★伊井暇幻読本・南総里見八犬伝「もう一人の里見義成」/頂点を突き抜けて★
 
 

 「遊女」から話が逸れていって、甚だ遠く道草を食った。遊君別当・里見義成のもとへ戻ろう。それまで京で平家に仕えていた義成は、源頼朝が反平氏の兵を起こしたと聞くや、東国に下り馳参する。
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【第一・治承四年十二月廿二日庚子】前略……又上西(新田大炊助入道義重)孫子里見太郎義成自京都参上日来雖属平家伝聞源家御繁栄参之由申之其志異祖父早可奉昵近之旨被免之義成申云石橋合戦後平家頻廻計議於源氏一類者悉以可誅亡之由内々有用意之間向関東可襲武衛之趣義成偽申之処平家喜之令免許之間参向於駿河国千本松原長井斎藤別当実盛瀬下四郎広親等相逢云東国勇士者皆奉従武衛仍武衛相引数万騎令到鎌倉給而吾等二人者先日依有蒙平家約諾事上洛之由語申之義成聞此事弥揚鞭(云々)
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 愛らしい子犬の如く、里見義成は、頼朝を慕ったというのだ。佞人ほど、慕われると喜ぶ。頼朝は義成を寵愛した。さて、吾妻鏡に於ける里見(太郎冠者)義成の登場は、以下の通りだ。

【第七・文治三年十月四日】頼朝側近に伺候する者として。
【第八・文治四年正月】廿日丙辰二品(頼朝)立鎌倉令参詣伊豆筥根三嶋社等給武州参州駿州源蔵人大夫上総介新田蔵人奈胡蔵人里見冠者徳河三郎等扈従……後略
【第八・文治四年三月十五日】梶原景時が宿願としていた大般若経の供養が鶴岡宮道場で行われ、頼朝も結縁のため出席した。武士六十八人が同行し行列(先陣随兵八人・御後二十二人・後陣随兵八人・路次随兵三十人)を形成した。このうち先陣、下河辺庄司行平・工藤左衛門尉祐経らと共に名を挙げられている。
【第八・文治四年七月】十日甲辰若公(万寿公七歳)始令着御甲之給於南面有其儀時尅二品出御江間殿参進上御簾給次若公出御武蔵守義信(乳母夫)比企四郎能員(乳母兄)奉扶持之小時小山兵衛尉朝政持参御甲直垂(青地錦)改以前御装束朝政奉結御腰次千葉介常胤持参御甲納櫃子息胤正師常舁之前行胤頼扶持又従後常胤御甲向南令立給此間梶原源太左衛門尉景季進御剣三浦十郎義連御剣下河辺庄司行平持参御弓佐々木三郎盛綱献御征矢八田右衛門尉知家献馬(黒置鞍)子息朝重引之三浦介義澄畠山次郎重忠和田太郎義盛等奉扶乗小山七郎朝光葛西三郎清重付騎轡小笠原弥太郎千葉五郎比企弥四郎等候御馬左右三度打廻南庭下御今度足立右馬允遠元奉抱之甲已下解脱親家給御物具御馬入御厩納殿等其後武州献御馬於二品里見冠者義成引之次於西侍有盃酌二品出御于釣殿西面(上母屋御簾)武州所経営也初献御酌朝光二献義村三献清重入御之後武州奉酒肴并生衣一領同小袖五領於御台所賀申若公御吉事之故也
【第九・文治五年六月】六日甲午早旦公朝参申云為御塔供養自院被進御馬以下之間相具参(云々)被仰可給置之由公朝(白襖平礼帯剣)参御所御馬(葦毛白鞍付金師子丸打物泥障白伏輪也)御厩舎人武廉(着赤色上下)引立南門駿河守広綱請取之又錦被物二重(一重赤地紅裏一重青地単)并女房三品局進物扇二十本(納銀筥)公朝取之授新田蔵人義兼里見冠者義成等但此等不被入殿中依御軽服也於宮寺可為施物之故歟其後公朝撤剣参于寝殿南面二品有御対面(云々)……後略
【第九・文治五年六月九日丁酉】御塔供養のために出掛けた頼朝の行列に六十五人の挙がっている(うち御馬引手十人)。里見冠者義成は、後陣随兵(十六人)として、北条五郎時連や三浦十郎義連、曾我太郎祐信・佐々木三郎盛綱らと共に、名を連ねている。
【第十・建久元年十一月七日丁巳】上洛した頼朝の行列には三百五十五人の名が挙がっている。先陣は畠山次郎忠重。続く先陣随兵(三列縦隊六十行百八十人)のうち第三十一番行に「里見太郎」。しかし同九日に六波羅の宿所を出て御所に向かう行列二十人の名に、里見は無い。また、同十一日の六条若宮・石志水参詣の行列四十五人の中にも見られない。
【第十一・建久二年七月二十八日甲戌】新しい寝殿・対屋・御厩等の造営が終わり「御移徒之儀」があった。武蔵守ら十八人(名前明記分)が近侍し、十六人の随兵が警護した。「里見太郎義成」は、後陣八騎に数えられている。
【第十二・建久三年十月】十九日戊午御台所并新誕若公自名越濱御所入御幕府北条五郎時連里見冠者義成新田蔵人義兼小山左衛門尉朝政同朝光三浦左衛門尉義連同兵衛尉義村八田兵衛尉朝重梶原左衛門景季同兵衛尉景茂等供奉(云々)
【第十三・建久三年三月】廿二一日戊子旧院御一廻之程者諸国被禁狩猟日数已馳過訖仍将軍家為覧下野国那須野信濃国三原等狩倉今日進発給自去比所被召聚馴狩猟之輩也其中令達弓馬又無御隔心之族被撰二十二人各令帯弓箭其外縦雖及万騎不帯弓箭可為踏馬衆之由被定(云々)江間四郎、武田五郎、加々美二郎、里見太郎、小山七郎、下河辺庄司、三浦左衛門尉、和田左衛門尉、千葉小太郎、榛谷四郎、諏方大夫、藤沢二郎、佐々木三郎、渋谷二郎、葛西兵衛尉、望月太郎、梶原左衛門尉、工藤小二郎、新田四郎、狩野介、宇佐美三郎、土屋兵衛尉
【第十三・建久四年五月廿九日甲午】工藤庄司景光が変死したため頼朝は狩りの終始を主張したが、宿老たちに反対され翌日、巻狩が実施される。夜になって、歌舞伎やら何やらと多メディア展開することになる曾我物語、工藤左衛門尉祐経暗殺が起こる。大騒動になって宿侍の御家人が皆飛び出し、曾我兄弟の捕縛に当たる。兄弟によって多く討たれ傷ついた。頼朝の眼前に五郎が迫る。頼朝も匹夫の勇、剣を持って応戦しようとするが左将監能直に抑え込まれて避難、小舎人童五郎丸が五郎を捕らえた。十郎は新田四郎忠常に討たれた。里見義成の名は登場しない。しかし翌二十九日、五郎が頼朝の前に引き出され尋問が始まる。北条父子をはじめ有力御家人ら二十四人が居流れる。その中に里見冠者もいる。
【第十四・建久五年正月】一日辛亥将軍右大将家御参鶴岳八幡宮還御之後有●(ツチヘンに完)飯上総介義兼御征箭弓馬以下御剣者里見冠者義成持之(云々)
【第十四・建久五年二月二日甲午】夜になって江間殿嫡男(童名金剛年十三)の元服が行われた。将軍家が加冠之儀を行い、太郎時頼と名付けた。北条時頼である。御剣を時頼に手渡した者が、里見冠者義成であった。
【第十四・建久五年四月】四日乙未同宮〈鶴岡八幡宮〉神事〈臨時祭〉如昨日里見冠者為奉幣御使(云々)
【第十四・建久五年八月八日丙申】将軍家が薬師如来の霊場である相模国日向山に参詣。警護に五十二人の名があるが、うち先陣随兵十四人のうちに、里見冠者義成がいる。
【第十四・建久五年閏八月一日戊午】将軍家が三浦に行った折、随行者に小笠懸をさせた。十二人の射手に里見冠者義成も選ばれている。
【第十五・建久六年三月十日乙未】将軍家が東大寺供養に参列したとき供奉した三百七十二人のうち、先陣に続く「次御随兵」百二十人中に「里見小太郎」がいる。しかし、「小太郎」との表記は此処だけのようなので、息子か親類とも考えられる。
【第十五・建久六年四月十五日庚午】将軍家と若公が石清水を参詣した折、随兵二十騎の先陣(十騎)に「里見太郎義成」。ただし、同十日の参内では随兵十騎には選ばれていない。
【第十五・建久六年五月廿日甲辰】北条政子や女房らと共に頼朝が、天王寺詣で。六十七人の警護衆のうち、後陣随兵(二十六騎)に里見太郎義成がいる。
【第十五・建久六年八月十六日戊辰】放生会の翌日も鶴岡八幡宮に参詣した将軍家は「撰堪能」十六騎に流鏑馬をさせる。二番手が里見太郎。十六番が梶原兵衛尉、十五番が江間太郎、十四番に小山又四郎、十三番が下河辺四郎、十二番が結城七郎、愛甲三郎は八番で、最後になるに連れ権力の座に近いか名高い武士になっているようにも思える。

 以上、国史大系版吾妻鏡を雑と捲って目に付いた所を抽き出した。義成登場の特徴としては、A戦場では名前が見えない、B儀礼に於いては最重要ではないものの重要な役割を担うことがある、C遊君別当に任じられている、D小笠懸・流鏑馬の射手に選ばれている。
 まずD項から考える。流鏑馬の「撰堪能」、巧い者を選んで行わせたのだから、少なくとも人前で恥を掻かぬ程度の腕はあったらしい。また、後の順番になるほど武勇で知られる者や政治的に重要な役割を果たした者となっている。順番が後になるほど、権威が高まっているよう見受けられる。理念としては、〈下手な順に並んでいる〉。とは云え、例えば八犬伝の世界でも、純粋に政治的な能力の高い者が政権を握っているわけではない。此処で「純粋に政治的な能力」と謂うのは、より反発少なく政策を実行する、其の集団が豊かで安全にいられる、総意として選択した理念を実現する、など甚だ基本的な能力だ。しかし八犬伝では、此の「甚だ基本的な能力」を持ち合わせている者が少ない。奸佞の者であったり、暗愚であったりする者が多い。それでも彼等は権を握っている。則ち、権の座に就く能力・才能は、権を振るうに当たって期待される能力とは、全く別物ってことだ。偉そうにするとか媚びを売るとか人の足を引っ張ることにしか能がない場合でも、権力を握ることは出来る。にも拘わらず、一旦その座に就くと、全く違う面での能力で其の座に就いたとしても、「期待される能力」に優れているということにされる。八犬伝に限らず、よく・ある・話、だ。
 翻って流鏑馬の場合でも、本来なら弓の実力で順番が決まるべきだとしても、個々人の政治力によってバイアスがかかることも、十分に考えられる。武士は武勇が重要な価値基準であるから、実は政治的な力でのし上がったとしても、武勇を備えていることが期待された。人は思いたいように、思う。期待は、事実と認定される。しかし、矢が的に届かないほど下手でも困る。共有されている妄想が、破綻してしまうからだ。工藤景光の悲劇も、案外、此処等辺の話が絡んでいるかもしれない。抑も里見太郎冠者義成は、頼朝の寵士だ。それ故に流鏑馬の射手として選ばれたのかもしれない。そして又、義成より上位とされている者にも、それ以上のバイアスがかかっているかもしれない。結局、御家人のうち上位十六位に入るほど弓が巧かったとも断言はできないし、十五番目より実は上位に据えられるべき巧者であったかもしれない。何連にせよ、平均以上の技は、持ち合わせていたであろう。
 富士野巻狩で弓箭を帯して頼朝に近侍する二十二人のうちに選ばれてもいる。親衛隊だ。親衛隊、第一の要件は、裏切らないことだ。こればっかりは、如何な暗愚の者も遵守する。暗愚な者ほど、保身に熱心なものだ。故に、義成は、頼朝が信頼しており手元に置ける者の中では、(母数は知らぬけれども少なくとも頼朝の主観もしくは取り巻きとの総意として)二十二番目までには入る武勇を持っていたことは判る。信頼できる者が二十二人しかいなかったのかもしれないが。更に云えば、頼朝の寺社参拝での随行も目立つ。但し、先陣か後陣で、最側近というわけではない。頼朝が上洛したときも従っているが、参内には同行していない。則ち里見義成は、北条・梶原など頼朝と最も近しい関係にあった御家人ほどでなくとも、かなり信頼された部類であったと考えられる。
 次にA項を考える。何故にD項に於いて、素直に義成の武勇を最高級だと認めなかったかと云えば、合戦の記述に登場しないからだ。実力があっても出し切れぬことはあろう。巡り合わせもある。頼朝の寵愛を受けながらも何故だか余り所領は与えられずに、即ち催せる手勢が少なすぎて、合戦で当てにされていなかったとも考えられるが、前提に無理があるので、却下。個人技は、そこそこのレベルではあったが、部隊長としての指揮能力が全くなかったのか。しかし、一度も登場しないのだから、寵愛の余り頼朝が手放したがらず出陣させなかったとも考えられる。頼朝は義成を賞翫しまくり、片時も離れたくなかったのであろうか。……ところで「賞翫」、北条政子が、静御前の歌に文句を垂れた頼朝を、叱りつけたときの語彙だ。「鑑賞しろ」。頼朝に関する「賞翫」に就いては、次の如き記述がある。
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【第二・養和二年・正月】廿三日甲午伯耆守時家初参武衛是時忠卿息也依継母之結構被配上総国司馬令賞翫之為聟而広常去年以来御気色聊不快之間為贖其事挙申之武衛愛京洛客之間殊憐愍(云々)
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 千葉広常は、上総に流されてきた伯耆守時家を「賞翫」し、ついには聟とした。ところで広常は去年から頼朝の不興を蒙っていた。頼朝の機嫌を取るために、時家を差し出した。頼朝は京からの客を愛する傾向があったが、時家を特に憐れんだ。
 ついでに云うと、源義経は逃亡の途中、静御前と別れた数日後の文治元年十一月廿二日、吉野多武峰に向かった。「到着之所者南院内藤室其坊主号十字坊之悪僧也賞翫予州(云々)」。到着した所は南院内藤室で、其処の坊主は十字坊と名乗る悪僧であった。予州を賞翫した。因みに一週間後の二十九日、十字坊は、寺が手狭で兵となる僧も少ないことを理由に、義経を遠津河辺まで送っていこうと提案する。義経は大いに悦んで賛成する。十字坊は八人の悪僧に義経を送らせた。……この記述から考えられることは、義経は一時の宿を願ったに過ぎず、十字坊に日夜「賞翫」され、ずるずると南院に留まっていたのだろう。頼朝の追っ手と戦えるほどの寺でないことは、坊主の十字坊が一週間もかけて考えることではなく、義経だって十字坊と別れることを大いに悦んでいる。

 えぇっと、何の話だったかな……そうそう、上記の如き「賞翫」もあるのであって、頼朝の寵士・里見義成が相応の武勇を持っていた筈ながら、出陣や合戦の記述に一度も登場していない点から考えると、なんだか武勇以外の側面が頼朝の好みに合致していたのではないか。

 B項、将軍家および北条家の儀礼で目立つ役割を与えられていることは、両家と義成の関係が良好であったと思わせる。これを前提として、儀礼であるから、新田流源氏としての家柄も評価されていた、頼朝の信頼が厚く幕府での地位も高かった、なども想定できる。が、何と言っても、儀礼なんだから、〈見栄えが良かった〉ことは、ほぼ断定できる。此れは、頼朝外出時に度々供人に加えられていることで、補強できる。行列は、自慰……示威パレードでもあった。
 「見栄え」は造形だけではない。容貌が良いと同時に、表情・仕草も美しくなければならない。若い頃に平家の方人として京で暮らした義成であってみれば、工藤祐経ほどではなかったにせよ、風流の道を嗜んでいただろう。このことは、C項、遊君別当に任ぜられたことからも窺える。当時の「遊君/遊女」は、歌を詠み器楽を奏することも仕事のうちだ。芸がなければならない。冗談で……上段で義成がゲイだったかもしれない可能性を仄めかせたが、それは措いても、抑も芸の道を知らなければ、遊女の優劣を測ることが出来ない。遊君管理を任された以上、〈遊女を集めたときに一番優れた者〉を、頼朝に配置せねばならない。頼朝は俗物最低野郎だから、風流の道なんて解ろう筈もないけれど、文化的なことに憧れを抱いていた。京都からの客を愛し、西行と懇談したがった所からも、窺える。それなりに風流の道を解した遊女を求めただろうから、別当に任じた義成も、斯道に堪能と考えられていたことが解る。また、遊女を扱うならば、容貌醜からず、当たり柔らかく女好きする方が良い。
 ところで、前に頼朝が片時も手放したくなかったから義成を出陣させなかったのではないかと書いたが、実は頼朝の奥州親征にも名前が見えない所から、この仮説は棄てるべきだろう。恐らく義成は、推参時の挿話にある如く一途な面があり、武術も相当の実力はあるのだが、見栄えが良く柔和で女性から愛される類の好人物であって、戦場には向かない御家人だったのではないか。武よりは文の印象で、八犬伝の里見義成とダブる部分も感じる。

 三回に亘って吾妻鏡で遊んだ。楽しかった。……紙の本を読む楽しさを、少しだけ語らせてもらおう。文章というものは、流れに沿って書かれている。電子情報が氾濫する現在、検索しようと思えば色々な情報が簡単に入手できる。しかし、断片化しがちだ。紙の本を手に取って読めば、如何したって前後に目がいく。本を読む行為は、単に記号を検索することとは、決定的に違う。道具的な情報収集は、詰まらない。本では情報が、点から線、線から面へと広がる。例えば今回は、永享の乱に就いて書こうと思って、其の為に八犬伝、安房里見家が催した大規模な狩りの場面を読み返し、馬琴が工藤景光に言及しているため吾妻鏡の該当箇所を読んだ。当然、富士野巻狩に関する記事を読む。遊君別当里見義成が登場している。あはは、そうだった、と面白くなって最初から、承久の変ぐらいまで一気に通読する。昔に読んだ時とは違う。既に私の心には、傾城水滸伝が在る。北条政子が、傾城水滸伝に登場する如き、熱く魅力的な女傑に見える。だから今回分に登場した北条政子は、日曜史家ではなく、傾城水滸伝好きとしての私の目で捉えている。ウンウンと頷きながら読み進むと、承久の変の原因として、馬琴も書いている如く、「亀菊」が登場する。「武家背天気之起依舞女亀菊申状可停止摂津国長江倉橋両庄地頭職之由二箇度被下宣旨之処右京兆不諾申是幕下将軍時募勲功賞定補之輩無指雑怠而難改由申之仍逆鱗甚故也(云々)」(第二十五・承久三年五月十九日条)。いや周知のことだし、断片情報としては私も憶えてはいたが、何様二十年近くも以前、学生の頃に読んだきりだ。記憶は乾ききっている。それが、通読し、〈女傑・北条政子〉の体温に触れた直後に此の語句を改めて見れば、新鮮な印象を与えられた。ああ、この世界か、傾城水滸伝は……。そんなこんなで、長くなってしまった。次回から、ちゃんと永享の乱、八犬伝の端緒に就いて書く。(お粗末様)
 

 

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