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○遊女町をくつわといふは、文字に亡八と書けり。所謂孝悌忠信礼義廉恥の道を亡ふよりの名なりと云説あり。されども遊女町たりとて、中には孝悌のためうられて年たけては主人によくつかへ忠を尽してその家を起させ信を以てなさけある客とかたらひてふたつの心を抱かず、慈悲を推して行儀をみださゞる時もなきにあらねば何ぞ亡八といはんや。実は嘘の奥にあり、うかれ女といへども、人情はかはるべきものかは。こや小夜衣の重ねぎをいましめつるための設なれば、あながち孝悌忠信なしとはいふべからず。{雲萍雑志}

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[三十四]遊女とて操の正しき有。後年に三浦屋四郎左衛門が抱に濃紫といへる三代有。二代目濃むらさきは賊平井権八に逢馴しが権八悪事露顕ありて被召捕御仕置被仰付しが、由緒のもの其遺骸を目黒の里に葬りて一堆の土と成しぬ。しかせし後、濃紫は何気なき風情に苦界して、ある豪夫にしたしみ終に請出されぬ。濃紫はその請出されし夜にそこなる宿をぬけ出、目黒へゆき権八が墓の前にて自殺したり。自殺の後、其趣意を知れるもの不便がりて権八が墳に双て葬りたり。是を目黒の比翼塚とて世に能知る所なり。賊とは知れど連理の契をうしなわず死を以て報ず。遊女の貞操このかぎりにはあらねども因に爰に記。

   八重梅

 我は野に咲つゝじの花よ 折てみたれちらぬ間に

 我は野に住む蛍の虫よ 土手の松明火ともす

 逢て見たさは飛立ばかり 籠の鳥かやうらめしき さんさよしなの思ひ

平井権八と濃紫がことをその比このうたをうとふ。号て八重梅の唄といふ。

小紫白井権八{ママ}が事蹟は写本石井明道志に出たり。寛政の末の頃、三馬二三子と共に目黒なる梵論寺に至りて比翼塚を見たりしに墳碑に比翼塚と鐫ありしをあらためて磨て銅箔を以て■泥のヒが工/たり。此碑などはいかにもふるく苔むしたるをこそ称美もすれ磨きたるはいかにぞや。当住の心理あまりに無雅にて歎はし。今はいかなりしや知らず。{洞房語園異本考異}

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