伊井暇幻読本・南総里見八犬伝「阿蘇詣で」
 
           ――神々の輪舞シリーズ2――
 
  筆者は先日、南九州は阿蘇を訪れた。阿蘇は馬琴文学の双璧、椿説弓張月で重要なポイントとなっている。「双璧」だけあって、八犬伝と弓張月は、互いに無関係ではない、と私は思っている。少なくとも両書の刊行時期は近く、同じく馬琴円熟期の作品だ。彼一個の脳髄から発したものである以上、根底に於いて無関係である筈はない。だからこそ海を越え、阿蘇まで筆者は赴いたのだ。
 ……と言うか、筆者は中学時代の修学旅行で阿蘇の麓を通ったらしいが、バスの中で眠り込んでいたため記憶にないのである。大方、前夜に枕投げだか何だかで、いや決して艶っぽい話ではないのだが、夜更かしでもしてたんだろう。だから、ちょっと二十年ぶりに、阿蘇に行ってみたかったのである。

 馬琴は「両子山縁起」で法蓮上人と仁聞菩薩が玉を取り合った説話を取り上げた。馬琴が八犬伝に取り組んでいる時期に執筆したものだから、当時の馬琴が脳中に蔵していた事共を窺う好史料であった。この「両子山縁起」に関係ある史料として「地獄に堕ちた帝王」で「彦山流記」を提出した。引用部分は、変な坊さんが美女をレイプしようとして舌を噛み切られた話だった。実は此の部分に先立ち、「両子山縁起」にも載す法連上人と仁聞菩薩の玉取り説話がある。
 「法連上人と仁聞菩薩が玉を取り合った説話」を共通する、九州に於ける台密修験道のメッカ・彦山と馬琴が縁起執筆を頼まれた両子山は、深い関係があったことが知られる。両子山も一つの寺ではなく多くの寺を包含する一山単位の聖域であり、台密修験道の一大拠点だった。両子山は八幡の本家・宇佐神宮と密接な関係があった。両子山の本尊と呼ぶが適当かは悩むところだが、とにかく両子山で最重要の仏は奥の院に祀られた観音である。そして此処は、八幡と観音を習合させる大きな可能性を秘めた聖域であり、少なくとも一見すれば八幡と観音を習合した信仰の痕跡を残す場所だ。
 一般には、八幡の正体は応神天皇とされ、本地は阿弥陀如来とされる。馬琴も恐らく、取り敢えずは八幡/阿弥陀説に異を唱えることはなかったかもしれない。が、篤学なる馬琴であれば、八幡/観音説にも、別に違和感はなかった筈だ。それは則ち……、まぁ、此の点に就いては、後述しよう。

 さて、実は「変な坊さんが美女をレイプしようとして舌を噛み切られた説話」の引用に当たり、或る重要な部分を秘していた。……いや、意地悪ぢゃなくって、あそこで言及すると、ややこしくなると思って省略したのだ。隠した部分とは、「変な坊さんが美女をレイプしようとして舌を噛み切られた」場所だ。あのような引用をすれば、読者は、或いは現場を「彦山」と思ったかもしれない。しかし、「変な坊さん」が龍を見た「宝池」、ありゃぁ「肥後国阿蘇峰」にある「八功徳水池」であった。

 まず、豊後国彦山の「流記」すなわち「縁起」とも言い換え得るモノに、肥後国阿蘇峰が登場する理由を考えねばならない。「阿蘇大明神流記」を少しく引用する。

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前略……
阿蘇権現健磐龍命大明神者神武天皇第二太子也神記三年丙子三月廿日御歳十七御宮作御座(按に一本には大明神十六歳之時下于阿曾とあり)其後神記九十三年丙午八月十五日卯刻御歳百七御隠御座(文明十七年の記にも神記九十三年丙午八月十五日卯刻御歳百七ニテ権現ハ御隠御座とあり)……(中略)……又阿蘇嶽ノ峯ニ池水ヲ湛御輿峯ニ御座頂高上▲▲▲▲▲▲▲神咸光顕阿蘇御渡ノ事ハ神記三年二月一日午刻也(一本にも大明神ハ神記三年丙子二月一日卯日午刻ニ来リ給フとあり)一王子ハ日向国高知保大明神ト顕御座也
  按に当時の書みな大神を神八井耳命の御子といはす神武天皇の御子とすまつ二巻に掲たる至徳嘉慶の註進状に阿蘇大明神者是則天照太神六代孫子神武天皇第二之王子也と見え文明十七年の記に夫阿蘇大明神ト申者彦波瀲●(盧に鳥)●(滋のツクリに鳥)草不葺合火々諾尊ノ太子天照大神ヨリ六代ノ孫子神武天皇ノ第二ノ王子奉号阿蘇権現鎮西肥後国阿蘇大明神ト顕御座ス阿蘇嶽ノ嶺ニ霊池ヲ卜上宮ト号ス▲郷之内ニ有霊社奉号下宮天文十四年の記に阿蘇大明神ハ神武天皇之王子ニテ御座肥後国阿蘇嶺ニ霊池ヲシメオハシマス又一本ニ肥後国一宮阿蘇御社者天照大神六代王孫神武天皇第二王子奉号阿蘇十二宮大明神則是也(延徳三年の記なとにハ神武天皇モ健磐龍命垂迹北宮明神御子孫同儀也また神武天皇阿蘇大明神不可有二とありて阿蘇悉湖ニテ候ヲ神武天皇御干給候と見え又下野狩の条に神武天皇ト北明神ト西野原ニ御▲給フとさへ記して此記中の神武天皇ハみな大神と申奉れり)なとありて神八井耳命の御名をあけさるは猶古事記に日子八井耳命を神武の御子として茨田連なとか彦八井耳命を氏の祖神とする類なるへし然れともかみかく御三代の間をひとつにして言伝へしを其儘かきとめしものなれは文にのそみては甚まきらはしく又此次の御三代も混れありて心得わき難き事のみぞ多き……後略
乗渡リ給フ船在御峯石(按に此在字訓かたし但年中の記に阿蘇四十八石と云を記して其内に山上に船石櫓石といふあり猶考ふへし)其御船ノ梶取ハ●(ニンベンに舞)官也凡従▲来六人也六人トハ大明神姫大明神国龍大明神金凝大明神信農舞官也(此に国龍神と信農とを並載て六人といへるは如何なる故にかあらん又末の段に金凝神を神記百三十二年御歳九十八にて終り給ふよしを記せり其文による時ハ神記百三十二年は孝照二十年なれは綏靖二十八年に生れ給へるなり然るを此に大神と童子に降り坐せりとあるもいふかし一本には阿蘇御渡事高知保大明神阿蘇権現権現ノ叔父神農●(ニンベンに舞)官神農ノ御子女子男子二人共七人也また阿蘇童到来之時金凝明神姫明神国龍明神来リ給フ此四柱也ともあり此等に拠テ見れは童子に降り坐る如くいへるハ京都より降り給ふ神等をすへて四柱また六七人なとかそへ奉りしにてもあらんか猶考ふへし)又乗鶴来給フ様アリ故云鶴原又成鷹来給フ様アリ故云鷹山(此成鷹の成字は乗字の誤るらん○為厭鷹身ニ現給ヒ或時ハ諸嶺ニ翔リ或時ハ鶴原池ノ松藤枝ニ羽ヲ安メ給フとあるは浮屠氏の云伝たることにして既くより此類の俗説はありと見えて二巻に掲たる嘉慶二年の註進状にも尊神示現霊鷹とあり又一本に鷹山の由縁を云る条に姫明神没夕命童子等三尺藤布菅帯一脈造五尺棚▲其上ニ置ト宣フ如其命没夕件物棚ニ置即時姫大明神ノ峯ヨリ母鷹ト現テ飛来リ給ヒテ喰入本山故云鷹山矣ともありておほつかなき説ともありあて此鶴原鷹山共ニ地名にて鶴原には新彦神鎮り坐て下に伝あり鷹山には吉松神鎮り坐せと下に伝なし故に旧記を引て此に大略を記す○文明十七年記云鷹山の吉松ト白ハ神農御変化御座草部ニテハ吉見翁ト現シ給フ卯ノ添則是也一本云鷹山地主卯添ハ従吉松相童龍童真人ニテ御座也応永十五年記云於鷹山槻木樫木楢木此三本を別而鷹山之地主吉松大明神御惜御座其故は樫木は大明神▲▲▲▲▲の時持来り給ふ是は毎年年禰大明神▲五穀祭を執行ふ時女体宮鷹山子安河より奉迎彼御神五穀を産廣め給ふ其時御持の柴是也年中祭事記云鷹牧之神馬ヲ放チ御座ス事権現ト神農●(ニンベンに舞)官之御寵愛之神馬也権現ハ鴾毛ナル龍ヲ放給フ神農ハ鹿毛ナル龍ヲ放給フ舞官ハ栗毛ナル龍ヲ放給フ此中ニ鴾毛ハ殊ニ勝レタル故ニ鴾毛ノ龍ハ鷹山ノ地主吉松ニ賜畢依此儀鴾毛之駒ハ凡眼ニハ不拝見▲▲年記云此西野原へ神武天皇と北明神と御▲給フ其時天皇の召す龍馬ハ月毛の駒也北明神国造の召す駿馬ハ白あし毛の馬也此二疋を下野牧に入御座とありさて此神馬今にも存在て栗毛はいにし年南郷に出て里人も見しなり鴾毛は安永▼▼年▼▼月▼▼(空き)仙水山に現たるを近世にては始とす其時ハ社家山部経喜同経益同経廣適▲此山に遊てひ能く見たり形は大ならす小ならす好きほどにて胸ははり腹は巻あかり色は雪よりも白く▲▲尺は▲▲はかりも地に引けりさてさはかり嶮岨き巉巖を平地を行如く逍遙ひて後は行方しらすなれりと云り此時野飼の牧馬は皆驚き恐れて里に逃下りしとなん)……(中略)……又健磐龍大明神彼最初神武天皇ノ次郎ニテ坐様高知保大明神ニハ弟八幡宮ニハ過去ノ兄ト御座也(此条は殊にいふかしきことなから中比はかかる俗説もありと見えて宇佐宮社記の中にも神武天皇有五子阿蘇高良両大明神ハ宿世御兄弟也岐須美々命ハ是応神天皇之前身神八井耳命ハ鵜茅不葺合尊之再身神功皇后征三韓時主干満珠因号玉垂命なとあり)故高知保阿蘇八幡兄弟三人為▲▲▲▲▲▲先豊後国大野国大野郡緒方村ニ来着給ヒテ此那多ノ瀧ト云所ニ居住ル漆島武宮ト云者許ニ夜宿給フ武宮不奉知以焼木奉打八幡不奉宿其時八幡宣云汝子孫色皆可黒以焼木打我故ニト宣従其日向国臼杵郡熊代村ニ入向其里ノ山中種々楽▲不思議美音聞近其太郎高知保明神彼音楽ヲ聞食テ尋求給フニ近十五丈入テ楼台アリ其中ニ微妙好麗ノ貴女坐名ハ釆女ト申矣其母名ハ山后其祖母名ハ祖母明神云彼女ノ貴好ナル形▲▲愛▲見給ヒテ高知保宣我者▲▲▲▲▲▲▲▲▲憶只此▲山谷深底▲▲▲▲▲▲▲▲二人ハ▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲可▲也ト宣テ大ナル末もとニ▲▲▲▲▲▲兄弟▲分散唯阿蘇大明神従彼高知保肥後国益城郡夜部村ニ出来草部吉見ト云翁許ニ夜宿給フ(按に夜部村の草部吉見とは混れたるへし今も夜部には草部吉見と云地名はなくて此名は阿蘇郡南郷にあり下文には南郷夜部山とさへ云りまた屋造竈塗の跡は矢部にありて今竈社といへる是なり)其時宣様我▲▲▲▲第六代神▲▲▲▲▲▲▲此里ニ住ト宣始テ屋造竈塗給ヒテ住▲▲乾方を見▲▲有澄水其水▲▲▲▲無底海也▲西半山ヲ踏破其山流留▲小山ト云(按に今▲▲郡の小山是なり)次▲底枯干セルヲ廻見給フニ海ノ中島▲北江▲▲▲▲南北ニ頭尾シテ伏者有長百丈計也以▲勢▲伏物▲給ヘトモ更不動其時宣ク汝ハ何者ソト宣答云片角明神也(按に今の手野村を向かしは片角村と云つれは此は国造神社の側なる鯰社によりてかく云りと見ゆさて上古湖の時阿蘇山を中島として南江は今の南郷の地北江は阿蘇郷なれは益城郡矢部山よりは東西にあたりて西北にはあたらす草部よりは此湖はまことに乾方にあたれり)幾計代▲▲ルト問給ヘハ答云▲▲▲成山三度成海三度見▲▲其時大明神宣我木種七度草種七度蒔▲▲▲▲▲▲速罷去ト宣ヘハ丑寅方ノ浦入(按に此も鯰社に其霊を鎮祭れるによりて云るなり手野村は阿蘇郷中にては丑寅の隅なり此鯰の体は流の随に流行て益城郡の鯰村に留りて即て其地を鯰といひ其霊を祭れる祠もあり)然後南郷夜部山宿主草部吉見ヲ召テ宣ク汝子孫為我宮▲人矣……後略
八幡の御母我朝国母大多羅知女ハ……(中略)……八幡宣我母龍宮成約束其契▲遂ト宣テ日向国ニ入給ヒテ娶龍女其時生子若宮四所ト申彼最初大多知女渡高麗時阿蘇大明神娶高麗温泉四面大龍女帰宮▲▲▲▲▲▲▲大明神宣▲従六月御田殖至于九月九日▲世政ヲ▲▲▲▲▲▲▲▲▲矣従六月御田至九月▲渡高麗故其後自六月至九月不参御池▲▲也
 按に此四面大龍女と云るいつれの神を指まつるか詳ならすそのかみの書に肥後国阿蘇郡下野馬場ハ湧出之地也西野原ト云本名也また南郷西野宮大明神ハ下野之馬場中ヲ被守候御神也卯之添神ト奉申同神御事也また此西野御宮は四面大菩薩明神之御妻神也三馬場を守給ふ大明神御約束ありて西野宮へ御上り候また高久四面大菩薩を西野御宮に御くはんしやう被申候事も新無点の。卯御やくそくの故也(此高久を一本には高来とあり)また四面大菩薩は天皇の御妻也また神武天皇ノ皇后ハ阿那婆達多龍王ノ御女また阿蘇大明神ハ阿那婆達多龍王ノ子(是は龍王の女をも即ち龍王と云て其龍王の産ませる御子といふことなり大神の父を龍王といふにはあらす)また雨宮姫神ハ海龍女なとあるをみれは若くは郡浦神にはあらさるかしかいふ故は正平(十六年)の甲佐神官ノ牒に我神者阿蘇大明神御嫡子南郡管領之鎮守也神功皇后三韓征罰之時云々奉佐皇后之軍云々尊神者阿蘇御母甲佐宮祖母神とあれはなり……後略
神農ハ阿蘇権現叔父也神武天皇神農舞官ノ御母者カタツヲノ乙姫也……後略

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 阿蘇明神は、神武の二男もしくは孫である「健磐龍命」であり、山城・宇治から阿蘇まで下って地元豪族/神の娘と結婚し、広大な湖を干拓した英雄だったらしい。また、「大多知女渡高麗時阿蘇大明神娶高麗温泉四面大龍女帰宮」とあるので「四面大龍女」なる者を妻としたとの説もある。「乗鶴来給フ様アリ故云鶴原」からは、鶴に乗って阿蘇に飛来したとの伝承があったことが知られる。また、三兄弟の真ん中で、兄は高千穂神、弟は八幡神だという。即ち、阿蘇明神は、〈健磐龍命〉を本名とし〈鶴に乗って辺境の地に飛来〉し〈地方の豪族の婿〉となった〈天皇の血脈に連なる者〉だとなる。〈龍女を妻とした〉との説もある。ついでに言えば、〈八幡の兄〉でもある。更に「阿蘇宮由来略」には、

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阿蘇大神正一位勲五等健磐龍命ハ神武天皇ノ御孫神八井耳命ノ御子也天皇日向国ヨリ東征坐テ天下ヲ平治シ大和国橿原宮ニテ位ニ即給フ於是遼遠ノ国猶王沢ニ霑ハサラン事ヲ恐給テ健磐龍命ヲ火国ニ封シ筑紫ヲ鎮シメ給フ健磐龍命勅ヲ奉テ七十六年春二月朔宇治郷ヨリ始テ阿蘇ニ下リ給フ其地四面皆山連テ湖水ナリケレハ大神巡視之給ヒテ西山ヲ鑿テ水ヲ其間ニ注キ(今ノ鹿渡鮎返等ノ瀑布是なり)民に稼穡を教テ五穀ヲ殖シム是ニ於テ土地辟ケ民人育ハル大神誓ヲナシテ地を卜シ自ラ射給フ矢ノ落ル所ヲ宮処トシ給フ此時愛養セラレシ鶴鷹亦来集ルト云フ(今ノ矢村社是其処ナリ)其後草部吉見神ノ女ヲ娶テ速瓶玉命ヲ生給フ……(中略)……本宮所祭神本十二座ナリ其次第ハ
一宮 健磐龍大神 一殿
二宮 比●(クチヘンに羊)神 一殿
   日本紀ニ阿蘇都彦阿蘇都媛トアリ比●(クチヘンに羊)ハ正二位ナリ寿百二十歳此二社共ニ官社ナリ大神社ハ南ニアリ比●(クチヘンに羊)神社ハ北ニアリ共ニ東ニ向ヘリ陵ハ社前ニアリ北ハ大神ナリ南ハ比●(クチヘンに羊)ナリ
三宮 国龍神
   比●(クチヘンに羊)神ノ父ニシテ草部吉見神也吉見神ハ神武天皇ノ子彦八井耳命ナリ寿百二十歳此三宮ト五宮七宮九宮ハ合社一殿ニシテ一宮ノ南ニアリ故ニ南四宮ト云フ
……(中略)……

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と、やはり健磐龍命が、地方豪族/国龍神の婿になったことを主張している。そして、同史料に拠ると「国龍神/阿蘇明神」に言及する部分で、

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吉見社は国龍神の本祠なり国龍神は神武天皇の御子彦八井耳命也(按に此神武天皇は混れにて実は神八井耳命なり然れとも古よりかく云伝へたるは古事記の混れに従へるなり但し一本には吉見神は神武天皇の御子彦八井命の御子なりと有れとこれは古事記より考出ていへることにて当時の旧記のおもふきはすへて上に引たる如くなれは今は其本には従はす)天皇六十九年日向国より草部郷に来りて巡視給ひしに野山のみにて人居ハ見えす爾に廣き岩屋の在けるに住居し給ふ(此岩屋川走谷の水上にありて幅十二間余横四間余の岩屋なりとす一本には阿蘇大神此処に至り給ひて此岩屋内にて吉見姫に娶給ふとあり然とも上なる寛正三年の記を見れハ此岩屋にて夫婦の語らひたまへる神ハ大神にはあらて国龍神なるか猶考ふへし)かくて後宮作るへき処を覽求て東南の方に至りませしに池ありて此処御心にかなひけれは其水を谷に注き流さんとし給けるに廿尋はかりの大蛇出て国龍神を追来しを御佩刀の剣にて寸断に切殺給ひき故血甚く流けれは其処を血引ノ原と云又切られたる大蛇を取集て柴草積て焼捨たる処を灰原と云かくて宮作て鎮り坐る即ち今の社地なり……後略
……(中略)……

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と、阿蘇明神/国〈龍〉神が大蛇退治の後に宮を建てた説話を伝えている。宮を建てるとは則ち、クニを統治し始めることを意味していようか。龍が大蛇を退治して国家を平治する……。龍宮たる琉球の王は龍王であろうが、為朝は、やはり健磐龍命とイメージがダブるし、だとしたら健磐龍命は〈龍〉であるため、為朝と〈龍〉の親近性が、厭でも意識されてしまう。
 また、「阿蘇大明神流記」は健磐龍命が八幡の兄であるとしていたが、これは阿蘇明神側のみでなく、八幡側も認めていることだったようだ。「名八幡宇佐宮御託宣集 第二巻」には、
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三国御修行部(月支震旦)
応神天皇四十二年庚午二月十五日御齢一百十一歳崩御以来帝皇十四代(自仁徳天皇至宣化天皇)夏暦三百二十二年(自崩御庚午至金刺三十一年)神功皇后御霊相共施威力乗神通為利天竺震旦日本龍宮之生已出千変万化無量无辺之道或現己他之身或現出没之瑞或顕並体之徳或顕分身之相又示非常之色又示畜類之形又有名字不同又有年紀大小言語道断心行処滅種々之事種々之説皆実不虚矣神明照見無有錯謬之故也不可執一途不可守次第只奉信仰外不可有他念哉阿蘇一本縁起云此大明神有三種様天照大神六代孫子神武天皇二郎高知尾明神弟八幡大菩薩兄座此三人共日本国自唐朝渡給先豊後国大野郡緒方村来着給比那多瀧云所居住●(サンズイに七したに木)嶋武宮者許借宿給武宮不奉知誰人以焼木奉打八幡不奉留其時宣云
汝子孫色皆可黒以焼木打我故云其入向日向国臼杵郡熊代村給其里山中聞種々不思議之音楽就音尋行給地下十五丈許入黄金珠玉殿楼内瑞厳奇霊貴女座其名号釆女放大光明居珠簾中給爰高知尾明神見之留宿更不出給于時二人弟申給様時尅已移日数稍久成速出行給再三奉勧時仰出給様我国郡非用帝位為何見此釆女全無他念於汝等者早致花京治天下継帝位宣爰二弟賜暇流涙乍懐離別之悲肥後▲夜部山草部吉見之小屋来着于時吉見之娘(生年十六歳)奉手水洗御足其夜阿蘇権現御跡臥即懐妊月満男子平産其明朝阿蘇権現告八幡曰汝早致花都誕生帝子遂百王守護約束我留当峯奉見継兄高知尾亦助汝本願云々
阿蘇明神是也爰三郎御子雖惜愛別依奉貴約遊化之間年序之後入花洛之宮宿大帯姫腹之坐八幡是也
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とある。簡単に言えば、神武の息子三兄弟が九州に下るが、まず長男の高知尾(高千穂)が日向国臼杵で美女に引っかかり脱落する。二人の弟に別れを告げる。「俺は此処で幸せに暮らすから、まぁ頑張って王になれや」。そして、肥後国阿蘇で次男坊が脱落する。これが阿蘇明神なのだが、地方豪族/吉見の娘、まだ十六歳の美少女を姦し、長男同様、脱落する。「八幡よ、お前は都で皇帝の子として生まれ変わり、後の百王の守護神となる本願を果たすだろうが、俺はお前を見守ることにするよ。兄貴の高知尾も、お前が夢を果たすことを助けるって言ってたし」。

 何のことはない、初めは三人で仲良く旅をしていたが、上から順に地元の美女/美少女にたらし込まれて冒険を放棄、まだ色気づいていなかったかモテなかった末弟に責任を押しつけただけの話だ。押しつけられた末弟・八幡は後に神功皇后の胎内に降誕、応神帝となるものの、生まれる前から龍王に身売りさせられ、挙げ句の果てに、「我母龍宮(仁)成約束(志)給(幾)其契果遂(気牟)者入日向娶龍女之給」(名八幡宇佐宮御託宣集第二集)と、龍女と強制的に性交させられる。神武の父・火々出見尊は龍女と姦ったが、龍女の正体は鰐であった。応神の場合も、わざわざ「其契果遂」とあるんだから、とっても厭だったんだろう。
 一方、龍女の方の事情は、「契あれば卯の葉葺きける浜屋にも竜の宮媛かよひてしかな」(八犬伝・第一回)であった。「契」の解釈で雰囲気は百八十度転回する。近代的な「契約」とすれば、義務を遂行する意味となり、やっぱり「嫌々契った」ことになる。鰐にしてみりゃ、人間の男なんて貧弱極まりないだろうし。また、「ぎひひひ、約束だから応神は来てるだろぉなぁ。厭でもイヤとは言えない立場だもんなぁ。今夜は足腰立たなくなるまで可愛がってやるぜ」と龍女がいそいそやってくる情景かもしれぬ。何せ龍は「淫」なる生き物なのだ(八犬伝・第一回)。この場合は龍女は応神に惹かれていることになる。
 かたや「契り」と訓読みした途端に、「ココロとココロが結ばれ合っている(と龍女は一方的に思い込んでいた)ため、粗末な浜屋にさえ赴いてMakeLoveしちゃった」となる。何連にしても、両者とも嫌々だったか、龍女の方だけ積極的だったかとの解釈が成立する。
 で、歌の本意は恐らく後者であろうし、それ故に里見義実と堀内蔵人貞行の関係は、主従契約による信頼関係でも自由意思による選択でもなく、より感情的でロマンティックな〈侠〉の関係であったと知れる。知れるが、この場合、蔵人が龍女、義実が応神であるから、蔵人が義実を恋い焦がれていたとしても、義実が蔵人を同様な愛で以て待っていた証明にはならぬ。でもまぁ、まるで織姫・牽牛の如く、二人が再会したこと自体は、悪い話ではない。
 閑話休題……と言いたい所だが、既に予定の行数を超えた。今回は、此まで。
 
(お粗末様)
 

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