「伊吹童子」新大系

 

昔、近江国に息吹の弥三郎と申てゆ丶しき人ありけり。其父は弥太郎殿と申て古へより代々この伊吹山の主にて侍ける。又、同じ国に大野木殿と申て名高き人侍りけり。その人、最愛の姫君を持ち給みめかたち美しくおはしければ、すなはちこの姫君を迎へて弥三郎殿の妻とさだめて、比翼の語らひをなし給へり。

此弥三郎と申は、みめかたち清やかに器量事柄いかめしくおはしけるが幼き時より酒を好みて多く飲み給へり。おとなしくなり侍るに従つて次第に多く飲みけるほどに常に酒にのみ酔ひ浸り心狂乱し、そぞろなる事をのみ言散らし、又は恐ろしき事どもをぞし給へりける。あはれ我が腹に飽くほど酒を飲まばやなんど願事にもせられけるが、近き辺りは、ほくだうへ下り上りする道路なれば商人のもてひける酒などを是非なく奪ひ取りて飲まれたり

又、平生の肴には獣猿兎狸などのたぐひをま丶ながら引き裂き引き裂き食せられしかば、毎日三四つのけだもの殺されしほどに、後には山林を狩りもとめてもつやつや鳥けだ物なかりけり。か丶りしかば人民の家々に養ひ飼ふ所の馬牛を奪ひ取り食はれけり。しき有様なれ。

昔、出雲国簸川上と申所に八岐大蛇といふ大蛇ありしが、此大蛇、毎日生贄とて生きたる人を食ひける也。また酒を飲む事おびた丶し。八塩折の酒を八の酒槽に飲みしほどに、飲み酔ひて素戔鳴尊に殺され侍き。その大蛇変じて又、神になる。今の伊吹大明神これなり。されば此弥三郎は伊吹大明神の御山をつかさどる人なれば、酒好き生物好み給ふかやと、諸人恐れをなして旅人も道を行き通はず。村々里々荒れはてたり

さるほどに大野木殿はこのよしをきこしめし、大きに驚き給、いかさま是は人間にては有からず、鬼のたぐひなるべし、彼もし年を経てば通力も出で来つ丶人倫を滅ぼし世のわざはひをなしつべ。、いかにしてもこれを害せばやとおぼして、ひそかに謀をめぐらし、弥三郎を呼び給処に、世の常の有様ならぬことを恥ぢて参らず。さらばと大野木殿いろいろの雑餉をこしら伊吹殿立ち入給へり。弥三郎すなはちあひ対面し色々の珍物を調へ、さまざまにもてなし侍けり。其時、大野木殿御もたせの酒を出されたり。弥三郎大きに喜び日比の所望なれば、さしうけさしうけ多く飲みけるほどに、大野木殿の用意せられ酒、馬に七駄とやらん侍し悉く飲み尽くしけると聞えし。さしも大上戸なりしが、ともかくおびた丶しき事なれば、正体もなく飲み酔ひ、跡も枕もわきまへず、そのま丶座敷に倒れ臥したり。運の極めこそ無慚なれ。大野木殿は、たばかりおほせしと勇み喜びつ丶、やがてかの臥したる枕に立寄り、脇の下に刀を突き立て、あなたへ通れと差し込みて、我が館にぞ帰られける。姫君は、親子の御中なれども、かやうの事をゆめゆめ知り給はね、弥三郎殿はいつもの酒に酔ひ臥し給へると思ひて衣引きかづけ置かれたり

三日過ぎしかば、酒の酔ひ醒めつ丶起きあがり、脇の下に刀の突き立て有しさぐり、大に驚き、さては大野木にたばかられけるこそくちおしけれと躍り上り躍り上りせられしが、大事の所を突かれ侍るゆへに心も消え消えとなりつゐにむなしくなりにけり。弥三郎果て給ひけるよし聞えしかば、野人村老も安堵して在々所々も繁昌しけり。

さても姫君は、弥三郎殿に別れ給て嘆き給ふ事限りなし。是はひとへに大野木殿の御しわざなるべし、情なの御事やと恨み給へども、せんかたなくして過し給ふほどに、折節懐妊の月日満ちて平らかに産の紐を解き給へり。ことに美しくけたかき男子にておはせしかば、父の忘れがたみに見るべしと喜び、いつきかしづきふほどに、いつしか弥三郎によく似給へりと人々申へり。

大野木殿このよしをきこしめし、父のかたみともてなし給ことは理なれども、弥三郎によく似候はば定めて悪行をなし侍るべし。おとなしくなり侍らぬさきに、いかにも計ら給へと申しつかはし給へ、姫君このよしきこしめし、大野木殿はわらはが父にておはしませども邪見の人にておはしませり、弥三郎殿をたばかり給ふさへあさましく恨めしく忘る丶ひまもかりしに、昨日今日生まれ出て、たまたま親子の喜びをなし、日比の悲しさをも慰めばやと思へば、重ねて憂き目見せむとてかやうにのたまふかやと、からきことに恨みかこち給へ、恩愛の中の愛しさは誰もさこそあれと、はれにおぼしつ丶その後はまたのまひ遣はす事もなし。

かくて此児、月日かさなるま丶いつしか成人し給へり。父によく似て酒をよく飲み侍しかば、皆人、酒呑童子と申ける。常に酒に酔ひて心乱れ魂強くて咎なき人をさいなみ野山を走り歩きて馬牛をうち叩きなど、幼き身に応ぜぬ悪行をのみ事としければ、辺りの者これを見て、さればこそ弥三郎殿の分身よ、今度こそ世の人種は尽くし給ふべけれ、と申ける。

大野木殿このよしきこしめし姫君の方へ使ひを立てて、何とて申ことを用ゐぬぞ、只今に世のわざはひを責め引出し給ふべし、と大きに責めいさめ給へ、父の仰せも黙しがたし。其上、辺りの者どもも恐れ悲しめば、我が手に抱へ置く事は悪しかるべしと、日吉の山の北の谷にぞ捨てられける。その時童子は七歳にて侍ける。

かやうに親しむべき人々にも憎まれ付き従へる民百姓にも疎まれて、そこともしらぬ深谷に住み侍れば虎狼野干に害せられて露の命たち所に消えぬべしとこそ思ひしに、へて衰ふる気色もなく悲しめる有様もなし。日を経月を渡りたくましくなりゆくほどに日比の形には変はり恐ろしくすさまじき体なり。平生は木の実などを採り食しけるが、後には鳥類畜類などを服しけると聞こえし。

其後小比叡の峰に移りしばらくあひ住みけり。此所には二の宮権現天下りおはしまして悪鬼邪神をいましめ給ふゆへに、又其峰をも逃げ出にけり。ことに此二の宮権現と申奉るは此日本国の地主にておはしましける。昔天照太神、天の岩戸を押し開き天の瓊鉾をもつて青海原をかきさぐり給ひし時、鉾に当たる物あるを、何、と問給へ、我は是日本の地主なり、と答へ給ひし国常立の尊におはします。本地を申せば東方浄瑠璃世界の主・薬師如来なり。人寿二万歳の始めよりこの所の主たり、と釈尊に語らせ給ひしなり。

比叡の山の東に続きて峨々としてけはしき峰あり。この所よき住処なりとて岩屋などを作り住み侍りけり。神変通力などをも得たりと見えて、いづくより召して来りけん、さまざまに恐ろしき眷属などを使ひけ。しかるに此所は金石と申て清浄の霊地なれば太神の御子たち天下らせ給て跡を垂れ給。魍魎鬼神穢らし、出で出でよ、とさいなみ給ふゆへに其所を逃げ去りけり。八王子と申所これなり。

酒呑童子は、それよりも大比叡にぞ移りける。此所は昔拘留孫仏の御時、漫々たる大海の上に一切衆生悉有仏性、如来常住無有変易と唱ふる浪の声あり、釈尊、この浪のとどまる行末を見給へ、一葉の葦の葉に凝り固まつて島となる、波止土濃と申所これなり、釈尊、この所に仏法を弘め結界の地となすべし、とのたまへ、薬師如来は、我は此山の王となり後五百歳の仏法を守るべし、と契約して東西へ別れ給へり、薬師如来は早く二の宮権現と顕れて小比叡の岳に天下給へ、釈尊はまた大宮権現と顕れて大和国磯城郡に天下り給しが、それよりやがて老翁の形を現じて、この大比叡に移り給へり。

酒呑童子は畏れをなし奉り、やがて大比叡を逃げ出て西城に移りける。この所は用害の地なり。深き谷を切り回し大木を並べ大盤石を切り通して数百丈の岩屋を作り居所を占めて、あまたの眷属を従へ四方を駆けり歩かせて人民の財を奪ひ取り山の如くに積みあげ、野山を飛び回り鳥獣をとり貯へて朝夕の食物としける。恐ろしともいふはかぎりなし。

こ丶に又、近江国滋賀郡の住人に三津の百枝といふ人、男子を一人持たれけり。利根聡明の童なりしが、年十二と申しに出家して、その名を最澄法師と号す。年比学問修行せられしが、猶も甚深微妙の玉を磨かばやとおぼしめし、つゐに入唐して顕密の両宗、淵底を究め奥義を伝へて帰朝せらる。伝教大師と申はこれなり。その比、柏原の御門、奈良の都を山城国愛宕郡に移し給。今の京、平安城、四神相応の地、これなり。時に大師、奏聞申てのたまはく、王城の鬼門にあたつて鎮護国家の道場を建立し国土を守り宝祚を祈り奉らんと。御門叡感ましまして、すなはち大師と御心を一つにして、伽藍を草創し給ふべし、となり。大師やがて日吉の山によぢのぼり、いづくか清浄の霊地なるべしと見巡り給ふに、山中に法花読誦の声聞こえしかば、その所に尋ねきて見給へ大地の底に此経の声は有けり。此地なん伽藍建立の地なるべしとおぼしめし定めつ。しかるに酒呑童子はこのよしを見て、この所に伽藍でき結界の地とならば、我この山に住むこと叶ふまじ。さらばいかにしてもけさ丶をなさばやとて、もとより通力を得たりしかば、一夜のほどに数十囲の杉の木となつて、かの所に生ひはこれ。あまたの杣ども、これを切り倒さむとすれども、つゐにその功なりがたし。時に大師、十方を礼してのたまはく、阿耨多羅三藐三菩提の仏たち我がたつ杣に冥加あらせたまへ、と詠じ給ひければ、此杉の木、朝日に霜の解けし如くに消え消えとなり失せにけり。さこそ其地に伽藍を建てられて根本中堂と号し医王善逝の尊像を据へ崇め天台の教法を移し給へり。山はこれ戒定恵の三学を表して三塔を建て人はまた一念三千の儀をあらはして三千の宗徒を置かれたり。其後、伝教大師、小比叡の岳に閑居して、丹波山や小比叡の杉のひとり居は嵐も寒しといふ人もなし、と詠じ給へ、虚空に日月星の三の光あらはれ、或ひは釈迦薬師弥陀の尊像と変じ、或ひは一体となり種々の奇瑞を示し給へ、大師この御有様をつらつら観じ給つ丶、もとより非一非三、中道実相の妙体なりとて、この山の御神を山王と崇め申されき。御門大師と御心を比給ふゆへに比叡山と申なり。寺を延暦寺と号し天台大乗の法流を末世に栄やかし宝祚長久をとこしなへに祈り給。まことにめでたき御事なるべし。

さるほどに、酒呑童子は三世の諸仏に嫌はれ七社の権現に憎まれしかばつゐにこの岩屋にも住むこと叶はずして、それより丹波国に逃げゆき、大江山といふ所に一つの巌窟を求め得たり。その気色ことにいかめしく物すごし。山岳峨々と聳えたれば鳥も翔りがたし。谷深くめぐりめぐりてふべき道もなき切所なるに巌うがち石畳みて石壁なし石門建てて眷属の鬼どもを日夜警固に据へ置きたり。その奥に広々と岩屋を作りて酒呑童子あひめり。諸方に飛び巡り七珍万宝を請ひ取り美人貴女をたぶらかし来り夫人官女の如くに召し従へ栄華に誇り快楽を極むるよそほひ、前代未聞の不思議なり。世にこれを鬼が城と申とかや。

 

 

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