★伊井暇幻読本・南総里見八犬伝「絶えず移相する位相」★

 「佛説長者女菴提遮師子吼了義經」である。如何やら中国は梁代に漢訳されたものらしいのだが、訳者の名前さえ不明である。般若心経とか法華経とかと比べれば、全くマイナーであろう。いや別に、八犬伝に直接関係があると思っているわけではないが、前近代日本の思考・思想に大きく深い影響を与えた仏教の論理が、なかなか楽しく凝縮されているやに感じられ、紹介しようと三日ばかりかけてテキトーに訳してみた。だいたい不信心の塊みたいな男が訳したのだし梵典にも当たらず底本が大正大蔵経の読点怪しき漢訳仏典だから、甚だ危うい。まぁ原文の紹介だけでは芸がないし、著作権法上の憚りもあれば、オマケで書き下しと口語訳を付けた。最初は普通に訳していたのだが、そんな自分の真面目さが厭で、途中から、やや砕けた訳になっているかもしれない。文殊師利菩薩がオネエ言葉である理由は、これまで読本を読んでくださってきた方には不自然ではなかろう(いや単に文殊師利は文殊シリ/尻って近世の駄洒落があり、文殊は日本衆道の祖とされた弘法大師空海に衆道アナルコイトスを教えた菩薩だとされていたってだけですから、気にしないでください)。仏陀が下世話な口調であるのは、単に筆者の趣味による。本経に登場する仏陀は、菩薩を率いる如来位に在る。菩薩の段階は、仏陀が王子だったころの服装をして、若々しく煩悶する貴公子なんだが、如来になると虚飾を捨て去り粗末な服装でデップリ太った中年の相を表す。そんな奴が、丁寧な口調だったら、気色悪いではないか。また、主人公である菴提遮が途中から蓮っ葉言葉になるのは、まぁご愛敬だ。結果として原文のみの紹介より四五倍の分量になったわけだが、お急ぎの方は飛ばして結構。経典読解に自信のある向きは、ちゃんと読んで筆者に教えていただきたい。それでは以下に引用する。

     ◆原文◆
佛説長者女菴提遮師子吼了義經
    失譯人名今附梁録
如是我聞。一時佛住舍衛國祇樹給孤獨園。與無量比丘比丘尼優婆塞優婆夷。菩薩摩訶薩衆倶爾時去舍衛城西二十餘里。有一村名曰長提。有一婆羅門。名婆私膩迦。在其中住。其人學問廣博。深信内典敬承佛教。時婆羅門欲設大會。至祇■(サンズイに亘)所請佛及僧。佛則受其請。婆羅門還家。又剋其時。佛與大衆往詣彼村。至婆羅門舍。爾時長者。見佛歡喜踊躍。不能自勝。即率諸眷屬來至佛所。各各禮佛恭敬而住。其婆羅門有一長女。名菴提遮。先嫡與人暫來還家。侍省父母。其女容貌端正。其度高遠。用心柔下。其懷豁然。能和夫妻。侍養親族。事夫如禁。其儀無比。出於群類。父母眷屬皆出見佛。唯有此女獨在室内。其女自以生來。父母莫測其所由。故名之菴提遮。爾時如來。即知長者有一女。在室内未出。知其不出所由。若其出者利益無量大衆。及諸天人。佛即告長者言。汝之眷屬出來盡耶。其婆羅門。束手長跪佛前。以此女不出之状。將之為恥。默然未答。佛則知其意。仍告之言。中時向至可設供耶。時婆羅門。即承佛教起設供養。大衆及其長者。眷屬中食已訖。唯有此女。未及得食。時如來■(缶に本)中故留殘食遣一化女將此餘食。與彼室内女菴提遮。時化女人。以偈告曰「此是如來餘 無上勝尊賜 我當承佛教 願仁清淨受」其女菴提遮。即以偈歎曰「嗚呼大慈悲 知我在室已 今賜一味食 尋仰睹聖旨」復以偈答彼化女曰「我常念所思 大聖之所行 未曾與汝異 何事不清淨」其化女聞菴提遮説偈已。即沒不現。其女菴提遮。以心念誦偈言「我夫今何在 願出見勝尊 願知我心淨 速來得同聞」爾時菴提遮。淨心力故。其夫隨念即至其所。是女菴提遮見其夫已。心生歡喜。以偈歎曰「嗚呼大勝尊 今隨濟我願 不辭破小戒 恐當不同聞」其夫見菴提遮説偈言已。即還以偈責曰「嗚呼汝大癡 不知善自宜 勞聖賜餘食 守戒竟何為」時女菴提遮。即隨其夫往詣佛所。各自禮佛及諸大衆。恭敬而立。時女菴提遮。以偈歎曰「我念大慈悲 救護十方尊 欲設祕密藏 賜我淨餘食 大聖甚難會 世心有所疑 誰可問法者 發衆菩提基」爾時舍利弗。即白佛言。世尊。此是何女人。忽爾來至此。復説如是法偈言得餘食。佛告舍利弗言。此是長者女。復問曰。從何而來。何因至此。佛告舍利弗。此女人不從遠來。只在此室。雖有父母眷屬。其夫不在。以自誡敬順夫因縁故。不從父母輕爾出遊現於大衆。時舍利弗白佛言。是女以何善因故。生此長者家。其容若此。復以何因縁故。得如是士夫禁約。若此不能自由見佛及僧。佛即告舍利弗。汝自問之。時舍利弗。問其女曰。汝以何因縁。生此長者家。復以何因縁。得如是人為夫禁戒。若此不能自由見佛及僧。其女菴提遮。以偈答曰「我以不惡生 生此長者家 又不執女相 得是清淨夫 我在内室中 以為自在竟 是分未曾越 聖知賜我餘 嗚呼今大徳 不知真實由 絲毫不負越 故名大自在 我雖内室中 尊如目前現 仁稱阿羅漢 常隨不能見 大聖非是色 亦不離色身 聲聞見波旬 謂是大力人 嗚呼今大徳 隨聖少方便 不知本元由 於我生倒見」爾時舍利弗。默然而止。私自念言。此是何女人。其辯若此。我所不及。佛即知其意。而告之曰。勿退於問答生於異心。是女人已經■(ニンベンに査みたいな)無量諸佛所説。是法藥勿疑之也。爾時文殊師利。問菴提遮曰。汝今知生死義耶。答曰。以佛力故知。又問曰。若知者生以何為義。答曰。生以不生生為義。又問曰。云何不生生為義耶。答曰。若能明知。地水火風四縁。畢竟未曾自得。有所和合。而能隨其所宜。有所説者。以為生義。又問曰。若知。地水火風。畢竟不自得。有所和合為生義者。即應無有生相。將何為義。答曰。雖在生處而無生者。是為正生。故説有義。文殊又問曰。死以何為義耶。答曰。死以不死死為義。又問曰。云何以不死死為死義耶。答曰。若能明知。地水火風。畢竟不自得有所散。而能隨其所宜。有所説者。是為死義。又問曰。若知地水火風。畢竟不自得散者。即無死相。將何為義。答曰。雖在死處其心不亡者。是為正死。故説有義。文殊師利又問曰。常以何為義。答曰。若能明知。諸法畢竟生滅變易。無定如幻相。而能隨其所宜。有所説者。是為常義。又問。若知。諸法畢竟生滅。無定如幻相者。即是無常義。云何將為常義耶。答曰。諸法生而不自得生。滅而不自得滅。乃至變易亦復如是。以不自得故。説為常義。又問曰。無常以何為義。答曰。若知。諸法畢竟不生不滅。隨如是相。而能隨其所宜。有所説者。是為無常義。又問曰。若知。諸法畢竟不生不滅者。即是常義。云何説為無常義耶。答曰。但以諸法自在變易無定相。不自得隨。如是知者。故説有無常義耶。又問曰。空以何為義。答曰。若能知。諸法相未曾自空不壞今有。而能不空空。不有有者故説有空義。又問曰。若不空空。不有有者。即無有事。將何為空義耶。其女菴提遮。則以偈答曰「嗚呼真大徳 不知真空義 色無有自相 豈非如空也 空若自有空 則不能容色 空不自空故 衆色從是生」爾時文殊師利又問曰。頗有明知生而不生相。為生所留者不。答曰有。雖自明見其力未充。而為生所留者是也。又問頗有無知不識生性。而畢竟不為生所留者不。答曰無。所以者何。若不見生性。雖因調伏少得安處。其不安之相常為對治。若能見生性者。雖在不安處。而吉相常為現前。若不如是知者。雖有種種勝辯談説甚深典籍。而即是生滅心。説彼實相密要之言。如盲辯色。因他語故。説得青黄赤白黒。而不能自見色之正相。今不能見諸法者。亦復如是。但今為生。所生為死。所死者於其人。即無生死之義耶。若為常無常所繋者。亦復如是。當知大徳。空者亦不自得空。故説有空義耶。爾時佛告文殊師利。如是如是。如菴提遮所説。真實無異。日可令冷。月可令熱。是菴提遮所説。不可移易。時舍利弗。復問其女曰。汝之智慧辯才若此。佛所稱歎。我等聲聞之所不及。云何不能離是女身色相。其女答曰。我欲問大徳。即隨意答我。大徳。今現是男不。舍利弗言。我雖色是男。而心非男也。其女言。大徳。我亦如是。如大徳所言。雖在女相。其心即非女也。舍利弗言。汝今現為夫所拘執。何能如此。其女答曰。大徳。能自信己之所言不。舍利弗言。我之自言。云何不自信。其女答曰。若自信者。大徳。前言説我色是男而心非男者。即心與色有所二用也。若大徳自信此言者。於我所不生有夫之惡見。大徳自男。故生我女相。以我女色故。壞大徳心也。而自男見彼女者。則不能於法生實信也。舍利弗言。我於汝所。不敢生於惡見。其女答曰。但以對世尊故。不敢是實言也。若實不生惡見者。云何説我言汝今現為夫所拘執耶。是言從何而來。舍利弗言。我以久離習故。有此之言非實心也。其女問曰。大徳。我今問者隨意答我。大徳既言久離男女相者。大徳。色久離心久離。時舍利弗。默然不答。爾時菴提遮以偈頌曰「若心得久離 畢竟不生見 誰為作女人 於色起不淨 若論色久離 法本不自有 畢竟不曾汚 將何為作惡 嗚呼今大徳 徒學不能知 自男生我女 豈非妄想非 悔過於大衆 於法勿生疑 我上所言説 是佛神力持」時菴提遮説是偈已。其比丘比丘尼。優婆塞優婆夷。天及人一千餘人。得阿耨多羅三藐三菩提心。有五千衆。於中得無生法忍者。得法眼者。又得心解脱者。其無量聲聞衆。而於佛法自生慚恥者無量爾時佛告舍利弗。是女人非是凡也。已■(ニンベンに査みたいな)無量諸佛。常能説如是師子吼了義經。利益無量衆生。我亦自與是女人同事無量諸佛已。是女人不久當成正覺。是諸衆中。於是女人所説法要。即能生實信者。皆已久聞是女人所説法故。今則能生正信。是故應當諦受是師子吼了義經勿疑。佛告阿難言。汝當受持此長者女菴提遮。以師子吼了義問答經章句。次第付囑於汝。汝當諦受。阿難白佛言。唯然世尊。今悉受已。爾時大衆聞女菴提遮説法已。心大歡喜。踊悦無量。各自如説修行佛説長者女菴提遮師子吼了義經

     ◆書き下し◆

佛説長者女菴提遮師子吼了義經
    譯する人の名を失す。今や梁に附して録す。
是(か)くの如く我聞く。一(ある)時、佛は舍衛國祇樹給孤獨園に、無量の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷・菩薩摩訶薩衆と倶(とも)に住す。爾(そ)の時、舍衛城を西に去ること二十餘里、一村あり、名づけて長提と曰(い)う。一(ひと)りの婆羅門あり。名は婆私膩迦、其の中に在りて住す。其の人は學問廣博にして、深く内典を信じ佛教を敬い承る。時に婆羅門、大會を設けんと欲し、祇■(サンズイに亘)所に至りて、佛及び僧に請(こ)う。佛、則ち其の請(もと)めを受く。婆羅門、家に還る。又、其の時を剋(きざ)む。佛と大衆、彼の村に往きて詣で、婆羅門の舍に至る。爾の時、長者は佛に見(まみ)えて歡喜し踊躍して自勝すること能(あた)わず。即ち諸眷属を率い佛所に來りて、各々佛に禮して恭しく敬みて住(とど)まる。其の婆羅門に一りの長女あり。名は菴提遮。先に人と嫡し、暫くして家に来還して、父母に侍りて省みる。其の女、容貌は端正にして、其の度は高遠、心を用いること柔らかくして下る。其の懷は豁然、能(よ)く夫妻として和す。親族に侍り養い、夫に事(つか)えること禁にあるが如し。其の儀は比ぶる無く、群類より出ず。父母眷屬は皆、出でて佛に見ゆ。唯、此の女ありて獨り室内に在(あ)り。其の女、自ら生じ来たるを以て、父母は其の由(よし)とする所を測(はか)るなし。故に之(これ)を菴提遮と名づく。爾の時、如來は、即ち長者に一女ありて室内に在りて未だ出ざるを知り、其の出ざる由とする所を知る。若(も)し其れ出でれば、無量大衆及び諸天人に利益ならんと。佛は即ち長者に告げて言う「汝の眷屬は出で來たり盡(つく)すや」。其の婆羅門、佛前に手を束(つか)ね長跪し、此の女が出でざるの状を以て、將(まさ)に之を恥とせんとす。默然として未だ答えず。佛は則ち其の意を知り、仍(すなわ)ち之に告げて言う「時に中(あた)る。向かい至り、供を設けるべきか」。時に婆羅門、即ち佛の教えを承り供養を起こし設く。大衆及び其の長者・眷屬、中食を已(すで)に訖(おわ)る。唯、此の女ありて未だ食を得るに及ばず。時に如來、鉢中に食を留め殘し、一りの化女をして此の餘食を将(すす)ましめ、彼の室の内に女菴提遮に与う。時に化女の人、偈を以て告げて曰(いわ)く「此の是(これ)如來の餘、無上の勝尊が賜う。我、佛の教えを當(まさ)に承る。願わくば、仁(いつく)しみ清淨として受けよ」。其の女菴提遮、即ち偈を以て歎きて曰く「嗚呼、大慈悲は、我れの室に在るを知るのみ。今、一味の食を賜う。尋ねて聖旨を仰ぎ睹(み)ん」。復(ま)た偈を以て彼の化女に答えて曰く「我は常に思う所を念(おも)う。大聖は行く所に之(い)く。未だ曾て汝と異ならず。何ぞ不清淨なるを事とするか」。其の化女、菴提遮の説偈を聞きて、即ち沒して現れず。其の女菴提遮、心念を以て偈を誦して言う「我が夫、今は何(いず)くに在るや。願わくば出でて勝尊に見えん。願わくば我が心の淨なるを知らしめん。速やかに來りて同じくして聞くを得しめよ」。爾の時、菴提遮の淨らかなる心の力の故に、其の夫は念に隨いて即ち其の所に至る。是にして女菴提遮、其の夫と見えて心に歡喜を生じ、偈を以て歎じて曰く「嗚呼、大勝尊よ、今、我が願いに隨いて濟(すく)う。小戒を破るを辭さずして、當に同じく聞かざるべきを恐れることより」。其の夫、菴提遮の偈を説きて言うに見えて、即ち還り偈を以て責めて曰く「嗚呼、汝は大癡か。善は自ずから宜しきを知らず。聖を勞せしめて餘食を賜わしむ。戒を守りて、竟(つい)に何を為すか」。時に女菴提遮、即ち夫に隨いて佛所に往きて詣で、各自、佛及び大衆に禮して恭しく敬いて立つ。時に女菴提遮、偈を以て歎じて曰く「我念う、大慈悲は十方の尊を救護し祕密藏を設けんと欲して我に淨餘食を賜う。大聖は甚だ會し難し。世心に疑う所あり。誰か法を問うべき者か、衆に菩提基を發せしむるか」。爾の時、舍利弗、即ち佛に白(もう)して言う「世尊、此の是れ、何たる女人ぞ。忽爾にして此に来て至る。復た是くの如き法偈を説き、餘食を得ると言う」。佛、舍利弗に告げて言う「此の是れ、長者の女」。復た問いて曰く「何(いず)こ從(よ)り來たるか。何の因にて此に至るか」。佛、舍利弗に告ぐ「此の女人は遠く従りは來らず。只、此の室に在り。父母眷属在りと雖も、其の夫が不在にして、以て自ら誡めて夫に敬順するを因縁とする故、父母に從い輕爾にして出遊し大衆に現れず」。時に舍利弗、佛に白して言う「是の女は何の善因の故を以て、此の長者の家に生れ、其の容(かたち)此くの若(ごと)きか。復た何の因縁の故を以て、是くの如き士夫と禁約するを得て、此くの若く自由に佛及び僧に見ゆること能わざるか」。佛、即ち舍利弗に告ぐ「汝、自ら之を問え」。時に舍利弗、其の女に問いて曰く「汝、何の因縁を以て此の長者の家に生れ、復た何の因縁を以て是くの如き人を夫に得て禁戒を為し、此の若く自由に佛及び僧と見ゆる能わざる人たるを得るか」。其の女菴提遮、偈を以て答えて曰く「我は惡生せざるを以て、此の長者の家に生る。又、女相に執せざるを以て、是の清淨夫を得る。我は内室中に在りて、自在の竟と為すを以て、是の分を未だ曾て越えず。聖は知りて我に餘を賜う。嗚呼、今、大徳は真實の由を知らず。絲毫も越を負わず。故に大自在と名づく。我は室中に内すると雖も、尊の目前に現ずる如し。仁は阿羅漢と称す。常に見る能わざるに隨う。大聖は是、色に非ず。亦、色見を離れず。聲聞に波旬を見るを是れ、大力の人と謂う。嗚呼、今、大徳よ、少(おさな)き方便に随い聖(たかし)とし、本元の由を知らずして、我に於いて倒見を生ず」。爾の時、舍利弗は默然として止む。私に自ら念いて言う「此の是れ、何たる女人ぞ。其の辯、此くの若し。我の及ばざる所」。佛は即ち其の意を知りて、之に告げて曰く「問答に於いて退き異心を生ずる勿(なか)れ。是の女人は已(すで)に無量の諸佛の諸説經に値う。是の法藥、之を疑うこと勿れ」。爾の時、文殊師利、菴提遮に問いて曰く「汝、今、生死の義を知るや」。答えて曰く「佛力を以てする故に知る」。又、問いて曰く「若し知らば、生は何を以て義と為すや」。答えて曰く「生は不生の生を義と為す」。又、問いて曰く「何ぞ不生を生の義と為すと云うや」。答えて曰く「若し能く明知すれば、地水火風四縁の畢竟においては未だ曾(かつ)て自得せずして和合する所あり。而して能く其の宜しくする所に随う。説く所あれば、以て生の義と為す」。又、問いて曰く「若し知れば、地水火風の畢竟において自得せずして和合する所あるを、生の義と為せば、即ち生相ある無きに應ず。將に何を義と為すべきか」。答えて曰く「生處に在ると雖も、而して無生なれば、是は正生と為す。故に義ありと説く」。文殊、又、問いて曰く「死は何を以て義と為すや」。答えて曰く「死は不死の死を以て義と為す」。又、問いて曰く「何ぞ不死の死を、死の義と為すや」。答えて曰く「若し能く明知すれば、地水火風の畢竟においては自得せずして散ずる所あり。而して能く其の宜しくする所に随う。説く所あれば、是、死の義と為す」。又、問いて曰く「若し知れば、地水火風の畢竟において自得せざるして散ずるは、即ち無死の相と為す。將に何を義と為すべきや」。答えて曰く「死處に在りと雖も、其の心の亡ばざれば、是は正死と為す。故に義ありと説く」。文殊師利、又、問いて曰く「常とは何を以て義と為すや」。答えて曰く「若し明らかに知れば、諸法は畢竟において生滅し變易し幻相の如く無定なり。而して能く其の宜しくする所に隨う。説く所あれば、是をば常の義と為す」。又、問う「若し知れば、諸法の畢竟において生滅し幻相の如く無定なるは、即ち是れ無常の義なり。何ぞ將に常の義と為すべきか」。答えて曰く、「諸法において生にして生は自得せざれば、滅にして滅は自得せず。乃至、變易は亦復た、是くの如し。自得せざるを以てする故に、常の義と為すと説く」。又、問いて曰く「無常は何を以て義と為すや」。答えて曰く「若し知れば、諸法においては畢竟において不生不滅なりて、是くの如き相に随う。而して能く其の営む所に随う。説く所あれば、是をば無常の義と為す」。又、問いて曰く「若し知れば、諸法の畢竟において不生不滅なるを即ち是れ常の義とせば、何を説きて無常の義と為すと云うか」。答えて曰く「但し諸法は自在にして變易し定まる相の無きを以て、自得せずして随う。是くの如く知る故に無常の義あるを説く」。又、問いて曰く「空は何を以て義と為すか」。答えて曰く「能く知る若く、諸法の相は未だ曾て自ずから空ならざるして、壊れずして今にあり。而して能く不空の空にして不有の有なり。故に空の義ありと説く」。又、問いて曰く「若し不空の空にして不有の有ならば、即ち無きにして有る事、將に何ぞ空の義と為すや」。其の女菴提遮、則ち偈を以て答えて曰く「嗚呼、真の大徳、真の空の義を知らず。色は自ずから相あるは無し。豈に空の如きにあらずや。若し空の自ずから空なれば、則ち色を容(かたちづく)る能わず。空は自ずから空ならざる故に、衆色は是に從り生ず」。爾の時、文殊師利、又問いて曰く「生にして不生相なるを頗る明知して、生を留まる所と為す者、ありや、あらずや」。答えて曰く「有り。自ずから明見と雖も其の力の未だ充たず、而して留まる所を生と為す者、是れ也」又、問う「頗る無知にして生性を識らず、而して畢竟において留まる所を生と為さざる者ありや、あらずや」。答えて曰く「無し。所以は何ぞ。若し生性を見ざれば、調伏に因りて少しく安處を得ると雖も、其の不安の相と常に對治を為す。若し能く生性を見れば、不安處に在ると雖も、而して吉相、常に現前に為す。若し是くの如く知らずんば、種々勝(すぐ)れて辯談し甚だ深く典籍を説くありと雖も、而して即ち是れ滅心を生ず。彼の實相を密要の言で説けば、盲の色を辯えるが如し。他語の故に因れば、青黄赤白黒を得ると説きて、而して自ずから色の正相を見ること能わず。今、諸法を見る能わざる者、亦復た是くの如し。但し今、生の死と為す所を生と為す。其人に於いて死する所の者は、即ち無生死の義か。若し常をして無常の繋がる所と為せば。亦復た是くの如し。當に知るべし、大徳、空は亦、自ずからは空を得ず。故に有空の義を説く」。爾の時、佛は文殊師利に告ぐ「是くの如し、是くの如し。菴提遮の説く所の如し。真實無異。日は冷せしむべく、月は熱せしむべし。是れ菴提遮の説く所は、移り易えるべからず」。時に舍利弗、復た其の女に問いて曰く「汝の智慧辯才は此くの若し。佛の稱歎する所。我等の聲聞の及ばざる所。云え、何ぞ是の女身色相を離れること能わざるか」。其の女、答えて曰く「我は大徳に問うを欲す。即ち意に隨いて我に答えよ。大徳、今は是れ男に現ぜるや、それにあらずや」。舍利弗言う「我は色、是れ男と雖も、而して心は男に非ざる也」。其の女の言う「大徳、我も亦、是くの如し。大徳の言う所の如し。女相に在ると雖も、其の心は即ち女に非ざる也」。舍利弗の言う「汝、今は現に夫をして拘執せしむる所と為る。何ぞ能く此くの如きや」。其の女の答えて曰く「大徳、自ずから己の言う所を信ずるや、それにあらずや」。舍利弗の言う「我は之、自ら言う。云え、何ぞ自ず信ぜざるや」。其の女の答えて曰く「若し自ずから信ずれば、大徳、前(さき)に説く、我が色は是れ男にして心は男に非ざる者と言い説く。者(てえれ)ば、即ち心と色は、二つ用いる所ある也。若し大徳、自ら此の言を信ずれば、我の生ぜざる所に於いて夫の惡見あり。大徳は自ずから男の故に、我を女相に生ず。以て、我が女色の故に、大徳の心を壞す也。而して男より、彼を女と見れば則ち、法に於いて實信を生ずること能わざる也」。舍利弗の言う「我の汝に於いてする所、敢えて惡見に生ぜしめず」。其の女の答えて曰く「但し世尊に対する故を以て、是れ實言を敢えてせざる也。若し實に惡見を生じざれば、何をか云う、我に説きて汝は今に現に夫をして拘執せしむる所なりと。是の言は何に從りて來るか」。舍利弗言う「我の久しく習から離れる故を以てなり。此の言あれば、實心には非ざる也」。其の女、問いて曰く「大徳、我の今問う者、意に隨いて我に答えよ。大徳は既に男女の相を久しく離れると言う。者ば、大徳は色の久しく離れ、心の久しく離れるか」。時に舍利弗、默然として答えず。爾の時、菴提遮は偈を以て頌して曰く「若し心の久しく離れるを得ば、畢竟、見を生ぜず。誰ぞ女人をして色に於いて不浄を起こさしむることを作すと為すか。若し曾て色を論ずるに久しく離れるならば、法は本より自ずからはあらず。畢竟、曾て汚れず。將に何ぞ惡を作さしむるを為すか。嗚呼、今、大徳は徒(いたず)らに學びて知る能わず。自ずから男にして、我をして女に生ぜしむ。 豈に妄想ならずや、それにあらずや。大衆に悔過し、法に於いて我が上に言い説く所に疑いを生ずる勿れ。是れ、佛の神力に持す」時に菴提遮、是の偈を説けば、其の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷・天及び人一千餘人、阿耨多羅三藐三菩提心を得る。五千の衆あり。中に於いて、無生法忍を得る者、法眼を得る者、又、心の解脱を得る者、其の無量の聲聞衆。佛法に於いて自ら慚恥を生ずる者も無量。爾の時、佛、舍利弗に告ぐ「是の女人は是、凡に非ざる也。已に無量の諸佛に値(あ)いて、常に能く是くの如く師子吼了義經を説きて、無量衆生を利益す。我も亦、自ら是の女人と同じく無量諸佛に事う。是の女人は久しからずして、當に正覺を成すべし。是れ諸衆、是の女人の説く所の法要に中れば、即ち能く實信を生ず。者、皆は已に久しく是の女人の説く所の法を聞く故に、今、則ち能く正信を生ず。是の故に當諦に應じて是の師子吼了義經を受け、疑うこと勿れ」。佛は阿難に告げて言う「汝、當に此の長者の女菴提遮を受持して、師子吼了義を以て經章句を問答せよ。次第は汝に付囑す。汝、諦受すべし」。阿難、佛に白して言う「唯然なり、世尊。今、悉く受く」。爾の時、大衆、女菴提遮説法を聞きて、心は大いいに歡喜し、踊りて悦ぶこと無量。各自、説の如く修行せよ。
佛説長者女菴提遮師子吼了義經
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 さすがに長くなったので、口語訳は次回に。(お粗末様)
 
 
 

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