一 明暦丁酉火災の時迄は江戸に土蔵穴蔵なし。諸家より車長持を押出し火烟急なれば捨置て迯たり。町家も道狭なるに車長持邪魔に成たるとて町道も広く土手どもゝ出来たり。車長持法度に成ぬ。予幼年の頃も車長持もちたるものなし。先年王子辺の在村にて見たりし。丈夫なる作りの物也。此災より後、大八車を作り出して世宝とはなりたり。八人の力に代るとて代八車といふとの説有。しかれども広沢の大八録の序に、大八といふものゝ作れるとあり。広沢先生は火災の翌年の出生なり。此説是成べし。{異説まちまち}

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○うちこはし

翌年天明七年丁未年五月、玄米両に二斗五升、麦八斗、大豆六斗。同月十日比、白米百文に付三合五勺、豆七合。同廿八日比、百文に三合、御蔵米三十七石に金二百五両、一両に一斗七升、銭両に五貫二百、茲にいたりて米穀動かず。米屋ども江戸中に閉す。同月廿日の朝、雑人共赤坂御門外なる米屋打ち毀す。(此時数十人の打こはしの中に美少年一人大入道一人まじりて少年は飛鳥の如く飛び回り入道は金剛力士の如くにて目も綾なしと見たる人語りき)こはあらびにつれて暴神の顕形したるなるべし。同日同刻京橋南伝馬町三丁目万屋佐兵衛万佐とてきこえたる米穀問屋を打ち毀す。此の時おのれ十九歳、毀したる跡を見たるに破りたる米俵家の前に散乱し米こゝかしこに山をなす。其中にひき破りたる色々の染小袖、帳面の類、やぶりたる金屏風、こはしたる障子唐紙、大家なりしに内は見えすくやうに残りなく打ちこはしけり。後に聞けば、はじめは十四五人なりしに追々加勢にて百人計なりしとぞ。同夜小網町伊勢町小船町神田内外蔵前浅草辺千住本郷市ヶ谷四ツ谷、同夜より翌日廿二日に至りて暁まで諸方の蜂起、米屋のみにあらず。富商人は手をくだせり。然れども官令寂として声なし。廿二日午の刻、町奉行出馬并御先手方十人捕へ方の命あり。又竹槍御免死骸酬に及ばざるの令、市中に降りしゆゑ、市人勢を得て木戸々々を■シメ/切り相識し言葉を作り互に加勢の約をなし拍子木をしらせとす。茲に至りて蜂起も又寂として声なし。江都開発以来、未だ曾て有らざる変事地妖といふべしと諸人いひけり。後に聞けば大店の閉したるは大八車四五輌に大勢取り付き撞き破り打ち毀したるのち酒食をむさぼりしが同類盗を禁じたるは、いはゆる江戸子なるべし。されども蜂起散じたる跡には盗もありしとぞ。(此時の町奉行は曲淵甲斐守侯牧野大隅守侯なりしを石河土佐守侯柳生主膳正侯池田筑後守侯山村信濃守公初鹿野河内守など度々かはりし。道路に散たる物を取りて逃げる者あれば打ちこはし人取り返し打擲して取りたる者は引き破り捨て置く事、町火消の掟によく似たり)……後略{蜘蛛の糸巻}

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○大八車

寛文年中江戸にてこれを造る。人八人の代をすると云ふを以、代八と名付。今大八と書。その比、御殿中にて人をして馬のごとくならしむると戯の御沙汰ありしなり。

按に、日本史巻之百八十四将軍列伝尊氏条曰、尊氏直義、各駕八葉車。註曰、異本太平記作小八葉、今従園大暦及二階堂■一字欠/本天龍寺供養記。庭訓往来八月十四日状曰、八葉御車云おもふ。遊碧軒記巻之下曰、車はこの外のつきて八あるは八葉なり。七あるは七葉と云。宗按、この説俗説なり。八葉は文のことなり。小八葉、大八葉といひて大小あるなり。美成おもふに、大八は大八葉のうつれるにやとおもほゆ。

[頭註]紫の一本武蔵野の条に、馬にもかごにもらずは、大八車になりとも乗たらばよからんと云。

[頭註]江戸名所記五ノ十五オニ代八車は人八人して牛に代ルト云義ナルヨシミエタリ

[頭註]白石紳書巻の八云、己亥七月二十三日に雀部重介云々。小石川などの築地の土は今の水道の北の方地高き所の土にて築かれしに大八と云もの其土を運ぶ車を造出してければ大八車とて今も用ゆることなり。湯島天神下の小普請手代屋敷などの、いまだ出来ずして岡の如くに有しをも見たりとなりといふ。此人は常年八十歳に成し人あり。美成云、己亥は享保四年なり。大八は寛永十七年の生れなり。

……後略{本朝世事談綺正誤}

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