■伊井暇幻読本・南総里見八犬伝 「淫らに喘ぐ美少女」−神々の輪舞シリーズ14−

 

 前回は、最も地味な犬士・荘介が、実は結構な色気を発散し得ると述べた。勿論、荘介と相互的な関係に在る信乃だって負けちゃいない。彼は現八と固く抱き合い堕ちていき、仲良く小文吾の巨尻を鑑賞する。が、破傷風に犯され……ぢゃなかった、冒されてしまう。激しく悶え喘ぐ信乃。高熱を伴う病だから、額はジットリと汗ばみ、はだけた白い胸は桃色に染まりつつ濡れて淫らに輝いている。端正な横顔が苦痛に歪む様は、荘介が責められる場面よりも多くの読者に注目されたことだろう。

 性の意識を高めるべきスパイスに、禁忌(タブー)があると言う。生き血を注ぎ懸けられる様は、此の上なくタブーを感じさせる。伴天連はレア・ステーキを食いつつ、血は生命の源だから食うなと言うそうだが、知ったこっちゃない、戦闘や乱闘での失血死を目の当たりにしていた昔の日本の人々は実感として、血を生命の源もしくは生命そのものと感じていたであろう。百パーセント蛋白質の精、生命の源、と同じ様なものだったかもしれない。男女による遺伝子の統合によって血脈は存続する。姦り過ぎると赤玉が出たり、腎虚で死ぬ、と昔の人は信じていた。〈セックス健康法〉である。この際、生き血も精も、同様である。また、古来よりの清浄観からすれば、血は穢れであった。より精確に言えば、生命の源であり貴重なものである血そのものが穢れではなく、現象としての出血と其の結果として〈容器〉を失った剥き出しの血液が、穢れであった。信乃は喘ぎ呻きながら生命の源でもある穢れしモノをぶっかけられ体内に注ぎ込まれた瞬間、仰け反り叫び、失神した。「小さな死」を経て、蘇生する。

 さて、私としては美少女・信乃が苦痛に喘ぎ悶える場面を支持するが、人によっては荘介への緊縛陵辱に惹かれるかもしれないし、熟女・船虫の淫奔な行為・緊縛され打擲を受けるシーン・性行為と混淆したサディスティックな殺人・残虐なる処刑に注目する人もいるかもしれないし、もしかしたら伏姫のセックス……ぢゃなかった切腹に惹かれる人がいないとも断言できない。妄想は自由であり、セクシャリティーは千差万別だ。毛野の性的魔力もしくは妖しさに就いては、言わずもがなであろうから、省略する。

 

 と、こう見れば、国司に補せられる犬士は共にセクシャルな見せ場を有している。が、もう一人、自分の入浴シーンを覗かせ、白桃を晒した犬士がいる(第六十七回)。唯一の妻帯者、多分、多分にアニマを有する大角だ。見た者は、これまた現八だった。けれども此のピーピングは無駄であって、何時の間にやら大角の痣は、尻から左の乳の下から脇にかけた部分へと移動している。本当は、現八に入浴シーンを見せなくても良かったのだ。馬琴は自分が間違っただけだと言っているが、さて……。後に(第八十五回)信乃と道節にも痣を見せるが、まぁ女性性の強い大角が白い胸を見せることだって結構エロティックなんだが、全裸には劣る。現八は思わぬ得をしたことになる。ん……そう言えば、枝独鈷素手吉がレイプ未遂に及んだ親兵衛もいる(第百十八回)。親兵衛は狸寝入りして、政木大全を誘い、懐に手を入れさせ豊満な胸を探らせた前科もある(第百十五回)。こうなると、セクシャルでないのは現八と道節だけだ。が、現八は信乃を追い詰め責め立て固く抱き合って堕ち、果てた。小文吾のストリップ、大角の入浴シーンを鑑賞した。セクシャル能動性の度合いが高い。道節も、まぁ胸ではあるが、大角のセミ・ヌードを鑑賞したし、必要以上のマッチョ蛮カラだから、能動性を微量ながら有しているかもしれない。

 何だか八犬士とも、道節を除いても七犬士がセクシャルな面、受動性では六犬士が容疑をかけられる。そのうちの四人が国司補任組となっている。セクシャル受動性が国司補任組だけの性格ではないが、国司補任組の条件がセクシャル受動性かもしれない。やはり犬士の国司受領は、古代・采女制と関係があるのかもしれない。

 

 ……長々と書いてきたが、実は上記の話、本気で主張しているのではない。冗談半分だ。ごめんなさい。でも、半分本気で、上記の如き読みも可能かな、とは思っている。言いたかったのは、道節・荘介以外の犬士が受けた官職は、各人の資質・性格に深く関わっているだろうこと、国司は当該国の国霊もしくは神と関わっている点、より具体的には信乃・毛野・小文吾は、配された国と密接に関わっているであろう点である。

 

 さて信乃だ。信乃・毛野に言及するとき、筆者は、ついつい熱くなってしまう。いや、彼らが八犬伝読解の為に重要な鍵を握っていると感じているからであって、間違っても押し倒したり不埒な事をしたいと妄想しているワケではない。断じて、ない。決して、ない。ないったら、ない! 

 

 ……見苦しい所を見せてしまった。少し頭を冷やして続きを語ろう。初出の犬士、犬塚信乃は、何故に信乃であるか。番作は云う、「……昔われ美濃路にて不思議にもおん身とあひ、信濃路にて夫婦となりぬ。しのとしなのとその声近し。……わが子もし発迹て、受領する事さへあらば、信濃の守護にもなれかし、と亦祝ぎのこころに称へり……」(第十七回)。信乃と名付けた理由に就いて、妻・手束に説明する部分だ。子を思う親の真情が表現されている。後に信乃は、信濃介に任ぜられる。しかし、名詮自称の世界たる八犬伝に於いて、余人は知らず、信乃が信乃であるべき理由は明確にある筈だし、それが信濃と関係があることは、上記・番作の言葉から明らかだ。その関係とは、何か? しかし先に、確認しておかねばならぬ事がある。上記・番作の言葉では、美濃路で手束と出会い、信濃で夫婦となった/セックスした、とある。

 嘉吉元年四月十六日、結城落城。父・匠作に諭されるまでもなく番作は、遁走し大塚の家を興して母と姉(亀篠)を扶ける誓いを立てた。義実がオメオメ泣きながら、忠臣/杉倉・堀内に引き剥がされる如く、決死の父・季基と別れた場面とは対称的だ。番作の戒名は、「知命達徳速逝禅定門」である。「禅定門」は単に格を表すから無視して良い。番作の生涯を表現する言葉は、「命を知り徳に達して速やかに逝く」である。命/天の理に於ける自らの運命を知り、徳に達して産業を興し、自らの運命に従って死ぬべき時に躊躇なく死ぬ、ぐらいの意味だ。「徳に達して」は、死んだらみんな善い人、美称に過ぎぬから、約めて言えば、「天の理に於ける自らの運命に従って死ぬべき時に躊躇なく死ぬ」となる。義実の様に個人的感情を露わにしてグズつくことはない。親と別れねばならぬ時は、実は孝心篤いといえども其れは自らの感情に過ぎぬことを熟知しており、上位の理念に要請されれば躊躇なく、しかして心に傷つきながら、離別する。気がつかずに行為するは単なる鈍感野郎/トーヘンボクだが、傷つきつつも行為するが義であり勇であると認めた場合は、決然として行為する。己の死が、我が子・信乃にとって最大限有効である時には、何の躊躇いも見せずに腹を切る。我が身さえも、彼にとっては駒に過ぎないのだ。彼は、とてつもなく冷徹な戦術家であることが解る。

 とてつもなく冷徹な戦術家の、なんと熱いことか。ついでに言えば、彼は脇役もしくは〈中継ぎ〉である自分の価値を知っていたのではなかろうか。「知命」である。同じく結城合戦で戦った里見季基の息子・義実は、早々に頭角を現し、安房国主となる。一方の大塚番作は、援けてくれる忠臣の存在もなく、居るのは悪辣な姉だけ。踏んだり蹴ったりの生涯を送る。挙げ句の果てに、切腹だ。彼は信乃への中継ぎ、時間稼ぎに過ぎないのだ。其れは、番作の戒名に、父・匠作の戒名を並べてみると、よく解る。匠作の戒名は、「訓山栄后遺璧禅定門」だ。「山と栄える后(のち)を訓(みちび)くに璧(玉)を遺(のこ)す」である。既に「玉」が約束されている。即ち信乃が犬士となる初動原因は、匠作の行為であって、番作の存在ではないことが判る。彼はストーリーの要請から存在することになった、或る展開の絶妙な箇所で死ぬことを目的としたキャラクターなんである。天の理に従って、為すべきことを為すためにのみ、生きた。死ぬために生み出された人物、其れが、番作なのだ。だいたい、信乃の結局、即ち八犬伝の結局に於いて、話を進めるのは番作ではなく匠作なんである。番作は信乃までの継(つな)ぎだと判明しよう。季基・義実は世代が連続しているが、匠作・信乃では無理がある。其の為に挿入された人物、ただ信乃の物語を転がす為だけに存在した影の如き男こそ、番作なのだ。「番」は「つがい」と訓む。「つがい」とは、蝶番(ちょうつがい)と謂う如く〈繋ぐ〉ぐらいの意味だし、生殖を前提とした動物・昆虫の雌雄一対もしくは交尾行為そのものを指す。番作は「繋ぎ」であり、(異性愛)セクシャルな性格が前面に出ている。匠作の「匠」は、まぁ〈頭/リーダー〉ぐらいの意味もあるので、第一の犬士・信乃の因縁となるに相応しい名といえるが、配偶者の名すら顕らかではない。即ち番作は、繋ぎ、匠作の半身に過ぎない。哀れである。……でも俺、番作さんって、好きだな。

 

 番作は嘉吉元年四月十六日の結城落城から一カ月後、五月十六日の夕刻に、美濃垂井の金蓮寺で八面六臂の活躍を見せた。多勢を相手に切り抜け東へ走った。騒ぎを起こした以上、街道筋は通れない。効率の悪い山道を通っただろう。しかも手負いである。生首は重量三キロ程か、子供二人と大人一人分だから、七八キロといった所だろう。武装もしている。総合すれば移動には、かなり応える重量だったであろう。それなのに不眠不休で翌日黄昏時には「樽井より廿余里三十里に庶かるべし」(第十五回)、「里遠き山ふところにして雲近く」なる場所まで来た。二十四時間、山道も何処も、平均時速約五キロを維持した計算となる。●(テヘンに占)華庵に辿り着いた。此処で手束と出会うのだが、庵主の蚊牛は前に「大井の郷までゆくなり黄昏にはかへり来なん」と外出していた。蚊牛が早朝に出発したとして夕方には帰ると言ったのだから、用件がすぐに済むとして、往復十二時間、片道六時間の距離に「大井の郷」があることになる。則ち、●(テヘンに占)華庵は、大井から半径三十キロ以内であろう。また、手束の父母・井丹三藤原直秀夫妻を葬った道場なのだから、第十七回の番作の言に「美濃路で出会い」とあることより、●(テヘンに占)華庵は美濃国内となるけれども、信濃に極めて近い場所であったろう……といぅか、第百八十回上では●(テヘンに占)華庵、如何やら信濃に移動している。息部局平が登場の段だ。

 

 「小可は信濃なる大井の駅に程遠からぬ小篠(おざさ)村の荘客にて息部局平と喚做す者で候なり言長くとも聞しね烏滸がましき説ならば小可が親なりける息部是非六は信濃国の人氏なりし井丹三直秀主の老僕にて嘉吉の乱に殉肚斫て人に誉られ候ひき当時小可は総角にて母と倶に旧里に在り寒農で候へば母の世に在し時も主家の後の事などは聞も知ず候ひしに去る夜三夜霊夢の告ありけり譬ば甲冑したる一個の老武者我枕方に立給ひて我は嘉吉に戦歿したる春王安王君の小●(ニンベンに縛のツクリ)大塚匠作三戍是なり当日我子番作一戍が忠義の捷きにて両公達の御首級及我首を埋て恁々の地方に在り」

 

 また、金蓮寺を恐らくは早朝に出発したろうが、翌日の未下刻には小篠村の●(テヘンに占)華庵している。里見家公式の旅だから当時の街道を通っただろう。色々あって、その日のうちに●(テヘンに占)華庵を後にしている。多くの供を連れた公式の旅だから、早朝に出発しても夜陰を押してまでは移動しない。七月(某日)だったから既に秋(八犬伝では夏としている)、夜長の季節であって山中に在ることも勘案すれば、午後六時ぐらいまでには宿に入りたい。行動時間は十二時間程度だと思われる。

 さて、では、「信濃なる大井駅」とは何処なのか? 「大井駅」を素直に読めば、古代に設定された美濃八駅の一、後の中山道・大井宿だろう。第十七回の記述、番作が手束と出会った場所が「美濃路」のままならば、これが正解となろう。しかし、馬琴だって成長する。執筆しながらも膨大な知識を溜め込んだ馬琴は、「大井駅」を信濃へ移動させちゃったのではないか。いや、最終章を書く段階で既に馬琴は視力を失っていた。確認できずに、ウロ憶えで口述したのかもしれない。記憶は、本人に都合良く改竄される記録である。大井駅が信濃にあるとした方が、都合が良いから、間違っちゃったんだろう。しかも、確かに信濃にも大井なる地名は存在したし、歴史にも登場する。

 信濃佐久郡に、大井郷があった。この辺りに信濃守護・小笠原一族の大井氏が居たか。第十六回は、春王・安王の弟である永寿王は乳母に抱かれて信濃山中に逃げ込み、大井扶光に匿われたとしている。後の問題人物、足利成氏だ。因みに結城合戦に呼応して信濃で挙兵した「大井」は「持光」である。さて、「扶光」なる人物が実在したか未確認だが、或いは馬琴の名詮自性論により、改名されたのかもしれない。「扶」は助ける、との意味だから。尚、大井と共謀して永寿王を匿った乳母の兄が住僧を務めていた安養寺は、佐久郡安原の安養寺に比定し得る。開山は、醤油を発明した法燈国師心地房覚心だったらしい。一遍上人とも接触があった名僧で、中国(宋)に留学した経験もあった。日本に於ける普化宗、虚無僧の元祖でもある。因みに安養寺、少なくとも現在の本尊は、千手観音らしい。

 この佐久郡大井郷が、信濃国では可能性を秘めているのだけれども、垂井から遠すぎる。八犬伝では、垂井を早朝に出発し「この日よりして二日」で小篠村に着いている。百八十回上では、三日の物忌みに就いて、「今日よりして三ガ日」と述べ、始めた日も含めて計算している。ならば垂井から小篠村までの「二日」は、翌日であり、未下刻を午後三時ごろとすれば、一日の行動を午前六時から午後六時と仮定して、旅程は二十一時間、もう少し早く出発したかもしれないけれども、それを休憩時間として省けば、やはり、このくらいの見当だろう。垂井・大井間は百キロ余りの距離だと思われる(私には無理だが……)。大井駅は小篠村から「程遠からぬ」場所の筈だ。更に、長野市の北に在る上水内郡信濃町、黒姫高原なんてソソる地域を擁する町だが、此処の字にも「大井」はある。佐久郡大井と比べれば、垂井に近いと言えるのだけれど、此処までくれば、誤差の範囲だ。

 佐久郡大井郷まで、垂井から直線距離で百五十キロぐらいか。起伏の多い道を二十数時間、ぶっ続けで時速六キロを維持するなぞ、現代人には想像もつかないが、惟へば、犬士たち、安房から京まで「十余日」(第百八十回上)で駆け抜けている。二十数時間で百キロ以上は移動できそうだ。番作も、垂井から昼夜ぶっ続けで駆け、三十里近くを稼いでいる(第十五回)。この折の記述は、「吉蘇の御坂のこなたなる、夜長嶽の麓」に黄昏刻に到着、急に傷の痛みを自覚してものの、耐えて夜中まで歩き続ける。そして、●(テヘンに占)華庵/白屋に、迷い込むのだ。しかし、筆者は、「吉蘇の御坂」も「夜長嶽」も比定できないでいる。第十七回の記述では「美濃路」である。もう、何が何だか分からない。しかし、八犬伝の結局たる第百八十回上の記述をこそ重視せねばならぬ。馬琴だって三十年近くの間に変化/進化するのだから。

 もう少し「大井」への考察を進めよう。これが美濃国で良いのだったら、御嵩・大井間(約九十キロ)と素直に考えるのだが……。因みに犬士たちが京を出発する折の記述で、「岐岨路」を指して進んだとあるから、やはり馬琴執筆当時の中山道を想定していた可能性が強い。ただ中山道には「信濃なる大井駅」はないし況や近くの「御坂」なんて何処だか分からない。故に、第百八十回上執筆時点の馬琴は、実在の中山道ではなく、概ね中山道のルートを想定しつつ、其の沿線まで広げて考えているのかもしれない。

 

 其処で注目すべきは前述、犬士が京を出発したとき、「岐岨路を安房へいそぐ」との表記がある点だ。言い換えれば、彼らの旅は、「木曽経由安房行き」なんだろう。木曽に立ち寄って、安房へ向かうことが暗示されているようだ。第十五回でも「吉蘇の御坂」が登場した。第十七回で番作が「美濃路」と口走る理由は判らないが、「木曽」に何かが隠されていそうだ。ならば「御坂」を考えよう。「御坂」なる山が、日本にないワケではない。相模や甲州には、そう呼ばれた場所もある。が、抑も「御坂」は「みさか」だろう。実は伊予にも「三坂峠」なる場所がある。石鎚山といって、標高が二千メートル近い霊山の中腹にある。役行者が修行したとも伝えられ、天狗ぐらいは居そうな山である。「みさか」は神の坐す坂/斜面であれば良い。普通名詞なのだろう。霊山なら、其の坂を「御坂」と呼べる。或る時期の史料で「山門」と言えば「比叡山」を意味する如く、普通名詞を以て特定地域を呼ぶことは、あり得る。婉曲語法だ。そう考えると、木曽であり霊山である場所を考えれば良い。やはり、日本三大霊山、富士山、白山と並ぶ山岳宗教のメッカ、木曽御嶽を思い出さねばなるまい。

 さすれば、番作は美濃垂井から木曽御嶽へ向かっているのだから、「こなた」とは木曽から見て西もしくは南西あるいは南だろう。西とすれば、美濃の深山を踏破しようとしていることになるが、番作は手負いだ。南西・南なら信濃の可能性も出てくるし、中山道と平行して走ったことになり、蓋然性も高まる。また「夜長嶽」も未詳だが、平野部より日が短い深山を表現しているのかも知れないし、八犬伝に於いては色々な事が起こって話が急激に進む/盛り沢山の夜を予告しているのかもしれない。また、或いは、これから始まる犬士および関係者にとっての夜/苦渋に満ちた時空を、予告しているのかもしれない。

 ただ、「御坂」が御嶽であったとしても、第十五回に於いてさえ、「御嶽」の説明はおろか表記すらない。第百八十回上では、小篠村が「信濃」であると強調するに留まり、やはり「御嶽」に関する記述は見つからない。役行者と関係深い山岳宗教のメッカであり、里見義実の近臣に「杉倉木曽介氏元」がいる点からも、何か兆候さえあれば「御嶽」に飛び付きたいのだが、現時点では何もない。差し当たり、此処までの考察で提出できるのは、小篠村が、信濃国であり恐らくは木曽郡内らしい、ということだけだ。何かシックリこない。馬琴は、本当に「をざさむら」を設定していたのであろうか? 謎が謎を呼ぶが、さて、「小篠」に就いて、次回にも、少しく考えてみよう。

(お粗末様)

 

 

←PrevNext→
      犬の曠野表紙旧版・犬の曠野表紙