◆「開き直りの時代」
文明十一(一四七九)年。此の年は、元日から変だった。「一日{戊午}雨降雷鳴甚発声{後聞雷田舎両所落云々}」(長興宿祢記)。まぁ地球の都合で雨も降ろうし雷も鳴ろう。それ自体は別に良い。まぁ当時の日本は産業革命も経ていなかったし殊更にリサイクル社会で、廃棄物も自然の許容内だったろうから、天候気象は、ほぼ純粋に【地球の都合】であり、人間の与り知らぬところであった。にも拘わらず、人は今より地球に気を遣って、天候不順にでもなれば、「あれ、僕なんか悪いことしました?」と伺い(占い)を立てたりした。当時の人は、たとえ「悪いこと」をしたって、天然自然に影響を与えるほど大きな存在ではなかったのに。考えようによっちゃぁ自意識過剰の勘違いなんだが、尊大なんだか謙虚なんだか、全く解らない態度ではあるけれども、遠慮深い性格だったとしておこう。影響を与えているかもしれないのに、無関係のごとくソッポを向いている現代人と比べては、我らが祖先は遙かに高級な人種だったのかもしれない。
元日から京は落雷に脅かされた。当時は天皇の機嫌を「天気」と謂っていた。天然自然の運行と天皇個人が密接に繋がっているとイメージしていた。何やら大変なことが起こりそうな予感が、あったのかもしれない。「一夜部天変飛了自南北行(大乗院寺社雑記六月十二日条)」とか何とか天空の運行も怪しくなってきていた。
と、云わんこっちゃない(だから私は何も云ってないが)七月一日に皇居が火事になり内侍所などが焼亡した。火事は一般的な事件・事故に過ぎないとはいえ、内侍所が燃えたとなると話は別だ。内侍所は、直訳すれば女官局だが、実は神器を蔵する皇居の最奥部である。天皇は幾らでも取り替えが利くが、神器は一つずつしかない(実はレプリカもあるけれども)。内侍所が燃えることは単なる事件ではなく【怪異】である。せっかく後南朝の皇族を虐殺して奪い取った神器は、群臣の懸命な活動で如何にか燃えずに済んだ。が、怪異は其れで終わらなかった。
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十六日{甲午}晴。今夜半更禁裏{日野侍従第}御殿与対屋造合見煙、人々驚見之処無火気即焼失云々。後日被召卜占勘文神祇官勘文写左、内外典御祈自公家被仰付云々
神祇官卜恠異事
問今月十六日夜半禁中有烟気事、是依何咎祟所致哉
推之依穢気不浄所致之上、可有御慎病事火災不礼違背損傷口舌忿怒事歟。又天神地祇之祟御之故百事不応可有禍殃辛苦事歟
文明十一年七月廿日 長上正三位行権大副兼侍従卜部朝臣兼倶(長興宿祢記)
…………
去十六日暁禁中煙済々立了。宮御方御覧畢、卜之処以外事共云々。公武御中以外悪云々。如何事出来哉云々(大乗院寺社雑記七月二十一日条)
十八日(壬申)晴陰、風吹時々小雨洒。随門月次和漢会也。依招引罷向了。人数済々也。勘解由少路前黄門相語云、新皇居有希異事云々。去十六日夜半計寝殿与対屋間小庭煙立云々。諸人成怪之処非人之態云々。依是可有御祈事由被仰武家云々。有宣卿進勘文火事兵革云々。又十一日遷幸以来烏鳴事以外事云々於于今不休云々。局歓楽以外間召給竹田法眼今取脉(後法興院記)
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火事から二週間ばかり経った頃、仮住まいの御所から煙が立ち上った。すわ火事か、と駆け付けてみると、火の気はなかった。神祇官に此の怪現象の分析が命じられた。分析と云っても科学的なものではなく、超科学的/呪術的なものだ。怪現象の原因は【穢れ】とされ、とにかく天皇は大人しくしてろ、となった。また、日本中の神々が祟っているから、災いが起こったり艱難辛苦にまみれねばならないのだと断じている。更に二ヶ月後になると……
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(閏九月)十五日{丁酉}晴。今夜有星変以外御慎之由陰陽寮勘申云々撰文可写取之(長興宿祢記)
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今度は星の運行に異変が見られた。天文暦法を司る陰陽寮に分析が命じられた。立て続けに起こる「怪異」、人々が不安に顔を歪める様が思い浮かぶ。天の気が乱れたら、人の心も乱れる。此は六月の事件だが……
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六月小
一日{丙戌}晴。今日於北野社外有喧嘩。一色左京大夫被管人{成吉云々}下人、入社頭辺藪盗取竹子仍宮仕等咎之、然間彼被管人等、宮仕ヲ三人殺害、其外両方手負等在之。然宮仕一類悉令閇籠宮中訴申之、為公方被立御使相当之罪可有成敗之由被仰左京大夫。後日成吉逐電、其時罷向本人{成吉之寄子云々}令自害云々。仍開閉籠之由聞之……後略(長興宿祢記)
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北野天満宮の竹林で、侍所別当の家格・一色左京大夫被官の下人が筍泥棒をした。天満宮の職員が咎めたところ喧嘩になった。神社職員三人が殺され、双方に怪我人がでた。職員たちは怒って宮をロックアウトし将軍に訴え出た。将軍は一色家に、関係者の処罰を命じた。命じたが主犯は姿を眩まし、主犯に世話になっていた者が実行犯として自害させられた。漸く神社のロックアウトは解除した。
詳しい情報がないので解らない部分が多いが、盗人側が開き直ったことは、確かだろう。時代は七年ほど下るが、同様な事件が起きているので引こう。
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九日{丙子}晴。後聞今日細川讃岐{兵部少輔当官也}被管{号友成以下四五人}自東寺帰路、於六角大宮、友成以下四人被殺害。其子細於東寺辺野飼馬押被相伴輩令乗帰路之処、馬主追付路次、称馬盗人呼之間、所司代浦上宿所{六角油小路}近之間、被管人等馳集、於大宮打合、浦上被管一人被害、仍友成以下四人於当座被打殺、依是兵部少輔被管人等向所司代所述所存称盗人間、当職就検断令沙汰之由申之。兵部被管人等非盗人之由陳之、相論不休先分散云々
……中略……
廿六日{癸巳}晴。今日細川兵部少輔下向阿波国被管人等同相伴。先日所司代浦上{与}喧嘩事失面目由称之下向云々。父讃岐守入道無下向。被管宿老衆東条一宮飯尾等不下向。子息所行不可然由存之云々。是日於将軍{大納言殿}御所三十番歌合御張行。後日於飛鳥井大納言入道{栄雅}被判以折句詞毎首被判邂逅之儀也。公家門跡東寺詠歌輩為御人数、武家衆少々被召加云々(長興宿祢記・文明十八年七月)
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下屋形と呼ばれた阿波守護・細川讃岐守入道が息子の兵部少輔義春に宛てていた被官四人が東寺から帰る途中で殺された。被官四五人が東寺辺で放牧の馬を奪って乗っていたが、現場となった六角大宮で馬主に追い付かれた。馬主は「馬盗人!」と叫んで騒いだ。偶々近くの所司代・浦上家の被官たちが聞きつけ現場に急行、細川家被官と戦闘が始まった。浦上家側一人が害されたため、其の場で細川家側四人が斬り殺された。細川義春側の被官が所司代まで押し掛けて自己弁護の陳述を行ったが、馬を盗んだからだと所司代側が主張したため、調査することとなった。義春側は、あくまで盗人ではないと言い張り、口喧嘩になったが埒が明かず、物別れとなった。事件から十七日経ち、細川義春は被官たちと京を離れ、本拠地である阿波に向かった。所司代の浦上氏と争い、面目を失ったからだ(如何やら義春側が非であったと公に判断されたようだ)。しかし父である阿波細川家当主・讃岐守入道は下向しなかったし、主立った被官も京を離れなかった。此の様な場合、本拠地に帰る行為は公の判断を不当として叛乱を起こす準備だと見られても仕方がない。讃岐守や主立った宿老被官まで阿波に帰れば、阿波細川家全体として、公の判断に不服を唱えたことになる。しかし讃岐守は息子に非があると理解しており、阿波細川家全体の問題にはしたくなかったようだ。ちなみに細川義春は阿波守護を相続する嫡男で、義春の息子・澄元は政元の養子として後に細川宗家の家督を継ぐ。
自分が悪かろうが如何だろうが何でもあり、とにかく開き直って非を認めない。「ボク、悪くないもん」としか言えない訴訟国家は、幼児国家でもある。既にモラルを喪失した時代のキーワードは、【何でもあり】と【開き直り】であった。此の視点で文明十一年に立ち返れば、やっぱり、開き直った性倫理の乱れも起きている。
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(五月)廿三日{己卯}晴。今日下辺有喧嘩、渋川被管人赤松兵部少輔家人{号神沢}於路頭被殺害、渋川被管人為婦敵之間令殺云々。依是赤松一類於打手在所{五条東洞院}可発向由群集。婦敵事任先規法旨可有御成敗卒爾不可進発之由自公方被仰、今日先赤松不進発。彼打手{号小原}渋河内板倉扶持人也。板倉亦山名方垣屋并塩冶親類也。仍山名方加扶持群勢等馳集、可相支之由称之。為婦敵令殺害之時、本夫可全命事如何、以殺害之科被処同罪候儀、近代武家之儀度々例存之由、赤松其外侍所家等称之。仍被打人不被害者可発向之由、赤松募申、可被如何哉之由、翌日及御沙汰云々。此事後日被尋仰諸奉行人等、意見之赴為妻嫡殺害其妻令害者為同罪、其外(爾)本夫為同罪、可被殺事不叶道理之由、各申之。仍其赴被仰、赤松静謐云々。以後可為此法式云々。可為如何事哉、後日彼妻於渋河方被害云々(長興宿祢記)
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(五月晦日)前略……去十七日赤松披官自山名披官沙汰打之。両方勢立、先以為上意引退了。赤松失面目者也。分国勢共召上云々。大綱之所見ハ赤松与力ハ官領畠山京極方者共武田細川内者両方ニ分、此外大名近習等也。山名方ハ細川并并内者大名少々云々。是又天下破元源也云々(大乗院寺社雑記)
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(六月)一日(丙戌)晴陰、藤大納言勘解由少路前中納言西河前宰相雅国朝臣等来今日下辺畠山被官人与布施弾正被官人有■(口に霍)執事、両方已死去間不苦云々。又於北野社人与一色方有喧嘩云々。去月廿四五日、此山名被官人令誅赤松被官人云々、妻敵云々、就此儀両家間近日種々有雑説(後法興院記)
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一色・細川と有力武家の不祥事を挙げたが、嘉吉の乱を起こした四職の一つ赤松家も負けてはいない。赤松家兵部少輔といえば、刀鍛冶のアルバイトもやっていた政則、応仁後記で其の男色ゆえ応仁乱の原因とされたほどの有名人だ。政則の被官が路上で、渋川家の被官に殺された。渋川家だって九州探題を任された有力武家である。政則の被官・神沢氏が渋川被官・小原氏の妻と密通した(ただ此の時点では小原氏の妻は処罰されていない。少なくとも当初は強姦事件と考えられていたか)。このため小原氏が路上で神沢氏に挑み、見事、女敵討ちを果たした。
しかし政則、男色で出世を極めた男である。抑も貞操観念なんて薬にしたくても、なかったんだろう。女敵討ちであろうと殺人は殺人であり、小原氏を罪せよと主張した。此に侍所所属の武家が同調した。赤松家は侍所別当の格式を有するから、仲間同士で結束したのだ。
現代では、とにかく私刑は禁じられているし、確かに殺人は正当防衛が認められない限り殺人罪で罰せねばならぬ。しかし江戸時代になっても一応は、寝取られたら相手(と妻)を殺すことも認められていた。勿論、人権蹂躙が理由ではなく、女性が男性の所有物であり、密通は窃盗の重いものと考えられていた節もあるけれども、小原氏の行為は当時、正当なものだった。
一方の小原氏は、もう一つの有力武家である山名家とも関係があった。赤松家の襲撃を警戒して、山名家も動いた。一触即発、罷り間違えば、応仁の乱規模の騒動となる。流石に政則はトラブルメーカーだ。政則は、女敵討ちでも、相手を殺せば殺人罪に問われたケースが近年はあると言い募り、今にも渋川・山名家との戦闘に踏み込みそうな態度だ。とうとう将軍が乗り出し、主立った幕府官僚たちに女敵討ちに就いてコモンセンスの確定を命じた。結果として女敵討ちの慣習が認められ、小原氏は殺人罪には問われなかった。政則も迂闊には動かなかった。応仁乱レベルの騒動には発展せずに済んだ。
ただ長興宿祢記の叙述者は、「可為如何事哉、後日彼妻於渋河方被害云々」と書き添えている。とにかく小原氏の妻が殺された現場が渋川方であったことは解るのだが、其れ以上の情報がない。しかも叙述者は女敵討ちの事件を描く上で、妻の責任が追及されたとは書いていない。当初は強姦事件だと思われていたのではないか。しかし妻も害されたとなれば、妻にも責任があったと発覚したのではないか。……考えれば考えるほど、乱れた世だったように思えてくる。
但し、複数の史料を並べてみると、実務官僚だった長興は具体的で詳細な情報を入手していたようだが、公卿やら僧侶となると、かなり疎略な理解しかしていなかったことも窺える。大乗院寺社雑記も後法興院記も、渋川家と赤松家との争いとは見ておらず、山名家と赤松家の闘いだと理解しているのだ。まぁ長興宿祢記でも山名家は渋川家側に立って動いている。大物・山名家の登場で渋川家が霞んでしまい公卿たちには見えなかったらしい。ってぇか、赤松家が渋川家とのみ対立したのであれば、まだしも問題は小さいし、渋川家の言い分が通ったかも怪しい。山名家は赤松家と同様に侍所別当の家格である。更に三管領の一、細川家が渋川方に立ったことも、渋川家有利の判決が下った要因となっただろう。少年将軍・義尚にとって、元美少年の赤松政則より、美少年か如何かは別として目の前の細川政元少年の方が、玩具にするには適当……いやまぁ、仲が良かっただろうし。後法興院記の記述からは、赤松家側を支持する者の方が多かったとも思われる。にも拘わらず赤松家不利の判決が下ったとすれば、当時は(も?)政治が公正である筈はないのだから、やはり山名・細川家の威光が影響したのだろう。八犬伝でも、理より恣意の優先した政治が、批判されている。
ところで八犬伝では、父・義政とは打って変わって文武の良将とされている九代将軍・義尚だけれども、彼だって肖像画賛なんかでは其の様に紹介されており、出陣する義尚を見た義政が自らの額を手で打って天晴れの将軍かなと感歎する……などといぅ親馬鹿まで晒しているんだが、肖像画賛で余り悪口は言わないだろう。しかし全体として、義尚は不遇というか、何というか二十七歳(数え年)で若死にして、大したことはしていない。それどころか文明十二年段階では、かなり荒れていた。
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一(二日夕方)新将軍御本鳥於被切希有事也。酔狂之故云々。当家御作法行末無心元者也(大乗院寺社雑記文明十二年五月三日条)
一京都無殊儀。新将軍無正体事共也。如今者可為如何哉云々。伊勢守同七郎両人元鳥切之種々雑説共在之所々御祈共仰付之(大乗院寺社雑記五月十一日条)
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五月二日 新将軍権大納言殿元鳥ヲ被切也。希有事也。親子確執候故云々(大乗院寺社雑記目録巻三文明十二年)
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内衆に抑え付けられ玩具にされていた政元少年の、身分としても年齢としても少し兄貴の義尚は、父・義政に抑え付けられ、出家すると駄々を捏ねている。そして父・義政の影響か、立派な男色家に育ちもした。権力者の男色関係は、犯られる方も欲得ずくなので、周りに迷惑をかけるのだが、其処等辺は、また今度。(お粗末様)