里見九代記
 
系図略
 

私に云、永享九年、鎌倉持氏逆心を企といへとも、上杉憲実強て諫む。持氏用ひす。ひそかに憲直直兼を召て憲実を討せしむ。事あらはれて騒動す。持氏は過を憲実に謝し暫く和睦す。同十年八月、管領持氏謀叛を起して先執事憲実を殺さんとす。憲実上野国に赴て京都に注進す。十月、将軍義教、持氏追討の綸旨に御教書を添て憲実に給ふ。上杉、京都の加勢を得て関東多く持氏をそむく上へ又持氏、和睦を請ふ。憲実、持氏を押籠て京都へ注進す。義教赦免なけれは持氏自害す。嫡男義久は報国寺にて自害す。憲実、君を弑する罪を知て剃髪して長棟と号す。管領を弟清方{に}譲て伊豆の国清寺に退去す。十二年、持氏の二男春王三男安王、結城の氏朝を頼む。氏朝同意して己か城に籠る。七月、上杉清方持朝持房等、義教の命を蒙りて結城の城を囲む。嘉吉元年四月十六日、上杉清方、結城の城を攻落す。氏朝父子討死す。長尾因幡守、春王安王を生捕て五月、美濃垂井にて両若君を害す。此時、刑部少輔家基討死す。嫡男義実は三浦え落ち夫より房州へ渡り給ふ矣。
一 永正十三年丙子七月晦日、長狭郡の山の城主正木大膳討死す。法名正範といふ。
一 天文六年丁酉、将軍義明公(政義公の御子息)四月二日発向。上総真里谷信隆討る。同七年十月、国府台にて氏綱大弓張て御所義明公父子舎弟元頼公三人を射殺す。
一 天正八庚辰年七月四日に義頼公、長狭へ発向。悉く放火。金山の城を取詰、程なく廿八日、落城す。
一 天文十三年、上総小多喜の城主朝信、八月七日、川原にて討負自殺す。

里見九代記第一
清和天皇の御末八幡太郎義家の三男式部大輔義国より十二代の後胤刑部少輔家基公と申は応永永享の頃の武士也。其頃、天下大に乱れて鎌倉の上杉も臣として君を亡す。然る間、足利一族も所々に落行給ふ。去程に関東の諸士、上杉を憎み結城に於て足利春王殿安王殿を大将として嘉吉元年義兵を起し家基味方に参らる。然れ共、足利終に討負て家基討死也。其御子里見刑部少輔義実公、結城より安房国へ落給ふ。是、安房里見の元祖也。

   里見刑部少輔義実公の事
結城より木曽右馬丞氏元堀内蔵人貞行御供にて三浦へ落、三浦の兵を頼んて安房の白浜へわたる其時、神余か家臣山下佐左衛門、謀反を起して密に君を殺害し、神余の郡の主となる。是より此郡を山下郡と号す。去る間、丸安西、彼無道を憎んて左衛門を討、此郡を分取るに付て俄に合戦出来して安西討勝。然る間、丸神余か家来とも義実公を大将として即神余か勢を催して千台に打出給ふ時、御勢五十騎になり給ふ。其時の陣場の橋を五十騎橋と名付けり。貞行三浦衆は丸か勢を催し千台村に来て安西の城に押寄んと馬を早む。安西も瀧田河原まて打出陣取て居けるか、いかゝ思けん。降人に出しより主従の契約在て安西を先手にし給ひ東条に押寄す。東条は上総の大瀧正木と一味して金山の城に楯籠り文安二年六月八日、合戦初り九日の夜、落城。東条は討死し正木は敗北す。同年正月廿三日、正木と合戦始り。廿五日に正木降参。合戦の次第は軍記に見へたり。義実公の御前は上総国真{里欠カ}谷殿の御娘也。家老は木曽堀内三浦安西也。義実公は長享二戊申四月七日、七十二歳にして逝去。杖珠院殿建宝興公居士と号す。白浜に葬る。

   里見刑部少輔義成公の事
上総国真里谷丹波か籠たるつくろうみの城を攻給ふ。城方より空しく城を渡さん事無念也、里見殿は文武の達人と聞く、爾らは此所の体を百首の歌に読給はゝ味方に参らんといふ。然る間、即時に百首よみ給ふ。其中に
造網(つくろうみ)かはひき自由なりけれは かゝりし魚にひとしきは敵
夜をこめて灯籠坂を越ぬれは味方のひかり日の出ます/\
つくろうみ川瀬定るをりなれは下れる水はいはゝ大海
余の歌、別にあり。如是百首読遣されければ則降参しぬ。社家様十二歳の時、義成公を御頼有て長南を攻め明応二年四月五日、社家様義成様、下総の国木の内殿を討給ふ。此木の内殿と申は、鎌倉の上杉より下総の国主を賜ふて其頃の強敵也。同三年八月、上総介を討て其外万喜勝浦池の和田丸谷窪田東金佐貫椎津の城、皆々両大将の御手に付て是より里見殿、両国の大将となり社家様には下総の関宿并生実の八幡に御殿を作て御住居なり。義成公の御前は万喜左近殿の娘、家臣は木曽堀内勝山安西也。永正二乙丑四月十五日、義成公逝去。五十七歳也。慰月院殿大幢勝公居士と号す。白浜に葬る。御在城は稲村也。

   上野介義通公の事
社家様と共に下総武蔵常陸方々の軍に向。此事、義明公家書にあり。御居城は稲村也。宮本の城は舎弟実堯公住給ふ。義通公の御前は上総介殿の姪なり。家老は木曽堀内勝山宮本なり。永正十七庚辰二月朔日、二十八歳にて逝去。天笑院殿高山正皓居士と号す。瀧田に葬る。

   上総介実堯公の事
義成公の二男也。義成公の代に宮本の城より上総の久留里に御移りあり。義通公逝去の時に御子義豊公漸七歳にならせ給ふ間、実堯公に両国を預け置、竹若(義豊公幼名也)十五歳にならは両国を渡されよとの御遺言也。依之実堯公、稲村え移り給ひ竹若殿は中里本間御守として宮本の城へ移り給ふ。実堯公は大永六年、同敵と鎌倉合戦に勝給ふ。軍記に有り。実堯公の御前は正木殿の御娘也。家老は正木安西也。然るに義豊公二十歳迄両国を相渡し給はぬの間、天文二年七月廿七日、稲村合戦あり。実堯公討負、其夜、四十五歳にて御生害也。延命寺殿一翁正源居士と号す。稲村に葬る。後に御子息義堯公、本織村延命寺に御廟を移さる。

   里見太郎義豊公の事
義通公の一子也。天文二年七月廿七日、稲村合戦に討勝給ふ事、軍記に見ゆ。家老は木曽堀内勝山宮本也。勝山の本氏は菅野谷也。宮本の本氏は本間也。天文三年四月六日、上総久留里に御在城也。義堯公と合戦、遂に廿一歳にして討死なり。高巌院殿長義居士と号す。瀧田に葬る。天笑院是より改寺{号欠カ}、高巌院と称号す。

刑部大輔義堯の事
義豊公は親父の敵なる故、天文三年四月六日の朝より夜に入まて瀧田稲村の合戦あり。義堯公討勝給ふ。即久留里へ帰らる。此時、大瀧は正木大膳、勝浦は同左近太夫、池の和田は多賀蔵人、万喜は少弼居住あり。義堯公を里見入道と号す。御前は万喜少弼の息女也。家老は正木山田安西山本多賀也。稲村合戦の時、下総巣田家の押へには万喜正木也。北条氏お押へには木曽鳥山を義堯公より出さる。合戦の以後は龍崎菅野谷安西杯、海辺に城を持、北条の押へとして居住す。社家様も此入道をうしろたてになされて他国と戦ひ給ふ。正木万喜山田杯か名を天下に揚て隠れなかりしも此時也。天文七年十月、源義明公と倶に国府台にて北条氏康父子と合戦に打負、社家様滅亡の以後、入道殿敗軍なれは下総其外、社家様の御持の内、皆北条の手に付、上総にて少々小田原方に成る間、天文廿一年十月四日、椎津真里谷信政を討てより上総を二度治めたり。社家様御存生の時、里見殿に両国の大将を賜はる。その後は里見入道殿自身に治め給ふ。そのむねを知らさる人は信政を討さる以前は上総は里見家の持の内にて無之とおもへり。義堯公より永禄七年迄に下総も大かた手に入、天文二年六月朔日、六十三歳にて逝去。東陽院殿岱臾正五沙弥と号す。本織村延命寺に葬る。

   左馬頭義弘公の事
佐貫在城也。弘治二年に北条方と舟軍に打勝、城か島に陣を取て居たる氏政を追散す。永禄七年に鴻の台にて氏康氏政と合戦は朝の軍には勝、晩の軍には負給ふ事、軍記に見ゆ。北条家、勝に乗て池の和田の城を責。永禄十年、三船山の合戦に勝。二三ケ年の間に小田原よりせはめられたる所を大かた取返す。御前は義明公の御娘也。家老は正木多賀山田安西山本也。天正六年五月廿日、四十九歳にして逝去。瑞龍院殿在天高存居士と号す。延命寺に葬る。尊霊和睦の為に慰月院に位牌を立也。

   里見次{ママ}郎義頼公の事
岡本居城也。天正五年の夏、大瀧の大膳謀叛を起す間、氏政と和睦。同六月上旬、氏政の息女を義頼へ嫁す。大膳謀叛あらはれざる間、合戦なし。同六年、義弘公逝去ゆへ大膳俄に兵を起して七月五日、浜荻村高ケ島の城代角田丹後を討て長狭迄攻入る。岡本より討手の人々大勢向ふと聞へけれは先大瀧へ引返し上総に居住の里見方のものを攻けり。然れ共、大膳は父に替り飽まで荒き人なれは心かはりの者有て終に滅亡せり。然に北条家と和睦の事、一旦の謀なり。又万喜の心にも如何なる事を謀るらん。只可爾軍大将を立へきとの評定にて幸ひに二男弥九郎殿に正木氏を名乗らせ南条村の鳥島の古城を取立て移したる。義頼公の家臣は安西角田岡本山本也。山本の城は元亀三年御普請也。三浦勢やゝもすれば多田良浦正木浦を心掛、おし渡るゆへに両所の城御普請なり。天正十五年十月廿六日、三十三歳にて逝去。大勢院殿勝岩泰英居士と号す。

   左馬頭四位侍従義康公の事
館山在城也。此城は天正十七年に御普請也。同十八年、小田原へ発向。同十九年、上総国にて少々北条方に付所を大坂より里見に賜る。三浦四十余郷は替地に上たり。義堯公より義弘公に渡さる。安房上総下総半国三浦四十四郷御持の内也。御前は信長公姪也。家老は山本岡本板倉堀江なり。慶長八年霜月十六日、三十一歳にして逝去。龍潜院殿傑山芳英居士と号。延命寺に葬る。慶長三年に国替なりとして上総国を取上られ関ヶ原の軍終て鹿島にて三万石出たり。

   四位侍従忠義公の事
元和元年の秋、大膳殿を国替とて備前国へ御預。五月中旬、忠義公を伯耆国へ流罪。相模殿と同罪の故なり。御前は相模殿御息女、家老は板倉堀江印東黒川也。此公落去の事は新家老印東采女出頭の故に譜代の諸士悉く述懐奉公せしなり。又非人は国の費なりとて悉く打殺す。又相模殿と一味の事は諸士は知らざれとも其事に付、御威勢に可順かを心みん為に或時は水はしきを以て諸士の顔に水をそゝき見給ふ事、如何なる間、新出頭次第にはひこり譜代の士は次第に浪人す。又相模殿へ鉄炮百挺遣されし事并陰謀の事、江戸へ早々知れし事は彼浪人共の咄よりひろまりしならんか。又怪き事は寅の年、安房の八幡宮へ御先祖より御納めなされたる宝刀を申下し替りに高家の御腰物を被納に宮殿鳴動せし事おひたゝし。卯夏、御城の堀に稲一かふ生ひ出たるを諸人群集して見物す。同九月、忠義公、江戸へ出府。其時、北様に明星とて二疋の名馬あり。明星は辻跌して死す。故に北さまに召て御出あり。又鬼門の方に向て大巌院といふ浄土宗を建られたるも不吉の事なりといふ。御前は江戸代官町へ御越、公儀より百俵つゝ扶持を下さる。四歳に成たる姫君も御一所也。後に姫君を御守り人に預置、御前は鎌倉へ引込、比丘尼となりたまふ。三の御前と申は藤井より美濃国へ越給ふ。上下の人々爰かしこと漂泊の体、哀と云ぬ人もなし。忠義公は元和八年六月十九日、二十九歳にして逝去。雲晴院殿前拾遺心臾賢凉居士と号す。御葬送は伯州にて執行す。御骨は高野山に納め位牌を延命寺に建置也。天運とは云なから哀れなりなりし事共なり。
 右里見氏九代の有増は此にてしるべし。合戦の次第は軍記に委し。

里見九代記第二

   法度之巻
一 恩を知らさるものは人たるべからざる故、孝行を専一相務、奉公に出て忠勤を専らとして非番の時も文道武芸心に掛、常に油断有へからさる事。
一 財宝は民の困勢より出るもの也。遊興の為に費すべからす。家は雨風を防ぎ衣類は寒を防ぎ食は身命を助く。兵具は敵を防く理を考て無益のかさり仕へからさる事。
一 民は国の本也。民困窮しては財宝不足。故に賦斂を薄くして民を使ふに耕作の隙を以てすべき事。
……中略……
一 御目見の儀式は御一門は諸ろ茶礼とて大将と御目見之衆と両方へ茶を出す。家老と諸頭は片茶礼なり。御盃之礼は御一門七度礼五度礼有。別大老城代は三度礼。中老番頭一度礼。組頭之類へは御盃被下計にして無礼御さし流し也。
一 軍勝負の評定は備頭の所にて余りたる事は弥九郎殿老中立合にて究る也。然に諸役人被仰付事。譬如何程の手柄したるもの成とも十悪のものは用さる事。本より十悪を仕出たるものは各別。当々の事にはあらす。十悪の気さしある者の義也。十悪といふは、一は不忠、二には不孝、三は佞人、四は奸人、五は邪欲、六は侈、七は重色欲、八は邪曲、九は偽、十は盗人也。
……後略

 

里見九代記第三
里見家に三略を用る事は智仁勇の三徳、聖賢の分は生知安行学知利行の四つ也。中人以下は自三近道可入。故に三近の心持にて用之。加之八幡宮以来、数度功ある事、皆三略の心持なり。又三種神器の相伝秘す所大事也。

   三略伝書乾巻
一 上略は設礼賞別姦雄著成敗。故人主深暁上略。則能任賢擒敵。故以是類之事記之。義実公、初に必三吉相を心得ありて安房国に渡給ふ折節も地頭等二人亡。安西、義実公に降参。東条は小田喜の正木と一所になるを押寄せ討取り正木も御手に付給ふ。是皆乱極て治を好む折から名将渡り給ふゆへ御下知に随ひ人々和睦せり。義実公常々上下に組を定め組毎に長を立給ふ。軍の時は以之備を立る也。安房殿の七備と世間に云伝るも子細あり。御旗本一備、先備一組、衝陣備左右二備、休陣備二組、以上六備、衝陣左備より先陣備にかはれは休陣又替る。此外代々或は十騎五十騎百騎計つゝ何騎か党とて或時は伏勢となり或時は鳥雲の陣をなし自由に変化す。故に七備と云伝ふ。惣別備は軍場の形にそなへて地の道也。戦は車の如く。替々に廻る日月星を象とる天の理也。大永五年の乱に百騎か党、舟の上を強くはらせ、その内に大石を置て軍中へこみ入る。大力なる者とも、さねよき鎧を着、船の上に顕はれ出て舟底より調錬にて大石を上れは上なる男声をあけ引上け突おとすやうに見すれは敵の船中へこかし入はね入れ舟も人も打破れは、その舟より軍破れけり。石を上るも敵の船へはね入るも謀にて仕出たる事なれとも、おもひの外なる
大力ありと恐れおのゝきけり。此時、上総勢来るを相図の通、城カ島にて待給へは折節西風烈して時刻も移れは天の未たゆるし給はぬにやとて安房へ引返し給ふ。大永六年の軍に又敵より例の大力出て討とれとて先にすゝむ舟に石うけの木をひしと打、其陰に槍長刀太刀熊手なとを持て待居たり。木曽鳥山三浦勝山鎌田楠をはしめ百騎のものとも今度は又、人形を作て隠し置、わさと矢軍して日を暮し、よき時分そと相図して彼人形を舟の上に顕し押かくれは案のことく長道具にて彼人形をせめける所を楯の陰より太刀を以、散々にきりけり。敵、案の外なりとて、あわてふためきける時、また軍中へ込み入し。其請支度なき船ともへ先軍の如く石をはね入る。本より大力のものなれは材木を手々に投入て舟人共に打殺す。乗損たる船より大勢のもの共、余の船へ乗るとて、舟共蹈み返し々々上を下へと返すとき究竟の海賊兵とも勇み進んて追かくれは、いとゝ途方を失ふて是より船破れけり。今度は味方も大勢なりとて、いつくまてもと追かけける。敵は鎌倉八幡宮に支えたり。小田原より荒手加りける。今度は百騎か党、小田原の空にて二度目にすゝむを待とて御旗本より兵をすくつて以上三百余騎、山中こたかき所にわけ入り待居たり。又正木山田真里谷忍足本田黒川熊と左備に居て二の手にかわれは鳥雲の陣を作て引分り不思議の勝をせはやと待かけたり。北条方たくむ事ある故に軍しとろに成て備るを正木山田、是を見て脇より不慮につき入さん/\に戦けり。北条方よき折やと思ひけん引立て見けへるを敵、大仏越へはひかすして扇か谷の方へと引く。味方心得すとて、しはらく扣へて見えけるを敵、かくては時うつるやとおもひけん爰かしこよりあらはれ出て一もみにと進みける。味方は荒手を入替て正木が党は引分り、すきまを見て突やふれと休陣へは替すして右備にて替りける。斯て敵、一もみにと進む故か旗本しとろに成て見へたり。百騎か党よき時節と思ひもよらぬ方より押寄る。北条方と見ると近々と成て旗指上、大将の陣へこみ入/\戦けり。敵、是を見て前後を守て軍せよとしとろに成てひしめく所、正木山田時分はよきそ突入れと一度にとつとかけ入戦けり。大将も時を見給ふて休陣すゝめ旗本にても和田龍崎木曽武石等力を合よと進て下知を仕給ひけり。北条方叶はしとや思ひけん、小田原さして引返す。折節味かたの火か敵の火か八幡宮へ付て焼払ふ。実堯公仰けるは、かゝる凶事出来つる事、味方の氏神にておはしますに不吉也とて本国の討もらされたる兵共、度々軍に馴たる兵共来り。籠り居て軍も随分したりけるに不慮に稲村乱出来り古来のものとも討死して自弱国となりけり。新田聡美鳥山に伝る所の兵書も此書失ひはてゝ三河国にや残るらん。
一 七字を備に取事。人間万事塞翁馬と口伝す。人は備組時は旗本は間と組、万と備組時は旗本は事と組、塞と備組は旗本は翁と組也。右是が別の分也。惣ては又馬の字に組へし。只見様にも心持有之。
……中略……
義豊公まて四代の政事、人数家の子一人軍大将二人家老二人若老二人諸役人の惣頭あり小頭あり寺社奉行二人地方奉行二人町奉行二人勘定奉行一人代官頭一人社人頭一人同一人。伊勢より来て春毎惣祭あり。此時は神の御位次第に定座。居常には京都の官位次第に定るなり。寺方は宗々の本末は不及申、惣而の宗は寺ある者は知行次第に、寺なき者知行なき時は年数次第也。遊民は長吏か下知にて法度下る。如此して持内のもの外国へ出るには関所にて判を合、又外より来るものは夫々の頭へ見舞、下知を受、非人をは其所にて養育し不審成もの無之様に。法度ある故、持内に野武士無之也。楠正成、天下を動すも此野武士数多ありし故也。存社稷羅英雄には野武士類惣別無組頭者無之様にすへし。行衛も知ぬ者共、世上に多出るは無政道成故也。惣而国家を治に智仁勇一つも欠ては叶へからす。智を以道を正し仁を以、無行衛遊民無之様に下々迄めくみもれぬ様にすへし。勇を以て二の事おこたりなき様にすへし。悪事起らは急に戒め自より他まて善を好で余事をかへり見すは大軍の兵も一心の命に随ふへし。然らさる時は諸人心々に成て乱に近かるへし。故に天の時は不如地利、地の利は不如人和と云へり。人の和睦する事、巧言令色を以すれは、来るものも早けれとも退くも又早し。天の元徳より君の仁徳より家老地頭情厚くして政令正き時は人長く和睦し天理を重んし節に死す。是、仁者必有勇、勇者は必不有仁といへり。夫存祖稷には先家を治め、一門の交正きうぃ専一とす。先祖の廟を守り給ふ役なれはなり。臣又君を敬ひ諸役人も上を敬ひ下を憐む時は身を立て先祖の廟も威をまし子孫繁昌也。私欲にあらす。又私欲の戦には一旦勝利はあれとも。彼欲をとけんとして色々逆財におほれて頓て大負を取事あり。楠正成、名を天下にあらはすは始終共に道を守り不道の働なき故也。
一 下略は陳道徳察安危明賦賢咎、故人主深暁下略、則能明盛衰之源、審治国之紀、故以是類之事記之。夫日本国は神国なれは三種の神器を秘伝と定給ふ。是全く宝を伝給ふに非す。智仁勇の三徳カ。大宝也との印証なり。然るに神璽を仁に合するに深理あり。あらましを云は先天地之間にては人を大なりとす。人の中には天神七代地神五代より打続き天子より大なるはなし。其過にし御廟を全ふして子孫絶さる様に御守り有りて其事を大名より小民に至るまで押ひろめ物にまて種をのこす事を教給ふは仁の事也。故に其徳を御先祖より請、子孫へ御渡被成所の印也。宝剣は体用也。体は右の如くに和穏を他人の為に破られましと道を以て守り給ふか孝なれは家臣も是を守るを忠とす。忠孝を人々守て自他ともに治るを体也とす。御鏡は此理を始め事々物々の理を明に照らし理非分明にして日月の諸方を照らし給ふか如くなるへし。自ら明なれは明徳の体也。民を新になさゝるは用なり。右三つを以て五倫を治め万民を安するを太平とす。然るに乱世程久しく此伝吉野の皇居に破れ新田家に相伝ありといへとも亡ひ里見の家に残るといへとも稲村の乱に古来の士討の後、伝るものなし。斯失果ぬる事を悲み愚案をも顧す此のことく記置くもの也。後賢是を以て後世に伝ふへし。大古上御一人の伝なれとも此義は吉野の御門より有功者に御許有也。然れとも新田楠里見各滅亡の後、若は三河国に残らん。余所に無之伝也。可秘々々。
……中略……

里見九代記第五
   軍之巻
一 文安二年六月八日、東条合戦の事。初義実公、安房の国白浜へ渡り給ふとき神余丸両人は滅亡、安西は早く味方になる間、東条へ押寄kっせんあり。東条七郎には正木加勢す。則金山の城にたて籠る。その日はたかひに戦ひ疲て休む。九日には敵、城中より討出さる間、其夜、荒川の住人高梨弥右衛門と云者を案内者として木曽右馬之助氏元堀内蔵人貞行三浦半左衛門和田神九郎村上七郎大島右京安西式部神余源太丸新八以上十騎の武者共その夜半計、城中へ忍入り夜廻りのものに打紛れ爰彼所にてときの声を揚け前後左右に駆廻りけれは城方の者とも敵数多打入たりと心得、友軍をはしたりけり。兼而相図の事なれは安西も旗本も時の声をあけて攻寄する。城の兵共あわてふためき爰かしこに落行けり。正木弾正、心は武く思へとも味方敗北する間、手勢の者共招き寄、安西か陣を切抜て大瀧さして引て行。東条七郎も是迄と思ひ切り腹十文字にかき切つて死んびけり。翌三年正月には如何おもひけん、終に正木弾正も降参して御味方となる。
一 文明三年、峰上合戦は真里谷入道道環か城へ正木を先手となされて義実公向はるゝ。義成公は真里谷丹波か籠りたるつくろうみの城に向はる。義実公は大嶺より押寄て其日に合戦をはしむ。義成公は明か根にて敵の臣下佐久間藤内と合戦し給ふ。其日は矢軍して其間に忍の者を遣し敵陣を伺はせらるゝに鋸山に防兵を集め置て其外の所には敵一人もなし。義成公は其夜は陣中には篝火を焚かせ置、密に舟にて金谷の浦へ廻り後より攻給へは敵一戦にも及はす落失けり。それより早旦につくら海の城へ押寄給ふに昨日道環負軍して夜中百首へ内通あり。両城の大将共に里見へ降参せしなり。
……後略

  
 
← 兎の小屋_Index
↑ 犬の曠野_Index
↓ 栗鼠の頬袋_Index