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○若狭の八百尼

若狭の白比丘尼と云は小松原の人なり。治城東海の畔に在り。かつて尼の父ある日海に釣をたれて魚を得たり。その形いと奇く尋常のものにあらずとて棄てこれを食はず。尼幼くして拾ひて食ひけりと云。そは大かた人魚と云ものなるべし。さればこそ尼遂に齢を保つこと八百歳に及べり。時人、八百比丘尼とよべり。その尼が肌膚面背みな白ければ又白尼ともいへり。尼ある時、人に語りていへるやう、我むかしまのあたりに源平の盛衰にも遇ひたりしが、源義経のこの地を過ぎて東奥へ赴くをも見たりき。これらの事を聞く人いと怪しみけるとぞ。これや唐土の神仙王母麻姑などの類ひならんと云へり。中原康富記に文安六年五月若狭白比丘尼上洛、又東国比丘尼於洛中、致談義事と目録のみあり。その精きことは知るべからずといへども、これによりても白比丘尼の名の世に知られたること思ふべし。今猶その住しといへる洞穴あり。若狭後瀬山の麓空卯{ママ}寺の境内にて大なる巌を切り穿つこと壱丈四方ばかり、洞の西の方数十歩に石虹あり。白尼この石虹を渡らんとして顛蹶て地に倒れそのまゝ身まかりしといへり[若耶群談]。

按ずるに臥雲日件録、文安六年七月二十六日の条に近時八百歳老尼若州より洛に入る。洛中のもの争ひ観んとす。堅く居るところの門を閉て人に容易く看せしめず。かゝれば貴者は百銭を出し、賎者は十銭を出す。しからざれば門に入ることを許さずと見えたり。白尼の世に聞えたる、これを併せてますます証すべし。猶信景が志保之里、塘雨が笈埃随筆等にも記し、清君錦が八百尼記ありと云。{提醒紀談}

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