×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

  
 
 
 
 

里見代々記
 
抑安房国に里見の打入十代相続国を保給ふ。其元由を尋るに人皇五十六代清和天皇九代の後胤新田大炊助義重の三男里見太郎の末孫足利党の末葉基氏の嫡男家基其子足利刑部大輔義実と申せしは安房里見元祖。足利尊氏は人皇九十六代光厳院正慶二年癸酉五月七日に京六波羅を攻落す。新田義貞は北条高時か一族を討亡し先帝を隠岐国より還幸復位し奉る。其賞として尊氏を征夷大将軍に任せらる。三男義詮その任をうけ次には長子義満次長子義持次に長子義量子孫■{一字欠}都て五代相続して京都将軍たり。然るに尊氏か四男従三位左馬頭基氏五男左衛門督氏満六男左衛門佐満兼管領職を給て鎌倉に在住せり。然るに義量早世す。遺託して叔父満兼か子持氏に遺跡ゆつるへしと極め正長元年戊申正月十八日に薨せらる。諡号を従二位将軍長徳院と給はる。時の帝は百二代称光院にて御座候けるか御心に持氏を嫌はせ給ひ義満か■{一字欠}男義教を将軍に任給ふ。それに依て持氏憤り給ひ帝意を背く心出来たり。或日、家臣上杉憲実を召て申様、我嫡男賢王丸元服の頃に至れり、我叔父基氏より次第に我に至るまて元服には上京せしかとも此度は上洛の思ひなし、天皇にも儀を曲て国土を治め給ふ、古語に君に君たれは臣も臣たりといへり、何そや一天をはこくむ君王の儀を曲給ふそや、我も左こそ行へきなり、更に上洛の思ひなし、只先祖義家の例に任せ八幡宮の宝前にて元服させん、幸今日吉日なれば、いそき用意せよとそ申されける。憲実承はりて、御意左有事に候得共、上を軽んし私を重んするは逆也、只々先規に任せて上洛せさせ給へ、是ら御家の吉事候はんと再三諫けれは持氏、結懐に思ひ更に聞入れす。賢王丸を誘ひ鶴岡に詣て自神前にて冠礼を行、大若君義久とそ名付られける。是より上杉憲実は君臣に間出来けれは行末危思ひ忍ひて都に上り将軍家へ参り主君持氏、身持恣にして臣か諫言を用ひす、上を侮り下を放逸す、願は異見を加へ給へと言訴状をそ捧ける。将軍家には皆旨急き奏聞して綸旨を申下し即時に御教書を諸国に廻はし早軍勢を相催す。小笠原信濃守政康今川上総介範忠を両大将にて鎌倉に発向す。上杉も一味して相随ひ打向ふ。持氏戦敗れ永安寺に入て自害す。義久は報恩寺にて自害しぬ。持氏の御子に春王丸安王丸とて二人御座ける。未幼稚なれば母に伴ひ落行給ひぬる。爰に下総国司結城七郎朝氏は鎌倉より国司を蒙り結城の城主にて有けるか今度鎌倉の没落を無念に思ひ足利刑部少輔家基を誘ひ日光山に隠置若君達を迎取、重代の主君なれは取立申さはやとて結城を固て楯籠る。小笠原今川是を聞、急き結城に押寄。日夜攻戦ほとに多勢に無勢叶はずして城方散々に打敗られける。足利家基、今はかふよと思はれけれは、長子義実を諫て、汝は急き落行て時を待て運を開候へとて、木曽堀内を随身させ三浦方へと志て落けり。朝氏家基諸共に終に打死し給ひけり。去程に城中に火掛りて打漏されし軍兵共ちり/\に敗北しぬ。春王安王も虜られ郷へ引上けるか上意下りて濃州垂井の道場にて二人共に失ひ申ける。此時大合戦にて城方一万余人そ討れける。去程に義実は父の諫に任て木曽左馬之允氏元堀内蔵人貞行を随身し三浦の方へ落給ひける。両人に向て申されけるは、今は結城も落城せり、後日の用意になる事もやあらん、先三浦を差置て是より安房国へ渡らんとて海人を頼て浜地に下給ひける。海人承はり急き船を浮ければ折節順風吹送り白浜といふ在所に著にけり。其頃、安房国には四人の郡主を立置れける。平郡には安西式部大輔勝峯、勝山に住す。安房郡には金余左衛門介景春、神余に住す。朝夷郡には丸右近介元俊、石堂谷に住す。長狭郡には東条左衛門督重永、永泉に住す。彼等四人互に心を示し合せ分内を守り居りける。然るに金余か家臣に山下左衛門と云者あり。主君景春を討亡し己郡主と押成りて郡をも山下郡と名を改、放逸無懺に働けり。丸安西は是を見て彼か無道国の汚也とて示合、山下を討て捨、郡内を分取。丸安西と口論出来り又俄に戦起りて暫く挑たりしか安西終に打勝たり。丸は此時滅亡せり。爰に金余か浪人共、皆一同に言合、義実公を大将に頼たてまつり奉公申はやといふ。木曽堀内時至れりと悦んて金余か残党を招集る所に三浦より志摩守義明といふ人渡り来り給ひける。御大将に対面有て申されけるは、先年結城合戦に足利の落人当国へ渡らせ給ふ処に今度郡主共俄に合戦仕出し浪人共貴殿を大将に奉頼之由承はり及ひ小勢なれとも軍兵二三百人引率し馳参る、無骨なれ共与力仕らんす、抑も我先祖も往昔治承四年、頼朝公伊豆の石橋山に旗を上給ふ時、与力仕たる三浦大助か末孫に候、その時頼朝公小勢にて有けれは主従たゝ七騎に打成され一先当国島崎といふ所へ渡り給ふとかや、先祖大助は三浦衣笠の城にて自害せり、その後御運開けて関八州の侍共頼朝公に加勢し奉り終に平家を討亡し天下を握り給ふなり、我今先祖大助か例にしたかひ公に与力仕とその給ひける。大将にも御悦喜斜ならす。厚く遇待まし/\ける。かゝる所に丸か浪人共馳参り、我々も奉公仕度候、召つかはれ給はれかしと、首を傾て望けり。義実公聞召、神妙なりとて御味方に加へらる。いさや安西を討取れとて三浦殿には堀内貞行を差添へ丸か勢を相従へ、御手元には木曽氏元を召具され、金余か勢を引率し、千代と云所まて押出し勢を揃へ見給ふに歩行武者五百人騎馬五十騎そありける。歩武者の中より根本兵七といふ若者進み出て申様、公には往昔の吉例に叶はせ給ふものかな、是なる橋を五十騎橋と申て候なり、其由来は鎌倉将軍頼朝公、石橋山より当国へ渡らせ給ふ時、当国の者共先五十騎馳まいりたり、爰にて東勢を相待給ふ時に此橋を五十騎橋と名付給ふと今に申つたへ候、今日初の御車に相従ふ騎馬の数その昔にかはらす候事、目出度御吉相に候者をや、当国は申にや及はす上総下総まて御手に属可申事いと御心安かるへしとそ祝し奉りける。両大将聞召、いしくも祝言申たり今日より馬をゆるすと宣へは忝さ身に余り難有々々とて御前を罷立、御出馬かくれなけれは勝山安西式部大輔勝峰は急き大勢を引率し瀧田原に出張して待かけたりしか如何思ひたりけん甲を脱き弓弦をはつして両大将の御前に跪き某は勝山に住する安西勝峯と申者にて候、自今以後御手に属せんため馳参し候と慎て申ける。両大将御覧して汝か望に任すへし其儀ならば泉の東条か城へ先陣仕れと有けれは畏て候とて長狭郡へ発向す。東条左衛門重永は上総の国大瀧の正木弾正と一味して金山の城に楯籠。文安二年癸巳六月八日に合戦初り明る九日に落城せり。東条重永は自害せり。正木弾正は大瀧を指て引退く。同三年甲午正月廿七日、大瀧の正木が城を押取巻、昼夜攻戦程に城方敗れて正木降参したりける。夫より白浜へ引帰り暫く事静になりけれは義実公の給ひけるは我十九歳にて当国へ渡り纔五六年も旅住せし所に不思議の合戦起りしより当国を切随ひ今は上総迄手に入たり、然可者の娘を娶らはやと仰ける。安西承、上総国真里谷某か息女可然候とて押付迎取、御前にそ定たり。角て御添合睦かりけれは御男子誕生まし/\ける。大将御悦かきりなく千歳を祝ひ春若丸と名付給ふ。月日来り過行程に今年十五歳にならせ給ふ。御元服の御祝ありけり。義実公の給ひけるは、我足利を名乗れ共、元根は新田の三男里見也、其子足利なれは我父家基末葉故、足利を名助給ひしそかし、然は先祖の氏、里見を名乗ものなし、今日より汝元服せは里見を名乗へしとて里見刑部少輔義成とそ名付給ひけり。近習外様に至る迄寿を祝し奉り御祝甚賑ひたり。かくて年月を経るほとに文明三年辛卯春、大将、刑部殿へ被仰けるは、足下にもはや廿五歳、軍大将にも立へき頃なりし我は未五十余歳、少も年の若き内、上総国を攻へきなり急き勢を催して打立はやと仰ける。義成聞召、左こそ候へ其儀ならは二手に成て攻申さはやと宣ひける。左あらは討立とて大将には先真里谷党の内に道観入道と云者、峰上領に玉木の城と名つけ閇籠、己か領分の民を恣に悩す由、手初に彼を攻潰さんとて向はせ給ふ。刑部殿には道観か一子真里谷丹波といふ者、■口に刷/海といふ所に城郭を搆へ海陸の関所とし閉籠たりと伝へ聞、彼城を攻落さんと父子二手に成て出陣ある。頃は三月十五日、玉木の城を攻給ふに城中に人百計そ見えにける。已に戦初りて首二三十切捨たり。残る雑人原皆ちり/\に落失たり。道観入道を尋るに行方更に知れさりけり。城中に火を掛て夫より■口に刷/海城を心掛、大峰通りにさし掛り正木大膳を先手とし血気盛成若者共都合其勢二百余騎、軍太鼓を叩き立、■口に曳/々声を出して押たりける。義成公には安西勝峰を先手にて明金迄押給ふ所に丹波家臣に佐久間藤内と云者出張して居たり。安西是を見て彼は定て海陸の関守と覚へたり、軍神の血祭りに只矢軍せよ刀汚すなもの共、と下知すれは大勢の軍兵共指取引詰さん/\に射る。敵防戦。其隙に忍者を遣はして案内を伺ひ見るに鋸山に少々防勢を隠置、其外には人も見へす候と申。義成公聞召、今宵は陣所に燎絶すなとて夥敷焼立させ、ひそかに軍兵を引具して船に取乗り金谷に漕廻し後より攻給へは明日早旦には■口に刷/海城を追込巻、一度に鬨を突と挙る。然るに真里谷入道道観は昨日の軍に討負て漸々忍出、此城へ逃込しか、迚も叶ましと思ひ丹波と談合極め一通りの文を認、峯上次郎清春と申者に持せて里見殿へ遣しける。清春、文を持て御前に罷通り、是は此所の城主真里谷丹波か使者にて候、とて一通を差上て帰りける。則披て御覧するに、兼而承及候に里見殿には文武両道に達者に御存也、誠に去る御事候半は此里の気色一時の間に百首の和歌に連させ給へ、左候はゝ城を渡、降人に罷出、永々御旗下に可属、とそ書たりける。大将御覧して、あはれ彼等か有様を考るに軍したらは討負は必定なり無下に城を渡さんも余り本意なし只直に望を懸命を助て旗下に付はやとの父子か談合こさんなれ、あさましき士の振廻かな、よし/\命を扶得させよ、いさ草臥やすめに我も連ねんに士共も思ひ/\に仕れ、とそ宣ひける。軍兵共も丹波か有様、扨も是非なく望たりと思ひ/\つらねる。大将の御歌に、
里を見よ はけしき春の山あらし 世をつくろふみに さはらさりけり
世をふるまて とふろふ坂と聞時は ゆきゝの人の夜半のたよりか
討もせす うたれもせさる たひ人の 百首の望つらねまいらせ
かやうの御詠歌連ね給ひける。人々の歌も取集め百首揃へて丹波か方へ遣はさる。義実公は山路通を経て付せ給ひけるか此体御覧有り。御満悦限なく先人馬を休んため一引々返し長南は重て攻へしとて白浜へ帰陣ある。同年八月には久留里上総介を討取り万喜勝浦池和田真里谷窪田東金佐貫椎津等の城共、不残御手に属し給ふ。義成公仰けるは、斯段々に滔りて両国を攻陥けるも三浦殿の与力故なり、とて深く睦くそ思しけり。扨三浦殿にも社家公とて御子まし/\ける。去る文安三年、大瀧の正木を降参させしより三浦殿御父子には安西を執権として勝山の城外田町と云所に御殿を立後見し奉る。社家様に安西か計にて本国より御前を呼迎ひ給ひける。御父義明公は去申辰に七十二歳にて薨し給ひける。義成公未御前ましまささりけれは何と申内に万喜は先祖加子六郎なり、加子は足利の末孫なれば元根里見足利一家なり、万喜の息女を迎んとて堀内木曽か計にていそき迎取奉り御中浅からねは若君誕生なされける。里見上総介義通公と申是なり。次に又乙若出生被成ける。義成公の給ひけるは、子共段々成長す城一ケ所にて叶まし、普請せよ、とて稲村山を見立、文明十八年六月、釿立始りける。或時仰られけるは、安西勝峰、三浦殿の後見せしか勝峰も果ぬ、其後は我後見申、上総合戦に七年肝煎たるに六七年以来少々心休に思しか義明公には奉別、今取立る新城も父上の御目に掛んと思へとも御老衰御座は心元なし、とそ仰ける。然るに義実公は長享二年戊申四月七日、七十二才にて薨し給ひける。稲村の城も其後六年の年月を経て延徳三年辛亥夏、漸々成就しけり。其後、明応二年癸巳四月五日に下総国木内判官友安か城攻とて社家公と示合発向ある。三千騎にて城を囲み鬨の声をぞ上たりける。城中兼て用意の事なれば門を開て切て出、両方互に入乱、四月六日の四ツ時より夜五ツ時迄、息をも続す戦しか城方次第に弱りによわりて散々に切まくられ過半討死したりけり。其外手負夥し。少し残る雑人原、何国ともなく逃け散たり。木内判官是を見て、えゝ仕成たり口惜しや、とて腹撹破りて死たりける。両大将御覧して、早々城に火を懸けよ、と下知し給へは、只一時の煙と焼にけり。義成公御覧して大に笑はせ給ひ、木内めか鎌倉の上杉憲実かゆかりとて結城の城を陥してより已来下総国司となりしも上杉か才覚也、結城落城も早五十余年そかし、父子二代の国司、今は煙の中に真黒くろの黒しつと成ける快さよ、あれ/\見給へや、我祖父亡霊瞋恚の妄執を晴れて成仏し給へや、と御回向あるそ理なり。扨未香取に巣田家か残りたれ共、一先帰陣しかるへしとて本国へ引返し給ひける。然る程に上総下総両国の武士共も里見殿を大将と奉仰けり。又三浦殿には生実の八幡に御殿を立、両国の武士共囲繞渇仰し奉る。五六年も過て若君誕生まし/\三浦太郎祐家殿と申ける。里見殿には下総より御帰陣有て直に新城へ御入ありて御移徒の祝儀あり。後永正二年乙丑四月十五日、生命五十八歳にて薨給ける。安房の里見の初祖は此殿にそ在ける。
 

   第二代義通公
第二代里見上総介義通公は稲村に在城也。義成公の長子也。其御生れ付器量骨柄人に超、天晴武士の大将やと褒ぬ者もなかりしか惜かな幼年より内症に痼疾在て時を分す差発りし故、強き御働は叶はす。常に風寒を厭しめ給へとも大将の御身なれは社家公と諸共に所々の合戦に出陣ありて軍奉行を被成ける。御子竹若丸には中里源左衛門本間八右衛門を守職とし宮元城に置給ふ。舎弟上総介実堯をは父義成公御時より十五歳にして上総の久留里の城代として今に至るまで居置れける。義通公数年の御病気積りけん、今度の御悩には留るへしとは思はぬ、とて上総介殿を呼迎へ頓て登城なされける。御枕元へ被招、家臣木曽堀内御内室の家老本間菅谷等を近く被召、被仰渡けるは、余数年の持病今度は緊敷差発、医薬誓祈も及はす、存命今を限りと覚ゆるそ、我無らん後は竹若は十五歳に及なは安房上総両国の大将に定めよ、夫迄は実堯此方へ引越て城中を守り国民に成敗を加へ給へ、若竹十五歳に及て無相違被渡よ、其後は久留里に成共宮本なりとも実堯の心次第住るへし、両所の家老共、慥に承はれ、と仰渡されなから生命三十八歳にて永正十七年庚辰二月朔日に薨しさせ給ひけり。
 

第三代実堯公
第三代里見上総介実堯公は義成公の御二男也。十五歳の御時より久留里の城代に被置けるか御兄義通公御遺言にて稲村の城主となり安房上総両国の大将たり。其頃天下大に乱。京都将軍には大津坂本の辺に発向まし/\諸国大名戦争ひ休事なし。御隣国には相模の北条家、奢に咽て他国まで切込風聞専也。大将被仰出けるは、北条か振廻皆聞たりや国へ入れては叶まし、いさ打立て追払はん、先万喜は勝浦東金勢を引具し三浦殿の防勢に加るへし、とて生実の八幡に向けられける。当国勢は無残皆三浦へ押渡れ里見家の軍術道具漕出させ急けや/\、と下知し給へは、正木安西を初とし究竟の船手共、旗纏を押立々々浪風に翻し艫拍子蹈て推ほとに三浦の沖に着にけり。北条方には船数百艘漕双へ勢揃へして居たり。正木安西是を見て、あれ射潰せ、と下知すれは、早矢軍をそ初ける。本陣近くなりけれは大将御覧し、それ軍法よ、と仰ける。畏て候、とて味方の舟底より大力の者共顕れ出、大石大木敵の舟へ擲掛々々攻入れは舟も人も打砕れ微塵と成て失にけり。残る敵の船共叶しとや思ひけん、我先にと漕退。夫より二尉か島に陣取て軍兵の息を休ける。斯る所に俄に西風はけしく吹出し伊豆の沖より来る浪は雪の山の崩れ掛ることくなり。大将御覧して、天の時未た至らさりけり重而恵もあるへきそ一先引や、とて軍船を漕並へ安房国へそ帰れける。大永六年の五月、大将仰出されけるは、去年三浦合戦んい北条方にて軍大将と呼るゝ芳賀清水内藤なとを討取らされは当年も又漫ると聞へたり去とは無念の次第也、此度は何国まても追掛押詰討亡さんものを早々打立や者共、とはやり切てそ下知し給ふ。正木安西承はり、其儀にて候はゝ上総勢を指添申へし、督ケ島にて相待様に示合申さん、迚触廻し水主楫取急き御船をしつらへ軍法道具を取積、一度に沖に漕出す。北条方には房州の大力共を■テヘンに秋/落さん手立にや、先に進む舟共には一人持の平材木を舷にひしと打付、其陰に熊手鳶口突棒叉子股捩り掛輪などの取道具を持せて雑人原を取乗せたり。又侍らしき者共、甲冑を帯鑓長刀を取て例の陣場へ漕出す。里見方には是を見て日暮迄は遠箭を射て時分を待てやとて態と船を漕退け遠矢を射てそ待たりける。早黄昏に及て色目も分ぬ頃おひに成ぬれは大将、すは時分は能そ彼の土侍、と下知し給ふ。味方には舟底より土にて焼たる人形を取出し舟梁に立ならへ船を静に仕掛けは敵方には是を見て、すは大力共か出たるは余すなと云ふまゝに長道具を指伸々々人形をそ攻たりける。味方の舟人心得て■口に曳/や/\と押込て時分は今そと窺見て大力とも躍出、例の大石木材取揚々々投入れは舟を微塵に打破られ溺れ沈む者おひたゝし。此有様に魂を飛し側なる舟に飛乗るとて蹈はつして落もあり舟ふみかへしてかふるもあり漸々浅瀬に游付、陸を目かけて逃るもあり。海の面は手負死人破船の板朱に染て漂たり。幌旗纏陣大鼓有ゆる兵具浪に淘れて狼藉たる有様は龍田の紅葉大嵐に吹散て色香失せしに異ならす。かゝる所に上総勢揉にもんて押来る。大将御覧して大勢に成けるそ。何国迄も追かけよと已に陸地に攻上る。敵はひた引に引、味方は勝に乗て追懸る。大将下知し給ひけるは、暫く待よ扣よ北条か逃道は大仏道にてこそ有へきに扇谷の方へ引取こそ不審なれ必定盛り返すへき手立あり味方も手立こそあれ、とて精兵六十を引分、草深き山陰に隠置、相図次第可然と下知して、しはらく休みおはします。案に違わす北条勢、小田原勢を加へ添て按にもふて取てかへし一文字に突て掛る。大将すはやと下知し給へは、相図の太鼓をとう/\と打立れは伏兵一度にとつと起り敵陣の最中へ割入り無二無三に切て廻る。北条勢溜り得す小田原さして逃け退く。追続て攻取らんとせし所に敵の火歟味方の火かは知らねとも八幡宮へ火掛り社内不残焼あかる。大将是を御覧して、あらいま/\し、かゝる折節源氏の氏神の御社焼亡するこそ不吉なれ、いさ一先本国へ帰らん、とて急き軍勢引まとひ船押浮て帰らせ給ふ。或日、御供に出し者を不残御前へ被召出被仰るゝは両年の合戦に味方に不覚を取らさりしは皆々の御働き抜群なるゆへなり。最早此上は事静に可成に何もくつろき休めとて分々に随て知行加増褒美役替抔被仰付ける。皆御別恩難有御礼申上罷立、角て六七年も国中ゆたかに戸さゝぬ御世と境内治り悦合へる。頃は天文二年癸巳七月廿七日の夜、御家の人々を御招き有て凉の会を被成ける。茶湯酒宴おはりて被出けるは余の門葉にて久留里に城代勤しを計らすも兄義通の逝去に遺言に依て此城へ引移り竹若か後見せし処に北条か漫こるゆへ征討防戦心の隙なかりしか此六七年は境内事静になれり、兄義通遺言にも竹若十五歳に及なは両国を渡すへしとの事なり、竹若も早二十に及、元服して太郎義豊と名乗られは当暮には国を渡し大将と仰き武運長久の祭礼を行ふへしと思ふなり、と宣へは、人々承、御尤至極なり誠に仁義の道なるへし、と一同に首を低れて返答申上られける。然るに宮本の城に在す太郎義豊公には思召事あれは会合仕れとて近習外様家中共へ廻文を廻されける。人々何事にやと一人も闕断なく同年同月の事なるに日暮には皆々御前へ相詰らる。君被仰出けるは、今般会合の儀、余の儀にあらす、其方達か知れ流通り我幼稚より中里源左衛門本間八右衛門守職にて此城に在る処に不幸にて七歳の時、父上に奉離、父上公御末期に叔父義堯を被招、家老木曽堀内母の家老菅谷本間を聞手に被成、竹若十五歳に及迄は実堯後見被致、十五歳に及はゝ両国共に無相違可被相渡との御遺言なりき、然るに余もはや二十に成、元服してより後、外敵も鎮り境内も静謐せり、疾にも国渡し可有筈なるに一向沙汰なきは面々如何思ふそや、と宣へは堀内新左衛門本間刑部左衛門中里源左衛門真田大学勝山隼人鎌田孫六抔を始、口々に申上けるは、されは候、稲村殿の御心さし必定久留里にまし/\義堯殿に御譲可有之御心底と覚へ申候、若此方へ被渡へき思召に候はゝ二三年以前より一度も御通達も可有之筈に候へ、其上当時御家中への被成方、偏頗の御振廻も有之候、去大永両年三浦合戦に古来よりの百騎か頭正木安西山田黒川抔か働き計を御称美被成、新参の者共の内、粉骨をつくし身命を投て敵を討帳に記さるれ共、当座の役替御言葉の御褒美なとにて御あしらひ被成れは新参者共は少も悦不申候、正木等か手柄は御家御代々の軍術御伝授の書に詳なり、軍の色を見軍法を仕懸るは御下知次第なれは彼等功にも在へからす、只御近習御贔屓の者共なれは偏に古来の者共計、賞禄を行はせ給ふ、万端御心任せにて御国渡之儀可有とも覚へす、只早速押寄弓箭を以御取返させ給ふへし、と口々に勧たてまつる。御若年の気情盛りに御座けれは此等か申所其御胸に叶、左こそ/\いしくも申たり、とて御悦喜あrい。木曽修理介楠六左衛門慎て申上けるは、各か申処尤一理なきには候はす乍然実堯公にもよも人外にてはましまさし大将の御身として苟も御兄の御遺言を翻し我か子に与へんは下民たもなす所にあらす、且遠く慮候に今日日本国中総に乱れて彼方此方に戦争ふ事休む事なく行末落居も不知時節に御一門の中に合戦起らは相模下総の敵共其隙に乗て起り来らは御家の滅亡眼前也、我々か存るには稲村殿え幾度も諫言仕へし若叶はすとても外に計ひ如何程も候へし御叔父にて御座せは弓矢は引れ候まし、御弓矢は真平御止可被成と押返々々諫奉る。義豊公聞召、其方達か諫言更々用ひかたし其諫言に随はぬこそ我か面目たるへし叔父たりといふとも先殿の御遺言違はるゝは讐敵にてはあらすや、稲村え諫言にも及はす今迄沙汰無きは子細なくては叶はす但し義豊は両国の大将には不足に思ふか但し家臣郎党共物の用に立ましと侮ての事か只押寄て勝負を決せんものを、との給へは木曽修理介重て申けるは、今夜押寄て討取奉らんは手の内に握るか如くなれとも久留里より義堯公の寄せ来られんは自定なり、さあらは万喜真里谷党か起り加はり且は安房上総の浪人共の子孫未た野武士て居る者共夥し、彼等を馳加へ攻来るものならは味方はやりにはやる勇士たるとも多勢に無勢の戦にて負軍に成らんは必定也、自然と味方も防き支へ暫く雌雄を争ふとも隣国隙を伺ひ襲ひ入れは叔甥共に亡され他人に国を奪はれんは眼前たり、能々御志慮を廻され此軍は達て御休可被成と手を按て余儀なく諫め奉る。義豊公聞召、扨々分けもなき云事哉、父の敵を討取んに前後を顧るへきや討ての後は如何様に成へきとも夫から夫迄よ、と御立腹甚しく、やあれ打立ぬか、と大声挙て進み給へは元よりはやる若者共中里源太三浦半四郎抔を初として早勢揃へそ仕たりけり。稲村には其夜諸臣を集て御酒宴の上、正木安西に勢付られけるは近日吉日を撰み当暮に国渡しの通達せよとて甚御機嫌よく御酒宴酣に及ける所に宮本方間近く押寄せ大鼓をとう/\と打鳴らし楯箙を叩き立鬨をとつと作りて御城を追取廻す。正木安西是を聞、こは何条不思議出るるそ、と表の櫓に欠上りさまを開て、何者なれは狼藉を仕そ名乗や聞かん、と呼はりたり。大勢の中より駒一陣に翔出し鐙蹈張り鞍蓋に突立上り大音挙て■鞫の旁/る様、我は宮本の城に隠なき中里源太金次也、我君義豊公已に廿に成らせ給ふ迄国を渡さぬ大欲無法の叔父実堯を恨ん為今夜を限り寄られたり、御覚悟有へふ候、とそ呼たり。城中大に狼狽し思はぬ相違出来たりと上を下へと返す所へ宮本勢、潮のすゝむか如く桃灯松明振立々々早城中へ乱入、■口に曳/々声出して切立る。城中の者は甲冑帯する隙もなく立たる侭の素膚にて有合打物押取々々渡り合、爰を最期と戦たり。俄事にて有けれは何かもつて当るへき、城方忽に切散され手負討死数知らす。中にも正木蔵人安西民部黒川外記忍足左京堀江新蔵板倉源内本田藤右衛門山田佐左衛門峰上小平治柴田勘平抔究竟の兵共、素膚にて有けれは皆討死したりけり。実堯公御覧して、もう是迄よ是非なし、とて御心底を述らるゝ隙もなく御腹めされけるそ傷ましき。義豊公一戦に打勝給ひ則稲村へ入らせ給ひけるか惜ひかな義豊公今すこし静り給はゝ御互に目出度渡らせ給ふへきに実堯公にも未た五十歳にて生害まし/\ぬ。義豊公には悪名を蒙らせ給ひ終には滅亡させ申事、中里源太三浦半四郎抔に天魔の精か入替り罪なき叔父君を殺させ奉るは則其御身を亡す基なり。此罪争か遁るへけんや。頓て見よや亡へしと上下私語あへりけり。
 

   第四代義豊公
第四代里見太郎義豊公は義通公の長子にて御座しける。七歳にして父上逝去ありし時、十五歳に及はゝ国家相違なく渡さるへしとて叔父実堯公を後見として御座しける処に廿歳迄国渡しなきを憤りに思ひ天文二年癸巳七月廿七日の夜、稲村城へ夜討して実堯公を亡し則宮本より稲村へ引移り房総両国の大将と成り給ひけるか義豊公仰付けるは、此度の様子、久留里の義堯聞ならは押寄来るは自定也、城々を囲へや、とて宮本の城へは宮本宮内鎌田孫六、稲村には木曽修理介真田三河等を堅めさせ勝山には大野宇兵衛勝山隼人を差置て龍崎外記楠六左衛門には加茂坂に燎を焼て待せらる。かやうに用心厳しく八月の初より極月末迄待けれ共、久留里より一円沙汰もなかりけり。
 

   第五代義堯公
第五代里見刑部少輔義堯公は実堯公の長子にて久留里に在しけるか天文二年甲午四月四日に家臣正木山田安西山本多賀抔を御前え被召仰出けるは、去年七月廿七日の夜、従弟義豊、稲村を襲討、父実堯を奉亡しより已来一日片時も憤り休む事なし、早速可討捨事なれ共、彼は道をも不知畜生なり、いつまで生け置とも終には我手に懸る者なれは急々にも及はす今迄引延置たれ共、流石父の敵なれは畜生たりともゆるすへきにあらす、明日討立、安房の国へ寄せんと思ふはいかに、と問せ給へは皆々承はり一同に申上けるは、此御儀御尤にこそ候へ今迄御延有事不思議に奉存候也、実堯公御後見被成恩は重く過はなし御城は申に及はす両国の武士共へ政道厳敷被仰付、義豊か代に成ても今の通りに勤よと常々仰付られし何も耳に徹へて候なり恩を得て恩とせす却而是を害ふ況や御叔父にて渡らせ給ふをや鳩に三枝の礼あり烏に反哺の孝ありとかや鳥獣にも劣りて在し御人の何の因縁にて武門には生れ給ひしや疾々出陣候へし房州の味方へも調すへしとて磯村まで早飛脚を遣けり、いさ打立、とて四月五日の明方に房州磯村まて押出す。かゝる所に房州の味方より磯村まて馳来り上総勢に出逢て申様、稲村には久留里より押来るを伝へ聞、君の留主をねらひ逆寄にせんとて山路を伝へ押掛候也、御用意可有候、と告申ける。いまた国の中なるへし、是より平久留通りに越やとて磯村より山伝へに打越たり。明日六日の早天に犬掛村にて犇と出合たり。両方鬨を作り掛て追つまくりつせり合しか稲村方色めき立て負軍になりしかは先手に進む中里源太三浦半四郎菅谷弥八木曽兄弟頭立たる若者共討れけり。残る者共腰ぬけてひた/\と打取らる。雑人原は溜りもあへす皆散り々々に逃失たり。宮本勝山には瀧田に合戦ありと聞、我先にと翔来る味方、早や負戦に成て右往左往に崩れ立、盛返すへき様もなし。防留て味方を引んとしけれ共、久留里勢は多勢也。討共射れ共物ともせす広野に燃立火のごとく嶮敷攻掛る間、新手入替りて尻狩りし漸味方を切脱けさせ勝山宮本も見合せて稲村さしてそ引取けり。久留里勢は勝に乗て跡を慕て攻来る。龍崎外記楠六左衛門は加茂坂に備へしか味方の負軍を聞、さらは稲村と一つに成らんと取て返し群る敵の最中に喚き叫んて切て掛る。寄手はさすか強者とや思ひけん中を開て通しける。寄手も一先陣取て扣たり。城方も疲を休居たり。稲村方より所々え差向られたる者共も皆一所に落合て籠しか同日昼より合戦して夜の四時迄揉合しか又城方多く討れける。朝の軍に究竟の者共は討れける。最早城方に入替るへきものもなかりけり。雑兵ともを割入んと見廻すに、いつの間にか逃失て一人も見へさりけり。大将を初め奉り早打死せんより外はなし。快一戦せはやとて門を開て切て出る。打続たる人々には宮本宮内鎌田孫六真田三河之丞勝山隼人大野宇兵衛龍崎外記楠六左衛門本間刑部安西民部堀内新左衛門木曽修理介、其外近習外様の侍共、最後の御軍は今なるそとて静に進んて狐塚に扣たる義堯公の本陣え一度に突と切て掛る。本陣には万喜党か備へしそ油断はせぬに掛合せよ、と声々に呼はりたり。城方には悪き奴原か高慢かな、いで駆破り見せんすと、面も振らす突て入、手負死人を乗越飛越へ死物狂ひに切立れは、寄手不叶とや思ひけん、四五町余りもはつと引、傍には万喜と正木か一つに成て扣しか返して掛る城方を中を割て押隔つ。其間に大将には備を直し置給ふ。城方、敵に撰なく東西南北切掛りては切脱け彼にかくれ此に顕れ追つ捲つ暫戦ひ颯と引て一つに成り味方の勢を見てあれば纔二十騎計りに討成さる。十騎余は手負なり。寄手の内より案内知たる者共、城中え走り込、四方に火をそ掛たりける。君も数多深手負はせ給へは急き御腹召れ候へとて又鋒を揃へて山の小陰へ切脱て鎌田を付参らせ残る人々は群り来る敵の中えとつと喚て突て入、四方え発と追靡け爰をせんとゝ防戦ふ。鎌田は君を肩に引懸け奉り山陰にて御腹めさせ申。静に御介錯して御首を深く隠し山陰より一さんに走り出、修理三河等に申様、君にも御生害まし/\たり、いさや暇乞の軍せん、とて三人並て切て出而思ふ侭に戦て数十人薙伏て何も深手負けれは三河修理側へ颯と引、鎌田さらは跡より被参よ、とて両人立並て腹掻切て死たりけり。寄手の者共、是を見て首を取らんと来る所を鎌田悦ひ二人掬て左右の腰へ引挟み閻魔殿への土産にせんとて一〆して瀧川の淵へそ飛込んたり。後の世話も此淀みを鎌田か淵とそ呼伝ふ。水の色藍に染み見るにすさましき淵なりけり。天文三年甲午四月六日の夜、義豊公、御年廿一歳にて生害まし/\稲村落城し義堯公の御代とそ成にけり。この合戦に寄手にも名ある兵共、安西左京山本清六宅間藤内早川権之丞御子神内蔵助宇都宮彦次、其外数多討れけり。義堯公、既に両国を静謐し大将にならせ給ひけるか其年の秋の頃、御法体の思召にて御一門御家老え此由御咄有けれは皆々申上けるは、昔より大将の御身に法体数多ありといへとも多くは不吉の例なり士の行儀を苦に思ひ法体するも信実の発心にあらねは悪行日々に増長す平相国清盛相模入道宗鑑抔是也、又大将の威光を避て法体する吉例は往昔の多田満仲北条時頼抔也、此御人々も年長の思出也、君には未た三十に足らせましまさて何成事哉思召、御法体の御心懸在候そや去とは苦労に奉存候、と皆一同に申上る。大将聞召、されはとよ我義豊を討事も父の敵なれは是非に及す左は有れと嫡子方を責亡し我大将とならん事人倫にも背けり天道嘸や悪み給ん、我国の主となり我身の名利に侈なは必天罰を蒙りて両国共に他人に奪れ先祖の苗■糸に晃/を断絶する基なり、不孝是に過たる事やある自今以後は義弘を大将に定むへし面々も左様思ひ忠義を励み給はれ、と御涙を流してのたまひける。相詰めける一門御家人あつと計に感し入奉り落涙に及ひける。同年十月、御法体ありて里見入道泰臾正五沙弥とそ号し奉る。御年三十一歳とそ承はる。其後は軍ありといへとも只御後見の為御出具/\大将をは義弘公に御定め被成ける。扨所々城々には先規のことく守護を居給ひける。大瀧には正木大膳太夫、勝浦には正木左近督、池の和田には多賀蔵人、万喜には万喜少弼、下総の国司巣田家党の押へには正木万喜を定めらる。相州北条家の押へには房州の木曽と鳥山とを置れたり。稲村合戦以後、龍崎菅谷安田等を浜手の城々に置たり。かくて五年か間、境内静謐に治りけるか天文七年戊戌十月、相州北条家の大将氏康氏政、大軍を催、下総の国鴻の台に軍勢を押出す。三浦社家公御子祐家殿防戦ふ。里見よりも入道殿義弘両大将にて発向有。力を合せて戦給ふ。三浦殿御運是迄にや有けん味方負軍に成て祐家殿北条浅右衛門尉か鑓先に掛りて咽胸を被突貫、御年四十を最後として朝の雲に入り給ふ。御父社家公にも深手数多負ひ給ふ。浮世になからへせんもなし、とて御自害なされけり。御年七十三歳。三浦殿三代にて此の時滅亡したりける。上総も少々北条家に属しけり。然るに上総の椎津の城主真里谷信政、小田原となりて十年余一味同心したりけり。天文廿一年壬子の秋、里見家を亡さんとて小田原と謀を示し合ける。小田原より万喜か方へ言送りけるは、足下にも味方へ与力せられは足下と真里谷へ三浦の持添への知行を半分参らすへし半分をは小田原へとるへし、と云り。万喜、心に思ひけるは、義弘公は我娘の養育せし君なれは実の孫にはあらね共、外孫に隠れなし、且義弘公は三浦社家の聟なり一度孫と結ひ大将と仰たる甲斐もなし争か小田原に組すへき思ひも寄ぬ事哉、とて承引せす。正木と示合せ、信政めを打殺し三浦殿の知行を奪返し里見に付候はんものを、とて急き館へ申上、万喜正木一門成大将出陣まし/\入道殿御後見にて同き年の十一月四日、椎津の城を押取巻、鬨の声をそあけたりける。兼てより用心の為に小田原より軍兵多く付置たり。信政たのみ強く思ひて掛よ引よと下知をなし朝の四つより夜の五時まて息をもつかす戦たり。里見方へは房州勢もかけ付て新手を入替々々責立れは城方も爰を詮度と防戦へは正木か手にて堀江新藤富田大津杉岡西畑なと討死す。万喜か手にて西野山口原田金沢討れける。去れ共里見方には新手の房州勢虎豹獅象の狂ふか如く命を際に死人の上を飛こへはね越へ切り立れは、城方に打物の巧者名人と沙汰しける侍共、第一には武田左近同四郎次郎同丹波、第二には真里谷源三郎同宇右衛門丞同左京高山左門西川彦六抔と云兵共命を惜ます働きけるか次第に戦ひ労れて枕を並て討れける。信政は、頼切つたる者共は討れぬ今は是迄、とや思ひけん己と城に火を掛て腹撹切て死たりけり。此合戦一千三百人の死人也。手負未死切らさる者夥し。従是以後、永禄七年に至迄十二年か間、上総路に事故なし。剰下総も大半は里見方にそくしけり。是偏に正木万喜か勲功なり。然れは此度と二度治るなれは最早無気遣とて諸人悦ひあへりけり。
 
……中略……
 
   第九代忠義公
第九代四位侍従里見忠義公は御歳九才にて義康公に後れ給ひ家臣岡本堀江板倉抔より後見にて守り育て奉り慶長十六年には御年十八歳に成らせ給ふ。或日御母君四人の家老を被召御相談有けるは、忠義君も早婚礼頃に至れり我親類織田相模守氏長か娘を迎へとらは一家も離れす末々の頼にも成らん皆々には如何思はるゝそ、と問給ふ。何も此儀尤君の御為にも成候半、と同意申ける。頓而迎取て御前にそ奉定ける。御付人には印藤采女正同姓河内介両人、御前の近習たり。角て年月経る内に印藤采女御機嫌に入て出頭類なかりけり。古来の家老諸家中、頭を可揚様もなし。然るに十九歳の御時夏の頃、御舅君相模守殿へ鉄炮百挺送り遣されけるとかや。諸家中誰共に樫と知る者もあらさるに或日、弓鉄炮の足軽共を一人も不残、白砂へ被呼付仰られけるは、汝陰にて人の噂を咄しすると聞たり重て左様の事あらは一々仕置に申付るそ、とて水弾にて人々の面へ水をはしき懸け給ふ。人々罷立て私語合へりけるは、是こそ彼の鉄炮の事なるへし、か様に威勢を振廻下々の口を留んとの巧にや、是も今度渡り申候新家老印藤目か君へ教へ申たるに疑なし、とて見伝へ聞伝へ兎角此城に永々居たらは必定危うきあらんとて他国より渡りし能侍とも大方浪人したりける。又是も印藤か計にてやあらん、非人は国の費へ成とて国中の非人一人も残らす打殺し給ひける。斯悪事を被成けれ共、古来の家老押へ申事も不叶、其職に空く居を恥、且は行末を思ひやりて家老の内にも浪人する者もあり。纔の事にも御立腹ありて扶持離さるゝ者もあり。諸事印藤か業とて牙咬ぬ者なかりけり。角御心持給はゝ御世如何あらんと堅唾を呑て日を送りける。又色々の凶事共顕れける。是も印藤か奉勧けん、鶴谷八幡宮へ御先祖足利義実公の奉納有し宝剣を癸丑八月上旬の頃、申をろし守家か打たる腰の物を代りに立させ給ける。其夜、八幡宮俄に震動する事夥し。又甲寅六月中旬の頃、御城の廻り真中深さ二丈余りもや有らん所に一夜の内に稲一叢生出たり。往来の者、怪異の事に思ひ立留りて見る事夥し。日数廿日計過て大き成穂二十本抜たり。七月廿日過迄も有けるか、いつ枯るともなく失にけり。是等只事にあらすと上下危み思ひける。又元和元年丁卯正月元朝の御祝に御座敷の盃台、人も碍らす風なとの吹倒すにもあらて、くわら/\と砕け倒れけるとかや。御前に有合頭衆給仕人計見たる事なれは外様へは隠し包しとなん。同五日の朝は御台所の大釜呻り吼る事夥し。又十一日の御具足祝には座敷なる大火鉢炭火に赤き菌三つ四つ生出たり。是も有合もの共計にて、あらはに云はさりける。去年よりの事とも多かりけるか、同年八月上旬に江戸より上使あり。正木大膳殿へ国替可申とありけれは大膳殿急き出府せられけるか、江戸より直に備前国へ預け人に成て下り給ひける。押付九月上旬には忠義公へ上使あり。早速参着可有との事なれは一時も早出府あらんとて御支度有。常に秘蔵せさせ給ひける馬右王来左馬とて黒白二疋の馬あり。何も劣らぬ名馬なりける。先白の馬右王に被召、御城の大手の坂迄出させ給ひけるか馬右王俄に身振せしか辻跌して倒れ伏し忽に死にけり。頓て黒の来左馬に被召て御出あり。昼夜御急きありて八日暮に江戸屋敷へ当着なされける。明る九日に御使者下りて渡城に不及、伯耆国へ配流被仰付。其故は其方舅相模守陰謀の企あり。其方一味同身にて鉄砲百挺被送由露顕明白也と被仰渡、忠義公にはあつと計御返答有て御色変らせ給ひける。此日如何成日そや、安房里見九代の相続、元和元年丁卯九月九日、忠義公廿二歳にて国除せられ一家落し給ひける。其後、岩城の内藤左馬頭、大瀧の本田出雲守両人馳向ひ所々城々破却あり。忠義公の御前には四歳に成らせ給ひける姫君を御一所に江戸代官町の屋敷へ被召、百俵の御扶持米賜て在しか後には姫君をは守人に御預け置、鎌倉の尼寺へ引込給ひ比丘尼に被成給ふ。大膳殿奥方には美濃御前と申せしか生国美濃国なれは藤井より直に本国へ帰られけり。城中外の諸侍、盲目の杖に離れ猿の住林を切荒されたる如にて彼方此方に吟行き依辺定ぬ有様、目も当られす哀なり。或は幼子を持たる女房とも昔に今は引替へて民家に下りて雇となり衣類洗濯仕立もの抔して寒暑を忍て賃を取り夫子共をはこくむ体、哀と云も余り有。忠義公、御年若に御座けれは、左遷の憂に沈ませ給ひ明暮御泪かはく隙もなし。御気いとゝ鬱朦し御病弥増して御床に臥させ給ひしより印藤板倉か様々御看病せしかとも次第に労れさせたまひ終に元和八年壬戌八月十九日に廿九才を一生として謫居の夢となり給ふそ悲しけれ。印藤板倉御介錯申。無常の烟となし奉り御骨を拾て高野山に納て石碑を建て本国へ帰り代々の菩提道場に御位碑を奉立て御追福の弔礼を執行申けり。天運今に驚へきにあらねとも哀なりし事共なり。
(頃日里見記と名付、所々方々より書出事沢山なり。披見に過半は北条五代記を取ませ悪様に而已書成せり。是里見北条は冦敵なれは里見を能云はさるは理也。又一本には義豊公、瀧田にて討死とあり。是菩提所瀧田に有様推量して書たる也。是は里見浪人の咄に聞。自己の才覚にて書たると見ゆ。又一本に北条勝に乗り鴻の台にて勝を得て久留里へ追掛合戦有と記せり。是又大成偽也。此合戦の時、北条方、池の和田に追来り。矢軍少々して城を囲み一両日過ける時、入道殿返り忠ありと悟りて忽搦取梟掛られけれは引取たる迄也。久留里迄追来たる事、五代記にも見へす。角無実の事共多し。余は祖父吾三代の普代家にて親か見聞する所の実記也。三代恩沢を蒙たる余なれは先君九代の実事を顕はし其高徳を後の見ん者に示んか為に述る者なり。   寛永八年辛未五月中旬)


  
 
← 兎の小屋_Index
↑ 犬の曠野_Index
↓ 栗鼠の頬袋_Index