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[第廿五人事]漢火生剋応験弁

炎漢の興廃、終始験あり。これを史伝(史記、前後漢書、三国志、及朱子綱目、張■木に式/諸葛忠武侯伝)に検るに、星暦讖記の言に称へり。浮屠氏はこれを輪回といはん歟。しかれども彼高帝は乱を撥、正に返すに、布衣より興て民に功あり。光武昭烈亦英明なり。その志毫も高祖に嗣ざることなし。興復の功、或は成、或は就らずといふとも、行ふ所仁義の名あり。積悪の政なし。なでふ輪回といふよしあらんや。便是宋陳搏が一■抃のテヘンがサンズイ/二杭三■門に虫/四広の説の如し。仮令その言の験あるも天数は偶然にして人事は必然なり。王莽が仮て返ざりけるは元成の惰弱に萌芽し、曹丕が逼て禅を受しは桓霊の不仁に禍胎す。元帝が王凰を重用して貸に威柄をもてすることなく、成帝が声色に溺愛して万機に親ざるにあらざりせば、王莽が奸詐も行ふ所なかるべく、梁冀か曹騰に説れて暗君を立ることなく、何進が袁紹に勧られて虎狼を招くにあらざりせば、卓操が野心も施す所なかるべし。進むものは後れず。逝ものは返らず。人事と天数と黙契して誡を後に垂る、此乃天心歟。知命の聖にあらざるより、天と数とは説べからず。唯符合するものを挙て、もて窓友の語譚に易たり。幸にして取ることあらば、蒙学読史の階梯ともならん歟。

漢高帝、秦王子嬰を降して蜀漢に王たり。四百年の大業嬰より創む(漢元年十月、沛公兵遂先諸侯、至覇上、秦王子嬰、素車白馬、係頸以組、封皇帝璽符節、降■車に只/道傍、子嬰為秦王四十六日、秦畢滅矣)。孺子嬰、摂皇王莽に廃せられて漢祚中絶す。十二帝の殫る所、亦嬰に卒れり(新王莽始建国元年、春正月、莽廃孺子嬰為安定公、孝平皇后為安定皇后、竟簒漢)。一嬰は漢を興し、一嬰は漢を廃す。興亡終始、嬰に験あり(嬰則嬰孩之嬰、以為其名)○高帝は蜀漢より起り、昭烈も亦蜀漢に割据せり(漢元年、項羽負約、更立沛公為漢王、王巴蜀漢中、都南■奠にオオザト/、五年、高祖竟勝楚而王天下。○建安二十四年七月、諸葛亮与群下、上左将軍為漢中王、表聞漢帝、建安二十五年、曹丕簒立、建元黄初、明年伝聞献帝被殺、漢中王発喪制服、群下請称尊号、王未許、亮曰、曹氏簒漢、天下無主、大王劉氏苗裔、紹世而起乃其宜也、王従之、夏四月丙午、即皇帝位改元章武)。後帝に至て竟にその地を喪ふときは興廃終始、亦蜀漢に験ありといふべし(後漢後帝、炎興元年八月、魏軍大挙入寇、魏将ケ艾、長駆而至成都城北、帝率太子諸王及群臣、面縛輿槻、詣軍門降)○光武は赤眉に興り、昭烈は黄巾に起る(新莽地皇三年、樊宗等、聞莽将討之、恐其衆与莽兵乱、乃皆朱其眉以相識別白、是号曰赤眉、是年宛人李守等、迎劉秀、与相約、結定謀議、帰春陵挙兵○霊帝中平元年、鉅鹿張角反、其衆三十六万、皆着黄巾為標識、故時人謂之黄巾賊、中平二年、公孫■王に贊/大破青州黄巾、当是時、■{の石がサンズイ/郡劉備、往見■王に贊/、■王に贊/以為平原相)。漢は火徳をもて王たり。火の色は赤し。赤眉の賊は光武中興の祥なり。火は土の為に征せらる。土の色は黄なり。黄巾の賊は曹魏簒立の応なり○黄竜の応、黄発の号、漢火滅却せられて魏土ますます潤へり(熹平末、黄竜見■言に焦/、光禄大夫橋玄問単■風に易/曰、此何祥也、■風に易/曰、其国当有王者興、不及五十年、竜当復見、此期応也、魏郡人殷登、密記之、至建安二十五年春、竜復見■言に焦/、其冬魏受禅○建安二十五年冬十月、曹丕竟簒立、而是称禅、丕即帝位、改元黄初、廃漢帝為山陽公)。黄竜の■言に焦/は魏郡にあり。漢燼の■言に焦/は名を周といふ。帝を勧めて賊に降れり。亦是■言に焦/々の験といはん歟(聞ケ艾已入成都、■言に焦/周勧帝詣降、乃遣使、奉璽綬、詣艾降)○黄初の偽号は猶患とするに足らず。内に黄皓あり。火徳を剋するの験なり(宦官黄皓、便僻佞恵、後帝愛之、皓畏董允、不敢為非、終允之世、皓位不過黄門丞、及允卒、費■シメスヘンに韋/以陳祇代允、為侍中、与皓相表裏、皓始預政、累遷中常侍、操弄威柄、終以覆国)。蜀に天子の気ありといふとも、又何ぞ久しからん(董扶私謂太常劉焉曰、京師将乱、益州分野有天子気、焉信之、遂求出為益州牧、扶亦為蜀郡属国都尉、相与入蜀、去後霊帝崩、天下大乱、乃去官還家、年八十二卒、後劉備帝於蜀、皆如扶言)○堅が蔵して出さゞりしは、策に質として兵を借せん為にあらず(初平二年、孫堅進屯陽人、与董卓戦大破之、至■各に隹/陽、撈露井得玉璽○孫策年十七、乃渡江居江都、結納豪傑、有復讐之志、欲借兵於袁術乃至寿春、術未許、因質父堅所得之璽、遂以堅余兵千余人還)。赤壁の勝ありといふとも、権も亦漢賊なるかな(建安十二年、曹操自江陵将順江東下、州瑜戦於赤壁大破之、操引兵従華陽道歩走○後漢昭烈皇帝章武元年八月、呉孫権遣使称臣於魏主丕、丕受呉降、即拝孫権為呉王、加九錫、朱子曰、人謂曹操是漢之賊、不知孫権真漢賊也)○騰が梁冀に説たりしは児孫の為にするに似たり(大将軍梁冀、既鴆質帝、李固与冀書、欲立清河王蒜、中常侍曹騰等、聞而夜往説冀曰、清河王厳明、若果立、則将軍受禍不久矣、不如立蠡吾侯、富貴可長保也、冀然其言、遂立蠡吾侯、是為桓帝、桓帝昏弱、如騰所揣也、騰卒養子嵩嗣、嵩子則曹操是也、故范曄官者伝叙曰、曹騰説梁冀、遂立昏弱、魏武因之遂遷亀鼎、蓋創魏者騰也)。操がいまだ簒ざりしは、その子に捉せん為なり(建安二十四年、孫権称臣於曹操、侍中陳群等皆曰、漢祚已終、殿下功徳巍々、群生注望、故孫権在遠称臣、此天人之応、異気斉声、宜正大位、復何疑哉、操曰、若天命在吾、吾為周文王矣)○孔明誠忠、務漢賊を伐にあり。二表三出、身も亦いたく疲労たり。志遂ずといふとも遺策魏延を誅戮し此義を以彼魏に代ゆ。事に益あるにあらねど魏を平る志一なり。天その忠を慰するといはん歟(諸葛武侯、前後二表、誠忠■テヘンに炎/天者也、三出于祁、殫性隕命、前軍使魏延、勇猛過人、善養士卒、毎随武侯出、輙欲請兵与武侯異道、会于■サンズイに童/関、如韓信故事、武侯制而不許、延含之、及武侯卒於五丈原、延卒反、楊儀等、因武侯遺策、斬延、而諸軍還成都)○張衡が思玄賦、なでふ帝禅あることを知るべき。帝禅の禅は蜀王の禅に劣れり。亦是名詮自性なるかも(思玄賦曰、鼈令殪、而尸亡兮、取蜀禅而引世、鼈令蜀王名也、出楊雄蜀本紀、禅伝位也○後帝名禅、字公嗣、昭烈太子、魏封為安楽公)○魏土は漢火に勝といふとも乾燥も亦甚し。火徳はじめて滅て焦土馬蹄に揚らる(晋秦始元年十二月晋王司馬炎、受魏禅、即皇帝位、奉魏主曹奐、為陳留王)。亦是漢魏陳留に験あり(初献帝為陳留王、及即位、受制於曹操、操之後、亦受制於司馬氏、其及簒立、魏主為陳留王、此其応報歟)。此等の応験、古人いまだいはざるもの過半。星暦讖記皆この類歟。凡陰陽選択家、五行生剋をもて吉凶を判断す。生剋の理あらずとすれば蕭佶に五行大義あり(隋閲府儀同三司蕭佶、著五行大義、以詳五行事)むかし天朝この書を信用し給ひき(見続紀、孝謙前紀、天平宝字元年十一月癸未詔)。又これありとするときは呉蕭等に笑れなん(宣城呉蕭、著五行問、以謂無五行生剋、新安張潮、作之序以附和、其説祖論衡)。有とやすべき、無とやすべき。もし生剋の理を問ものあらば、余はその有無の間に遊ばん。{玄同放言}

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