◆「裸の男が汗に塗れて組んず解れつ」

 漕ぎ出したは良いが、史料の海は広大だ。見回せば、丹波国桑田郡には近世、犬飼村ってソソる地域があった。現在の京都府亀山市曽我部町辺りだ。漕ぎ寄せると篠山藩士・矢部朴斎が天保十二年に纏めた「桑下漫録」に行き着いた。次のような記述がある。

     ◆
犬飼村
史徴 垂仁天皇八十七年戊午 紀 又曰昔丹波国桑田村(桑田郡名村今名犬飼) 紀 人有名曰甕襲家有犬名足往是犬咋山獣名牟士那(説文言狢似狐而善睡者也漠語抄言無之奈) 紀 而殺之則獣腹有八尺瓊勾玉以献之是玉今有石上神宮云々
盥魚 右之本を引て言遠州見附の駅西坂と言所に天満宮有。此社にて毎年犬追物の祭と言有。里俗曰往古此宮へ人を犠に供す或年娘の犠に当りし人の家へ丹波国の者名犬を曳て来り宿し此事を聞て何ぞ産神の氏子の命を断んや是究て狐狸の所為ならんとて犠供へ彼の犬を傍に隠して待居しに夜更社檀鳴動して神体出現する所を彼犬を放つ此犬あやまたず神体を喰殺す後是を見れば大なる牟士那也と。証しがたき説ながら今日本紀の説と遠州丹州両国の俗証符号せる故爰に記す云々。此説により村内に言伝へし事無哉。尋れども知人なし。犬塚とでも名附し所は無哉尋れ共是もなしと言。
篠山封彊志 酒井荘犬飼村往歳村以童祭神猟者新兵六放犬得老狸而後村民免用人之患厚謝猟者愛養其犬遂為村名詳祠廟下案古昔謂高貴飼犬鷹之地為犬飼鳥飼是蓋其誣説也○大歳社在犬飼村伝言宿昔例祭牲用幼童無得全者近江州猟夫新兵六憐其無故而死亡比祭期牽豪犬潜宿社傍■(門に規)之夜将半里人皆退未幾社中獣蹄東西奔■(アシヘンに日のした羽)新兵六以為期急放犬果犂来一老狸衆皆徳新平六之功愛育其犬後又無害
以上之説も似たる事ながら本紀は桑田郡とあれば当村その拠有歟。彼は船井なればなり
 神明社
神明社両太神宮末社共勧請す
橋之少下社に有之。社司言往古此社に桑之巨樹有て上はうつぼになりし其所に毎年稲を生じ穂出す仍之村名を穴穂と言と云々。
又言此太神宮者往古大和より丹後之余射へ神幸之時暫止りましませし所也とかや。
都名所図会 麩屋町五条上神明町に東側に有之神明社、丹波国穴太村より勧請す。仍之今穴太村には社地存と有。
此社の外に右社地にても有哉と尋れ共外になし。此社は小祠にも無之正しく往古より之社と見ゆ。境内巨樹数多有之。名所図会之説之如は曽て不聞伝と社司も言り。
 穴太寺
天台宗 東叡山末 菩提山 穴太寺
  聖観音菩薩 立像御長三尺
  本尊 薬師如来 観世音菩薩 御相殿 勅封秘仏にて御長不詳
   穴太寺草創薬師如来 慶雲二年
   (朱注)天保辛丑マデ千五百三十七年
   廿一番 観世音菩薩 応和二年
   (朱注)同八百八十年ニナル
   鎮守 天満宮 本堂 九間南向
   多宝塔 釈迦如来 多宝如来 三拾三所観音堂
   千体地蔵堂 常念仏堂 鐘楼 二王門
   中興開山行広上人 当住八世 行端法印
盥魚 元享釈書曰六十一代村上天皇応和二年丹波国桑田郡の民宇治の宮成京都の仏工感世をなして観音一躯を刻むと。俗には眼清が作と言り誤也。始は菩提寺且穴穂寺と釈書に見へたり。穴憂又穴雄今は穴太と書り。文字の是非分りがたし。霊験世俗の口号に明らか也。長事故こ丶に略す。
千載集に穴穂の観音を見奉りて覚忠
見るま丶に涙ぞ落るかきりなき 命にかはる姿と思へは
享保十三年申昏本堂回録す。本尊観音倶に無恙云々。
当寺略縁記(ママ) 夫当寺草創文武天皇慶雲年中に古麿大臣始て建立し玉へり。其後三百余歳を経て村上帝の御宇に当国曽我部の郷に宇治宮成と言者有。邪見無慚にして生死無常の理を知らず。然るに其婦はひきかへ慈悲柔和にして深く仏法を信ぜり。于時応和二年壬戌年都より感世と言る仏工を請して聖観音の像を刻ましむ。此婦造立の間は済戒を持ち信心清浄にして毎日法華経一部普門品三十五巻読誦不怠。尊像すでに成就しければ程々の録物を仏師にあたへて随喜感歎極りなし。宮成是を見るといへども一念慚愧の心なし。或時婦人宮成に対して仏道に赴かしめんため因果の理を示して諫めければ宮成婦の詞に恥て本意とは思はねども秘蔵しける葦毛の馬を仏師に与へけり。九月廿三日の暁感世帰洛せんとす。宮成此馬を惜しくや思けん。取かへさんが為大江山増井の辺に待受白羽の矢をさしむけて仏師を射落し終に彼馬を取りて帰宅し則馬は厩につなぎて本尊の御前に参りて見るに先に発つところの白羽の矢観音の胸に立金色の肌より赤血流れ青蓮の御眼より紅涙を落し玉へり。宮成驚て其矢を抜奉り大いに懺悔の心を発し彼馬を見るに馬は無して唯藁沓一双のみ有。弥奇異の思をなし扨は本尊仏師の命に代り我矢を受させ玉ならん。急ぎ仏師の所に行。帰洛の道にして怪事は無りしやと言に感世答て言く大江山にして盗賊に逢りされども弓箭にか丶る事もなく財物を失ふ事もなし観世音の御影にや安穏にして帰洛せりと言り。宮成是をき丶前非を悔益渇仰の心を発し終に仏道に入れり。極悪の夫を教化せんが為観音暫く宮成の妻とあらはれ玉ふにや有けん。宮成御堂を作り尊像を安置せんと思ひ企る比に観音宮成の夢に告に我像を穴太寺に安置すべし彼所に住して長く五渇の衆生を済度せんとの玉へり。宮成御つに任て一宇の御堂を穴太寺に建立し本尊を安置し奉る。彼の宮成の射奉る処の矢の疵于今本尊の左の御胸に残りて顕然たり。大悲代受苦の誓願少もたがはず感世必死の難を遁れけるこそ難有けれ。それより今に至るまで星霜既に八百有余歳霊験日々に新にして貴賎歩を運ぶ事たへず利生ますます厚ふして現当の願ひを満給はずと言事なし。縁記略して如此。具には本縁記にしるせる云々。
     ◆

 史料の後半は、身代わり観音で有名な穴太寺(西国三十三箇所霊場第二十一番)に関する記述だ。既に語ったように、八犬伝の重要な舞台は、観音霊場である場合が、ままある。此処に登場する穴太寺は、西国三十余カ所の一、すなわち観音霊場ではあるけれども、元の本尊は薬師如来だったらしい。また、桑田郡には国分寺もあった(亀岡市千歳町)。国分寺は創建時の詔では一丈六尺の釈迦如来像を安置する筈だったが、当時の信仰の中心だった薬師如来が本尊として居座っている寺が多い。此の国分寺も正しく薬師如来が本尊だ。
 冒頭では、甕襲の犬・足往が退治した狢の腹から玉が出た話を持ち出している。そして「犬飼村」こそが甕襲の足往がいた場所だと断定している。それは良い。足往の説話が事実であったかは別として「犬飼村」は、その説話を元にした地名か、その説話に関係する犬養部か何かがいたんだろう。第二段落では、遠州見附宿西坂にある天満宮の伝承として、竹箆太郎の物語を伝えている。この天満宮では昔、人身御供を悪神に差し出していたが、丹波の人が犬を連れて通りかかった、犬が悪神を喰い殺した。悪神の正体は「牟士那」であった。めでたし、めでたし。
 此の伝承に就いて「桑下漫録」は、「証しがたき説ながら今日本紀の説と遠州丹州の俗証符号せる故爰に記す」と書いている。矢部朴斎は、甕襲の足往が腹に玉を持っていた、即ち霊的な力を持つと観念されたであろう狢を倒した伝説と、遠州で丹波の犬が悪神を退治した事件とを、「符号」していると感じ、更に、此の話を「犬飼村」の段に記した。則ち、悪神を退治した犬が犬飼村の犬だと考えたがっているのだ。矢部さんは、わざわざ犬飼村で「遠州で此方の犬が悪神を退治したって話を聞いていないか」「犬塚とか……犬飼の他に犬に縁のある地名とか残っていないか」と聞いて回っている。村人の反応は否定的だったらしく、矢部さんは、ちょっとガッカリしているようだ。
 ……現行の見附天神案内書では、しっぺい太郎信濃産説が採られており、丹波産説は見あたらない。「公認」恐るべし。しかし、此処で諦めては余りにイーカゲンすぎる。確かに私は伊井暇幻だが、それほどまでにイーカゲンではない。丹波国桑田郡に於いて証明できぬなら、航路を遠江国見附宿に向けよう。漕ぎ寄せれば、遠くに……遠(とお)々見ます……と、何だ、ありゃ。褌一丁で汗塗れの男たちが集団で組んず解れつ……そう、遠江国見附宿は前近代から裸祭りで有名だ。磐田市史史料編巻二である。

     ◆
七月十八日夜
 御山に参詣して
  秋の月
   葉ごしに拝む
    山路かな
遠丶見ます
能人の言、大井川の山奥に大輪の牡丹咲て天に伝染り雲に紅粉を流といふ。今度遠地の翁に尋に、大水出し時、花びらの流る丶を見るといへ共、見たる人もなし、天龍の山深き所に京丸といふ隠れ里有り、故有る御すへのよし、其京丸のまだ奥の、ずっと奥の谷間、其色白し一輪に咲、千丈の半ぷくにして翼無ては見分はたし、大方は数万の花の一ツに見へて大輪ト言、
  是成るべし
   京丸へ
    いくつ越けん
     雲の峰
  人毎にとふつあふみに
   咲牡丹ヤッぱり
    花の高いところか
むかしむかしのぢ丶いとば丶アがはなしに、丹波の国のしっぺい太郎に、この事かならずさたするな、どんつくどんつくどんと、おばけがおどっていたを野宿したろくぶがきいて人身御供の出るむらへいって、おやたちにくわしくはなし、夫ヨリ丹波の国へ行、しっぺい太郎をさがすに人にあらず大きな犬をつれて又そのむらにかへり、人身御供のこしへ入レおなじこしへおのれもは入り、山深きやしろへ行キ、夜がふけると中より、かのしっぺい太郎が出て、お化とくみ合、勝て、お化をたいじたといふ事は、三ツ子もしってはいるが見るははじめて、この御社にとしふりたるたぬき住て人を喰ふわざわいをさりて、草も木もみなあふみきみの国とはなりぬ、これもひとへにこの御社の御つげ成べし
  比佐摩利天神(てんじんとにごらず、てんしんと奉申上也)
  世の人ヤナヒメノてんしんとおぼへしも有り
  御祭礼の当日入らせ給ふ御旅所こそ惣社にて
ヤナヒメノ神社と奉申上、遠見付の町数二十四五町にして上方を西坂、江戸の方を東坂といふ、両方の坂の間を見付也、この東坂のうしろノ山の上が右の比佐摩利の御社也、町中の宮を惣社ヤナヒメノ神社也、御祭礼当日八月十日也、八月七日夜、氏子供水ごりにて牛みつに御社へ行、この時、町中燈しをけし拝すものは門に出て拝す、家内は無言にしてまつ、氏子はゑぼし白丁にて行、御社より榊をかつぎ真の闇に山を平地の如くかけおりる、少しもけがなし、氏子かたのいたく成る時、榊を町中へおろしやすむ、又かき上る時、榊の枝をおりて、しるしにさし置、御酒所この所へ建る也、夫ヨリ十日のくれ六ツヨリ祭礼はじまる、宵の賑ひ町々のまんど、江戸の出し也、氏子の若イ衆まんどをもちぞめく、大キサ二間半也、燈籠也、高サ壱丈八尺程、人形台共あんどう三間程、高サ同断、この外おもひおもひの細工ものさまざまのこのみ方、町はばいっぱいの大どうろふ、いづれもあかり入数しらず、この出しに付ク人、凡一本に八九十人ぐらひ
氏子の形り一むかしの手遊び、すごく坊ずのすがた也、水ごり取さらし切立ふどしこしにあらなわ大七五三ヲまく、是は人のよりつかれぬよふにして、この如くくみ合ふて、よんヤサもんヤサよんヤサもんヤサよんヤサもんヤサよんヤサもんヤサといふ、すまいにあらず、一髪結たるもあり、其ま丶もあり、宵のうち東西行違ひ、おのおの如件、町々の御神燈、右のまんどあかり入、家々の賑ひ天もこがす如し、夫ヨリ町々を遊びてのち御社に入てくみ合、よんやサアもんやサアとくみ合ふ、是を鬼おどりといふ
  いみぶくあるもの八月七日より三里ヲはなれて
  住む夫人、月のさわりも右同断也
夜の九ツ迄、右之賑ひ九ツ鐘をあいづとして、一番手といふしらせ、御社より御仮屋に来る、是ヨリ次第次第に家々の仕度、町中は近村の人々軒下ニ満々として町巾せまく八ツの断をあいづに家々あかしをけし闇と成る、この時、門弟宗六郎かづらや友吉、同道にて御山に登る、ま事に真の闇也、社内の人々右之形りにして二番手三番手と段々に坂をかけおりる、シッシッといふ、是は犬をはらふ例也、数多の人、口々にいふゆへあり、ものすごく、坂ヨリ半町程上に一の鳥居有り、松並木所々木燈籠有り、御社ヨリ御こし出る両わき白丁三間だいまつをかつぎ、この真先に太刀をかつぎ、この太刀一番のせいぶ、かたなの大キサ、白丁ゑぼし也、神主様装束冠り二タ方共、跡供、大太刀ハ二振也、右の御こし御社ヨリ出ると明星様程の光りにて御こしの家根へ上天ヨリ下る、是を拝す、代々所の衆にも是を心得ぬよし、とくと聞合候得共、老人にもわきまへぬよし、跡々のものがたり、さすれば同道の両人、われらのみにて拝し候事、難有き仕合と、この御神のあらかた成るを尊ふむべし、一の鳥居迄御ねり、こ丶にて両たいまつをふみけす、是ヨリ又闇となり、御こしをかき山坂をかけをりる、数多のあし音、天にひびけ、おそろしくもありがたし、御仮屋に御こし納る、又々宵の如く町々の御神燈、家々にもあかしを照す、
  宵に氏子の素はだかにて、くみ合ていふ
  ヨンヤサアモンヤサアヨンヤサアモンヤサア
  ヨンヤサアモンヤサアヨンヤサアモンヤサア
  ヨンヤサアモンヤサアヨンヤサアモンヤサア
  ヨンヤサアモンヤサアヨンヤサアモンヤサア
昔、人身御供の上り頃、神主の子に、よんね、もんねといふ二人の子有、二人共、行かたしれず、まさに其暮に失ふ、親たるもの、きちがいの如く、神事の日夜、よんねアもんねアとたづねしに、二人リの子供、無事に家に帰りしも、まったく天神の加護難有く、ヨンヤサモンヤサノ古例是也
  カノ古狸、丹波の国のしっぺい太郎
  たがいに、きばをならし、くい合死たるハ
  見付の駅ヨリ五里山深き所也
  一ツの宮有り、しっぺい太郎をまつりし也
翌十一日昼時迄、御仮屋にましまし、日の八ツ時に御社へ御帰り有り、目出度御祭礼納る
  難有や 尊ふやナア 今の代は
   人の身御くろふ 神に願ひて
    祭礼や はだか例儀も 腰の七五三
秋葉御祭礼          駒ケ嶽の汐干
波の鳴音(東西にて時雨有り) 浜の砂山峠(風により東西に成る)
京丸の牡丹          袋井片葉の葭
新居御祭礼(小石の神事)   外にさくらが池の神事(秋の悲願中日)
右はつれづれの物語に御達致し候
 天保三(壬辰)   夜雨庵白猿
  八月十五日(岩田市史史料編二・四四八・磐田市教育委員会所蔵赤松家文書)
     ◆

と、此処で制限行数だ。内容に就いては、次回に検討する。(お粗末様)

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