◆穀潰しの歌◆

 

 天地開闢とは、軽い陽気が上昇し、重い陰気が下降して、天地に別れたことを謂う。天命は必然として、陽から発した意である。天は言わないが、人を通じて意思を世に伝える。個人的には犬や猫もしかしたらウイルスやバクテリアなんかを通じて伝えることもあるんぢゃないかと冗談半分に思っているが、閑話休題、取り敢えず、天命は陽気の発露であると考えておく。しかし実の所、人は地ベタで生きている。陰気も受けているのだろう、有史以来、殺伐を事としてきた。そんな人類に於いては、時代背景を考慮した上ならば、例えば説苑(ぜいえん)の偃王評が、説得力をもつだろうか(→▼)。

 現代に於いて留意せねばならぬ点は、古代には農作物の収穫が豊かさの尺度であり、農作物は極めて土地集約的すなわち耕地面積への依存度が極めて高く、故に領土の広さ肥沃さが、社会の豊かさと比例に近い関係を持つこと、そして当時は白兵戦が主流であったことだ。前者は戦争が豊かさの獲得に繋がり得ることを示し、後者は人民にも武への理解もしくは臨時徴用により大兵力を確保する有利さが必要なことに繋がる。

 財の非効率な消耗に過ぎない現代の戦争、工業技術の高度な悪用により極少数の職業軍人がボタンを押せば第一撃で優位に立てる現代に於いて、説苑の論理は全く正当性が認められないどころか、説得力さえない。当時だからこそ、人民を傷つけたくないからと戦争に動員せぬまま敗れた偃王は、「吾頼於文コ而不明武備、好行仁義之道而不知詐人之心、以至於此」と後悔せねばならなかったのだ。前近代の戦争イメージを現代に持ち込む詐術は、亡国のアジテーションにしかならない。

 斯く限定した上で初めて、【武を弄ばず、且つ、忘れず】の論理が、「以身安而国家可保」ための「明王之制国」と評価できる。此は即ち、里見義成の戦略でもある。東方の仁君・里見家は、偃王なみの仁智を獲得しつつ、偃王のように敗北はしない。

 実のところ、里見家は前近代戦に於いて勝つ筈はなかった。でも勝った。一騎で大軍を追い返す犬飼現八、風を操ることで何万という敵を焼き殺した犬坂毛野、化け物じみたイージス戦車なみの犬江親兵衛……此等、現実には存在しそうにない兵と術は、簡単に云えば、現代に於ける最先端兵器に相当する。八犬伝では連環馬が関東連合軍の秘密兵器として登場するが、こんなものは既に水滸伝の世界で打ち破られている。最新でも何でもない。また落鮎有種率いる非正規軍による予想外のゲリラ活動もあり、実際の所、関八州を巻き込んだ最終戦争は、極めて現代的なのだ。石原ニッコリもビックリ。日中戦争も、広大な国土を舞台にしたゲリラ戦に持ち込まれたから、大敗した。いや、精確に云えば、前近代的軍隊が数を恃み隊列を整えて堂々と現代の軍隊に挑んだら、関東連合軍もしくは関東軍の様になろうか。竹槍で戦車は倒せない。しかも犬士は、現代兵器のように金食い虫ではない。八犬伝に云う、

 

     ◆

上古唐山の聖人、唐虞三代、及成湯文武の時は、民に取るに、井田をもてす。井田は、譬ば田一町方二百四十間なれば、則是を九に界て其真中の一を公田とす。公田とは、貢米に備る義也。詩に、

雨我公田、遂及我私

といへるは是也。天朝も上古はかくこそありけめ。仁徳天皇の御時に、三年の貢を禁めて、民を富し給ひしといふ、故事あるを思ふべし。和漢戦国の世に至りては、財用続ざれば、民に取事のおのづから、多くなるべき勢ひ也。今にして井田の法に因ば、士を養ふことを得ざるべし。{回外剰筆}

     ◆

 

 仁君・里見家であっても軍備を怠ることのできない戦国時代に於いて、流石に井田法すなわち税率一割ちょっとってのは夢想に過ぎなかったようだが、【税率が低い方が良い】ことは馬琴も前提として認めている。また馬琴は、戦国時代の税率が高い理由として【軍備が金食い虫だから】ってことも理解している。結局する所、軍事費は低い方が良いってことだ。前近代の軍事費は、概ね常備兵力(武士の数)に比例すると考えられる。実は江戸期の武士なんか月に何日か城の番兵を勤めるだけなんて奴がゴロゴロしていた。よく江戸の武士を公務員やサラリーマンみたいに云う者もあるが、実態は恩給生活者に近い。仕事なんて殆どないのだ。多くの武士は、いざというときの常備兵力として温存されていただけであって、行政事務処理だけなら、あんなに必要なかったんである。これが農民にとって税率四割から六割の負担として、のしかかってくる。

 恐らく八犬伝の里見家も、税率は書いていないが、概ね江戸期の標準、四割から五割ぐらいと想定していたのではないか。しかし仁政を行っていたという。仁政とは一般論として経済面では、飢饉のときには年貢を免除したり支援物資を放出したりすることをいう。簡単に云えば、財政に余裕があるってことだし、税の中に【社会保障費】すなわち失業保険とかが含まれていたことを示している。犬士のように効率の良い【兵器】を揃えていれば、武士の総数は多くなくて良い。実際には対関東連合軍戦で里見家が動員する兵力は、江戸期の感覚で見ると七十万石の大名にしては立派なんだが、恐らく馬琴のイメージとしては、個々の兵の質が高いため少な目にした積もりではなかったか。そうでないと、回外剰筆で見せた馬琴の態度、【戦国時代は軍備に金がかかるから古の聖代のように低税率では成り立たない】と云いつつ、無駄遣いが多い強国策とは対極の仁政を里見家が行える筈がないのだ。勿論、里見家士の質が高いとの想定は、「侠なれば狂なり」など大塩平八郎の乱を扱った箇所で、八犬伝刊行当時の武士の質が劣悪だったため平八郎の乱の鎮圧でも恥を晒しまくった、との背景があったと思われる。武士の多くが金食い虫いや穀潰しとなっていた現実への批判である。回外剰筆の井田法への言及は、物語本文では窺い難かった里見家仁政の意味を補足説明したものだろう。

 

 ……そういえば、周・穆王の悪口を言ってたんだっけ。思い出したら、また腹が立ってきた。抑も穆王なんて、碌な奴ぢゃない。偃王は人望があるため周東部の三十六だか三十二だかの国々が従っていた。東方諸侯の(盟)主であった。既に穆王からは天命が離れかけていたようだ。史記などによると、更に穆王は、無辜の犬戎を攻めた。賢臣が戒めたにも拘わらず、である(→▼国語)。

 戎として最低限のルール(来貢)を守っている犬戎を攻める大義名分なぞ無かったのだ。穆王は罪のない犬戎を討伐、四頭の白狼と四頭の白鹿を持ち帰った。このため周辺諸民族は周から離反した。良きも悪くも中華思想、逆らわない限り周辺民族を保護すべき天子が、因縁をつけて攻めてきたのだから、周辺諸民族が離反しない方がおかしい。中華思想が大義名分を捨てたら、其れは単なる肥大化帝国主義だ。【天】は、其れを許さない。

 因みに犬戎は、アノ話にも登場する槃瓠を祖としている。後漢書には「幽王淫乱、四夷交侵」とある。幽王は申の娘を妃にしていたが、褒■女に以/に乗り換えた。怒った申が犬戎を率いて攻め上ってきた。幽王は殺され、周は都を東遷、春秋時代となる。王朝としての周は力を喪い、諸侯の時代となった。褒■女に以/は印度でも傾国の美女だったが、日本に来たときの名前が玉藻前、即ち九尾の狐である。九尾の狐が化けた美女のため堕落した幽王を倒す者こそ、犬なる夷(えびす/異民族/旧来の支配層とは血脈で繋がらない者)であった。

 えぇっと、まぁそんなこんなで幽王が本格的に周王朝を凋落せしめたわけだが、それ以前から具合はオカシクなっており、周辺異民族との緊張関係を決定づけた者こそ穆王であったのだ。まぁ、穆王は西王母と仲良くなったり、化け物じみて足の速い馬八頭を持っていたりと、かなり伝説の色彩濃い天子ではあった。この八頭の馬は、博物志に拠ると、白蟻とか盗驪とか、変な名前まで並んでいる(→▼)。穆王の駿馬八頭は、馬琴が大好きだった太平記にも言及されている。勿論、善い話題としてではない(→▼)。

 太平記の見方も、穆王を以て周の運を傾かせている。佐々木塩冶判官高貞が龍馬を献上したとき、媚売媚吉どもが吉兆だと囃し立てた。が、独り中納言藤房のみは、凶兆だと断ずる。穆王の故事を引き、鎌倉幕府を倒した後醍醐帝が公家ばかり贔屓し血を流して戦った武家を冷遇したため不満が鬱積している実状を指摘、不平士族を束ねる器量の者が出現したら後醍醐帝を倒すべく大乱を起こすだろうと、予言した。実際、藤房の云う通りになったのだが、面と向かって叱責された後醍醐帝は怒った。太平記は南朝贔屓ではあるのだが、後醍醐帝の暗愚さにも南朝没落の一因を認めている。正統ではあるが暗愚ゆえに皇位を奪われた南朝に、其の正統性ゆえ従い殺されていった者達、彼等への壮大な鎮魂歌が、太平記であった。後醍醐の新政を、賞罰正しからざる穆王の暗愚と一般であるとし、後醍醐朝も周の如く天命を喪いつつあると諫言した万里小路(までのこうじ)藤房を、既に皆さん御存知の筈だ。彼は、八犬伝第九輯巻之五十二第百八十勝回中編にも登場している(→▼)。

 尸解し富山岩窟に籠もったゝ大が岩に書き付けた歌、「こゝも亦浮世の人の訪来れば空ゆく雲に身をまかせてん」の原作者が藤房なのだ。藤房は、後醍醐帝の建武新政に絶望し、隠棲した。隠棲先で畑六郎左衛門尉時能に発見されて逃げるとき、残した歌である。因みに、上に掲げた小学館版太平記(大正本)で藤房は、土佐に向かう船に乗ったところ難破、海の藻屑と消えている。八犬伝に引く藤房後日談は恐らく、馬琴が他所でも引いている吉野拾遺からのものだろう。先進繍像玉石雑志なんかにも載っている話だから、かなり有名な逸話であった(→▼吉野拾遺・先進繍像玉石雑志)。

 吉野拾遺では、藤房出家/失踪の理由に就いて口を噤んでいる。対して太平記は、後醍醐帝の暗愚に絶望して出家したことになっている。吉野拾遺は手短なエピソード集だが、太平記は長編文芸作品だ。また太平記では、藤房に就いて遁世後はパッタリ「この下に物語なし」もしくは紀伊水道辺りで遭難したことになっているが、吉野拾遺では生死不明の行方不明、謎を残して消えており、此の部分に限っては、如何にも馬琴好みか。

 藤房遁世は、後醍醐帝による建武の失政……建武の新政もしくは親政を、暗く象徴している。太平記当時、抑も天皇親政なんざ遙か昔に終止符を打っていた筈だ。男色院政でグチャグチャになり、ドタバタがあって頼朝から三代、源家将軍が続くが断絶、朝廷は此処で鎌倉勢力を駆逐しようとした。が逆に「天皇御謀叛」と犯罪者扱いされ、官軍は大敗した。俗に「勝てば官軍」と謂うが、実際、天皇が賊軍として処罰されてしまった。言葉面の表現でこそ天皇は神にも近い扱いを受けてはいたが、既に至尊としてのイメージを喪失し、国家全体に於ける一機関、歯車の一つと考えられるようになっていたのだろう。国家秩序を乱そうとすれば、天皇といえども処罰されるのだ。鎌倉武士だってバカじゃない。院政による混乱に懲りたのか。此の承久の乱から百年ほどして後醍醐帝はリターンマッチを挑んだが、幕府は「当今御謀叛」として処理しようとした。今度は幕府が人望を喪っており、朝廷側が勝利した。得宗執事(内管領)専横への不満を募らせた武士たちが、後醍醐帝を再び至尊の地位に押し上げた。恐らく実際には、大半の武士は単に内管領とかを憎んでいただけで、別に朝廷を積極的に支持したわけではなかっただろう。後醍醐親政で冷遇された武士たちは、再び不満を募らせた。藤房は情況を的確に把握、大内裏造営や遊興、公家優遇などを諫止し、実際の功臣である足利高氏や新田義貞を優遇するよう勧めた。太平記で藤房は、周凋落を招いた穆王の故事を引き、後醍醐帝を諫めたが、容れられなかった。唯一の賢臣・藤房が出家し姿を消した途端、西園寺大納言が帝の暗殺を計画した。底に刀を仕掛けた落とし穴での虐殺だ。暗殺なら毒を盛るとか色々あると思うのだが、落とし穴とは後醍醐帝を獣扱いしている。天皇の上級藩塀たる名門清華の西園寺公宗にして、帝王を人寄せパンダぐらいにしか考えていなかったのである。明らかに此処で天皇は、至尊の位置にない。しかし帝の夢に告げなどあって計画は発覚した。まったく余計なことをする明神もいたもんだ。結局、結城親光らが派遣され、大納言を捕らえた。

 大納言の後醍醐暗殺計画は、藤房遁世を好機として発動した。後醍醐帝なんて暗愚の最右翼を殺したところで実のところ誰も困らず寧ろ感謝されただろうが、一応は帝なので建武政権は動揺せざるを得ない。賢臣・藤房が健在ならば、暗殺を未然に防げないとしても、政権を纏めて適当な帝を擁立、大納言を捕縛誅戮するだろう。しかし唯一の賢臣・藤房を既に喪った朝廷なぞ単なる烏合の衆、大納言が鎌倉幕府残党を率いて圧力を掛ければ、簡単に掌握できると踏んだに違いない。ちなみに大納言は、しらをきる覚悟だったが、相棒が高飛びしたことを以て謀叛の証拠とされた。烏合の衆同士の対決は、帝に軍配が上がり、幕を閉じた。

 

 藤房は、周王朝を傾けた暗愚の君として穆王を断罪した漢だ。ならば暗愚の穆王に攻められ、戦わずして隠棲した仁智豊かな偃王に同情して然るべきだろう。そして藤房からゝ大への置換が可能ならば、穆王/後醍醐帝が里見家に置換可能かもしれない。

 

     ◆

是よりの後富山に入る者、折々那嵒窟にて、読経の声するを聞ことあり。恁而許多の年を歴て、里見四代の国主、実堯(先板第九集四十一巻の端像に、次麿義堯と写ししは、暗記の失也。当実堯に作るべし)の時に、樵夫の富山に入る者あり。一日一個の老僧、忽然と出て来て、遥に樵夫を喚ていふやう、我はヽ大禅師也。汝我為に稲村の城に参りて、実堯主に告よ。御父祖の俊徳稍衰て、内乱将起まくす。宜く仁義忠孝を宗として、善政怠り給ふなと言伝よ。努な忘れそ、と宣示して、走ること奔馬の像く、忽地見えずなりにけり。しかれども件の樵夫は、言の忌々しきに憚りて、這義を訴ざりけれども、果して毫も違ざりける。こは是後の話也。{百八十勝回中編}

     ◆

 

 やはり里見家が天命を失った途端、岩戸に籠もった筈の丶大が出現し、文句をつけている。付けてはいるが、此の預言は伝えられることなく、まぁ伝えられたら如何かなったのかは別として、預言は握りつぶされ、里見家は、滅びの道を転がり落ちていく。

 

 さて一方で、穆王に攻められた偃王こそ、東方諸侯の盟主であり仁君であった。里見家も東方諸侯の盟主であり仁君であった。そして、偃は同義の他字に置き換えるとすれば「伏」である。代酔篇に拠れば「生小児、生時正偃、故為名」であるから、偃王は、或いは蛭子であった。立てなかったのである。いやまぁ生まれたばかりで立てたら、ソッチの方が化け物じみているが、わざわざ書くぐらいだから、一般の健常児と比べてタッチが遅かったことが解る。伏姫は、金気の氏族である里見家に於いて、暦上は金気の季節・秋となっているべき季節に生まれたのだが、その日は、夏の火気が強く残り火克金、順調に時が流れていないと印象づけられる三伏の頃であった。誕生からして、金気の氏族が不幸に陥り後には却って幸せになることを象徴していた伏姫だが、果たして三歳まで笑うことなく泣き続けた。此を一種の蛭子化とすれば、犬に拾われた卵から孵った偃王……偃すなわち伏、伏姫にも淡く繋がってくる。但し偃王が当初は蛭子ながらも後に偉大なる仁智の王となっていると同様に、伏姫も蛭子の侭ではない。役行者に玉を与えられたとき、別の何者かへと進化を遂げている。泣き止んだことが、蛭子化の解除を表している。馬琴は随筆の中で、鯛を持ってニタニタしている恵比寿を、蛭子か海彦・彦火火出見だと推定している。蛭子は、進化するのだ。

 さて実は、太平記に於ける藤房諫言と同様主旨の有名な古文が別にある。白氏文集巻四だ。

 

     ◆

八駿図(戒奇物懲佚遊也)

穆王八駿天馬駒。後人愛之写為図。背如龍兮頸如象(鳥)。骨竦(聳)筋高脂肉壮(少)。日行万里速如飛。穆王独乗何所之。四荒八極踏欲遍。三十二蹄無歇時。属車軸折趁不及。黄屋草生棄若遺。瑶池西赴(追)王母宴。七廟経年不親薦。璧台南与盛姫遊。明堂不復朝諸侯。白雲黄竹歌声動。一人荒楽万人愁。周従后稷至文武。積徳累功世勤苦。豈知纔及四代孫。心軽王業如灰土。由来尤物不在大。能蕩君心則為害。文帝却之不肯乗。千里馬去漢道興。穆王得之不為戒。八駿駒来周室壊。至今此物世称珍。不知、房星之精下為馬恠。八駿図君莫愛。{白氏文集巻第四}

     ◆

 

 「穆王得之不為戒。八駿駒来周室壊」。此の世のものとは思えないほどの名馬八頭を手に入れ、穆王は驕った。最速の脚を手に入れた穆王は、万能感を獲得した。仁智に富む偃王を攻め、犬戎を討った。彼岸の存在である西王母と交わりさえした。安定した秩序を自ら破壊した穆王によって、周は崩壊への道を歩み始めた。原因となった八駿の正体は「房星之精下為馬恠」であった。八駿は房なる星が下界に遣わした【不祥】、世の乱れを警告する兆象でもあったのだ。では、「房星」とは如何なる星か。それは我等が馬琴に語ってもらおう(→▼)。

 実は此の箇所、シリーズ三度目の引用であることは内緒だ。馬琴は此処で、房星を辰(ときのかみ)と考え、素盞嗚尊であると断定している。北極星は蛭児、太陽が天照で穏当だが、月は月夜女尊と女神化している。

 筆者は伏姫割腹の段に駆けつけ母・五十子の死を伝えた二人の侍女、柏田・梭織の存在を以て、此の部分を、天磐屋伝説に結び付けた。更に伏姫を天照に擬したが、現時点では補足すべき考えをもっている。八犬伝は馬琴の小説だから登場人物に、過去の文物に登場する神格・仏格・人格(過去キャラクター)を取り込んでいるのだが、一対一対応ではなく多対多の関係にあるとも既に述べている。「多対多」とは、複数の過去キャラクターが一個の登場人物に注入されていると同時に、一個の過去キャラクターが複数の登場人物に分与されていることを指す。

 三年寝太郎ではないが、伏姫は、「はや三歳になり給へど、物を得いはず、笑もせず、うち嗄給ふのみなれば」(第八回)と、玄同放言にも曾氏十八史略宋紀(仁宗紀)から引いた、宋・仁宗皇帝(赤脚大仙転生)のように描かれている。馬琴は真面目ぶって史書から引いているが、仁宗の逸話は、ほぼ同じ形で平妖伝冒頭に使われている。馬琴は玄同放言で、仁宗の逸話と素盞嗚尊が生まれてから泣き続けたことと重ね合わせている。則ち、泣き続ける伏姫は、素盞嗚尊のイメージをも投影されていることになる。

 

 天照と素盞嗚尊は、誓約の場面で、互いに持ち物を交換し、それから子供を産んだ。簡単に云えば、姉と弟もしくは兄と妹で近親相姦したのだ。天照と素盞嗚尊は、共に相手の持ち物すなわち相手の心霊が染み込んでいる物を、粘膜で包み銜え込み、子供を生じた。性交の隠喩であるとすれば、共に女性であり男性でもある。両性具有の両神は、それぞれの趣味により性別を自己申告してたのか…それは冗談として、両神を人間に置き換えて性別を峻別しても実は意味がないのだが、面白いから続けよう。とにかく記紀の記述からは、両神が同一共通の生殖機能を有していたとしか読めない。互いに挿入し銜え込んだだけのことである。故に上記で「姉と弟もしくは兄と妹で近親相姦」と書かねばならなかったのだ。素盞嗚尊は、能動に於いて「弟」となるが、受動では「妹」となる。ならば人間の女性である伏姫の正体(の一つ)が素盞嗚尊であっても、何の不都合もない。

 但し、伏姫が素盞嗚尊の性格を色濃く投影されたのは、恐らく三歳までだ。役行者に与えられた霊玉により、天照になった。では、消えた素盞嗚尊が何処に行ったかといえば、八房になる。八犬伝第八回で、伏姫が三歳まで泣き続けたこと、役行者に霊玉を与えられて泣き止んだこと、そして記述はスッ飛ばされて、伏姫はいきなり七歳の美少女となり、更にスッ飛ばされて十一二歳、八房が登場する。記述に於いて、緊密に連続している。伏姫が裡に秘めていた素盞嗚尊の如き何者かは、役行者の霊玉により離れ、八房へと憑依したことになる。役行者は霊玉を与えるときに云った。

 

     ◆

寔に霊の崇あり。これこの子の不幸なり。禳ふにかたきことはあらねど、禍福は糾る纒の如し。譬ば一個の子を失ふて、後に夥の翼を得ば、その禍は禍ならず。損益の方みなしかり。歓ぶべからず、哀しむべからず。まかり皈らばこのよしを、義実夫婦に告よかし。これまゐらせん、護身にせよ。思ひあはすることあるべし……中略……妖は徳に勝ことなし。よしや悪霊ありといふとも里見の家はますます栄ん。盈るときはかならず虧。又何をか禳ふべき。これを委細に示すときは天機を漏すのおそれあり。伏姫といふ名によりて、みづから暁らば暁得なん。さはれけふよりこの女の子が嗄ことは止べきぞ。とくとくゆきね。われははや罷る也

     ◆

 

 要するに、役行者は、伏姫に祟る霊を、「祓うことは簡単なんだけどねぇ」と云いつつ、祓っていない。この場合の「祓う」は祟る霊を消滅させる若しくは此の世の外へ追い払うことだろう。役行者は、祟る霊を祓わない。でも伏姫が泣き止むことは約束する。則ち、役行者は、祟る霊を何処かで温存したのだ。また、祟り自体が降りかかることへの黙認も宣言している。祟りの結果が却って里見家を繁栄させるからだ。祟りが降りかかることを黙認するとは、一旦は伏姫から離れた祟りなす霊が、再び何物かの形をとって伏姫に絡んでくるということだ。連続する記述から見ると、素盞嗚尊の如き霊は、八房に乗り換えたようだ。玄同放言に依ると、素盞嗚尊は「房雄」であった。日出る処、東方の扶桑/総/房なる国の伏/偃姫は、裡なる房/素盞嗚尊の霊を一旦は放出するが、放出された霊は八房となって戻ってくる。

 色々あって八房は、伏姫の愛犬として暮らすけれども、安西景連を討ち取ったことで、素盞嗚尊としての強力で凶悪な正体を現す。素盞嗚尊と天照の誓約(うけひ)すなわち契り即ち、異種間かつ近親間で婚姻が行われる。此の事件は、天照たる伏姫を富山に追い込む。素盞嗚尊の乱暴、畔放ちを象徴する柏田(かえた)と、梭による織女死亡事件を象徴する梭織(さおり)が登場し、伏姫が天照であることを強調する。同時に金碗大輔が現れ八房を射殺する。八房から霊は放出され、義実が竊に伏姫の許嫁と定めていた大輔に憑依する。伏姫は、犬との性交をしていない証を立てようと、割腹して果てる。切り裂かれた子宮から飛び出した者は犬士の精霊であり、役行者の霊玉八つを伴い消える。天照でもあった伏姫の死は、天照の霊が形を失い隠れたことを意味する。天磐戸が閉じたのだ。八百万神を代表して伏姫の父・里見義実が、新たに素盞嗚尊となった大輔の毛を切り、荒らびた武を喪失した僧侶の位置に置く。天照を磐戸に追い込んだ罪を問われ、素盞嗚尊は神々に体毛を総て抜かれ、則ち荒らぶる側面を剥奪されて、追放された。大輔は犬士を捜す旅に出るが、追放と同値だ。金碗大輔個人には磐戸隠れの責任はないが、新たに与えられた属性/素盞嗚尊としての責任を果たさなければならない。当て職だって責任はあるのだ。大輔は伏姫と蜜月に同居することなく、八房から責任だけ引き継ぎ、素盞嗚尊として追放された。言い換えれば、金碗大輔は、此の時から、八房犬の位置に置き換えられた。「ゝ大/犬」なる名付けの所以であろう。「ゝ大」は、犬であると同時に、大輔の「大」も重ね合わされていた。ならば、富山の伏姫籠窟は天磐戸となるし、富山は高天原ともなろうか。仙境や天界、兜率天と呼んでも可だ。やはり富山は避けて通れない。遅ればせながら此の霊山に分け入っていこう。(お粗末様)

 

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