぬ。法名明庵道光。于時応永廿四年二月六日の事也。安芸守信満一男武田三郎信重、是は都留郡にて生る。母方は平氏小山田弥二郎女の腹也。此時信重は出家し法名を光増坊と号し忍びて高野へ上り後は道成と改名す。其ころ祖父陸奥守花峯入道の末子武田信濃守信元は禅秀一味の儀なれども恐をなし出家して高野山に上り空山と改名して閑居す。甲斐国は逸見に給はり打入けり。然といへども京都公方より御引渡はなし。鎌倉殿よりの御意計也。此時信満入道明庵の二男右馬助信長と云人有。一人国へ立帰り郡内の加藤入道梵玄を相具し西郡に押寄、逸見と合戦数年也。此加藤と申は頼朝の御時、武田兄弟に安田遠江守義定と申て遠江当国を給し人あり。梶原が讒言して安田謀反の由頼朝へ申上ける間、頼朝大に感、則梶原と加藤の元祖加藤景廉と二人に打手を被下、義定は法光寺にて自害被成。然ば義定の跡を加藤に被下。甲斐国に加藤と申在所あり。是は彼加藤入道妙法房の居所を後に在所の名と也。扨梶原が末子源五郎景則と申て甲州に来り其名字も于今此国に伝る。義定の亡魂有ければ恐をなし法光寺に多門{ママ}天王につくり其亡骨を中に治めて法光禅定とて今もあり。加藤景廉の末孫にて此梵玄入道も頼朝より給はる所の義行の長刀于今所持なり。逸見武田両家の合戦、応永廿四年より初る。終に逸見は打負或は討死或は自害におよび残る人人鎌倉へ歎申間、持氏大いにいかりたまひ応永三十三(丙午)年一色刑部大輔持家為大将一千余騎発向す。しかれば甲州は要害能国にて人の心も不敵なれば鎌倉勢を事ともせず度々の戦に持氏方打負しかば持氏御旗をむけらるゝ。同六月二十六日武州横山口より発向有て武田を責らるゝ。信長もさる橋へ馳むかひ責戦といへども同八月廿五日不叶信長甲をぬぎ降参しける。御免被成鎌倉へ召れける。加藤入道は無双の大力にて鉄の棒を杖につきて参りける。見る人驚目ける。甲州をば京都へ御申上られ逸見に可被下候よし海老名三河守を以て再三御訴訟有しかども其比の公方義持公より高野に在し信濃守信元を召出して是に給るべきよしの上意にて信元国に打入ける。鎌倉殿も力に不及信元に御教書を給けり。逸見は如元西郡名字の地計を知行す。信元は武田陸奥守に成、鎌倉へ出仕申。法名は浄国院。信元に一子有。彦次郎と号。父より先に逝去す。信元にも甥なり。武勇もよし。信長に家を禅りたくおもひけれども一度禅秀一味の科有て京より御免なし。然間信長の一男伊豆千世丸とて土屋が娘の腹に生れし子を養子に定て系図并代々の御感書手次証文不残相伝也。其比信元の家来跡部駿河同上野と申て甲州の主{ママ}護代預り一類余多有て何事も信元の旨に背き横行しけり。信元一期の後伊豆千代に跡部背きける。甲州に輪宝一揆・日一揆とて両一揆あり。輪宝一揆の侍跡部に一味し逆心を企つ。信長方は加藤も早世し日一揆の人々計にて度々に合戦ありしかども運や此時に尽果けん、から河合戦に日一揆皆打負、信長は忍で信濃へ打越、京へ上り給ひける。此時甲斐は鎌倉の分国なれば持氏を頼被申ば、やがて御加勢を可給に、京へ信長被参ける故に京公方と鎌倉殿の御意趣のをこり初是なり。扨京公方は善光院殿御時なり。いかゞ思召けん。信長に先遠江国蒲の庄御厨にて千貫の地を懸命のためにたまはりける。信長は初て京へ御奉公申、しばらく徘徊してあり候時、兄の道成は高野より下り京へ出ける。公方是は禅秀一味の張本也、打て参ずべきと被仰下といへども、信長兄に孝行第一の人にて西国にかくし置、粮を運て助ける。此間跡部兄弟公方の御下知もなくしてしばらく国を押領す。
(此間在脱文以異本補於巻末{▼})
一 鎌倉成氏は同姓持氏一乱之時永享十一年十一月朔日永寿王と申、五歳にて鎌倉小八幡社まで落しける。瑞泉寺昌在西堂懐して常陸国住人筑波別当大夫郎等二人御供申、甲州へ忍で鍛冶が家にかくれけり。信濃へ落行、大井越前守持光を頼居給ひしが同十三年三月四日舎兄二人常陸国中郡に蜂起して逆心を企。同廿一日結城氏朝をたのみ籠城有しかば大井持光が家臣蘆田清野二人をつけて六歳の時、結城の城に籠城す。結城落城の時兄弟三人生捕にして上りけるを舎兄二人は(十二十三)おとなしく御座ありければ美濃国垂井の道場金輪寺にて生害す。永寿王殿六歳にていまだ東西不覚の体なれば一命を助、美濃の守護土岐左京大夫にあづけらる。此人いかなる果報にや。兄弟三人同心に上り二人は被殺候へども不思議に命たすかり給ふ事たゞ事にあらず。偏に神明の御加護也。此人誕生の時より御祈祷師にて有し僧、此人の上洛の前夜一首の歌を夢中の告を蒙りけり。
罪の身をよそにさなから引かへてつけに聞つゝ喜ひとしれ
彼僧余りに難有御告なれば此歌を巻数の裏に書付、餞別の時奉りけり。さるほどに関東には上杉安房守入道、鎌倉に居住して政務をつかさどりける。昔より主人にむかひて敵をなす人、廿余年の内子々孫々まで不亡といふ事なし。清盛公は白河院に敵対申、高倉の宮を討申、子孫絶ぬ。木曽殿も又ほどなく亡び、其外西海の合戦に帝にむかひてあだをなしける武士みな冥加尽ぬ。承久の乱に義時三王を亡し、時政頼家を失ひしは道理にあたりけるにや。相続はありけれども其身冥加尽、時政は被押籠愁死、義時は又召仕ける童子のために害されうせ、泰時が一男時氏早世、二男武蔵二郎十六歳にて家人のためにうたれぬ。か様の事におどろきければ泰時上は帝王をうやまひ礼儀を不乱、神明をたつとみ仏法を建立し士をなで民をなづけ己を責、心を不安。孫の時頼請之て猶主君を崇び謹而此事を専とせしかば天下安全に治りけり。上杉安房守も此人々にはをよばざれども、かたのごとく礼法をたつとみ民を撫て政道を専として諸士をあはれみ絶たるをつぎすたれたるをおこし政道たゞしくして人のなげきもなかりけり。武州金沢の学校は北条九代の繁昌のむかし学問ありし旧跡也。又上州は上杉が分国なりければ足利は京都并鎌倉御名字の地にて、たにことなりと、かの足利の学校を建立して種々の文書を異国より求め納めける。此足利の学校は上代承和六年に小野篁上野の国司たりしとき建立の所、同九年篁陸奥守になりて下向の時、此所に学所をたてけるよし、その旧跡いまにのこりけるを、応仁(永トモ)長尾景人が沙汰として政所より今の所に移建立しける。近代の開山は快元と申禅僧也。今度安房守、公方御名字がけの他{地カ}なればとて学領を寄進して弥書籍を納め学徒をれんみんす。されば此比諸国大にみだれ学道も絶たりしかば此所日本一所の学校となる。是より猶以上杉安房守憲実を諸国の人もほめざるはなし。西国北国よりも学徒悉集る。かくて京都にも不慮の事出来て将軍義教公も御果、其御子義勝公も御早世、其御弟三寅公いとけなくして将軍に備り給ふ。三管領の相談にて以慈悲を専として天下を治め給ふ。爰に越後の守護人上杉相模守房定、関東の諸士と評議して九ケ年が間、毎年上洛して捧訴状を、基氏の雲孫永寿丸を以関東の主君として等持院殿の御遺命を守り京都の御かためたるべきよし望て無数の圭幣をついやし丹精を尽しなげき申ければ諸奉行人も尤と感じ頻に吹挙申けるが宝徳元年正月御沙汰ありて土岐左京大夫持益にあづけられし永寿王をゆるし亡父持氏の跡をたまはり公方御対面あり。御太刀御馬を被下。同二月十九日関東へ下らるゝ。此若君の和歌の師にてありし正徹書記餞別の歌を送る。
九年きみこゝのへのうちをたにみすともなれし月な忘れそ
あやうきを天かけりてやまもり剣雲井のつるか岡のへの神
いにしへの契たかへすさかへなは都をあふけ君か行すゑ
此人五歳のとき被召捕十三にて関東の主となり致下向事、君恩とは申ながら偏に鶴が岡八幡宮荏柄天神の御加護なりとて上洛のとき護持の僧が無想の歌を語り給へば徹書記
よろこひと思ひあはせき此秋をつけに北野の夢のしるしは
かくて永寿王殿、関東におもむき給ふ。これにより上杉相模守は越後上野の境へ出むかひ致、事を補佐し、同顕定は上野国府中へ参、還御の御支度を馳走被申。八月廿七日上州白井をたち鎌倉へおもむきたまふよし聞へければ上杉安房守も御迎に可参と支度しけるが、いやいや御父持氏兄弟御兄三人まで憲実が為にうせ給ひし事さだめて恨めしく思召、身のため子孫のため大事なりとぞんじ、同廿六日の夜、子息三人同道して伊豆国へ落行、爰にて出家して行方しらずなり玉ふ。永寿王殿は武州府中村岡に御逗留、国分寺に御座す。同九月九日鎌倉へ還御。初は山の内の龍興院に御入、後にては浄智寺に御入有て御所御造営也。其間京都より御下知有て上杉安房守行衞を御尋候へども伊豆国名越の国清寺にて子息二人ともに出家となり兄をば徳丹、弟をば周清と名付、西国へ落行ける。末子龍若丸幼少なりければ伊豆の山家に隠し置けるを老臣ども漸々尋出、京都へ此由申しければ、たとへば幼少成とも老臣ども被佐管領に任じ山の内扇谷の両家の輩相談にて京都の御下知をうけ、政務を専に可致之由被仰下。去間同年十一月晦日御所出来御移あり。京より御一字をくだされ永寿王御元服ありて左馬頭成氏と申。龍若丸は上杉右京亮憲忠と号す。其後成氏より父持氏へ忠死の輩の子孫を召出し領知をあたへらる。今年宝徳二年卯月晦日夢想国師百年忌にあたり円覚寺黄梅院にて大法事あり。京都甲州武州信州の国師開基の寺より禅僧鎌倉に集る。又京都より勅使ありて仏統国師と改贈号あり(景南和尚陛座藍田瑛公の拈香あり)。爰に古持氏の御供に討死しける里見刑部少輔家基が子左馬助義実は房州より打て出、上総半国を押領し鎌倉へ参。結城氏朝が息男中務大夫重朝は父討死のとき三歳にて家臣多賀谷彦次郎懐中に懐て常陸の佐竹に落行隠れゐたりけるが、時をえて打ていで結城へ帰り普代の下人を催し近郷をことごとくうちしたがへかまくらへ参りければ成氏大によろこび則成朝と改名して近習に被召仕けり。成氏こそ憲忠に対し別儀なしといへども出頭のともがらいづれも上杉安房守に被亡ける子孫なれば、おりにふれ笑中に刃をとぐ心持してあやうき事どもおほかりけり。其ころ山の内は憲忠若輩ゆへ長尾左衛門尉景仲諸事を名代に執行す。扇が谷は修理大夫持朝也。是もいにしへ持氏滅亡のとき憲実に一味の最なれば、よの中いふかしく大切に思ひければ出家して道朝と号し子息弾正少弼顕房に家督を渡し憲忠を聟として武州河越へ隠居して有ける。然ども顕房若年の間、家臣武州尾越の太田備中守資清政務に替りて諸事を下知しける。太田長尾は上杉を仰ぎ憲実の掟の時のごとくに関東を治めんとす。此両人その頃東国不双の案者なり。父持氏の出頭の人々梁田里見結城小山小田宇都宮そのほか千葉新助は父は持氏へ不忠ありしかども同名陸奥守がすゝめにより成氏の味方と成て色々上杉を妨、振権威ける間、両雄は必あらそふならひなれば太田長尾と其間不和に成、此侭にてはいかさま上杉退治の事、程あるまじとて、太田備中守長尾左衛門尉令相談、一味同心の大名を催し事のおほきにならざるさきに此方より退治すべきよし評定して宝徳三年卯月廿一日其勢五百余騎にて鎌倉の御所へ押寄ける。成氏は此よし火急に告来りければ用意の軍兵すくなくして防戦事難叶して夕廿日夜半計、江の嶋へのがれ陣取たまふ。是は合戦難儀に及ばゝ船にて安房上総へ渡り重て人数を催し合戦せんとの謀也。長尾太田腰越まで寄来りける。小山下野守七里灘にて馳むかひ防戦ひけるが小やま小勢にて家の子郎等八十余人討死して其身も手負引退、敵は大勢にて由比浜へ押来あいだ味方千葉新助小田讃岐守宇都宮肥前守四百余騎にて馳むかひ散々に追散責戦ける。太田備中長尾左衛門が郎等百廿余人討死して陣床も取得ず相州糟谷庄へ引退。憲忠は今度の軍は心よりおこらざれどもかなふまじとおもひければ相州七沢山へ楯籠ける。爰に上杉安房入道が舎弟道悦と申禅僧、自駿州江の嶋の御陣へ参、しきりに憲忠父子は不儀の逆意にあらず偏に家人どもの企にて候へば御寛宥有て御和平被成可被下由訴訟申ければ成氏御納得ありて御優めのよし被仰出ける。諸人よろこび鎌倉無事にしづまりける。此とき成氏より京都へ此旨を注進あり。其状に曰。

関東執務事上杉右京亮憲忠、雖居其職候、依為微若、長尾左衛門入道自専諸職令蔑如公務、太田備中守入道為談合張本、緩怠逐日令傍情、剰搆種々造意、縡及火急候間、無拠于堪忍候間、去月廿日夜移居江嶋候、翌日廿一日為長尾太田出張引率多勢、寄来腰越浦、致合戦之間、小山下野守家人数輩令討死候、其後彼等出由比浦(江)候処(仁)、千葉新助小田讃岐守宇都宮以下為御方、数刻攻戦間、凶徒等被打散、相州糟谷庄(江)引退致合戦張行候、長棟舎弟道悦僧為無異計略、自駿州罷越、執申降参訴訟候間、以寛宥之儀、父子共令優免旨申付候処、参上令難渋、結句七沢山(仁)搆要害之由其聞候、次於長尾太田以下凶徒者、速(仁)可加誅罰由令成敗候、此一件事不替時日、雖可致注進候、相待長棟帰国為談合、言上于今延引候。
一 右京亮事自元無誤候間、可参上所行不自由歟、尤不便至候、爰憲忠被官人中長尾名字数輩、羽続小幡小宮已下数十人馳参当陣候。
一 安房入道候関東可執行行政務之由可被仰下候。
一 去廿一日合戦時、戦功輩中へ可被成下御感之御教書候。
一 関東諸侍并武州上州一揆輩中へ可致忠節旨被成御教書候者尤可然存候。
一 勝長寿院門主若宮社務悉村何居当帰候。
一 奉隊京都一切不存私曲候、於自今以後(茂)可抽無二忠勤候肝要、安房入道縦雖居傍候、早速可帰相旨被下上裁候者可畏入候、此等趣可然様可令披露給候、恐々謹言。
  五月十二日  成氏
左衛門督入道殿

同八月成氏鎌倉へ御帰。同十月憲忠御免を蒙り七沢より帰参す。是は京都公方の御教書下り成氏和睦有しゆへなり。
かくて京都より御下知ありて今度成氏へ不儀の輩令優免、憲忠と和平可有由龍西堂鹿王院御使として下向の間、成氏より一色宮内大輔武田右馬助を以て被仰下ければ憲忠無拠して七沢の城より山の内へ帰り御所へ出仕ありけり。太田備中守長尾左衛門尉も御免を蒙り御所へ出仕申、御太刀御馬進上申。憲実をも鎌倉へ帰参可有由京都よりもおほせ下され成氏も再三御使有けれども終に不参。伊豆国名越国清寺にて出家となりかくれ居けるが後には舎弟道悦長老と同道して西国へ行脚す。此道悦は初は上杉三郎重方と申けるが中年より遁世出家して硯屋和尚の御弟子にて無双の道人也。又此天長山国清寺と申は上杉代々の氏寺にて尊氏将軍の御叔父上杉兵庫頭憲房、法名瑞光院雪渓道欽のために其子息上杉民部大輔憲顕応安元年に初て建立の処也。此寺の開山は仏光禅師の御弟子夢想国師の師に高峯仏国禅師の御弟子無礙仏貞禅師開祐の願宇也。此憲房建武二年正月廿七日宮方従山門寄来とき将軍御兄弟あやうく見えさせ給へば憲房中御門京極にはせふさがり散々に防戦家の子郎等皆討死して深手負、不叶して祇陀林地蔵堂に入て自害してうせたまふ間に将軍御兄弟寺戸の辺までのがれ給ふ。されば此合戦の初より将軍の一門近臣数多有といへども、まさしく御命に替りけるは此人初めなるべし。しかりといへども太平記に記しもらしけるゆへ末代に人是をしらず。此太平記と申書は尊氏の時分より五十年以後撰び集めたる記にて、もれぬる合戦も数多あり。南方の軍関東奥方の合戦一円おちぬるよしたちばな河入が記しける太平記批判記にのせたり。同書に曰、京村雲大林寺の開基妙侮者は夢想国師の法春にて錦小路殿の師なり。高武蔵守ににくまれ関東へ下り鎌倉五山浄智寺に住。大同妙舞蝌a尚と号す。同所の五山寿福寺心印可直和尚の師也。悟道発明の人にて法身堅固にて正念に終たまひし事その寺の旧記に残れり。しかれども太平記には曾てしらざる事をいかなる無智の愚盲のわざにやありけん、妙浮妙吉と書、或愛宕の天狗の化したると記し置ける也と有。然而此憲房をば公方家いづれもふかくうやまひ給ひ御吊も念比也。憲顕此寺を開基旦徒となり七堂を建立し朱楼紺殿雲にそばだて雨杉風桧甍をならべ四時の座禅四三時の勤不退勤修の砌也。惣而五百人の僧徒を置、此開山仏直禅師、応安三年七月十三日入滅あり。憲顕は応安元年九月十九日於足利御陣所六十三歳にて逝去、号国清寺桂山道昌。さて此寺第二祖は源叟妙本和尚と申、仏国の御弟子なり。第三祖は無二法一和尚、仏応国師の御弟子、第四仏果禅師、開山仏貞禅師御弟子、第五存中和尚、仏乗禅師御弟子、第六東洲和尚、仏寿禅師御弟子、第七心印和尚、妙侮者御弟子、第八大光禅師、仏印僧可和尚と申は上杉兵庫助憲将の子息なり。東国無双の禅智職にて父の命により入唐して在唐十ケ年の後帰朝して応永廿四年正月廿六日七十八歳にて示寂す。第九は古剱妙沢和尚と申は夢想国師の御弟子にて不動明王の御形をゑがきたまふ。中年にて余り不動の像数多ありければ取集め箱に入、古き蔵に入置給へば其箱より火炎もえ出ける。寺僧驚き此火を消、箱をひらきめれば不動の像より火炎出ける也。是より妙沢和尚の書給ふ不動の威徳ありける事を人あまねくしりける也。さてこそ此和尚を不動化身とも申ける。かゝる有徳高行の禅侶止住の勝地の寺なれば当来値遇の結縁も空しからじと覚ける。其後勅恃賜天長山国清万年寺と号す。鎮守の社は清瀧権現、文珠明神、来宮明神、杉椅明神、祇園天王、蔵王権現、鷲大明神、四阿山権現等を崇、又上杉代々武州の守護にてありしゆへにや武蔵府中六所大明神をも此寺の内に勧請して社壇あり。憲実兄弟も先祖代々の寺なれば此寺にかくれ其後船にて西国へ赴、周防国へ行脚あり。爰にそのころ中国の大内殿威勢を中国九州までふるひける。都には武衞細川畠山の三家ともに末になり其家いづれも二ツにわかれ合戦あり。一人して天下の御後見も難叶、大内は大名にて威勢もありければ天下の御後見を望、一度都にのぼり公方の執事とあふがれ政道を補佐せん事願ひけれども三家の外は執事の例もなし、かなふまじとて多年望を空して過ける時、憲実入道此所へ来りけるこそ幸なれと大に喜で憲実入道を雲洞菴高岩長棟菴主と称し長門国深川大寧寺と申会下寺にうつしをき馳走渇仰して則大内殿は憲実の養子になり上杉山の内の系図を継、篠の丸にまひ雀の幕の紋を請て憲実を御父とて崇敬限りなし。其後大内殿都へ上り上杉は関東管領の家なれば、それをつぎて京都の執事職も子細有まじきよし申上ければ公方よりも禁中へ奏聞ありければ尤其寄ありと御免ありて大内左京大夫義興初て上杉より請て京管領に任ぜられ御後見望のごとく叶ひける。其後憲実はるかに年うつり寛正七年三月六日深川大寧寺にて終りたまひける也。

一 武田信長は代々鎌倉の近習なりけるが此時分京都に有合、結城合戦の時京勢と相伴ひ下向して京勢と一同に高名して其時の忠賞として曾比千津嶋を拝領す。此所は故花峯入道鎌倉へ出仕のとき中宿の所也。先祖の跡かうばしくして此所に居住してしばらく安堵しけるが、成氏関東御帰参の最前に馳参、代々関東奉公の儀を申ければ御感ありて近習にてありける。さて又甲州は京鎌倉動闘につきいまだ守護代も不被仰付の間、西郡は逸見押領して中郡東郡は跡部上野父子押領して己がまゝに有けるが、かくては公方の御とがめにあづかりあしかりなんと存、其頃道成入道浪人にて信長に扶助せられ武州府中に有けるをまねき主と名付置、国は一向己が侭にふるまひけり。其時分結城合戦ありて道成入道は刑部大輔と号し結城の城震の方より責入、一方の大将結城七郎が首を討取、京都へ進上しければ京都より甲州の守護を下されける間、跡部駿河同上野を討取てみづから国を治めける。果報難有人なり。跡部駿河同上野は本主の信長を背き輪宝一揆の衆をかたらひ日一揆の衆を亡し信長を追出し主の知行を押領しけるが牢人の道成を招き入、名をば主水と名付ながら狂言者のてつしをもてあつかふごとく心のまゝにしてありしかども天罰にて終に子孫まで亡び果ける。刑部大輔入道は宝徳二年十一月廿四日に逝去す。法名功嶽道成と号す。俗名信重也。管領上杉右京亮憲忠名代として長尾左衛門入道景仲威勢を振八州、彼名字の中三家あり。上州白井の長尾総州佐貫の長尾越後の長尾也。先年江の嶋合戦のとき成氏へ敵対して、かれらが一味の者ども数輩本領を没倒せられ其後和談寛免の間、本領を返し可被下由憲忠しきりに訴訟申されけれども成氏御免なかりけり。これにより皆皆分国の一揆被害官人等をめし集め猶以致嗷訴といへども御許宥なし。近年は寺社旧附の庄園ををさへて家人どもに令恩補。さる程に国々所々より訟止事なく騒動忿劇関東の大乱と見えければ成氏より憲忠に下知ありて雖被加折檻、更に是をもちひず。如何様東国の大事此時にありとやおもひけん憲忠の舅扇谷入道道朝長尾左衛門入道昌賢ひそかに上州に下り一味の族を催し種々の計略を廻しける。此日此御所方管領方とて二にわかれ不快にて有し。御所方の人々馳集り上杉長男等の隠謀已に発覚せり。しばらくも油断に及ばゝ味方の一大事成べし。休息憲忠を退治して関東をしづむべしと成氏へすゝめ申ければ公方もとより庶幾する所なれば尤と喜びたまひ結城中務大輔成朝武田右馬助信長里見民部少輔義実印東式部少輔等三百騎相催し享徳三年十二月廿七日の夜鎌倉西御門館へ押寄て時をつくる。憲忠も俄の事にて用意の兵もなかりければ無左右乱入ける程に憲忠主従廿二人切先をそろへて切て出、防戦しけれども、かなはずして一人も不残討死す。憲忠の首をば結城成朝家人金子祥永同弟祥賀討取て御所へ参、実■検の木がテヘン/に備へける。憲忠官領なれば庭上にをくべからずとて畳を布、其上に祥永兄弟をすへられ御実■検の木がテヘン/の後金子に多賀谷といふ名字を下され常陸国にて所領数多給り。此子孫結城代々の家老となる。公方へ出仕の時は陪臣なれども庭上にたゝみをしき公方へ拝顔申けるは、此時の例也。同廿八日御所勢山内を追捕す。去程に上杉修理大夫入道持朝長尾左衛門入道太田備中守入道其外一味の兵一千余人しまがはらに寄来、後陣の勢を待居ける。勝長寿院殿は成氏の御弟にて御所方の最なりしが敵より何とかすかし申けるにや、鎌倉を落て日光山へ御移り敵と一味にて宗徒を被催。成氏より武田右馬助一色宮内大輔を大将として享徳四年正月六日三百騎にて鎌倉を立、同廿二日嶋河原へ押寄時の声をつくる。上杉方には鎌倉勢小勢にてかくよせきたるべしとはおもひもよらず油断してありける所へ不意に攻来れば、あはてふためき騒動しけるを鎌倉勢是に理をえて三方より火急に責寄ける間、上杉方たちまち打負悉敗軍して上州と川越と両方へ引返す。長尾入道かくてはかなふまじとおもひければ越後の守護上杉定昌を上州へ招き憲忠の弟房顕をとりたて大将として越後信濃武蔵上野其外東八州之内上杉一味の軍兵、又故禅秀が子息上杉右馬助憲顕扇の谷持朝入道にも評定して京都へ申、御教書并御旗を申おろし成氏退治の謀をめぐらす。成氏も以専使京都へ申されけるは憲忠事不儀逆心の間、無拠退治いたす所也、京都へ奉対毛頭不儀を不存、京方の御領分一所もいろひをなし不申、殊に足利の庄は御名字の地にて候間、御代官を被下可有御成敗之旨、再三被申上けり。しかりといへども御■検の木がテヘン/使を下され関東の様体厳密の不及御沙汰。たゞ成氏が私の宿意を以憲忠を討、殊に不得上意して関東の大乱を起す条不儀のいたりなりとて終に御勘気を蒙り成氏退治可有由被仰出ける。成氏は上州の敵退治のために正月五日鎌倉を立、武州府中へ一千余騎にて発向して高安寺に陣を取、是を聞て上杉衆二千余騎にて上州を打立て享徳四年正月廿一日武州府中分倍河原へ寄来る。成氏五百余騎にて馳出、短兵急にとりひしぎ火出るほどに攻戦ける間、上杉方の先手の大将右馬助入道憲顕深手負て引かねけるが高旗寺にて自害す。鎌倉勢も勝軍はしけれども石堂一色以下百五十人討死して戦ひつかれ分倍河原に陣を取、上杉勢の荒手の兵五百余騎、同廿一日分倍河原へ寄来鬨の声をあげれば成氏きのふの合戦に打勝いきほひゆゝしき兵どもなれば敵の寄るとひとしく出合、散々に切てかゝる。上杉方の先陣羽続大石以下悉打負敗軍す。成氏勝に乗て責入ける間、里見世良田深入して討死しける。是を事ともせず結城小山武田村上入替て攻ける間、上杉忽打負悉敗軍す。扇の谷房顕は後陣にうちけるが味方をいさめきたなし返せとて踏とゞまりて防たゝかひけれども大軍のなびきたる事なれば引返し留る兵もなく我先に落行ける。房顕手の者皆うたれ深手負ければ夜瀬と云所に残留りて廿一歳にて腹切て失ぬ。成氏は両日の軍に勝たまへば降参の敵数をしらず。上杉長男敗軍の兵を集、常陸国小栗の城にたて籠、享徳四年閏四月成氏御進発ありて結城に御馬をたてられ小田梁田筑波小山下野守を指向て彼城を被責。上杉衆も出合数日合戦止時なし。此陣中に寄手小田持家の子息朝久、父に先立て病死早世しければ父中務は愁歎のあまりいまにをいては合戦もむやくなりとて引返す。是を聞て成氏より重而荒手を入替大勢にて責ければ終に小栗の城を責おとされ上杉方悉敗軍して野州へ向ておちゆきけり。しかりといへども京都の御下知不等閑之間、千葉介入道常瑞同舎弟中務入道了心宇都宮下野守等綱山川兵部少輔真壁兵部大輔、上杉と一味して所々に蜂起しける。就中此宇都宮等綱は去応永の比、小栗逆心の時一味同心に逆意を企、塩谷に打れし右馬頭持綱が子なり。其時四歳にて佐竹へおち行けるを十九歳にて御免を蒙り本領に安堵しけるが父が恨をや思ひ出けるにや今度も最前に敵となりて籠城す。成氏も他の敵をさし置自身押寄、城の四辺より一人ももらさじと責ければ芳賀伊賀守紀清両党の兵を引率して宇都宮惣領弥三郎明綱は小山持政が甥なれば是を頼、宇都宮の家を絶さじとて成氏へ降参いたさせけり。等綱も息男明綱并芳賀伊賀守已下降参の上は防戦にたよりなく籠城かなふべきやうあらざりければ出家入道して黒衣を着し城を出、奥州白川へ落行ける。山川の城真壁の城も責おとされていづれも成氏に降参す。然ども京都に御沙汰ありて海道五ケ国の勢今川上総介を大将として御旗を下され鹿王院を被相添、同年の六月十六日鎌倉へ乱入。御所を初として谷七郷の神社仏閣追捕して悉焼払、頼朝卿已後北条九代の繁昌は元弘の乱に滅亡し尊氏卿より成氏の御代に至て六代の相続の財宝この時皆焼亡して永代鎌倉亡所となり田畠あれはてける。まことにあさましき次第也。去程に越後の守護上杉民部大輔定昌上州へ打越、并部少輔房顕を取立、越後信濃の軍勢を催しける。長尾左衛門入道昌賢、武州上州の軍兵を催し上杉八郎藤朝同名庁鼻和六郎同七郎憲明野州天命只木山にたて籠り成氏退治の謀を回しける。又下総国千葉介入道常瑞舎弟中務入道了心、日比者鎌倉の侍所にて成氏へ度度の忠節ありしが此兄弟故上杉禅秀が外孫也。今度然秀が子息右馬助憲顕下向してすゝめければ母方の叔父と一味して成氏へ敵をなす。成氏天命只木山へ押寄、四方口々の用路をさし塞、遠責にせめたまへば兵粮運送の道なくして越後上州の兵ども一戦にも及ばず忍び/\に落行けり。長尾不叶して領国の一揆を集め武州埼西郡へ引退て陣を取。成氏は総州葛飾郡古河県こうのすと云所に屋形を立、関宿の城に梁田を籠、野田城に野田右馬助を籠置、猶武州甲州相州両総州の味方を集め又埼西郡へ発向して上杉長尾等を退治して関東を治めんと打立て京都へは瑞泉寺西堂を為使節、京都に奉対不義不令存、憲忠を令誅伐候事を御免被成候にをいては自今已後可抽無二之忠勤候、毛頭も不挿野心候処に讒佞申乱間被差下御勢候、伏願は朝敵に成事歎にあまりあり、被下淳直之御使節候而、関東の次第初よりの儀御■検の木がテヘン/知御座候はゞ寔以可為都鄙安泰基由言上ありけれども御返事も不被仰下、使僧も空しく下りけり。

一 享徳四年六月、成氏為退治、上総介範忠京都の御教書を帯し御旗給り東海道の御勢を引率、鎌倉へ発向す。鎌倉には木戸大森印東里見等、離山に待懸防戦ひけれども悉打負ければ成氏重て新手の勢二百余騎を指向防けれども敵勢雲霞のごとく重りければ終に不叶打負、武州府中へ落行、路次の世谷さいと申所にて南一揆蜂起して待かけたり。梁田河内守結城先陣にて是を散々にかけ破り道をひらき成氏は武州せうぶに落着、敗軍の士卒を集、総州下河辺の城に被籠、此時の事にや鎌倉荏柄天神の社壇を破り駿州の軍兵等天神の神体を駿府へ乱取しけるとかや。其後神体自荏柄へ御帰の事あり。爰に千葉介が近親に原越後守胤房同筑後守胤茂円城寺下野守尚任と云者あり。ともに有勢の兵也。中にも原越後守は武功の兵にて公方へも出仕申ければ成氏より原越後守を頻に御頼ありける。越後守は千葉介をすゝめ御所方になりたまへと申。円城寺下野守は上杉にかたらはれければ同心の族を催し千葉介をすゝめける間、千葉介父子兄弟上杉と一味して御所を背きければ原はひそかに成氏より加勢を乞。享徳四年三月廿日千葉へ押寄ければ俄の事にて防戦難叶して千葉の城を没落す。胤直父子は同国多胡志摩二の城に楯籠、一味の勢を催し上杉よりの加勢を待居たり。爰にまた故千葉大介が次男千葉馬加陸奥守入道常輝父子馬加より討出、成氏の味方と成て馳来。原越後守大に喜び則是を大将として多胡の城へ指向。原は志摩の城へ押寄て攻けるほどに陸奥守入道は古兵にて城を取まき兵粮の道をとめ一方を明て責ければ籠城の兵皆落うせて大将胤宣は若年にて纔に廿騎ばかりに成、終に攻おとされ乳母子円城寺藤五郎直時を以敵陣へ遣し城をば渡し可申候間、仏前へ参切腹仕度よし乞ければ尤とて城を請取、寄手并公方よりの加勢の兵共送りて城外のむさといふ所に阿弥陀堂の有けるへ出、仏前にむかひ享徳四年八月十二日十五歳にて切腹す。最後のつとめ念比也。直時も主の介錯してつゞいて腹を切にけり。

   辞世
みたたのむ人はあまよの月なれや雲はれねとも西へこそ行
見て歎き聞てとふらふ人あらは我に手向よ南無阿弥陀仏

同時供に来椎名与十郎胤家木内彦十郎円城寺又三郎米井藤五郎粟飯原助九郎池内助十郎深山弥十郎■一字欠/本彦八青野新九郎多田孫八高田孫八三谷新十寺本弥七中野与十郎等皆指違々々枕を竝て伏居ける。首共取て成氏へ進上す。又志摩の城は原越後守大将にて昼夜のさかひもなく攻戦ひけるが同八月十四日の夜終に叶はずせめおとされ是も土橋と云所に如来堂のありける所へひしぎ別当東覚院にこもる。原越後守城を請取彼寺を取巻て胤直に付申ける上臈をまねき出し申けるは、介殿の御事は成氏公へ御不儀にて討手被遣ける間、上の御心難叶候へば不及力、若君胤宣は初より御一所に無御座、何の不儀もおはしまさず、馬加殿あはれに思召候間いかにしても御命を助け奉り候はんと申。然共胤宣ははや十二日御切腹のよし申ければ越後守も涙をながしける。同八月十五日寄手重り如来堂を取巻ときの声を作りける間、千葉介入道常瑞舎弟中務入道了心切腹ければ池内豊後守胤相介錯して同是も切腹す。円城寺因幡守木内左衛門尉池内蔵人多田伊予守粟飯原右衛門尉高田中務大輔胤行等は胤直の御前并上臈を初め女房達を指殺し、おもひおもひに腹を切。哀といふもをろか也。別当東覚院死骸を集め仏事供養をなし無常の烟と焼上ける。原筑後守胤茂が沙汰として骨をば千葉の大日寺にをくり納、五輪石塔を立をきける。是は敵ながら普代の主なればかやうに吊ける事、情有と諸人感じける。爰に哀なる事あり。下総国金剛授寺の僧中納言坊とていと若き僧あり。能書にて胤宣おさなき時より手習の師にてありけるが胤宣父子切腹之由を伝聞、吊のために彼如来堂へ参詣して御経を読焼香念仏しける。別当東覚院出合、胤宣父子最期の体物語して辞世の歌を取出し見せければ、かの中納言此歌を見て涙を流し、その侭又仏前へまいり御堂の柱に一首の歌を書付て出けるが其近きあたりの流水のふかき淵に身を投、終にむなしくなりにけり。
見るもうし夢に成行草の原うつゝに残る人のおもかけ
此千葉介は平将軍村岡五郎重門末葉にて右大将頼朝の御時、当家の元祖常胤は鎌倉へ無二の忠節ありて将軍より御崇敬あり。官加階はあらざれども諸家の上座に列。一男新介二男相馬小次郎三男武石三郎四男大須賀四郎五男国分五郎六男東六郎大夫胤頼とて東ノ庄三十三郷を知行し代々歌人にて禁中の御会にも参りければ子孫代々在洛す。常胤より五代の後胤に時胤は在鎌倉にて死去す。六代の頼胤の時、総州小金に居住す。此時鎌倉極楽寺の良観上人を請て小金のまばしと云所に大日寺を建立して頼朝公より代々の将軍并千葉一門の菩提を祈る。貞胤の時、此寺を千葉へ移す。然ども大日五仏の尊像は良観の自作り給ひし霊仏にて威力新にして猶此所に残り給ふ間、其後、貞胤氏胤、当所に在城の頃、尊氏将軍の御菩提のため夢想国師の御弟子古天和尚を請じ此寺中興開山となし号万満寺。此時、宗胤は三井寺にて討死し貞胤は北国落迄は宮方にて新田義貞の御供にてありしかども不心して尊氏の味方になりける間、宗胤の子息胤貞宮方にて千葉残り給ふ。此人の子息日祐上人法華学匠にて下総中山の法花寺の中興開山なり。是により胤貞より中山の七堂建立あり。五重の塔婆をたてらる。其後、胤貞上洛して吉野へ参、征西将軍の宮御下向のとき御供して九州へ下り大隅の守に補任し肥前国をも知行しけり。日祐上人も九州に下向して肥前国松王山を建立して総州の中山を引てすゑの世まで此所を中山と両山一寺を号す。さて又、貞胤の子孫千葉へ移り此胤直まで五代也。尊氏の御時、千葉の家二方にわかれ宮方将軍方とてありしが宮方は九州へ下り其後、終に下総へわたり給はず。関東は一統にてありけるが今度また馬加は成氏と一味して原是を主として千葉へ移り、千葉の跡を継ける。其後、原は小金の城に居住す。上杉より今度胤直と一所に討死ありし中務入道了心の子息実胤自胤二人を取たて下総国市川の城に楯籠て千葉又二流となる。同七月廿六日、改元ありて年号を康正元乙亥年と改む。爰に其比、京公方の近臣東下野守常縁といふ人あり。是は昔の常胤の六男東六郎大夫胤頼が嫡流也。総州東の庄を知行しながら代々公方の近臣歌人にて在京して有けるが今度千葉の家両流になりて総州大に乱れければ急ぎ罷下り一家の輩を催し馬加陸奥守を令退治。実胤を千葉へ移し可申由御下知を蒙り御教書を帯し下向す。浜式部少輔春利をも相具し下向して一族并国人に相ふれければ国分五郎大須賀相馬を初めとして下野守常縁に相随ふ。其勢を合て常縁、馬加の城へ押寄散々に責ければ原越後守打て出、一日一夜防戦ひけれども終に打負、千葉をさして引退。此いきほひにて上総の国所々にむらがりてありける敵城自落せしかば浜式部少輔をば東金の城へ移し常縁は東の庄へ帰る。成氏は武田右馬助里見梁田一色宮内大輔鳥山等に三百騎を指添、埼西城をせめらる。上杉庁鼻和長尾左衛門武州七党の兵ども康正元年十二月三日、切て出、防戦ひけるが、上杉方打負引返しける。同六日御所方より押寄手いたく攻ければ終に城をせめおとす。上杉衆数百人討死敗軍す。然ども総州の合戦には馬加陸奥守原越後守野州常縁に度々打負ければ千葉新介実胤を取立、本領を安堵させんと市川の城に楯籠て大勢有よし聞えければ成氏より南図書助梁田出羽守その外大勢指遣、数度合戦して康正二年正月十九日、終に城を責おとし実胤は武州石浜へ落行。自胤は武州赤塚へ移る。両総州の兵どもは大半成氏へ降参申ける。関東八周所々にて合戦止時なく、をのづから修羅道の岐と成、人民耕作をいとなむ事あたはず。飢饉して餓死にをよぶもの数をしらず。上総国へは武田入道打入て庁南の城まりが谷の城両所を取立、父子是に楯籠て国中を押領す。房州の里見、是に力をえて十村の城よりおこりて国境へ勢を出し所々を押領す。梁田河内守は関宿より打て出、武州足立郡を過半押領し市川の城を取。上杉方にも三浦介義同は三浦より起て相州岡崎の城を取、近郷を押領す。大森安楽斎入道父子は竹の下より起て小田原の城をとり立、近郷を押領。又敵方は武蔵国には上杉武蔵入道性順息男右馬助房顕は武蔵人見へ打て出、上州の味方とし引合、深谷に城を取立ける。成氏、是を聞て敵に足をためさせじとて同十月十七日、鳥山右京亮高因幡守を先懸にて二百余騎の勢を指遣す。上杉方岡部原へ出合、火出るほどに戦ひける。上杉方には井草左衛門尉久下秋本を始として残りずくなに討なされ悉敗軍す。成氏の味方も勝軍はしたりけれども一方の大将鳥山深手負死ければ東陣へ引かへす。上杉方へは上州より新田岩松小五郎金井新左衛門已下荒手加りければ上杉衆力を得て羽続原へ出張して陣を取。公方州、是にかけ合、二度目の軍に打負足立郡へ引返す。下総国には東野州常縁と馬加陸奥守并岩崎輔胤と於所々合戦止隙なし。扨又京都には御沙汰ありて常縁を召上せられむため長禄元年六月廿三日、渋川左衛門佐義鏡を大将として武蔵国へ被指下。是は公方の近親{ママ}にて代々九州探題の家なれば諸家もおもき事におもひけるうへ祖父左衛門佐義行は久鋪武蔵の国司にてあり。其時より足立郡に蕨と云所を取立、居城にして今に至まで此所を知行しければ旁此仁可然とて義鏡を探題になしたまひ御下知の通、武州上州の兵どもに申聞せ成氏を退治して上杉を管領とて関東を治むべきの趣を触渡す。板倉大和守先立て罷下、此由を申ければ上杉方の兵ども各馳集、渋川殿へ参会して京公方の御下知を承。其年長禄元年四月、上杉修理大夫持朝入道、武州河越の城を取立らる。太田備中入道は武州岩付の城を取立、同左衛門大夫は武州江戸の城を取立ける。成氏も同年の十月、相州下河辺古河の城ふしむ出来して古河へ御うつりありける。京都より渋川殿、探題にて下向あり。武蔵相模の兵を集め東の常縁両総州の兵共を下知しけれども東国の兵共猶以成氏を背く者なし。いかさま京都公方の御子を独り関東の主として御下向ありて関東の公方と定、被御下知にあらずば関東治がたきよし諸家言上しける間、此儀礼尤しかるべしとて将軍家の御舎弟香厳院殿と申て禅僧にて天龍寺に御座有けるを長禄元年十二月十九日廿三歳にて俗に返し申、左馬頭政智{ママ}と付、上杉中務丞為上使、同治部少輔政憲南伊予守飯河河内守布施民部大夫木戸三河守孝範等御供にて同月廿四日、伊豆国迄御下着有。三嶋の大明神へ御参詣あり。彼神前にをいて御元服有けり。木戸三河守孝範御加冠、治部少輔政憲御理髪にて有ける。孝範は冷泉中納言持為卿の門弟にて無双の歌人にて有ければ一首の和歌を詠じ大明神へ献上して公方の御運を祈ける。
我君の初もとゆひの黒髪にちよふる霜のしらかなる迄
鎌倉には御所もなく要害悪鋪敵地も近ければとて伊豆の北条に堀越といふ所にかりに屋形をたて伊豆国を知行せらる。先為名代、上杉政憲、箱根を越て武州相州上州の一揆を下知して房顕に力を合せらる。房顕は武州五十子といふ所に陣取、成氏衆と対陣して日々夜夜の合戦也。伊豆国は昔より源氏重代の国也。頼政仲綱の以後、頼政の子孫代々守護たり。但、二位の禅尼の時、武田信光も此国を玉はり十ケ年ほど居住ありとかや。其後又頼政の子孫給はり多田治少輔とて三代相続あり。此人人の建立しける中花山禅長寺と号して頼政以来の木像あり。河内と云所にて山の堂とも頼政堂とも申て于今有。尊氏公の御代に畠山阿波守国清、其息尾張守二代関東の執事にて此国の守護と成。彼人の建立の寺瑞龍山吉祥寺と申、于今有。木像も有之。其内、上杉山の内憲顕給はりて代々関東の管領也。今又堀越殿、関東の主君として此国へ御下向有、しからは当国は関東には吉例有国にて源家有縁の所也。其比寛正元年正月朔日、天に二の日出。末世の不思議といひつべし。京都には畠山両家諍論ありて合戦有。寛正七年二月十一日、山の内兵部少輔房顕五十子の陣中にて早世す。法名大光院清岳道純と申。已、堀越殿御下向あり、近日越山あらば両上杉と一同に四方より蜂起して成氏を責おとし東国平均に可治由、諸家いさみける所に、山の内殿早世の間、力をおとして越後国上杉相模守房定の二男顕定をまねき房顕の妹聟として一跡相続可令由、長尾扇の谷へ相談し豆州政智{ママ}の御下知をうけ顕定を山の内殿に移しける。其年九月三日改元ありて年号を文正と号す。其翌年より京都に大乱起り畠山両家并細川山名権威を諍ひ合戦止時なし。同年九月六日、上杉弾正少輔{ママ}入道持朝河越にて逝去す。五十二歳。法名広感院殿道朝と号す。此人、上杉両家の古老にて諸家もおもんじ渇仰の首をかたぶけしに、かくあへなく捐館し給へば伊豆の御所も関東の諸家も力をおとし忙{ママ}然たり。東下野守常縁は千葉退治の■検の木がテヘン/探として下総国に下向し康正元年より東の庄に居住し所々の合戦に打勝、京都の御感にあづかりける所に京都の大乱起り常縁が美濃国郡上の城を山名方より打入て応仁二年九月六日に攻落され同国住人斎藤持是院法印妙椿と云人悉押領しける。常縁関東にて是を聞、此所は常縁が先祖中務入道素還、承久二年初て拝領の旧地也、代々十世に及びて終に他人は知行せざりけるを我代に至りて思ひの外に東国に下向してか様に成行ける事無念といふも愚なり。其折しも亡父式部入道素明が為に追善の法事を営み僧を供養しけるが代々和歌をたしなむ家なれば、かくおもひづゞけける。
あるかうちにかゝる世をしもみたり剱人の昔の猶も恋しき
浜式部少輔春利(総州とけとう金先祖)此歌を聞て哀にたへずおもひければ京都へ便ありける時、兄の浜豊後守康慶が許へ書て送りける。康慶此歌を感じて歌を好む人々に見せもてはやしければ、斎藤妙椿伝聞て常縁はもとより和歌の友人也。今関東に居住して本領かく成行事、いかに本意なき事におもひ給ふらん、我も久鋪此道の数寄なれば、いかで情なき振舞をなさんや、常縁歌をよみてをくり給はゞ所領もとのごとくに返しなんと康慶に物語しければ、康慶舎弟春利が方へ此由申送る。春利大に喜び東野州へ来て舎兄の豊後守が消息を取出し、是御覧候へ、かゝる乱世の末代にも都にはゆうにやさしき人こそ候へ、目にみえぬ鬼神をもやはらぐるは和歌の徳と承候、御詠草一首送りて御覧候へかしと申ければ、常縁本より達者にて十首の歌を詠じて春利に渡す。春利則取次て美濃国へぞをくりける。
ほり川や清き流をへたてきて住かたきよを歎はかりそ
いかはかり歎とかしる心かなふみまよふ道の末のやとりを
かたはかり残さむ事もいさかゝるうき身は何としき嶋の道
おもひやる心のかよふ道ならてたよりも知ぬふる里の空
たよりなき身を秋風の音なからさても恋しき故郷の春
更にまたたのむにしりぬうかりしは行末とをき契なりけり
木葉ちる秋の思ひよあら玉の春にわするゝ色をみせなん
君をしもしるへと頼む道なくは猶ふる里やへたてはてまし
み吉野になく雁金といささらはひたふるに今君によりこん
わか世経むしるへと今も頼む哉みののお山の松のちとせを
返し   持是院法印妙椿
言葉に君か心はみつくきの行末とをらは跡はたかはし
おなじとき康慶の許へつかはしける
   常縁
和歌の浦や汀のもくつ/\にも猶数ならぬ程をみえぬる
霧こめし秋の月こそよそならめかさしににほへふる里の花
かへし  康慶
わかの浦や渚のもつく/\にもみえすよみかくたまの光に
かへりこん君か為とやふるさとの花も八重たつ錦なるらん
此年二月二日よりかく申かはしける間、達上聞ければ御免許あり。下総国には子息縁数をとゞめ四月廿一日、東野州は上洛して五月十二日に持是院妙椿に対面して本領を請取打入ければ妙椿の許より
世中をとをくはかれは東路にいま住なからいにしへの人
使を立ながら返し   常縁
よの中をとをくはからはけふ迄の君か言葉の花にをくれし
又領地より妙椿へ送る 常縁
故郷の荒るをみてもまつそ思ふ知へあらはすいかゝ分こむ
返し         妙椿
此ころのしるへなくとも故郷に道ある人そやすく帰らん
応仁文明の頃、政知は伊豆の堀越に居住あり。成氏は下総の古河城にあり。両御所にて候。両上杉は堀越の味方にて成氏と合戦。武州総州の成氏の味方之者ども文明三年三月、箱根山を打越、伊豆の三嶋へ発向して政知をせめんとす。政知は小勢にて駿河より加勢を請、三嶋へ人数を出し防戦ける。政知之軍無利して已敗軍に及ける処に上杉の被官矢野安芸入道政知に加勢して新手にて馳来ければ成氏方の先手小山結城の兵一戦に打負、山を越敗軍す。此間に山内顕定宇佐美藤三郎孝忠に五千余騎を相添、道に待うけ散々に責ければ成氏方千葉小山結城等残少なに打なされ古河へ皈城しける。文明三年三嶋にて公方衆の軍利なうして上杉方勝にのり同五月、長尾景信大勢を引率して古河城へ向、城中の兵共沼田高三浦の者ども馳出、爰を先途と防けれども長尾大勢入替責ければ六月廿四日、遂に落城して成氏、千葉をさしておちたまふ。孝胤を頼給ふ。此時、諸軍散々に成行けれども結城一人供奉す。房州里見上総の両武田小金の原其外近国の勢、馳集て是を守護す。両上杉は猶五十子に旗をたてゝ成氏の味方を退治しける。しかれども古河に野田、関宿に梁田、私市の佐々木、其外那須結城いづれも無二の御所方にて翌年の春、千葉より成氏公御発向ありて古河城を責落し終に御帰参ありけり。扨又五十子へ御勢をむけられ合戦やむ時なかりければ文明五年十一月廿四日、上杉扇の谷の大将修理大夫政真も打死なり。行年廿四歳。此人いまだ子なかりしかば一家の老臣ども評定して故持朝の三男定政を修理大夫に任じ扇の谷の家督となす。扇の谷の家務は太田左衛門入道道灌、山の内の家務長尾左衛門入道死去の間、長尾尾張守忠景に顕定より被申付。爰に長尾四郎左衛門尉景春は長尾一家の大名にて有勢の者也。殊に老父玉泉菴忠功異他。然間、景春われこそ家務職を可承処に忠景に被越、天性腹悪敷男にて逆心忽におもひ立、顕定を可亡企密に存知立、縁者たるの間、大田道灌に此事を相談す。道灌是を聞て一大事出来ぬと思ひければ顕定の前に来りて申けるは景春もとより無器用にて御家務職は無及候得ども父玉泉が忠功を思召候はゞ武蔵の守護代を被仰付、先忠景と和談仕、忠景も暫時辺土へ相退、かれが心を相静て御陣中無為の御謀可然候、彼が家来被官人に狼藉之族逐日令増倍候間、定而近日御難儀不可遠之由申といへども、山の内を始て評定人ども更にいづれも承引せず。しからば御旗をむけられ景春被誅候はんに何の子細か候べきと申といへども、そのかひなし。其年、伊豆の御所より御催し有て■口に愛/のために左衛門大夫、同年十月に帰宅す。其間に長尾景春、武州鉢形の城へうつり武州相州の内一味同心の兵を催し不日におもひたち五十子の陣へ押寄て両上杉を襲ける間、文明九年正月十九日の夜、顕定憲房宣政三人、小勢にては叶まし、上野へ打越、大勢を催し景春を退治すべしとて、太田道灌を殿にて利根川をわたり那波の庄へ引退。景春一味の族には武州豊嶋郡住人豊嶋勘解由左衛門尉同弟平衛門尉、石神井の城練馬の城を取立、江戸河越の通路を取切、相州には景春が被官人溝呂木の城にたて籠、頭越後五郎四郎は小磯と云城に楯こもる間、太田左衛門入道下知として扇谷より勢をつかはし同三月十八日溝呂木の城を責落す。同日、小磯の要害を責らる。一日防戦ひ夜に入ければ越後の五郎四郎かなはずして城をあけわたし降参す。夫より小沢の城へ押寄攻けれども城難所にて難落。河越の城には太田図書助資忠上田上野介松山衆を籠め、江戸の城には上杉刑部少輔朝昌三浦介義同千葉次郎自胤等を籠らる。景春一味の実相寺并吉里宮内左衛門尉以下小沢の城の後詰のため横山より打出、当国府中に陣取、小山田が城を攻おとして矢野兵庫助を大将として河越の城押へのために苦井と云所に陣を取。是をみて河越に籠る太田上田等、同四月十日に打出ければ、矢野兵庫助其外小机城衆、勝原と云所に馳出合戦しける。敵は矢野を初めとして皆悉打負深手負て引退。同月十三日、道灌、江戸より打て出、豊嶋平右衛門尉が平塚の城を取巻、城外を放火して帰ける所に、豊嶋が兄の勘解由左衛門を頼ける間、石神井練馬両城より出攻来りければ、太田道灌上杉啓部少輔千葉自胤已下、江古田原沼袋と云所に馳向ひ合戦して敵は豊嶋平衞門尉を初として板橋赤塚以下百五十人討死す。同十四日石神井の城へをし寄責ければ降参して同十八日に罷出対面して要害破却すべきよし申ながら亦敵対の様子に見えければ、同十八日に責おとす。金子掃部助が籠ける小沢の城も同日に攻落す。長尾景春は上州勢を引率して五十子梅沢といふ所に陣を取。太田道灌、所々の軍に打勝て上州那須の庄へ両上杉の迎に来り。同五月十三日、利根川を越、五十子へ帰陣す。長尾景春、是を見て引退けるを両上杉長尾忠景太田道灌板倉美濃守大森信濃守已下、用土原へ押かけ合戦して悉打勝。景春は鉢形の城へ引退、残すくなく討なされける。鉢形を攻落べきにて両上杉は富田四方田甘粕原に陣を取ける。同七月の初、古河の成氏公、数千騎を引率して景春が後詰として結城両那須佐々木横瀬御供にて瀧と云所へ御出張の間、両上杉もかなはずして、上州の白井へ引退て陣を取。十月、長尾景春同六郎為景、公方より加勢ありて荒巻といふ所へ陣取、切所を前に当、待掛けるに、敵陣は引退て帰陣す。其後明る正月朔日、梁田中務方より長尾左衛門尉方へ寺尾上野介を使として上杉と御和談可有由申来る間、和談にて互に合戦をやめられ陣払あり。其中に扇谷の定政は、道灌を相伴ひ上州倉賀野より同正月廿四日に河越へ帰陣す。同廿五日、豊嶋勘解由左衛門が平塚の要害へ押寄責ければ、其暁、没落して敵猶丸子城小机城に籠る。上杉定政は河越に籠り、長尾景春は吉里宮内左衛門以下相伴ひ大石駿河守が二宮の城へ着陣して小机の城の後詰せんとす。同三月十日、河越の城より二宮へ押寄ければ打負、景春は成氏の御陣成田へ参て千葉新助孝胤相催し羽生峯に陣取。同十九ひ、小机の陣より太田図書助資忠引かへし、同廿日、羽生に向て定政も出勢也。孝胤景春一戦にも及ばず引退。大石駿河守楯籠、二宮の城も降参す。相州磯辺の城も小沢の城も自落す。敵の残党、奥三保と云所に楯籠候。太田道灌、村山に陣を取。敵本間近江守海老名左衛門甲斐国鶴瀬の住人加藤其外彼国境の兵ども相催し、同十四日、逆寄に責来。太田図書助資忠、先に進み防戦。海老名左衛門を初として敵数多討取ける。道灌も村山の陣より押寄候処に敵は敗軍す。追懸甲州の境を越、加藤が要害へ押寄、鶴河所と云所を放火して帰陣す。同十七日、荒川を越、鉢形と成田の間に陣を取。成田の御陣より梁田中務大輔、以使申けるが、上州にて申合候ごとく公方上杉上下御和談の間、別儀無之候へども景春御近辺へ参、しきりに奉願候間、御難儀に思召候間、景春を押はらひ可然候。古河へ御帰座被成度由、申来候間、太田道灌馳向候へば、景春敗北す。其間に成氏公、利根川を御越、七月十七日に古河の城へ御帰座有。顕定は鉢形の城に天子の御旗をたてられ爰に居城也。又千葉介孝胤は先年父陸奥守入道常輝を相伴ひ故胤直兄弟に腹切せ成氏へ奉公の人にて成氏より千葉一跡を給はりける。其後、胤直の一跡として実胤を千葉介に任じ上杉より下総へ指遣といへども成氏より孝胤を贔負{ママ}にて千葉に居をかれける間、実胤は千葉城へ入部不叶して武州石浜葛西辺を知行して時を待て居たりしが、世中を述懐して遁世して濃州に上りて閑居す。其兄の自胤を上杉より取たて実胤の跡を給はり千葉介に任ず。武州の千葉と号す。今度千葉介孝胤は景春と一味して所々にて合戦し又、成氏上杉と御和談之儀不可然之由、孝胤しきりにさまたげ申間、孝胤にをいては御敵の随一也。此時令退治、自胤を取立て両総州の侍過半自胤へ付て千葉一跡可令相続が為に両上杉より加勢ありて成氏へ此よし内意をえて太田道灌、下総国国府台に陣取、かりの陣城をかまへける。同十二月十日、孝胤は原二郎木内を先として下総国境根原へ出張す。道灌、馳向合戦を初。終日戦ひくらし、孝胤は打負て木内原以下悉討死す。残党は臼井の城に楯籠。明文明十一年正月十八日、臼井の城へ押寄る。道灌は帰陣して太田図書助とい千葉自胤両大将にて攻戦ふといへども、寄手は小勢にて叶はず。管領御馬をよせられ可然由望といへども、是も延引し、敵は要害能して力落に乱落。しかりといへども勢をわけ上総国長南の城主武田三河入道をせめければ、七月五日降参して自胤に帰服す。丸ケ谷の上総介も同自胤へ降参す。下総国飯沼も落城して海上備中守師胤も同自胤へ降参す。自胤、千葉へ入部はなけれども、両総州の大形、自胤へ帰服しけるあいだ、先長陣なれば帰陣有べしとて、七月十五日、陣払の体を見て、城より切て出ければ、太田図書助資忠、取てかへし攻戦けるが、付入に打て入、城を終に責落す。しかれども太田図書助を初め僧中納言佐藤五郎兵衛殿助以下五十三人討死。孝胤は敗北すといへども味方も長陣に労しつゞいても責入らず。自胤は石浜まで開陣す。然といへども臼井城は自胤へ領して城代をすへらるゝ。


群書類従巻第三百八十二捕遺
   合戦部十四
鎌倉大草紙中巻

一永享十二年正月十三日、一色伊代守かまくらを落て逐電す。相州今泉に在ときこえければ、あはや天下の乱近きに有りといふほどこそあれ、今度降人に成て命を継たる人々世の聞耳をくちおしくおもひ、あはれ反を企ばやとおもひけるに、願ふ処の幸哉とよろこびて、すなはち与力して密々に寄合/\評定すると聞へければ、事の大にならぬ先に退治すべしとて、長尾出雲守憲景太田備中守資光を大将として相州今泉の館へおしよせければ、国内通計して行方不知落にけり。依之同類たればとて舞木駿河守持広をば長尾入道芳伝が方へたばかりよせて、管領へ出仕をいたし本領安堵可然とていひければ、持広誠と心得て、太刀一腰馬一疋用意して、正月廿二日、尾張守が宿所へ行ける処に、器用の兵ども五十人物の具せさせ、ひそかに是をかくし置。亭主出合酒をすゝめ、時分を見て前後より出合、持広はうつてけり。持広の寄騎の侍赤井若狭守腰刀ばかりにて切て入る。尾張守郎等余多討取、終に討死しけり。こゝにまた古長寿院とのの御子息達去年御滅亡の刻、近習の人々日光山へおとし申たりける。そののちにこゝの禅院かしこの律寺に一夜二夜をあかし世上のさまをかくれ聞てまし/\ける。いつまでかくて有べき、いそぎ一味同心のともがらまねき、ふたゝび関東を取返し、先考の鬱憤をも散じ申べしと、便宜の大名をたのまれける処に、結城の氏朝二心なく頼まれ奉て、子息七郎光久を御迎にまいらせけり。そののち氏朝、家老一門を召あつめ、此條いかゞと評定す。家老共は未だ氏朝の御請不被申と思ひければ、水谷伊勢守梁{田、欠カ}修理亮同将監黒田民部丞、一同申けるは、当家は累代に及で指る名家にあらざれ共、代々義士に組し一日も曾て不忠の輩にくみせず、依之関東にては誰に劣り可申なれば、若公達のたのもしくおぼしめし事さる事なるべし、然ども去年の一乱に京かたに御和談有しかば、京公方も管領も殿をば二心非じと深頼給ふ処を、引替謀反の張本と成らせ給ふべき御恨何事ぞや、人として無遠慮必有近憂と云へば、能御思案有べしと申処に、氏朝の一男結城七郎御供申若君入御ありければ、家老一門大におどろき、扨々是程の一大事を吾々に被仰合までに不及思召立事、我々をば物の数とも思召ざりけるぞや、今度の御大事に逢て無詮とて、水谷以下四人の家老ども、もとどり切て同遁世の桑門と成にける。その中に水谷伊勢守ばかりさま/\問答して乱を見て捨るは弓矢の道なか{ママ}らず、無力処也、うち死するより外の事あるまじとて取て返す。残る三人は終に出家入道して出けり。然ども近国他国の内々志を通ずる大名小名馳集り、結城の城に楯籠る。もとより構厳しければ俄に大堀をほり塀を塗り櫓を掻せ見せ勢を出し御旗をうち立、白旗(赤旗二ツ引左巴釘抜梶の葉の紋書たる旗)とも其数風に翻てみち/\たり。又野田右馬助を大将として矢部大炊助以下古河城を繕て楯籠る。此由早馬を以て京都へ披露しければ、急ぎ追罰すべきよし御教書を被成上、御旗を被下。因茲管領清方より武蔵国司上杉固庁鼻性順に罷むかつて退治あるべしと下知し玉へば無勢にて難叶と申けるに依て、長尾左衛門尉景仲を加勢として遣はされける。同三月十五日、両大将二手に成てかまくらを立つ。性順は若林に陳{ママ}をはる。景仲は入間川へ陳を取りて馳付く勢をまち居たり。又其比、新田田中佐野小太郎高階傍士塚修理亮桃井が被官の輩野田右馬助が郎等加藤伊豆守以下御所方に成て足利庄高橋郷野田の要害にはせ集て旗を上げ、上州を討平らぐべきと評定す。上州の守護代大石石見守憲重当国一揆を催促して、是を退治のために発向すべきよし相触らるゝ処に、両方の黙止置べきにあらずとて、手勢計にて四月四日同国角淵に出陣す。去ほどに近所の人々はせつきけるほどに、是を待合、同九日、高橋の城におし寄、堀際に楯を突ならべ大勢を一所にあつめ、向城のごとく備へたれば、城に籠る敵の軍勢、気を屈し勢を呑れて不叶とや思けん、寄手は大勢也、城のかまへ未拵始終いかゞ有べし、爰をば落て重て軍をおこすべしとて、其夜城を払て引行。雑色国府野美濃守同舎弟等残留て大石が為に討れけり。鎌倉の警固には三浦介時高同四月廿日はせ参る。又上杉中務少輔持房、同五月朔日京都の御旗を帯てかまくらへ下向す。上杉兵庫頭清方同修理大夫持朝、四月十九日に鎌倉を立、在々所々を催促して軍勢を集らる。東海道は不及申、武蔵上野の一揆の輩、越後信濃の軍勢数万騎はせ参る事、不遑注之。亦安房入道長棟禅門も伊豆国に御座けるを京都より頻に被仰けるほどに、同四月六日伊豆の国を立、山の内の庄に帰参、長尾の郷に令滞留、同五月十一日神奈川へ出勢あり、同七月朔日一色伊代守武州北一揆を相語らひ、利根川を馳越て武州の須賀土佐入道が宿城へおし寄こと/\く焼払ふ。須賀が郎等もしばらく支へてうち死すと聞えければ、同三日庁鼻性順長尾景仲、成田が館へ発向す。一色も少も不驚、馬を東頭に立直し、閑に敵をまち懸たり。両陳はせ合、追つ返しつ煙塵を捲て戦ふ事十四度におよべり。一日戦暮し夜に入ければ相引にしけるに、同四日両方戦屈してければ、一色かたへはせ加る軍兵雲霞のごとし。味方に加る軍兵、入西には毛呂三河守、豊島には清方の被官のともがら計にて、以の外の無勢なり。此勢計にて如何と引色に成る所を、伊勢守是を見て、すはや敵は引けるぞや、何国迄も追欠て討取れものどもとて、荒川を馳わたり村岡河原に打立る。勝に乗る所は実に去事なれ共、手分のさたもなく、事の体あまりに周章して見えたりける。性順景仲は只一手に成て魚鱗に連て荒手を先に立て蜘手十文字にかけ破りしかば、伊与守忽にうちまけ、一返しも返さず手負をも助けんともせず親子の討るゝをも不顧、ものゝ具を捨て小江山迄引退く。それより別々にておち行ける。修理大夫持朝此よしを聞て岩付より後詰の人数を出しけれ共、軍は退散しければ、又引返し給ひけり。豊後守逆徒に組してければ、同七月十五日、足利町屋にて同名八人、持朝が為に被誅にき。長棟庵主は七月八日、神奈川を立、野本唐子に逗留し同八月九日、小山の庄祇園に{ママ}城に着給ふ。その頃、信濃の国の住人大井越前守持光、御所方に成り旗をあげ、臼井の峠まで押来ると聞へければ、是を防がん為に上杉三郎重房、国分に陳を取、相州の警固の為に上杉修理亮、相州高麗寺の下徳宣に陳を取。また箱根の別当大森伊豆守、元来無二の御所方なりければ、結城の後詰の為に馳せ参とも申ければ、今川上総助、平塚に陳を取。蒲原播磨守は国分津の道場に陳を張てまちかけたり。持朝と管領清方とは路次の軍勢を駈催し同七月廿九日、結城にこそ着給ふ。
彼結城の城と申は天然形勢の地、要害便有、兵粮沢山にして籠る所の人々は一騎当千の兵なれば、我責にはおとがたし、籠城したる人々には、結城中務大輔同右馬頭同駿河守同七郎同次郎今川式部丞木戸左近将監宇都宮伊与守小山大膳大夫子息九郎桃井刑部大輔同修理亮同和泉守同左京亮里見修理亮一色伊予六郎小山大膳大夫の舎弟生源寺寺岡左近将監内田信濃守小笠原但馬守以下究竟の軍兵数を尽して籠りけり。寄手八方を包て責寄たれば、先坤の方は惣大将清方諸卒を下知して陳を張る。西は上州一揆、乾は持朝を大将として安房国軍勢、坎艮は京部少輔小田讃岐守常陸北条駿河守、震巽は越後信濃軍兵武田大膳大夫入道、南は岩松三河守小山小四郎武田刑部武蔵一輝千葉介上総下総の軍勢也。敵の陳と御方の間、僅に三町計隔つ。其間に大堀二重ほり逆茂木を引く。是は城中の兵粮運送の道を止めむ為なり。清方持朝千葉土岐の陳の前には十余丈の征楼を二重三重に組上たり。然ども城中に死生不知の溢れものども爰を先途と命を捨て戦ふ。よせ手は功高禄重き大名共が只味方の大勢を頼む計にて、誠吾一大事とおもひ入たる事なければ、毎日の軍に城中乗勝ずといふ事なし。因茲城衆聊気を得たるといへども、よせ手は日本半国の兵ども四方に圍をなし、味方は此城一つにて始終如何あるべからんと城の本人氏朝が舎弟山川兵部大輔、降人に成て管領の方へと出にける。是は若うちまけば結城の一門、今度絶果ん事を歎て、結城の跡を継くべき為とぞみえたりける。則長沼に属して子細を申ければ、蒙免許可在陳よし宣ひける。管領上杉兵庫頭太田駿河守を以て諸大将へ合戦の異見をたづね問ひ給ふ。宇都宮右馬頭申は、結城事他国の事にあらず、其以前のごとくに一族被官同心候者、退治仕事他の力を借るべからず候へども、近年無勢に罷成、其上此城に斯て大勢籠り候へば無及力に、他国の御勢御発向、無面目候、兼て御責尤と存候、自然責損じ手負多く出来なば、古川山川の御敵も費へに乗、蜂起して出張せば由々敷御大事なるべし、信濃大井甲州の逸見に仮令五百騎千騎退治輙かるべし、御延引候はゝ、敵の御方する様に御計ひ尤に候と、余儀もなく申ける。長沼が申けるは、此城ことによせ手大勢にて候へば、総責にいたし候者、外城をば安く責候べし、然れども先年某が要害の僅の事に候へども、御所の御旗を向られ、桃井岩松以下の人/\七十日までせめしかども、某手勢軍兵三十騎上下百余軍にて度々うち勝、御敵被討、况哉斯は広大の名城に数万の良将籠り候得ば、山川已下も案内者に相計て、謀にて責べきやらん、但愚案短才の身、公儀を褊し申べきにあらず、兎も角も御下知に随ひ候べしと、申す。京勢の仙波常陸介申けるは、去年永安寺にて長春院殿御最期の時、随分四方を驚したりしかども、此公達をおとし申、か様に御大事におよび候、况や此大城にて合戦の紛れに一人も落させ給はゞかさねての御大事不遠候得ば、よく/\謀を廻らされて急て御責候べし、若猶予の評定候はゞ、かならず後悔有べく候、当所不案内にて候へば、諸勢の僉儀にまかせ候べしと、申ける。城中の兵ども究竟の城を構へ兵粮を数万石積置たれば、勢の程を見るに、懸命の合戦するとも亦籠て戦ふとも、一年二年の間は輙く落されじものをと、初は勇み■句の口が言/りける。凱声矢叫の音、毎日止隙なく、上は梵天四天王、下は黄泉金輪際迄響く覧と覚え、要害よければ寄手敢て近付得ず。城中の兵四方を圍れて気疲れ勢減しかば、掛合の合戦もせず、打立て敵を散ずるに不及。互に目をかけ戦陳して徒にのみぞ過しける。去程に新玉の年立帰り、明る永享三年改元有て嘉吉と云ふ。四月十五日、大将兵庫頭清方、諸軍にむかつて宣けるは、むかしより敵城を攻る事、対陳して二三年を送る事有といへども、それは五百騎千騎の国諍ひ也、是は又日本半国が向て一城を攻かねて当地にて数月合戦に及び、徒らに里民を煩はす事非本意、京都の公方も定めて未練に思召む、且は末代の恥辱なるべし、明日吉日なれば惣責有べしと相触れ、嘉吉元年四月十六日辰の刻に打立、旗を靡け兵を進めければ、城中の兵共、元来機変馳引心に得て死を一時に定たる気分なれば、何ともちとも可疑儀、大勢の真中に懸入/\懸散し、鶴翼か魚鱗に連て東西南北に馬の足を不留、敵の勢を懸靡けたれば、朱に成て放れ馬其数をしらず。蹄の下に切て落したる敵、■タケカンムリに弄/を散してふしたりける。かゝる所にいかなる野心の者かしたりけん、城の櫓に火を放つ。折節大風吹落し。城の中へ吹懸、城中一宇も残らず焼ければ、防ぎ戦ふ兵、煙に咽せ、こと/\く東西に気を失ひてぞ落行ける。よせ手気に乗り追欠責ける程に、引立たる者共か難所に追懸られ、なじかはたまるべき、城の東切岸田川に追入られ討たれ水に溺るゝ者数不知。一日の合戦に討るゝ兵数万人、籠る所の人々一人も不残討死す。惣大将安王殿春王殿をば政康及越後勢の大将長尾因幡守生捕申ける。則籠輿に載せ申、御上洛とぞ聞へける。其御弟六歳にならせ給ひし永寿王とのをば御乳母ひそかにおとし奉けるを、伊佐の庄にて生捕申。小山大膳大夫兄弟は落たりしを、長尾因幡守に被生捕、是も京へぞ上りける。同十七日、古川{ママ}の城を可被責よし相触るゝ処に、野田右馬助以下人々、結城を根城として楯籠けるが、落城のよしを聞て、よせ手の未だ近つかざる以前に船に取乗、行方しらずに落行けり。矢部大炊助以下残り留て、野田讃岐守に被誅。又今度討取の首共、同十七日着到を付られ、実検を遂られぬ。惣大将上杉兵庫頭清方、小具足計にて出給へば、侍所長尾出雲守憲景、紫下濃の鎧に鍬形の五枚甲、瀬下治部丞景秀、黒糸の鎧に同毛の三枚甲鹿の角を打立て着たりける。此両人付役にて其外祇公の人々半袴にてぞ参りける。
一清方被官人々分捕
根本五郎首、加茂部加賀守首、磯将監首、以上三ツ并不知名字四、合セ{ママ}、大石石見四郎取之。江戸八郎首、長井六郎取之。今川式部丞首(上洛)白倉周防守取之。真田首、山県美濃入道取之。工藤首か首(山口次郎四郎兵衛、後藤弾正忠)相討。結城右馬助首(上洛)小串六郎取之。小笠原但馬入道首、発知平右衛門取之。大賀対馬守首、村山越後守取之。小幡豊前守首、豊島大炊介取之。香川周防守首(高山越後、長尾因幡守)相討。大城首、倉俣左近将監取之。小幡三河守分捕首不知名字。八捫首、後藤弾正忠取之。山県左京亮那波内匠介相討首不知名字。土岐修理亮分捕首同前。岡見大炊介分捕首不知名字。大蔵民部丞首、大石源左衛門尉取之。寺岡左近将監をば長尾新五郎生捕之。和田隼人佐分捕首不知名字。慈光寺井上坊首、吾那次郎并野田右馬助家人高橋首、合三、古河城に於て田島太郎左衛門尉取之。中谷首、於当城椎木城入野出羽守討進之。已上廿九。
一上野一揆分捕首。
木戸左近将監首(上洛)北平遠江守首、合二、高山宮内少輔取之。筑波伊勢守首、高田越前守取之。筑波法眼首、赤堀左馬助取之。小河常陸介首、和田備前守取之。和田八郎分捕首不知名字。桃井僧(号左衛門督伯父)首、和田左京亮大類中務丞相討。倉賀左衛門尉分捕不知名字。寺尾上総入道同名右馬助相討首不知名字。長野因幡守同名宮内少輔相討首不知名字。田賀谷彦太郎首、臼井五郎首、彼二、長野左馬介取之。諏訪但馬守分捕首不知名字。筑波首、一宮駿河守取之。神沢首、一宮修理介取之。倉賀野{ママ、新カ}五郎分捕首不知名字。発地{ママ}上総介三郎分捕首同前。大縄孫三郎首、那波大炊介同名左京亮相討。大森六郎首、那波刑部少輔入道取之。玉井首、沼田上野三郎取之。小林山城守分捕首不知名字。綿貫越後守分捕首同前。綿貫多利房丸同亀房丸代相討首不知名字。頸已上廿四。
一小山佐貫守分捕首(次弟{第カ}任到来)
厚木掃部助首、金井伯耆守首、能与首、並名字不知二、合五、小田{山カ}讃岐守取之。
一土岐刑部少輔分捕並生捕。
前宇都宮伊予守首(上洛)篠田山城守首、加園家人首、淡川{州カ}家人首、合七、并不知名字首四、都合十一、内{同カ}生捕龍澤右馬助{京亮}神山三河守厚木掃部介家人関十郎左衛門尉一人は則被討已下龍崎家人高知尾隼人佐并後藤五郎左衛門尉并高田大夫新発依有申旨赦免三人、合十三人、土岐刑部少輔生捕之。
一小山小四郎分捕。
小笠原越後守首、大膳大夫息小山九郎首(上洛)二階堂左衛門首、同家人若菜安芸守子(僧)首、高橋首、已上五、小山小四郎取之。
一上杉治部少輔分捕。
結城中務大輔首(上洛)此楽十郎首、野田遠江守家人加藤尾張守首、小林出羽守首、并不知名字首一、合五、上杉治部少輔取之。
一長尾因幡守分捕并生捕擒。
香河周防守首ハ高山越後守ト相討、此外首二不知名字、并生擒。桃井刑部少輔首(上洛)多賀谷才川伊賀守矢加井同四郎伊曾野菊地五郎塩谷蓬田山田玄蕃八角兄弟伊曾山磯孫次郎臼井上須篠原阿美次郎加園将監酒谷藤本入道朽木加園修理亮高野兵庫助河島大炊介武ノ椙山左衛門五郎梁田{篠田カモ}四郎林五郎明石大炊介已上三十人、長尾因幡守生捕後誅伐畢。此内梁田{篠田カモ}四郎林五郎兄弟預山河之、於波手討之。
一野田讃岐守分捕。
関弾正首、野山右馬助家人矢部大炊助首、此一は古川にて取之。野田遠江守家{人、脱カ}鳩井隼人佐、是は虜後討之、首合三、野田讃岐守取之。
一千秋民部少輔分捕。
桃井和泉守首(上洛)小山大膳大夫息首(上洛)小幡九郎首、結城被官須釜首、内田信濃守首、人見次郎左衛門尉首、結城駿河守首(上洛)已上七、千秋民部少輔取之。
一武田刑部少輔入道分捕。
結城七郎首、同次郎首(上洛)桃井修理亮首(上洛)梁田出羽三郎首、梶原大和守首、已上五、武田刑部大輔取之。
一中条判官分捕。
里見修理亮首(上洛)大須賀越後守首、蘆間{田カモ}刑部少輔首、上曾三郎首、水谷大炊介、森戸宮内左衛門首、大野左近将監首、已上八、并不知名字一、合九中条判官大夫取之。
一羽賀越中守虜人数。
吉田次郎、山田下野守、吉里三郎、筑波法眼息(童体)千寿丸、小山大夫息僧首(上洛)彼五人、羽河越中守取之。後誅之、合首五。
一人々分捕。
一色伊与六郎首(上洛)新田羽河越中守取之。桃井左京亮首(上洛)薬師寺安芸守取之(舞木家人須俣首、細戸式部丞取之)桃井家人長首、一色家人泉大炊助首、彼二ツは小幡伊賀守取之。小栗次郎首、宇都宮右馬頭取之。籾着{宿カモ}坊首、秋庭三郎首、彼二ツは北条駿河守取之。
榛谷弥四郎首、禰津伊豆守取之。武田右馬助分捕首不知名字。師但馬をば茂木筑後守家人虜之。稲村下野入道、長沼淡路守生擒之、当日に被誅畢。筑波法眼弟子首、根岸弾正忠首、彼二、森刑部少輔取之。合首十四。
此首どもを見たる大名小名、哀なるかな昨日までも詞かはし肩をならべて見なれし朋友なれば涙をかけて首を見、かなしみのおもひ散満たり。大将分の廿九、若公とそへ申、五月四日京都へ着。若公をば濃州垂井の道場金蓮寺にて両佐々木参向して同五月十六日御兄弟ながら奉生害。年十二と十にぞ成らせ玉ひける。関東より上る処の首どもをば六条河原に懸られたり。

 
 
 
 
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