■成就してはならない敵討ち■
 
 第九回で足利成氏は、里見義実を治部少輔に推挙だけして退場する予定だった。其れが何かの都合で信乃と直接絡んでしまい、やがて南関東大戦に関東管領側として参戦する。
 当初、二三年のうちに完結する予定であった八犬伝は、中抜けはあるにせよ、二十八年にも亘って書き続けられた。根幹は変わっていないとしても、構想が膨らんでいったと考えられる。第九回で成氏が義実を治部少輔に推挙した理由は、「持氏の末子成氏朝臣、鎌倉へ立かへりて、はや年来になりしかば、このとき滝田へ書を贈りて、一国平均の功業を称賛し」……要するに、安房がよく治まっているからこその推挙であった。大塚蟇六が匠作・番作の余慶で村長に取り立てられているところからすれば、持氏恩顧の武士に施した恩典の一環にも思えるのだが、結城合戦のユの字も出てこない。馬琴は、必要最小限しか成氏と里見家を関わらせたくなかったように思える。
 八犬伝冒頭に於いて、里見治部少輔季基が戦死し、鮮烈な印象を放った。このとき季基は、自らの死を以て、里見家が関東足利家と無関係になると宣言した。対して犬塚番作は、春王・安王への忠節を抱き続け、成氏を主君となるべき者とは認めていない{→▼}。蟇六とか周囲の者が勝手に、成氏を信乃の主筋だと考えているだけだ{第二十四回}。元より八犬伝は、片務的な忠といった幼児的幻想は相手にしない。但し、番作は成氏への忠を抱いてはいなかったものの、例えば番作が大塚家の家督を継いでいたら如何だろう。大塚は関東管領の采地となった。番作は、春王・安王の仇に支配されることになる。文脈からすれば、此は番作が潔く受け容れられる事態ではない。実際には仇の采地に在りながら、番作は宙ぶらりんの浪人身分として生きていく。番作は、仇の支配を直接には受けなくて済んでいる。番作・手束の貧窮は物語を味わい深くするためだけではなく、「仇の支配を受けている」と口の悪い読者に後ろ指を指されないためにも必要であっただろう。【作者の用意】だ。義実・信乃の事例から、八犬伝に於いて、忠は子孫に継承される必要がないことは自明である{河鯉孝嗣・犬飼現八の例から明らかな如く、主君の暗愚など条件が満たされれば本人さえも忠を解除できる}。
 
 足利成氏が関東公方に就任した経緯が八犬伝で如何に描かれていたかを振り返る。八犬伝が初めて成氏公方就任を語るのは第九回である。安西景連を滅ぼし安房の国主になった里見義実が、成氏の口添えで治部少輔に補任される条だ。「いぬる嘉吉三年に長尾昌賢執なして鎌倉へ迎へ入れ管領になしまゐらせて、はや十余年を経にけれども……中略……成氏の事九代記に見えたり。この下に話なし」{第九回}。まるで結城落城の二年後、嘉吉三年に成氏が公方になったよう書いている。かなりゾンザイだ。しかも以降、成氏は登場しないことになっていたらしい。
 この御座なりな表現が第十六回では幾分か丁寧になる。「かくて亀篠は情願の如く蟇六と夫婦になりて一両年を送る程に、嘉吉三年の比とかよ、前管領持氏朝臣の季のおん子永寿王と申せしは鎌倉滅亡のとき乳母に抱れ信濃の山中に脱れ給へば郡の安養寺の住僧は乳母が兄なるをもて精悍しくとりかくし譜第の近臣大井扶光と心を合して年来養育し奉る、と鎌倉に風聞せしかば管領憲忠の老臣長尾判官昌賢これを東国の諸将と相謀り遂に鎌倉へ迎とりて八州の連帥と仰ぎ奉り則元服させまゐらせて左兵衛督成氏とぞまうしける」{第十六回}。
 第九回と比べ第十六回の記述は、やや詳しい。此の段階まで馬琴は、足利成氏の公方就任が嘉吉三年だと思っていたようだ。また、「大井扶光」と表記されている人物は、信濃国守護代格の大名で、一般には「大井持光」と表記される者であろう。「持」を「扶」とした意図は解らない。取り敢えず、字形は似ている。参照した書物が粗悪であったか馬琴の記憶違いか、意図的か。因みに筆者の参照した鎌倉管領九代記も、「扶光」になっている。しかし、「嘉吉三年」に就いては、恐らく馬琴の記憶違いであっただろう。うろ憶えによる勘違いってヤツだ。
 第十六回の記述は、大塚番作の姉亀篠が蟇六を入り婿にして大塚家を嗣がせた経緯の中で語られる。折しも蟇六が大塚家を嗣いだ一・二年後、嘉吉三年には足利持氏の遺児成氏が鎌倉に返り咲いて「八州の連帥」/公方に就任したため旧臣を呼び集めた。蟇六も申し出たが、人品が卑しかったか、武士には取り立てられず村長となった。
 第二十四回には、「さても足利成氏朝臣は持氏のおん子にて、むかし結城落城の後討れ給ひし春王安王の弟なるが、成氏尚永寿王と称せられし宝徳四年の春、京都将軍の恩免を蒙給ひて鎌倉に立かへり六代の管領なりしに」となっている。然り気なく馬琴は、成氏が公方に就任した年を「宝徳四年」に訂正している。嘉吉三年の九年後だ。此処では成氏が信濃に隠れていたとか何とかには触れていない。また此の部分は亀篠と蟇六が、信乃から名刀村雨を騙し取ろうと相談している場面だ。亀篠と蟇六は邪魔者の信乃を滸我に追い遣ろうとしている。彼等の思惑通り、そして信乃としては番作の遺言を履行するため、滸我へ向かう。足利成氏が、厭でも登場することになり、南関東大戦では里見家と敵対するに至る。九回で「この下に話なし」と宣言された成氏の再登場が、遅くとも第二十四回執筆時迄には、いや、恐らく十六回執筆時には決定していたことが判る。
 
 妄想を膨らませれば、本屋に責め苛まれながら八犬伝を執筆していた馬琴は、当初、足利成氏を主要登場人物にする気がなかった。しかし十六回執筆時迄には気が変わって、信乃物語に成氏を登場させる構想を持つに至っていた。しかし参照した鎌倉管領「九代記」の記述内容はウロ憶えだった。第十六回の記述は鎌倉管領九代記に酷似してはいるし「嘉吉三年」との表記も共通しているのだが、成氏の公方就任は嘉吉三年ではない。嘉吉三年ごろに成氏が信濃で匿われていることが公となって、関東武士の間で、成氏を関東公方にする運動が始まったようなのだ。馬琴はストーリーこそキチンと把握していたのだが、ウロ憶えだったため、記憶にある「嘉吉三年」なる年号を、公方就任の時期だと勘違いしていたのだろう。十六回で九回より詳しく成氏に言及している理由は、成氏を本格的に登場させる下心があったからだ。本来ならば十四回ほどで一段落がつく筈だった。急に十回纏まりにされ構成を立て直したりするうち、成氏の再登場も決まった。しかし十六回執筆時点では時間が無く、ウロ憶えのまま書き殴った。どうせ稗史だ、精確な記述ではないと重箱の隅を突いてくる奴こそ野暮チンなのだ。そして二十回分までの原稿を校正する間もなく本屋に奪われた。多少の時間が出来た馬琴は鎌倉管領九代記や鎌倉大草紙など関連資料を読み返した。すると成氏の公方就任は「嘉吉三年」ではなかった。のひょぉぉん、と悔やんだが後の祭り、二十四回執筆時に然り気なく訂正しておいた。
 
 八犬伝に於ける、成氏公方就任に関する最後の記述は第百五十二回、地の文に現れる箇所だろう。成氏幼少期に関する決定稿だ。「嘉吉のむかし結城落城の後、成氏の両兄春王君安王君は擒となりて垂井の金蓮寺にて害せられけるに、成氏のみ恙なくて忠義の旧臣に拊養せられて世を潜びて在せしを、長尾入道尚賢(景春の父)が執立まゐらせて鎌倉に居奉り京都将軍(義勝)に願ひ稟して、則成氏を関東の管領と仰ぎたりける」{第百五十二回}である。「嘉吉三年」も「宝徳四年」も「大井扶光」も抹消されている。ただ、成氏が結城陥落後も生きており、忠義の旧臣に扶養されるうち、長尾入道尚賢/昌賢の主導で公方に就任した、となっている。ストーリーは十六回以降変わっていないが、アヤフヤな年号や固有名詞が姿を消し、表記から固有名詞や年号を削ぎ落とし大雑把にして「間違いではない」記述を心掛けたようだ。そもそも稗史だから、京都幕府存続期間の真ん中ぐらい、全国戦国時代が本格化する直前、関東戦国時代が始まった頃、ぐらいだとの雰囲気さえ漂えば良い。細かいことは、必要ない。ただ、時代の雰囲気を伝える記号として、天皇・将軍・年号の何連かは表記したい、との欲求も解る。……馬琴は、此処でもミスを犯してしまっている。「京都将軍(義勝)」は嘉吉二年に就任し嘉吉三年七月に死んだ。享年十歳。建内記なんかでは、足利持氏らの怨霊に祟り殺されたことになっている。第百五十二回の記述で、「義勝」二字の為、成氏公方就任が「嘉吉三年」に戻ってしまう。折角、二十四回で訂正したのに。馬琴は、またしてもウロ憶えで書いたに違いない。成氏公方就任時の京都将軍は、八犬伝でも無責任大御所として登場する足利義政である。
 
 また一方、成氏が鎌倉に居られなくなった理由に就いて馬琴は、第九回で「故ありて」としか書かなかったが、第十六回では「享徳三年十二月、鎌倉には成氏朝臣、亡父の怨敵なればとて、管領憲忠を忻よせて誅せらる。是より東国再び乱れて」と、やや詳しく記した。十八回では、既に説明したからか、「鎌倉の成氏朝臣は顕定定正の両管領と中わろくなり給ひて」、二十回には「さる程に鎌倉の武将成氏朝臣、京都将軍とおん中よからず。両管領に攻られて許我へつぼませ給ひしかば」、更に巻を替えた二十三回でも「成氏朝臣は両管領山内顕定ぬし扇谷定正ぬしと不和にして、鎌倉のおん住ひかなはせ給はず」と、ボカし続けている。
 馬琴は、第九回で用済みとした成氏を再登場させるに当たって最小限のキャラクター説明をしたが{第十六回}、上杉憲忠を殺した点を殊更に強調しようとはしていない。「中わろくなり」で済ませている。当初馬琴の構想で八犬伝は七回を一単位としていたが、本屋の求めにより序盤途中から十回を一単位にするよう変更したと思しい。第三輯辺りまで後遺症が残っているようだ。九回で用済みとした成氏は、十四回までは主要登場人物として馬琴の脳内に居なかったのではないか。十五回以降を執筆するに当たり、当初の構想を大きく変えたため、成氏の存在感が大きくなったのだろう。
 
 また、百五十二回、扇谷上杉定正にとってさえ不可測だった、成氏と里見家の敵対が決定する。決断した成氏の論理は、義を忘れ利に就く横堀在村の言葉で代弁されている。
 若い頃、成氏は、ただ「父兄の怨」によって関東管領を殺した。ために関東は戦国期に突入した。近世に於いて、父の仇を討つことは、許容されていた。しかし成氏の場合は、前段として其の仇によって擁立され関東公方になった経緯がある。立場が一捻りしているだけに、素直な敵討ちにはならない。ってぇか、「父兄の怨」上杉家に擁立された時点で、仇討ちの資格は喪失している。しかし、「父兄の怨」を何故だか討った。為してはならぬ仇討ちであった。だからこそ馬琴は、成氏を悪玉の列に入れた。巻之三十三簡端附録作者総自評の論理である{→▼}。悪玉とされた成氏は、八犬伝に於いて里見季基が春王・安王に殉じた義を忘れ利害に眩み、里見領侵略に荷担する。結局、上杉憲忠を暗殺した動機も、孝や悌ではなく、旧臣と密室で舐め合い自らを正当化し、且つ肥大化し立場を弁えず、我が儘に振る舞うため邪魔な管領を排除しただけに思えてくる。真に孝悌を知るならば、父の側に立ち兄に殉じた里見家と敵対できよう筈がない。犬並みだったか、馬琴の嗅覚は。復讐を是認さるべきものか否かを峻別した。語彙内包の広がりと重なりを悪用する【政治的語用論】なぞ馬琴に懸かっては、児戯に等しい。
 
 馬琴の脳内には、復讐に関する制限が存在している。此の点は甚だ重要であって、偉大なるピエロ犬山道節の描き方にも関わっていよう。道節は、序盤に円塚山で出現した時から終盤の南関東大戦まで、一貫して扇谷上杉定正を付け狙うが、失敗に終わる。道節に復讐を完遂させるわけにはいかなかったのだ。第八十六回、信乃に復讐計画を漏らした道節は、言下に反対された。馬琴の戦争に対する微妙な姿勢が明らかになっている。信乃を通じて表明された馬琴の主張は、A「君父を討った武士二人は既に殺したので満足すべきだ」/B「小さな勢力である豊嶋煉馬が大勢力である上杉家から離反した帰結だから怨む筋合いではない」/C「里見家に仕える約束があるにも拘わらず自身の身を大切にしなければ、里見家への忠に悖る」の三点に要約されよう。
 Aからは、戦争であっても実際に君父を殺した個人への復讐は禁じていないことが判る。道節は、既に復讐を果たしている。「復讐」と云えるのは、せいぜい此処までだ。敵の大将定正を殺すことは、お門違い、なんである。理由がBだ。豊嶋・煉馬と上杉とが対立した経緯は第二十二回に書かれている。豊嶋一族は、元々両管領家に従っていたが、怨を抱いて疎遠になった。山内上杉家から独立しようとしていた長尾景春に誘われ、豊嶋一族は上杉家への離反度を高めていった。両上杉家は豊嶋一族の勢力が大きくならないうちに滅ぼそうと考えた。即ち政治レベルの話であって、しかも豊嶋一族が離反する正当な理由は明記されていない。豊嶋一族は、政略の拙さ故に滅びたのだ。また、八犬伝で宿命なるものは個人ではなく家筋全体に降り懸かるものだから、当該家筋が置かれた現時点での状況/時勢は、個人単位の感覚では予測不能であり個人の力では如何ともし難い。如斯き世界観のもとでは、【時勢】に抗する術はない。こういった場合、馬琴は復讐を認めないらしい。馬琴の構築した八犬伝世界では、善玉から排除されない限り、即ち善玉である以上、道節は定正を殺せない。
 但し【忠】の犬士である道節は、政略が拙い故に自滅したといっても、煉馬倍盛の仇を討ちたいと願わねばならない。ヘラヘラ笑って、「あぁアイツ馬鹿だったから、自己責任っすよ」とは云わない。理由は如何あれ、道節は定正を憎み続ける。理不尽な復讐に血道を上げてしまう道節が「忠」を体現しているとすれば、忠とは甚だ厄介な性質をもっている。
 
 考えて見れば、忠とは理不尽なものだ。「主君の為に…」と云うのは実のところ、【責任転嫁】に過ぎない。「主君の為」なら、如何なる理不尽も犯す。「滅私奉公」とは能く云ったもので、忠は「私」を消去してしまう。全責任を主君なり何なり忠の対象にオッ被せ、良心の呵責を回避して、虚偽を塗り固め掠奪を恣にし残虐を尽くす。他者を犠牲にすることは元より、自己犠牲なる究極の理不尽まで犯してしまう。主君の側からすれば、実際の犯行に及ばぬことで良心の呵責を感じぬまま利得を獲ることが出来る。何連の立場を強調するかは、単に論者の立場による。
 
 馬琴が金碗八郎と道節の言葉を通じて忠の典型例として挙げた予譲を思い起こす。予譲は結局するところ主君の仇を討てなかった。予譲に就いては執拗な程に述べてきたから詳細は略するけれども、予譲の説話は忠を、対象への作用反作用関係をもとにした精神状態であることを示し、例えば倒すことが不可能なほど強大な相手であっても立ち向かい続けることで表現している如く忠が【無限大のパッションによる暴走】との側面をもつと語っている。忠の典型例である予譲は、既に亡んだ故主/智伯に報いようとする。既に亡んだ故主の仇を討つ以上、当然として、達成しても報酬はない。また、より重要な側面として、【達成しても故主が甦るわけでなく故主には何の利益ももたらさない】がある。彼岸世界が実在するとして、故主が仇の殺される場面を見て喜ぶとしても、其れだけのことだ。生き返るわけではない。復旧は、不可能だ。しかも忠の典型例たる予譲の場合、趙襄子暗殺に失敗する。趙襄子から請い受けた衣を貫き、満足して死んだ。結局、予譲は【此処まで頑張って尽くしたんだから冥界の智伯も満足してくれるだろう】と満足して自害したのだ。しかし、智伯が満足したか如何かは判らない。予譲が憶測もしくは妄想しているだけの話だ。即ち【忠】は本質として、歪んだ【自己満足】に過ぎない。
 八犬伝にも名前ぐらいは登場する晋文公重耳に就いて、栗鼠の頬袋初版から指摘してきた如く、良質な忠臣は主君に道を踏み外させない諫臣の側面をもつ。典型…といぅより極端な迄の例として、重耳なんて取り巻き連中に引き摺り回されている印象が強い。田舎でヌクヌク満足している重耳を掠奪し冒険に放り込んだのは、彼の家臣団であった。真の忠臣たちにとって、主君の希望なんぞ実は如何でも良い。主君を天命に従わせねばならぬ。主君は社会の為にこそ存在しており、決して逆ではないのだから。忠は、元々主君個人の希望を通させてやることではない。天の声を伝える者が【君】であって、天に悖る声を発すれば諫臣が是正もしくは粛清して遣らねばならない。そして【天】とは、せいぜい集団内で大まかに共有されている良識なり理想なりであって、仲々にアヤフヤなものだ。個々人でズレもあろう。よって、やはり、忠とは【自己満足】に過ぎない。
 
 忠とは、【対象に全責任を転嫁しつつ自己満足に浸る精神状態もしくは指向性】を謂う。現代風に具象化するならば、セル画を見詰めながら「こんなに可愛い君がイケナイんだ、はぁはぁ」と自慰る美少年少女あたりか。彼等こそ、忠臣の正統な末裔である。
 
 永享乱・結城合戦とも持氏および遺児が起こした。叛乱を起こし敗れて殺された。当たり前だ。しかし足利成氏は父の仇だとか何とか言って、関東管領山内上杉憲忠を暗殺した。成氏は上杉家に擁立されて関東公方に据えられた。此の時点で父兄を裏切っていた事になり、仇を討つ資格はない。擁立されたのだから怨みを呑み込んでいた筈だ{実際のところ成氏は永享乱時の関東管領上杉憲実が復帰し補佐してくれることを望んだ}。よって成氏の為すべき事は只、関東平和の希求のみであった。其れが彼の「時務」である。しかし成氏は憲忠を殺し、乱を引き起こした。余りにも感情的で我が儘だ。何かと屁理屈をつけて恣意に走る、自分の「我」が儘だけは「許」すタイプだ。なるほど【許我】御所とは、よく云ったものである。テレビ好みのキャラクターだろうが、稗史では善玉になれない。
 似た奴が犬士にも紛れ込んでいる。犬山道節だ。犬塚信乃に正当性がないからと止められたにも拘わらず、扇谷上杉定正を狙い続けた。道節も感情的で我が儘なタイプだ。が、幸いにも彼の仇討ちは失敗し続ける。成就してはならない仇討ちだからだ。道節が定正を狙ってジタバタするのは、彼が君父の仇を討とうとする気持ちを持ち続けている証明に過ぎず、馬琴はハナから成就させる気がないのだ。
 
 信乃が道節を止めた論理は、極めて現実的なものであった{第八十六回}。信乃は道節に対し、里見家に仕える約束がありながら危険に身を投じることを「忠なりとても義に錯へり」と諭している。時に当たって為すべきことを果たさねばならぬと云っているのだ。「時務」であろう。此の場合は、里見家に仕えるまで我が身を保全することだ。そして、文脈から、忠であっても「義に錯へ」たら、否定されることが判る。忠には、「義に錯へ」るものも含まれており、全面的には肯定されない。君父への過剰な愛、其の裏返しとしての、燃え盛る仇への過剰な憎悪が、忠であろうか。火気犬士道節は、自ら制御できぬ復讐心に身を焦がす。
 道節には仲間がいた。道節より賢い犬阪毛野や信乃らが争友となって制御した。一方の足利成氏は、関東公方であった。我が儘放題であったのか、下河辺行包あたりが諫止できれば良かったのだが、「時務」を忘れた成氏は上杉憲忠暗殺に突っ走ってしまった。成してはならぬ復讐を遂げたため、成氏は馬琴によって筆誅を受けることとなった。道節としては不満であったろうが、定正を殺させなかったのは、馬琴の親心であったと知れる。
{お粗末様}

 
 
 

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