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嘉吉三年七月廿一日将軍義勝公馬より落ちて早世し給ふ。御舎弟義政公八歳にして家督を嗣ぎ給ふ。爰に故左馬頭持氏の末子永寿王殿は鎌倉滅亡の時御乳母に抱かれ御所を紛れ出でて信州の山中に落着きたり。郡の安養寺の住僧は乳母の兄なりければ甲斐々々しく取隠し大井越前守扶光は譜第の御家人なり。之に語りて諸共に心を合せ深く忍びて養育し軈て元服させ奉りて成氏とぞ号しける。結城七郎氏朝が末子は氏朝が甥に結城四郎氏家といふもの一族歿落の時此小児を抱きて城中を紛れ出でつゝ常陸国筑波に落行き所縁に付きて育てける。既に十四歳になりしかば元服せさせて結城四郎成朝と名乗らせ時運を待ちて居たりし所に近年京都将軍家の興替・諸国の逆浪に依つて関東の有様穏ならず。然る所に鎌倉管領上杉安房守入道長棟の子息右京亮憲忠は父と同じく剃髪して伊豆の御山に閑居し世を遁れておはせしを上杉の執事長尾左衛門尉昌賢呼び出して管領とす。持氏の末子成氏信州におはしますと聞きて長尾昌賢東国の諸将に相談して鎌倉に入れ参らせ関八州の公方と仰ぎ奉り禁中の天気を伺ひ左兵衛督に任じ正四位下に敍せられ鎌倉の御所再び栄え群俗其徳風に帰すること霜を開きて春台に上るが如く彼法政を窺ふこと田を耘りて時雨を待つに似たり{鎌倉管領九代記}。
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