◆「遮光器型土器もしくは褐色ガチポ美少女の悲劇」

 前回に続き、真間の手児奈に纏わる歌だ。読まなくても良い。ただ非常に多いことを視覚的に感じていただくための羅列だから。

     ◆
▼草庵和歌集 巻十 菩薩
一三六六 残りなく 人をわたせと せし程に 我が身はもとの ままのつぎはし
▼続草庵集
二八五 関白殿に題をさぐりて歌よまれし時 橋霜
今朝はまだ 人のゆききの 跡もなし よのまの霜の ままのつぎ橋
▼洞院摂政家百家下 于時関白左大臣
一〇九三 不遇恋五首 大殿
かつしかの ままの井づつの 影ばかり さらぬ思ひの 跡を恋ひつつ
▼宝治百首
二七一八 寄橋恋 御製
くれば又 こんと契りて わかれしに ままの継橋 待ちやわたらむ
二七二〇 寄恋端 実氏
夢にだに かよひし中を 絶えはてぬ 見しや其夜の ままの継橋
二七三〇 寄橋恋 忠定
恨みても かつぞ恋しき かつしかや ままのつぎ橋 おもひたえなで
二七三六 寄橋恋 成実
更に又 恋ひやわたらん 夢にだに ただ一夜見し ままのつぎはし
二七四六 寄橋恋 成茂
むかしみし ままの継橋 ながらへて あらば逢瀬に わたしもやせん
▼嘉元百首 
五八二 冬日同詠百首応太上皇製和歌 従一位行右大臣藤原朝臣冬平上 橋
たえだえに ふむもあやふく 成りぬれど 跡は昔の ままのつぎはし
権大納言局前藤大納言為世卿女
さても猶 かよはばこそは たのまれめ たえじといひし ままのつぎはし
一〇八二 詠百首応製和歌 正二位行権大納言藤原朝臣公顕上 橋
ききわたる その名ばかりは ふりぬれど まだふみしらぬ ままのつぎ橋
一九八六 冬日侍太上皇仙洞同詠百首応製和歌 正四位下行近衛権中将兼丹波介臣藤原朝臣為藤上 橋
いにしへの ままのつぎはし つぎて猶 いまもかはらぬ 代代の跡かな
二八四三 詠百首和歌 雲雅上 秋二十首
今も猶 月ぞかはらず すみわたる 昔ながらの ままのつぎ橋
▼文保百首
二九七六 詠百首和歌 大僧正道順上 恋二十首
たえはてし ままのつぎ橋 さのみやは またあふことを まちわたるべき
▼延文百首
二七六 入道大納言実明女
おもひきや 又よとかけし わかれぢの ままのつぎはし たえんものとは
一二七六 たちかへり 又やわたると たのめども うたてたへにし ままのつぎはし
詠百首和歌 尊道 寄橋恋
心のみ やまずかよふも かひぞなき おなじつらさの ままのつぎはし
二二八九 釈空 詠百首和歌 寄船恋
波よれば 袖にもさわぐ 心かな 人はうかりし ままのうらふね
二四七六 詠百首和歌 空静 寄橋恋
いたづらに 月日ぞわたる いまこんと あだにたのめし ままのつぎはし
二五七六 春日同詠百首和歌 従三位藤原実名 寄橋恋
あひみてし ままのつぎはし いかなれば 又恋ひわたる 契なるらん
▼永享百首
四七六 浄喜
すみわたる 影もかはらず 夜半の月 秋や昔の ままのつぎはし
二九七六 秋日詠百首和歌 左近衛権中将藤原行輔 寄橋恋
有りし夜の ままのつぎはし 中絶えて 又もわたらず などか成りけん
▼永享百首
四七八 橋月 公保
行きかへり 秋もよよへて すみわたる 月やむかしの ままのつぎはし
七八二 寄橋恋 義教
こひ渡る ままのつぎはし つれもなき 命をかけて なほやたのまん
▼正徹千首
九八七 懐月
耳はよりて あやふき淵を わするるや わらは心の ままのつぎ橋
     ◆

 ……疲れたから、此の辺で止めよう。それでも八犬伝時代近く迄の主要歌集は殆ど取り上げている筈だ。【伝説の美少女】、万葉集の時代に既に伝説化してた以上、彼女の体型は必ずや遮光器型土偶、私好みの褐色ガチポ美少女(女の魅力はケツだぜ!)だったに違いないのだけれども、真間の手児奈に対するファンタジーは、まだまだ在る。江戸の火消同心・安藤鉄蔵またの名を歌川広重初代は風景画の名手として知られており、馬琴とも面識があった人物だが、名所江戸百景のうち紅葉の名所として真間の継橋を取り上げている。この広重と面識のあった斎藤月岑の「江戸名所図会」に拠れば真間の名所として以下のものどもが取り上げられている。

     ◆
真間の浦 同じく弘法寺の前の水田の地をいふ。勝鹿の浦といふもこのところの事を云ふなるべし(土人云ふ、昔は崖下まで浪打ち寄せたりとなり。故にこの辺に今もその旧跡とて字に残れるものあり。所謂大洲は初めて洲になりし所なり。立野といふは芦を刈りて陸地となりし所なり。芦畔といふは萱野にして水田を開発せし故とぞ)。
「万葉集」 可豆思加之麻万能宇良末乎許具布禰能布奈妣等佐和久奈美多都良思母
「夫木抄」 かつしかの真間の浦わの沖つ洲に あけのそほ舟からろおすなり 俊頼
「続後撰集」かつしかの浦間の波のうちつけに みそめし人の恋しきやなぞ 道隆
真間の浜 おなじあたりをいふべし。
「夫木抄」汀なる芦のしをれ葉吹きさやぎ 氷もよほすまゝの浜風 為家
真間の入江 これも同じ辺なるべけれども、今は耕田となり。又は民家林薮に沿革して古に違へり。
「万葉集」勝牡鹿乃真々乃入江爾打靡玉藻苅兼手児名志所念 山辺宿禰赤人作
「続千載」くもりなき影もかはらず昔みし まゝの入江の秋の夜の月 為教
「夫木抄」忘れじなまゝの入江のみをつくし 朽ちなば袖のしるしとも見よ よみ人しらず
同  かりそめのまゝの入江の玉がしは そことばかりの行くへだになし 光俊
真間の於須比 仙覚律師の「万葉集抄」に云く、於須比にとはおそひになり。山のそひにといふ義なりと。又契冲阿闍梨の「万葉代匠記」に、まゝおすひは、駿河能宇美於思敝爾とあるにおなじく、磯辺なりといふ。本居宣長翁の考へにも、手古奈が磯辺にありしかば、浪さへめでゝさわぎしといふ意ならんとありて、磯辺といふにしたがはれたり。
「万葉集」可豆思賀能麻万能手児奈家安里之可婆麻末乃於須比爾奈美家登杼呂爾
真間の継橋 弘法寺の大門石階の下、南の方の小川に架す所の、ふたつの橋の中なる、小橋をさしていへり(或人いふ、古へは両岸より板をもて中梁にて打ちかけたる故に、継はしとはいふなりと、さもあるべきにや)。 「万葉集」安能於登世受由可牟古馬母我可都思加乃麻末乃都芸波志夜麻受可欲波牟
「新勅撰」勝鹿やむかしのまゝの継橋をわすれずわたる春がすみかな 慈円
「風雅集」五月雨に越え行く波はかつしかやかつみかくるゝ真間の継橋 雅経
同  かつしかのまゝの浦風吹きにけり夕波越えるよどのつぎはし 朝村
按ずるに朝村の和哥によどのつぎはしとあるは水の澱にかけたりといふ意にて、山城の淀とは異なり。
真間手児名旧蹟 同所継橋より東の方百歩ばかりにあり。手児名が墓の跡なりといふ。後世祠を営みてこれを奉じ、手児名明神と号す。婦人安産を祷り、小児疱瘡を患ふる類ひ、立願してその奇特を得るといへり。祭日は九月九日なり(伝へ云ふ、文亀元年辛酉九月九日この神弘法寺の中興第七世日与上人に霊告あり。よつてこゝに崇め奉るといへり。「春台文集」継橋記に、手児名の事を載せたりといへども、その説里諺によるのみにして証とするに足らず)。
「清輔奥儀抄」に云く、これは昔、下総国勝鹿真間野の井に水汲む下女なり。あさましき麻衣を着て、はだしにて水を汲む。その容貌妙にして貴女に千倍せり。望月の如く、花の咲めるが如くにて、立てるを見て、人々相競ふ事、夏の虫の火に入るが如く、湊入りの船の如くなり。こゝに女思ひあつかひて、一生いくばくならぬよしを存じて、その身を湊に投ず(中略)又かつしかのまゝのてこなともよめり。真間の入江、真間の継橋、真間の浦、真間の井、真間の野などよめる、みなこの所なり云々。
「万葉集」過勝鹿真間娘子墓時作歌 山部宿禰赤人
古昔 有家武人之 倭文幡乃 帯解替而 廬屋立 妻問為家武 勝壮鹿乃 真間之手児名之 奥槨乎 此間登波聞杼 真木葉哉 茂有良武 松之根也 遠久寸 言耳毛 名耳毛吾者 不所忘
 反歌
吾毛見都 人爾毛将告 勝壮鹿之 間間能手児名之 奥津城処
 詠勝鹿真間娘子歌
鶏鳴 吾妻乃国爾 古昔爾 有家留事登 至今 不絶言来 勝壮鹿乃 真間乃手児奈我 麻衣爾 青衿著 直佐麻乎 裳者織服而 髪谷母 掻者不梳 履乎谷 不著雖行 錦綾之 中丹裹有 斎児毛 妹爾将及哉 望月之 満有面輪二 如花 咲而立有者 夏虫乃 入火之如 水門入爾 船己具如 帰香具礼 人乃言時 幾時毛 不生物乎 何為跡歟 身乎田名知而 波音乃 驟湊之 奥津城爾 妹之臥勢流 遠代爾 有家留事手 昨日霜 将来見我其登毛 所念可聞
 返歌
勝牡鹿之 真間之井見者 立平之 水?家牟 手児名之所思
下総国相聞往来歌
可都思加能 麻末能手児奈乎 麻許登可聞 和礼爾余須等布 麻末乃弖胡奈乎
真間の井 同所北の山際、鈴木院といふ草庵の傍にあり。手児奈が汲みける井なりと云ひ伝ふ。中古この井より霊亀出現せし故に、亀井ともいふとなり(この鈴木院と云ふは北条家の臣にして俗称を鈴木修理と云ひけるよし、この人の造立故に鈴木と号す。又この庵の傍に、その祖先鈴木近江守の石塔あり。これも同じく修理と云ふ人造立せしなり)。
按ずるに寛文八年戊申、相州鎌倉鶴が岡修造の時工匠を鈴木修理長常といふ。然る時は番匠の家ならん歟。鶴が岡梁牌にかく載せたれども、又別の人にや猶考ふべし。
「万葉集」勝牡鹿之真間之井見者立平之水?家牟手児名之所思
かつしかやまゝの井づゝのかげばかりさらぬ思ひのあとを恋ひつゝ 光明密寺入道摂政
真間山弘法寺 国分寺の南にあり(市河村に属す)。日蓮大士弘法の地にして六門家と称する所のその一員たり。日頂上人を以つて開祖とす(本国院日頂尊師は六老僧の中にして伊予阿闍梨と称す。富木常忍の子なり。文永四年丁卯日蓮上人に就いて得度す。弘安五年壬午上足の第五となる。日蓮上人の滅後、守塔居を営扁して本国院と号す。土人は山本坊と称す。正安元年己亥、父常忍寂すの後、哀をつくして八月十二日こ丶を出で去り終にかへらずとなり。依つて示寂の年月その終焉をしらず。はじめ寺院をいづる日をもて忌日とすといへり)。本堂には釈尊の像を安ず(富木常忍嘗て釈尊の木像を造り当寺に奉安す。日蓮上人、日頂師をして点眼せしめ賀の書を賜ふ)。祖師堂はその右に並ぶ。内に宗祖上人の像を置く。この像は日法上人の作なり。支院十余宇、各磴道の下に列す。大門は松の列樹にして六丁程あり。
楓樹(方丈の構のうちにあり。額に遍覧亭と題す。黄檗千呆和尚の筆跡なり。この所は山崖に臨むが故に西南を眺むれば葛飾の村落眼下にあり。江戸の大城、甲相の群山、雲にそびへ霞に横たはる。又こなたには房総の海水遠く開け、実に千里の風光を貯へたり)
楼門(石磴の上に聳ゆ。左右の金剛力士は仏工運慶の作なりといへり。全体黒色にして他に異なり。楼上に掲くる額に真間山と題す。弘法大師の真筆なりといへり)
当寺往古は真言瑜伽の古刹なりしが、日蓮大士この地に遊化の頃、寺僧大いに宗意を論じ、竟に大士の化導に帰依し宗風を改転するといへり(或人云く。西新井邑総持寺に安ずる所の弘法大師の霊像は当寺改宗の頃かしこに遷しまゐらせしと云ふ。「日統抄」に曰く、了性、真間の弘法寺に住す。或日日常と問答す。屈を請けて逃れたり。日常宗徒を化す。寺因つて本化の道場とす云々。又「先徳記」を考ふるに、関東河田谷天台宗の中に了性と云ふあり。本文に宗祖上人と問答せし住侶の名を注さず。おそらくは、この了性が事なるべし)
当寺什宝多きが中にも宗祖上人及び諸徒の真筆の曼荼羅、消息の類ひ数通あり。悉く挙ぐるに不遑。毎歳九月九日より十八日まで法華経千部読誦。十月十三日は宗祖上人の忌日たるにより、御影供を修行せり。近在の道俗群参す。
入重玄門倒修凡事の意を
のこりなく人をわたしはてんとせし程に 我身ハもとのま丶の継橋  日蓮
     ◆

 で、何が言いたいかってぇと、潤鷲美容は伝説の美少女/手児奈だってだけのことだ。手児奈は万葉集の時代、既に「伝説の美少女」だったってぇんだから筆者好みの、御尻の大きな褐色ガチポ美少女だったに違いないと信じているが、潤鷲手子内美容は、「恐らく一輪の菊を奪い合う男二人に板挟みとなり、何連をも選べずに絶望の水底へと身を沈めてしまうような麗人の薫り漂う」存在なのだ。其の証拠に、彼には常時、二人の男がベタベタ纏わり付いている。いや別に手子内を奪い合っている訳でなく、却って仲睦まじいんぢゃないかと思える二人だ。手子内は、本家・手児奈の限界を脱し、二人共を受け入れている。確かに、其れも悲劇を回避する一法だ。弟橘姫の悲劇、日本武尊の悲劇を八犬伝に取り入れつつ、しかし悲劇の歴史を書き換え救済する試みを、馬琴は見せた。此処で馬琴は、手児奈を救済している。一方で前述の如く、英雄・斎藤実盛に稚児の匂いを嗅ぎ取って、夜の玩具だと暴露している。其の結果に満足を感じない歴史は書き換えまくって、ファンタジックな創作世界を展開する。これぞ稗史家・馬琴の真骨頂か。
 で、手子内を廻る二人とは外でもない、国府台城の頭人たる真間井樅二郎と継橋綿四郎喬梁である。手子内は国府台城の小兵頭だ。三人は、いつも一緒なのだ。一緒だから、潤鷲美容のミドルネームは、手子内でなくてはならない。何たって、国府台近くの名所・名物、真間の井、継橋と来れば、手児奈が登場せねば落ち着くまい。然るによって潤鷲手子内美容は、単独では比定不能もしくは無意味だが、真間井樅二郎・継橋綿四郎喬梁とセットになることで、初めて真間の手児奈となるのだ。(お粗末様)

←PrevNext→
      犬の曠野表紙旧版・犬の曠野表紙