◆「世襲の必然こども御輿」

 これまで百二十回に亘り八犬伝に関する読本を書いてきたが、八犬伝の舞台になった時代に就いては、断片的にしか取り上げてこなかったことに気付いた。もとより当該時代に就いて厳密な時代考証は必要ない。馬琴は飽くまで自分の同時代人に対して書いていたのだし、鉄砲だって島田髷だって登場するんだから。ただ、馬琴が中世後半に如何なるイメージを抱いていたかは、ちょっと気になる。時代のイメージとは、歴史の登場人物による物語によって構成されていたのではないか。其処で馬琴もアクセスし得た嘉吉記やら応仁前・略・後記やらの軍記物語などをもとに、時代のイメージを結んでみよう。
 細川政元は、応仁・文明の乱を起こした一方の大将、管領・勝元の嫡子であった。文明五(一四七三)年に勝元が病没したため、八歳(九歳とする物語もある)で細川家の家督を継いだ。とはいえ此の時点で管領になったわけではない。細川・斯波・畠山の三家を管領家というが、此は単に、管領になり得る家系に過ぎない。また、此の頃までには【細川家】なる集団が幕政を牛耳るようになっていた。寄らば大樹と細川家に群がる腰巾着ってぇか子分ってぇか、被官といぅんだが、そういぅ武士たちの集合体が【細川家】であった。いくら幼名が「聡明丸」だからって、八歳で幕政を取り仕切ることは難しい。細川家の被官が、管領代なんてのを名乗り命令書を発した。其れが公的な効力を持つようになった。実体としては細川家内衆と呼ばれた十家程度の細川家被官が評定衆を構成し、内部のパワーバランスで【細川家】の意向を決定した。「管領」なる公職ゆえではなく、あくまで被官と細川一族の集合体である「細川家」の意向が、幕政を左右していた。言い換えれば、管領という幕府から与えられる地位によって幕政に受動的に参与するのではなく、細川家が【細川家】たるが故に主体的に幕政を動かすってことだ。既に名分論は崩れている。唯一の主権者たる天皇から国政を独占的に委任されているのは足利将軍なのだが、世襲により相続するから当然、実際には幕府内部の合議制へと移行する。管領や侍所頭人ら有力武家の連合体との色彩を強めるが、管領だの何だの、それぞれの要素も世襲だから当然、各要素の内部も合議制に移行する。そのうち細川管領家の合議機関が、細川家評定衆だ。
 名分論を採っているとされる八犬伝では、幕政を牛耳る細川政元は、親兵衛を監禁して夜毎ポッチャリした真白い膚をネチネチ鑑賞したか、思い切って親兵衛にバレぬようSleepingPretty悪戯を繰り返していたかは、筆者の知るところではないが、とにかく抑制の利かぬ姦りたい盛りの十八歳(数え歳)、文明十五年段階で八犬伝に於いては既に管領となっているけれども、実際には文明十八年、馬琴が(少なくとも)二度目の就任としている時に、初めて管領となったことが確認されている。四年後、政元は二十五歳だったが前関白九条政基の子を養子として迎え入れている。幼名は聡明丸。
 実は聡明丸、この時期の細川家では嫡子に与えられる名前でもあり、かなり早い段階で此の子(後の澄之)に細川家を継がそうと思っていたことが知れる。しかし、これは、かなり危ない選択だ。実子が出来ちゃったら、御家騒動の元になる。この少し以前に八代将軍・義政は、弟の今出川義視を還俗させてまで後継者に指名したが実子が出来ちゃってゴタゴタした。それだけが原因ではないが、応仁・文明の乱にまで発展した。政元には、自分に子供が出来ない自信があったのだろう。女性と致さねば、普通なら、子供は生まれない。
 しかし、政元、何を考えているか解らない所がある。別の養子も貰っている。まぁ澄之が何かの拍子に死ねば元の木阿弥だから、スペアを用意したのかもしれない。如何あっても女性とは致さない覚悟があったか。ってぇか一応軍記物語の説明では、本来なら九条摂関家の養子などとるべきではなく細川家としてとるべき養子を一族の然るべき筋から取るべきだとの諫言に従ったのだが、そうは云っても実際には、それ以外にも更に養子を貰っているのだから其のイーワケは通らず単に目に付いた可愛い男の子を気が向いたときに養子として家の中に囲って悪戯する機会を確保したってのが実情ではなかったかと思いもするが、まぁ穏当にスペアの養子と考えておこうか。スペアとは、一族である阿波国守護細川義春の子・澄元と、細川政春の子・高国だ。せっかく実子がいないのに、こんなに養子を貰うもんだから、言わんこっちゃない(別に何も言っていないが)、御家騒動が巻き起こっちゃうことは、後述しよう。
 ところで大御所・足利義政は息子で将軍の義尚を蔑ろにしていたが、義尚は実力を示すべく即ち将軍家奉行衆の支持を得るべく奉行衆の領地を押領していた六角高頼を討伐するため近江に向かった、が二年後の延徳元/長享三(一四八九)年三月下旬に陣中で病没した。同じく兄の義政に弄ばれた恰好の義視は鬱屈しつつ美濃にあったが、自分がなる筈だった将軍の義尚が死んだと知って息子の義材を連れて上洛した。義視は、義政の妻・日野富子の支持を得て息子の義材を将軍の後継者とするに成功した。義視にとって富子は義理の姉、義材の母は富子の妹である。そして遂に延徳二年一月七日、我が儘し放題のまま義政が死ぬと七月五日、義視は息子の義材を将軍位に就けた。これからが我が世の春と思いきや翌年一月七日、兄の一周忌に義視は死んだ。
 細川家の勢力を殺ごうと将軍・義材は対抗馬の畠山政長と連るむ。畠山家の内紛、政長と基家との争いに首をつっこんで義材が河内に行った隙をつき、明応二(一四九三)年四月政元は、堀越公方・足利政知の次男・義澄を将軍位に就けると宣言、義材を追放した。所謂、明応の政変である。
 このとき政元は二十八歳。時代は既に戦国と呼んで差し支えない。権力者の権威を否定するが「戦国」であって、権力者に媚びを売って周囲の悪口を言い募るは、単なる天下泰平の世の佞臣だ。したが佞臣ほど自分の身を飾る。戦国が如何のと、実際に戦国に放り込まれれば何も出来ない無能者が、泰平という保障の上に乱れを演じる現在では、変態野郎・政元だって立派な英雄だ。面白いので、まだ暫くは見ていよう。
 いやまぁ、それはさて措き、政元は変態野郎ではあったが、時代に適応する資質を持ってたという意味に限れば、責任ある細川家当主ではあった。ただ時代にドップリ浸かっていたために、それなりの末路に行き着く。時代に浸かり過ぎたのだ。
 政元は、どうも当初は澄之を嫡子として遇したようだが、澄元に家督を譲った。澄元本人というよりも其の取り巻き連中に対して恨みに思った澄之の取り巻き連中は永正四(一五〇七)年六月二十三日、香西又六、八犬伝では悪僧・徳用の父とされているが、この又六元長や薬師寺長忠が中心となって、政元を暗殺した。複数迎えた養子を天秤に掛けた挙げ句、政元は四十二歳の生涯を終えた。エキセントリックを演じていたくせに、思いっきりマトモに厄年である。弄んでいたつもりが、実は弄ばれた人生であった。
 後日談としては、翌六月二十四日、澄之は澄元を近江に敗走させ、七月八日、上洛して細川家の家督を継いだ。しかし澄元の軍勢は京都へ打って出て八月一日に澄之を討ち取った。この日、香西又六も殺されている。翌八月二日に澄元が上洛し、再び細川家の当主となった。しかし澄元の立場が安泰になったわけではない。まだ政元には高国という養子があった。永正五(一五〇八)年、中国地方の大守護大名・大内義興が義材を擁して上洛、義材が将軍に返り咲いた。将軍職を追われた義澄は、近江に逃れた。このとき澄元は細川家内衆に見限られる。内衆は、高国を細川家当主とした。澄元は実家のある阿波に下り没した。
 義材の入京によって細川家当主の座を得た高国は、養父・政元譲りの男色家であったが、やがて義材と対立を激化させる。義材は堪らず大永元(一五二一)年、淡路へ逃げ出し将軍の座から引きずり下ろされた。新たに将軍位に就いたのは、前に将軍位から引きずり下ろされた義澄の息子・足利義晴であった。
 ところで義晴には弟に義維がいたが、義維は阿波へ逃げた義材の養子となっていた。阿波の三好元長が、この義維と澄元の子・細川晴元を押し立てて和泉国堺まで攻め上ってきた。高国を捕らえ自刃させた。義維は堺に留まり将軍にはならなかったが畿内の支配権を手に入れ、堺公方と呼ばれた。まぁこの頃までには足利将軍って殆ど畿内の支配者に過ぎないので、十分だろう。将軍・義晴は弟の義維に追われる恰好で、近江へ遁走した。晴元も管領にはならなかったが、細川家当主として振る舞った。そして恩人である三好元長を煙たがり、ついには一向一揆と結託して、自刃に追い込んだ。
 天文三(一五三四)年、晴元は将軍・義晴と和を講じ、京都に迎え入れた。天文十五(一五四六)年に義晴を将軍職から退かせ、義晴の息子で十一歳の義輝に就任させた。翌年、細川氏綱と結んだ義輝を、晴元は京から追放した。また翌年に義輝と講和したのも束の間、天文十八年、恨みを呑んで死んでいった三好元長の息子・長慶が京へ攻め上り、義晴と晴元をセットで近江に駆逐した。
 色々あって永禄元(一五五八)年、六角義賢の介入で義晴は長慶と和し、漸く京に戻れた。晴元は尚も若狭へと逃れた。晴元と長慶の和は永禄四年に成立するが、晴元は中央政界に復帰することなく隠棲した。永禄七年に長慶が死ぬと長慶の腹心・松永久秀(弾正)らが義輝を襲撃した。義輝は奮戦の末に、自刃した。我らが国史に於いては、天皇だろうと将軍だろうと、臣下の都合で適当に殺されたり取り替えられたりするのだから別段、驚くに値せぬが、ここから戦国時代の覇権争いが本格化し、それまでの中央政権(必ずしも全国政権とは呼べない)内部の権力争いから、東北地方から九州まで、地方権力が全国制覇を夢見て血で血を洗う争乱に歴史の重点が移った。局所局所で行われていた戦いは、漸く全国レベルとなった。
 さて、文明五年から永禄年間まで、およそ八十年の中央政権闘争史を概説したが、この時代の歴史プレイヤー、恐らく自己規定に於いても【中央政権闘争史】なる枠組みに身を置き争ったプレイヤーたちの先鞭は、やはり細川政元がつけたって印象だ。既に将軍を暗殺した赤松満祐の例(嘉吉の変)はあるけれども、此は破れ被れの突発的な事件であって、満祐は領国・播磨に逃げ落ち勝手に将軍を立てたりはするが、圧倒的な幕府軍に潰滅させられた。対して細川政元は、将軍に有無を云わせず引きずり下ろしている。実力の差は歴然としている。此は完全な下剋上であって、戦国の扉を開いたと言っても良い。政元に対するイメージは、だいたい以下の如きものか。

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○細川家乱根事
昔皇胤二流ニ分レ北朝ノ持明院殿ト南朝ノ大覚寺殿ト天下を争ヒマシマシケルニ終ニ北朝一統シテ南方ハ帰服マシマシケリ公方家近年両派ニシテ今出川殿と堀越殿ト大樹ノ位ヲ代謝アリ又応仁乱前ヨリ畠山モ両家ニ分レ斯波家モ二方ニ立並ンテ合戦互ニ止時無シ唯細川家ハカリコソ先祖常久禅門ノ遺徳深キ故ニヤ今ニ仁孝ノ沢厚フシテ一家モ睦シク六代マテ繁昌シテ大名高家ノ手本共成給シ家風ナルニ世既ニ澆季ニ及テ時運衰微ニ至レル歟当管領右京大夫政元行跡祉Vテ思慮邪ナルカ故ニ是モ子孫二流ニ分レ終ニ兄弟世ヲ争テ互ニ挑合給フ其濫觴ヲ尋ルニ政元ノ不義無道先祖ノ人々ノ志ニ違シ故也抑細川家ノ先祖ト云ツハ八幡太郎義家ノ御孫足利判官義康ニ二子有リ一人ハ足利上総介義兼トテ是公方家ノ御先祖タリ今一人ハ矢田ノ判官代義清トテ是細川ノ先祖也此義清元来義康ノ嫡男ナレ共源平ノ乱ノ時木曽義仲ノ妹婿ナルカ故ニ同意シ一方ノ大将軍トシテ備中国水島ノ軍ニ利ヲ失ヒ斯ニテ義清討死シ給フ其子孫代々朝廷ノ武臣ナリシカ共勢微ナル故ヲ以テ足利家エ随順ス足利家ノ繁昌ハ上総介義兼ノ御母君ハ熱田大宮司季範ノ娘ニテ右大将頼朝卿ノ姨母御前且又義兼ハ北条右京大夫義時ノ縁坐タルニ依テ自然ト鎌倉ノ交リ高シテ其ヨリ累代北条家ノ婚姻ヲ不相離其威勢強カリケレハ義兼ヨリ其子孫代々ニ至ル迄是ヲ足利御当家ノ嫡流トス因茲義清ノ曾孫モ代々彼家ヘ身ヲ寄給フ者也然レハ足利ノ氏族ニ是ヨリ近キ分テハ無シ去ル建武ノ頃等持院殿尊氏公天下ヲ知シ召サレシヨリ義清ノ子孫細川氏ノ人々代々御当家棟梁ノ氏族トシテ或ハ執事管領ニ任セラル然るに彼嫡類細川相模守清氏ハ虎口ノ讒言ニ依テ心ナラス御敵ニナサレケレ共其ニモ氏族同心セス終ニ細川一家ノ中ヨリ清氏ヲ誅シ出サレタリ扨此外数箇度ノ戦功ヲ全シ後ニハ鹿苑院義満公ノ御幼稚ナルヲ杳々守リ立奉エイ貞治応安ノ比未タ南北両朝ノ戦国ナルニ文武二道ヲ宗トシテ百戦百勝ノ功ヲ立給フ数年ヲ経テ後終ニ南朝ヲ帰服セシメ天下ノ乱ヲ一統シテ万民ヲ安治セシメケレハ公方家代々ノ鴻基ヲ開テ天下泰平ノ世ヲ定メアッレシ大功業ノ管領也ト末代迄モ称美シケル其ヨリ彼一統代々管領職ニ補シ政元迄ハ六代也サレハ当家ノ外斯波畠山党モ相替テ管領ニ任スト云ヘ共是等ハ其先祖斯波修理大夫高経畠山尾張守義深昔日公方ノ御敵ト成テ後降参シタル子孫サレハ細川家トハ各別也然ルニ近代応仁ノ乱ノ時モ右京大夫勝元ハ畠山政長ノ方人シテ山名宗全ト合戦ニ及ハントス其時ノ上意ニ誰成共政長ヲ救フ者ハ御敵 ニナサルヘシト被仰出タリケルニ猶細川ノ一族衆政長ニ加勢セント云フ勝元忠有テ智恵深キ人也ケレハ思案ヲ廻ラシ申サレケル様当家将軍ノ執権トシ先祖頼之頼元満之持之某共ニ以上五代一人トシテ終ニ御敵ノ名ヲ汚サス未タ公儀ヘ対シテ一箭ノ弓ヲ引事ナシ然ル処我今政長ヲ合力シテ御敵ト成ナラハ主君エハ不忠人先祖ヘハ不孝也当家ノ瑕瑾是ニ不過終ニ天下ノ人望ニ背テ天罰不可遁トテ目ノ前ニテ死セントスル方人ノ政長ニ合力加勢モシ給ハス其年ノ春ヨリ公方家ヲ守護セシメ山名方ヲ御敵トシ応仁元年ヨリ文明九年マテ十一年ノ対陣ニ毎度ノ合戦大方ハ山名方ノ勝利ナレ共公方家ノ御敵ナレハ下剋上ノ天罰ニヤ分国ノ家臣共上ヲ学フ下ニシテ皆以己カ主人ノ山名方ヘ敵対シ自国ノ騒動難義ナレハ彼徒党等ヌケヌケニ皆東陣ノ味方ト成ル細川方ノ者共ハ軍ノ仕様ハ鈍ケレ共勝元ノ忠義ニ効御敵ト成ル名ヲ恥テ一人モ主人ヘ叛ク者無ク西陣ヘ降ル人無リキ爰ヲ以テ莫大ノ戦功成就シテ終ニ勝元政長ハ運ヲ開テ領国ヲ不失山名方ノ一族ハ京都ニモタマリ不得散々ニ成テ亡ケル是唯勝元忠義ヲ守リ先祖ノ志ヲ崇給フ故也然ルニ政元其子トシテ亡父ノ志ヲ引違ヘ上総介義豊ヲ一味シテ畠山政長ヲ討ノミニアラス公方方ノ御敵ト成テ将軍ノ御位ヲ恣ニ替奉ル事主君ヘ不忠先祖ヘ不孝是ニ過シト見ヘケレハ天下ノ人望ニ背ケル程ニ滅亡近キニ有ヘシト皆人サ丶ヤキ合ニケリ(応仁後記巻中)
     ◆

 もともと細川宗家は、将軍家を敵に回さず尊重したため配下の者も忠実で、一家が纏まっていた。一方の山名家は武力はあったが将軍家を蔑ろにしたため、家内の秩序も当然ながら乱れ、内部から崩壊した。しかし細川家も政元の代となって将軍を蔑ろにしたため家内が乱れ二流に分かれてしまった。下剋上だとか何だとか上に向かって云う以上は、自分も下剋上の標的にされて然るべきだ。なるほど理屈には合っている。
 権力の中枢に在る細川管領家当主だからこそ中央政権闘争の土俵に上がれた政元ではあるが、名分論の欠片も見られない。良家のボンボンのくせして、何を勘違いしたのやら、歪みまくっている。これでは何の取り柄もないってのに等しい。……いや、政元は案外、良家のボンボンであったが故の鬱屈をしたのかもしれない。彼は八歳で管領細川家の家督を継ぐが、それは権力集団としての細川家の【対外的に代表する単なる部品】としてであった。細川家がないと困る連中、其の被官たち就中、内衆の必要から継がされたと思った方がよかろう。今でも繁くいる二代目三代目のバカボンだ。
 都合が良いから祭り上げられたバカボンでも、能力があるように他には見せかけねばならぬ。能力がなくとも、名分論に殉ずる心意気、システムに対する忠誠さえあれば恰好がつくものだが、自ら否定しちゃっているから、其の手は使えない。少年期特有の万能感に支えられている間は良かったかもしれないが、祭り上げてくれた内衆/側近たちからして、政元の資質は見切っていたのだろう腹の裡では蔑ろにしていた。政元も、其れが解らないほどには鈍感でもなかっただろう。突然に爆発するごとく怒り狂ったりする彼のエキセントリックな性格、愛宕・飯綱を信仰し超自然的な力によって自らの能力を向上させようとする妄想的な指向、欲望や置かれた立場に見合った能力のない者が必然として陥る不幸な状態にあったやにも思われる。
 今まで変態だ何だと口汚く政元を罵ってきた筆者が、今回に限って妙に同情的であることに、疑問を抱く読者もいるかもしれない。いや、同情とまではいかないし、イーワケになるとも思ってはいないが、彼にも心の傷ぐらいはあったであろうことを、述べようとしているのだ。
 それは文明十一(一四七九)年の出来事だ。此の年、皆さんに如何な思い出があるかは知らないが、細川政元にとっては忘れられない年となっただろう。八犬伝では小文吾が運命の美少女・毛野と出会ったりした年だが、果たして其の頃、数え年で十四歳ぐらいだった細川政元の肉体を、如何なる災難が襲ったのか。(お粗末様)
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