■天命と時勢■
 
 此れまで執拗なほど述べてきた如く、八犬伝後半で重要な位置を占める政木大全/正木大膳は、八犬伝の外で徳川家康の側室だった万に繋がっている。万は縷々述べてきた如く、紀州徳川家の源流である。紀州徳川家から宗家に入った吉宗の系譜が、八大……もとい、八代から十四代まで将軍職を独占する。将軍の数では半分足らずだが、期間で云えば幕府存続期間の過半に当たる。当然、八犬伝刊行期を包含している{「準犬士・政木大全」参照}。且つ、安房里見家は源姓新田流で南朝方に連なっていた。太平記で南朝方の最有力武将として描かれる新田義貞は、「東照宮大権現縁起」などに於いて、足利尊氏と戦った折、自分の子孫が征夷大将軍になると宣言した{「日光神領猿牽」参照}。徳川家康は源姓新田流を名乗っていた。また政木/正木家は八犬伝に於いて、途中で断絶し里見家から当主を迎えている{第百八十勝回大団円}。龍に愛された家同士であったため、天命の継承も成立する{「双頭の龍」参照}。此等の八犬伝作中事実から、里見家が徳川将軍家、就中、八代以降の源流として設定されていることは論を俟つまい。
 
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政木大全殿して敵十五騎を斫て落して主を拯ひし勇士なれども、生平に強飲なりければ、義弘の世を去りし比、政木時綱は吐血して暴に死けり。嗣べき児子なかりしかば、大田木の政木は絶たり。這故に義頼の弟里見箭九郎を政木氏の名跡にして政木大全義嗣と名告せて、安房の館山の城并に采邑一万貫文を賜ふ{第百八十勝回大団円}。
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 里見家が徳川将軍家の投影である以上、足利将軍家への従属を明記するわけにはいかない。天命を受けるべき聖別された存在……の虚花だからだ{徒花だから本花の徳川将軍家が確立してしまえば消滅する運命にある}。如斯く考えれば、八犬伝が眼前の幕藩体制を否定し最大与党の幕府と雄藩の連合政権を構想したと考えることを否定する材料にはならないものの、里見家を例外として扱うべき積極的な理由があることが判る。八犬伝の里見家は、徳川将軍家の虚花である。
 
 但し八犬伝に於ける偉大なる創業者/義実・義成は、確かに称揚されているが、里見家は徐々に徳を喪い十代で滅ぶ。徳川家康を継いだ徳川宗家は七代にして滅ぶ。里見家と縁ある紀州徳川家出身の吉宗が、八代将軍となる。【龍の寿命も有限】らしい。此の場合の「龍」は、特定の家筋に認められる、権を執る資格と言い換えても良い。
 結城合戦で敗れ龍王の剣/村雨{「相当の龍」参照}を手放したとき、関東足利家は、天から見離されたのだ。十四回で一纏まりだった当初の八犬伝で、第十五回に於いて村雨が初めて登場し、第十六回では、第九回で退場した筈の成氏が重来して最後まで居座り続ける。十四回までの構想と、十五回以降の構想には開きがある。或いは、龍王の剣を廻る物語構想を思い付き、成氏を本格的に活用しようと考えたのかもしれない。
 
 八犬伝に於いて、史実を全く無視してまで関東足利家と里見家を敵対させ、且つ関東を日本から切り離し一個の完結した世界とした馬琴の下心は、里見家を足利将軍家よりも優れて王たる要件を満たす存在だと主張する所に在った。また其の所以は、里見家が八代以降の徳川将軍家に繋がる事実に拠る。しかし、八犬伝の射程は、里見家を通じて八代以降の徳川将軍家に手放しの賞賛を与えるような、幇間流ではない。八犬伝で「将軍」は、実際の徳川将軍家と違って、天皇の意思を完全に肯定し貫徹させる純粋な臣下として描かれている。
 八犬伝終盤で、昇・叙任を通じて里見家は天皇と直接繋がる。則ち、里見家は幕府の統制下から離脱するのだが、此の昇・叙任は将軍からの執奏に依り、天皇が独自の意思も加えて、決定したのだ。言い換えれば将軍義尚は、自らの影響下から南総七十万石を離脱させる決定に参与したことになる。このような将軍が、天皇の意思に逆らうとは考えにくい。前に「純粋な臣下」と云った所以である。
 ふと八犬伝から目を上げた読者が支配者として意識する徳川将軍家と、作中の室町幕府は重ね合わせられてはいるのだろうか。即ち、馬琴の理想とする征夷大将軍とは、天皇を凌辱する者では決してなく、純粋に臣下の礼をとる者であったか。但し、此の場合の天皇も理想化された存在であって、女閲内奏を許す賞罰正しからざる暗愚の君ではあり得ない。また、作中の土御門帝は出来もしない親政独裁を夢見るふうもなく、関白を置き百官群議を取り纏めさせている。広く会議を興し万機公論に決すべし、との態度だ。八犬伝でもスポンサーである幕府と連動して里見家の処遇を決定しているし、関東の平和、房総人民の安寧を衷心から願い慶ぶ、あり得ぬほどの善玉だ。後土御門帝が名君であったとは初耳だけれども、八犬伝に於いては【従心所欲、不踰矩】っぽく民衆のことしか心配していない。まさに天そのものの如き理想的な善玉天皇である。
 実際の朝廷は、ちょっと甘い顔したら付け上がるけれども、八犬伝は稗史/歴史小説に過ぎないのだから、理想的な天皇だってアリなのだ。理想的な天皇のもとの理想的な幕府、即ち馬琴にとっての朝幕関係の理念型は、「君臣順逆の義」を守るものであったと思われる。其の延長線上に尊皇倒幕を幻視するや否やは、読者の自由かもしれない。但し、八犬伝には倒幕のトの字もない。あるのは只、徳川の治世も永遠ではないという、不吉な呪詛のみだ。
 
 ところで、善玉土御門帝と賢明な将軍義尚個人は理想的な蜜月関係にあったとはいえ、幕府は荒んでいた。八犬伝第百三十五回、犬士の金碗宿祢姓継承の勅許を求めるべく京都に到着した犬江親兵衛は、情勢を代四郎に調べさせた。八代将軍で今や大御所となっている足利義政の堕落した贅沢ぶりを示すに「珠玉を磨き金銀を鏤めたる甍の価、無慮六万緡、及義政のおん母と御臺所のおん与に高倉の御所を造らせ給ひしに、腰障子一間の価二万銭也」とか云っている。勿論、元々は応仁記あたりまで遡る表現だし、馬琴のことだから応仁記ぐらいは読んでいたであろうが、どうも、それだけではない。応仁記の記述は、壮麗を極めた京の街が応仁の乱で灰燼に帰したことを伝え、落差による乱の悲劇性を強調しているだけであって、義政の贅沢ぶりを批判する視点にはない{→▼}。しかも、馬琴は直前で「僅に五年の間にすら九个度の大礼大饗をなん行れける」とも書いてある。此の論理構成は例えば、新井白石の読史余論の引き写しであろう。
 
 しかも読史余論は、義政が数奇に贅沢を極めた悪影響が白石の生きた十八世紀後半にまで及んでいるとする。義政が四十九年も権を執っていたから足利の世は滅びの道を歩んだのだとまで言い募っている。また、義尚を名君だったと誉めちぎる。馬琴の論理と通底している。
 但し、読史余論は、義尚を名君とし夭逝したことを惜んで治世が長ければ足利将軍家も中興したかも……と歴史に「If」を付けつつも、「然るに兵乱の中に生長し給ひ世をしろしめされし事纔にてうせ給ひぬ。よからぬ東山殿は世をしり給ふ事久しかりし程に天下終に乱れし也。天の其邦家を亡さむとし給ふ時には善者有といへども、いかにともすべきやうなき者とこそ見えたる」と突き放す。天が滅ぼそうとする家は、善人が現れて少々無駄な足掻きをしたところで、やっぱり滅びちゃうのだ。
 抑も読史余論の立場は、神武天皇には天命が降り、そのうち藤原氏に権が遷り、平清盛を経て武家の世となったとするものだ。源家将軍・北条執権・後醍醐帝の建武新政・足利将軍の世と変遷する。実は藤原氏以降、何連の政権にも天命は降っていない。盗み取ったりしただけだ。そして織田信長・豊臣秀吉も同じ穴の狢である。ただ独り徳川家康には天命が降ったと考えていたようだ。
 則ち白石の読史余論は、神武天皇と徳川家康には天命が降ったが、間のウジャウジャいる政権担当者は正当性のない簒奪者に過ぎない、と主張している。白石は幕府官僚であったからこそ、家康への天命降下を主張しているに過ぎないだろうが、なるほど徳川治世の江戸期には、あり得る論理ではあった。しかし此の論理は同時に、天命が降らなくとも権を執る場合がある、ことをも指摘してしまっている。現在でも半分程度の投票率のうち幾ばくか取れば政権政党になるんだから、なるほど、そんなもんかと思う。閑話休題。
 
 近世には儒教が学問を支配していたから、歴史学も儒教の影響を受けていた。儒教に拠る政権変遷史は、儒教道徳に照らして是であれば栄え、非であれば滅ぶ、との政治道徳主義に基づく。しかし読者の周囲でも、糞下らぬ小人が蔓延り善人が虐げられている状況が広がっているであろう。道徳主義史観は、考えるまでもなく破綻している。儒教史学の大先達司馬遷さえ「天道、是邪非邪」と慨嘆している{→▼}。
 
 現実政治を相手に格闘していた白石は、道徳主義だけで政権変遷史が説明できないことを厭と云うほど知っていた。白石は、此の矛盾を説明するため【時勢】なる概念を導入した。天命が降ってなくとも、正当性なぞ微塵もなくとも、時勢に乗れば、政権を執ることが出来るのだ。道徳主義の呪縛から解き放たれた白石は、神武天皇と徳川家康だけを正当な政権担当者として定義することに成功した。間にいる小者どもが何かの間違いで時勢に乗り政権を盗ったって、天命とは関係ないのだ。
 
 八犬伝は当然、儒教史学に連なっている。「昔孔子……中略……又心誅の文法をもて春秋を作るに及びて乱臣賊子は怕れしと云。果敢なき稗史物の本なりとも、学問の余力もてせる真の作者はこの心操を見すもありけり」{南総里見八犬伝第九輯巻之三十三簡端附録作者総自評}は、勧善懲悪の考え方が、孔子に始まる道徳主義史学から派生したと宣言している。史を捩じ枉げても道徳主義を貫徹し勧善懲悪の小説を記すのが、馬琴の仕事である。しかし余りに大きく逸脱すれば荒唐無稽となってしまい、大衆小説であってもリアリティーが確保できない。また、勧善懲悪の論理を際立たせるためには、善人が虐待される場面も必要だし、悪人に跋扈させねばならない。天命は総ての政権に降るものではないし、善良な者すべてに降るわけでもない。
 
 八犬伝の社会観は、例えば、「かくて志気あるものは主を諫かねて身退き、又勢利に憑ものはをさ/\媚て定包が尾髯の塵をとりしかば」{第二回}「媚て勢利を旨とする、そが属役軍木五倍二」{第二十四回}などとある如く、徳と「勢」を対立し得る概念として捉えている。徳なんかなくたって、勢いづき栄える者はいる。また、例えば「時と勢をしるものは堪忍ぶをもて危からず」{第三回}、「定包に従ふもの、みな悪人にはあるべからず。或は一旦の害をおそれ、或は時と勢に志を移すもの、十にして八九なるべし」{第四回}、などなど、「時と勢」をセットにして、やはり徳と対立し得るものだと考えており、いくら正しいことをしても、時勢に乗らねば雌伏を強いられるとの考え方が窺える。「勢」とは当該時の短期に於ける社会情勢であり、絶えず変わる流れの一局面である。もし時勢を無視して滅びれば、「豊嶋煉馬の滅亡は、小をもて大に仕へず寡をもて衆に敵したる愆なるを争何はせん」{第八十六回}と批判されることになる。
 
 また、政木大全の有名な台詞、「君賢にして臣も亦賢なれども、只褊小の国を有ちて、兵馬連帥の大権を執るに由なき者和漢に多かり。是則天也命也」{第百八十勝回上}の「天也命也」は、定まった宿命ぐらいの意味に解すべきだろう。此の「天也命也」系では、番作の慨嘆「禍福時あり、天なり命なり。憾べからず、悲むべからず」{第十九回}が心を打つし、「その罪にあらざるよしを、いひ解れても聴れざりしは便是天なり命なり、又何事をか争ふべき」{第七十八回}などがある。
 一方で類似する字面を持つ「天なり時也」がある。第十二回で、牛飼童が伏姫を諭す場面だ。此方は、宿命を総体として語るのではなく、宿命に於ける部分的期間の状況を指している。他に「遭と不遭は、天なり時也、縦日本国中を、生涯幾遍うち巡るとも、時至らずは遭かたからん」{第七十一回}、「那馬去て這馬来にける、抑得失は天也時也」{第百六十六回}、「成敗は天也、時運の然らしむる所」{第百七十六回}などの用例がある。宿命の中で、時の流れは定まっているものの、個々人にとって局面は予測不可のうちに変化し続けるのだ。また、宿命のもと流れ行く時間の終着駅が禍であれ福であれ、途中過程では、糾える縄の如くに禍福が移り変わっていく。そして、重要な点は、山林房八の義挙が犬江親兵衛を犬士たらしめる八犬伝に於いて、宿命は個々人レベルで完結するものではなく、如何やら家筋単位で決定している。伏姫が不幸のドン底で自殺しても、後に里見家が繁栄すればオッケーなのだ。よって、「時」は、宿命として完結している大河の流れの一断面に過ぎない。結局、「勢」と「時」は、八犬伝に於いても、類似の意味を持っている。
 南総里見八犬伝第九輯巻之三十三簡端附録作者総自評に於いて馬琴は、「持氏の弑逆に逢るは乃祖尊氏の下剋上の余殃なる」と言い切っている。此の一文から馬琴が、足利尊氏の京都幕府創業を肯定評価していないことが判る{かと云って万里小路藤房をヽ大に重ね合わせているところから後醍醐帝を肯定評価していないことも明らかだ}。即ち馬琴にとって京都幕府が権を執っていること自体、【何かの間違い】なのだ。天命に拠らぬ、時勢にのみ依拠した、短期的な過ちであって、修正すべき状況なんである。
 
 そして、「天也命也{/宿命}」と「天命」が全く別物だと示す箇所が、「当郡の民們我を推して、倶に城を守らんと欲す。是天命の帰する処、勢ひ推辞ことを得ず」{第九十九回}だ。蟇田素藤が館山城を奪取する場面であり、本来の「天命が帰する」わけではなく僭称に過ぎないのだが、論理としては、「天命」の表現として人民の奉戴が描かれており、八犬伝に於ける「天命」の内包を知る上で貴重な記述だ。
 
 天命は徳を修めた者に降る。其の時、人民は満ち足りて平和に暮らす。盗人すら発生せず、落とし物をネコババする者もいない。しかし、悠久の時の流れの中では、色々と間違いも起こる。読史余論に拠れば、清和帝即位から徳川家康の幕府創業までの七百五十年ばかり、摂関政治も院政も平清盛も鎌倉幕府も建武新政も室町幕府も織田信長も豊臣秀吉も、【何かの間違い】であった。「時」や「勢」に依る悪戯であった。だいたい白石は哲学者というより史家であって、四書五経の解説書なんて書かなかった。ただ、孫子のみ解釈本をモノした。孫子は、戦術を練るための論理を羅列したものであり、「勢」を重視する。勢とは山から麓まで転げ落ちる石のもつ力積であり、引き絞り会の状態となった弓に秘められたエネルギーである。如何な「時」に相手にぶつけるかが重要だ。また、此の概念はミクロな戦場のみならず、マクロな時の流れを理解するときにも有用である。蓄積した社会矛盾/鬱屈したエネルギーが噴出するとき、鎌倉幕府だって滅ぶ。噴出が「勢」の一例であろう。此の場合の社会矛盾とは、天命を離れた社会に必ず蓄積する鬱屈のエネルギーである。場合によっては幾世代もかけて蓄積する。此の「勢」に乗った者が、権を執る。
 
 「何かの間違い」が何時始まったかに就いて、八犬伝は何も語らないが、取り敢えず足利尊氏の京都幕府創業は、天皇と敵対し打ち破った「下剋上」である故、否定さるべきものであった。正当性なくして政権を執っているのだから、「何かの間違い」以外の何者でもない。天命は足利家には降下していない。対して八犬伝は、里見家を徳川将軍家の虚花として描き重ね合わせることで、徳川将軍家を一旦は肯定してみせている。
 
 {八犬伝に於ける大御所義政の暗愚を、江戸幕政頽廃を象徴する大御所家斉への当て擦りだとする説もある。なるほど注目すべき刺激的な説ではあるが、文明十五年に十九歳だった足利義尚は、八犬伝記述にある如く確かに大御所義政の監督下に置かれていた。ために数年後、政争が起きた。義尚が九歳で将軍となった文明五年から長享元年まで義政が政事に介入していた。且つ、近世には既に新井白石の読史余論の如く、義政の暗愚を批判する声があった。則ち、文明十五年にクライマックスを置き京都も舞台となって将軍・天皇が登場する以上、元々義政の頽廃せる大御所政治に言及し得る。家斉が大御所となったのは、まさに八犬伝当該部分が執筆されつつあった天保八年であり、刊行開始から二十数年が過ぎていた。義政への言及が家斉への当て擦りだとしても、【偶々時期が合致していたから後付けした意味】に過ぎないだろう。結果的に、当時でさえ当て擦りとして読み得るものとなっていようが、家斉の暗愚が八犬伝の本質に影響を与えたとは考えにくい。筆者としては、家斉の暗愚をも思い起こしつつ親兵衛の第一次上洛の段を読む楽しさは認めるが、あくまで副次的な事項/結果的なオマケとして扱うべきであり、あまり強調する意味はないと考えている。ちなみに八犬伝刊行開始前の江戸幕府大御所には、家康・秀忠そして吉宗がいた。大御所の存在自体は否定すべきものではなかったし、里見義実も隠居して大御所に準ずる位置にあった。しかも家斉は将軍在任中から暗愚を発揮しまくっていた。そして、暗愚だからとは言い切れないが彼の子沢山が幕政を凋落させたことも事実である。いや、将軍の子どもを其処らに放り出すわけにもいかず然るべき筋に養子に出したり嫁に出したりする時の出費が膨大だし相手に各種特権を認めねばならぬ。老中や勘定奉行たちは、きっと心中「馬鹿みたいに子づくりばっか励みやがって」と思ったに違いない。通説では家斉の治世、当初こそ松平定信が老中として幕政の建て直しを図り一応の効果を上げ海防策も立案したが実現に至らぬうち、何を考えたか家斉は愚かにも定信を辞職に追い込んでしまった。暫くは定信の影響を受けた松平信明ら寛政の遺老が幕政を支えていたが、水野忠成が老中首座になると田沼時代に逆戻りし賄賂や情実人事が横行、家斉の暗愚のもと幕政が頽廃していった。よって家斉が現役将軍であった、寛政五年の定信解任以降を含めて、後世「大御所時代」と呼んだりもする。しかし八犬伝刊行開始時までに家斉が大御所になることは予定されておらず、あくまで後世の謂に過ぎない}
{お粗末様}

 
 
 

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