■濡れた子犬を労り抱く少女■

 

 第百二回、鮮烈な場面がある。蟇田素藤が諏訪社頭で里見義通を掠奪、諏訪神主・梶野葉門らが稲村へ注進に向かえば、左右に立ち並ぶ木々に生首が梟られていた(→▼)。濡れそぼった子犬を労り抱いた少女が通りかかる。葉門らの問いかけに、淀みなく答える。梟首されている者は何連も素藤の配下である。問われもしないで少女は、「安房の富山に迹垂在す神女」の託宣を葉門らに伝える。義通が素藤に掠奪されることは天命であり、神の助けにより命まではとられない。また義通の供のうち命数の尽きていない者は甦る。里見義成が怒りに任せ館山を攻めれば、士卒を多く喪うだけでなく辱めを受ける。葉門が再び問おうとしたとき、既に少女は消えていた。

 諏訪神社の神主は梶野葉門と名乗っているが、信州諏訪氏の紋所は「梶の葉紋」だから、余りに直截で、馬琴が何も考えずに名付けたことを窺わせ、重要人物ではないと目せる。重要であるのは少女だ。文章で少女は十一二歳だが、挿絵では七歳程度に見える。等身が低いのだ。四等身ぐらいではないか。幼女である。幼女ではあるが恐らく、伏姫だ。伏姫神霊の幼女ヴァージョンは初登場である。いや、十一二の少女形態であっても、初めてだ。それまで挿絵に載す伏姫神霊は、いつも雄々しく美しい。生前の姿は、凛としてはいても何処か儚げな、まさに薄幸の美少女であったけれども、神霊となって後は、成熟し堂々とした風格を見せていた。伏姫は、二十歳を前に自ら命を絶ったわけだが、挿絵の伏姫は、若く見積もっても二十代後半……いや筆者最近のフェヴァリット台湾偶像組合S.H.E陳嘉樺氏は二十代後半だが不惑を超えた筆者の目には伏姫神霊より遙かに若く幼く見える、現代の感覚からすれば挿絵の神霊版伏姫は三十路と言ってもオカシクないほど熟している場合すらある。

 

 少女版が登場するまで、挿絵の伏姫は一貫して二十歳後半以上の容貌だ。即ち伏姫は、死後も成長を続けていたのだ(←いやマジで)。しかし此処に来て、いきなり享年よりも遙かに若返る。

 

 「濡れた子犬」は何を意味するか。子犬は、弱い。如何程に弱いかといえば、乳欲しさに邪悪な霊の憑依した狸に懐く程に、弱い。ミッシリと白い下毛に覆われており多少の雨は如何ともないが、水に放り込まれたりすると、体温を奪われ最悪の場合、死に至る。即ち、濡れた子犬は、【弱い状態の犬が殊更に弱まる情況に置かれた】ことを意味するだろう。そして少女は、義通が掠奪された理由を、天命であると語っている。言い換えれば、義通の命運が衰えている。衰えている者同士、子犬を義通と重ね合わせたい誘惑に駆られる。しかし、ならば何故、伏姫まで幼くなってなければならないのか。また、伏姫の抱く犬が八房以外にあり得えようか。八房に会ったことはないのだが、子犬は八房に見える。

 少女は言う。義通を掠奪されたことで怒り狂い、蟇田素藤を強攻すれば、士卒を多く失うのみならず、里見義成自身も辱められる。伏姫の語る言葉は、未来への推測ではなく、決定事項だ。義成には、強攻する・しない二つの選択肢があり、前者を選べば自動的に辱められるのだ。

 如何やら里見家全体の命運が衰えているらしい。ならば、里見家の命運が衰えた為に、八房と伏姫が共に、弱々しく幼い姿になるのであろうか……なこたぁ、あり得ない。全く、あり得べきことではない。何故ならば、伏姫は此処まで里見家と犬士を擁護する存在であった。一緒に弱まっちゃってたら、擁護どころぢゃないだろう。里見家が衰えるとき救いの手を差し伸べるからこそ、擁護者なのだ。しかし、それでも矢張り、伏姫と就中弱まった八房の状態は、里見家の命運が衰えていることと連動しているだろう。即ち、寧ろ伏姫と八房の幼児退行が、里見家の命運が衰えることに繋がっているのではないか。

 そこで気になる点は、文中に於ける少女/伏姫の年齢だ。十一二歳とある。此の頃、作中に実在した伏姫のイベントとしては、何があったか。当時、伏姫のもとへ、愛らしくも逞しげな子犬がやって来た筈だ。伏姫が八房を飼い始めたのが、この年頃であった{八回}。ならば此の場面は、飼い始めた当時の状景が再現されているってこった。しかし殆ど御座敷犬として伏姫の寵愛を受けていた八房が、濡れ弱る場面など、あり得るのか。

 伏姫と八房は、遣り直そうとしているのか。出会った時点より、もう少し前まで遡り、遣り直そうとしているのか。母犬を殺され、忙しい飼い主・技平にも構ってもらえず、弱っていく八房を、伏姫が保護しようとする状景なのではないか。此の時点までに保護すれば、八房は、玉面嬢を継母にしなくて済む。

 何をしたって過去の事実は変更不能だ。作中に実在した八房は、玉梓の後身であり、玉面嬢を継母/乳母とした。此の事実は動かし難い。しかし里見家を怨む玉面嬢は既に、蟇田素藤を制御下に置き、仇為しつつあった。八房の義母なら房八/親兵衛の義母であり、犬士の祖母となってしまう。授乳の恩を受けたという過去の事実は変更不能だが、それでも悪しき母/祖母との関係は消去/義絶せねばならない。

 

 子犬・八房が濡れている理由は、多重である。例えば梶野葉門は、先に諏訪社頭に降り注ぎ血の穢れを洗い流した雨に当たったか、と思ったかもしれない。筆者も同意しよう。八房は、穢れを浄化する雨に打たれたのだ。禊ぎだ。一時的に弱ってはいるが、更に逞しくなるため不可避の過程である。悪しき母の影響/穢れを消去し、義絶し、母と認める必要のなくなった相手を打ち倒す為に、欠くべからざる儀式である。父の頭蓋骨に子が血を落とせば凝固する……なぁんて奇妙な現象が起こる八犬伝に於いて、親子関係は呪的なものでもある。よって、玉面嬢と八房の親子関係解消は、玉面嬢から八房への呪的影響力/穢れの消去と読み替えられよう。

 

 則ち、玉面嬢が出現し蟇田素藤が里見義通を掠奪陵辱するタイミングで、十一二歳の伏姫と生まれたばかりの八房が出現する意味は、少なくとも上記の如く、玉面嬢と八房ひいては親兵衛をはじめとする八犬士との理念上の義絶/関係消去の宣言である。尊属が絶対であった近世{武家}社会道徳が透けて見えるが、現代に於いては、呪的な影響力の消去と捉えてもよかろう。また、此の手続きを経るため、八房は弱まっている。しかし此の段階での弱まりは、直線的に滅亡へと結び付くものではない。一度は弱まった命運が、或る時点で負から正へと転じ、犬士具足を経て、対関東連合戦/南関東大戦の勝利で最高潮を迎える。

 「或る時点」とは、神隠しに遭っていた親兵衛/房八が、玉面嬢との関係を消去し、再登場する場面だ。天照が岩戸隠れして後、狭蠅なす邪神が跋扈してきたわけだが、里見家と素藤との合戦で田税戸賀九郎逸時/手力雄が大活躍を見せた直後、再び明かりが差す如く、親兵衛が富山/戸山の林から飛び出してくる。

 四季豊かな日本の感覚は本来、単純な直線ではなく、正弦波をなぞるように、循環する。此の感覚は主に、太陰太陽の循環に根差しているだろう。日が昇り、陽気が勝ち始める。日は東から昇る。陰窮まった里見家の天命に陽が強く作用し始めるとき、東方を象徴する木気の犬士/親兵衛が唐突に登場する。ならば事態は好転せざるを得ない。但し、日は昇れば落ち、月は盈れば虧くる、里見家の繁栄も永遠ではないのだが……。

 

 挿絵の効果にも触れておきたい。第百二回、謎の少女に梶野葉門が出会う挿絵は、かなり恐ろしい。血塗れの生首が果実の如く、道端の木に鈴生りだ。伏姫が梟けたものだ。そして挿絵に描かれている伏姫は、四等身の少女である。此の幼く愛らしい少女が、生首を木に梟けていく有様を思い浮かべると、背筋の凍る思いがする。あどけない声で数え唄を歌いながら、まるで和漢三才図会にも載す人面果でも弄ぶように、無邪気に……。

 

 何故に挿絵は、心戦くほど恐ろしいのであろうか。伏姫は二十歳を迎えずに死ぬけれども、挿絵では概ね二十代半ば以上の容貌、即ち成人女性の姿で描かれているし、文中でも神々しい女神として登場する。童女として示現する場面は、此処だけである。

 対照するため、子犬を抱く者を、筆者好みの福々しい褐色豊満ガチポ艶々膚妙齢女性もしくは臈長けスレンダー・フォクシー・レディと仮定する。と、……いきなり興醒めである。まず以て、里見家の命運が弱まり危機に陥っている雰囲気が出ない。上述の如き精力絶倫女性たちでは、余りにも余りに、余力があり過ぎるよう感じられるのだ。いつも不貞不貞しい女性が急にシオらしくしたって、手管にしか見えないんだから仕方がない。やはり此処は、幼さ残る儚げな純真無垢少女でなければならぬ。弱々しい子犬(といぅか動物の子ども)には、純真無垢少女が似合う。

 

 女性に限らず、妙齢であれば異性もしくは同性からの性的対象となり得るため、【特定個人との関係性】が背景にチラつく。変態の方は別として、一般的に性的対象とはならない年齢層の少年少女は、関係性が希薄、若しくは、【普く開かれた存在】となる。極論すれば、少年少女は、万物に対し、普く愛を注ぐ資格を有するのだ。観音の如く万物に普く愛を注ぐ者が、【特定個人の愛人/特定個人の母親】では具合が悪い。このため、(あくまで一般論ではあるが)妙齢以上の女性では不都合が生じる。

 

 此の不都合を解消する唯一の逃げ道は、【処女懐胎】かもしれない。ちなみに男女置換が必須と思うので童貞授精なる現象がなければならないが、処女懐胎を少年に置き換えることは難しい。例えば富士山の火口に向かって女性以外の何等かの手段を用いて精通すれば火口から……などとの神話を捏造すれば処女懐胎と共通かもしれないけれども、余りに荒唐無稽になってしまい、いっそ怪獣でも誕生せねば収まらなくなってしまう。やはり処女懐胎ぐらいが穏当であろう。閑話休題。

 

 母を亡くした八房のように、いまだ弱々しい幼い命を、保護しようとする感覚は、女性にあっては母性と謂い、男性にあっては父性と謂う。しかし父母となる成人のみが母性/父性をもっているのではない。いや寧ろ、母であり父であれば、母性/父性を向けるべき対象が特定され、偏向せざるを得ない。少年少女ならば、特定されず偏向しないのだ。言い換えれば、生きていくことにより人は関係性を特定し続けていく。少年少女の段階ならば、「特定」の度合いが低くて済むによって、「普く開かれた存在」となるのだ。純真無垢とは、関係性の希薄をも意味する。故に、弱まった子犬を愛し労るには、純真無垢美少女が似合う。あ、「美」は余計か。とにかく、大人だと「ウチはアパートだから」「餌代が」と人生の重荷に躊躇う所を、少年少女なら軽々と捨て犬を拾ってきてしまう。

 

 次の点は、より重要だ。即ち、弱まった子犬を労り抱く者が、妙齢女性ではなく少女であることにより、怪奇趣味が増すのである。万物に愛を注ぐ「開かれた」少年少女は、同時に、万物を冷酷に扱う。成人は、関係性により、即ち過去の経緯に基づいて、特定対象への態度を比較的固定している。しかし関係性が希薄である少年少女は、全方位に向け攻撃も為し得る。喩えるならば、愛を垢……赤とし、攻撃を青とすれば、成人は赤と青を対象により使い分けるのだけれども、少年少女は全方位に向け混合色の紫であり局面々々で不特定の方向に於いて赤に傾き青に偏る。神の視点から見れば、何連も紫に観ぜられようが、マクロに見れば、固定された赤青ダンダラ模様と赤になり青になる明滅する紫は、全くの別物である。則ち、少年少女にとって、愛と攻撃の衝動は、互いに親しいのではないか。基準色シアンとマゼンタの間に在る無限のグラデーション、絶えず移ろいゆく混沌なる紫……。

 「愛」の一側面は恐らく【関心】だが、関心が極まり、自らの行為による対象物の反応/変化を面白がり、或いは蛙を踏み潰し、或いは虫の羽を足を毟るのではないか。様々な情報や論理を取得し、禁じられることで、行為を社会化していくのではないか。文中で十一二歳とされた少女が、挿絵では、より幼く描かれている。幼ければ幼いほど、社会化に遠いことが期待できる。社会化とは、それぞれの行為に意味づけをして、対象別に整序していく過程であろう。此の過程を方向付け、且つ逆に其の過程によって構築されるものが、「関係性」である。成人の傍目からすれば、濡れて弱まった子犬を労り抱く行為と、生き物を虐殺する動作は、全く対極にあるように見えるかもしれないが、少年少女当人にとっては、其れまでの教育・躾による影響が多少の方向付けをしているとしても、当人たちにとって本質的には、それほど違ったものではないかもしれない。

 先々のことまで思い巡らさぬまま只管な愛を注ぐ一方で、無邪気に邪悪な行為に出る。此が、少年少女の特権かもしれない。便宜上、愛を赤、攻撃を青としたが、前近代に於いて、紫は、赤と黒の混合色ともイメージされていた。太陽と太陰の色を混ぜれば紫になるとも云われていたのだ。それ故に日本では紫を尊ぶと説明されてきた。紫は、カオス/混沌、である。社会化により整序されていない段階、其れを少年少女とすれば、彼等は混沌なる存在としてイメージされ得る。

 上記の如き事どもから、愛らしい少女は、無邪気な残虐さを秘めているかもしれぬと同時に、弱々しい。彼女に期待すべき暴力は、相対的に小さい。馬琴自身のイマジネーション世界では、例えば傾城水滸伝の如く暴力的な女性たちが活躍し得るが、一般的に、少女は、おしとやか、少なくとも少年よりも、残虐かつ暴力的……でないよう期待されるかもしれない。しかし、其れは、期待に過ぎない。此の期待を裏切り、少年少女本来のカオス/残虐性を露わにすることで、当該場面の不気味さは深みを増す。何故なら成人読者にあっても、少年少女の残虐性は、誰しも幽かにでも記憶の裡に、混沌の記憶の裡に、残っているからだ。残ってはいるが、社会により矯正されているから、混沌の記憶は封印している。意識の上から消した少年少女の残虐性、カオスの記憶が、肉体の深奥から蠢き出ようとする、其れ故の戦慄、心のザワメキが、当該場面の不気味さを、質的に増幅するのだ。

 

 幼い頃に普く開かれていた父性/母性の種子は、成長し配偶し子を成して対象を特定集中して、整えられる。では途中で流れを変えれば、如何か。母性/父性に対象を特定集中させないまま、成長させ整えれば、如何か。生きとし生けるもの総ての母/父たり得るのではないか。……万物の母/父は、多くの宗教で信仰対象となってきた。日本仏教民俗でも、例えば観音に母なるイメージを投影する。勿論、万人/万物に普く開かれた母である。即ち、総ての母子関係個々をも含み込みつつ総ての母子関係を統合・調整する母である。あくまで理念型は、統合・調整の折に少数部分を切り捨てるが如き、稚拙なものではない。

 

 では、普き母/父を製造するための手段や如何。恩愛を特定・集中してしまう契機は、誕生・配偶・出産の三つであろう。このうち誕生は、如何ともし難い。此が無ければ、始まらない。配偶・出産は、比較して阻止が容易だ。しかも出産は配偶によって起こるから、配偶さえ阻止すれば足りる。配偶の阻止は、異性からの隔離によって達成される{同性愛配偶に就いては「異性」を「配偶すべき同性」に読み替える}。配偶を禁じた上で、出家/隔離すれば良い。{配偶を許すものは別として}仏教の出家は、結果として、普く開かれた母父を製造するための実験たり得た。

 誕生に就いては、力業ではあるが、母父を抹消することになる。父母が自然消滅すりゃ良いが、仲々そぉ都合良くはいかない。父母が健在な侭なら、如何する。いっそ殺してしまうか、自殺させるか。病で冒すか。山猫に喰われるってこともあるだろう。勿論、そのような実験は出来ないので、稗史や伝説として論理を検証するしかない。八犬伝で犬士の眷属が次々に死んでいく。眷属の犠牲によって、想いを、パワーを、与えられていく過程でもあるが、犬士たちの柵(しがらみ)を断ち切る意味合いもあろう。彼等は、恩愛を断ち切った砂漠で、ただ天の理に従う。本人たちにとっては、このうえなく孤独な状態だが、物語の英雄の約束事、まぁ皆の為に我慢してくれ。

 

 ところで、例えば十一面観音は天満天神の本地であるが、天神は、生前の政敵どもを雷で虐殺し、自らを左遷した醍醐帝を地獄に引き摺り込んで責め苛み陵辱し尽くす。此の場合、天神/菅原道真が私怨を晴らしているだけにも見えるが、そうではなく、理不尽を行った者どもに天罰を下していると考えた方が良い。何故なら天神は、既に広く信仰されオープンな存在となっているからだ。

 単に特定個人の人間関係上にのみ発動する神威ならば、広く信仰されはしない。若しくは、広く信仰されることにより、個人間の関係性を超え、コモンセンスの精神的守護者となった。此は、信仰の中で、実在の道真に対する左遷処分が理不尽すなわちコモンセンスから外れるとの理解が、社会に形成されたことを意味する。結果として、道真の正体は観音とされた。最高権力者である藤原時平や人皇・醍醐帝でさえ、理不尽を為せば天誅を下されるとの文脈が浮かび上がる。

 更に云えば、理不尽を為した者どもを殺戮した菅原道真の復讐譚を、道真が観音であると定義することにより、私怨による復讐ではなく、理不尽に対する反作用、仏理法則を示す説話へと転換、コモンセンスを社会に提示することになったか。民衆が天神/観音に、無限なる膨張を夢見る妄想狂あるいは幼児的な権力者を監視する機能を、託したと見るべきであろう。

 同時に、天神/観音と縁の深い雷は、無実の者が処刑されようとするとき「待った」を掛けるものでもある{参照:流転する地平}。則ち観音もしくは天神もしくは雷は、理不尽を為した者を誅罰し、或いは理不尽の貫徹を妨げる。勿論、宗教だけがコモンセンスを保証するものではないが、宗教めかしてコモンセンスを語った時代もあったのだ。コモンセンスなどと言えば何やら西洋めくが、要するに【天】であり、近世にあっては【公儀】の概念に庶(ちか)い。

 

 筆者には、上記の如き神性の変遷が、伏姫にも感じられる。当初、伏姫は、雄々しく強力ではあるが、実家の里見家を一方的に贔屓し、敵側を憎むだけの神霊だ。しかし、一旦幼くなった後、八犬伝の倫理に照らして真に憎むべき者は相変わらず断罪するが、少なくとも一部の敵兵には慈愛を施す存在になっていく。南関東大戦で親兵衛は、伏姫から授かった蘇生薬を敵兵にまでバラ撒く。バラ撒いても薬が減らないのだから、伏姫が親兵衛の使い方を認めて補充してやっていることが分かる。伏姫は、死後に於いても、成長/変化している。より詳しく言えば、伏姫は死後に於いても成長し、そして若返り、いや恐らくは生まれ変わり、より大きく成長するのだ。里見家専属守護神から観音菩薩への変化である。(お粗末様)

 

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