御質問への解答(1998年11月07日PC−VANに於ける質問に答えて)

お読みいただき、ありがとうございます。以下、自分なりの解答です。
一般論とは食い違っている所もありますが。

  質問1:大海人は、おおあまのおうじ と読むのかどうか?

その通りです。オオアマノミコとも読みます。

 質問2:蘇我臣安麻呂は、おおの やすまろ(文字不明)と同一人物かどうか?

違います。太安麻呂は、もう少し後の時代の人物です。ちなみに、蘇我臣安麻呂は、ソガノオミヤスマロです。

 質問3:天智帝は、なかのおおえのおうじ(文字不明)と同一人物かどうか?

その通りです。

 質問4:遡って、聖徳太子は、何天皇と同一人物か?

これは難問です。聖徳太子を「天皇」もしくは君主と考えるか否かは、諸説あります。実在すら疑う人もいます。ただ、確か遅くとも中世から、聖徳太子を「天皇」として扱う立場はありました。とりあえず、上宮聖徳法王(ジョウグウショウトクホウオウ)とは一般にも呼びます。また、後で云う「摂政」ではあったようです。摂政は、天皇が女性や子供であった場合、代わって国政を総攬する立場の臨時職です。また、聖徳太子こそ、日本に道教や五行説を本格的に導入した人物であったかもしれません。そして、太陽を神格化するのは以前からのことでしょうけれども、其れを理論化した人物だったかもしれませんし。謎が多く、彼が記したとされる予言書もあって、中世から注目されていました。太平記なんかにも出てきて、南北朝時代の政治混乱を予言していたことになっています。勿論、眉唾の話ですが、当時の人は半信半疑ぐらいには、信じていたかも。とにかく怪しい人物です。少女漫画では、悪魔的美少年として描かれ、蘇我蝦夷とデキてたことにされてたみたいですし。

 質問5:こうぶん天皇(文字不明)は、誰と同一人物か?

弘文が、大友皇子です。読本にも書きましたが、水戸史学、すなわちテレビで印籠もって笑っている爺さんが始めたヤツですが、この水戸史学は、大友皇子を、大友天皇としています。この水戸史学の影響が濃い明治の朝廷が、天皇として大友皇子に称号を送っています。確か、皇統譜も、弘文天皇として、天皇のうちに数えていたと思います。でも、やっぱり、私は水戸史学とか皇統譜なんかは余り信用していませんで、内容はアレとしても、近世には伴って史学者がいたんですが、この人なんかの方が合理的に史料を解釈しようとする態度だったので、好きです。水戸史学も、まぁ突き詰めようとする立場だったみたいですが、変な思想が絡んでますので、何か、胡散臭いんです。因みに、明治の朝廷は、過去の皇族に称号を贈ったり祀り直したりしてます。まぁ、大友皇子は偶々、実質的に天皇と云っても差し支えないとは思いますが、崇徳天皇なんかも祀り直したかな。ハッキリ言って、これらの行為は、祟りを恐れたんですよね。合理的解釈に基づいて、皇統譜を書き換えたんじゃないと思ってます。天武に追い詰められ自殺した大友皇子に対して、祟らないでねん、とゴマを擦っただけみたい。後ろめたい事が、いっぱいあった証拠です。だいたい、天皇って、神武が名乗りだしたワケじゃないって書きましたが、だったら、別に慌てて大友を皇子として認定しなくても良いんですよね。まぁ、当時は権威のあった水戸史学の受け売りをしたというなら、それはそれで結構なのですが、現時点では、神武が天皇と名乗っていたワケじゃないって分かってるんですから、書き換えても良いんじゃないかと思います。神武から、少なくとも舒明とか、その辺りまでは、天皇の称号を外した方が誤解がなくて、良いんじゃないかと思います。逆に言えば、「天皇」って言葉に拘り過ぎてるって感じ。甚だ不合理。皇統譜は明治に作られた、その当時の考え方の集積です。書き換え得るのに、書き換えないのは、当時の考え方を変える必要がない、としか理解できない。その間に、憲法が変わって、天皇の定義が変わっているにも拘わらず、です。まぁ、個人的には如何でも良いことなんですが、象徴たる天皇が、そういう、合理的理解を拒否し、現実を兎に角にも無条件に肯定しろなんて態度をとるから、此の国の倫理が崩れてる、とも言い得るワケで、そこん所が、ちと気になるため、ことあるごとに、皇統譜をあげつらっているんす。別に皇統譜自体には、恨みも何ももっていません。如何ってことない、後世にデッチ挙げられた、よくある家系図に過ぎないんですから。本来なら、論ずるに足る代物ではありません。

 質問6:草薙剣が水気であるというのは何故か?

古代の農耕社会に於いては、今よりも自然の影響を大きく受けたと考えられます。お天気まかせの部分が多かったと思われます。それ故に、順調な気候の推移を、神仏とか占いマジナイに頼る傾向が濃かった。農耕には、豊富な太陽の光と共に、水、自然の恵みである雨とかが必要でした。江戸時代ぐらいまでは、雨乞いとか、真面目にやっていたみたいですし。すなわち、農耕社会においては、これら太陽や水を制御できることこそ、司祭、神官の条件であったと、考えられます。この、司祭や神官が、為政者となっていったのです。日本の天皇も、多分、例外ではなかったでしょう。君主は、太陽だけでなく、水もコントロールしなければならなかった。それゆえに、太陽の象徴である鏡だけでなく、水気の剣も神器として必要だった。昭和が終わるときも、即位礼に関する本が、たくさん出版されました。昭和が始まるときも、情況は似てまして、まぁ、上辺だけとは申せ、大正デモクラシーとか何とか云われた時代でもありましたから、其れまで秘中の秘であった、即位礼に関する研究書も書かれました。詳細な、まぁ憶測も入っているのですが、それらに拠ると、天皇となる人物は、お籠もりして、一人で寝ますけど、このとき、神剣と一緒に寝るんです。神剣に何かの霊が籠もっているんです。イメージとしてはね。多分、男性です。女帝の場合は単なる不倫ですけど、男性の天皇の場合は、同性愛行為に当たり、天皇がウケ役です。勿論、冗談です。この神剣は、草薙剣ではありません。ある時期に複製された、レプリカです。でも、剣は蛇の象徴でもありまして、蛇は雨の象徴でもある。妄想を逞しくすれば、太陽神の末裔たる人物が、水気の象徴である剣と添い寝して一体となる、水の力を体内に取り込む儀式とも、見えるワケです。このことで、太陽と水の力を併せ持つ、超越者が、誕生するのです。アマノイワト伝説で、水の神、この段階では、水の神なんて洗練された者でなく吹き荒れる暴風雨の象徴でしたろうけど、まぁ、お水系の神として、スサノオノミコトが登場し、いろいろやって、アマテラスオオミカミが一時的とはいえ、姿を消します。これは、太陽が暴風雨に、負けた、って部分です。太陽を火、暴風雨を水と考えますと、これは、五行説でも云われるように、水が火に勝つ、という当たり前の現象でもあります。で、この神話、すなわち日本書紀や古事記が書かれたのは、天武、持統の孫、持統の次の代の文武の辺りです。そして、日本書紀の前身である、帝紀、旧辞は、既に天智のときに書き始められています。つまり、アマノイワト伝説は、原型が、どのような形であったかは不明ですけど、とにかく、天武、持統、文武、この三代のうちに、今の形として確立したとしか言えません。そして、この王朝を開いた天武は、日本書紀によれば、草薙剣の祟りで病気になり、程なく亡くなりました。草薙剣に、呪い殺されたワケです。また、天武は、読本にも書きましたように、敵を金、自分を火と規定し、五行説でいう、火は金に勝つ、を使って、自分の勝利を合理化しました。が、同時に五行説は、火は水に負ける、とも規定していますから、水気の剣である草薙剣が、天武を倒すことは、当たり前だったんです。この事件で、草薙剣は、名古屋の熱田神宮に隔離されることになりました。神器として、最高の格を与えられている剣でしたが、天皇の在所や、伊勢神宮から、引き離されたのです。この熱田神宮は、日本武尊にも関係があります。日本武尊は、死に至る戦いに赴くとき、この熱田神宮に、草薙剣を置いていくんです。そのときは神社ではなく、遠征途中の日本武尊の、現地妻の家だったんですけどもね。天皇でも何でもない日本武尊が、遠征に草薙剣を持ち出して、しかも、現地に置いて来るんです。これは、ちょっと常識では理解できません。天皇家にとって、とても大切なものなんですから。でも、そうなった。もしかしたら、これは、後世、神器でありながら草薙剣を熱田神宮に隔離した、イーワケのために、書かれた部分かもしれません。また、この草薙剣が、いつもはどこに置いていたか、よく分からないんです。日本書紀の記述によれば、スサノオが剣を発見したのは、出雲です。そして、遅くとも、スサノオの子孫である、オオクニヌシがアマテラスの子孫に国土を譲ったときまでに、アマテラスの子孫の手に渡っています。そして、日本武尊が剣を与えられたのは、伊勢神宮でした。だから、このときは、伊勢神宮にあった。で、日本武尊は、名古屋に置いて、それを持ち帰ったとは書いていません。そして、天智のとき、剣が外国人に盗まれそうになった事件が起こります。何処で盗まれたかは、明記されていません。宮廷ではなく、伊勢か熱田だったかもしれません。剣を盗んだ外国人は、船で逃げたんですけど、暴風雨に遭って、日本に戻ってきました。剣は、取り戻されました。そして、天武に剣が祟るのですが、表記から、このときには、宮廷に置かれていたと考えられます。でも、天皇に祟るから、側に置いておけないって、熱田神宮に移動し、今に至っているんです。周知のように、草薙剣は、三種神器、天皇の正統性、天から、この国の支配を命じられた、証拠であります。定義として。その神器は、天皇を祟り殺すほどに、強力なんです。厄介な代物ってワケです。天皇の地位を保証すると同時に、天皇を殺す力を秘めている。何せ、この草薙剣は、読本に書いたように、アマテラスが身を隠す原因となった、スサノオを象徴するものですから。最強の、いや絶対に勝てない敵でもあるんです。こんな敵は、敬して遠ざくるに、如くはありません。自らの至宝として厳重に保管しつつ、自らのもとから遠ざける。だからこそ、宮廷にも伊勢神宮にも置かず、熱田にあるんじゃないでしょうか。確か、現在でも、この草薙剣のレプリカは、宮廷に置いてるはずです。置いてるだけじゃなくて、天皇が二十四時間以上だったか、日帰りじゃない外出の時には、必ず持っていくことになっていた筈です。銃刀法は、その所有さえ規制してますが、ちゃんと許可をとってるんですかね。とってなかったら、違反ですが、さて……。関係ないですね。つまり、レプリカの剣は、四六時中、天皇の側にないといけないんです。レプリカは、草薙剣の、レベルの低い、分身と考えられます。言い換えると、力を弱めた、草薙剣ですね。これは、草薙剣の力が、天皇が本来もっている力ではなく、付加される力であることを意味しています。元々体内にあるんなら、持ち歩かなくて良い筈です。太陽を象徴する鏡は、確か、持ち歩かない筈ですからね。余談ですが、レプリカの剣は、所詮はニセモノですから、代用がきくようです。確か、南北朝の時代に、神器を北朝に譲って一旦は正統性を放棄した後醍醐天皇が、やっぱり正統性を主張したくなったとき、ある神社に「あんたとこの剣、貸してくんない。神器の代わりにするからさぁ」と云って寄越した手紙を見たことがあります。剣そのものが、水気、と理解すべきかもしれませんね。上記のように、剣そのものが、蛇を象徴し得ますし。また、自分でも牽強付会っぽく思いますが、仏像に、剣をもってるのが、色々あります。不動明王なんか、有名ですかね。剣だけじゃなく、ショと云って、突き刺し専用の武器を持ってることもあります。槍もあったかな。これら、利器は、仏の智恵を象徴していることになっています。仏の智恵は、狡賢い、ってんじゃなくて、欲望や迷いを断ち切るためのものです。敵に当たるときと同様に、強く堅い心を必要とします。いわば、自分のうちに、欲望とか迷いとかの敵を想定し、それらと戦うのが、智恵の働き、と申せましょうか。イメージとして、智恵は、冷たく輝きつつ堅い、金属のようです。これを、金属とは考えず、五行説によって、智恵は水の徳、と規定しても良いかもしれませんね。五行の智恵は、澱むことなく、臨機応変に、理論に逆らうことなく流れます。本来なら通らない、屁理屈は、智恵ではありませんから。流れる水のように止まらぬ、水も滴る漂泊の美少年、犬阪毛野が、智恵の玉を持つことは、当たり前なんです。あ、八犬伝の話じゃなかったですね。ごめんなさい。ウジャウジャいってきましたが、草薙剣が水気の剣であること、より直接に証明するのは、まぁ、あの剣、草薙剣って、渾名でして、本来の名前は、天叢雲剣(アマムラクモノツルギ)、雲がモクモクわいてくる剣、といいます。

 質問7:歴代天皇のうち、女性は誰と誰か?

あう、これも難しいですね。大学の試験みたいっす。いや、たくさんいますが、神功皇后って人がいて、この人は日本武尊の子供である仲哀の奥さんですが、少なくとも、摂政はしてると思います。親父の日本武尊は神を怒らせて不幸になりましたが、仲哀も、神の言葉を信じなかったために、死にました。そんな人の奥さんだったのですが、皇太子をおなかに、いや妊娠はしてたんですが、他に誰も即位させないまま、ズルズル摂政したことになってるんです。実質的には、「天皇」なんですけどぉ。妊娠したまま、朝鮮半島の侵略にでかけた女性です。まぁ、そういう微妙な点はありますが……。以下は、日本書紀の記述からです。それ以後には、少なくとも女帝に関しては、
問題を感じませんので、作業の簡略化のため、皇統譜を使用しました。

天照太神アマテラスオオミカミ:唐突ですが、此の女性、多分、女帝もしくは
               女性の皇族の誰かをモデルにしていると思い
               ます。まさしく天を主宰していますので、本
               来の意味での「天皇」です。
               人皇ではありませんがぁ。
気長足姫尊オキナガタラシヒメノミコト:神功皇后です。即位の記事はありま
               せん。でも、実質的には天皇として扱っても
               良いと思います。大友皇子なんかよりはね。
               三軍を率いて、対外戦争に親征した実績があ
               ります。朝鮮半島支配というのは、昔から、
               朝廷の宿願でした。しかも、当時の東アジア
               秩序、中国を別格として、周辺諸国が互いに
               優位に立とうとした情況に於いてこそ、日本
               とか天皇という言葉が、生まれたと云って、
               差し支えないと考えてます。そして、天皇た
               る資格を有する者のうち、対外戦争を直接に
               指揮し親征して、しかも勝利したのは、現在
               に至るまで、彼女だけです。すなわち、彼女
               は、他の誰よりも「天皇」に相応しい人物で
               す。彼女を天皇と認定しなかった背後に、如
               何な考え方があったか、興味深いものがあり
               ます。彼女のように、「尊」という字を使う
               のは、日本書紀でも、あまりいません。日本
               武尊なんかの他は、だいたい、天皇の称号が
               与えられています。少なくとも、天皇に準ず
               扱いを受けたことが、分かります。一般の皇
               族には、「命」という字を使います。日本書
               紀の表記の特徴の一つのようです。
豊御食炊屋姫天皇トヨミケカシキヤヒメノスメラミコト:推古です。額田部皇
               女ヌカタベノヒメミコとも呼ばれます。美人
               だったそうです。まぁ、不細工とは日本書紀
               には書けないでしょうけど。十八歳で敏達の
               皇后となり、三十四歳で後家さんになりまし
               た。その五年後、蘇我馬子に崇峻が殺された
               ために、即位しました。翌年、厩戸豊聡耳皇
               子ウマヤトノトヨトミミノミコ、聖徳太子を
               皇太子にしました。摂政とし、万機を委ねた
               とあります。後に聖徳太子の予言書を蔵した
               とされる寺なんか建てて、仏教を盛んにした
               みたいです。朝鮮半島のスパイが入り込んだ
               り、日本からも軍勢を差し向けたり、けっこ
               う緊張した時代だったみたいです。また、こ
               の時代に、「東天皇敬白西皇帝(ヒガシノテ
               ンノウケイシテニシノコウテイモウス)」で
               始まる文書を隋に送ったとなっていますがぁ。
               ちょっと微妙でして、此の段階で、いわゆる
               天皇制が確立していたかは疑問もあります。
               この直前に引用されてる隋からの文書では、
               推古、「倭皇」と呼ばれていますし。結局す
               るところ、此の時には既に「スメラミコト」
               なる称号はあったでしょうけど、それを、漢
               訳するときに「天皇」って表記を用いだした
               のかもしれません。漢訳するってことは、漢
               文の素養があったことを意味します。が、所
               詮は訳語ですので、当時のスメラミコトの実
               質を完璧に表現しているとも思えません。逆
               に「天皇」なる表記から、自らを規定し直そ
               うとすることこそ、自然な道行きであったと
               考えています。ちなみに、推古存命中に聖徳
               太子は死んだことになってますから、彼の即
               位記事はありません。
天豊財重日足姫天皇アメトヨタカライカシヒタラシヒメノスメラミコト:皇極
               です。この時代は朝鮮半島も動乱に見舞われ
               緊迫した筆致で日本書紀は書かれています。
               多分、当時の史料を元に書いた部分なのでし
               ょう。また、推古のときから、蘇我一族が牛
               耳ってましたが、彼らは朝鮮半島からの帰化
               人でもありました。このことも、仏教、儒教、
               五行説が日本でも用いられることになった要
               因の一つでしょうね。先端の知識を身に着け
               た彼ら帰化人は、しかし、外国人だとの理由
               も挙げられ、遂には中大兄、中臣の中コンビ
               らに殺戮されてしまいます。蘇我一族の滅亡
               した翌日、皇極は孝徳に皇位を譲ります。
               が、孝徳の治世は、皇太子・中大兄の治世で
               あったかもしれません。十年ほどで孝徳は死
               にました。が、皇太子・中大兄は皇位を継ぎ
               ません。皇極が返り咲きます。二度目の在位
               では、斉明と呼ばれます。この時代も、中大
               兄が牛耳ったようです。斉明が死んで、漸く
               中大兄は即位、天智となります。
高天原広野姫天皇タカマノハラヒロノヒメノスメラミコト:持統です。彼女を
               天照のモデルと考える人もいます。波乱に満
               ちた生涯を送ったようです。小説のモデルに
               なりそう。日本書紀の最後を飾るに相応しい
               人物です。
後は、面白い話も少ないので、まずは号のみ皇統譜から。
元明、元正、孝謙、称徳、明正、後桜町。
明正と後桜町は江戸時代の天皇です。いわゆる平安時代から十七世紀まで、女帝は一人もいないってことです。そして、近代天皇制は、男子の即位しか認めていません。そして、一度なったら、死ぬまで辞められない。年号は一つしか宣言できない、など、非常に特異な形態をとっています。前近代とは、異質なことが分かります。あ、さっき、推古後の女帝には面白い話がないって云いましたが、孝謙と称徳は別です。同一人物、すなわち二度、即位した女性ですが、彼女は、もしかしたら、江戸時代、最も有名な女帝だったかもしれません。川柳に、「それは膝か」ってのがありますが、当事者です。彼女が寵愛した僧(僧を寵愛するなってば)が、巨根だったってんです。「膝か?」と天皇にからかわれるぐらい。フィスト・ファックなんか、メじゃないですね。膝の方がデカい。まぁ、事実であったか否かは不明ですが、とある中世の本には、寵愛した僧にも満足できなくなった天皇は、芋で自慰をし、それが抜けなくなって床に伏せったことになってます。そんで、尼さん、手が小さい尼さんだったのですが、「私が芋を抜いてあげましょう」と申し出たんです。でも、役人は許さなかった。尼さんを怪しいって思ったからだそうですが、うーん、で、結局、天皇は、悶え死んでしまいましたとさ。火葬したら、コロンって焼き芋が転がり出た、か如何までは書いていませんが、そんなこんなで、有名なエピソードがあります。女帝って、数が少ない割に、エピソードが多いみたいっす。次あたりまでに法改正して、女帝が立たないかなぁ。中国では女帝って碌なもんじゃないとか云われてるみたいですが、大英帝国では、女王のときのほうが良いって云われてるんでしょ。すなわち、ドッチでも良いって事だろうから、日本でも、そろそろ女帝が立っても良いと思うんですがぁ。付け髭したり軍服着たりして写真に写る時代の法が改正されてないってとっても不自然なんですから。ただし、美少女希望。何なら国民投票で決めても良いかも。国民的美少女! うーん、良いなぁ。

長くなってしまいましたね。ちゃんと読本で説明してれば良かったのですが、
実は11月6日って、馬琴の百五十周忌だったんです。
それで、間に合わせようと、急いで書いたから、意が通じない所が
あったようですね。いやはや、面目ないです。