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片輪車
近江国甲賀郡に寛文のころ片輪車といふもの深更に車の碾音して行あり。いづれよりいづれへ行をしらず。適にこれに逢ふ人は則絶入して前後を覚えず。故に夜更ては往来人なし。市町も門戸を閉て静る。此事を嘲哢などすれば外よりこれを詈りかさねて左あらば祟あるべしなどゝいふに怖恐て一向に声も立ずしてけり。或家の女房これを見まくほしくおもひかの音の聞ゆる時潜に戸のふしどより覗見れば牽人もなき車の片輪なるに美女一人乗たりけるが此門にて車をとゞめ我見るよりも汝が子を見よと云におどろき閨に入て見れば二歳ばかりの子いづかたへ行たるか見えず。歎悲しめども為方なし。明けの夜一首を書て戸に張りて置けり。
罪科は我にこそあれ小車のやるかたわかぬ子をばかくしそ
その夜片輪車闇にてたからかによみて、やさしの者かな、さらば子を帰すなり、我人に見えては所にありがたしといひけるが其後来らずとなり。{諸国里人談}
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