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○第廿三 傀儡ノ説

傀儡は木偶戯なりと註して今いふ人形舞しなり。されば史記殷本紀正義に、以土木為人対象於人形也云々。是より人形とよぶなるべし。然るに和歌の題に傀儡と書て、くゞつとよみ、遊女の事とす。傀儡何ぞ遊女に限んや。すべて人形舞の事なるべきに、何とて遊女の事に限る様はなかりしとぞ思ふに、摂津国西宮より人形舞、世間をめぐり始て遊女の人形を第一にたてゝつかふ。知ぬ是より転じ来れると見へたり。{南嶺子巻之二}

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一 ……中略……

貞丈按、古歌に傀儡の題は皆遊女の事をよめり。後成恩寺殿の和歌題林抄にも遊女の部に傀儡を列ねて、くゞつと云は、たつのむまやにありと注し給へり。遊女の中に人形をまわす遊女も傀儡と云也。是はひがしの事にて、その頃、男の人形まはしはなかりしゆへ、傀儡とだにいへば、遊女の事に紛なかりし成るべし。秋斎が言所の摂津国西ノ宮より人形廻し出初しは近世の事と聞ゆ。近世の男の人形廻しを以て古の傀儡の事を論ずるは逆なる考也。その上、近世の人形廻し、遊女の人形を第一にするのはあらず。第一番にはもろこしの形したる人形を出し小倉と云歌をうたひて舞す也。其次に男も女も坊主も鬼も出す也。終には山ねこと云獣の形を出す也。{南嶺子評}

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○傀儡(百太夫 夷まはし)

和名抄雑芸具に傀儡を載て久々豆とある如く偶人なり。然るに遊女と同類のものとすること何故とも弁へたる者なく、あらぬひがごとのみいふめり。又たゞ旅館の出女とにばかり偏に心得るは詞花集(別歌)あづまへまかりける人のやどりて侍りけるがあかつきにたちけるによめる(傀儡靡)はかなくもけさの別のをしき哉いつかは人をながらへて見む、などあればにや。是によて藻塩草などには遊女を海辺のあそびとし傀儡を陸地のあそびとす。笑ふべし。旅館の女をしかいふは後に准らへていへる也。こはもと人形を舞し、また放下などせしものゝ妻むすめども色を売しものなれば傀儡と呼たる也。

[頭書]俊頼朝臣の散木集、傀儡舞しは廻り来て居りと見えたり。

朝野群載第二、傀儡子記曰、傀儡子者、無定居無当家、穹廬艶帳逐水草以移徒、類夷狄之俗、男則皆使弓馬以狩猟為事、或跳双剣弄匕丸、或舞木人闘桃梗、能生人之態、始近魚竜曼蜒之戯、変砂石為金銭、化草木為鳥獣、能驚人目、女則為愁眉啼粧打腰歩■一字欠/慈咲、施朱傅粉、唱歌淫楽以求妖媚、父母夫智不誡、■一字欠/亟雖逢行人旅客、不嫌一宵之佳会、徴嬖之余自献千金、繍服錦衣金釵鈿匣具、莫不異有之、不耕一畝不採一枝桑、故不属権官、皆非土民、自限浪人、上不知王公、傍不怕牧宰、以無課役為一生之楽、夜則祭百神鼓舞喧嘩以祈福助、東国美濃参川遠江等党為豪貴、山陽播州山陰馬州等党次之、西海党為下、其名儡、則小三日、百三千歳、万載、小君、孫君等也、動韓娥之塵、余音繞梁、聞者霑襟不自休、今様古川様、足柄、竹下、催馬楽、里鳥子、田歌、神歌、棹歌、辻歌、満円風俗、咒師別法士之類、不可勝計、即是天下之一物也、誰不哀憐者哉。とあり。此文、誤字多く疑はしきことすくなからねど大よそ知らるゝ也。舟を家としてうかれありけば居処さだめなく男とあるものは、むねとするしわざなり。弓馬をならひ狩猟をなし又は放下の伎してしな玉をつかひ、または木偶を舞し人にみせて物を乞ひ世をわたるなり。狩猟は人気なき山島などにわけ入てすべけれど弓馬とある馬は心得がたし。是を飼置ほどの大舶にもあるべからず。誤字なるべし。木偶のわざは人のつどふ家居多きあたりに行てなす事とは知らる。その妻むすめはよそほひかざりて色を売を父夫これを知れども誡めずと文には書たれども、さにはあらじ。もとよりしかさするが此ともがらのなりはひ也。徴嬖の余、千金の贈り物ありといふ条、自他のけぢめ弁へがたきやうなれど是は女共のかたへうくる也。文意は身を売て富める故に珍異の服飾等たらはぬものなしと也。専ら歌曲をむねとすと見えたり。弾吹の具、常に見に随へありくなるべし。枕双紙とりもてるものくゞつのことゞりといへり。そのかみのいひならはしにや。何にまれ弾ものをばことゝいふなり。浪のうへに生涯を送りて王公ある事をしらず。課役なければ、いきほひある人をも怕れずなどいへるは是乞盗類にて遊女より賎しきもの也。嘉禄四年百首に、寄傀儡恋(為家)大ゐ川岸のとまやの竹柱うかりしふしやかぎりなりけむ。拾芥抄云、霊所七瀬、大井川傀儡居住上一町許云々など見えたれば家作りて住るもありしは後の事なるべし○夜ごと百神を祭りて福助を祈れることは遊女もおなじ。遊女記に、南則住吉、西則広田、以之為祈徴嬖之処、殊事百太夫道祖神之一名也、人別■宛にリットウ/之数及千百、能蕩人心亦土風而已。とある是なり。これらが身は旅路に在がごとくなれば道祖神を祭りけむもことはり也。和名抄に道祖岐神路神と並べ挙たれど大かたかよはしいへり。

[頭書]書紀一書に大国主神、岐神を建御雷神に薦めて、これ我に代て奉従すべしなどあり。

傀儡神といふことは、今昔物語廿八巻、モト傀儡子ニテ有ケルモノ目代ニナリテ守ノ前ニテ下シ文ニ印指ス時、傀儡子多ク来テ守ノ前ニテ歌ヒ笛フキシニ目代ウカレテ三度拍子ニ印サス。といふもありて、其下文に、然レバ一国ノ目代ニ成テオモヒ忘レタル事ナンドモ尚其心不失シテシカ有ケム、ソレハ傀儡神トイフ物ノ狂ハカシケルナメリトゾ人イヒケル。又三十一巻、豊前大君、知世中作法語の中に、除目ノ前ニ大君ノイフコトヲ聞人不成トイフヲ聞タル人ハ大ニ嗔テ此ハ何事云居ル旧大君ゾ道祖神ヲ祭テ狂フニコソ有ヌレナドイツテ腹立テナム返リケル。とあり。そのかみ道祖神を祭りて狂ふといふ諺有しとおぼし。百太夫はおのれ文化八年の春、津の国西宮にまうでしに(此時開帳ありて賑はしかりき)御本社に向ひて左のかた半町余り奥に小き祠ありて戸びら開きたり。その内にいと古き雛のやうなる人形あり。冠衣にて坐する形、面は新たに紅白粉をきたなげに塗たり。これ百太夫の神像なり。其伝記など不稽の事なる故にや、摂津志また摂陽群談等にも是を載せず。地志などには、とまれかくまれ記すべきことなるをや。名所図会には、百太夫の祠、神明社の旁にあり、此神は西宮傀儡師の始祖なりとのみあり。此神を道君坊と称ふる事を考ふるに誤多かり。道君房伝記といふものあり。不稽の妄作なるは論ずるにもたらぬもの也。其書に(真字もて書たれども今は唯その大むねのみかなにてうつす)

[頭書]南水漫遊に、傀儡子、昔は西宮并に淡路島よりも出しゝえびすめ鯛を釣り玉ふ仕形をして春の初に出ける故えびす廻しえびすかきともいへり。江戸の方言には山猫と云、人形廻して末に、山猫と名付て鼬の皮を出して小児をおどせし也。

(又云、当時首かけ芝居と云もの其余風なるべし。百太夫は毎年正月には白粉を厚さ三分程に面にぬり置この辺の輩その年生じたる小児を詣しめ此おしろいを取て小児の面にぬる。これ疱瘡諸疾を除くまじなひと云。此人形ある故、西の宮に笠井氏と云人形芝居の座あり)

道君房といふ人は西宮大神夷子三郎殿の宮司となりてよく神慮にかなひしが此人うせて後、神慮にかなふものなくて風雨定まらずつよくあれしかば、百太夫藤原正清といふものに勅命ありて道君房が形像を作りこれを舞して神慮を慰めまつらしむ。是によりてあるゝこともやみて穏かなりしほどに百太夫は諸国を巡り此術をもて諸神を祭るといふ。後に百太夫、道君房が形象を淡路国に留めて此術を伝ふ。百太夫は淡路国三原に居住すとかや。死後西宮の傍に祭る。今これを業とするものはみな百太夫が後弟也。これ諸国浮業の長たり。寛永十五年文月吉日、坂上入道とあり。是は道君房を人形とし百太夫を舞し人としたり。彼影像のうへに題せるは道君房百太夫大神と二名を一体とす。その説、異なるを見れば此伝記は淡路の傀儡師が伝ふるものならむ。さばれ二説ともに誤なり。旧本今昔物語十二巻に、天王寺にすむ僧ありけり、名をば道公といふ、年来法華経を読誦して仏道を修行す。常に熊野に詣で安居をつとむ。而るに熊野より本寺に返る間、紀伊国の美奈部郡の海辺を行程に日暮て大なる樹下に宿ぬ。夜半の程に馬に乗れる人二三騎来て一人云、樹の本の翁は候かと。此樹の本に答云、翁候と。馬に騎る人の云、速に出て御供に候へと。亦樹の本に云、今夜は不可参、其故は駒の足折損じて乗に不能、明日駒の足を■足に宛/ひ(■足に宛/、脚の屈む事なれば此処にかなはず)亦他の馬をまれ求て可参なり、年羅老て行歩に不叶と。馬に乗れる人々これを聞て皆打過ぬと聞て夜曙ぬれば道公、此事を極て怪み恐れて樹の本を廻りみるにすべて人なし。只道祖神の形造りたる有。其形旧く朽て多の年を経たりとみゆ。男の形のみありて女の形はなし。前に板に書たる絵馬あり。足の所破れたり。道公是をみて夜は此道祖のいひける也けりとおもふに弥よ奇異と思ひて其絵馬の足の所破たるを糸をもて綴りて本のごとく置つ。道公、この事を今夜吉く見むと思て其日、尚木の本にあり。夜半計に夜前の如く多く馬にのれる人来ぬ。道祖亦馬に乗て出て共に行ぬ。暁になる程に道祖返り来ぬと聞ほどに年老たる翁、道公に向て拝して云、聖人の昨日、駒の足を療治し給へるに依て翁この公事を勤めつ、この恩難報、われは此木の下の道祖なり、此多くの馬に乗れる人は行役神に在す、国の内廻る時かならず翁を以て前役とす、若不供奉時は笞を以打言を以て罵る、此苦実に難堪、然れば今この下劣の神形を棄て速に上品の功徳の身を得むと思ふ、其聖人の御力に可依と。道公答て云、宣ふ処妙也といへども、これ我力に不及と。道祖亦云、聖人此樹下に今三日留て法花経を誦給はむを聞かば我々の力に依て忽に苦の身を棄て楽の処に生れむと云、掻消様に失ぬ。道公その言に随て三日三夜其処に居て心を致して法花経を誦す。第四日に前の翁来れり。道公を礼して云、我聖人の慈悲に依て今既に此身を棄て貴き身を得むとす、所謂補陀落山に生れて観音の眷属と成て菩薩の位に昇らむ、これ偏に法花を聞奉る故也、聖人もし其霊実を知らむと思はゞ草木の枝を以て小き柴の船を造りて我木像を乗て海のうへに浮めて其作法を可見給と云て掻消様に失ぬ。其後道公、道祖の言に随て忽に柴の船を造りて此道祖の像を乗て海辺に行て此を海の上に放ち浮む。其時、風不立波不動して柴船南を指て走り去ぬ。道公これをみて柴船の不見成まで泣て礼拝して返りぬとあり。此物がたりは法花験記下巻また元亨釈書九巻などにも見えたり(俳諧水鏡に十二月■高した木/宮の絵馬、晦日の夜伊勢斎宮の樹下、道の傍に小祠有、こよひ里人絵馬をかくる事あり、行役神をなだむるわざとかや。天王寺の道公師云々あり。又宮すゞめ巻七、絵馬の神と有て僧道公の古事をいへり)。この道公を道公房と称へたりけむを、道君房と誤れる也。……後略{画証録}

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○山猫まわし[本名傀儡師]

宝暦斎の句に、春雨や楽屋をかふるくわいらいし。其出立は能人の知れる者、英一蝶の画に見へて寸分違はぬもの也。明和の末の頃迄は折節に町々を修行せしを見受けし。多くは山猫廻しと唱へ、呼び入れて舞すれば、古へより摂津国西の宮に伝へし伊吹山おろし抔云唱歌に、時のはやり事をまじへ麁末なるおやま奴などの人形を廻し、果にはいつとてもちやんちやん坊主とて手袋の如きものに人形の顔を付け、ちやんきりてふもの持たるを、おのが左右の手に一ツづゝはめ中指に頭大指と小指に右のちやんきりを付て、こつちの子向ふの子隣の子もござれ、中よしこよし中よく遊べといへるを癖にして、人形二ツおもしろくつかひ、扨、例の山猫てふものは、いたちやらんむじなやらん、毛皮にてこしらへたる小猫程の異物を箱の底より出し、ヤンマンネツコにカンマンシヨと子供を追ひあるき興ずる事にぞ有ける。

[頭註]傀儡往昔称遊女、木偶坊唱名愚嘘、茶武茶武坊無理屈、山猫為号売婦歟

{只今御笑草}

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