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一 慶長十九年十一月三日、大坂御出陣の時、白旗并引両の幕を尾張中将義直卿に、白旗并中黒の幕を駿河少将頼宣卿に被進候。是より永く彼家に用ひらるゝ。

一 同日、里見安房守忠義、伯耆倉吉三万石賜る由被仰付候。是は忠義家老柾木大膳印東采女、駿府に詰て達て訴訟しける故也。

……中略……

一 里見は慶長十九年、倉吉へ三万石にて被遣候へども元来ばかにて、その後彼三万石を没収せられ弐百人ぶちにて被差置候処、廿三か四歳にて元和始死去也。無継子長く断絶也。是其三万石没収したる事は尤ばかにて其器にあたらずといへども、本多上野介讒間より出る所也。上野介父子の所存とかく大久保忠隣一件をつぶすつもり也。

……中略……

一 水野右衛門大夫二男織部佐忠義と云は信長衆也。其子監物忠元といふ人美男にて神君の男色也。依之頻に御取立に預り大名と成る。其子監物忠善丈は四尺余りげほうあたま目はひたひの下に付たるが無双のきじやう仁にて一方の埒を明かねぬ人也。……中略……右忠之後和泉守従四位下侍従、此人は豊前守弟にて三千石分知両番頭など勤居られ候。無双のどうらく仁にて其比小主水といふ。豊前守前にて親類打寄向後傾城の許へ参るまじき誓紙を書て、その足にて直に又吉原あげや尾張やが方へ行し程の人也しが、後には文照公御代京都所司代吉宗公代老中勤、享保の末急に一夜の中に御役御免にて剃髪隠居、翌年死去。

……中略……

一 慶長十九九月九日、安房国守里見安房守忠義事、大久保忠隣聟なり。小田原の普請有之処、莫大の米穀を忠隣に遣し人足などをも遣し候よし、且又大久保石見武川蟄居、門徒宗の僧竜峯といふ信玄庶子を取立謀叛を工みし一味のよし、旁々御不審を蒙り安房并水戸の地行を召上られ草履取壱人にて小舅大久保仙丸方へ逼塞なり。

……中略……

一 同年九月九日、里見安房守忠義、重陽の賀義として江戸登城せし時、台徳公より三ケ条の罪科を被仰出。

 一大久保相模守へ米大豆軽々敷令合力蔑如公儀事

 一城普請并道を作り川を掘て不憚公儀事

 一過分限人数多抱置候義、非忠義之志有、私之宿意歟

右の罪科を以て房州一円常陸の内鹿島領三万石没収せられ候間、居城房州館山を開渡し其身は草履取壱人にて小舅の大久保仙丸方へ可蟄居旨被仰付。此忠義事大久保加賀守忠常が聟成故、外縁相模守今度上京の刻騎馬に軽卒を添て房州高野崎より小田原へ遣し留主たらしむを以、讒諛頻にして旧領を没収せらるゝもの歟。按に此安房守忠義が祖父義高、主人の領邑を奪ひ自立して北条家と桙楯に及び北越の麾下と称し恣に近国を侵略せし積悪の余殃の報、忠義に及ぶ歟。{古老茶話}

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