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太平記
巻第十八
金崎の城落つる事

金崎の城には瓜生が後攻めをこそ命に懸けて待たれしに判官打ち負けて軍勢そくばく討たれぬと聞えければ頼む方なく成りはて心細くぞ覚えける。日々にしたがつて兵粮とぼしく成りければ、あるいは江の魚を釣りて飢ゑをたすけ、あるいは磯菜を取つて日を過ごす。しばしが程こそかやうの物に命をついで軍をもしけれ、あまりに事つまりければ寮の御馬を始めとして諸大将の立てられたる秘蔵の名馬どもを毎日二疋づる差し殺しておのおのこれをぞ朝夕の食に当てたりける。これにつけても後攻めする者なくては、この城今十日ともこらへがたし。総大将御兄弟ひそかに城を御出で候ひて杣山へ入らせたまひ与力の軍勢を催されて寄手を追ひ払はれ候へかし、と面々にすすめ申されければ、げにもとて新田左中将義貞・脇屋右衛門佐義助・洞院左衛門督実世、川島左近蔵人惟頼を案内者にて上下七人、三月五日の夜半ばかりに城を抜け出でて杣山へぞ落ち着かせたまひける。瓜生・宇都宮なのめならず悦びて今一度金崎へ向つて先度の恥をきよめ城中の思ひを蘇せしめんとさまざま思案を回らしけれども東風やうやくしづかに成つて山路の雪もむら消えければ国々の勢も寄手に加はつて兵十万騎に余れり。義貞の勢はわづかに五百余人、心ばかりは猛けれども馬物具もはかばかしからねばとやせましかくやせましと身をもうで二十日余りを過ごしける程に金崎にははや馬どもをも皆食ひ尽して食事を断つ事十日ばかりに成りにければ軍勢どもも今は手足もはたらかず成りにけり。
ここに大手の攻め口にありける兵ども高越後守が前に来たつて、この城はいかさま兵粮につまりて馬をばし食ひ候ふやらん始め頃は城中に馬の四五十疋あるらんと覚えて常に湯洗ひをし水を蹴させなんどし候ひしがこの頃は一疋も引き出だす事も候はずあつぱれ一攻め攻めてみ候はばや、と申しければ諸大将しかるべしと同じて三月六日の卯の刻に大手搦手十万騎同時に切岸の下屏際にぞつきたりける。城中の兵どもこれを防かんために木戸の辺までよろめき出でたれども太刀を使ふべき力もなく弓をひくべきやうも無ければただいたづらに櫓の上に登り屏の陰に集まつて息つきゐたるばかりなり。寄手どもこの有様を見て、さればこそ城は弱りてんげれ日の中に攻め落さん、とて乱杭逆木を引きのけ屏を打ち破つて三重にこしらへたる二の木戸まで攻め入りける。由良・長浜二人、新田越後守の前に参じて申しけるは、城中の兵ども数日の疲れによつて今は矢の一つをもはかばかしくつかまつり候はぬあひだ敵すでに一二の木戸を破つて攻め近付いて候ふなりいかにおもしめすとも叶ふべからず春宮をば小舟にめさせまゐらせいづくの浦へも落しまゐらせ候ふべし自余の人々は一所に集まつて御自害あるべしとこそ存じ候へその程はわれ等攻め口へまかり向つて相支へ候ふべし見苦しからん物どもをば皆海へ入れさせられ候へ、と申して御前を立ちけるが、あまりに疲れて足も快く立たざりければ二の木戸の脇に射殺され伏したる死人の股の肉を切つて二十余人の兵ども一口づつ食うて、これを力にしてぞ戦ひける。河野備後守は搦手より攻め入る敵を支へて半時ばかり戦ひけるが今ははや精力尽きて深手あまた負ひければ攻め口を一足も引き退かず三十二人腹切つて同じ枕にぞ臥したりける。新田越後守義顕は一宮の御前に参つて、合戦のやう今はこれまでと覚え候ふわれ等力無く弓箭の名を惜しむ家にて候ふあひだ自害つかまつらんづるにて候ふ上様の御事はたとひ敵の中へ御出で候ふとも失ひまゐらするまでの事はよも候はじただかやうにて御座あるべしとこそ存じ候へ、と申されければ一宮いつよりも御快げにうち笑ませたまひて、主上帝都へ還幸成りし時われを以つて元首の将としなんぢを以つて股肱の臣たらしむそれ股肱無くして元首たもつ事をえんやさればわれ命を白刃の上に縮めて怨を黄泉のもとにむくはんと思ふなりそもそも自害をばいかやうにしたるがよきものぞ、と仰せられければ義顕感涙をおさへて、かやうにつかまつるものにて候ふ、と申しもはてず刀を抜いて逆手に取りなほし左の脇に突き立てて右の小脇のあばら骨二三枚懸けて掻き破り、その刀を抜いて宮の御前に差し置いて、うつぶしに成つてぞ死ににける。一宮やがてその刀を召され御覧ずるに柄口に血余りすべりければ御衣の袖にて刀の柄をきりきりと押し巻かせたまひて雪の如くなる御膚を顕し御むねの辺に突き立て義顕が枕の上に臥させたまふ。頭大夫行房・里見大炊時義・武田与一・気比弥三郎大夫氏治・大田帥法眼以下御前に候ひけるが、いざさらば宮の御供つかまつらん、とて同音に念仏唱へて一度に皆腹を切る。これを見て庭上に並み居たる兵三百余人互ひに差し違へ差し違へいやが上に重なり臥す。
気比大宮司太郎は元来力人にすぐれて水練の達者なりければ春宮を小舟に乗せまゐらせて櫓櫂も無けれども綱手をおのれが横手綱に結ひ付け海上三十余町を泳いで蕪木の浦へぞ着けまゐらせける。これを知る人更に無かりければ、ひそかに杣山へ入れまゐらせん事はいと安かりぬべかりしに一宮を始めまゐらせて城中の人々残らず自害するところに、われ一人逃げて命を生きたらば諸人の物笑ひなるべしと思ひけるあひだ春宮を怪しげなる浦人の家に預け置きまゐらせ、これは日本国の主に成らせたまふべき人にてわたらせたまふぞいかにしても杣山の城へ入れまゐらせてくれよ、と申し含めて蕪木の浦より取つて返し元の海上を泳ぎ帰つて弥三郎大夫が自害して臥したるその上にみづからわが首を掻き落して片手にひつさげ大膚脱ぎに成つて死ににけり。
……後略

巻第二十
前略……
義貞重ねて黒丸合戦の事付けたり平泉寺調伏の法の事

義貞、京都の進発を急がれつる事は八幡の官軍に力をつけ洛中の隙をうかがはんためなりき。しかるに今その合図相違しぬる上は心しづかに越前の敵をことごとく退治して重ねて南方に牒し合はせてこそ京都の合戦をばいたさめとて義貞も義助も河合の庄へ打ち越えて、まづ足羽城を攻めらるべき企てなり。尾張守高経この事を聞きたまひて、御方わづかに三百騎に足らざる勢を以つて義貞が三万騎の兵に囲まれなば千に一つも勝つ事をうべからず。しかりといへども敵はや諸方の道を差し塞ぎぬと聞ゆれば落つともいづくまでか落ち延ぶべき。ただひとへに討死と志して城を固くするより外の道やあるべき、とて深田に水を懸け入れて馬の足も立たぬやうにこしらへ路を掘り切つて穽しをかまへ橋をはづし溝を深くして、その内に七つの城をこしらへ、敵せめば互ひに力を合はせて後へまはりあふやうにぞ構へられたりける。
この足羽の城と申すは藤島の庄に相並んで城郭半ばはかの庄をこめたり。これによつて平泉寺の衆徒の中より申しけるは、藤島の庄は当寺多年山門の相論する下地にて候ふ、もし当庄を平泉寺に付けらるべく候はば若輩をば城々にこめおきて合戦を致させ宿老は惣持の扉を閉ぢて御祈祷を致すべきにて候ふ、とぞ言ひける。尾張守大きに悦んで、
今度合戦の雌雄しかしながら衆徒の合力を借り霊神の擁護をたのむ上は、まづ藤島の庄を以つて平泉寺に付するところなり、もし勝軍の利を得ば重ねて恩賞を申し行ふべし、よつて執達くだんの如し。
 建武四年七月二十七日 尾張守
  平泉寺衆徒御中
と厳密の御教書をぞ成されける。衆徒これを勇みて若輩五百余人は藤島へ下つて城にたて籠り宿老五十人は炉壇の煙にふすぼり返つて怨敵調伏の法をぞ行はれける。

義貞夢想の事付けたり諸葛孔明が事

その七日の当たりける夜、義貞朝臣不思議の夢をぞ見たまひける。所は今の足羽辺と覚えたる河の辺にて義貞と高経と相対して陣を張る。いまだ戦はずして数日を経るところに義貞にはかにたかさ三十丈ばかりなる大蛇に成つて地上に臥したまへり。高経これを見て兵をひき楯を捨てて逃ぐる事、数十里にして止むと見たまひて夢はすなはち覚めにけり。義貞つとに起きて、この夢を語りたまふに、龍はこれ雲雨の気に乗つて天地を動かす物なり高経雷霆の響きに驚いて葉公が心を失ひしが如くにてさる事候ふべしめでたき御夢なり、とぞ合はせける。
ここに斉藤七郎入道道猷、垣を隔てて聞きけるが眉をひそめてひそかに言けるは、これ全くめでたき御夢にあらず、すなはち天の凶を告ぐるにてあるべし、そのゆゑは昔異朝に呉の孫権・蜀の劉備・魏の曹操と言ひし人三人、支那四百州を三つに分けてこれを保つ、その志皆二つを亡ぼして一つにあはせんと思へり、しかれども曹操は才智世にすぐれたりしかば謀を帷帳の中にめぐらして敵を方域の外に防ぐ、孫権は弛張時あつて土をねぎらひ衆を撫でしかば国を賊し政をかすむる者競ひ集まつてよこしまに帝都を侵し奪へり、劉備は王氏を出でて遠からざりしかばその心仁義に近くして利慾を忘るるゆゑに忠臣孝子四方より来たつて文教をはかり武徳を行ふ、この三人智仁勇の三徳を以つて天下を分けて持ちしかば呉魏蜀の三都相並んで鼎の如くそばだてり、その頃、諸葛孔明といふ賢才の人、世を避け身を捨てて蜀の南陽山に在りけるが寂を釣り閑を耕して歌ふ歌をきけば、
歩出斉東門
往到蕩陰里
里中有三墳
塁々皆相似
借問誰家塚
田彊古冶子
気能排南山
智方絶地理
一朝見讒言
二桃殺三士
誰能為此謀
国将斉晏子
とぞうたひける、蜀の智臣これを聞きてかれが賢なるところを知りければ、これを召して政をまかせ官を高め世を治めたまふべき由を奏し申しける、劉備すなはち幣を重うし礼を厚くして召されけれども孔明あへて勅に応ぜず、ただ燗飲岩栖して生涯を断送せん事を楽しむ、劉備三度かの草庵の中へおはしてのたまひけるは、朕不肖の身を以つて天下の太平を求む全く身を安んじ欲をほしいままにせんとにはあらずただ道の塗炭におち民の溝壑に沈みぬる事をすくはんとためのみなり公もし良佐の才を出だして朕が中心を輔けられば残に勝ち殺を捨てん事なんぞ必ずしも百年を待たんそれ石を枕にし泉にくちすすいで幽栖を楽しむは一身のためなり国を治め民を利して大化を致さんは万人のためなり、と誠を尽し理をきはめて仰せられければ、孔明辞するにことば無くして、つひに蜀の丞相と成りにけり劉備これを貴寵して朕が孔明有るは魚の水有るが如し、と喜びたまふ、つひに公侯の位を与へて、その名を武侯と号せられしかば、天下の人これを臥龍の勢ひありと懼ぢあへり、その徳すでに天下を朝せしむべしと見えければ、魏の曹操これを愁へて司馬仲達といふ将軍に七十万騎の兵を添へて蜀の劉備を攻めんとす、劉備これを聞きて孔明に三十万騎の勢を付けて魏と蜀との境、五丈原といふ所へ差し向けらる魏蜀の兵川を隔てて相支ふる事五十余日、仲達かつて戦はんとせず、これによつて魏の兵やうやく馬疲れ食尽き、かつて戦はんとせず、これによつて魏の兵皆戦はんと乞ふに、仲達、不可なり、と言ひてこれを許さず、ある時、仲達、蜀の芻蕘どもをとりこにして孔明が陣中の成敗をたづね問ふに芻蕘ども答へて言ひけるは、蜀の将軍孔明士卒を撫で礼譲を厚くしたまふ事おろそかならず一豆の食をえても衆と共に分かつて食し一樽の酒をえても流れにそそいで士とひとしく飲す士卒いまだかしがざれば大将食せず官軍雨露に濡るる時は大将油幕を張らず楽しみは諸侯の後に楽しみ愁へは万人の先に愁ふしかのみならず夜は終夜眠りを忘れてみづから城を回つて怠れるを戒め昼は終日に面をやはらげて交はりをむつましくすいまだ須臾の間も心をほしいままにし身を安んずる事を見ずこれによつてその兵三十万騎心を一にして死を軽くせり鼓を打つて進むべき時はすすみ鐘をたたいて退くべき時は退かん事一歩も大将の命に違ふ事あるべからずと見えたりその他の事はわれ等が知るべきところにあらず、とぞ語りける。仲達これを聞きて、御方の兵は七十万騎その心一人も同じからず孔明が兵三十万騎その志皆同じといへりされば戦ひを致して蜀に勝つ事はゆめゆめあるべからず孔明が病める弊えに乗つて戦はば必ず勝つ事をえつべしそのゆゑは孔明この炎暑に向つて昼夜心身を労せしむるに温気骨に入つて病に臥さずといふ事あるべからず、と言ひて士卒の嘲りをもかへりみず、いよいよ陣を遠く取つていたづらに数月をぞ送りける、士卒どもこれを聞きて、いかなる良医といふともあはひ四十里を隔てて暗に敵の脈を取り知る事やあるべきただ孔明が臥龍の勢ひを聞きおぢしてかかる狂言をば言ふ人あんり、と掌を拍つて笑ひあへり、ある夜両陣のあはひに客星落ちてその光火よりも赤し、仲達これを見て、七日が中に天下の人傑を失ふべき星なり孔明必ず死すべきに当たれり魏必ず蜀を合はせて取らん事余日あるべからず、と悦べり、はたしてその朝より孔明病に臥す事七日にして油膜の内に死ににけり、蜀の副将軍等魏の兵たちまちに利をえて進まん事を恐れて孔明が死を隠し大将の命と相触れて旗をすすめ兵をなぎけて魏の陣へ懸け入る、仲達は元来戦ひを以つて蜀に勝つ事をえじと思ひければ一戦にも及ばず馬にむちうつて走る事五十里、嶮岨にして留まる、今に世俗の諺に、死せる孔明生ける仲達を走らしむ、といふ事は、これをあざけることばなり、軍散じて後、蜀の兵、孔明が死せる事を聞きて皆仲達にぞ降りける、それより蜀まづ亡び呉後に亡びて魏の曹操つひに天下を保ちけり、この故事を以つて今の御夢を料簡するに事の様、魏呉蜀の争ひに似たり、なかんづく龍は陽気に向つては威を振るひ陰の時に至つては蟄居を閉づ、時今陰の始めなり、しかも龍の姿にて水辺に臥したりと見たまへるも孔明を臥龍と言ひしに異ならず、されば面々は皆めでたき御夢なりと合はせられつれども道猷はあながちに甘心せず、と眉をひそめて言ひければ諸人げにもと思へる気色なれども心にいみことばに憚つて凶とする人なかりけり。

義貞の馬属強ひの事

閏七月二日、足羽の合戦と触れられたりければ、国中の官軍、義貞の陣河合の庄へ馳せ集まりけり。その勢あたかも雲霞の如し。大将新田左中将義貞朝臣は赤地の錦の直垂に脇楯ばかりして遠侍の座上に坐したまへば、脇屋右衛門佐は紺地の錦の直垂に小具足ばかりにて左の一座に着きたまふ。この外、山名・大館・里見・鳥山・一井・細屋・中条・大井田・桃井、以下の一族三十余人は思ひ思ひの鎧冑にいろいろの太刀刀綺麗を尽して東西二行に座を列す。外様の人々には、宇都宮美濃将監を始めとして、禰津・風間・敷地・上木・山岸・瓜生・川島・大田・金子・伊自良・江戸・紀清両党、以下着到の軍勢等三万余人、旗竿引きそばめ引きそばめ膝を屈し手をつかねて堂上庭前に充ち満ちたれば、由良・船田に大幕をかかげさせて大将遙かに目礼して一勢一勢座敷を立つ。巍々たるよそほひ堂々たる礼まことに尊氏卿の天下を奪はんずる人は必ず義貞朝臣なるべしと思はぬ者はなかりけり。
その日の軍奉行、上木平九郎、人夫六千余人に幕掻楯埋草屏柱櫓の具足どもを持ちはこばせて参りければ、大将中門にて鎧の上帯しめさせ水練栗毛とて五尺三寸ありける大馬に手綱打ち懸けて門前に乗らんとしたまひけるに、この馬にはかに属強ひをしてあがつつ跳つつ狂ひけるに左右に付きたる舎人二人踏まれて半死半生に成りにけり。これをこそ不思議と見るところに、旗ざしすすんで足羽川を渡すに、乗つたる馬にはかに川伏をして旗ざし水に漬りにけり。かやうの怪ども未然に凶を示しけれども、すでに打ちのぞめる戦場を引つ返すべきにあらずと思ひて人なみなみに向ひける勢ども心中にあやぶまぬは無かりけり。

義貞自害の事

燈明寺の前にて三万騎を七手に分けて七つの城を押し隔てて、まづ向ひ城を取られける。かねての廃立には、前なる兵は城に向ひあうて合戦を致し後なる足軽は櫓をかき屏を塗つて向ひ城を取りすましたらんずる後漸々に攻め落すべし、と議定せられたりけるが、平泉寺の衆徒のこもりたる藤島の城以つての外に色めき渡つて、やがて落つべく見えけるあひだ数万の寄手これに機を得て、まづ向ひ城の沙汰をさしおき屏に着き堀につかつてをめき叫んでせめ戦ふ。衆徒も落ち色に見えけるが、とても遁るべき方の無き程を思ひ知りけるにや、身命を捨ててこれを防く。官軍櫓をくつがへして入らんとすれば、衆徒走木を出だして突き落す。衆徒橋を渡つて打つて出づれば、寄手の官軍鋒をそろへて斬つて落す。追ひつ返しつ入れ替はる戦ひに時刻押し移つて日すでに西山に沈まんとす。大将義貞は燈明寺の前にひかへて手負の実検しておはしけるが藤島の戦ひ強うして官軍ややもすれば追つ立てらるる体に見えけるあひだ、安からぬ事に思はれるにや馬に乗り替へ鎧を着かへて、わづかに五十余騎の勢を相従へ路をかへ畔を伝ひ藤島の城へぞ向はれける。その時分黒丸城より細川出羽守・鹿草彦太郎、両大将にて藤島城を攻めける寄手どもを追ひ払はんとて、三百余騎の勢にて横畷を回りけるに、義貞覿面に行き合ひたまふ。細川が方には歩立ちにて楯をついたる射手ども多かりければ深田に走り下り前に持楯を衝き並べて鏃を支へて散々に射る。義貞の方には射手の一人もなく楯の一帖をも持たせざれば前なる兵義貞の矢面に立ち塞がつて、ただ的に成つてぞ射られける。中野藤内左衛門は義貞に目くばせして、千鈞の弩は■鼠に渓の旁/鼠のために機を発せず、と申しけるを義貞ききもあへず、士を失してひとり免るるは我意にあらず、と言ひてなほ敵の中へ懸け入らんと駿馬に一鞭をすすめらる。この馬名誉の駿足なりければ一二丈の堀をも前々たやすく越えけるが五筋まで射立てられたる矢にやよわりけん小溝一つをこえかねて屏風をたふすが如く岸の下にぞころびける。義貞弓手の足をしかれて起きあがらんとしたまふところに白羽の矢一筋真向のはづれ眉間の真中にぞ立つたりける。急所の痛手なれば一矢に目くれ心迷ひければ義貞今は叶はじとや思ひけん抜いたる太刀を左の手に取り渡しみづから首をかき切つて深泥の中にかくしてその上に横たはつてぞ臥したまひける。越中国の住人氏家中務丞重国畔を伝ひて走りよりその首を取つて鋒に貫き鎧太刀刀同じく取り持ちて黒丸城へ馳せ帰る。義貞の前に畷を隔てて戦ひける結城上野介・中野藤内左衛門・金持太郎左衛門尉、これ等馬より飛んで下り義貞の屍骸の前にひざまづいて腹かき切つて重あんり臥す。この外四十余騎の兵、皆堀溝の中に射落されて敵のひとりをも取りえず犬死してこそ臥したりけれ。この時、左中将の兵三万余騎、皆猛く勇める者どもなれば身にかはり命に代はらんと思はぬ者は無かりけれども小雨まじりの夕霧に、たれをたれとも見分かねば大将のみづから戦ひ討死したまふをも知らざりけるこそ悲しけれ。ただよそにある郎等が主の馬に乗り替へて河合をさして引きけるを数万の官軍遙かに見て大将の後に従はんと見定めたる事もなく心々にぞ落ち行きける。漢の高祖はみづから淮南の黥布を討ちし時、流れ矢に当たつて未央宮の内にして崩じたまひ斉の宣王はみづから楚の短兵と戦つて干戈に貫かれて修羅場の下に死したまひき。されば、蚊龍は常に深淵の中を保つもし浅渚に遊ぶときは漁網釣者の愁へ有り、と言へり。この人君の股肱として武将の位に備はりしかば身を慎み命を全うしてこそ大儀の功を致さるべかりしに、みづからさしもなき戦場に赴いて匹夫の鏃に命を止めし事、運のきはめとは言ひながら、うたてかりし事どもなり。
軍を散じて後、氏家中務丞、尾張守の前に参つて、重国こそ新田殿の御一族かとおぼしき敵を討ちて首を取つて候へ、たれとは名のり候はねば名字をば知り候はねども馬物具の様相従ひし兵どもの尸骸を見て腹をきり討死をつかまつり候ひつる体いかさま尋常の端武者にてはあらじと覚えて候ふこれぞその死人のはだに懸けて候ひつるまぶりにて候ふ、とて血をもいまだあらはぬ首に土の付きたる金襴のまぶりを添へてぞ出だしたりける。尾張守この首をよくよく見たまひて、あな不思議やよに新田左中将の顔つきに似たる所あるぞやもしそれならば左の眉の上に矢の傷あるべし、とてみづから鬢櫛を以つて髪をかきあげ血をすすぎ土をあらひ落してこれを見たまふに、はたして左の眉の上に傷の跡あり。これにいよいよ心付きて帯かれたる二振りの太刀を取り寄せて見たまふに金銀を延べて作りたるに一振りには銀を以つて金■金に祖/の上に鬼切と言ふ文字を入れられたり。これはともに源氏重代の重宝にて義貞の方に伝へたりと聞ゆれば末々の一族どもの帯くべき太刀にはあらずと見るにいよいよ怪しければ膚のまぶりを開いて見たまふに、吉野の帝の御宸筆にて、朝敵征伐の事叡慮の向ふ所ひとへに義貞の武功に在り選んでいまだ他を求めずことに早速の計略をめぐらすべきものなり、とあそばされたり。さては義貞の首相違なかりけり、とて尸骸を輿に乗せ時衆八人にかかせて葬礼のために往生院へ送られ首をば朱の唐櫃に入れ氏家中務を添へてひそかに京へ上せられけり。

義助重ねて敗軍を集むる事

脇屋右衛門佐義助は河合の石丸城へ打ち帰つて義貞の行方をたづねたまふに始めの程は分明に知る人もなかりけるが事の様次第に顕れて、討たれたまひけり、と申し合ひければ、日をかへず黒丸へ押し寄せて大将の討たれたまひつらん所にて同じく討死せん、とのたまひけれどもいつしか兵皆あきれ迷うてただ惘然たる外はさしたる儀勢もなかりけり。あまつさへ人の心もやがて変はりけるにや、野心の者内にありと覚えて石丸城に火を懸けんとする事一夜の内に三箇度なり。これを見て斉藤五郎兵衛尉季基、同じき七郎入道道猷二人は他に異なる左中将の近習にてありしかば門前の左右の脇に役所を並べてゐたりけるが幕を捨てて夜の間にいづちともなく落ちにけり。これを始めとしてあるいは心も起らぬ出家して往生院長崎の道場に入りあるいは縁に属し罪を謝して黒丸城へ降参す。昨日まで三万騎にあまりたりし兵ども一夜の程に落ち失せて今日はわづかに二千騎にだにも足らざりけり。かくては北国を踏まへん事叶ふまじとて三峰城に川島を籠め杣山城に瓜生を置き湊城に畑六郎左衛門尉時能を残されて閏七月十一日に義助・義治父子ともに禰津・風間・江戸・宇都宮の勢七百余騎を率して当国の府へ帰りたまふ。

……中略……

奥州下向勢難風に逢ふ事

吉野には奥州の国司安部野にて討たれ春日少将八幡の城を落されて諸卒皆力を失ふといへども新田殿北国より攻め上る由奏聞したりけるを御頼みあつて今や今やと待ちたまひけるところに、この人さへ足羽にて討たれぬと聞えければ蜀の後主の孔明を失ひ唐の太宗の魏徴に哭せし如く叡襟更におだやかならず諸卒も皆色を失へり。ここに奥州の住人結城上野入道道忠と申しけるもの参内して奏し申しけるは、国司顕家卿三年の内に両度まで大軍を動かして上洛せられ候ひし事は出羽奥州の両国みな国司に従ひて凶徒その隙を得ざるゆゑなり国人の心いまだ変ぜざるさきに宮を一人下しまゐらせて忠功の輩にはぢきに賞を行はれ不忠不烈の族をば根をきり葉をからして御沙汰候はんにはなどか攻め従へでは候ふべき国の指図を見候ふに奥州五十四郡あたか日本の半国に及べありもし兵数を尽して一方に属せば四五十万騎も候ふべし道忠宮をさそはさみたてまつりて老年の頭に冑をいただく程ならば重ねて京都に攻め上り会稽の恥をきよめん事一年の内をば過ごし候ふまじ、と申しければ君を始めたてまつて左右の老臣ことごとく、この議げにもしかるべし、とぞ同ぜられける。これによつて第八の宮の今年七歳にならせたまふを初冠めさせて春日少将顕信を補弼とし結城入道道忠を衛尉として奥州へぞ下しまゐらせられける。これのみならず新田左衛門義興・相模二郎時行二人をば、東八箇国を打ち平らげて宮に力を添へたてまつれ、とて武蔵相模の間へぞ下されける。
陸地は皆敵強うして通りがたしとて、この勢皆伊勢の大湊に集まつて船をそろへて風を待ちけるに九月十二日の宵より風やみ雲をさまつて海上ことに静まりたりければ舟人纜をといて万里の雲に帆を飛ばす。兵船五百余艘、宮の御座船を中に立てて遠江の天龍なだを過ぎける時に海風にはかに吹きあれて逆浪たちまちに天を巻きかへす。あるいは帆柱を吹き折られて弥帆にて馳せる船もあり。あるいは梶をかき折りて回流に漂ふ船もあり。暮るればいよいよ風あらく成つて一方に吹きも定まらざりければ伊豆の大島女良の湊かめ川三浦由居の浜、津々浦々の泊りに船の吹き寄せられぬはなかりけり。宮の召されたる御船一艘漫々たる大洋に放たれてすでに覆らんとしけるところに光明赫奕たる日輪、御船の舳先に現じて見えけるが風にはかに取つて返し伊勢国神風の浜へ吹きもどしたてまつる。そくばくの船ども行方もしらず成りぬるに、この御船ばかり日輪の擁護によつて伊勢国へ吹きもどされたまひぬる事ただ事にあらず。いかさまこの宮継体の君として九五の天位を践ませたまふべきところをかたじけなくも天照大神の示されけるものなりとてたちまちに奥州の御下向を止められすなはちまた吉野へ返し入れまゐらせられけるにはたして先帝崩御の後南方の天子の御位をつがせたまひし吉野の新帝と申したてまつりしはすなはちこの宮の御事なり。

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