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   ○真葛のおうな
真葛は才女なり。江戸の人、工藤氏、名を綾子といふ。性歌をよみ和文をよくし、滝本様の手迹さへ拙からず。父は仙台の俗医士工藤(本姓源氏)平助、諱は平、母は菅原氏とぞ聞えし。先祖は別所党にて、播磨の野口の城主、長い四郎左衛門より出たり(長井の族を加古右京といふ。并に太閤伝天正七、三木合戦の条にみえたり)。その子孫、零落して摂津の大坂にをり、数世の後長井大庵に至れり。是則真葛の祖平助の父なり。大庵は医をもて業としたりしかば、江戸に到りて紀州公に仕へまつりぬ。をのこ三人まで有りけるに、只武芸のみ学ばせて、子ありとだにも聞えあげざりしかば、ある時公ちかく侍らして、汝が齢既に四十にあまりたらんに子ども両三人ありぬと聞きぬ。などて家督を願ひ申さぬぞ、と問はせ給ひしかば、大庵はあとさがり額づく程に、はふり落んとせし涙を拭ひて答へ申すやう、いと有りがたきまで忝き御意を蒙り奉りし事、身にあまりて覚え候へども、かね/”\申しあげし如く、先祖は一城のぬしで候ひしに、たづきの為にかく長袖になりたるだにもくちをしく候ものを、子どもをすら親の如くにし候はんは先祖へめいぼくなく思ひ候へば、不肖の某一代のみめし仕はせ給へかし、子どもはよしや浪々の飢に臨み候ふとも武士にせまほしくこそ候へ、とまうしゝかば、公感じ思召して、さらば方伎は大庵一代たるべし、と仰せ出されて、跡をば武士になされたり。これにより、その長男は長井四郎右衛門と名のりたり。渋川流のやわらとりにて師の允可を得たれども生涯事にあはざりければ名をしらるゝよしもなかりき。次を長井善助といひけり。こはさし箭の射手にて、いさゝか世に知られたり。この同胞は紀州に仕へ奉りぬ。平助は三男なるをもて、さのみはとて仙台侯の医師工藤某に贅して、そが養嗣にぞしたりける。されば亦平助も実父の術におろかならず。思を蘭学にひそめて発明する所も多かりしにぞ、その名も粗聞えたる。かくて平助が子ども数人あり。長女は綾子、所云真葛是なり。次を工藤太郎といひて才子なりと聞えしに、父に先だちて身まかりぬ。その次は女子、又其次も女子なり。これへもよすがもとめて後いく程もなく世をはやうしたりとぞ。その次を工藤源四郎元輔とぞいひし。和漢の才子にて詩をよくし歌をさへよみたるに方伎も亦庸ならず。惜しくは短命にして子のなかりしかば、はつかに名跡に遺れりといふ。その次は女子にて名を栲といひけり。こは越前の姫うへに、とし来みやづかへまつりしに、姫うへなくなり給ひしかば、比丘尼になりて瑞祥院と法号とり今なほ鉄炮洲の邸内にあるべし。又その次も女子なりしを、ある医師に妻せられ、こもまたはやく身まかりしとぞ。このはらから七たり。才も貌もとり/”\なりける。そが中に乙のかよのみやけの御まへにみやづかへにてまゐれるとき、兄の元輔が後のおこたりをいましめて、よくつとめよかし、ふた親のめぐみをおもふに、雨露のごとくひとしきをうけたる身の心々にたがへるは、かの七くさてふ花のかはれるに似たりとて、
 おのがじゝにほふ秋野の七くさもつゆのめぐみはかはらざりけり
とよみてとらせたりしを、後に綾子伝へ聞きて、よくもいさめたるものかな、さらばその七くさの花にたゝへんに、藤ばかまはかぐはしといへば太郎よ、その次なる女かほよければ朝がほ、その次はをみなへし、をばなはそこにこそをはさめ。越の御まへなるは萩、乙子はなでしことなるべし。葛ばなはめづるばかりのものならねども、禁のひろければ、はらからをさしおほふ子の上にしも似つかはしかるべくやと定めたりしより、物にはあや子を真葛と唱へ、栲は萩と唱へ、祝髪の後は萩尼ともしるしたり。かゝるめで度同胞なりしに、五人は命長からで、文化のすゑには、真葛と萩の尼(瑞祥院)のみぞのこりたりける。そが中に真葛は、いとをさなかりしころより異なる志ありけり。明和壬辰の大火の比、物のあたひのにはかにのぼりて、賤しきものはいよく窮すると伝へ聞きて、ひとりつら/\おもふやう、いかなればあき人の心ばかり鬼々しきものにはある、あはれ民の父母たる身にしあらば、かく浅ましきことはあらせじを、侮しくも女に生れたることよ、とは歎きたり。これよりの後、われは必女の本になるべしとおもひおこしつゝ、とにかくに身をづゝしみ、おのれをうや/\しうすることはさらなり。女子はおもてこそ肝要なれとて、愛敬づきたらんやうにもしつ。又から文を読まゝくほりせしに、父いたく禁めて、女子の博士ぶりたらんはわろし。草紙のみ見よといはれしかば、源氏物語、伊勢物語などを、常に枕の友としつゝ、とし十六の時はじめて和文といふものを、一ひらばかり綴りたりしに、父の平助、これを村田春海に見せしかば、いたくめでよろこびて、その師なくてかくまで綴れるは、才女なりといひしとぞ。みづかちは只いせ物語を師として綴りてけるに、誉められしことのけやけきに恥ぢて、このゝちは親にすら見せざりしかど、猶よくせんとおもひたり。手迹はをぢなりける人滝本様の能書なりければ、その手を学びて、大かたは極めたれども、五十ちかきころ右のかひなの痛むやまひおこりしより、物かくこともわかかときには劣り、目もかすむこと常になりたれば、細分のさうしは得よまずといへり。いづれも/\女の本にならんとほりせしに、日々のわざにして、何事にまれ人のうへに就きて、心のゆく所を考へ果さばやとおもふ心もつきにけり。かくて弟元輔に、四書の講釈といふことをせさせて、只一とたび聞くことを得たり。これにより孔子聖人の教は、すべてかゝるすぢにこそといさゝかたのもしく思ひたり。仏のをしへもよくはしらねど、念ずれば必利益ありと思ひとりて、とし来観音と不動を信じ奉りけり。これより先、とし十六七なりしころ、仙台侯の御まへにみやづかへにのぼせられし折、みやづかへはひとり勤なりと思ふこそよけれ。いくたりの同役ありとても、勤むることはわれ一人なりとおもはゞ、うしろやすかりけんと覚期せしかば、傍輩にぢ憎まれず。人のおこたりを咎むる心もなくして、果して後やすかりしといへり。又をさなかりしころ、奴婢のみそかごとをするが、ものゝいひざまとけしきとにしらるゝをうち見て、あなおろかにも立ちふるまふもの哉。人にしうせじと思ふことを、なか/\に人しれかしといはぬばかりなるはいかにぞや。かく浅はかなる心もて、しのびあふものどもの後々まで、いかでか遂げん。慾にまょふものゝ心ばかりおろかなるはなかりき、とおもふ程に、果してその事あらはれて、追はれしものゝありしとぞ。かくてみやづかへの身のいとまを給はりて、宿所にまかりしころ、母のなくなりしかば、猶をさなかりし妹どものうしろ見をもしつ。内をゝさむることをさへ、うち任するものゝなかりしにより、三そぢをなかば過ぐる迄、人づまとも得ならでありしに、はらからのうちいづれまれ、国勝手なる人の妻とせば、元輔が為によろしかるべし、と父のとしごろいひつれども、われ仙台へ赴かんといふものはなかりしを、真葛は父の仰にはもれ侍らじ。ともかくもはからせ給へといひしにぞ、父よろこびて、あちこちとよづるもとめつゝ、当時勤番にて、江戸番頭なりし只野伊賀とて、禄千石を領する人の後妻にえにし定まりしかば、仙台河内はせくらとて、仙城の二の丸に程ちかき只野氏の屋敷へ遣嫁せられけり。人あるひは、これを諌めしものゝありしに、真葛答へていはく、遠く仙台へよめらせんとほりするは、これ父のこゝろなり。又遠くゆくことをうれはしく思ふは、子の心なり。なでふ子の心を心として、親の情願に背くべき。われは三十六歳を一期として死したりと思へば、うれひもなくうらみもあらず。死してすぐせわろくば、必地獄の呵責を受べく、且親同胞にあふによしなかるべし。仙台はもとも厭はしき所なり。且声だみてむくつけきをとこにかしづき、詞がたきもなき宿を生涯うちまもりたらんも、地獄の呵責にはますことなからんやといひしとぞ。さてよしありて父平助も身まかり、真葛の良人伊賀も世を去りて、前妻の嫡子只野図書の世となりにたり。この家いとかたくなゝる家則多くて、傍いたき事のみなれども、継母の事なれば、何事も得いはず。いとおろかなるわざかなと思ひつゝ、そがまに/\せずといふことなし。はじめ女の本ンにあらんと思ひしを得果さず。をのこはらからの世をば、はやくせしことのかなしくて、よしやわが身おうななりとも、人に異なる書をあらはして世にもしられ、乃祖の名をもあらはさばやと思ふに、その諸侯の多くは、財主の為に苦められながら、嬖妾に費を厭ひ給はず。或はつかさ位を望みて、そがなかだちするものにはかられ、あたら黄金を失ひ給へることなどをはじめとして、経済の可否をろうずるとも。数篇全書三巻を独考と名づけたり。時に文化十四年冬十二月朔、真葛五十五歳の著述とぞ聞えし。此記、奧州ばなし一巻、磯づたひ一巻あり。予がこゝにしるしつけたるは、真葛の予が為に書きておこしゝ、「昔がたり「とはずがたり「秋七くさ「筆のはこび、などいふ草紙の意をうけて、略記しつるものなり。
予はちかきころまで真葛をしらず。文政二年己卯の春きさらぎ下旬、家の内のものどものことしの始のことほぎにとて、やから許ゆきたりし日、齢五そぢばかりなる比丘尼の従者ひとりいたるが来て、おとなふ有りけり。とりつぐものゝなき折なれど、うちもおかれず。みづから出でていづこより来ませしぞと問ふに、比丘尼のいはく、あまは牛込神楽坂なる田中長益といふくすしにゆかりあるものに侍り。あるじに見参せまほしといひつゝにじカかゝりたり。予は文化のはじめより、客を謝し帷を垂れて、常に人と交らず。をちこちの騒客のさはに来訪せらるゝも、旧識の紹介なれば、病に托してあはざりしに、ついでわろしとおもへども、せんかためなきまゝに、いなあるじは出でゝ今朝ょりあらず。家の内の人どもいづちヘかゆきたりけん。おのれはしばし留守するものなり。何事まれ仰せおかれよ。かへらば伝へまゐらせんと、惟光がほに答へたり。そのとき比丘尼は、ふところより一通の封状と、さかな代としるしたるこがね一封と、ふくさに包みたる草紙三まきをとり出でゝ、こはみちのくの親しきものより、あるじにとゞけまゐらせよとて、おこしたるなり。草紙はをんなの書きたるを、こゝの翁の筆削をたのみ侍るとよ。猶つぶさには此しやうそこにこそあらめ。あまはこよひ田中がり止宿し侍れば、翌のかへさに又とぶらひ侍りてん。その折に一ふでなりとも、此かへしを給はれ、と伝へ給へかしといふ。予答へて、そはこゝろ得て侍れども、あるじはとし来筆とるわざに倦みつかれたればとて、いづ方よりよざし給ふも、かゝるものはうけ引き侍らず。殊更留守の宿なるに、あづかりおかば叱られやせん。又折もこそあるべきに、こはもてかヘらせ給へかし、といなむを比丘尼は聴かずして、そは宜ふことながら、おん身の心ひとつもて、おしかへされんことにはあらじ、とまれかぐまれあづかりてだべ。翌の朝は巳のころにまたこそ来めと、期をおしていとまごひしてまかり出でにけり。予も亦書斎に退きて、まづその状をひらきて見るに、いひおこしたる趣は、比丘尼のいへるにおなじけれども、ふみの書きざま尊大にて、馬琴様、みちのくの真葛とのみありて、宿所などは定かにしらせず。いぶかしきこと限りもなければ、ひとりつら/\おもふやう、此とし来あて人より書を給はりしことのあれども、かくまでに尊大なるはいかなる人の妻やらん。仙台侯の側室にて御部屋など唱ふるものと、はる/”\とよざしぬる草紙は、何を書きたるやらんとおもへば、やがてまきの稿本なり。その説どものよきわろきはとまれかくまれ。婦人には多く得がたき見識あり。只惜むべきことは、まことの道をしらざりける。不学不問の心を師としてろうじつけたるものなれば、傍いたきこと多かり。はじめより王工の手を経て、飽まで磨かれなば、かの連城の価におとらぬまでになりぬべき。その玉をしも、玉鉾のみちのくに埋みぬることよとおもへば、今さらに捨てがたきこゝろあり。さはさりながら、人づまか母かもしらぬ一老婆の、その宿所だに定かならねば、需に応ずべくもあらず。いでやわが志を見しらして、その後にともかくもせんすべあれとおもふになん。その夜かへしをものするに、おのれはいとはやくより市にかくれて、をんなわらんべのもてあそびものとなるよしは、刀自にもしられたるなるべし。さばれこたみよせられしおん作のさうしは、それらのすぢにはあらぬを、世の人のわれをしれるものと、異なる見どころあるにあらずば、江戸には名だゝる儒者も国学者も多かるに、おのれにはたのみ給はじ。さるこゝろもてせられなば、などていと尊大なる。およそ人にもの問ふには礼節あり。いにしへの人は、一字の師をだも、猶おろかにはせざりき。もしまことに問はんとのみこゝろあらば、かくはあらじを、馬琴とさへものぞられしはいかにぞや。曲亭も馬琴も予が戯号なれど、戯作、狂詩、狂歌などのうへにのみ交はる友ならぱ、しか唱へられんに咎むべき事にはあらず。もし実学正文のうへをもて交はる友に、なほ曲亭とたゝへられ馬琴といはるゝは、是われをしらざるものに似たり。いかでか予がこゝろに恥づることなからんや。かゝれぱ刀自もよく予をしり給へるにあらざるなめり。近ごろ平賀源内が、儒学蘭学のうへには鳩渓と号し、戯作には風来山人と称し、浄瑠璃本の作あるには福内鬼外としるしけり。又大田覃は、儒学に南畝と称し、狂詩に寐惚先生と称し、狂文狂歌に四方赤良・四方山人・巴人亭・李花園などもしるし、晩年には蜀山人と号したれども、戯作浄瑠璃のうへならでは、鳩渓を風来とも鬼外とも称するものなく、狂文・狂詩・狂歌のうへならで、南畝を寐惚とも四方とも巴人亭とも称するものはあらざりき。よしやその著きをのみ呼びなれて、虚実の号を混ずるとも、まことによくその人をしれるものは、こゝらに心を用ふべき事歟。刀自はよく予をしらず。予は素より刀自を知らず。男女みづから授け受けざるは礼なり。刀自は人の妻歟、母歟。その宿所だもつゝみ給ふには、われ答ふる所をしらず。こゝをもて只わが志を述べて、おどろかし奉るのみと書きしるしつかはして、めのをんなを呼びて、翌の朝しか/”\の比丘尼未つべし。あるじはけふもはやきに出でゝあらず。こはきのふのおんかへしなりと告げてわたせよ、といふにこゝろ得果て、しかはからひつ。このゝち廿日ばかりを経て、又かの比丘尼より御宰めきたる使をもて、みちのくよりの消息を届け侍るとておこしたるに、栲の尼としるしたる添ぶみもありけり。まづ真葛の状をうちひらきて見るに、こたみはいとおしくたりて、ふみの書きざまのねもごろなりし。そが中に、よろづにあは/\しきをんなのよそをだに得しらねば、今はやもめにていとおよすげたる身にしあれど、をとこに物いはんにねもごろぶりたらんも、なか/\になめげなるべしと思ひとりしより、いやなしと見られにけん。霞ばかりもそなたさまをあなどる心あらば、人には見せぬ筆のすさびを、たのみ奉ることやはあゐ。この後とても、心つきなきこと多からんを、教へられんとこそねがひ侍れ。こなたのうへをしらせよとあるに、いかでかつゝみ侍るべき。真葛はしか/”\なり。又さきにわらはが消息をもて、とぶらひ侍りしは妹にて、しか/”\とその身のうへをも、妹栲尼の名どころをも、つぶさに書きしるして、別に昔がたりといふ草紙一まきに、その先祖の事さへしるしつけてみせられたり。又その消息に、こゝには詞がたきもなく侍れば、只あけくれに物を考へ見かへすることの癖となり、病ともなり侍りたり。さておもふやう、何の為に生れ出づらん。女一人の心として、世界の人のくるしみを助けまほしく思ふは、なしがたきことゝしりながら、只この事を思ふが故に、日夜やすき心もなくてぞ無益なる今はやもめになりつるに、なげきをのこさんことてもなし。いきのかよはん限りは、この歎きやむことあたはじ。なか/\生きてくるしまんより、いきをとゞむるぞ苦をやすむるのすみやかなるべしと思ひて、ひたすら死なん事を願ひ侍りしに、時は秋のながき暁がたの夢に、
 秋の夜のながきためしを引く蔦のといふ歌の上のおのづからふと聞えたるは、多年信じ秦る観音ぼさつしめさせ給ふと覚えて、夢ごゝろに忝く、此下のつけやうにて、おのが一世のうらとならんとまで、しめさせ給ふとおぼえて、いとうれしく心いとあわたゞしきものから、世々に栄えんとこそいはめと思ふ程に、さめはて侍りき。四の句いと大事ぞと思ひつゝ、やゝほどありてたえぬかつらはとつけ侍りし。
 秋の夜のながきためしにひく蔦の絶えぬかつらは世々に栄えん、と一首のかたちをなしぬれど、いと心もとなくのみ思ひ侍りき。かくたえず物をのみ思ひつみし故によりて、病者となり侍りて、身もよはく心もきえ/”\にのみなり増さりしは、不動尊を信じ奉りて後、漸病もうすくなり侍りしか共、今に右の手のいたみて、筆取ること心のまゝならず。眼くらくして、細書をみる事あたはず。是は老の病とぞ覚え侍る。このちかきわたりに、岩不動と申し奉るがたゝせ給ふ。とし毎の五月廿八日には、このわたりなるわらんべ共のつどひて、御こしをかき荷ひ、御はたあまた持ちて遊ぶが如くもて渡り侍り。我も赤色なる御はたをたてまつりしを、御先に持ちてわたりしかば、御心につかせ給へるならめと有りがたく思ひ侍りしに、よひ過ぎてうすねむたきに、いざねばやと思ひて、はしゐしながら、籠にこめたる螢のやすげなくふるまふをまもりつゝ、何心もなくてありしほどに、
 ひかりある身こそくるしき思ひなれ、といふことの耳にきかれて、めさむるこゝちもしは、此御仏の御しめしぞと有りがたくて、
 世にあらはれん時をまつ間はと、又下をつけそへ侍りし。此二歌をちかくに、さらば心にこめしことどもを書きしるさばや、と思ひ立ちて、いとおほけなきこと共をいひ出だせるに侍るなる。書き果て後に誰にしらげをたのまばやと、久しう思ひ煩ひて侍りしに、かゝる人に見せよと、不動尊の御しめしありし故、そなたさまにことよせ侍りしにこそ。おろそかならず考を添へ給はらんなんどねんじ奉りぬ。今の此身は、たとへば、小蛇の物に包まれて、死もやらず生もせず、むなしき思ひのこれるにひとし。君雨となり、風となりて、こゝろざしを引きたすけ給はらば、もし天に顕るゝことのありもやせんなどありて、こたみは滝沢解大人先生様御もとへ、あや子と書かれたり。この長ふみを見る程に、おもはず涙ははふり落ちて、あはれむこゝろになりたり。名をいむ事は、からくにの制度なるを、国学などのうへにては、ふかくいむよしもあらず。たとひ今はなべて忌とても、戯号を唱へらるゝには、はるかにましてほいに称へり。但大人先生などたゝへられしのみ、当りがたきことなれば、大人先生のわけをしるして、かたくとゞめたりけれども、猶あやにくに用ひざりけり。こは羹に懲りしものゞ、韲を吹くたぐひならまし。そも/\この真葛の刀自は、おのこだましひあるものから、をさなきよりの癇症の擬り固まりしにもやあらん。さばれ心ざますなほにて、人わろからぬ性ならずは、予がいひつるこどどもを速に諾ひて、とほつおやの事をさヘしるして見することやはせん。かゝる婦人のたのめる事を猶いなまんはさすがにて、しか/”\とことうけしつる。そのをりの予がかへしに、海なす御こゝろの広からずは、木の枝に鼻をすらるゝといひけん如き、予が言ぐさをうべなひ容れて、しか/”\とは聞え給はじ。およそはこたみの御せうそこにて、あし曳の山の井のかげさへみゆるこゝちし侍れば、浅くは思ひ侍らねど、不動尊の示現によりてなど聞え給ふばかりうけられね。そはとまれかくもあれ。たのまれ奉りし一条は、よくもわろくもなし果て、おん笑にこそ供ふべけれ。しかれどもなりはひの為に、たのまれたる書きものゝ多かれば、ことしのくれまで待たせ給へなどしるし果て、妹の尼の弥ぶみを見るに、みちのくよりのせうそことゞけ奉る。さてもいぬゐ日ふたゝびまでとぶらひまつりしは、人つでになせそ、みづからゆきてしか/”\と伝へよかしと、みちのくよりいひおこせたりしにこそ。さるをつぎのあしたにもあはせ給はぬにて、しか侍りぬ。かのるすゐのおきなこそ、こゝろにくけれ。かゝれば奧のたより毎に、尼がそのせうそこをもてゆきて、とゞけまゐらするもゑうなし。此のちは、いつも使をもてすべきにいやなしとて、御咎め給ひそとゑんじたるふみの書きざまなれば、予は何どもそのことのいらへはせで、
 ふみわきてとはれし草のいほりにはなほ春ながくかるゝ君かも
とよみてつかはしゝかば、後のたよりにかへし、萩の尼。「やぶしわかぬ君が心し春ならばわりことくさもかれずあらましとありしに、又予がかへし、
 ことくさもかれずやあらましとありしに、又予
 ことくさを花とし見ればとゞめあへずきのふをしみし春は物かは、とよみてつかはしけり。こは卯月期日のことにぞ有りける。この萩の尼瑞祥院も多く得がたき才女にて、歌をよみ和文をよくし、はしり書きうるはしくて手すぢはあねの真葛に似て、滝本様なるもめでたし。程へて予がことくさの歌をたゝヘて、
 ことの葉のしげき庵の下つゆやふるえの萩を花となすらん、とよみておこしたりき。又このとしのふゆ、萩の尼よりものをつゝみておこしゝ服紗を、あやまちて火桶の中へとり落したりけるをわびつゝ、かヘしつかはすとて、
 こがれつゝわたしかねたる川舟の風のふくさにいとゞくるしき、といひしに、萩の尼のかへし、やけふくさといふことをとはし書きして、
 よの人のたぐひにあらずまめなり、やけふくさの戸にかへす心は、とありし。こは予が遣したるかへの服紗をかへせし折の事になん。是より先にやよひのころ、真葛のせうそこに、おんなりはひの為に筆とらせ給ふにて、いとまなきにしば/”\わづらはし奉るを、こゝろなしとやおもはれ侍りてんなどありしに、かへしすとてよみてつかはしける。
 我宿の花さくころもみちのくの風の便りはいとはざりけり
程経て真葛のかへし、
 あやまたず君につげなん帰る鴈霞がくれにことつてしふみ
こはその家のおきてあれば、予にせうそこをおくれることを誰々にもしらせずとか。嚮に聞きたることもあれば、歌の心もしられたり。是より後かねて書きつゞりたりし物をば、妹の尼に浄書せしめ、又予が為に綴れるものをば、真葛のみづから浄書して、くさ/\おくりて見やられたり。この余、そのせうそこのはしにも、真淵・春海・宜長・大平などを論ぜしあり。いとけやけくおもほゆるを、さのみはとてしるしてつくさず。かゝりし程に、このとしもはやしも月になりしかば、独考のことは忘れ給はずや。かねての約束をたがへ給ふななどいひおこせること、しば/”\なれども、今さらにそのふみを引きなほさん事易からず。もしそのわろきを刈りとらば、残らんことの葉すくなかるべし。こは此まゝにうちおきて、別にさとすにます事あらじと思ひにければ、原本は仮名づかへのたがへると、真名の写しあやまれるに、いさゝか雌黄を施して、別に独考論二巻を綴りたり。その言、つゆばかりも諂ひかざれる筆をもてせず。その是非をあげつらふに、教訓を旨として高慢の鼻をひしぎしにぞ。いとおとなげなきに似たれど、かくいはでかたほめせば、いよ/\さとるよしなくて、にぶしといふとも、予が斧をうけたる甲斐はあらざるべし。人に信をもてするに、いかりを怕れて諌めざらんは、交遊の義にあらず、とかねておもふによりてなり。かくて廿日ばかりにして、そのふみやうやく来りしかば、みちのくへつかはすとき、いづくまでもまじらひし事うけ給はり度思ひ侍れど、をとこをみなの交やは、かしらの雪を冬の花と見あやまりつゝ、人もや咎めん。且わがなりはひのいとまなきに、とし来思ふよしもあれば、いとふるき友すらうとくなり侍りたり。かゝれば御交りも是を限りとおぼし召されよ、などいひつかはしゝに、次のとしの春、みちのくよりのかへしとて、萩の尼の届けられたり。くだんの尼は、予が論の書きざまを譏れりと見て、うらみにけん。怒りは筆にあらはれにき。こはあねにおとりて、むねせまき婦女子の気質としられたり。真葛はさもあらずして、いといたくよろこびうけたるせうそこのまめやかにて、おんいとまなき冬の日に、ふみやどものせめ奉る春のまうけのわざをすらよそにして、かうなが/”\しきことをつゞりて、をしへ導き給はせし、御こゝろの程あらはれて、限りもなき幸にこそ侍れ。なほながき世に、此めぐみをかへし奉るべしと書かれたり。このとき越前のさくにかみとて、売物には絶えてなき小かたの美の紙十五帖と、おなじ国のはさみ、みちのく名とり川なるうもれ木の栞、もとあらの萩の筆などを贈られしにぞ、明の春きさらぎの頃、そのよろこびを一ふで書きてつかはしゝに、かしこのかへしは来にたれど、粂路の橋のなか絶えて、ふみ見ることはなくなりぬ。いとかなしともかなしかりしが、かく遠ざかりぬる事を、いかにぞやと思ふ人の為には、いふもえうなきわざながら、彼同胞は才女なり。齢はかれも小動のいそぢを過ぐる程なりとも、迭におもてをしらずて親しみ、としをかさねなば、李の下に冠を正し、瓜の園に履をいるゝ人の疑なからずやは。且彼家のぬしにはしらさで、みそかにすといはるゝをしりつゝ、交るべぐもあらず。いと捨てがたき思ありて、捨てずしてかなはぬは、すぐせありての事ならんと、かねてよりおもひしなり。これよりの後、まどろまぬ暁毎に思ひ出で、そのあけの朝、せうそこさへとり出だしつゝ見る毎に、なみだは胸にみちしほのふかきなげきとなりにたり。このゝちみとせばかりの程は、萩の尼が御宰をもて、予が家の奇応丸を求めさせつる事、をり/\ありし、とむすめどものいひつるにて、扨は予が安否のほどを、みちのくへ告げんとてのわざかと思ふも、いとはかなし。いかでわれ真葛の草子をゑりまきにして、世にあらはさんとは思へども、彼の独考は禁忌に触るゝこと多かり。まいて予が独考論などは、人に見すべきものにはあらず。されば此二書は、そゞろにな人に貸しそと、興継をすらいましめたり。又奧州ばなしなどいふものも、はゞかるべきことまじりたれば、えもなきにはなしがたし。只磯づたひの一書のみ、その文の特にすぐれて、且めづらかなる説もあり。禁忌にふるゝことのなければ、是をこそとおもふ物から、いまだ時の至らぬにや。ふみやと謀るいとまなかりき。真葛の齢を僂るに、予に四つばかりのあねなりければ、今もなほ恙なくば六そぢあまり三つにやならまし。(頭註:真葛は文政七年{ママ}某の月日に、身まかりしとぞ。今茲三月、尾張の友人田鶴丸が松島見にゆきし折、言づてに真葛と疎からぬ仙台の医師にたづねしよしにて、はつかに、その訃聞えたるなり。丙戌四月追記)。おもふにいぬる文化のはじめつかた、尾張の某氏の後室が、新潟といふ草紙物語を書きつめて、予が筆削を乞ひけるも、かたく辞びて還したり。又ちかきころ、本郷なる田中氏の女の、予が教を受けんと願ふこと、既に十とせにあまりぬと聞えしも、いなみて終にうけ引かざりき。まいて男子の予がをしへ子たらんと請ひし人々は、かゞなふに遑なきを、意見を述べ推し禁めて、いづれもゝとめに応ぜざりけり。予が人の師とならざりしは、柳宗元に倣ふにあらねど、素より思ふよしあればなり。さるを只この真葛の刀自のみ、婦女子にはいとにげなき経済のうへを論ぜしは、紫女・清氏にも立ちまさりて、男だましひあるのみならず、世の人はえぞしらぬ、予をよくしれるもあやしからずや。されば予が陽に■コロモヘンに去/けて陰に愛づるは、このゆゑのみ。かゝる世の稀なる刀自なるを、兎園社友にしらせんとて、いといひがたきことをすら、おしもつゝまでしるすになん。秋もはやけふのみとくれゆく窓の片あかり、風さへいとゞ身にしみて、火ともす程をまつまゝに、かくなん思ひつゞけゝる。
から見きと思ふもわびし真葛葉に人もなごりの秋の夕風。予は例のふみやらにせめられて、かゝるものかくいとまなきをそのいとまなき所に、いと長々しう書かんこと、まことにかくにはあるべけれど、思ふも老のしはみたるなり.瘤を見するに似て、われながらいと/\をかし、さればきのふ巳のころに、はじめて筆を把りしより、さて書くとかく程に、夜もはや二更の鐘を聞きつゝ、このはたひを綴り果にき。もちろん初稿のまゝにしあれば、さすがに心もとなさに、今朝はじめよりよみかへして、纔に誤脱を補ふものから、拙きうへになほ拙きが巧にして、けふのまとゐの間にあはぬにはますらめと、みづからゆるすも嗚呼なるべし。
   文政八年乙酉冬十月朔       愚山人解識
{兎園小説巻十集}

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