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襟に掛たる珠数を取て推揉んとし給ふに常にもあらで音はせず。こは不思議や、と取なほしてとさまかうさま見給ふに、数とりの珠に顕れたる如是畜生発菩提心の八の文字は跡もなく、いつの程にか仁義礼智忠信孝悌となりかはりて、いと鮮に読れたり。伏姫は又さらにかゝる奇特を見る物から、なほ疑ひを解よしもなくつら/\おもひ給ふやう、この珠数はじめは仁義礼智云々の文字あり。かくて八房に伴れ、この山に入らんとせし比、如是畜生云々と八の文字になりてしかば果して件の一句のごとく八房も亦こゝに菩提心を発したり。■人のした小/るに今又畜生四足の文字は失て旧の如く人道八行を示させ給ふ権者の方便測がたし。いと浅はかなる女の智をもて何と弁へ侍らんや。見る所をもて推ときは吾儕は犬の気を受て平ならぬ身となりし故に遂に非命に終ること畜生道の苦艱に似たり。されども仏法の功力にて八房さへに菩提に入れり。来世は仁義八行の人道に生るゝよしをこゝに示させ給ふものか。もしさあらんには八房をもわが手に殺さば畜生の苦を抜くよすがとなりぬべし。いな/\それは不仁なり。渠はその主の為に大敵を亡したり。かゝれば是こよなき忠あり。又去歳よりしてこの山に吾儕が飢渇を凌せたり。かゝれば又養ひの恩ふかゝり。よしや来世は人と生れて富貴の家の子となるともその忠この恩あるものを今情なく刃もて死を促すに忍んや。これらのよしをありの随に告て生死を渠に任せん。さはとて珠数を左手に掛、前足突立こなたのみ眺めをる犬にうち向ひ、やよ八房わがいふ事をよく聞けかし。よに幸なきもの二ツあり又幸あるものふたつあり。則吾儕と汝なり。われは国主の息女なれども義を重しとするゆゑに畜生に伴る。これこの身の不幸なり。しかれども穢し犯されずゆくりなくも世を遯れて自得の門に三宝の引接を希ひしかば遂に念願成就してけふ往生の素懐を遂なん。亦これこの身の幸なり。又只汝は畜生なれども国に大功あるをもて軈て国主の息女を獲たり。人畜の身異にしてその欲を得遂ざれども耳に妙法の尊きを聴て遂に菩提の心を発せり。これ汝が幸ひなり。しかれども生をかえ形を変ふるによしなければこゝに四足の苦を脱れず。生てはその智をますことなく死しては徒その皮を剥れん。亦これ汝が不幸なり。汝生れてより七八年犬馬にしてその命短しといふべからず。いたづらに生を貪りわが死するを見て里に還らば友に噬れ笞に打れ呵責忽地その身に及ばん。又この山に住るとも翌よりしては誰か亦汝が為に経を読べき。梵音耳に入らずならば菩提の心遂に失なん。只生を辞し死を楽み人道の果を希はゞ来世に人と生れざらんや。この理をよくしらばおなじ流に身を投て共に彼岸に到れかし。さればとて時なほ早かり。われも浮世の名残なり。且おん経を読誦して心しづかに元に帰らん。汝もこれを聴聞して読果なんとするときに起て水際に赴けかし。さりとも不覚に命惜くば野なれ里なれ老死よ。■人のした小/らば人果を得るときなからん。よく弁へよ、と叮寧に諭し給へば八房は頭を低て憂るごとく又尾を掉て歓ぶ如く又感涙を流すに似たり。伏姫はこの形勢をつくづくと見給ひて、この犬誠に得度せり。怨めるものゝ後身なりとも既に仏果を得たらんには弟義成が耳孫の世まで絶て障礙はあるべからず。心やすし、と思ひとりて彼遺書を提婆品の一巻を手に取て洞より些すゝみ出読誦し訖らば遺書をおん経に巻籠てこの石室に留んと思ひつ上平なる石を机に坐を組て彼一巻を額におし当且く念じ給ひつゝはや読出し給ふにぞ。八房は耳を側てきくこと生平よりいと切なり。

抑提婆品は妙法蓮華経巻の五に在り。婆竭羅竜王の女児とかよ八歳にして智恵広大ふかく禅定に入て諸法に了達し菩提を得たる縁故を説給へる経文なり。女人はこゝろ垢穢る。素より法器にあらず。又身に五障あり。故に成仏しがたきものなり。■人のした小/るに八歳竜女のごときははやくも無上菩提を得たり。便是女人にして成仏の最初たり。かゝれば伏姫末期に及びて身の為又犬の為に提婆品を読給ふ。今を限りと思へばや音声高く澄渡りたえず又委ずして蓮の糸を引く如く又出水の走るに似たり。峯の松風もこれを和し谷の幽響もこれに応ふ。石を集て聴衆とせしむかしもかくぞありけんかし。いとも愛たき道心なり。

さる程に読経も既に果になりて

三千衆生発菩提心、而得受記、智積菩薩及舎利弗、一切衆生、黙然信受

と読給へば八房は衝と身を起して伏姫を見かへり水際を指てゆく程に前面の岸に鳥銃の筒音高く響して忽地飛来る二ツだまに八房は吭を打れて煙の中に■石に殷/と仆しあまれる丸に伏姫も右の乳の下打破られて苦と一声叫びもあへず経巻を手に拿ながら横ざまに転輾び給ひぬ……{第十三回}

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