読史余論 新井白石
第一巻
 
本朝天下の大勢九変して武家の代となり武家の代また五変して当代におよぶ総論の事

神皇正統記に光孝より上つかたは一向上古也、万の例を勘ふるにも仁和より下つかたをぞ申める。五十六代清和幼主にて外祖良房摂政す。是外戚専権の始(一変)。基経外舅の親によりて陽成を廃し光孝を建しかば天下の権帰於藤氏。そののち関白を置き或は置ざる代ありしかど藤氏の権おのづから日日盛也(二変)。六十三代冷泉より円融・花山・一条・三条・後一条・後朱雀・後冷泉、凡八代百三年の間は外戚権を専にす(三変)。後三条・白河、両朝は政出於天子(四変)。堀河・鳥羽・崇徳(白河六年・鳥羽十三年)近衛(鳥羽十四年)後白河・二条・六条・高倉・安徳(後白河三十余年)凡九代九十七年の間は政出於上皇(五変)。後鳥羽・土御門・順徳、三世凡二十八年の間は鎌倉殿天下兵馬の権を分掌せらる(六変)。後堀河・四条・後嵯峨・後深草・亀山・後宇多・伏見・後伏見・後二条・花園・後醍醐・光厳、十二代凡百十二年の間は北条陪臣にて執国命(七変)。後醍醐重祚、天下朝家に帰する事纔に三年(八変)。そののち天子蒙塵、源尊氏、光明を立て共主となしてより天下ながく武家の代となる(九変)。
武家は源頼朝、幕府を開て父子三代天下兵馬の権を司とれり。凡三十三年(一変)。平義時、承久の乱後天下の権を執る。其のち七代凡百十二年、高時が代に至て亡ぶ(二変○此時に摂家将軍二代、親王将軍四代ありき)。後醍醐中興の後、源尊氏反して天子蒙塵。尊氏、光明院を北朝の主となしてみづから幕府を開く。子孫相継で十二代におよぶ。凡二百三十八年(三変○このうち南北戦争五十四年、応仁乱後百七年の間、天下大に乱る。実に七十七年が間、武威あるがごとくなれども東国は皆鎌倉に属せし也)。足利殿の末、織田家勃興して将軍を廃し挟天子令天下と謀りしかど事未成して(凡十年がほど)其臣光秀に弑せらる。豊臣秀吉其故智を用ひ自ら関白となりて天下の権を恣にせしこと凡十五年(四変)。そののち終に当代の世となる(五変)。
謹按、鎌倉殿天下の権利を分たれし事は平清盛武功によりて身を起し遂に外祖の親をもて権勢を専にせしによれり。清盛かくありし事も上は上皇の政みだれ下は藤氏累代権を恣にせしに傚ひしによれる也。されば王家の衰し始は文徳幼子をもてよつぎとなされしによれりとは存ずる也。尊氏、天下の権を恣にせられし事も後醍醐中興の政正しからず、天下の武士、武家の代をしたひしによれる也。尊氏より下は朝家はたゞ虚器を擁せられしまゝにて天下はまつたく武家の代とはなりたる也。
……中略……
○太田道灌が説に、泰時執権の時、僧ありて、公もし善心あらば一伽藍をたて給へといふ。泰時建立の事も有なむ。其功徳はいかにやといふ。一宇の伽藍を建立しぬれば治世安民後生善所子孫繁昌の功徳ありといふ。泰時、仏法と神道聖法とは何れか優劣ある。僧こたへて、神道聖法は仏法には及がたし。泰時、笑て、一師道にくらければ万弟道にまどふとは、かゝる事にぞ有べき、我国の宗廟太神宮は小社を茅ぶきにしてわたらせ給へども御恵は秋津洲にみつ、和僧の心こそ正しからね、功の大小によらず志道に協ふ時は求ざるに善縁ありと勧めなばよかりなん、我を賺して伽藍たてよといふは大に過れるにこそ、今伽藍を建なば其費大にして国の煩なるべし、これ安民の便ならず民を苦むるなるべし、現(裕曰、現一作理)世安隠とは何をかうふべき、世を治め従類眷属をはごくむこそ現世安隠とはすべき、子孫善ならば祈らずとも栄え悪あらば祈るとも亡びなまし、我家業だによく知る事はかたし、ましてや我道ならぬ事をや、聖賢の道神道の意の深長なる、いかでか知り尽すべき、一天の主万乗の君も渇仰し給へる仏道なればあしゝとは申がたし、和僧鎌倉にあらば政の妨ともなり浅智の人家業を失ふ媒ともなりなむ、とて鎌倉を追出しけり。其後は鎌倉の僧これに畏れて人を誑かさず。泰時かゝる賢才ありしかど時頼が代に建長寺を建しより鎌倉中に五山とて大なる寺どもあまた作り其外国国に寺を作る事数をしらず、国の宝大きに費へ盗賊巷にみちぬ。尊氏は夢窓国師といふ僧にたぶらかされて天龍寺をたてゝあらぬ事多かりき。武将の身としてかかるみちに惑ては国治ること難かるべし。寺作るこゝろざしあらば、まづ四海流離の民をすくう謀こそ、あらまほしけれ。
……中略……
室町家代代将軍の事
応永二年、新田方小山犬丸征罰のため鎌倉氏満二月廿八日古河に至り小山は戦て敗す。三月、満幸誅せらる。出家しぬれど明徳乱の張本たる故赦されず。三年春、大友修理大夫吉弘、右馬頭を殺す。大友を都に召て籠居せしむ。小笠原長秀・今川範忠・伊勢貞行に仰せて定武家儀式(按ずるに王代記に、ことし今川止職の事を記しぬれど難太平記に大友報免の後、大内が方便にて貞世止職と見えたり。さらば応永四年の冬か五年の事なるべし)。四年秋、少弐入道宗間・菊池肥前守兵起り千葉・大村是にくみす。大内義弘并に弟伊予守弘勝・六郎盛見是をうつ。伊予守討死。冬十一月、大友赦されて帰国す(一説に大友功を恃て驕ければ小弐菊池密旨をうけて大内を計りし也。大内が逆謀こゝに萌すといふは非なり)。五年五月八日、畠山基国管領(法名徳元)。武家三職七頭を定む。三職は斯波・細川・畠山(執事別当)。七頭は山名・一色・土岐・赤松・京極・上杉・伊勢也。其中に山名・一色・赤松・京極は京の奉行(侍所別当)。是を四職といふ。奏者は伊勢守貞行なり。又武田・小笠原二人は弓馬の礼式奉行たり。又両吉良・今川・渋川、武者頭たり(京極といふは佐佐木道誉が後なり)。関東にても是に倣ひ鎌倉管領をば将軍とも御所共いひ、家老上杉を管領といひ、千葉・小山・長沼・結城・佐竹・小田・宇都宮・那須を八屋形といふ。
(按ずるに義満此挙、朝家の五摂家七精華などといふに倣ふといふ。摂家出来しは朝家の衰へし始にして其家五つに別れしは摂家又衰へしはじめ也。義満彼衰世の政に倣ふ事、真に不学無術の愆也。武家の衰へし事も是より始れり。すべて此人、驕侈にして、やゝもすれば王朝の礼を僭竊して無智妄作、事の当否を計らず父祖の余烈を振ひ家を起しぬれど創業垂統の深謀遠慮なかりし事惜むべし)
六年の冬、大内乱あり。十月十三日に大内左京太夫義弘、泉州境につき平井新左衛門して案内を申す。此人野心の聞えありて青蓮院坊官伊予法眼して召せども故有と申して参らず。和泉・紀伊・筑紫・中国の兵、堺の城にみつ。南方の楠正秀(二郎左衛門左馬頭、正儀が子也)。百余騎にて馳加はる。菊池肥前守も堺の浦に来る。尾張の土岐宮内少輔詮直・池田周防守秋政・山名故陸奥守が子満氏も同意たりと聞ゆ。義満絶海和尚をして義弘をなだむれ共従はず。十一月八日、義満東寺に至る。十四日、八幡にすゝみ管領畠山基国をはじめ斯波・細川・山名兄弟・京極・赤松・吉良・石堂・吉見・澁川・一色・今川・土岐・佐佐木・武田・小笠原・富樫・河野・伊勢国司の兵、都合三万騎、泉州に向ふ。廿九日卯時より戦はじまり夜半に至り力尽て互に退く。此時北畠左少将満泰討死す。土岐詮直・池田秋政等尾州より起りて美濃に至り土岐美濃守頼益に破られて長森城に籠り、山名満氏丹波の八田荘より起りて(十二月七日なり)戦ふ。十二月廿八日、堺の城の四辺を焼はらひてせめいり、義弘、畠山尾張守満家にうたる。菊池もやぶれて九国に落行き楠も破れぬ。義弘が子新介持成降る。此時より畠山基国、河内・紀伊を領し細川に摂津・和泉を賜ふ。此年七月、鎌倉満兼謀反の聞あり。十一月廿一日、武州府中に打出、高安寺に陣して又足利荘に進発す。明れば七年三月五日、足利荘より鎌倉に帰る。義満と和睦あるべしと上杉中務少輔朝州入道禅助、頻に申せしが故なり(南朝紀伝に見えし所此の如し)。難太平記に曰く、大内(信友曰、義弘入道道実也)和泉に攻上りし土岐、我等(信友曰、貞世也)野心の事懸ても不存、まして関東(信友曰、指鎌倉氏満也)より一言も一紙も仰蒙りし事なかりき、たゞ大内申行けるにや、諸方の人並の御教書とて持参りしかば即時に上覧に及びしが更に別心なかりしを遠江にて子供・家人等、関東に心寄申すゆゑに遅参のよし人の申しけるにや、疑ひ思召と内内承り及びしかば九州に身一人海賊船を以て遣さるべしと有りし上意、不審に存じて国に下りて我身は隠居して子供が事は上意に依て追て相計るべし、もし猶京都の御助なくば今天下の為とて鎌倉殿思召立事、御当家御運長久といひ万人安堵をなすべきやと思ひなりし也、京都より遠江に討手下る事必定と聞し頃、関東にも御和睦の事、上杉かたく申行と聞えしかば、偖は鎌倉殿の天下の為に混思召たつ事はなかりけりと存ぜし也。又曰、今度鎌倉殿思召立ける事は当御所の御政事余りに人ごとに傾き申す間、終に天下に有益の人出来て天下を奪はゞ御当家滅びむ事を歎思召て他人に取られんよりはとて御発起ありて只天下万民の為の御謀反と普く聞えしかば、あはれ誠に当御所も悉く御意を翻し給ひて一向善政とばかり思召さずとも此間の殊に過つる御悪行御無道を少々止給ひて人の歎をも休められんには、なにしかは今鎌倉殿も思召立べき、是程人毎に恨申ぞと見申すげなるだにも御運つよく御威勢いかめしくわたらせ給ふに、まして御政道の少々もわたらせ給はゞ誰人かは鎌倉殿にも心寄申し語はれ申すべき、今も御怖畏によりて様々の御祈祷もしげく関東調伏などゝかや聞申事も多かるを何の御調伏も御祈もうち捨させ給て天下の天下たる道を少々なりとも思召れんに殊更天道も仏神の御心にも立所に叶はせ給ふべきに、と愚なる心には存ずるぞかし。
(按ずるに大内と満兼との事、諸家の説詳ならざる歟。難太平記に拠るときは大内が兵を挙しは満兼の仰と称し諸家へも満兼の御教書を下して勢を催せしなるべし。大内帰国の時、義弘、貞世にいひし言葉に、今在京仕て見及ごときは諸大名御一族達の事、更に心にくゝ不存也と見ゆ。さらば今度管領職の事など定められしを、かたはらいたくも思ひ天下義満の政をうとみし時なれば鎌倉殿を主となし参らせむといひて兵を起せしなるべし。かくて大内滅びしかば上杉東西和睦を申行ひ無事にはなりし也)
九年二月、鎌倉満兼の弟満貞、陸奥の管領として篠川の城に下向す。此時伊達大膳大夫政宗入道叛く。鎌倉より上杉右衛門佐氏憲向ひて五月廿一日戦てやぶれ其後軍勢馳加はり政宗うちまけて九月五日に降参。十年四月廿五日、新田義隆(義治の子)筥根山中に隠れ居しを安藤隼人して底倉の湯にてうつ。十三年夏、大明の使来り義満を日本国王に封じて冠服を賜はる。是より先、永和の始、絶海・汝霖を明朝へ遣す。太祖に見えて帰れり。応安六年六月、大明の使僧仲猷無逸、鎮西より入洛、嵯峨に置く。これは大明より三度まで使を賜はりしに筑紫にて菊池に留められて京に至らず、故に両僧を来らしむと也。義満驚き其九月に両僧を帰さる。八年、義満、明帝に使を奉り黄金千両及び器物等を献ず。九年二月、建文帝書を賜ひ日本国王道義と称し給ひ十年十一月、成祖書を賜て即位を告ぐ。十一年にも使来れり。偖又此年壱岐・対馬の海賊彼国の辺を侵せしを道義捕へて平げられしが故に勅書を賜ふ也。此後は例して将軍家をに日本国王に封ぜられき。十五年三月、北山に行幸、道義法服を著し数珠をもち義嗣を携て門下に出て迎へ奉る。十余日御滞留、管弦倭歌の会あり。其座次、御製の次に沙門道義、其次に源義嗣、其次関白藤原経嗣(一条)以下也。義嗣左馬頭に任じ正五位下に叙し又従四位下に昇られ左中将になさる。此度義持は京都の留守たり(于時従一位大納言たり○一説に此会は偏に義嗣が威名を重くせんがためなり)。四月、近衛左府良嗣関白に任じ忠嗣と改む。是義嗣を避しなるべし。同月、義嗣内裏にて元服、其儀親王に准ず。参議従三位たり。中将如元(于時十五歳)。五月、前征夷大将軍太政大臣従一位准三后義満入道道義薨(五十一)。太上天皇の尊号を贈らる(義持固辞して不受ともいふ)。十二月、大明成祖より義持に慰詔を賜ひ道義を吊ひ祭文を作り恭献王と諡す。
(按ずるに義満幼くして父祖に継ぎ南征西征して終に南北を一統し自ら西討して鎮西をも静めたり。朝家を重むじて武家の礼を定む。室町家の盛なる、此時を最とす。然れども天下唯其威に服して其徳を称せず。是故に親しき一族、鎌倉の氏満・満兼、常に世を謀るの志ありて山名・大内が乱天下危きに至れり。終に彼らを打滅せしは天の幸といふべし。土岐康行・山名時義が子息等讒人の申すに任せて猥に反人に擬して彼をうつ。されば天下の人安き心なかりしかば山名・大内が乱も出来し也。然れ共、今に将軍家の目出度例に此人を称するには、いはれある事なり。一つには此人の世に南北暫く一統す。後代其武威を称す。二つには此人太政大臣に歴上りて死して後、太上天皇の尊号迄を贈らる。武家の光栄を生ぜし事こゝに始る事を称す。三つには本朝の事のみに非ず、大明の帝より日本国王に封崇せられ其名誉外国に及ぶ。四つには武家の礼式を定て永く幕府の例となる。五つには或は三職七頭を定め或は功ある者に国国多くさきあたへられければ其恩恵の広きことを称す。然ども所謂南北一統といふ事、誠に一統せしにはあらず。もし其盟約の如く持明院殿・大覚寺殿の御末をかはる/\に帝位につけ申されなば此後の乱れもあるべからず。然るに唯一旦の詐謀に出し所にして終に其約の如くならざる尤信を失ひし人といふべし。天下の主たらむ者、信に止る事なくんば何を以てか称すべき。又太政大臣に上り日本国王に封ぜられし類も、たゞ人などの其勲労によりて官加階したらんこそ誠に光栄ともいふべけれ、当時此人の権勢を以て何を望てか其心の如くならざるべき。されば世に伝ふる如きも此人三十七歳の時、此官を望み申されしに平清盛が外、武家此官に任ぜられし例なし。いかにや有べきとありしを大に怒て、さらば公家の御領を押へ自ら国王と成て細川・畠山等を摂家精華に准ぜんと謀られしかば、やがて勅許有しなども申す也。孔子曰、名不正、則言不順。言不順、則事不成、と。又、名之必可言也。言之必可行也。君子於其言無所苟而巳矣、と見ゆ。夫所謂大臣とは人臣にして君に仕ふるの官なり。其官ある時は必其職掌あり。是を名之可言言之可行とは申す也。王朝既に衰へ武家天下をしろしめして天子を立て世の共主となされしより其名人臣なりといへども其実のある所は其名に反せり。我既に王官を受て王事に従はずして我に事ふる者には我事に従ふべしと令せんに下たる者、豈其心に服せんや。且我受る所は王官也、我臣の受る所も王官たり。君臣ともに王官を受る時は其実は君臣たりといへども其名は共に王臣たり。其臣豈我を尊ぶの実あらんや。義満の世、叛臣常に絶えざりしは其不徳の致す所と雖、且は又其君を敬ふの実なきによれり。其上身既人臣たり。然るに王朝の臣を召仕て是を名付て昵近とし御家礼とすといへ共、僭竊の罪、豈万代の譏をのがれんや。世態既に変じぬれば其変によりて一代の礼を制すべし。是既変に通ずるの義なるべし。もし此人をして不学無術ならざらましかば此時、漢家本朝古今事制を講究して其名号をたて天子に下る事一等にして王朝の公卿大夫士の外は六十余州の人民悉く其臣下たるべきの制あらば今代に至る共、遵用に便有べし。又武家の礼式を定められしなどといふ事は漢家一代の礼も叔孫通(裕曰、原本無通字今補之)が議せしまゝなれば今更議するに不及。三職七頭を定められし類は尤是弊政也。是つひに僭竊の臣を倡ふ所にして此人の子孫それが為に弱められし事、世に知れる所の如し。功ある者に国多くさき与へられし事、是一つ世俗の称する所にて国を計る者の尤畏る所也。近代にも豊太閤を今に至る迄人の称しいふは、唯此一事也。古の人赦を論じて小人の幸、君子の不幸といひし事あり。此事又それに同じ。小人は恵を懐ひ土を懐ふ習なれば、いかにもして禄厚く家富むと思ひ願ふは世のつねなり。されど纔に六十余州の地を或は十個国或は五個国七個国づゝ合せ領せしかば其余功有者に与ふべき地とてもなく義政将軍の代に至りて太刀刀又は書画器物に価を定て、それを以て賞せられき。天下の人争か利に赴かざらん。かゝる深慮遠謀なき事いかでか称するにたらん。豊太閤も六十六州悉く割きあたへ今はせんかたなくて朝鮮をも奪取らんと思寄て遂に世の乱を引起し其家をも滅されき。且は義満幼子を愛し長子を悪み身死して程なく其愛子をして死を得ざらしめらる。あさましかりし事どもなり。凡は此人、驕恣の性にて信義なき人におはしき。其代に有し今川貞世入道が論ぜし所(信友曰、難太平記也)尤其病に当れりとこそおぼゆれ)
義持は応永元年十二月、九歳にて元服して正五位下左中将になされ征夷大将軍を譲られ廿三歳の時道義薨じ政を親らし治世廿一年也。応永十七年、鎌倉の満兼卒す(三十四○一説に二十六とも云)。其子持氏つぐ。此月新田貞方(義宗の子)を捕へ侍所千葉介して七里浜にて斬る。十八年七月、飛騨国司姉小路参議尹綱を京極加賀守高数して討しむ。向井・小島両城落て尹綱うたる。廿年八月、称光院即位(後小松の皇子、時に十二歳)。此時伏見殿も南帝の太子も御位の事を望み給ひしかど武家実仁を立申せしによりて伊勢国司并に大和・紀伊・河内・陸奥の宮方一同に訴ふる旨あり。御即位事成しかば悉く謀反すといふ。十二月、奥の宮方伊達松犬丸・園田播磨守等、大仏の城にこもる。持氏、畠山修理大夫国詮に(二本松にあり)命じて攻落す。廿一年九月、伊勢国司満雅御即位の事にて兵をあぐ。関一党・神戸・峯・国府・鹿伏兎等也。大和・伊賀・志摩の兵悉く馳集る。北畠俊泰のみ京に組す。廿二年春、満雅俊泰が坂内の城を攻とる(俊泰は京にあり)。兵をして木造・阿射賀・多気・大河内・坂内・王丸等の城を守らしむ。義持、土岐左京大夫持益を大将として北畠中納言俊泰等をして討しむ。寄手城城をおとして国司のこもる阿射賀を囲む。城堅くしてぬけず。九月、南帝の太子重て御即位有べき由にて事平ぐ。此年四月、鎌倉家老上杉氏憲、持氏と隙出来て廿六日より籠居す。上杉安房守憲基管領たり。氏憲入道禅秀、竊に同意の輩を催し南方の乱を待て兵を起さんとす。七月に至りて関東の兵鎌倉に馳集る。廿日に帰国すべきよしを持氏より下知す。廿三年七月中旬より八州の兵、鎌倉に集る。十月晦日、大納言義嗣を林光院におしこむ(義持の代となりて中納言に任じ其明年大納言たり)。即日出家、法名道縄(一説に義嗣出家してにげさるともいふ)。是は道義在世の日、将軍を廃して義嗣を立むとせしに其事ならずして薨ぜらる。義嗣ほいなき事に思ひ今関東の乱を悦び満隆・禅秀に通じて京都を傾けんとせし事あらはれしが故也。十二月二日の夜、持氏の叔父満隆(新御堂殿)持氏の弟持仲(満隆の猶子、殿御所といふ)犬懸入道禅秀一家并に同意の輩、旗をあぐ。三日、持氏微行して憲基が佐介の館に至る。同六日、持氏、扇谷弾正少弼氏定を大将として戦ふといへ共、禅秀が方に諸国の勢馳加り既に十一万騎余散々に攻しかば持氏戦ひ敗れて夜にいり駿河国に落ゆく。追くる敵の為に討るゝ者多し。日を経て瀬名に赴き今川範忠を頼む。氏定は藤沢の道場にて自害。持氏、豆州国清寺に有りと聞て敗軍の士かしこに集る。狩野介、禅秀にくみせしかば国清寺を攻やぶる。入道が嫡子伊豆守憲方、持仲に従ひて武蔵国に向ひ持氏の御方南一揆江戸・豊島并二階堂等と戦ひ、うち負て鎌倉に帰る。禅秀が壻岩松治部大輔持国、上野に起りて力を合す。義時此由をきゝ今川并葛山に御教書を被成。廿四年正月朔日、満隆・持仲并禅秀等、武蔵国に向ひ五日に世谷原に戦てかち九日に戦てやぶれ帰る。是は岩松が驕甚くて皆人心よからぬ故也。持氏、今川・大森・葛山・鎌倉を攻む。禅秀うちまけ十日、雪下の御坊にて満隆・持仲・禅秀・憲方・憲春・快尊等、皆自害。十七日、持氏、鎌倉に帰る。岩松残党を催して舞木宮内丞と戦ふ。五月、岩松をいけどり閏五月誅す。子息宗純は落ぬ(後、新田の岩松三河守と云是也)。憲基再び管領たり(此後、禅秀に組せし輩こゝかしこに起りしかど皆討る)。廿五年正月廿四日、義嗣を殺す(廿五)。後に贈従一位。五月十日、権大納言満詮卒(北側殿五十七)。贈左大臣従一位。是故将軍の弟当将軍の叔父贈大臣の例歟。廿九年十月十二日、日ありて双出南方。長徳寺殿悪党を催さる。佐竹上総介持氏に叛く。閏十月、鎌倉比企谷にて合戦。佐竹うち負て自害す。又常陸国小栗五郎満重叛く。持氏、上杉小山して追討せしむ。三十年三月、源義量将軍に任ず(年十七)。四月、長徳寺殿うたる。五月、持氏、小栗退治の為、下野{ママ}結城に至る。八月、城落つ。小栗、宇都宮右馬頭持綱と共に落行をうつ(此余組せし者共皆誅せらる)。京都より小栗追討の多勢駿河まで来り城落ると聞て帰る。持氏、武蔵府中まで帰り、こゝに留りて驕恣の事あり。是によりて京都と快からず。三十一年三月、京都より服西堂を使として府中に至らしむ。四月十二日、南帝後亀山院崩御。五月、服西堂上京。九月又府中に来り持氏をさまざま諫て京都和睦。十一月、持氏帰鎌倉。三十二年二月廿四日、将軍参議正四位下義量頓死(十九)。義持再政務を司さどる。九月、志摩の伊雑浦に兵起る。兵をして討平ぐ。三十四年五月、赤松左京大夫満祐同越後守持貞争論の事あり。赤松が一族、摂津・播磨・備前・美作・因幡、五個国を領す。満祐は則祐が嫡流にて持貞は則祐兄の貞範の孫なれども庶流なり。されど持貞は義持の寵臣なれば三州を給はる。満祐憤て己が館に火をかけて播磨に帰り白幡の城にこもる。義持怒て細川持元・山名満熈に仰せて討んとす。十月、諸大名一味して持貞が驕奢無礼の事を訴ふ。持貞異儀に不及自害し満祐赦されて十二月七日帰洛す。正長元年正月、義持不例。嗣の事評定あり。或は連枝の僧中を還俗せしめんか(三人あり)或は持氏然るべきか、いづれをわきがたきにより管領畠山左衛門督満家入道道端、石清水にて鬮をとるに義持同母の弟青蓮院義円大僧正に定らる。既にして十八日に将軍従一位内大臣義持薨(四十三)。十九日に義円、青蓮院を去り三月十二日帰俗。左馬頭従五位下になされ義宣と名のる(三十五)。七月廿日、称光帝崩(二十七)、皇子ましまさず(此帝魔法を行ひ常に潔済し玉ふと云)。院にも(後小松)皇子おはしまさず。是によりて帝いまだ崩ぜざりし時に(七月十二日)義宣伏見に使して道欽の御子を迎へ院に申して御養子とせらる。廿九日に践祚(後花園と申す是也)。
(按ずるに義詮観応二年に南帝後村上院を迎へ降られし日に北朝の君崇光院を廃しまゐ参らす。此時南帝光厳光明崇光三院を取り参せて吉野へ還幸有しが、義詮又崇光同母の御弟を北朝の君に為し参す。是後光厳院の御事也。其後六年を経て三院をば都に返し参せられき。義満の世に至りて後円融院践祚の日、崇光院第一宮栄仁親王を位に付けて参すべしと議せられしに細川頼之後光厳院を引き参せければ其御子御位に定り給ひて崇光院は持明院殿の嫡流なりしに斯かりしかば後光厳と御兄弟の間も快からず(此ノ時、崇光院伏見殿と申す)伏見殿既に崩じ給ひ栄仁の御時には御領も滅し応永二十三年に栄仁も失せ給ひ貞成其跡を継ぎて弥々衰へ給ふ。後小松の上皇の仰にて無品親王の宣下有りしをも称光院の御憤深かりしかば軈て出家し給ひて道欽と申せしが其御子此度御即位を知り給へば此後は永々持明院殿の御嫡流にて崇光院の御末正統とは為らせ給へり。南朝記に、大徳寺の一休と聞えしは実は後小松の皇子也。然れど賤しき腹に宿り給しかば人臣の子となされて僧とは成り給へる也。称光院の御世継の事を議せられし時に一休に問はしめて定め申さるべしとて院宣有りしに和尚言葉はなく一首の和歌をば献ず。
常磐木や木寺の梢み捨てよ世を継ぐ竹の園は伏見に
然らばとて伏見殿の御子に定れりといふ。此の歌書かれし物は今も世の宝など申して伝ふる者あれば然も有りしにや心得られず)

南朝記に、此時南帝の宮御位御望あれど叶ひ難き事を歎き思召して吉田従一位守房以下御供にて御座を他所に移させ給ひ南方の輩弥々恨を含む。十二月、宮は(寛成)伊勢国に行啓ありて国司北畠兵を催し又吉野にも官軍旗を挙ぐ。永享元年、将軍元服、畠山加冠。参議に任じ将軍宣下、諱を義教と改め権大納言従三位になさる(是れ初て参内院参の時の事)。七月、南軍越智十市久世万年等、吉野より打出で所々にて合戦。畠山持国是を討つ。伊勢国司満雅の討手には仁木一色等を差向く。土岐世保刑部少輔持頼大将たり。国司戦敗れて討たる。南帝の宮京と御和睦ありて嵯峨に送らせ給ひ御出家の後、万寿寺に入り給ひ御法名覚理、後長慶院と申し奉る。満雅の子顕雅も降れり。

(按ずるに、義満初め南北を和せし日、盟約せられし所は持明院殿大覚寺殿両流昔の如く互に御位を知らせらるべしとにて三種の神器を北朝に渡され南帝の太子寛成を東宮に立たらる。此の後十七年を経て義満薨じ遂に盟約の如く南帝の太子を翼戴し奉らず。又四年にして後小松譲位の日、義持前盟に背きて称光院を立て参らせしかば南帝憤を含み諸国に兵を挙ぐ。此の時、義持南軍と相和するに此の次の御位には南帝の太子を立て参らすべしと約せしかば兵解けぬ。其の後十六年にて称光院崩じ給ひ御位を継がるべき御子もなく後小松の上皇にも又御子なし。此の時に於ては義教宜しく南帝の太子を立て申すべき事にあらずや。然らば義満義持の盟約も違はず、南朝の旧臣の憤も散じ、且は兼務以来八十余年が程に戦死せし南朝義士の忠魂冤魄をも慰しつべし。豈忠厚の至にあらざらんや。其れに腹悪しく南帝の統を絶棄参らせし事こそうたてけれ。是れを譬ふるに秦の張儀が商於六百里の地を献ぜんと楚懐王を欺き遂に武関の会に依りて楚王を執へて帰れるが如し。但し、其れは欺きて地を少しく与へ若しは王を執へしのみなり。義満義持義教等の南帝を欺き参らせし事は、三種の神器を奪ふが為なれば穿■アナカンムリに兪/の盗の如いともいふべきにや、如何で天下の主たる者の所為なるべし。然れど斯く彼等が為に欺れ給ひしといふ事も。皆後醍醐院の御餘殃たれば乱りがはしく彼の人々をも恨むまじき事にや)

二年春、和泉河内紀伊の南軍も皆降る。近衛左大臣初めて南帝を離れ自ら立て紀州に赴き堀内殿と称し南軍の餘類を語らひ給ひしに従ふ者多し。

(公卿補任并に南朝記伝を按ずるに、後醍醐南山へ入らせ給ひ光明院即位。建武四年四月五日に近衛関白左大臣従一位藤原経忠吉野の宮に奔り給ひ明年(南は延元四年、北は暦応二年)南帝崩じ給ひ後村上院即位の日、南朝の関白に任じ給ふ。其後十四年、南帝義詮の請申すによりて御和睦ありし明る年(南正平七年、北は暦応二年)八月十三日に五十一歳にて薨じ給へり。其の子経家と申せしも五十九歳にて康応元年に失せ給ひし由、公卿補任に見えたり。経家の失せ給ひし事も後亀山院武家と御和睦有りし年よりは三年前の事なり。大系図にも補任にも経家の子の事は記さず。今此に見えし所、家強二年といふは経忠薨後よりは七十八年に当り経家の亡せ給ひしよりは四十一年也。然るに近衛左大臣殿と見えしは訝し。思ふに初といふ字の下のての字・にの字を訛り写せしにや。若しくは是の経忠公初に南朝を去りて紀州に赴き自ら門戸を起し給ひ其の子孫の今又南帝の旧臣を聚め給ふといふ事にや。南朝記の第二巻闕けたれば南朝興国元年より(北暦応三年)正平二十二年迄(北貞治六年)二十七年が間の事見えざれば如何にとも定め難し。然れども斯く思ふ事は経家の事補任に見えし所、貞治三年より康応元年の薨年まで散位の中に載せて従三位とばかり有りて其の余昇進の事もなし。此の人朝に仕へられば四十四年の間一官一階をも進み給はぬ事や有るべき。是れ南朝にも又仕へられざりし事の支證とやすべき。然らば経忠の南朝をも去り給ひし事、何れの比にやあらん。貞和五年の正月、高師直吉野に攻入りて南帝賀名生に遁れ給ひし比にや有るべき。若し然らずば観応二年南帝義詮と御和睦ありて都に還らせ給ふべしとて八幡まで出させ給ひし比の事にや。又此に堀内殿と見えしを大系図には堀川殿と何れか善しとすべき。是れ又他の所見なし。
抑王家衰へ給ひし後、兵革起りし始、保元より此の方、平治の乱・寿永・承久、扨て其の後は元弘建武の乱を大なりとす。保元の時、関白忠通内裡に参られき。是れは舎弟頼長新院の御方の謀主にて忠通と不快なりしかば、事勢斯くあらずして叶ふべからず。平治に信頼院内を脅し参らせしに関白基実僅に十六歳にてありしはいふに及ばず、其の父の忠通を初め其の余の大臣、一人の奇策を出して君上の急難を救ひ参らせんとせし人もなし。幸に清盛が計ひにて院をも帝をも奪ひ参らせ兵を起して逆賊を討平げたればこそ二帝御恙も渡らせ給はね。其の後又清盛が驕悪を恣にせし時、関白基房を始て皆々其れが威に怖れ一人の大臣朝家を鎮定せし者なし。程なく木曾都に打入せしかば平家西海へ落行き帝も同じく都を出で給ひしに摂政基通平家にも結ほられたる人なりしかど、帝を捨て参らせ都に落ち止り後鳥羽院の摂政にはなられき。幾程なく法皇義仲を討たれんとて僧法師駆り聚め遂に義仲が為に幽はれ給ひしに法皇を諫止参せしにもあらず。又義仲を鎮められしにもあらず。前関白基房の漸々に慰められしにこそ、帝位も御恙なかりき。扨て承久の乱は九条の廃mに廉の摂政道家、後鳥羽院を諫め申されし事もなく又帝を救ひ参らせし事もなし。但し此の人は鎌倉の頼経の父なれば義時が振舞を悪しとは思はれざりしにや。其の後、義時三帝を或は流し或は廃し奉り、後堀河を立て参らせしに、近衛の家実、義時が計ひにて摂政せらる。此の人は彼の基通が子にて土御門院の御時の摂政にて其の後関白となり、順徳院の御時に旧の侭に関白たりき。然れば二代の摂関にてありし人の其の君をば陪臣義時が為に流し棄て奉らせ又其れが計らひの侭に後の朝に仕へて摂政せらる。凡そ是等の人々の振舞、如何で大臣の義ありとは申さるべき。思ふに能く恥知らざる人々にてありけり。是れを譬ふに、唯だ五代の時の大臣に能く似たる事にてあるや。中世より以来、喪乱の際、節に臨み義を思ひ力を竭し死を致すは、唯だ武人のみなり。世少しも穏になりぬれば尊位厚禄に居て武人をば奴隷雑人の如く思ひなし、世乱れし時には捧首鼠竄して一人も身を挺でて忠を致す者なきは公家と僧徒のみ也。誠に国の蠧害とは此の輩をぞいふべき。然れば天道は天に代りて功を立つる人に報い給ふ理なれば、其の後武家の世を知り給ふ事、其の故ある事ぞと覚え侍る。然るに建武の乱出来し初に近衛殿は北朝にしても関白になされしかど、其れを捨てゝ最初に南朝に参られき。其の余大臣にては吉田内大臣従一位藤定房なり。摂家の人々にては二条の師基も参り給ひ、後には関白し給ひき。二十一年が程隔たりて後、延文二年に一条の内嗣も参り給ひき。就中近衛殿一条殿は共に嫡子にて座せし人々のかく有りし事、誠に其の家祖に愧ぢ給はぬとこそ申すべけれ(家祖とは大織冠昭宣公等をさすなり)。殊には北畠源大納言親房父子の忠功、古の大臣にも劣り給ふべからず。此の世には朝廷の人々多くは義を思ひ節を守り給ひしにや。公卿以上南山へ参られし人々二十余人に及べり。其の下は猶多かり。殊に戦場にして命を殞せし人々も少なからず。然れば或人いひしは、其の代に義をも節をも知りし人々は皆南に奔りて北朝の臣たらむことを深く恥にき。其余北朝に残りとゞまりし人々は皆恥なきの人也といひき。さもこそありけめとこそおもおはるゝ也。それが中二条の良基は、光明・崇光・後光厳・後円融・後小松、五朝の帝師たり。其家これを以て栄とせりと申し侍る歟。某が思ふ所は、かほどの辱はあるべからざるにや。其身既に後醍醐の朝に仕へし人の北朝の臣になりて関白に任じ義詮の崇光院を廃し南帝をむかへ奉りし時、百僚をひきゐて吉野殿に参り光厳以下三帝吉野にとらはれ給ひしかば又北朝に奔りて後光厳御即位の日又関白し剰此時に三種神器を皆南方へ渡しぬれば御即位の事いかにと傾申す人々もありしに宝剣には尊氏を用ひられ神璽には良基を用ひらるべしと申されしかば践祚の儀行はれしなども申すにや。且は武家の故実なども此家より勧進せられしとかや。其事よく五代の馮道がふるまひに似たる也。かゝる人をも博学宏才におはして代々の帝師にておはせしなどゝ敬ひ思ふ事yおく義といふ事の明かならぬ俗にはなりたるなり)

永享三年二月、将軍伊勢参宮。四月、高野参詣、供奉の大名十三人、此ついでに南方巡見。八月、赤松満祐をめしこむ。其故は義教、近習の女房三人罪ありて殺す。其中に満祐が女あり。是を恨みて反謀ある由聞えし故也。満祐竊に播磨に奔る。九月、冨士見物として駿河国に下向(十日)。今川範政館にて歌会あり。其後帰洛(廿一日)。十月、京勢和州にむかひ越智伊予守維通をうつ。十二月、赤松をうちて降す。五年正月、豊後の大友中務少輔叛く。大内持盛・河野通久向ひて合戦、刑部大輔通久討死。三月、小早川又太郎して修理権大夫持盛を助け大友を討しむ。十月、山門の衆徒そむく。坂本志賀に城守、山名持豊してせむ。十一月十三日より十二月中戦やまず。六年正月、山徒降る。七年、山徒并に五山の僧数十人殺さる。九月、京勢越智をうつ。八年、畠山方河内守護代遊佐兵庫助を大将として越智をせむ。越智南軍を催し高鳥に城守。城嶮にしておちず。十一月、信濃小笠原大膳大夫、村上中務大輔と戦ふ。村上加勢を鎌倉にこふ。持氏これに応ず。上杉憲実諫て、小笠原は京都御家人也、私にうちがたしといふ。持氏悦はずといへども加勢をばやらず。これより持氏憲実快からず。九年三月、高鳥合戦。四月、持氏上杉陸奥守憲直に仰て村上が加勢と称して武州本一揆の兵を催す。これは憲実を誅せん為と聞ゆ。憲実驚て七歳の愛子を七月廿五日、上野へつかはす。八月十三日、持氏、憲実が家へ行て和睦す。十年五月、大和一揆起り吉野の官軍所々に起る。越智なほ高鳥にあり、一色左京太夫義実・世保刑部持頼を大将として、これをうつ。六月、持氏の子賢王丸若宮元服、義久と名く。憲実、例のごとく京の諱を望まるべしと数々諫れどもきかず、かれら参賀の時誅せらるべしと聞て病と称して参らず。八月十四日、上州におもむく。十五日、持氏、一色時永を上野へさしむけ十六日みずから武州府中に進発。廿八日、京都の勢、和州に向ひ多武峰をやき高鳥の城をおとす。越智やぶる。九月、義教、綸旨を請ひ御教書をそへて上杉中務少輔持房を大将として関東にさしむく。九月十日、筥根合戦、京方うちまけ寺尾・熊谷等討死。さる四日より上杉憲実も上州白井城を立。十九日、武州分陪に陣す。持氏の軍兵心を変じて是に従ふ者多し。廿七日、京勢、足柄を越て早川尻に至る。鎌倉方戦やぶる。十月三日、鎌倉留主三浦介時高三浦へのがる。十七日、三浦兵大蔵谷に放火。十一月一日、三浦介鎌倉にいる。義久おつ。梁田・石塚・河津等留り戦て死す。二日、持氏降る。五日、出家、義久に家譲らん事を請ふ。憲実此よしを京都へ訴ふ。義教きかず。七日、上杉憲直父子・一色直兼、自殺。其郎従、憲実が為に誅せらるゝ者多し。十一年二月、持氏・満貞(満兼の弟。篠川殿)自殺(持氏四十二歳なりき)。廿八日、義久自殺(十歳)。憲実かの父子の命をこふ事数十度、事叶はず。是によりて自殺す。人是を止めしかば出家し豆州国清寺に閑居す。長棟庵といふ。十二年正月、持氏の余党一色伊予守、鎌倉をさりて相州今泉の城にこもる。管領清方、兵をして攻む。持氏子春王・安王、日光山にしのび此月山を出て結城中務大輔氏朝が城にいる。野田右馬介古河に籠る。吉見希慶、上州に起る。鎌倉方、是をせむ。四月、兵庫頭清方等、結城に向ふ。五月朔日、京より持房を下し憲実入道をも催す。一色左京太夫義実(系図には修理太夫満範が子、修理太夫義範に作る)当時越智を攻て和州三輪にあり。将軍近く召使れし小弁といふ女、一色南帝に志あるよしを讒しけるに実否をも糺さず武田信栄に仰て陣中に誅す。一族三百人自殺(義実が氏A将軍の愛子に祟をなすといふ)。又細川讃岐守に仰て土岐世保持頼を和州多武峯にてうつ。持頼戦破れて自殺(一色世保同じく越智を討し大将なり)。七月、一色伊予守、武州に出て須賀土佐守が城を落し、その後、上杉と戦うて破れ奔る。信濃の大井越前守源持光、永寿丸(持氏四男)を取立て笛吹峠に起る。上杉兵してうつ。此月廿九日より京勢并に武蔵・上野・越後・信濃等の大兵結城を囲みせむ。此時故伊勢国司満雅の嫡子中将顕雅、大河内の城にあり。二男少将教具多気の城にあり。将軍頻に和睦をとゝのへてしたしみ世保が伊勢守護職を止て国司にあたふ。是は関東静ならず、此時宮方起りなば大事也、一統の後は国司の一族皆誅すべし、と思ひて、かくはかられしといふ。九月、義教異腹の弟大覚寺門主大僧正義昭出奔。此人は慈悲深くして人の崇敬おほかたならず。南帝(寛成親王)とも親み深し。南帝に勧申されしは、将軍かく威をふるひ驕をきはめ天下尽く困窮す願くは君を世に立参らせ万民の苦を救ふべし五畿内の宮方年比の恨あり関東大きにみだれぬ九州の菊池・大村を催さむに彼是御勢の不足あらじ天下の反覆此時なり、とて南帝に申て竊に勅使して菊池に仰らるゝ旨あり。菊池返答申しけるは、結城の城来年堅固ならば来年の末には必天下反覆すべしとなり。これによりて南帝旧臣等を催さる。義昭僧正は病と称して長髪す。久しく出仕を止め給ふ事心得ず、とて義教討手を向むとす。僧正坊官大和法橋一人を具しておちらる。其形を図して国々を尋ね彼をうちなば敵御方をいはず賞は望によるばえいとなり。嘉吉元年三月、僧正薩摩に至り民家に入休み給ひしに、からうす、すりうす等の農具を見て其名を農人に問はれしを怪み都より尋ねられし落人必此人なるべしとおもふ。其時、僧正菊池へつかはせし状を農人奪取て見るに歌あり。
花はいかに われをあらしと思ふらん 常にかはらぬことしなりけり
山蔭の花こそ今は咲初れ 都は末とおもひやるべし
いよ/\怪みて十三日にこれをせむ。僧正も法橋もうたれぬ。僧正辞世に、
あだなりとおもひし花の齢さへ うらやましくも明日をしるかな
此月廿三日、義教、伊勢参宮。大雨ふり、ものゝけ多し。輿に入られし剣(髭切)あやまりてこと物なり。草津にて是をみつけて飯尾肥前守をかへして誠の剣を召に水口にて是を奉る。此度伊勢参詣の事は国司もし義昭をかくし逆心あるにやと疑ひ、もし然らば、みづから国司を討むとの為也。五月、義昭の首上洛す。面に疵多くして疑はし。僧正近習の童に見せしに、僧正の御首ならむには先年奥歯二つ落しそのあと有べしと泣々いひしに果して歯なかりしかば疑をなさず又結城も去四月十六日におちて氏朝・持朝父子自害。并に兵数千人皆討死す。春王・安王捕はれ十七日に古河もおち、五月四日に首ども上洛。十六日に濃州垂井にて春王(十五)安王(十二)きらる。六月廿四日、義教、赤松満祐が為に弑せらる(四十八歳)。義教、赤松伊豆守貞村が童の時寵愛し給ひしにより成人の後も愛猶深くして満祐が所領、備前・播磨・美作を分ち与へむとす。此日に満祐が館へ入給ふべしと、かねてより仰あり。是は満祐が庭の池中に鴨の子生れしを見給ふべしとなり。此日、満祐が二男、今日の御入は庭御覧の事には非ず貞村に所領賜はらむ為なりと聞ゆとつぐ。満祐憤て渥美・中村・浦上等三百人、所々に隠しおく。卯時に入給ひ猿楽酒宴の半に、まづ厩の馬を放ち是をとらむとて門を閉て伏兵起る。渥美屏風の後より出て将軍を殺す(此よりさきに公方、小座敷にて二寸許の人形出て鵜飼の能をせしが鵜飼の時に難起る。此時満祐、其子彦二郎教康と一族左馬介と進て義教の手をとる。渥美後へより首を給はるといふ)。座中伺候の人人驚き騒ぎ或は討れ或は同士討数をしらず。京極加賀入道道統・山名中務大輔煕貴、命を殞す。斯波左兵衛督康廉・大内刑部少輔持世、垣を越えてにげさる。満祐討手を待て一矢射て自害せんと待しに諸人あはて騒ぎて時を移す。満祐父子三百余騎、摂津中嶋の所領に趣き、こゝにて将軍の首を崇禅寺に葬る。其後播州に趣く。七月廿一日、大内持世卒。疵かふぶれる故なり。八月、畠山左衛門尉持国、義勝を立て家をつぎ従五位下に叙す(時に八歳)。幼にして、いまだ将軍の宣下なし(持国と持世相議せしといふは誤なり)。此月奏して満祐追討の綸旨をなされ廿六日、細川讃岐守持常・赤松伊豆守貞村・武田大膳太夫信貴は追手より山名左衛門督持豊・同修理太夫教清・同相模守教之、搦手より向ふ。九月、満祐追手の陣に逆寄して蟹坂に戦ひ京勢やぶる。かさねて白幡城を攻むとす。細川は満祐に親しかりしかば先陣に向ひ国中に他の勢をまじへず攻入。九月、山名大山口を過て播州にいり満祐が木山の城を攻おとす。同十日、満祐自殺。教祐并に一族おちさる。教康は後に勢州にて自殺(国司を頼みしかど、いれざる故也)。左馬助は朝鮮へゆく。十七日、播磨を山名持豊に、美作を教清に、備前を教之に賜ふ(教清は修理太夫義理が孫なり)。此時に少弐嘉頼催促に応ぜず。大内教世に仰せて攻しむ。嘉頼戦破れ対馬におつ。大内遂に少弐が領地をとれり。明徳に山名氏清うたれ堺の戦に大内義弘討れしより両家少し衰へたりしが、これより両家又起れり。
(按ずるに、はじめ義持薨ぜられし時、嗣を議せられしに、畠山満家石清水にて御鬮に任せし事、前に記しぬ。義満の子七人ありき。長は義持、二男は大納言義嗣已に義持に殺さる。三男義円僧正即義教也。四男は梵光院准后法尊、五男大覚寺准后義昭後に義教に殺さる。六男相国寺永隆、七男梶井義承僧正也。其年長ぜるを以てせば義教四弟の前にあり。もし其人を撰ばば義満の子猶四人あり。此等の内、其器に当れる人有ぬべきにや。又湘山星移録を見るに、義持息なかりしかば関東重書御重代まで渡し申されしと見えたり。さらば義持かねてより持氏をよつぎとせんと思はれしにや、満家たらむ者よろしく人才を撰む事、忠仁公の光孝帝を諸皇子の中より撰み出されしがごとくにあるべき事歟。然るに神に聴て定めし事、譬ば庸医の薬袋を手にして薬師号をとなへて手をはなち其盤上に落し薬袋の薬をあつめて一方を立しといふ諺に似たり。義教の悪徳、天下既に乱れんとせしを見るに、石清水の神いかでかゝる人をして一日も天下に君として万民を苦しましめむとはし給ふべき。神にして知る事あらば必然あらじ。もし其神なからむには人事を尽す事なくして神に聴しこと尤愚なる事とやいふべき。されば義教の弑せられし事は足利殿の家の為、并に当時天下の人民の為には大なる幸にてあらんなり。此人今しばしが程世におはせたりせば必足利殿の世は亡びうせぬべし。これを以て思ふに満家が罪ひとり愚昧といふのみには非ず。持氏の兵を搆へて遂に其身も亡び関東の逆乱これよりやむことなかりしも一つには義持のかねて契られし所にたがひ、二つには義教の桑門の身として武家の棟梁になられしを、かたはわいたくおもはれしより起りし也。されば義教うせ給ひ室町殿の家は事なかりしかど東国の乱は遂に是より起れるなり。満家が罪のがるべかるべからず。但し石清水の神の教に従ふといひなせしも満家が詐謀にて持氏の憤を慰めむとの為なりしも知るべからず。
初尊氏・直義兄弟末年快からず。戦ひに及ぶ事度々にして直義遂に尊氏の為に毒殺せられき。其後、義詮庶兄直冬と戦ひ基氏が忠厚なりしをも深く疑ひきらへり。義詮の子たゞ二人、義満・義詮のみなり。義詮事故なく終りしかど其四子をば悉くに僧とせらる。義満の子七人、義嗣を殊に愛せられしかば義持の憤深くして終に殺さる。其余の弟、悉く僧とせられき。是皆尊氏の兄弟、義詮の兄弟の事に懲りて、みづからの兄弟従兄弟九人ながら皆々僧となせし也。されば其身死せんとして家継すべき人なく一たび桑門に入し人して家つがしむ。本朝の習俗、僧法師をば長袖などいひ名づけて士類には歯せず。しかれば上には従ふやうにはあれど下には心服する者なかりし也。義教の子義政の弟も又皆僧となしたり。世継の事によりて終に兄弟心よからず。其家法不友不弟いと浅まし。かつは天下の富をもて、いかで長子の外を悉く僧とはせられし。心得難き事ならずや。思ふに、羮に懲りて膾をふくの謂なるべし。義教の事論ずるに及ばずといへども代の始に南帝と盟約に違ひて諸国の官軍ここかしこに起り更に安からず、鎌倉を滅して持氏父子二人をころし兵連りて後、又其子二人を殺し、舎弟義昭僧正をもころし、讒を信じて、たやすく一色・世保等南方討手の大将をも殺して叛く者常に絶る事なし。天下の人、薄氷を蹈が如くなりし由、其代のものに見えたり。且は満祐に弑せられしなど、自ら其死を招かれし也。此満祐といふ者、義持の時にも持貞に所領多くさきあたへむとせられしを恨みて叛きし事あり。義教の代となりても其女を殺し給ひしを憤りて国に奔り兵を起し戦の後力尽て降りき。幾程なく又彼が所領を分ち奪むとせられしかど其家に入りて猿楽酒宴して遊ばれし事、抑いかなる心にや。これひとへに驕侈の余りに人を人とも思はれず。当時何ものか我旨に違ふべきなど、おもひあなどられしより、かゝる事出来し也。其代に一人も其事諫め止る人なかりしも、よく/\驕甚しく、いはゆる人をして物いひて、あへて怒らざらしめられしものとぞ見えたる)

義勝九歳にて元服、正五位下左中将将軍宣下あり。嘉吉三年七月廿一日薨(十歳、治世三年)。落馬によりてなり(或は一色が獅ニもいふ)。辞世に、
咲てこそ人もさかりはみるべきに あなうらやまし朝顔の花
義成つぐ(八歳也、後に義政と改む。治世四十九年也)。同廿八日、播州浪人等、満祐が甥赤松三郎則重を立て兵を起す。山名宗全討平ぐ(按ずるに則重は満祐が甥にあらず、従弟か)。九月廿三日夜、南兵吉野十津河・河内・紀伊の国人等、南帝(寛成)を助まゐらせ三百余の勢二手に成、一手は楠二郎大将にて大内に入て清涼殿に入。一手は大和の越智大将にて局町より攻入放火す。帝は近衛前殿下の第に潜幸。南兵三種の神器を取て内侍所の唐櫃は東門の警固佐佐木黒田判官に取返さる。神璽は吉野に送る。宝剣は札を付て清水寺御堂にすつ。さて南兵は比叡山の中堂にこもる。廿五日、京勢并に山徒中堂を攻む。楠・越智戦死し南帝御自害あり(長慶院と申す)。これは日野東洞院一品有親の郷導の由聞えて誅せらる。其子参議右大弁資親は其事を知らざれども流罪と称して誅せらる。文安元年八月、南帝の太子二人のうち一人は吉野の奥に神璽をたもち給ひ、国人南方の新皇と仰ぐ。一人は和泉・河内・大和の浪人を従へ八幡に籠り給ふ。畠山軍勢をつかはし攻しかど利なく南軍勝にのる。細川出羽守向ひ戦て城落しかば南兵紀州に赴く。二年正月、江州佐佐木大膳太夫入道崇体父子故ありて自殺。佐佐木五郎飯高山にこもる。三年八月、飯高を攻落す。五郎自殺。九月、畠山家老遊佐兵庫助等、紀州に向ひ南兵と戦ひうちやぶらる。四年、富樫二郎(畠山方)伯父富樫入道安高(細川方)と加州守護職を論じ半国を分つ。八月、鎌倉持氏の子永寿王をたつ。初持氏自殺、春王・安王いけどられて殺さる。末子永寿王をば信濃の住人大井越前守持光かくし置けり。元服して左衛門佐成氏といふ(是義成の名を給りしといふ也)。上杉安房守憲実は持氏を亡し其後出家して豆州に有しを、かさねて京の催促にて結城をも攻し事を恥て徳丹・清蔵司とて二人の子を出家させて引連れて西の方に遁れて応永元年、周防の国にて死したり。伊豆に一子を捨置しが成長して龍若丸といひけり。かくて上杉の家人等相議り長尾左衛門入道昌賢等、京都に請ひて永寿王を鎌倉殿と仰ぎ龍若を右京亮憲忠と名のらせて執事となす。十二月、遊佐等又兵を聚て湯浅が城をおとす。南帝の宮并に楠二郎をうつ。五年正月、大臣以下御所に参賀す。義成左馬助になさる。南方退治の賞也。同廿七日、懸南帝太子并楠首。康富記、文安元年八月六日の下に、南方宮方、於大和吉野奥被挙御旗之由、自熊野本宮注進、上野宮御部類歟(按ずるに上野宮とは成良親王の事を指か)。五年正月の下、十日旧冬於紀伊国、討南方宮部類、其頸京進、自畠山殿被執進之、相当年始御敵之頸到来、為珍重、仍為其、今日上下人人、被進御太刀者也。廿三日之下に、件宮去年十二月廿二日、於紀伊国陰謀露顕の間、奉討之云々。廿七日の下に、貫首円満院門主、令還俗於紀伊国北山云所有陰謀企之間、畠山左衛門入道仰国人等、去年十二月廿二日、於紀伊国奉討之、南朝護性院部類云々。
(按、諸門跡系図に、行悟、南朝後亀山院皇子、後円満院宮僧正、円悟南朝五常院宮御子、号円満院と云々。康富記にいはゆる護性院即門跡系図に、所謂五常院なるべし。其部類ともしるし又前門主とも記したれば此度討れ給ひしは行悟僧正なるべし。然らば南朝記に、南帝の太子三人おはしますと記せしは、此時高福院殿と行悟とおはせしなるべし)
八月、赤松左馬助教祐(満祐二男)朝鮮より帰りて家起さむとして誅せらる。宝徳二年四月、鎌倉成氏上杉憲忠不快にて成氏、江嶋にうつり浜にて合戦。八月、和議成りて成氏帰座。享徳三年四月、畠山尾張守政長と伊予守義就と、管領左衛門督持国入道徳本が家督を争ふ。初徳本が子なかりしかば弟尾張守持憲が子政那賀を猶子として総領とすべきよし約せり。後義就出生せしかば是に家督譲らむとせし間、兄弟不快にて終に争論となる。政長は徳本が家を出て細川勝元が宅にゆく。其家人は山名宗全が家に遣す。八月、徳本が家人、皆山名が宅に赴き政長に属せり。洛中忿劇。廿一日の夜、徳本が宅やく。徳本は伯父満則(修理大夫の事か)が家にゆく。義就は山名相模守(教之)が宅に来れどもいれざるによりて遊佐河内守国助家に入、廿二日夜、国助が宅放火。義就・国助、河内におつ(一説に伊賀に落と云)。廿八日、徳本、建仁寺西来院に蟄居し政長に家継しむ。勝元贔屓に依て也。徳本が一族諫めしかど徳本用ひざれば父子一族七人腹切て死す(按ずるに、畠山が家やけし事、皆宗全が計ひなりとぞ)。辞世に、
かばねをば東の山にのこせども名は西方にありあけの月
十一月二日、義政兵を徴す。山名を討れむとの為なり。管領勝元、頻に諫しかば宗全が訴ふるに任せられ宗全は但馬に退き息男伊予守は在京す(是は今度畠山が家の事、宗全が所為也とて誅せられむと也。勝元も其家人磯ケ谷、今度の張本なりとて誅せしとぞ)。十二月、宗全勘気を蒙りしを以て細川讃岐守成之、赤松彦五郎則尚が旧領の事を歎きしかば赦されて播州に趣く(則尚は満祐が甥也といふ。さらば満祐が弟義雅が息なるべし。南朝記には彦五郎則尚と記し下には赤松祐之・同彦五郎則尚としるし、応仁別記には彦二郎彦五郎とばかり有て其名は載ず)。此月、鎌倉にて上杉右京亮憲忠殺さる(廿二)。是より上杉家人長尾と成氏戦始りて関東大に乱る。康正元年正月、武州立河原合戦、府中合戦、此時成氏敗る。三月廿六日、徳本卒。四月、山名・赤松、播州にて戦ひ、五月、赤松備前にて自殺す。山名罪ゆるされ上洛して威を恣にす。
……中略……
六月、京より上杉房顕・定政等に仰て鎌倉をせむ。成氏敗れて落行。十月、岡部原にて合戦。上杉打勝。十一月、羽鑓原合戦、上杉敗る。分陪合戦、上杉うち勝。上杉武州五十子に陣す。康正二年夏、畠山政長・義就、河州萱振に於て合戦、義政二人に命じて和睦せしめ同入洛(南朝記には此夏、政長、義政の命に背きしかば義就兵を催して河州に向ひ六月廿六日誉田道明寺河原にて戦ひけると云云。王代一覧には義就河州より出て大和片岡の辺をかすむ。義政呼返し政長と和せしむとみゆ)。長禄元年九月廿六日、義政弟香厳院を帰俗させ(廿三)左馬頭政知と名のらせ関東の主とす。され共東国の兵多く成氏に志ありしかば政知は伊豆国堀越に住す。山内扇谷皆是を仰ぐ(王代一覧には寛正二年十月の事とし左兵衛督とあり)。二年六月廿七日夜、南帝高福院殿崩御。神璽帰洛。南朝紀伝に、満祐が家人、石見太郎、三条内大臣実量に仕へしが赤松の家絶えし事を歎きて、尊氏、円心を父と頼まるゝの由の文書をも見せしかば、いかにもして嘉吉の逆罪を免るゝ事や有べきとありしに、南帝をうちて神璽を再び朝に献りて罪を贖ふべしといふ。内府かくと奏し武家にも仰られしによりて赦され、赤松一族、真島・衣笠并に中村弾正等と相議し十余人南帝に仕へむ事を請ひしかばゆるさる。此夜、中村忍入て南帝をうち奉る。手負給ひながら十津河に還幸、終に崩御也。中村は討れしかど真島・衣笠等神璽をば奪ひ得て都に帰りて大内に奉る。義政やがて満祐が弟義雅が子に性存法師といひし、それが子一松丸とて五歳なりしを召出し赤松二郎政則と号して富樫入道安高が跡加賀半国を給ふ。宗全憤て石見をば闇打にして殺せり(応仁別記には、三条殿に仕へしは石見太郎左衛門尉、南帝を討奉りしは中村太郎四郎と云者なり。石見がうたれしは三条殿にて幸若舞ありて人人群集して帰るさに辻切のやうに討せしとみゆ)。

(按ずるに、後醍醐南山へ還幸ありしより五十五年にて南北合体、その後五十年にて南帝ふたゝび吉野に起り給ひ其後十五年にて討れ給ひぬ。すべて南朝百廿年にしてほろび給ひき)

寛正元年九月、畠山右衛門佐義就又義政の命にそむき河内へ退き若江の城に拠る。尾張守政長して攻らる。義就嶽山・金胎寺に城守して戦ふ事やまず。三年四月、義政、細川・山名・武田・佐佐木等すべて廿余州の兵をして政長を助けらる。金胎寺陥。四年四月、嶽山陥。義就、高野山に奔る。政長、是をせむ。義就ひそかに吉野に遁る。十二月、政長上洛。後土御門院寛正五年八月、政長管領たり。此年十一月、義政、弟浄土寺門主義尋を帰俗せしめ従五位下左馬頭義視と名のらせ天下を譲らむと約し細川勝元を其執事とす(義政は廿九歳、義視は廿二歳)。六年十一月、義政男子を生む(是即義尚)。御台所(義尚の母、裏松贈内大臣重政の女)竊に山名宗全を頼みて其男を世にたてむことをはかる。宗全、是に応ず。

(按ずるに、勝元は宗全が聟なり。勝元初子なくして宗全が子を養ふ。其後実子生れしかば養子を僧とせり。宗全心よからず。又赤松二郎が家を立し事を恨てければ義視世を知り給はゞ勝元其権を執ぬべし、何にもして義視をはからむとて此事に応ぜしと也)

……中略(応仁の乱)……
此年{文明三年}古河の成氏、上杉顕定に古河をおとされて千葉へおつ。四年、洛中の戦猶やまず。義政の仰によりて能登の畠山(義純)細川に降り北国路開て兵粮多く東陣に聚る。山名方の輩降る者多し(応仁別記に山名・一色被参畠山左衛門佐下向、大内新介降。武衛・土岐下国して洛中静謐、御所様御悦にぞなりけると云云)。五年三月十九日、山名右衛門督持豊入道宗全卒(七十)。五月十一日、細川右京太夫勝元卒(四十四)。応仁元年より是まで七年の戦、勝負未決して両方の大将病死す。されど其余党猶洛中に対陣す。十二月、義尚元服。征夷大将軍正五位下左中将(時に九歳)。畠山政長管領たり。七個日にて止職。同義統管領す。九年十一月、山名方の大名皆皆京を去て帰国。義視は美濃へ趣く(土岐もとより山名方たりき)。洛中静謐し畠山政長又管領となり応仁より此年まで十一年に及ぶ。是より諸大名在国して近国を押領し武家の威衰ふ。十年、成氏、顕定と和睦し古河へ帰る。顕定は山内の家をつぎ上野平井城に在りて八州を管領す。扇谷の修理太夫定正が臣太田道真が子道灌武州に在り。此父子が謀にて在国の兵、山内を背きて扇谷に随ふ者多し。是より両上杉戦に及ぶ。同十一年十一月、義尚十五歳、判始評定始、是より義政は東山の東求堂にありて古器古画を翫び年月を送り北山の金閣に准て銀閣を作らる(此時義政四十四)。十七年、古河成氏、和を義政父子に乞て赦さる。十八年、勝元が子細川右京太夫政元管領たり。此年、顕定が謀にて太田道灌、定正に殺さる。是より扇谷衰ふ。長享元年九月、佐佐木六角高頼上洛せず。義尚親征、高頼甲賀山に奔る。義尚鈎里に陣す。此年、伊勢新九郎京より駿河へ下向し今川に属すといふ。延徳元年(長享元年より中間一年を隔つ)三月廿六日、将軍従一位内大臣源義熈(信友云、義尚改名也)鈎里の陣中に薨ず(廿五)、在職十七年也。義政嗣なければ義視と和す。四月、義視美濃より帰洛、落飾、其子義材を義政養ふ。二年正月七日、前将軍従一位左大臣准三宮義政薨(五十六)、治世四十九年也。七月、義材将軍宣下(廿五)、参議従四位下中将たり。三年正月七日、入道大納言源義視薨(五十三)。四月、従三位佐兵衛督源政知、伊豆国に卒す(五十七、此人うせられし事、一説に茶茶丸御曹司の殺されしともいふ)。応仁記に、義政天下の成敗を管領に任せず、ただ御台所・香樹院・春日局などうふて理非をもわきまへず公事をもしり給はぬ青女房・僧・比丘尼達の計ひにて酒宴婬楽のまぎれに申沙汰せられしかば只今迄の贔屓につのりて論人に申与ふべき所領をも又賄賂にふけり訴人に理をつけ又奉行所より本主安堵を給はれば御台所より恩賞を被行。如此錯乱せし間、畠山両家も去る文安元年甲子より今年応仁元年丁亥までに纔廿四年の中に両家互に勘当を蒙る事三個度、赦免せらるゝ事も三個度也。是を見るに何の不義もなく又何の忠もなし。又武衛の家に義敏・義廉纔に十年の中、改動せらゝ{ママ}二度也。是皆伊勢守貞親吹挙の下より出て色を好み婬著せし故也。其比、江州塩津の住人熊谷といへる奉公の者、御政道の不正の事を悲しみ密密に諫言をつづりて一紙の状を捧げしに、義政大きに怒り給ひ、諫る所は一つとして道に当らずといふ事はなけれども其司に非ずして法を行ひ諫言を納るゝ条、狼籍{ママ}是に過る事あるべからず、とて所領を没収して追出さる○乱前の公家・武家・都鄙遠境の人民、憂悲苦悩せし因縁は義政曾て人の費に乗ずる事をしり給はず、心恣にもたせ給ひて仁政を下し給はざる故に、もし五六年に一度あらむ御晴さへ諸家ゆゝしき大儀ぞかし、然るに五年の中に九個度まで執行れし事こそ悲しけれ。一番に将軍の大将拝賀。二番に寛正五年三月、河原猿楽。三番に同年七月、後土御門院御即位{ママ。四番欠●}。五番に同八月、八幡上卿。六番に同九月、春日御社参。七番に同十二月、大嘗会。八番に文正元年三月、伊勢御参宮。九番に花の幸。是によりて諸家の大営、万民の費、言語の不及ところ也○又花御所の甍珠玉をみがき金銀をちりばむ。其費六十万緡并高倉所義政の御母御台所のちに入給ふ腰障子一間の価二万銭なり。是を以て其厳麗をも計るべし○是を以て諸国土民百姓等に課役をかけ段銭棟別を色色の様をかへて譴責すれば国国の名主・百姓は耕作をしえず。田畠を捨て乞食して足手に任てもたへゆき鹿苑院殿の御時は倉役四季にかかりけむ普広院殿の御代となりて一年に十二個度なされけむ。然るを当御代となりて倉役の臨時繁くかゝりしかば大嘗会のありし霜月には臨時九個度、臘月には八個度也。又彼借銭を破らむとて前代未聞の徳政といふ事をいひ出して此御代に十三度まで行はれければ倉方も地下方も皆絶はてゝ夏の世の民の此日いづくんぞ亡びむ。我爾と倶に亡びむといひしが如し。もし此間近臣の中に君を思ふ忠臣あらば、などか諫め奉らざらむや。然るに天下破ればやぶれよ世間亡びば亡びよ猶いやましに懸取て他より一段美をみがくやうに振廻むとする無道は是犬猿の前表なるべし。

(按ずるに、天下やゝ定りぬるに及では、驕侈必ず生ずる事にや。記の記す所を見るに室町家の政乱れし事、既に義満の代に萌して義教の代に長じ義政の時に至て極れる也。倉役といへるは富商富民にかけて銭かり給へるなるべし。かく国用の不足するといふ事は皆是上一人の驕侈によれり。其流弊下民に帰して怨苦せし所の禍、終に又上一人に帰するもの也。天下の乱といふ物は其よる所端多しといへ共、其根本は天下の財つきて民窮り大名日しくなれるよりう事起る也。我神祖府庫の金銀を御覧じて此金銀半にならむ時に天下やゝ乱るべしと仰られし。誠に深き神慮ありと覚ゆるなり。又天下乱れむとては驕恣の主出て、しかも天下に臨み給ふ事、年久しき者と見えたり。義満の治世四十一年、此時天下やゝ定りて武家の礼式等備れるやうに世には申伝ふれども此代に世の憂苦み諸大名の恨み憤れる事、尤多かりき。是たゞ上一人の驕奢によれる所也。されど室町殿の代の盛りなる時なれば動きなく世をも保ち給へり。其後、義教治世は十四年なりしかど、天下以の外に苦みき。此人今暫く世にましまさば此代に天下は乱れぬべし。赤松が為にうせ給ひしは室町殿の猶世を累ね給ふべき事の幸にて暫しが程も世の乱おそかりしは又其代の民の大幸にて有し也。さて義政の治世四十九年、此時に至りて天下の乱は出来しかど其事の起りは皆皆義満に萌し義教に長じける也。況や四十九年が程、驕奢を恣にし給ひ天下の大名も下民も苦み窮りしかば室町殿終に亡びし也。猶も其代の内に亡びうせ給はざりし事は世に英雄の人もなく一つんは天下久しく将軍の威に服せしいはれあるが故也(此いはれにつき子細あるべし)。大学に、雖有善者亦無如之何矣、とみえし事さもある事也。今出川殿の御事は其代のものどもに見えし所いかにも温順の人にてまし/\き、されど一日も位におはしまさゞれば其徳沢の世に及ぶといふ事もなし。義尚将軍は凡は室町代代の内にすぐれ給へる主にておはしき。思ふに其生質の美のみにもあらず。父将軍の不徳にて世を乱り給ひしに大きに懲りさせ給ひしが故にや自らの徳をも修め給ひ十一歳の御時より文学を好み給ひて倭歌をも嗜なみ給ひ弓馬の芸を習ひて書法をも学び給ひき。されば小槻宿祢雅久して論語を講ぜしめ卜部兼倶に日本紀を講ぜしめられ花御所厩前にて犬追物を御覧ずる事度度なりき。十五歳にて父に代りて天下の政務をしり給ふ。十六歳の七月、一条の太閤に望て樵談治要を撰ませ申され、十九歳の二月、詩歌の会を催され、廿二歳の時、大将拝賀の参内おはせしに其礼をならひ給ひし由を世にも申伝へ侍り、廿三歳の時、六角高頼を親ら討給ひ、甲賀に遁去りしを猶うたれむとて鈎里に陣し給ひし其軍中にも孝経を講じさせ春秋左氏伝を講じさせて聞し召れしが(信友按、陣中にて宣胤卿に請ひて帝皇系図を撰進らしめられたる事もあり)つひに其陣中にうせ給ひぬ。されば文事を好み給ひしのみにあらず。武事にも堪へ給ひし所おはせしと見えき。此人世にまします事年久しく又善き人して政を補佐し参らせば若くは室町殿の代、中興し給ふ事も有ぬべし。然るに兵乱の中に生長し給ひ世をしろしめされし事纔にてうせ給ひぬ。よからぬ東山殿は世をしり給ふ事久しかりし程に天下終に乱れし也。天の其邦家を亡さむとし給ふ時には善者有といへども、いかにともすべきやうなき者とこそ見えたる。譬へば殷に三仁あれど紂王世を亡し給ふが如し。又義政の代に天下乱れしこと其根本は驕奢に起れりと雖、ことの端となりしは義教弑せらるゝによれり。其故は満祐が逆罪によりて義量の御時に討手を向られしに山名入道が一族功ありしかば其賞殊に多かりき、然るに此入道天性はらあしく、おごりぬる気有て畠山が家を乱り赤松が家の絶む事を謀りて、つひに其壻勝元と不快して今出川殿を世に立参らせじと御台所の御方へ申せし也。此人嘉吉の功なくば、いかでかくまで世を乱る程の勢は有べき。さて又、畠山・斯波各家督を争ひし事、乱の端となりし第一也。畠山が事は初政長を勝元の贔屓にて宗全方人たり。後には宗全又義就に荷擔して是を立むとす。斯波が事を先には家老甲斐内縁によりて望みしかば貞親是を用て義敏を退け終には新造の申につきて貞親又義廉をしりぞく。又此時、義政猶子して後、実子出来しかば初の志変じ勝元も猶子を僧とせしかば宗全と壻しうとの中らひあしく畠山も養子の後に実子生れしより其家乱れき。公方も管領も猶子して後、志の変ぜし事共に同じく山名伊勢が人の家を或は助け或は傾けむとせし事、又共に同じ。されば世の至て重き事、人の世継の事ほど大切なるはなし。北条が鎌倉殿の嗣を絶しこと其後天子の皇統を乱りて王室を弱め摂家の支流を分ちて其勢をそぎしも皆是世嗣の事にあらざるはなし。孔子春秋を筆削し給ひし初に魯隠公元年に始られしも継嗣の事より国乱れしが故也。礼記にも此事を論じ給へり。されば異朝にも世嗣の事を殊に重くしてはべり。我朝の古も令の中に継嗣を撰おかれ、近くは我神祖、天下の法式を定め給ひしにも此事を返/\仰おかれし、是全く人臣の家のみにはあらず。人君の御事にかゝれる也。東山殿の御跡の事、則これによりて重ねて乱れし也。闇主自ら邦家を覆し給ふも奸臣世を乱らむとするも必ず継統の事に起るなれば、よく/\心得あるべき事なり。
義政の時、天下の政二つに出し由、応仁記にしるせし所、後醍醐中興の政破れし事の如し。是皆御台所・香樹院・春日局など内奏によるといへども其事を執行ひしは皆伊勢守貞親也。貞親が事、記に見えし所詳也。且別記にも、貞親は御所様の御父なり、新造を御母とぞ申奉る。是程の遠慮なしなれば天下の御大事可出来事を顧ずとは記せり。伊勢の系図并に小田原にてしるされし旧記を見るに室町殿御父分たるよし見えたり。其余のものに支證なきか。但し応永五年、義満武家の三職七頭等を定められし時に伊勢守貞行を以て奏者とせられき。貞行が子伊勢守貞国、貞国が子従四位下伊勢守貞親也。其嫡子は兵庫助貞宗、後に備中守又伊勢守が任じき。是は金仙寺といひて世に重く思ひし人にて其父には似ぬ人にて有りし也。貞親は文明五年正月、五十七歳にて卒せしよしなれば応仁の前後は五十歳許にもや有べき。親元日記などを見るにも彼が当時の権勢、管領・職事も及ぶ所にはあらず、初義満奏者の職を置れし事、既にあやまれるにや。思ふに此職は朝家の蔵人の職掌によく似たる事とぞ覚ゆ。蔵人という職むかしはなかりしを嵯峨の御時より置れし也。続古事談を見るに昔平城の御時までは此国にもあさ政し給ひけり。其儀式いまだほの/\の程に主上出て南面におはします。群臣百僚各座に接す。四方の訴人そうなく内裏へ参集て高き机の上にうれへ文の箱といふものを置れたりければ、あやしの民百姓まで申文をもて参て此箱に納る。史外記并に少納言など次第に取上て是をよみ申。群臣も各是を評定し主上まのあたり勅定を下さる、うれへもし左右にあれば、すなはち問はる。申文多くして事の外に日たけぬれば、やがて其座にて供御を参らす。諸卿御膳をおろして各是を食ふ。其政もししはてぬれば、其後ぞ舞楽御遊などもありける。君の御心には民の愁を聞召て御断りあるより外の大事なかりけり。嵯峨天皇より此方すたれにけり。此君事の外に放逸にして政を御心にいれ給はず。されども其儀式は猶ありけり。五位の蔵人二人をさして御椅子の傍にすゑて愁をきかしめ群議を聞しめてのちに聞召て成敗をさせ給ひけり。是今の職事の始也。嵯峨の別業などへ常におはしましける故に御暇なくして、みづから朝政にあはせ給はざりける也と見えたり。又職原抄蔵人所の下を考るに、嵯峨天皇御宇弘仁年中初置之、摸異朝侍中内侍等職歟、彼侍中尤為重任、内侍者宦者之任也、或有卑之代、或有貴之時、古来宦者知事先賢之所謗也、唐玄宗以内侍高力士、為一品将軍、爾降内侍執文武之柄、遂亡唐祚、依之執政之官太悪宦者、本朝不必然、弘仁以往、少納言及侍従為近習宣伝之職、而此御宇初置当所、と見えし。是等の記せる所を以て見るに、室町殿の代、伊勢が家司る所は則本朝の蔵人、異朝の内侍の職也。貞親が代に至りて威幅の権彼が掌におちて勢益驕横にて彼明皇の世に高力士が省決章奏進退将相せしが如くなりき。甚しくしては義政の御父母なりなど自称するに至る事かの唐末の定策国老門生天子の禍に異らず。異朝の宦侍といふ者は、もと是刑余掃除の人にて士流なほ是を鄙む事をしれり。此貞親が如きはしからず。桓武平氏の流にて弓馬の業を家にし代代の公方に近侍せし者なれば其禍、異朝の宦侍よりは猶甚しかりき。かゝる職掌の者出来て謀議に与り威幅を恣にする事、治世にてはなき事に侍り。是皆驕逸の主、賢士大夫を見る事を憚り給ふ時に近習の人して其宣伝の職を司とらしめらるゝより事起りしなり。此流弊、遂に天下を覆す禍に至る事を知られむには東漢の末、唐の衰へし代の事など併せ按ずべき事也。我神祖かゝる事をよく鑑給ひしにや国初にはかゝる職をば置れざりき。凡は又、義満の時、管領・四職等を定められしに天下の大名を引すぐりて其職に任じ殊には譜代の家を立られし。かえす/\も大きなる誤といふべし(此事、足利殿の代の初より有し事也)。応仁の乱の、よりて起る所なり。漢の文帝の時、賈誼が諫申せしも近くは明建文帝の世の乱も気折れ事にて有し也。後漢の光武、趙末の太祖は能此事を心得給て功臣藩鎮の権を収め給ひき。譬へば虎に翼を付る事の如し。翼なからむだに其爪牙の利畏るべし。況てやそれに翼をつけたらむに、いかでか飛で人を食はざらんや。此謂れをば近代織田・豊臣の如きも、ゆめ/\知給はざりしに我神祖のみ能心得させ給ひし御事、誠に千古に卓越し給ひぬ。万代の後までも従ひより給ふべき御事にや。昔北条が家九代まで保ちしも此心得の有しとは見ゆれど其なせし有様は皆々詐力に出たれば論ずるにたらず。此外に室町家開国の初に大きに誤りて其代の末の乱も又是によりしこと二条あり。されども其事勢をはかるに如何にともすべからざる所也。其一つには関東八州の事を基氏に分与へられしこと也。其後義満の世、氏満に奥両国をあたへられしかば鎌倉管領の国既に十一個国、其数は少かりしかど土地の闊く兵馬の強き恐らくは日本半国に敵すべし。されば義詮の代より鎌倉を疑ひし程に其後は常に京鎌倉の間快からず。義教遂に鎌倉を滅されしかば東国の者ども数世の旧主を慕ひ京の御下知をばうけず。又持氏の末子古河殿をとり立、主となし参らせしより東国先乱れて足利殿の代を終るまで遂に静ならず。されど義詮不器におはせしかば尊氏・直義相議して其藩屏を立おかれし事、一義なしともいひがたし。事勢いかにともすべからずとは是也。二つに幕府を京に開かれし事なり。義詮より此かた代代の将軍、都の中に生長し給ひしかば歌鞠管弦の遊にのみ日を送り給ひ物ごとに華美を好み給ひ武備ことの外に弛みしかば、やゝもすれば強臣の為に却され給ひ世も又随て亡びぬ。されど足利の世の初には南帝吉野に渡らせ給ひし程に自ら北朝の御固めの為に都の内に幕府を開かれしなるべし。是又、如何にともすべからざるもの也。抑建都の事は甚子細あるよしを申伝へ侍り。我朝には平安城は誠に王者の都にては有けり。有徳の君に非ずしては一日も保ち給ふまじき地勢にて侍り。されば何れの代の戦にも京方一日も支へしといふ事をば不聞。されど桓武帝此京を定め給ひしより此方千五百年が程動きなき帝都也。異朝の洛城によく似たる所も侍るにや、其後頼朝の大将は先此心得を知り給ひしと見えし。昔源平の両家相傚びて朝の御固めにおはせし時、弓馬の術いづれまさりおとりはあらず。保元平治の乱に平氏の勲功有し事、源氏の人々には猶まさり給へり。然るに、わづか廿余年が程に其武事殊の外に衰へ源氏の兵起るに及で、たつあしもなくかけ敗られ給へし事、其家運の尽ぬべき時至れりとはいへども、平家の人人、此年月都の内に住み給ひ公家の人人と朝夕に親みならひ武勇の事、いつとなく打忘られしに因れるなり。頼朝此事を遠からぬ鑑とおもひ給ひしにこそ、六十余州が中に殊にすぐれて用武の国と申なる武蔵・相模の間に居をしめ給ひき。されば遙に世をへだてゝ高時入道が亡びし日までも武事においては見る所ある事ども侍りき。其後基氏の代代、又鎌倉をたもち給ひしかば此所は後人の議する所にあらねど、今の代の天下の如く人衆く物盛りならむには猶よからぬ所もありぬと覚ゆ。其後は織田殿近江の安土を御座所とせられしが幾程なくて失はれ給ひしかば論ずるに及ばず。太閤秀吉初は聚楽に住して伏見に移り給ひ又大坂の城を構へて子孫万世の御座所と思ひ給ひしと見えしかど彼の地も武家の住み給ふべき所ともおもはれぬ事ども多し。然るに我神祖東国に移らせ給ひし初、世の人は鎌倉をこそ御座所となさるべけれと思ひしに、さはなくて此所に都城を定め給ひ永世の業を開かれし神謀のほど是又前古に超絶し給ひし御事也。誠に此所は文事武備兼全からんには百代といふともうごきなかるべき地勢にては有なり。今の世、国の蠧害をなす事の東山殿の時に始れる事どもいくらもあり。此後何れの世にか此流弊を改らるゝ善政はおはすべき。一つには、此公方は宮室を治め園地を広め給ふ事を好み給ひき。今も東山に銀閣などの遺跡有にて知ぬ。されば後来これらの事このめる人、皆彼世の事を思ひしたひて是に傚ひしかば民力を■憚のリッシンベンがガツヘン/し国財を費す事多かり。二つには、此人万の物に過奢を好み奇物を翫び給ひしかば其世の工皆心力を尽して造り出せる翫器多く今も東山殿の時の物なりといひぬれば世の宝とするもの少からず。是富貴の人の誇奢の心を開く媒となる事多し。三つには、此人天性心匠おはせしが故に万の事に物ずきといふ事出来しかば今に至るまで好事の人物ことに古式をいとひ我巧智を用て新奇を競ひぬ。凡古礼の廃れゆくと不■此のした言/の財を費すとは皆此物ずきといふ事より起れり。尤風俗を敗るといふべし。四つには、茶事を好み給ひて古画・古器を多く聚め給ひて今の世にも東山殿の御物なりといふ者は其価殊に貴し。かゝる事は閑人・散士の聊平生を娯むにはさもこそあらめど其流弊は難得の物を求めむとし有用の財を尽して士大夫の如きも牙僧の事に習ひて廉潔の風を敗る。五つには、此時驕奢の余、天下の財既に尽はてしかば刀剣の価を定めあっる。其価の高下を以て奉公の浅深に従ひ其賞に充行れし。其習はし今に残りて君上に奉る物にも先其価を論ずるに至れり。いと浅ましき事ぞと覚ゆる。是等の五つを初て後代の人、奢侈を好む心を生じ国家の財を費し士君子の風俗を敗る事、彼の治世四十九年がうちに出来て二百余載の今に及べり。書の五子之歌に、内作色荒、外作禽荒、甘酒嗜音、峻宇雕墻、有一于此未或不亡、と見え伊訓には、敢有恒舞于宮酣歌于室、時謂巫風、敢有殉于貨色恒于遊畋、時謂淫風、敢有侮聖言逆忠直遠耆徳比頑童、時謂乱風、惟茲三風十愆、卿士有一于身、家必喪、邦君有一于身国必亡、と見えし。誠なる哉、是等の事、身に一つありてだに家をも国をも亡しつべし。ましてや此公方には一つとしてのこる所もなくおはしければ、世の乱れしも理也。実に天のなせる禍にはあらず。自なせる■蘗の木が子/ののがるべからずといふべし。然るを今の人、尤に傚ふの戒を知らずして、たゞ其風俗を思ひしたふ事いかなるいはれや心得がたし。

 

   
  
← 兎の小屋_Index
↑ 犬の曠野_Index
↓ 栗鼠の頬袋_Index