▼宿祢姓金碗氏の謎▼

 

 犬士は、宿祢姓金碗氏を勅許された。実際には朝廷への賄いによって実現したのだが{此の点を以て馬琴が売位売官を認めていたと考えるか朝廷の権威を口先だけで認める仕草なのか論の分かれる所であろう}、やや大袈裟に言えば、犬士は【天】から宿祢姓金碗氏を許された。八犬伝に於いて、真実、犬士は金碗氏を名乗る資格があるのだ。

 犬士には、例えば信乃なら番作さん・手束さんという立派な両親がいる。これを実際に生んだ、「所生の親」と謂っておく。しかし其れは、代理親の側面もある。明らかに八犬伝本文では、犬士の精とも謂うべき白気は、伏姫の胎内より迸った。且つ、犬士の精は、伏姫と八房が「相感」することにより生じた。八犬伝本文から、明らかに読み取るべき事実関係は、此だけである。其れ故に第百三十一回に於いて、里見義実は、伏姫を、犬士にとって「宿世の母」と位置づける。犬士の、真の両親は、伏姫と八房である。犬士は義実の外孫と言われるが、此は伏姫の子どもと定義されているからだ。

 伏姫切腹の場面で里見義実が、金碗大輔すなわち後の丶大を伏姫の婿にしようと密かに考えていたことが明かされる。創業の大功に報いられることを嫌って自殺した金碗八郎を想っての優遇であった。現代劇では、娘の諒承を得ずに親がコッソリ勝手に決めた婚約相手なぞ、迷惑千万な存在であり敵役になったりしようけれども、まぁ近世の八犬伝ですから。金碗大輔もしくは丶大、極めて立派な善玉である。義実は、創業大功を報いられぬうちに逝った金碗八郎と、犬士招集の大役を果たしつつも出家し子孫が絶えることになる丶大の二人に報いようと、犬士に金碗氏を襲わせ名迹を残そうと考えた。また義成は、金碗が神余の分家であることから、神余家当主が虚弱で子孫を残せないだろうとの予測のもとに、犬士が金碗氏を継げば、神余の名迹も残ると補足する。

 

 義実は犬士に金碗氏を襲わせるに当たり、丶大を「倶に宿因を推ときは、伏姫は是宿世の母なり。こゝをもて丶大師を現世の義父と倡るとも以なきにあらざるべし」と言っている。言葉を足せば、【八房の死後、犬士にとって宿世の母である伏姫が婚姻する予定の相手だったと義実が表明したことにより丶大こと金碗大輔孝徳は犬士の「宿世の義父」に見做し得る位置に据えられたので、現世でも義父とする理由は十分にある】ぐらいだろう。

 

 ならば犬士たちは丶大の義子であり、金碗氏を名乗ることは不自然でない。更に、馬鹿なくせに道節が進み出て、「世に同因果の義兄弟、八名あるべきよしを悟りて、竟に全く集りて当今無双の賢君に、仕ることを得候ひしは、則是丶大師の二十余年行脚の功徳、指南ありしによりてなり。有恁れば是丶大師は亦臣等が宿世の父にて指南の徳義は師表に同じ」なんて言う。他犬士は感激して、道節に賛同する。「道節が即座の論議に感激せられて仔細に及ばず、皆共侶に額衝き承て同意のよしを稟すにぞ」である。七犬士は「感激」して「仔細に及ばず」「同意」したのである。平常時には冷静かつ論理的な犬士たちであるが、仲間であり義兄弟であり霊的には実の兄弟である道節の舌先三寸に乗ってしまっている。

 道節は馬鹿だが、賢い毛野が河鯉孝嗣の説得に失敗したとき、後を引き取って丸く収めた実績がある。理屈ぢゃないレベルでは、口が立ち説得力に富むキャラクターだ。但し、情に照らせば何となく正しいように聞こえるけれども、実はアヤシイ。此奴が尤もらしいことを言うときは、結論は真実に庶いとしても、途中経過に間違いがあるかもしれない。だいたい道節は登場時、火定すると民衆を騙して金銭を巻き上げていた。村雨を売りつける素浪人に化け{いや道節は本当に素浪人ではあったが}油断させ、定正の替え玉を討った。甲斐で信乃を救ったときも、武田家の眼代に化けていた。此奴は元々、尤もらしいことを言いつつ人を騙す名人なのだ。

 

 当時の貴人の婚姻は、家の都合で決められた。【野合】は許されなかった。そして家長の意思は尊重されねばならない。家長である義実が伏姫と丶大との婚姻計画を表明した時点で、丶大が伏姫の夫と見做され得る。伏姫にとって丶大は、後妻ならぬ【後夫】なのだ。犬士にとっては、継母ならぬ継父である。丶大は、犬士にとって霊的にも実父でないことは明らかだ。上で道節の言を引いたが、だからこそ道節も、丶大を「宿世の父」と呼びつつ、但し書きを付ける。即ち上の言葉に続け道節は、義実の言を引き「宿世の父、現世の師表、一身二扮の因に儘して、義父と仰ぎ師父と称え」と言っている。表面的な字義は、「所生の親」を実の親、丶大を義父と呼んでいるとも読める。しかし筆者は上記の事情から、霊的な実父たる八房に対し丶大を義父と呼んでいるのだとも読む。此処での「義父」には、所生と霊的の実親に対し、二重に「義父」であるとの意味が籠められている。

 

 義実の提案が犬士と義成に支持され、一座の大勢が決まった。犬士が宿祢姓金碗氏を名乗る勅許を得るため親兵衛が上洛する話題に移る。皆が喜びはしゃぐ中で丶大だけは「始より思ふよしある面色にて、聞ざる像く黙然たり」。印象深い場面である。義実らの論理とは別の所を考えているようだ。文外の文、どうやら馬琴は、丶大に不同意の態度を取らせることを以て、義実や義成の論理が、若干間違っていることを示したいらしい。回を変えて第百三十二回、丶大は犬士を義子とし剰つさえ金碗氏継承の勅許を得るとは勿体ないと主張する。

 丶大の謙譲を表す言葉だが、社交辞令に聞こえる。義成が説得に乗り出す。金碗氏の名迹を遺すことが【孝】であると強調する。丶大こと金碗大輔【孝徳】に対しては説得力を持っただろう。また犬士である親兵衛の上洛は、時代の情勢を探る目的もあるが、スパイするために来ましたなんて云えるわけないので、上洛には別の理由が必要だとする主張する。後者は、本筋ではない。単に親兵衛が上洛し次なる冒険、画虎と絡むために取って付けているだけだ。重要であるのは前者の論理であり、更に重要である点は、其の手段だ。

 出家したから義子も不要だとする丶大に対し、義成は「八士を和僧の乾児にせで金碗氏を冒させなば、皆孝吉の名迹にて和僧の上には干渉らず」と言っている。則ち、出家した丶大が子孫を不要だとする意思を容れ、金碗八郎孝吉の跡を継がせるのだ。八郎の嫡子といぅか独子である丶大が出家したので、代わりに犬士を養子に迎える形である。此の論理の転換により、丶大は犬士への金碗名迹譲渡を素直に承認する。確かに子孫を残し家を存続させ先祖の祀りを絶やさないようにすることが、【孝徳】の最たるものだ。出家の身として義子を迎えることを躊躇っていた丶大に言い訳を与えたようにも見える。体裁を整えるため、とても綺麗に纏めている。表面上は何等、疑問が生じない。義成の舌先三寸による説得が成功しただけに見える。

 しかし相手は八犬伝だ。体裁を取り繕っただけで、このような重要事が決定される筈もない。まず勧懲の面から見ると、丶大は報われるべき人物だ。本人は喜んでいる風でもないが、一応は大寺の住職という立場を得て、後に朝廷から大禅師の称号を与えられた。此に加えて、苦難の報酬として、金碗の名迹存続も成されたのか。勿論そのように理解しても良い。馬琴は八犬伝の中で、大塚家や赤岩家、那古家など断絶した名迹を興すため、犬士の子どもたちを各家に、ばら撒いた。蜑崎家も直塚紀二六を婿養子に迎えた。馬琴にとって、家名の存続は重大事であり関心事であった。とはいえ、主人公たる犬士本人たちが、名迹が絶えることを覚悟している出家者丶大の養子となろうとする以上、他生に於いて多少の縁があるだけでは不足だ。

 

 丶大は、犬士による金碗氏襲名を認めた。此は丶大の家名に執着する未練がましさを表現しているのか。背景に家名に執着した馬琴、下駄屋に婿入りしながら何故だか婚家を瀧澤家にしてしまった馬琴、孫の太郎に御家人株を買ってやり武家としての体裁を取り戻そうとした馬琴の、執念を見るべきなのだろうか。筆者は、そうは思わない。現実と物語は別物だ。馬琴が生涯の決算として描きあげた理想世界で、出家者が恩愛に拘るなんて考えにくい。現実世界に満ち足りないからこそ、イデア世界/稗史を構築するのである。現実世界で生きるため為さねばならぬ遣らずもがなの事どもを、イデア世界で為さねばならぬ謂われはない。為す必要がないからこその、イデア世界である。丶大は犬士の金碗氏襲名を、否定すべきであった。が、認めた。イデア世界の秩序が乱れることを回避するためには、ならば、犬士が元々金碗氏の関係者であったとの設定が隠されていると見るべきだろう。しかも丶大の義子よりも、八郎孝吉の子に近い関係が設定されていたと見なければならない。

 

 まず、犬士を自分の義子とすべきでないと主張する丶大の心裡を考える。里見義実が自分を伏姫の婿とさえ考えていることは分かり切っていた筈だが、丶大は、伏姫の真意を知ってか知らずか、「八房も大輔も夫ではない」と宣言した彼女の姿を思い浮かべていたのではなかったか。此の宣言を尊重する限り、彼が犬士の義父、即ち伏姫の後夫たる位置を公的に受け容れられる筈がない。丶大が犬士の義父となることを拒んだ、主観的理由もしくは表面的理由は、まずは伏姫の宣言にあろう。伏姫は実のところ観音であるから破戒にはならないが、丶大の伏姫への想いは凄まじいもののようだ。恐らく俗な性的欲望を既に超越し、強靱な思慕の形となっていよう。……だが、此れは理由の一つに過ぎない。伏姫の拒絶宣言は、丶大が犬士を自分の義子として拒否する理由となるが、八郎の子として迎えることを積極的には支持しない。

 

 犬士を八郎の子として迎えるべき最も積極的な理由は、犬士が実際に八郎の子だったから、だ。では、八郎は八房か。いや、馬琴は、八房が玉梓の後身であると明言している。ならば、伏姫が、八郎の後身でなければならない。勿論、両者の間に、遺伝子とかDNAとかの関係はない。義実の妻五十子と、八郎が密通したと云いたいのではない{だいたい第八回の記述からすれば、義実と五十子の婚姻は八郎の死後らしい}。馬琴は犬夷評判記なんかでも、八房が玉梓の後身であると明言している。八房と玉梓の間に、遺伝子上の関係は、恐らくない。それでも「後身」なんである。伏姫が、金碗八郎の後身であっても、何等不都合はない。まだしも人間同士である分、解り易い。和漢三才図会でも、さすがに美女が牡犬になった話は記憶にないが、女性が男性に、或いは男性が女性に変化した話は載っている。和漢三才図会に信を置く八犬伝世界で、男の後身が女性だとて、別に驚くほどのことではないだろう。毛野は、口絵讃を信ずる限り、「変生」した。女性から男性に変態/メタモルフォーゼするため、三年も胎内に在ったのだろうか。信乃は男子でありながら、女性の装いで育てられたし、女性名を与えられた。信乃・毛野の二人は、犬士と伏姫との関係を最も密接に繋ぐ者だろう。信乃は与四郎犬に跨り、伏姫と八房の関係を想起せしむる。一般男性より遙かに雄々しい女性/音音が登場する八犬伝、傾城水滸伝のように女性たちが武侠に命を懸ける物語世界を構築した馬琴であるから、筆者としては八人のうち二人が真の女性であっても構わないと思うし、逆に、伏姫との関係を示すため女装なんてする必要もないと思う。いや其処に馬琴の趣向があった、とも言えるのだが、犬夷評判記稿料に於いて信乃・毛野の二人が「男子にして女子、女子にして男子」であると定義されていることを思えば、二人に最も濃く投影する伏姫も「男子にして女子、女子にして男子」であったのではないかと疑える。

 

 同工異曲の悲劇が繰り返され、二度目の登場人物の一方が玉梓の後身であるならば、残りの一人は金碗八郎の後身ではないか。伏姫が切腹したとき腹中から犬士の精が迸り出て八玉が後を追った。対して、八郎が切腹したとき、腹中から玉梓怨霊が漂い出た。同時に八郎さえ存在を知らなかった息子の加多三こと丶大が登場する。実際には此のとき丶大は数えで五歳だったようだが、物語上は八郎の切腹と同時に誕生したとの印象を読者に与え得る。切腹した八郎の腹中から漂い出た玉梓怨念は十年ほどの後、玉面嬢を経て八房に憑依した。玉梓の後身となった八房は、伏姫と配偶し浄化され相感し、八犬士の精を成した。犬士の精は八房と伏姫の間に発生した。

 

 牡犬となった玉梓が、美姫となった八郎を{おそらくはドッグ・スタイルで}陵辱しSodomy/獣姦の悪徳に耽ろうとしたのだ。「女はよろづあは/\しくて三界に家なきもの、夫の家を家とすなれば百年の苦も楽も他人によるといはずや」を言い訳に、男を乗り換え富貴を極めた玉梓/八房にしてみれば、伏姫が犬との配偶を受け入れるとは想定し得なかったであろう。拒絶し泣き叫びつつ牡犬に犯される美姫を妄想し、八房/玉梓は昏い欲望を燃え上がらせたかもしれない。且つ、犬との配偶という異常事を押しつけ拒絶させ、「ほぉら、綺麗ごとばかり言っといて、所詮オマエ等もアタシと同じなのさ」と決め付けたかったのかもしれない。最近でも繁く見かける心性だ。

 しかし折角、異常事を押しつけたものの、相手が悪かった。相手の伏姫も異常だったのだ。悲しみながらも伏姫は、父の言葉に背いてまで、自ら進んで犬との配偶という最悪の事態を受け入れた。拒絶さるべき理不尽な要求を突き付け、相手の拒絶を以て矮小化し貶めようとする愚劣卑怯なる計画を頓挫させられた玉梓は更に、心ならずも伏姫の読経によって浄化されてしまう。誇り高き伏姫を最悪の状態で強姦し陵辱し尽くし無価値な存在に落とし込もうとした玉梓は、ただ只管に食物を貢ぎ奉仕し尽くす者となり、伏姫を崇拝するに至った。勧善懲悪の真骨頂である。元々が淫婦の玉梓であれば、元々が勇士であった伏姫の逞しい腕の愛撫に身を委ね雄々しい口づけに恍惚とし激しい腰遣いに我を忘れたいと庶幾ったかもしれない。愛なぞ恐らく信じず、ただ富貴のために男を乗り換えてきた玉梓が、伏姫には愛を向けるに至った。強姦願望を抱いていたときには決して手が出せなかったわけだが、其の願望が消滅したときにこそ、皮肉にも、玉梓/八房と八郎/伏姫は、相感した。伏姫が望んだことではなかったが、結果として、【犬士の精が出来ちゃった】んである。胎内への悪の侵入を伏姫は拒絶しおおせたが、玉梓が悪ではなくなった途端に拒絶しきれなくなった、と言ってよかろう。

 

 金碗八郎孝吉の後身が、伏姫である。玉梓の後身が、八房である。「よろづあは/\し」いとする玉梓の主観的立場を否定して糾弾し刑戮した八郎は、伏姫へと転じて、玉梓の後身たる八房に略奪される……いや、伏姫は八房に自らを略奪させるのだ。如何な富貴の者にも嫁げたであろう伏姫は、総てを捨てて八房と配偶することを自ら決断した。もしも伏姫が配偶を拒絶し逃亡し捕らえられ配偶を無理強いされたとしたら、伏姫も玉梓が主張した「あは/\」しい女人としての立場を体験し承認するに至ったかもしれないが、自ら決断し八房と配偶したのだから、立場は逆転する。自分の立場は元々「あは/\」しいからと玉梓が安易に身を委ねた流れに抗し、瀑布を遡る如き雄々しく野蛮な伏姫の姿は、まさに龍女を彷彿とさせ、観音の化生に相応しい。これこそが、ヒロインである。そしてヒロイン伏姫の魂には、ヒロイズムに耽溺した八郎からの遺伝もあろう。また逆に、伏姫は観音菩薩の化生であるから、或る時は義士たる八郎となり、また或るときは美少女たる伏姫の姿をとり得た。観音は、雑多な三十三の姿に現じ、衆生に真理を気付かせる存在である。且つ「化生」は、観音そのものではないので、俗世の事情に束縛され翻弄されてしまうのだけれども、指向性が観音なので、真理を示すためならば、簡単に死んでしまう{但し八犬伝に於ける「真理」は純粋な仏理法則ではなく馬琴一流の勧懲論理に従うため、伏姫・八郎の切腹は安易に流される優しい善い人とやらと佞人の馴れ合い共犯関係を否定するものではあるが}。但し、伏姫が観音として完成するのは、何度も言うようだが、毛野が第二次五十子城攻略を果たしたときであった。

 且つ、七夕の日に、濃萩{の一部}として八郎と再会し其の場で引き裂かれた大輔は、伏姫となった八郎と、富山で再会する。八郎・濃萩{の一部}として再会した二人は、伏姫・大輔として三度出逢うのだ。一方、八郎は、まずは七夕、自ら切り裂いた腹から玉梓怨念を漂わせ、再び七夕、伏姫として、浄化された玉梓と相感して成した犬士の精を噴出するのだ。……こうなると、もう、個有名は無意味だ。とにかく、引き裂かれ、再び愛し合う、とのストーリーを繰り返す二つの魂、としか謂いようがない。引き裂かれて終われば、バッド・エンド。愛し合って終われば、ハッピー・エンド。ハッピー・エンドが勧懲の基本ではある。

 八犬伝は如何か。実質的なラストを、丶大が巌室に籠もった場面、伏姫と寄り添う挿絵と見れば、ハッピー・エンドと言える。「大輔も夫ではない」と宣言した伏姫だが、丶大を受け入れたのだろうか。また、もう一つ想定し得る隠れた愛を成就したとも思いたいが……。

 

 伏姫は、宿世で金碗八郎孝吉であった。其れが七夕、八郎が玉梓に看取られて切腹する意味であり、恐らくは此の意味を隠微に告げるべく七夕、富山で伏姫が切腹してみせる。八郎の唐突な切腹は、伏姫降誕の前提である。玉梓は笑ましげに、未来の妻となる八郎を眺め見る。元は淫婦と勇士だった所の牡犬と美姫が、八犬士の精を結実させた瞬間とは即ち、両者の相感/合体が完成し決着した刻に外ならない。七夕に別れ/\となった八郎と玉梓は、伏姫・八房として再会する。八房の望みのみに任せた【不完全な婚姻】は、八房が浄化され伏姫が受け容れた瞬間にこそ【完全な婚姻】へとシフトし、八犬士精が七夕の空へと奔出することによって完成した。伏姫と八房は、此処に於いて、神となった。

 

 伏姫は八郎であるから、金碗大輔孝徳と婚姻すれば、宿世の父であった者を姦することになる。しかし幽霊が登場する八犬伝では、霊魂は不滅であることを作品の前提としているかもしれず、且つ宿世の記憶を霊魂は喪うとするならば、宿世で父だった霊魂をもつ女性と配偶することは当然、あり得る。別に驚くことでも、現代の感覚で変態扱いする必要もない。とりあえず心と肉体は別物として考えておく、というのが前近代であったろう。抑も八犬伝では、犬士は宿世で実体がなかった。精だけだったんである。伏姫が割腹したとき、胎内に可愛い犬の赤ちゃんはいなかった。あくまで精気/霊魂のみが奔出したのであって、色々な事情があって、所生の母の胎内に宿り、それぞれ個人としての記憶を蓄積してきたのだ。

 また大輔/丶大に対する八犬伝での扱いは、犬士の義父すなわち八房/玉梓の後釜である。一方、犬士にとっては、宿世の実父が八房であり実母が伏姫となる。但し馬琴が八房を玉梓の後身と規定しているから、玉梓を八房の宿世と言い換える。同様に、八郎を伏姫の宿世とする。よって、犬士にとって、宿々世の父が八郎、宿々世の母が玉梓となる。実は宿々世では、宿世の父が宿世の母を殺していたのだ。此は然り気なく、信乃の父である番作さんが手束を殺しかけた話に繋がるのだろう。そして、大輔/丶大は、伏姫の宿世である八郎の実子であり、犬士にとっては、宿々世の父が濃萩に生ませた腹違いの兄であって、宿々世の義兄とでも謂うべきか。同時に大輔/丶大は、犬士にとって宿世の義父でもある。また、玉梓の後身である八房が、八郎の後身である伏姫と婚姻したのであるから、大輔にとって、玉梓は義母の側面も有するようになる。

 ちなみに上で便宜上、母とか父とか云っているが、精確には【親】と表記した方がよい。基準点から見て一親等上位にある、ぐらいの意味である。それぞれの世代で男であったか女であったかにより、父となり母となっているだけなのだ。玉梓の後身が、牡犬である八房になってしまった時点で、八犬伝の性は揺らぎ、単なる記号と化している。宿世から今生に世を変えリセットしちゃってるのだから、男が女に変生しようと、別に驚くほどのことではない。

 結局、犬士が八郎の子として金碗氏を名乗る理由は、八犬伝が、犬士にとって宿世の母である伏姫の宿世が八郎だと、即ち宿々世の父であると設定しているからこそであろう。{お粗末様}

 

・・・・・・・蛇足・・・・・・・

 

 ところで、神余家から出奔した八郎は、上総の縁者に身を寄せ、娘を姦して妊娠したと知るや堕胎を勧め姿を眩ませた。娘濃萩は、後に丶大となる男児を出産し、失意のうちに死ぬ。八郎は、実は非道い男なんである。しかし人によっては、人情味も感じるだろう。人は、相手が癇癖……完璧に過ぎると警戒して、却って否定したくなってしまうものだ。虚栄心の為せる業である。キレイゴトでは済まない若気の至りを八郎が体験したからこそ、大輔が生まれるのであるし、正義を主張し玉梓を糾弾する厳しい表情にも、人間味とやらが隠されていたかと思い至るのである。読者の反発を回避するための挿話でもあろう。完全なる義士八郎が、何故だか見せる瑕疵は、逆に八郎の説得力を強化するものとなっている。人は論理の正当性よりも、欲望や感情のフィルターを通した説得力にこそ、転ぶ。煩悩ってヤツだ。毛野より道節の方が、感情的な説得に向いている所以である。

 完璧な人間に対してさえ恐らく畏れを抱かないことを、仏教では施無畏と呼ぶ。此を実現する者を、施無畏者と謂い、観音菩薩を指す。完璧な人間にさえ畏れを抱かない者は、完璧である。故に観音とは、完璧な存在、理想的な人間とも言い換えられる。一片の綻びさえ見せぬ伏姫が、観音菩薩の化生である意味は、此処等辺りであろうか。

 そして此の完璧さは、或いは【御姫様】だからこそ許される性格かもしれない。一般に、より大きい暴力を有すると目される男性に於いて、人間性まで完璧であれば、こりゃぁ憎まれるだけだろう。しかし、女性が、より小さい暴力しか期待されない時空間に於いては、人間性が完璧であっても、女性ならば其の弱さを担保に、許容され得る。我慢できなくなれば暴力によって否定できるとの逃げ道が、許容の背景には在る。弱さ故に正義である事を許される場合もあるのだ。しかも世俗のことに無頓着でいられる立場/御姫様ならば、正義であることは、より強く保証されるだろう。

 逞しく生きる庶民にとって、目黒の秋刀魚ではないが、下情に疎い貴人は尊敬される半面、馬鹿にもされ得ただろう。貴人とは両義的な者だ。目黒の秋刀魚が落語として成立する前提には、殿様や姫君が突如として庶民の暮らしを始めたら生きてはいけまい、との庶民なりの自負心があったに違いない。裏返せば、ノブレス・オブリージュ、奇人……もとい、貴人が表現すべきものは、突出していなければならない。特筆すべき【奇抜さ】を有していなければならない。特筆すべきものであるからこそ、稗史のテーマにもなるのだ。特筆に値する……其の為の選良であり、社会矛盾を打破することこそ、貴人は期待されている。「女はよろづあは/\しく」とシオらしい言葉を吐きつつ図々しくも不貞不貞しく男を乗り換えてきた玉梓のイーワケが通用してしまう社会に於いて、其の論理を真っ向から否定する伏姫こそ、真の貴人/ヒロインであった。心の奥底で希いつつも庶民個々人では現実を前に実現し得ない華麗なる蛮行を、実現するからこそ、庶民個々人から集めた富を偏って分配されるのが、貴人である。リスクが大きいからこそ、リスクが弾けるまでの分配が大きいだけのことだ。リスク/労苦を拒否し且つ多くの分配を求めるとは、真の意味で盗人に外ならない。

 

 閑話休題。過剰な正義を体現する八郎に、人間味を加える【若気の至り】エピソード。義に強き者は、愛欲も強いのか。八郎の過剰さを表現するためとも思しき濃萩の悲劇は、果たして、其れだけのためのものか。父の切腹を目の当たりにし、里見義実から大輔の名をあたえられたとき、加多三は濃萩の形見としての性格を、一応は払拭される。大輔として成長し、立派な青年となる。富山に分け入り八房を射殺する。しかし、「打倒したる八房を、なほ撃こと五六十、骨砕け皮破れて復甦べうもあらざれば」{第十三回}と八房の屍を執拗に打ち砕く。【殺】の興奮に取り憑かれたか、八房を妖しの者と思う恐怖ゆえか、はたまた、憎しみか。既に勇士の相貌を備える大輔が、興奮したり恐怖したりするのであろうか。しかし、憎しみ故とすれば、何故か。……八郎の奥底に潜んでいた、濃萩の霊が滲み出たのだとしたら、玉梓/八房は、夫の八郎/伏姫を奪った泥棒猫だ。憎んでも憎み切れぬだろう。男敵討ち、とでも謂おうか。

 上総の片隅で起きた濃萩の悲劇、悲恋は、八犬伝のスケールに於いて、余りにもささやかだ。しかし目立たぬまでも純粋な愛に生きた濃萩、報われぬまでも悪に染まらぬまま生きた濃萩、それは多くの読者の自己像とも重なったであろうが、濃萩の小さな胸に秘めた壮大な物語が八犬伝であるとするならば……。玉梓が口先だけで言い募った「あは/\」しい立場に濃萩は、外ならぬ八郎のため陥れられた。愛する者に見捨てられ、焦がれ死んだ濃萩を救済するための、長大な手続きが八犬伝であったならば、濃萩/丶大に、八郎/伏姫を愛し尽くす長大な時間を与えるためのものならば……。勿論、馬琴の真意が上の如きものだと強弁したいわけではない。七夕の暁天、筆者の脳裏に思い浮かんだ、ひとつの物語に過ぎない。{お粗末様}

 

 

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