番外編 四海こんきう

 困窮である。困ってしまう。ワンワンワワン。しかし、犬のオマワリさんは、困ってばかりもいられない。子猫の為に、立ち上がらねばならないのだ。

 ところで書、即ち『書経』、大禹謨に云う。「四海困窮、天禄永終」。禹(ウ)が先帝・舜(シュン)から位を受け継ぐときに贈られた、戒めの言葉だ。舜、禹は、古代中国、伝説上の王であり、堯と共に<聖帝>として扱われる。堯は暦を定めた。舜と禹は、それぞれ先代から、子供でも何でもないのに、器量を認められ、帝位を譲られた。こういう帝位継承を、<禅譲>という。武力で簒奪するのが、<放伐>。共に<革命>と呼ばれる。後世、だいたいは放伐によって革命/王朝交代は為されるし、帝位継承は世襲による。禹は、やはり器量の者に帝位を譲って死ぬのだが、臣下が遺志に反して禹の子を奉戴した。以後、帝位は世襲制となる。因みに、禹を初代とする王朝が、<夏>である。殷、周、秦、漢……と交代していく。聖なる帝、権力の行使に満度の才能を持った者の時代が終わる。社会体制が、純粋に個人の特性によって左右される時代が終わり、<誰が頂点に立っても、さほど変わらない>体制へと移行したとも言える。個から組織/集団の時代になったのだ。個の時代とは、<理想としての原始状態>だったりもする。余談だが、舜は有名人で、色々と言及されることが多い。とてつもない、お人好しだったのだ。舜は身分の低い家に生まれたが、母を早く亡くした。父は再婚した。後妻を愛した。しかし、後妻は舜を嫌った。後妻の子すなわち舜の弟と父と結託し、何度も舜を殺そうとした。にも拘わらず、舜は父母に孝を尽くし、仕えた。親孝行の見本みたいに云われる。まぁ、単なるウスラトンカチなよぉな気もするのだが、偽の父親と継母に苛められ抜く、礼の犬士・大角を彷彿させもする。
 話を戻そう。「四海困窮」である。このフレーズ、いや、漢文の宿命だけれども、読みが一定でない。「四海困窮……」は、「四海の困窮をせば、天禄、永く終(オ)えん」とも、「四海困窮せば、天禄永く終(タ)たん」とも読むのだ。前者は帝位への祝福/補強のニュアンスで、「世界の困窮を治め無くせば、帝位/権力は永続できる」と訳せる。しかし後者は、「万民が困窮に陥ったら、それは帝の責任だから、永久に抹殺されるのだぞ」と呪詛/脅迫する雰囲気が漂う。似たような意味ではあるが、前者の方が意味の据わりは良い。後者の方が、字面に素直だ。ドチラを採るかは、好みによって左右される。

  天保八(一八三八)年一月、八犬伝第九輯下帙上が刊行された。八百比丘尼の偽計により、犬江親兵衛仁が体よく安房から追放され、河鯉孝嗣と契りを結ぶ辺りから、結城の大法会を終える段までだ。翌年一月には第九輯下帙中、天保十年一月には第九輯下帙之下甲号が出版された。
 ……何だか変な刊行の仕方だ。第九輯下帙上、同中とくれば、次は第九輯下帙下で終わりだろう。それが、第九輯下帙之下甲号、同乙号上套、同下套、第九輯下帙下編上、同中、第九輯下帙下編之下、第九輯下帙結局編と、ズルズル延びていく。本屋の都合で物語が引き延ばされたこともあろう。商業主義というヤツだ。しかし、商業主義だからといって、内容が無いと断ずることは出来ない。当初の予定が変更されただけのことだ。結果として面白ければ、作品は享受さるべきであろう。そして、こういった場合、当初の計画を変更、引き延ばしたんだから、<エピソードの挿入付加>を意味することは、想像に難くない。即ち、第九輯下帙辺り以降、<当初の予定>になかったエピソード、後からくっつけた挿話がありそうだ。閑話休題。

 天保八年二月、即ち八犬伝第九輯下帙上が刊行された翌月、読者は、大詰めを迎えた物語を読みながら、時代も大詰め若しくは行き詰まりに来ていることを感じていた、かもしれない。十九日早朝、大坂市民は火災と喧噪によって飛び起きた。犬のオマワリさんならぬ町奉行所の与力・同心数十人が一揆、数百の民衆を率いて暴れ回っていたのだ。ワンワンワワン。一団は街並みに放火、豪商を襲い、米銭を奪って路上にバラ撒き、人々の取るに任せた。治安・民政の責任者たるべき大坂町奉行は役所に引き籠もり、または大坂城に逃げ込み、繁華街・天満で落馬したりと、<華々しく>醜態を晒した。抑も庶民が、武士に偉そうにさせていたのは、いざ外敵が来たりしたとき守ってくれる筈だったからだ。それが、あろうことか、一方で与力・同心たちが放火・暴動、一方では奉行・与力・同心が右往左往、これでは単なる迷惑野郎どもだ。大坂町奉行が無為無能に逃げ惑ううち、二百数十人の市民が死傷、二万世帯近くが家を失った。近世大坂で最大の犠牲をだした、未曾有の大火であった。<大坂一件>、俗に謂う<大塩平八郎の乱>である。

 乱の首謀者・大塩平八郎(オオシオヘイハチロウ)四十五歳は、元大坂町奉行所力、引退後は専ら自らが開いた私塾で陽明学を講じていた。与力・同心のほか、庶民も門弟になっていた。因みに陽明学とは、王陽明を祖とし、<知行合一>即ち学問を自己の修練と捉え学び得た知識/知恵と行動の一致を旨とする学派である。<偉そう云うて口だけぢゃイカンぞ>と主張する連中だ。
 もうちょっとだけ、平八郎を紹介しよう。彼は、よくいる無能な官吏ではない。与力時代は切支丹の女性を論破し改宗させ、多くの破戒僧を検挙、或る疑獄を調査して腐敗した官僚の実態まで突き止めた。探偵小説の主人公にしたって、出来過ぎのオマワリさんだったのだ。武芸にも秀で、槍を執っては関西随一と謳われた。陽明学者としての著書が幾つかあり、既に名を成していた。硬いばかりではなく、愛人もいたりした。
 彼は学者であったから、民政にも一家言持っていた。儒学は<道徳>ではない。その主要課題は、政治学である。平八郎の思い付いたプランは、こうだ。則ち、諸大名・旗本ら武士階級に対し商家が金を貸すことを禁じる。武士たちは「こんきう」する。無理にでも領内から米を掻き集め、大坂に持ってきて売る。大坂の米が増える。庶民の口に入る……。平八郎は息子の格之助をして、町奉行・跡部山城守良弼(アトベヤマシロノカミヨシスケ)に建議させた。しかし跡部は、「差し出がましい」と罵り辱め、献策を退けた。跡部は、暗愚であったのだ。まぁ、跡部も商人からかなりの借金をしていたみたいだから、平八郎のプランを受け入れる筈がなかったのであるが。
 また、平八郎は与力の時に疑獄を調査しただけあって、官僚機構の腐敗、贈収賄によって政策が決定され人事が異動されている実態を知悉していた。無能な奴らが、のさばっていたのだ。<出来過ぎ>の男・平八郎の脳裏には、世襲によらない権力の継承、堯舜の伝説が浮かんだかもしれない。同時に既存の権力体制に対し、憎悪を感じたことだろう。

 天保八年、折からの凶作により、大坂では米が不足した。大坂で不足してるんだから、京都も江戸も不足だ。京都から大坂に買い出しに来た者が、奉行の命によって逮捕されたりした。このとき、平八郎の献策を跡部が思い出して実行すれば、多少の事態改善が出来たかもしれない。しかし、跡部は奇妙な行動をとった。密かに大量の米を江戸に輸送させたのだ。ハナから少ないってのに、ドッサリ持ち出すのだから、堪らない。大坂では、餓死者まででた。跡部は、自分が責任を負うべき大坂市民を餓死させてまで、江戸の高官たちに<良い顔>をしようとしたのだ。女々しい奴だ。同時代の江戸町奉行たち、例えば遠山左衛門尉景元(トオヤマサエモンノジョウカゲモト)などは、トンチンカンな老中のトンチンカンな命令に対し、庶民の側に立って抵抗を試みたというのに、跡部には、そんな気骨はなかったようだ。クラゲ男め、士道不覚悟である。
 平八郎は起った。目的は、「救民」/豪商から奪った米銭を庶民に分配する事と、トンチンカン奉行・跡部への「天誅」/殺害であった。別に体制転覆なぞ夢にも考えなかっただろう。彼の目的は、単なる強盗殺人および現住建造物放火だった。……はふぅ、疲れたな。ちょっと興奮してしまっている。此処で、筆者は休憩して平八郎本人に、主張する所を語ってもらおう。彼が暴動を起こすに当たって近国に頒布した、「檄」である。

四海こんきういたし候ハゝ天禄なかくたゝん、小人に国家をおさめしめは災害并至と、昔の聖人深く天下後世人の君人の臣たる者を御誡被置候ゆへ
東照神君ニも、鰥寡孤独におゐて、尤あわれみを加ふへくハ、是仁政の基と被仰置候。然ルに●(「玄」並列・ココニ)二百四五十年太平之間ニ追々上たる人驕奢とておこりを極、太切之政事ニ携候諸役人とも賄賂を公ニ授受とて贈貰いたし、立身重キ役ニ経上り、一人一家を肥し候工夫而已ニ知術を運し、其領分知行所之民百姓共江過分之用金申付、是迄年貢諸役の甚しき苦む上江右之通無体之儀を申渡、追々入用かさみ候ゆへ四海の困窮と相成候付、人々上を怨さるものなき様ニ成行候得共、江戸表より諸国一同右之風儀ニ落入、
天子ハ足利家●(欠字・「以」?)來別而御隠居同様賞罰之柄を御失ひニ付、下民之怨何方へ告愬とてつけ訴ふる方なき様ニ乱候付、人々之怨気天ニ通し、年々地震火災山も崩水も溢るより外色々様々の天災流行、終ニ五穀飢饉ニ相成候。……中略……此節米価弥高直ニ相成、大坂之奉行并諸役人とも万物一体之仁を忘れ得手勝手の政道をいたし、江戸へ廻米をいたし、
天子の御在所之京都江は廻米之世話も不致而已ならす五升一斗位之米を買に下り候もの共を召捕杯いたし、……中略……何れの土地にても人民ハ
徳川家御支配之ものニ相違なき処、如此隔を付候は全奉行等之不仁にて其上勝手我儘之触書等を度々差出、大坂市中遊民計を太切ニ心得候は前ニも申通道徳仁義を不存拙なき身故にて甚以厚ケ間敷不届之至……中略……孔孟之徳はなけれ共無拠天下のためと存血族の禍をおかし、此度有志之ものと申合下民を悩し苦候諸役人を先誅戮およひ可申候間、右之者共穴蔵ニ貯置金銀銭等諸蔵屋敷内ニ隠置候俵米夫々分散配当いたし遣候間、摂河泉播之内田畑所持不致もの、たとへ所持いたし候共父母妻子家内之養方難出来程之難渋ものへハ右金米等取らせ遣候間、いつにても大坂市中ニ騒動起り候と伝聞へ候はゝ、里数を不厭一刻も早く大坂へ向駈可参候面々江右米金を分け遣し可申候。……中略……
奉天命致天誅候
天保八丁酉年月日       某            (後略。引用終わり)

 「四海こんきういたし候ハゝ天禄なかくたゝん」。読者は既に、このフレーズが、権力への呪詛/脅迫のニュアンスを含み、しかも堯舜時代、器量の者が権力の座に然るべくして就く時代に語られたことを知っている。この一言が、平八郎の心情を、雄弁に物語っている。無能な腐敗官僚どもが社会を食い物にしていることに、<出来過ぎ>の男・平八郎は、我慢ならなかったのだ。檄文には、大坂市民の「こんきう」によって裏打ち若しくは正当化された、平八郎の熱い想いが込められている。

 気持ちは、よく解る。しかし、彼の行動は犯罪に過ぎなかった。目的としたアホ奉行・跡部の殺害すら、果たせなかった。大坂城代の兵が出動し、平八郎らは呆気なく蹴散らされた。城代は西国三十三カ国の仕置きを任された駐屯部隊、軍隊なのである。奉行所よりも格上。また、平八郎は逃走するが三月下旬、市内に潜伏しているところを城代に察知され、取り囲まれた。本来、捕り物は奉行所の職掌だが、手柄を横取りしようとしたのか如何だか、とにかく大坂城代は秘密裏に平八郎を探し当てた。しかし、慣れない事は、するもんじゃない。大坂城代の連中、隠れ家を取り囲んだは良いが、如何して良いか分からない。ワイワイ騒ぐだけ。周囲の者は何事かと覗きに来る。訊けば、「いやぁ、ちょっとした捕り物ぢゃよ」と間抜けな答え。極秘裏の行動だか何だか、よく分からない。ウカウカするうち日が暮れ夜が明けた。連中、無為の儘、日を過ごしたのである。ピクニックにでも来ている積もりだったのか。夜が明け、ボンヤリ隠れ家を見ていると、いきなり火の手が上がった。慌てた連中、アレヨアレヨと騒ぎ惑うが、如何しようもない。漸く鎮火、恐る恐る覗き込むと、真っ黒に焼け焦げた死体か二体。ドレが誰やら、分かったモンじゃない。脇に落ちていた刀が、「どうやら大塩のモンみたいだなぁ」といぅことで、死体を平八郎と断定した。事件が事件だけに、とにかく「平八郎」を捕らえねばならなかったのだ。
 お上に楯突いた者の死体は塩漬けの上、左右から三十本の槍で貫き磔にする。どうやら、平八郎(?)の死体にも、この刑が行われたようだ。死んでんだから痛くも痒くもないが、まぁ、見せしめといぅヤツだ。<大塩の塩漬け>、これが近世で最も重要な暴動の結末である。因みに騒動の原因を作ったアホ奉行・跡部は数年後、大目付に栄転する。洒落にもならないオチだ。

 平八郎の起こした暴動は、単なる犯罪だ。反乱ではない。反乱ではないが、後に重大な影響を与えることにもなった、かもしれない。平八郎は、現実の権力に対して、独自の<評価>を下した。勿論、当時の庶民も人間である以上、何等かの評価は権力に対して下していただろうが、それを最もアカラサマな形、暴力という手段で表現した点、しかも被支配者層ではなく、歴とした二百石取りの直参御家人が権力を<評価>した点に、事件の重大性が在る。
 権力は<絶対>の夢を見る。しかし、それは甘えた夢想に過ぎない。<評価>とは<相対化>である。他者による相対化/評価を受け入れることこそが、器量というものであるが、狭量な権力主体は、<相対化>という回避できない現実/必然を嫌い、ヒステリックに追い払おうとする。尤も、既に寛政の頃には、滑稽本の如く、当時の権力者を揶揄する文学も現れていた。揶揄も<相対化>の一種である。また、農民一揆や庶民による都市暴動は、単に目先の食い物を確保しようというだけでなく、<世直し>を求めるモノとなりつつあった。<世直し>は、二つの前提を要件とする。即ち、<現世は住み難い>と感じる不満と、<現世は変わり得る>とする信念だ。「変わり得る」とは、現世とは異なった理念/モデルの想定を出発点とする。<相対化>に他ならない。この相対化を、近世になって初めて、大規模にアカラサマに、しかも権力に連なる階級の側から表現してみせたのが、平八郎の乱であったのだ。
 平八郎の不満は、博く共有され得るものだった。平八郎以外、大々的に表現する者がいなかっただけの話である。取り締まる側、大坂城代・土井利位の家老、鷹見泉石は日記に「京大坂辺下々にても大塩様の様にまで世のために思召候儀有難しと申者八分通りの由」(日本庶民生活史料集成巻十一解説より)というし、江戸でも評判は良かったようだ。また、乱後、(実際には平八郎と無関係な人物たちによる)「大塩門弟」を旗印にした暴動、生田万(イクタヨロズ)の乱など、幾つか起こっている。現実もしくは<常識>によって自ら己の不満を押し殺していた者達が、殻を破って起つようになったのだ。また、近世約三百年のうちに六千八百件以上の農民一揆、都市騒擾、村方騒動が起こったと言われているが、天保期以降四十年足らずのうちに、二千四百件以上が集中している(参照:青木虹二『百姓一揆総合年』三一書房)。これは、民衆が比較的容易に、武力闘争を選択するようになったことを示していよう。言い換えれば、嘗ては圧倒的武威により殆ど絶対化されていた幕藩権力に対する<相対化>が進行したことを意味している。また、平八郎の乱は、オマケとして、国土を守るべき武士たちが、頼りにならない若しくは恐るるに足らぬ者だと、満天下に示しもした。アホ奉行・跡部の醜態である。……周囲の<常識>を無視し、己の良心に基づいて表現行為を行う。筆者は、これを<ゴロツキ>と称している。平八郎は、ゴロツキ、大ゴロツキであったのだ。
 さて、ゴロツキが起こした暴動を、何故に読本八犬伝番外編で取り上げたか?……いや、種明かしは、もう少し贅言を弄してからにしよう。平八郎に就いて、言い足らないこともある。「種明かし」は、ちょっとしたスケベェ話になる予定だ。スケベェは、最後の最後まで<溜めた>方が宜しい。それでは、今回は、これまで。

(お粗末様)

                            

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